題名:板東三十三観音パート2

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日付:2003/2/14


名古屋発7時05分の新幹線に乗り、JR千葉駅でレンタカーを借り、ロール・アウトしたのが10時でした。Mさん、Hさんと、3日間の旅の始まりです。

●千葉寺の大銀杏・雨引観音大椎の木
千葉寺は千葉市内にあります。千葉県で一番古いお寺だということです。
寺のお庭に、銀杏の大樹がありました。樹齢1000年を超すといわれ、目通りの直径8m、堂々と立っています。無数の根が、くねくねと絡み合い、地面を覆っていて、じつに不思議な光景を見せています。
一般に銀杏の樹の乳と呼ばれる気中根も、ここのはとても大きく、これも印象的な姿を見せていました。

今回の旅行では、行く先々で、椎を主体にした照葉樹林に出会いました。
千葉県のこの地方は、冬に気温があまり下がらない、人間にも常緑樹にも過ごしやすい気候なのだろうと想像されます。
子供の頃読んだ絵本には、椎の木の実を食べるシーンがよく出てきたものでした。でも、私の周囲には、食べるほど椎の木があったわけではありません。多分、椎の木が多いところで育った童話作家が多かったためなのだろうと、いま思っているのです。

筑波山の北にある雨引観音の椎の木は、過去に見たこともない老木でした。
そうでなくても椎の木というものは幹に割れ目が入り、ゴツゴツしているものなのであります。とくに、この寺の老木の幹は、複雑な姿となり、まるで老人の横顔のようなシルエットを見せていました。

●高蔵寺
この寺は木更津市にあります。一風変わったお寺でした。
というのも、まず賽銭箱に、日本語で「さいせんばこ」と書かれ、そしてそのすぐ下に、英語で「DONATION BOX」と書き添えられていました。
また、お庭に飾られた盆栽が、ひとつひとつ鎖で土台に括りつけられていました。
その様子は「お賽銭をお忘れなく」「人を見たら泥棒と思え」と決めつけているみたいで、なんとも俗っぽくはありました。でも、なんといっても現世に悪人は存在するものであり、俗人も大勢、訪ねてくるのですから、仕方ないことなのでしょう。
あとは、どこまでお寺様として慈悲の体面にこだわるかということと、現世の財宝にどれほど執着を認めるかのバランスなのだと思いました。

●袋田の滝
茨城県久慈郡大子町(だいごまち)にあります。
この滝の基盤岩は暗い色をした礫岩です。
ここの滝の何よりの特徴は、滝の水が柱状ではなくて、岩の表面に広く広がって流れていることです。つまり、世間にある普通の滝では、水で抉られた溝から棒状になって落下するのですが、ここでは球状に広がった岩壁の上を、薄く広く覆うように水が流れ落ちていました。
高さ120m、幅74m、4段になった滝の端は、薄く凍っていました。

・岩壁の黒きを透かせ滝氷る

●銚子の外れ犬吠埼
昔、中学校の音楽の時間のことでした。音楽の先生が「君たち、音痴の人のことを、婉曲に、犬吠埼というということを知ってるか」と口を切られました。そして「だって、犬吠埼は銚子(調子)の外れだろう」と続けられました。もう60年も前のことです。そんなことを、まだ覚えているのですから、良い先生だったのです。もちろん、私たちもみんな、良い生徒でもあったのです。
ともかく、古希を過ぎた今まで生きていたお陰で、いまその犬吠埼に来ているのです。
過去に訪ねた襟裳岬、宗谷岬などと同様に、ここ犬吠埼でも岬の先端に近ずくに従って、走っている道路が海面からせり上がってきました。
海に突き出した半島とか岬は、その左右の土地よりも岩が硬いとか、隆起速度が早いとかの違いがあるために、波の浸食に抵抗しているわけです。
ここ犬吠埼では、土台に古生層の岩があり、その上に中生代の砂岩が乗っているのだそうです。犬吠埼に立って目にはいるのは、中生代の砂岩です。知多半島の野間の灯台付近で見掛ける岩であります。

岬から降り、銚子の街に入りました。この街では、円福寺飯沼観音を訪ねました。
朱色が目にも鮮やかな、新しいお寺です。御朱印の受付をして下さっている建物などは、全体がお堂のように見えながら、正面のガラス戸が自動ドアになっていて、面食らわせられました。

圓福寺の駐車場の横に、寄進の金額と名前を展示しているのと同じパターンで、巡礼ツアー案内の大きな案内板が立っていました。
内容は、四国八十八カ所、出羽三山、鎌倉、秩父など、各種霊場めぐりツアーが十五本書き連ねてありました。そしてツアー全体を通して、大型バスを利用するが、足の弱い方には庫裡まで入るワゴン車用意可能など、至れり尽くせりの募集要項が書き連ねてありました。
今回の板東三十三観音巡りは、私にとって、今年の春に続いて2度目であります。そして、ここまで巡ってきて、霊場巡りと宗教の関係について、いささか考え始めていたところだったのです。

