題名:アメリカの旧友とカナデアン・ロッキー

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日付:1998/2/5


スケジュール

10/13 名古屋=スケネクタディ A氏宅泊

10/14   ホーストマン氏訪問=エリス病院見物=ブラウン氏訪問   A氏宅泊

10/15   スコシア公園=GE工場遠望=ギルダ━ランド・アベニュ旧居=

     サラトガ・スプリングズ,ガロウェイ紅葉狩=クリス氏とお喋り A氏宅泊

10/16   スケネクタディ市内見物,プレスビタリアン教会=

     モホーク河,ニスカユナ紅葉狩り=ホーストマン氏とお喋り   A氏宅泊

10/17   スケスクタディ=オーバニィ=シンシナティ=ソートレーク=カルガリ

     バンフ=レイク・ルイズ      レイク・ルイズ ユースホステル泊

10/18   レイク・ルイズ=ボウ・レイク=ペト・レイク=クロシング=コロンビア氷河     =サンワプタ滝=アサバスカ滝   ジャスパ ユースホステル泊

10/19   マウント・ロブソン=ホイッスラ山=マリン渓谷=レイク・マリン=

     レイク・ピラミド=エディス湖   ジャスパ ユースホステル泊

10/20   ジャスパ=バンフ=カルガリ  ベスト・ウェスタン・エアポートモテル泊

10/21   カルガリ=ソートレーク=ボートランド ポートランド ユースホステル泊

10/22   ポートランド=

10/23   日付変更線通過=名古屋


良き友

 第二次大戦後,中部電力は当時の日本では,まだ製作することの出来なかった性能の良い発電機を先進国アメリカから買った。

 その機械を作っていたのが,ニューヨーク州スケネクタディ市にあるGE社の工場であった。

 41年前,26才だった私は,その新しい機械の実習の目的で,約一年間,その会社に派遣された。

 当時,日本にとってアメリカは,人権尊重,福祉,高い科学水準,合理性,約束の時間を守る習慣などを始め,ほとんどあらゆる面で,理想であり先生であった。

 私も自分の性格に,アメリカでの生活で大きな影響を受けたと思っている。相手を目の前で平気で褒めたり,遠回しでなく,ずけずけものを言ったりする性癖は,そのころのアメリカで身に付いたのだと思っている。

 そのころの私は,若くて,ひもじかった。訪れたアメリカの家庭で出してくれる,どんな食べ物でも,うまいうまいと褒めては,鱈腹食べたのだった。

 腹を減らして,おねだりされれば金魚だって可愛くなる。だから,そんなにして私も彼らに可愛がって貰ったと思っている。

 その後も,その頃の友達の何人かとは交際が続いている。そして私から,クリスマスカードなどで,やれヒマラヤに行ったとか,アンデスに登ったとか書いてやった。

 それに対して彼らから,ニューヨークには,お前が登るような山がなくて残念だと返事がきた事があった。

 この夏,会社をリタイアし,自由な時間が出来たので,早速,スケネクタディの昔の友達を訪ねることにしたのである。

 こうして訪ねたスケネクタディのある日の午後,A氏夫妻が病院へ行くというので,私もくっついて行った。この地区では,老人福祉でインフルエンザの予防注射をしているのである。その注射の受付の女性は,私を住民のひとりだと思ったようで,お前の番号は何番だと聞いた。ぜんぜん外人扱いをしていないのである。改めて日本は単一民族だなと思った。

 その日は,まだ彼らと再会した次の日のことであった。それなのにもう,病院でA氏の機関銃のような講釈が始まった。昔から講釈の好きな彼であった。最近の注射方法は,針を刺すのじゃなくて,ジェットを吹きつけるのだ。注射の部屋まで入って来て見ろと,強引に連れていこうという意気込みである。

