(2003/12/6〜8)
日付:2003/2/14
レンタカーの出発地はJR千葉駅、3日間駆け回り、終着は大宮駅でした。
メンバーは観音様巡りのエキスパートNさん、お馴染みのMさん、今年春からずっと参加のYさん、そして私の4人でした。
●加曽利貝塚
今度の旅で最初に訪問した加曽利貝塚は、千葉市にある大きな貝塚です。
考古学をかじった人なら、モースが見付けた大森貝塚と並んで、加曽利貝塚の名を聞いたことがあるはずです。
この地域には、約7000年前の縄文早期から、2500年前の縄文晩期まで、ずっと縄文人が住んでいたのです。
人間が貝を食糧にするとき、食べられない貝殻は捨てられます。現在でも海水浴場に行って村落の細い道を歩いていると、貝殻が捨てられていることがあります。そんな捨てられた貝殻が積もっているのが貝塚です。
貝塚は日本中に、約1500箇所あるといわれています。古いものは約1万年前の縄文草創期頃のものから見つかっています。
新しいものは、前述の通り、現在でも作られつつあります。
貝殻の層の中には、その頃住んでいた人たちが使った土器、矢尻などの道具や、鹿、猪など、獲物の骨も含まれています。
また、貝塚からは、ときどき人骨も出てきます。
火山性の土地、たとえば尖石遺跡がある長野県八ヶ岳山麓などでは、家屋の跡は残っていますが、人骨は残っていません。炭酸カルシウムが主成分である人骨は、酸性の強い火山灰に、短い時間で溶かされなくなってしまうのです。
ところが貝塚では、周りが、やはり炭酸カルシウムからなる貝殻の層に囲まれているので、骨はよく残るのです。
ここ加曽利貝塚では、貝塚を作った人たちが住んだ、家の跡も残されています。
それらの遺物から、当時の人たちの生活の様子を、いろいろと推測することができるのです。
ここで発掘された家屋のうち、1軒からは5人の遺体、もう1軒からは4人の遺体が出てきました。このことから、不慮の災害か疫病などで、全員が一度に死んだのではないかなど、憶測を呼んでいます。
この発見は、当時の家族構成にヒントを与えることにもなったのです。
昔の人たちは、目の前の海から獲物を捕っては食べていたのです。
ところが、現在では海から遠くなってしまった平野の奧にも、貝塚はあるのです。
縄文時代にも、地球が温暖化した時期には海面が上昇し、海水は現在の内陸まで進入していました。このほか地殻の昇降変動もあります。
そのために、陸地のずっと奧まで海が入り込んでいた時代もあったのです。
貝塚には、小型のものと大型のものとがあることが知られています。
小型のものは、そこに住んでいた人たちが食べた貝の殻が積もったもので、いわば自家用貝塚です。
ここ加曽利貝塚は大型中の大型で、日本でも最大級のものであります。
あまりにも面積が広く、また貝殻の積もった層の厚さも厚く、住んでいた人たちが自家用に食べた貝の分だけではない、と推定されています。
その推理に従えば、ここ加曽利で貝を剥いて日光に干し、干し貝を作り、それと内陸の住民たちの財産、たとえば質の良い石器の材料などと交換したのだろうと思われています。
実際、ここ加曽利へ、かなり広い範囲の地方から矢尻にする石の材料が持ち込まれたことが分かっているのです。
そして干し貝は、美味しいとか、たんぱく源だとかのほかに、人間にとってなにより貴重な塩としての価値が高かったのだと思われます。
3600年ほど前になりますと、側壁の薄い素焼きの土器で作った製塩土器で塩を作ることが広く行われるようになりました。製塩土器は小さなワインカップ状で、底に一本の先の尖った足がつき、砂浜に突き刺して立てるようになっています。中に注がれた塩水は、素焼きの壁を浸透して蒸発し、濃い塩水になります。それを煮詰めて塩を得たのです。
カップの部分は壊れやすいので、現在は足の部分の角状の土器がよく残っています。
伊勢湾岸の名和や太田川でも落ちていたものです。