前回もそうだったのですが、私たちが訪ねたのは、何番札所と番号が付けられた観音様だけではなく、ほかにも神社あり、古墳あり、国府跡、謡跡ありでした。そんな通常の巡礼ッポクない私ですから、本来、仏様への敬虔な信仰のことなど、とても口にする資格があるわけはありません。

でも正直いって、高浜虚子が四国八十八カ所巡礼を詠んだといわれる「道のべに阿波の遍路の墓あはれ」という句から浮かぶ巡礼のイメージは、現代では、もうまったくの幻想になってしまったと思い始めていたのでした。

今回の旅では、ひとことに板東三十三観音といっても、藁葺きの古寺あり、鉄筋で出来た朱塗りの柱、白壁の寺ありで、まったく一概には申しかねるのです。(が、有名ブランドの霊場グループに組み込まれているのと、いないとでは、参拝者の数、お賽銭の額は大違いでしょう。)

そんなわけで、個々の事情は、まったく雑多ですから、概論としてしか、ものをいえません。しかし、いずれにせよ霊場めぐりというものは、宗教っ気はほんの数%あるかなしかという感じがするのです。

かなりの寺院は、禅宗なのか浄土宗なのか、はたまた法華なのか、私には分かりませんでした。お寺のほうにも、そのことを、あえて知らせようという気持ちがあるとは見えませんでした。ともかくここは神道の神社や、キリスト教の教会ではありませんといった様子で、観音様たちは、お寺に座していらっしゃったのであります。

考えてみれば、もともと日本では、本地垂迹の考え方、つまり仏様が仮に神様の形をとって現れておられると考えるぐらい、こだわらない国民性があるのです。

先日、インターネットで、《珍寺大道、http://www3.gateway.ne.jp》というのを見ていました。するとその中で、福井の越前大仏は完全な観光施設としてスタートしたものだとコメントされ、その営業の様子が紹介されていました。

こんな不信心な言葉を並べ立てていると、罰が当たるかもしれません。
早々に、数あるお寺の中から、極めて稀な例のみ取りあげては、あげつらってしまって、まことに申し訳ないことをしましたと陳謝し、引っ込むことにいたします。

さて、いうまでもなく、犬吠埼、銚子の街は漁業の街であります。殺生戒であるお寺の庭にも、魚の生臭い風が吹きこんでいました。
そして、港の堤防では、恐ろしい数の鴎や鵜たちが、押しくら饅頭をしていました。
事業活動による環境破壊といえば、大抵は生物が死に絶えて「動物が生きてゆけない環境で人間が健康に暮らせるわけがない」と締め括られるのが、ステレオタイプな記述なのであります。ところが、ここ銚子の場合は、驚異的な海鳥の個体増加が、自然環境攪乱になっているのでした。
ここではまさに、動物の個体数というものは、餌さえあれば幾らでも増えるという現実を見せつけているのです。
もっとも、あの鳥たちも、われわれ人間を見ながら、同じ台詞を投げつけていると想像したのですが、当たっているでしょうか。

●八溝山
この山は、福島県、茨城県、栃木県の3県の県境に位置する、標高1022mの名山であります。ほとんど頂上まで車で上がることが出来ます。
私たちが、雪の残る頂上の三角点に立つと、お城に似せて建てられた展望台が、ちょうど高原山、那須連峰を隠していました。
無粋というより、意地悪している感じさえしたのです。そして、その展望台に登ろうとしても、石垣に穿たれた入り口の扉には、鍵がかけられていました。
私たちが駐車場の車に戻ると、ちょうど番人の小父さんたちが、里から車で上がってきました。
ここへくる前に、袋田の滝を見てきたというのに、まだ9時半でした。悪いのは、もちろん当方なのです。
近くにある日輪寺からは、関東平野が見渡せます。