 このとき,私たちの間では,40年の月日が,既にどこかへ飛んで行ってしまっているのを感じた。彼も同じ気持ちになっているようだった。

 私達は,まるで40年前の私達になっていた。彼は超先進国の40代前半の大男であり,私は敗戦国から勉強にきている20代の若者になってしまっていたのだった。

 ここへ来て良かった。こんな友達がいて良かった。そんなふうに,良い過去を持った幸せに,心の殻が砕け散っていった。

 また,彼の家でこんなこともあった。

 昼飯のとき,私のぎこちないナイフとフォークから,小さな玉葱の切れ端がこぼれて落ちてしまった。レストランではなく他人の家だから,私は床に這いつくばって探した。細かい模様の絨毯なのでなかなか見附け難い。頼んで懐中電灯を貸してもらい,やっと見つけて拾い上げたのだった。

 日本だったら「どうぞそのままに」と言われるであろうし,「懐中電灯を貸して」と言われて貸してくれる家など,まずあるまい。

 帰る日の朝は,4時15分に起きた。前の晩に,翌朝は軽い朝飯を食べてゆけと言ってくれるのを,要りませんと断った。コーヒーでもと言うのも断った。

 実際にその朝が来て起きると,病身の奥さんまでが起きてくれた。そして,せめてジュースだけでも飲んで行ってくれと言われ,この時はもう,有り難く頂戴した。

 いまこうして書いていながら,彼らに対して,自分はあまりにも日本人過ぎてしまったなと,反省している。

 日頃,日本の中では「どうぞお先に」「いいえ貴方から・・」という,際限のない譲り合いが面倒くさくて,すぐに「そう仰るなら」と言ってしまい,遠慮が足らない奴だとひんしゅくを買っている私でさえ,アメリカでの自分を,そう感ずるのである。

 これからは相手に,一旦は,迷惑を掛けたくないと思う当方の心を伝え,迷惑ではないと返事されたら,あとは相手のくれる好意を有り難く受けることにしよう。

 そのほうが相手を大事にすることになるのだと思う。そして,そんなふうに付き合える友を持つことができる人間が,地球上に何人いることだろうかと,改めて自分の身の幸せを思ったのであった。

教会は紅葉四十年は過ぐ

 

元気な老人たち

 今度,アメリカの旧友たちを訪ねることにしたとき,私の家内は日本的な常識から,彼らも,もう80才を越えたのだから,食べさせたり布団をセットしたり,お客様をするのは大変に違いない,迷惑をかけるのは失礼になるよと忠告してくれた。

 今,身の周りで実際に,泊めるほうも泊められるほうも,気を使って草臥れてしまうのも見ているので,40年の月日はそんなものなのだろうかと,家内の意見にも一理あるわいとも考えた。

 しかし私としては,昔,彼らの家で,食後に一緒に皿を洗ったりして,まるで家族の一員みたいに振る舞っていたことを思うと,彼らの好意を素直に受け入れないと,却って彼らを傷つけるのではないかとも思ったのであった。

 こうして毎度のごとく色々と思い迷った末,始めは本心から,ホテルに泊まることにしようと思った時もあった。

 でも,その後何回か手紙の遣り取りをする中で,彼らは私を自分の家に泊めるのは,まったく迷惑ではないと,繰り返し言って来ていた。

 それに対して私は,しばらくの間,普通の日本人らしく,昔,スケネクタディで最初の一週間の宿として過ごしたYMCAが懐かしいから,是非もう一度泊まってみたいなど,迷惑をかけないように婉曲に言い出してみたが,彼らには全然相手にされなかった。

 そんな遣り取りをしている最中に,私は飛行機のチケットを買ってしまった。ホテル泊りを前提にした,夜おそく着いて,朝早く出立する,一見,効率的なスケジュールのままであった。