塩が作られるようになった時期から、大規模な貝塚は姿を消します。
塩辛い干し貝ではなくて、塩が直接、交易に使われたと解釈されています。
それから推察すると、大規模な貝塚は、実は自家用ではなくて、工場だったのです。
そうはいうものの、キシャゴという名の、お弾きにして遊ぶ小さな巻き貝まで、根気よく加工していた縄文人たちの生活を思うと、涙が出てきます。
ここの博物館の解説を見ていうちに、時代時代の縄文人の人口増減が配慮されず、残された貝塚の数と規模とだけから生活様式の変遷を探るストーリーになっているのが、いささか気になりました。
微力だった縄文人たちは、自然の猛威に翻弄されるより仕方ありませんでした。日本全体としては縄文人は生き延びたものの、地域を限れば絶滅に追い込まれたのも一再ではなかったはずです。
現在の豊かな生活環境、その恩恵による死亡率の減少と長寿命化による地球人口の急増は凄まじいものです。
地球上に、毎日、毎日、一宮市ほどの人口が、増えているのです。
人類はこれからどうすればよいのか、人口考古学がもっと取りあげられ、真剣かつ謙虚に検討されるべきだと思うのです。
●板東三十三観音
私たちグループにとって、今回が3回目の、題記、三十三観音詣りです。
今度の3日間でお参りしたのは、17番満願寺、18番中禅寺、19番大谷観音、25番大御堂、26番清滝観音、28番龍正院でした。
どこも、なかなか立派なお寺でした。
中禅寺は、日光中禅寺湖湖畔の立木観音といった方が、とおりがよろしいでしょう。
ここへは、朝9時ちょっと過ぎに、お参りさせていただきました。
師走の快晴の朝で冷え込みが厳しく、白雪に輝く日光白根山から、ピリッとした寒風が湖面を吹き抜けてきました。
駐車場に車は一台もなく、一帯に人影はまったくありませんでした。
でも、ちゃんとお寺の方々は、勤務についておられました。
ここへは、もう何回も来ているのですが、立木観音がこんなにも静かなのに、また新たな感激を覚えたのです。
お堂の中では御坊様が、霊験あらたかな記念品を求めて帰るように、熱心に奨めて下さいました。それなのに、そのご意向に従わない不信心さを、私たちだけで一手に引き受けるのには、かなりの面の皮の厚さが要求されました。
大谷観音は、大谷石(おおやいし)の産地にあります。
宇都宮市中心から10kmほど北西にある大谷観音に近づくと、もう、なんともいえない変わった地形の山々が見えてきました。
大谷石は海底火山の噴出物が海底に積もり、固まってできた薄緑色の多孔質の石です。
一般的には凝灰岩(ぎょうかいがん)と呼ばれ、日本各地に分布しています。ここ大谷のものは、固さが丁度適当なうえ均質で加工が容易で、建築に多用されます。また、資源量が大きく、周辺の人口も多くて、使われる機会が多いので、大谷石の名は全国的に有名であります。わが家でも塀に大谷石を使いました。
地元では、塀だけではなくて、ありとあらゆるものが大谷石で造られていました。潜り戸の門の屋根にまで使ってありましたが、これはちょっと意地でやっているように感じました。
観音堂は天然の洞窟にはめ込まれるように建てられています。
山形県山寺にある、芭蕉の、古池や蛙飛び込む水の音、の句で有名な立石寺始め、このスタイルのお寺は、日本に幾つかあります。そういえば立石寺の堂宇群も、凝灰岩から成る山に造られています。
岩にはめ込むといえば、仏教発祥の地インドの古い寺院、たとえばアジャンタ遺跡では、岩そのものを刳り抜いて寺院にしています。それだけアジャンタの谷は良質の砂岩で出来ているのです。昔インドで開花した仏教伝統の技術が、シルクロード、中国へと流れ、遠い日本でも適地では採用されたのかもしれません。
ともかく、大谷観音では天平時代から岩壁に仏像が刻まれています。
それを磨崖仏というわけですが、岩の性質が良いのと、建物で風化から守られていたためでしょう、こんな見事な磨崖仏を見せていただいたのは始めてでした。