・八溝山関八州は冬靄

●鹿島神宮
霞ヶ浦と鹿島灘の間にある鹿島神宮は、その名の響きが、私のような戦中派にとって、ひと味違った感慨を誘うのです。
鹿島神宮は、すぐ近くの香取神宮とともに、早くから皇室をはじめ、時の権力者たちの崇敬が厚かったのです。御祭神は、竹見数地の尊、いまのワープロではタケミカヅチノミコトと入力すると、こう出てしまうんです。もちろん正確には、武甕槌大神、軍神として、とくに武人から信仰されていました。
武甕槌大神は、天照大神の命を受け、天孫降臨に先立ち高天原から降り、大国主命に、国譲りの談判をしたという神話になっております。
私が小学校、中学校に通っていた時期には、いったん国にことが起こったときに、将軍、提督たちが戦地に赴くに当たって、ここを訪れ勝利を祈ったのでした。
そんなこともあり、一般論としても、旅に出ることを「鹿島立ち」というぐらいで、交通安全、旅行安泰の神徳ありと受け取られています。
じつに広大な敷地、神さびた社叢、厳かな神殿に、心を打たれました。
社叢を分け入った奧社のさらに奧に、要石という石が玉垣に囲われていました。石は地面から20cmほど頭を出しています。
小さく見えますが、掘ってみればどこまでも深く、地球の芯にまでつながっているそうです。また、この石が、地震を起こすナマズの頭を押さえているともいわれているのです。
入り口の鳥居のところに、「ちわやぶる・・」 という有名な短歌を刻んだ碑があったはずだと、Mさんがいうのです。駐車場の番人に聞いてみると、寄進を書き連ねた大看板の裏に、写真も撮れないほどくっついて立っているのでした。これでは、普通の人に探せるわけはありません。
このように、戦、武など勇ましい文字を連ねた碑は、粗末に扱われるべきです。そして、21世紀が、勝利など願わなくてすむ、戦争と関係のない世紀になるようにと、改めて祈ったことでした。

●上・下侍塚古墳
宇都宮市から東北方向に約30キロほど離れた湯津上村にあります。
下侍塚は1692年、水戸光圀によって発掘されました。これが、日本において遺跡を学術的に発掘した嚆矢とされています。
この古墳は、大和地方にある樹木がぼうぼう茂った古墳と違って、下草が刈られ松が植えられていて、古代人の奥津城に相応しい美しい姿で管理されています。
近くにある資料館の説明によると、この地方では、古墳が造られ始めた頃、全国各地によくある前方後円墳ではなくて、後方の丘も四角な、前方後方墳が主体だったそうです。そのことが奇異に感ぜられました。
奈良盆地にも、盆地の東縁、山辺の道のほとりに、少数派として、西山古墳と呼ばれる全長183mのものなど、いくつかの前方後方墳があります。
大和でこの形の古墳をを造った一族の人たちが、ここ水戸地方へ派遣されて来たものなのでしょうか。

●笠石、官衙(かんが)
両方とも、栃木県北部、那須町にあります。
ここの笠石は、仙台に近い多賀城にある碑(762年)と、高崎にある多胡碑(711年)と並んで、日本の三大石碑と呼ばれるもののひとつであります。
ここ那須のものは、碑の上に笠のように石が乗っているので、笠石と呼ばれたのです。
碑の文面は「689年、イデさんが那須の国の長官に任ぜられた。彼は700年1月2日午前8時頃亡くなった。息子のオシマロが父のため建てた。云々」という文面です。
この地域が、AD700年代始めには、大和政権の勢力が及ぶ最前線でありました。そしてそれから100年ほど遅れたAD800年頃、やっと仙台の北、水沢の胆沢城あたりまで、勢力範囲を広げることができたのでした。
この地に立って考えてみると、その前の時代にも、従来住んでいた縄文人たちの土地に、大陸から渡って来た弥生人たちが、ジリジリと版図を拡大していったはずです。
そのときの、勢力拡大の速度や、至るところで起こったに違いない軋轢の様子などを見る思いがします。
今日現在、中東では、イスラエルとパレスチナが、血で血を洗ういさかいを続けており、なんとも、お先真っ暗の状態です。
聖書に拠れば、カナンの地(今のパレスチナ)を神から与えられたとして、モーゼに率いられたイスラエル人たちが、エジプトをあとにして、入り込んで行ったのでした。
私たち日本人だって、天孫降臨の神話を持っているのです。
このように、先住民が住んでいる土地に、よそから人が入り込むことは、地球上のあらゆる場所で、もう昔々から起こっていたことに違いありません。
中東のように2〜3000年前からのことなら、あのときXがこんなことをした、だからYがこのように仕返しをした、と争いの経緯を辿ることが出来ます。そして、ここまでこじれたのはXとYの関係だけでなく、力の強い外国が思惑を持って介入したことが大きな要因でしょう。
それぞれの主張する理屈は、それなりに理解できますが、現実に非生産的で悲惨な殺人の応酬を続けている現状は、運が悪い、お気の毒だと思わざるを得ません。

約1300年前、この那須地方の官衙(県庁)では、帰化人たちが働いていました。
彼らは、単純な労働力などではなく貴重な行政のエリートとして、参加していたと思われます。
当時の帰化人たちも、大和朝廷から派遣された管理層も、以前から住んでいた東国土着の被管理層も、今現在は日本人として、いうなれば普通に暮らしているのです。
損得、意地、そして同化ということについて、考えさせられます。人間という生き物は、賢明のような、そしてまた愚かなもののような気がします。
相当遠い未来ではありましょうが、いずれ人類が絶滅するのは避けようのない運命なのですから、いつまでもエンドレスに敵討ちを続けている事態ではないのですが。