 さて旅行の最初の日,スケネクタディに近いオーバニィ空港に23時30分と真夜中に着いた。

 空港には82才になったA氏が車で迎えに来ていて,家まで連れて行ってくれた。

 彼は高齢だというだけではなく,膀胱癌の手術を受け,体外に袋をぶら下げている身体障害者なのでもあった。

 次の日に訪ねた同じく旧友のH氏は,来年の春には90才になるという。奥さんを亡くし,昔の家に一人で生活している。

 そのH氏は私のために,ラズベリーを1籠摘んで届けて呉れてあった。次の日「Aはラズベリーを食べさせたかね。あれはお前用なのだ。横取りしなかったろうな」など言って,片目をつぶって見せた。

 A氏夫人によれば,90才のH氏は,今でも女性に大変もてるのだそうである。

 年中行事として冬をフロリダで過ごしているうちに,そこで同じ教会に所属する女性と知り合った。H氏も気に入っていたのだが,たまたまその女性が家族の病気でフロリダを離れたのを,自分に気がないと思ってしまった。

 ところが,もう一人の女性が,前からH氏に関心を持っていて,家へ食べにこないかなどH氏を盛んに誘い,いまでは彼女がガールフレンドになっているのだという。

 そのことで,前の女性が大変ショックを受け,SHE IS A KIND OF HEART BREAKなのだという。

 その話を聞いて,私は「DIFICULT WORLD」というような相槌をうった。

 実は私はこの旅行の様子を,いかにも英語を不自由なく喋っているように書いてはいるが,本当のところは当方,こんな単語を適当に並べているだけで,相手も大体こんなことを言っているのだろうなど,いい加減な想像で書いているだけなのである。

 話しは急に変わる。

 花伝書という本は,室町時代,能楽成立の頃,その総帥だった世阿弥が,能を学ぶ者の心得について書き残したものである。

 その中には,幼い時から老境に入るまで,それぞれの年代で,どう能に向かい合ってゆくべきかが書かれている。

 関西電力のN先輩から,花伝書に述べられた老人の引退の舞「老の入舞」について教えられたのは,もう10年以上も昔の事である。

 Nさんは,ご自分のこととして考えておられ,私にとっても大きな関心事であった。

 花伝書にはこんなふうに書かれている。

 能の命は花である。

 45才ほどになれば,よそ目には,花は無くなっているのだから,自分の役は地味に演じ,助演者,とくに後継者に花を持たせるようにすべきだ。

 50才を過ぎたら,花は失せてしまう。それから後は,いかなる名木であっても,花の咲かない時には見る人がないのと同じことなのである。そういう事態になったら「能をしないと言うより他に,手段はない」のである。

 年をとり,花が失せ,他人に嫌われても「自分は上手だから名人と言われたのだ」と思いつめて,人から嫌われているのに知らず,老の入舞を仕損ずることがある。よくよく用心しなくてはならない。

 客観的に見れば,現実は「しないより他に手段がない」という厳しい事態にあることを自覚し,ひとつひとつの芸に初心を持って取り組まなくてはいけない。

 そうすれば,一生,尽きることなき芸術への精進という,意味のある生活を送ることができる。

 と,まあ大体こんなように述べられているのである。

 他人にはどう見えていたかは知らないけれども,私は「老の入舞」を仕損ずるまいと心掛けてきたつもりである。

 人生の老の入舞の時期に入ったいま,会社の仕事はなんとか終わることができた。

 能についても,会社と関連した面はうまく終わることができたと思っている。

 登山についても,なんとなしにうまく行きつつあるように思っている。

 夜の街でのお付き合いこそ,まったく綺麗さっぱり,うまく終わっている。

 そして常に,俺は老人,花はもう無い,と自分に言い聞かせている。

 ところが,スケネクタディの友人たちの暮らしを見ていて,自分がちょっとオーバーに老人ぶっているのではあるまいかと,少々反省させられる思いがあった。

 なんでも止めてしまうのは簡単であるが,現実には,人それぞれが持って生まれた巡り合わせの中で,社会活動の色々な部分を,どのようにこなしてゆくかが,一生の課題として残り,続くのである。