ついでながら、ここの洞窟からは1万1千年前の縄文草創期の人骨が、葬られたままの完全な姿で出ています。本当かしらと思うほど、生々しい姿で展示されているのでした。
大谷観音を出たところに、大谷石を刳り抜いた大きなトンネルがあります。それをくぐって少し行くと、高さ88尺8寸8分、約27mの大谷石でできた観音像が立っておられます。御名を平和観音と申されます。
「..第二次世界大戦により、敵味方共に戦傷死するもの幾百万と云う其数計り知らず、今日、日本国独立の日を迎うるに当たり、永く彼我の霊を弔う為.・・・。..昭和26年4月8日」とあります。
あれから半世紀余り、当時、大戦の惨禍に懲り、平和を熱望していた人々の願いが思い起こされるのです。
あの日から、ずっと人の世を見てきて、今、私には、平和を求めるということは、戦争をしたくないと願うことだけではなくて、基本的に戦争をしなくても済む仕組みを、具体的に整えることであると考えるのです。
イラク戦争だって、どんな戦争だって、もちろん、戦争はない方が良いに決まっています。
もしも、原理主義アルカイーダによるテロがなければ、また、イラクがテロリストたちの温床でなければ、イラク戦争は起こらなかったでしょう。
大量破壊兵器を持っている国々が、今後、新しく大量破壊兵器を持とうとする国を力をもって止めさせることだって、本当は公平だとはいえません。でも、それが具体的に戦争を起こさないようにするのに有効であれば、評価されるべきでしょう。
つまるところ、世界中の人が全部、自分以外の人が自分が思ったとおりに振る舞うようになれば、争いなどしなくて済む地球になるのです。
まず、自分が良い人でなければいけません。そして、地球上に悪い人が居ることが間違いのもとなのです。
最初の日の夕方、土浦のユース・ホステルに着いた私たちを、同年輩のおばさんが迎えてくれました。そして「あなた達の旅行の目的は、なんですか? 山登りですか、それとも?」と怪訝そうに言われたのです。
一瞬、私は言葉に窮したのです。
分かっていただくために「今日は、千葉の加曽利貝塚、香取神宮、龍正院、予科練記念館に行ってきました」と、とりあえず答えました。
実体を、おばさんに伝えることには成功しましたが、依然として旅行の目的は、一言に纏められないでいるのです。
でもともかく、私たちは、ちゃんと三十三観音巡りもしたのです。
●予科練
「赤い血潮の予科練の、七つボタンは櫻に碇・・」の、土浦航空隊の跡を訪ねました。
今は、陸上自衛隊武器学校になっています。
受付で見学を申し込むと、どうぞ、どうぞという雰囲気で見せていただけました。
アメリカ製の古い飛行機が少々と、国産の戦車がずらっと勢揃いしているのを見ながらゆくと、雄翔館という名の記念館があります。
遺品、遺書がいっぱい並べられています。
15才に達した少年を飛行兵として教育する、飛行予科練習生の制度は昭和5年(1930年)に発足しました。
この年は、全国5800人の応募者の中から選び抜かれた79名が入隊し、うち49名が戦没しておられます。
翌、昭和6年には128名入隊、65名戦没です。
入隊者の数は、戦局が風雲急を告げるにつれて急増しています。年中、毎月のように採用試験が行われました。
敗戦の前年、昭和19年には、114,773名、敗戦の年には6月までの半年に50,806名に上りました。
最初は横須賀1箇所だけでしたが、最後は土浦・三重・小松・松山・三沢・清水・宝塚・滋賀・西宮・奈良・高野山・岩国・倉敷・美保・宇和島・浦戸・小富士・福岡・鹿児島と、たとえ飛行場がなくても座学が可能な施設、宿坊、寄宿舎などが狙われたのだと想像されます。
彼らのうち、実に8割までが、国のために命を捧げたということです。
いただいた資料から、ここを訪問した人たちの感想を抜粋してみます。
86才の女性