●遊行柳 
私たちは旧陸羽街道を北上し、遊行柳の旧跡にも行ってみました。
能に『遊行柳』という曲があります。
天明の頃、諸国巡歴の遊行上人がこの地を訪れました。一夜、柳の古木が老翁の姿となって現れ、上人に供養を頼みました。そして、その供養の功徳で成仏したという筋書きであります。
その話の筋を、私は一向に面白いとは思いません。実際、能「遊行柳』は、曲の中の舞の部分だけは、囃子や仕舞として舞台で演ぜられることがありますが、能全体が演じられたのは見たことがありません。
遊行柳は、昔から京の都で名高く、芭蕉、蕪村や西行法師など文人たちが、旅の途中で訪ねたのです。彼らがここで詠んだ歌、たとえば芭蕉の「田一枚植えて立ち去る柳かな」という句などが書き連ねてありました。
残念ながら私には、謡いでもピンときていませんが、わざわざ現地まで来ても、有名であること以外、あまりピンときませんでした。
古跡遊行柳があるのは、福島県と栃木県との境、古典で高名な白川の関から南へ、僅か徒歩3時間ぐらいの位置です。陸奥の山々の曲がりくねった道を歩いてきた旅人たちが、水田と村落、開けた関東平野を目にし、身も心も明るくなったときの喜びが、ひしひしと伝わってきたのでした。

・山路抜け遊行柳の温かし

戯れに、かたわらの投句箱に駄句を入れましたら、後日、那須町役場から、町の広報誌に掲載した旨と、絵葉書とを送っていただきました。
「下手な鉄砲も数撃てば当たる」、斯道奨励のお情けでありましょう。

●笠森観音
このお寺は、茂原の近くの、森の中にありました。
推定三百万年ほど前に堆積し、まだ岩になる前の固く締まった粘土層が、微妙に削られ残った、小さな尖った山頂に本堂が建っています。建物は、このピークに、まるで笠のように被さって建っているともいえましょう。スケールはともかく、京都の清水寺のように、地面から木の柱を立て、その上にお堂が座っているワケなのです。
楼門には、風神と雷神の像が立っています。それを見るなり、私は電気学会電力章のプロフィルに使われている雷神を思い出しました。どこまで行っても、私は電気屋なのです。
さて、われわれ早起き老人軍団は、ここでも相変わらず、堂守が出勤される前に着いてしまいました。ちょっと待って拝ませていただいたのです。
なにせ大変に見晴らしの利くロケーションで、条件が良ければ九十九里浜から太平洋が見えるということでした。
参道の途中に、幹に穴の開いた杉の大木があり、安産杉と書いた看板が添えてありました。なにはともあれ、出来ることは経験しておこうというのが、私の習性なのです。でも実は、するっと抜けられるかどうか、体型に自信がなかったのです。
それで、Mさんたちが行ってしまってから、こっそりトライしてみました。案の定、ギリギリでした。それで今度は、もしも抜けられなくなったときに、助けてくれる人がいないのが心配になりました。
結果はセーフでした。こういうのを、案ずるより産むが易し、というのでしょう。

・常盤木の犇めき合える寺師走

●ユースの犬
九十九里浜では、ユースホステルに泊まりました。
夕食を食べていると、若いお兄さんたちが帰ってきました。
ユースの快活なおばさんは「うちの犬と仲良しになった?」と、お兄さんたちに話しかけました。
このところ、私の家では2匹のミニチュア・ダックスフントを飼っています。動物と心の通う良き友を自認する私としては、ここの犬とも友達になろう、犬もオレを好きになるに違いないと思い上がったのです。
それで、おばさんと犬の話を盛らせました。無口な私には、犬を話の種にできるのが
有り難いことなのです。ここの犬は雑種だとのことでした。
食後、犬のところに行き、やさしく話しかけました。でも、私の自信の鼻は、あっけなく折られてしまいました。
犬は私を嫌って、吠えるのです。苦心惨憺してなだめ、おばさんにも応援してもらい宥めると、やっと吠えるのは止めてくれました。
「酔っぱらいが嫌いなんだね。明日はシラフでくるからね」そう言い置いて、その夜は引き取りました。
約束どおり次の朝、犬にシラフで挨拶しましたが、彼の御勘気は依然として解けていませんでした。
不徳の至りとはいえ、なんとも口惜しいので、彼が子供の頃、こころない酔っぱらいに蹴飛ばされ、そのトラウマがいまだに尾を引き残っているのだろうと、勝手に罪を他人になすりつけることにしました。

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