 私にとっては今年が老人元年であるが,来年も老人元年,その次もと,毎年初心を持ってチャレンジしてみようと思っている。

 他人が見ている自分のポジションが,分からなくなるのが,脳の老化の共通的な症状であろうと思う。それは,目が遠くなったり,耳が聞こえ難くなるのと同じように,程度の差はあっても,避けられないものである。

 命がいつまで続くのか,そしてその中で私はどんな演技ができるのだろうか。

 許されれば,自分の舞台を,ずっと覚めた目で見続けてゆきたいと思う。

明けやらぬ駅の賑わい秋深し

 

禁煙飛行

 帰国の日,ポートランドを飛び立って約1時間,けたたましく機長のアナウンスが流れた。「この飛行機は禁煙です。トイレの中も禁煙です。違反した人は,何々ドルの罰金です」というようなことであった。

 その警告は,すでに搭乗直後に写されるビデオで告げられていたことであり,今更のように警告するというのは,だれかがトイレで煙草をこっそり吸い,それがセンサーに引っ掛かったのだろうと直感した。

 同じことが,またあとでも一回起こった。前の回は男性で,後は女性であった。どちらも日本人であった。

 香港とチューリッヒの間の飛行もずっと禁煙だが,これはポートランド・名古屋の9時間と比べ12時間近い長丁場である。私は,このフライトも4回経験しているが,今回のような違反には始めて逢った。

 団体ツアーで参加した中のある人が,緊張の連続の外国旅行を終わり,間もなく日本に着くという解放感に甘えたのであろう。

 アメリカ,カナダでは,喫煙者に対して大層厳しい。それに比べてヨーロッパは遙かに寛大なように見える。意外なのは,あれほど国を上げて煙草をふかしていた中国が,最近は,かなりの禁煙国に変わりつつあることである。それは,国の内外で,かなりどぎつく,喫煙は毒だと宣伝しているのが効いているのであろう。

 外国を旅行していて,観光バスが着くたびに,もうもうと煙が上がるのは,やはり日本勢である。他人にストレートにものを言わない,穏和な風土のなせるところであろう。

 いまでは日本でも,喫煙のマナーが随分と国際水準に近付いてきた。それでもまだまだ高年者には,他人に迷惑をかけているという引け目など意識になく,自分の健康との関連だけしか考えられない人がままある。

 ま,世の中,いろんな人が生きていかなくてはならないのだから,お互いに気を使いながら,程々にするのが良いのであろう。

 急に長時間の禁煙を強要し,違反者には罰金というのも,いかがなものであろう。空港並みに,限られた喫煙用の空間を作り,ほどほどの寛容さをキープするのが妥当のように思われるのだが。

静けさや波止場打つ波山上湖

 

環境保護

 カナディアン・ロッキーへ行ってきたと言うと,自然が一杯残っていたでしょうと言われる。その声の響きからすると,なんとなく日本以外の先進国では,環境保護が手厚くて,豊かな自然が残っているというのが,常識になっているみたいだ。

 実際に,その地を自分の目で見てみると,当たり前の話ではあるが,元から存在する自然の量と,住んでいる人口との比率が,日本のどこと比べても,まったく掛け離れているのを改めて感じた。

 カナディアン・ロッキーの自然の量のスケールの大きさについて,あのスイスのマッターホーンの初登頂に成功したウインパーが「ここにはスイスが50も集まっているようだ」と感嘆したと伝えられている。

 アイスフィールド・パークウエイという300キロ余りの,たった一本の道路から見える範囲だけでも,見渡す限り,アルペン的風貌の山々がひしめき,それらがまた無数の美しい湖水を抱いている。

 この地域の山々を登山の対象として見ると,道路の標高が1000mならば山頂は2500m,道路が2000mならば山頂は3500mと,大雑把に標高差は1500m程度でそんなに大きくはない。マウント・ロブソン3954mで標高差が約2000mあるのは,むしろ例外的である。