現世の平和、順風満帆、幸せに暮らせますことは、国のために若くして散った彼らのお陰であることを忘れてはなりません。
76才の女性
遺書、遺品を見ているとついこの間の出来事のような気が致しまして、信じられないような気がしました。終戦58年も経つというのに、飾り付けてある写真を見ると若いし、少しも変わってないで、何か話しかけたい様な顔なので、胸が一杯で言葉がありませんでした。特攻隊の皆様日本を護って下さい。
74才の女性
子供を持って子供の可愛さは何よりも心の支えです。時代の不運に若い命を国のために散らして、写真の可愛いあどけない少年たちよ、どんなに生きたかったでしょう。
あなた達のお陰で、今残された人生を送らせていただき本当に心から感謝して居ります。もうこんな悲しいことはあってはなりません。
63才の女性
コンピューター制御でハイテク装置のミサイルや戦闘機の数々、戦術、戦略も素晴らしく、米英を勝利させたイラク戦争、あの予科練の若者たちも今の時代に生まれ、そしてこのような兵器、飛行機で戦っていたなら、あんなに沢山の命を散らすこともなかったろうと遺影の写真を見ながら涙しました。(昼間から街中でブラブラしている若者に、彼らの爪の垢でも煎じて飲ませたい気持ちになります)
14才の女性
みんな若いのに死んでしまって、かわいそうだと思った。こういうところは、はじめて来たので、軍隊、自衛隊のことがよくわかった。
12才の女性
これからこのような事が、なくなればいいなーと思いました。戦争のようなことをしないで、毎日を楽しく生活したいです。
同じ資料のなかで、こんな記事も目に止まりました。
三重空20期会・解散総会
「高齢による会員の減少が進み、会の運営に無理が生じてきている。いま、余力のある間に潔く散る、伝統ある予科練の精神に基づき・・。」
20期は昭和18年入隊、まさに私と同じ年令の人たちなのです。
中学校の同級生が入隊するのを、私も見送りに行ったのを覚えています。
夜でした。何組もの人波でごったがえし、どういう訳か知りませんが「三島女郎衆がのーえ・・」というような歌声が渦巻き、異常な雰囲気でした。わっしょい、わっしょいと御神輿でも担いでいるような調子で送り込みました。
友人は、戦後、学校へ戻ってきました。でも、それきり帰ってこなかった少年もいたのです。
感想文にある、軍隊を知らない、戦争を知らない子供たちの願いは、人間として基本的であり、まったく同感です。
不幸にも、私たちの世代は、戦争を知らないではすまされず、否応なしに体験させられました。そして、戦争について、考えに考えさせられました。
それにつけても、半世紀前に経験した、こんなシーンを思い出すのです。
私たち中学生が集められ、軍隊の高い位の人からお話を聞かされる決起大会がありま
した。広場に整列して待ち受ける中、サイドカーが式場に到着しました。
サイドカーというのは、兵隊がオートバイを運転し、その横に付いた箱に参謀などの高級将校が乗るものでした。格好良い、一種の憧れの的だったのです。そのサイドカーには旭日をかたどった軍艦旗のような旗が立っていました。当日の激励は陸軍の将官から受けると聞いていましたから、海軍がきたのを不審に思いました。
サイドカーから降り立った人は、将校そっくりの服に戦闘帽、これもそっくりの革の鞄を肩から掛けていました。でも実は軍人ではなく、文筆をもって聖戦に駆り立てようと張り切った新聞記者だったのです。
また、今年の春、A新聞の紙上で、こんな句を見ました。
・英米はやはり鬼畜か花萬朶 (花萬朶 はなばんだ・櫻が咲き誇る様子)
私は、日本が英米に戦争を仕掛けた次の年、1942年、中学校に入学しました。
その頃、新聞紙上には繰り返し繰り返し「鬼畜、英米!!!」と大見出しが躍っていたのを思い出しました。
「萬朶の櫻か襟の色・・・」から始まるのが、当時もっとも人口に膾炙した軍歌でした。大日本帝国陸軍の誇り、歩兵の襟章が萬朶の櫻の桜色だったのです。