 緯度が50度を越えているので,3000m辺りでは,もう氷河になっている。

 森は日本の北部の高山にあるのと似た針葉樹が主体で,紅葉美とは殆ど無縁である。

 個々の山のスケールは,必ずしも大きくはないが,実際に登ろうとすれば,どれもこれも切り立った岩と氷の山で,技術的に大変厳かろうという顔を見せている。

 なによりも,あまりにもピークの数が多く,これらにひとつひとつ,ちゃんと名前が付けられているのかしらと思う。だから,これらに片っ端から登ろうという気にも,ましてや,カナディアン・ロッキー百名山を選定しようという気持ちも,日本にいるのと同じセンスでは論じようがない。

 10月20日,まだ薄暗い朝8時半に,観光地としては最奥にあたるジャスパーの街からカルガリー市に向け,車で出発した。時速百キロで飛ばして,20分たってやっと1台の車とすれ違った。このように,人口の希薄さは,日本では想像もつかない程である。

 地図で見ると,ジャスパーから北へ行くと,もう道そのものが極端に少なくなってしまっている。通る人がないのに,道路を造ることはないし,見る人がないのに看板を立てる人はいない。こんな状態なので,わざわざ自然を壊そうとさえしなければ,自然環境は自然に残るのである。

 このように,カナデアン・ロッキーの旅では,いわゆる自然環境保護の敵は,人間であることを,いやというほど悟らせられた。

 聖書では,神は天地創造の6日目に人間を造り賜いて「産めよ,増えよ,地に満ちて地を従わせよ」と言われたとある。またその後,折角,与えられた大洪水の機会に,ノアの方舟に動物を乗せ過ぎたのである。とくに,人間さえ乗せなければ良かったと,神様は悔やんでおられるかもしれない。

 人類はその誕生以来現在まで,数百万年の歴史のうち,殆どの期間「産めよ,増えよ」が一貫した目標であった。それは達成しようとしても,人間の力ではなかなか及ばないゴールであった。

 わずか最近の150年ほどになってから,そろそろ,神様に「ここまで来ました,これからはどうしたら良いでしょうか」とお伺いを立てる段階に来たと言えよう。

 「良くやった。多くの人が天寿をまっとうできるようになった。十分豊かになり,幸せを享受している。もう,いいだろう。そろそろほかの動物に交代させよう」と言われるかも知れない。その時,人間はどうするのだろうか。

 一部の人たちは,環境保護の大切さを訴えることに熱心である。まるで自分たち以外の者は,それを知らないかのように。

 しかし,環境保護は,その大切さは分かっていても,現実に,多くの条件の中で,自分がどうしたら良いかの,針路を見つけるのが難しいのである。

 自然環境を保護せよと声高に叫ぶその熱意を,ぜひ,自分の力の及ぶ限り実行に向けるべきであり,そうでなくてもせめて具体策を提案するべきであろう。

 たとえば,地球温暖化に関するCO2の問題では,電気使用量の節減が一つのポイントである。

 外国と比べてまず目につくのは,わが国でのジュース類の自動販売機の多さである。ほかの豊かな国並みに減らすだけのことで,かなりのエネルギー消費の減少になる。

 なぜ具体的に,自動販売機の禁止を言わないのだろうか。

 それは、指摘した結果として,生活を変えなくてはならなくなる人が身近にいて,かつ,そういう人達の身の振りかたに責任を取るつもりがないからであろう。

 まず自動販売機を製造している人たちが職を失う,また,ジュース類のメーカーも売上が減少しそれに対応する人員は不要になる。何も考えない人は、不便だと文句を言う。

 この例のように,結局は,どんな対策でも,最後は個人に影響を与えるのだが,そこまで踏み入るのから逃げていては,ことは進まない。環境保護運動も,言葉やパフォーマンスは派手だが,実行不可能なことを囃し立てていたのでは,単なるお祭に過ぎず,かえってCO2の排出を増やすだけで終わってしまう。