こうして国をあげて、鬼畜の国を憎むことに、突っ走っていったのでした。
土浦の雄翔館には、若者たちに出撃を命じた指揮官たちの遺品、資料も展示されていました。
国民こぞって、戦争に勝とうとしてもがいている中で、指揮官たちだけが、ほかにとる道があったとは思われません。
なにもかにも戦争が悪いのです。
ところが、ヒットラーがいなかったら、あるいはサダム・フセインがいなかったら、戦争は起こらなかったのに、といえないところが、過去の日本の悲しいところです。
19世紀までは、強いものが力づくで領土を拡張するのが常識でした。
20世紀になっても、アメリカが独自の正義感を振り回すまでは、事情は同じでした。
20世紀のアメリカは、過去の人類の常識を破りました。フィリピンを独立させました。沖縄も日本に返しました。
他方、たった2週間の参戦で占領した島々を未だに返さない國もいます。
日本は、後者のような昔からの常識に立っていたといえましょう。そして昭和初期、このままでは外国に押し潰され、日本の将来がないというような逼塞感に追い込まれ、それに反発するように扇動されていたと思います。
平和な暮らしの実現と、戦争の絶対阻止とは悲願です。
でも、そうするためには、どうしたらよいのでしょうか。
現実に目をつぶってはなりません。また、考えることを、途中で、他人事として停めてはいけないのです。考えて、考え抜かねばなりません。
能力と責任のある大人たちが、子供みたいに戦争絶対反対を唱えているだけで、安易に思考を停止させたのでは、平和は獲得できません。
現実を直視しないで、平和だけを唱えていれば、正義漢になったつもりで気分爽快、かつ、楽ではありましょうが、責任を果たしているとはいえません。
●訪問先のことども
土浦のユース・ホステルで、おばさんに旅の目的を聞かれたところから、予科練の話しになってしまいました。
改めて、ここに訪問先を羅列してみましょう。
皆さんも目を通していただき、私たちグループの旅の目的を尋ねられたときに、なんと答えたらよいか考えてみて下さいませんか。
加曽利貝塚、香取神宮、竜正院、予科練雄翔館、常陸国分寺跡、都々逸発祥の地、常陸国国分尼寺跡、清滝観音、筑波山登山、大御堂、小田城址、国王神社、下野薬師寺、立木観音、二荒山神社(日光)、竜頭の滝、華厳の滝、宇都宮二荒山神社(下野一宮)、下野国分寺跡、下野風土記の丘、下野国庁跡
大雑把な感想を言えば、上記の場所を求めながら、筑波山の見える土地を走り回っていたように思います。
日本では、ずば抜けて広い関東平野北部に立つ筑波山は、いろいろの意味で特別な山といえます。
筑波山は、イザナギノ命を祭る男体岳(870m)と、イザナミノ命を祭る女体岳(876m)の、ふたつのピークが寄り添った双耳峰であります。
百人一首の「筑波嶺の嶺より落つる女男川 恋ぞ積もりて淵となりける」の歌は、よく知られています。
深田久弥さんが標高が1000mに足らないのに日本百名山に入れたのは、鹿児島の開聞岳と、この筑波山の2山だけです。
深田さんは、この山の歴史が古いことを、選定の理由に挙げておられます。
奈良時代初期に出た、常陸の国風土記に、この山で歌垣が行われたと記載されています。歌垣とは大勢の男女が集まり、歌を読み交わし、踊りを楽しんで、求婚の機会とした宴会のことです。その会合で結婚を申し込まれない様な女は1人前でないといわれさえしたのでした。
「日本では登山の始まりは宗教登山だと言われているが、筑波山のような大衆の遊楽登山も行われていたのだ」と深田さんは書いておられます。
また深田さんは、東京の高い建物から、スモッグの上に見える独立した山といえば、富士山とこの筑波山ぐらいだろうとも書いておられます。
筑波山は東北本線で北へ向かうと右手に見え、また常磐本線で北上すれば左手に見えます。私は東北へ旅行するときは、この美しい双耳峰を、必ず車窓に探すのです。
下野(しもつけ)薬師寺は、天平時代、770年に弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が奈良の都を追われ、左遷されてきたお寺です。
日本の女帝という本では、推古、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳を女性天皇として挙げています。
皇極、斉明は同一人で、途中に一人挟んで、2度天皇になられました。孝謙、称徳も同様です。
749年即位した孝謙天皇は、東大寺の大仏を造った聖武天皇の娘です。いつの世も同じですが、当時も藤原仲麻呂や、反仲麻呂派の橘奈良麻呂ら、諸政治勢力間の複雑な確執があったのです。その動きの中で、孝謙天皇を孝謙太上天皇、つまり会長に祭り上げ、758年淳仁天皇が擁立されました。
762年、孝謙太上天皇は淳仁天皇をあからさまに批判し「小さいことは天皇がやりなさい。国家の大事と賞罰は朕がやります」と詔したのです。
政治は、いろいろのグループの勢力が、持ちつ持たれつの関係で成り立っています。
この時期は、仏教が国教になってもう長い年月が過ぎ、僧侶の財力も強大になっていました。僧侶も貴族たちに伍して宮中の政治争いに参加するまでになっていたのです。
孝謙天皇は32才で即位、終生独身でした。
天皇は、河内の国出身の僧、弓削道鏡に心酔されたのです。
道鏡は、孝謙天皇が独身であったことや、天皇制の権威付けに功労があった和気清麻呂(わけのきよまろ)の対立者とされることから、平民の身にして皇位を狙った色僧、妖僧、怪僧のイメージを持って語られることがあります。
しかし、実体は仏教界の実力者、チャンピオンだったとの説が当たっていましょう。
孝謙太上天皇は、母、光明皇后のご威光を借り、764年、淳仁天皇を廃位し、称徳天皇として再度即位されました。
弓削道鏡は還俗、太政大臣禅師、法王の位を授けられ天皇と同列になりました。この事態は政教混同の極と称されます。
ここで和気清麻呂の登場となり、宇佐八幡宮の御神託の一件で、道鏡は天皇までにはなることはできませんでした。平民は即位できないと主張した保守派の動きが勝ったのです。
770年、称徳天皇が亡くなられると、即、道鏡は都を遙かに隔てた下野薬師寺の別当職として左遷されたのでした。
私たちが立った下野薬師寺跡は、筑波山を南東方向約30kmに望む原っぱの中で、自治医大の隣でした。
礎石が残され、1200年さかのぼる昔の様子を想像することができます。
近くに、国分寺、国分尼寺跡があります。740年に国分寺制度ができたのですから、両寺は既に存在していたはずで、このあたりは、道鏡が流された当時、それなりの街であったろうと想像されます。
ここに流された道鏡は、亡くなるまでの2年間、どんな余生を送ったのでしょうか。
以前の生活とは大違いですが、道鏡が、私が想像するような高僧であれば、下野の地で仏の道を広め、何人かの人に心の平安を与えたことに、満足していたかもしれません。
世の中、出世できる人ばかりではありませんし、人のしあわせは、あくまでその個人の気の持ちかた次第だと信じているのです。
さて、時代は道鏡から200年下った940年2月、筑波山の麓で、新皇(しんこう)を称する平将門(たいらのまさかど)が政府軍を相手に、駆け回っていました。
将門は桓武天皇から6代目の子孫です。一族のトラブルに関わっているうちに、成り行きから政府の国庁を攻撃する羽目になり、賊軍になってしまったのでした。
彼は、我が国でも外国でも(中国と思われます)戦いに勝った者が君と呼ばれるのだと、割り切っていたとの説話があります。素晴らしい歴史観、国際感覚ではありませんか。
筑波山を北東方向25km先に望む岩井市で、2月14日、最後の決戦が戦われていました。この日、将門は下野の国の横領使、藤原秀郷らと戦ったのです。最初は将門側が有利でしたが、風が変わると、にわかに形勢が逆転したといわれます。