 勇気を振るい,人間の本質に切り込んで,その上で,本当に人類のためになることを提案,行動するべきだろう。

 周囲にいる大勢の普通の人たちに,相当の不便を忍べと直言すべきなのは当然のことだし,何時の日にか「総ての国は1990年当時の人口の15%カットを実現せよ」と主張する人が,マスコミの寵児として祭り上げられる日が来るかもしれないではないか。

 いまや,地球上に生きている者は誰ひとりとして,環境について,他人のせいにして生温いことを言っている訳にはいけないはずである。

薄氷が暗き川面を流れゆく

 

ひとり旅

 退職後の4か月間に,北海道の山々,ヨーロッパ・アルプス,アメリカ・カナディアンロッキーと,ひとり旅が続いた。

 考えてみると,晩年になるに従って,ひとり旅が増えてきている。

 その理由を考えてみると,一番大きいのは,今の私の「毎日が休日」の環境である。いわば時間だけは贅沢気儘に使える,時間大尽のスケジュールに,同行してもらえる人がいないことである。

 ある種類のパック旅行には,魅力を感じているが,申込は2名様より,というのが多い。家内は旅行嫌いであるから,これなどは,先方から断られているわけである。

 朝早く出発し,途中クラッカーで朝飯を済ますなど,不規則な旅が平気だという人は限られている。また,2段ベッドで雑魚寝するような簡素な生活も,人によっては気に入らないであろう。これらの面で自動的に気が合うのは,山の友達だけということになる。

 そして今まで付き合ってきてくれた現役の山の仲間たちは,私のような退職者と同行できる訳はないのである。

 こんな一人旅をしながら,夕方に気儘に飛び込んで泊まろうという条件では,ユースホステルがぴたりとマッチしている。

 ついでながら,一度だけ,ちゃんと予約を入れたこともあった。だが,着いてみると,先方はオオツボシゲトウという名前に閉口していたようで,受付のお姐様に,なにかこちらが悪いことでもしたような気分にさせられてしまった。例えばの話し,もしあなたがホテルのカウンターに座っていたと想像してみよう。ベルが鳴って,今夜イタペティニンガだが泊めてくれ,夕飯はこれこれだなどと,ブロークンな日本語で電話されたとして,ちゃんとメモに取れるだろうか。

 そんなことで,とくに混む場合でなければ,飛び込みのほうが,かえって無難だと思うことにしている。

 ユースホステルも,昔のようにホステルの主人が親代わりに面倒を見るような雰囲気はまったくなく,今では泊まる人の自主責任を軸にしていて,大変,フリーなのである。

 色々の国籍の,沢山の人々と,お互いに不自由な言葉で薄く付き合う宿である。昨日泊まった町も別々なら,明日行く先もそれぞれなのである。

 奥の細道を辿った芭蕉も,こんな心細い,吹き過ぎてゆく風のような旅をしたのだろうか。つい「聞こゆるは英語ばかりの紅葉狩」など,迷句のひとつも飛び出すのである。

 今回のカナディアンロッキーのひとり旅では,カルガリー空港でレンタカーを借り,パンフ,ジャスパ両国立公園を走り回った。

 コンパクトカーの4日間の借用料は,15883円,また約1400キロ走行のガソリン代は6000円程であった。これらの経費は,ひとり旅ゆえにひとりで背負わなくてはならないけれども,さして高くなくて助かった。

 なんと言っても,ひとり旅では,話し相手がおらず,淋しく,また不便でもある。しかしこれは,いつも直接周りに人がいることによる煩わしさから逃れられるメリットの裏返しでもある。

 気に入った仏像を,他人に気兼ねせず,好きなだけ拝ませていただいているように,自分の心を自由に遊ばせている趣が,今度の旅にはあった。

 岩と氷の山々を見つめながら,そこで現実に地面を踏んで立っているのは私ひとりであっても,私の心は,こんな美しい山岳を愛している人達と共に語り合っていた。

 そして彼らも,目の前の無垢な美しさを,うべなってくれるのであった。

ただ吾の影のみ長し北の秋

 

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