当時の武器の主力は弓矢だったので、風に向かって射る、風下側は不利になったのだと講釈がついています。
そんな中、勇猛な青年武将平将門も遂に流れ矢に当たり、波乱の人生を閉じたのでした。
その岩井の地には、国王神社という珍しい茅葺きの神社があり、将門の娘が彫ったと伝えられる将門の座像がご神体になっています。
風向きが変わって戦いが不利になったと説かれているのは、壇ノ浦の源平の合戦で、潮の流れが変わって平家の形勢が不利になったという記述を思い出させます。
こんな様に、見てきたように事細かに書かれている「将門記」は、江戸時代末期にできたものです。今から200年ほど前ではありますが、当時の作者にすれば1000年以上も前の、あまり資料もない出来事です。全体に、大衆の受けを狙い、脚色たっぷりに書かれたものであることは間違いないでしょう。なにせ大衆はアンチ京都、地元の将門将軍贔屓なのですから。
日本人は判官贔屓であるといわれます。負けて滅びた判官義経に同情し、勝って主流を握った頼朝を陰険と憎むのです。
将門は敗者ですから、心情的に大衆の同情を集めます。
ましてや関東の地で武士集団のリーダーとして、京都の朝廷、貴族に対して反旗を翻したのです。
一種の植民地の独立運動のようなものです。地元の同情を集めたに違いありません。
将門が戦死してから663年後、徳川幕府が江戸に開かれました。
そして江戸幕府は、自分自身、京都の政権と対立する立場なのですから、当然、平将門を持ち上げたくなります。
こうして将門が祭主になっている神田大明神は、徳川幕府によって強力にサポートされるのです。
また時は移り、明治政府は、天皇に背いた逆賊の平将門を神田明神の祭主から追放し、おまけに社格も一段階下げたのです。
さらに舞台は回り、天皇制がすっかり定着した昭和59年、平将門は名誉回復、再び祭主として復活したのです。
ともかく千年以上も、ずっと変わらず、江戸っ子は将門贔屓なのです。
東京のド真ん中、大手町のビル街の中に将門の首塚があります。
将門の首は、京都でさらし首になったのですが、三日目の夜、光を発しながら、首のない自分の体を求めて、関東に舞い戻ったのです。
胴体だけの「からだ明神」が訛って神田明神になったという、付会もあります。
首の落ちたところが、大手町にある平将門の首塚のところです。
皇居に近く、周囲は旧三和銀行本店、旧長銀本店、旧興銀本店、三井物産、気象庁、消防庁、旧富士銀行本店などに取り囲まれた、東京の真ん中でありました。
なにせ塚には将門の怨念が籠もっていますから、触ると祟ります。
関東大震災直後に大蔵省の敷地内に、仮事務所を作るため首塚を移転しました。すると、2年の間に、大蔵大臣や工事関係者ら14人が謎の死を遂げたのでした。
これは将門の祟りであるということになり、仮事務所は取り壊されました。そして昭和2年4月27日、神田明神の平田宮司が祭主となり、新任の三土忠造大蔵大臣を始め大勢が玉串奉奠し、将門の霊を鎮めたのでした。
また、第二次世界大戦後、アメリカ軍が進駐してきました。GHQは塚を移転させました。ところがその工事中、ブルドーザーが横倒しになり、運転手が亡くなりました。
これも将門が紅毛碧眼の外人にも祟ったものとされます。
つい最近では、将門塚の隣にあった長期信用銀行が破綻しました。これについても、長銀の建物が変わった形、人間の首に似た形の建物であり、また、ワリチョーという名の縁起の悪い割引債を発行した祟りであるというホームページがありました。(周りの銀行群も、みな旧の字が付くご時世です)。
現在でもなお、この界隈の高層ビルに入っている大会社さえ将門塚に向かって机を置かないように配置し、会社によってはそちら側に窓を設けていない例もあるそうです。
日本人、とくに粋な江戸っ子の洒落ごころは、こんな噺を創りだしては楽しむ文化を持っていたのだと思います。
そういえば、今度の旅で香取神宮にもお参りしました。
ここにも昨年訪ねた鹿島神宮と同じく、要石(かなめいし)と呼ばれる岩がありました。
「天照大神が鹿島、香取の二神を、この地を治めるよう派遣された。しかし、まだ地が固まらず地震が頻発していた。それは地中のナマズが暴れるからだとし、長大な石の柱を地面に打ち込み、ナマズの頭と尾を押さえた。1664年水戸光圀が、ここでその石を掘らせたが、堀り尽くせなかった」と書かれた高札が立っていました。
これなども、お噺として、楽しまれたのでしょう。
20年ほど前でしょうか、NHKの新春放談で、いわゆるマスコミ受けする科学者が「これからは原子力発電など止めて、ソフト・エネルギー・パスに依るべきだ」とぶっていました。
私が「いくら新春放談でも、やっぱり事実を見ていないと・・」と言いかけると、隣の人から、彼こそ事実を語っているのだと激しく遮られて、鼻白んだ覚えがあります。
豚のウンコから発生したメタンガスで、自動車が何台作れるのでしょうか。もしも、あの科学者の発言のとおりにしていたら、今頃どんな日本になっていたことでしょうか。
今年の新春放談でも、どうやって水素を作るかは、すっかり忘れて、水素を使い燃料電池で発電すれば、目出度し目出度しとはしゃいでいました。
楽しむだけの、罪のないお噺ならば、私も大好きなのですが。
さて、平将門からさらに400年たった1338年、北畠親房は小田城で神皇正統記(じんのうしょうとうき)を執筆していました。窓からは、筑波山が大きく見えていました。北に8キロしか離れていないのです。
北畠親房は後醍醐天皇の親任深い部下です。
後醍醐天皇は1321年、今まで政界に跳梁していた5摂家、幕府の横暴を許さず天皇親政とするむね宣言されました。
そして腹心の部下北畠親房を息子の顕家とともに、東北全体の押さえとして多賀国府に駐在させました。
後醍醐天皇は、朝廷に楯突いて滅ばされた北条氏の領地を原資として、功績のあるものに配分し、政権を統制しようとします。
なにせ後醍醐天皇は、改革を急ぎました。既得権者の同意を得ないまま、領地の配分をしたのです。ある人が喜ぶことは、別の人の憤激を呼びます。
こうして、世は蜂の巣をつついたような混乱に入ってゆきます。
それより前、88代後嵯峨天皇は、長男を1246年後深草天皇にします。そして1259年二男を亀山天皇にします。お二人ともご自分の子供を天皇にしようとします。
こうして天皇の正統を名乗る、ふたつの流れができていた環境でした。
後醍醐天皇は、自分が天皇になって、すべての人を従わせようという強い性格の方だったのですが、当時のそれぞれの政治勢力が、自分たちが担いだ天皇を正統だと主張したいと思うのは当然のことです。
後醍醐天皇側近であった北畠親房は、後醍醐天皇、すなわち吉野の南朝側が正統な天皇なのだからぜひ味方するようにと、ここ小田城で「神皇正統記」を執筆し、全国津々浦々に配布したのでした。
この混乱は、結局、器量と運に恵まれた足利尊氏が実権を握り、室町幕府の時代に入ってゆくのです。
北畠親房らの努力は実りませんでした。でも、21世紀の私たちにとっては、どっちが天下を取っても関係ないことです。
この小田城は、平地にある平城です。ちょうど発掘が行われ、当日は説明会の日でした。私たちはアンケート用紙を渡され、どんな情報を見て発掘の現場見学にきたのか?と尋ねられました。
「私たちは、神皇正統記が書かれた小田城に、始めからくるつもりだったのです。来てみたら、発掘の説明会があったんです」と答えました。
30年前、私が日本百名山の一つとして筑波山に登りに来たときは、筑波から土浦に鉄道で出ました。そのローカル線は、その後、廃線になりました。
この日、小田城址の中を一直線に走っている凹みが、昔の線路跡であることを知りました。その鉄道の遺跡の上を自分の足で歩きながら、流れて止まぬ世の歩みを思ったのです。