日付:1999/6/21
どの船も大きさは6000トンほどですが、スピードは船によってそれぞれ違います。遅い船の時刻表では、夜中10時間ほど航海し、早朝、奄美大島の名瀬港に入り、荷役で1時間ほど停泊し5時50分発、あと徳之島10時10分発、沖永良部島12時40分発、与論島14時40分発、そして鹿児島を出港してから約24時間後の18時40分に那覇港に到着するスケジュールになっています。
船のスケジュールは、きちきちしたものではなくて、私たちの旅では、最高2時間ほども遅れました。遅れる大きな要素は、荷役時間が長引くためのように思われましたが、それを取り返せる速い船とそうでないのがあるようで、遅刻常習犯の船の名は、島の人たちには公知の事実のようでした。
2時間遅れたときは、定刻になっても、地元の人は埠頭に全然姿を見せませんでした。多分、日替わり出発時刻を、当日、船会社に確かめてから、家を出ることにしているのでしょう。
私たちは、一つの島に一晩ずつ泊まりました。だから出発は毎日、2時間強ずつ遅くなるわけです。
船は約25ノットで走りますから、島と島とは50~100キロほど離れていることになります。この程度だと、空気が綺麗な日ならば、次の島は手に取るように見えます。
・わだつみの孤島に雲の峰ひとつ
ところで、今度の旅に出た、いきさつから聞いて下さい。F君から葉書が来ました。
それには奄美諸島の宝島へ一緒に行きたいと書いてあります。
5月の連休は、ほかに東北行きのスケジュールがあるから駄目だと断ると、彼は宝島では宝貝が採れるかも知れないよ、ほかの日ではどうかと言うのです。
6月下旬の株主総会が済むまでは、どんな用事が飛び込むかも知れないので、この時期はずっと出難いよと、全面的に断ったつもりなのです。でも、それなら夏にモンゴルへ行きましょうと、すごくご執心なのです。
この提案についても、モンゴルは、前に行ったことがあるから、もう行きたくないと言っておきました。
ところが、しばらくして、また葉書がきました。その往復葉書には、行き先、スケジュール、予算、所持品などが書かれていました。
彼とは久しく会っていないので、その後、一度彼の家を訪ね詳細を打ち合わせました。
旅の細部は、着いた先で行き当たりばったりで決めること、予約が要るのは,往きのJRと帰りの飛行機だけであること、彼は煙草を吸いますし私は吸いませんから、切符は別々に手配すること、そんなことを決めたようなものでした。
私が彼を始めて知ったのは、会社の組合の青年婦人部から行った霊仙岳登山で、リーダーを勤めてくれたときのことでした。その時の印象では、山の大ベテランのようで「セカセカ歩いて、長く休むのはダメ。休む時間を割いて歩く時間に入れ、ゆっくり歩きなさい。休むときも足踏みをしているぐらいの気持ちでいなさい」というようなことを教えてくれたと思います。
その次の思い出は、私が、ある会議で、ある人と口論したときに「社外の人のいる前でみっともないから、喧嘩をするのはやめて下さい」と彼に怒鳴られたことでした。それからは、お互いに違う分野で働いていたので、長い間会うこともありませんでした。
その後、25年ぶりに、再び同じ職場で働くことになりました。そこで、彼と一緒に山登りに行くことにしました。彼も、やはりベテランですから、ずいぶん沢山の山に一緒に登りました。
奥三河の田口の近くの山に行ったとき、私がバス停の近くの道端に腰を下ろし、弁当を開こうとすると、彼に「ここじゃ格好悪いから、もう一寸山道へ入ってからにしませんか」と言われ、恥じ入ったことがありました。
また私が、ある雪山からの帰りに、強烈な眠気に襲われ、センターラインを跨ぐような運転をしていたとき「一寸喫茶店で休んでいきましょう」と言われたこともありました。
彼には絵を描くという良い趣味もありますし、こうして、うまく年金生活に入ることができたのだと思っています。
西鹿児島で列車を降りてから、今回の旅で始めて彼と一緒に行動することになりました。まず、観光案内所を探しました。
F君と一緒に行動するのは10年来のことです。
彼は、肥満と膝の痛みから、数年前、山を引退していました。そして、その後の彼の状態は、聞いていませんでした。
まず、駅員を捕まえて、案内所を教えてもらったのでした。この、ほんの数分のうちに今回の旅で私がしなければならない役割を悟りました。彼は何もしないのですから。でも、一人旅の多い私は、どっちみち自分で情報を取ったり、決断したりするのですから、添乗員の役割はちっとも面倒でも嫌でもないことなのです。
また、車の運転だって、買って出たいぐらい好きなのです。
しかしもうひとつ、彼がすごくゆっくりしか歩けなくなっているのに、びっくりしました。
私の4分の1の早さもないでしょう。おまけに大きなリュックをかついで、軽ピッケルまで持ってきているのです。大荷物の中身は、最後までよく分かりませんでしたが。観光案内所で船に乗る埠頭を確認したあと、17時に再会することにして、お互い別行動をとることにしました。
私はザビエル教会,博物館,考古資料館、照国神社、黎明館と大急ぎで見て歩きました。
照国神社は、大きなお社です。そしてその御祭神は島津斉彬公なのです。明治神宮,乃木神社など、幕末、明治の実在人物を祀ったお社のひとつなのでした。
考古資料館の縄文土器では、上縁に特徴があると思いました。後日、徳之島で縄文土器を見たときに、何とも言えない共通したムードが感じられ,国家成立以前の地理的近縁関係というようなことを感じました。
博物館ではソテツの特別展をやっていました。
ソテツは蘇鉄と書かれるほど鉄分を好むこと、成長が遅く1メートルになるのに約40年もかかること、イチョウと同様、雄株と雌株があり、雄株は精子を放出する事などが展示してありました。その精子は日本人池野成一郎によって、ここの博物館の株で始めて発見されたことも知りました。
博物館を辞するときに、受付のお嬢さんに有り難うございましたとお礼を言うと「ソテツの苗の最後の一本がありますが、持って行かれませんか」と言ってくれました。
なにせ今日が旅の初日で、まだこれから何日もの旅があるのですから、普通ならば断ったのでしょう。でも、その苗株を見ると、一方の葉の先っぽが茶色になり、もういっぽうの葉も巻き加減で、いかにも元気がなさそうなのです。
なにか、貰われずに残されているのが可哀想になって、貰うことにしました。
それからというものは、水の遣り過ぎではないかと素人判断をし、泊まる宿ではベランダに出して風に当て、フェリーでは窓際に置き、レンタカーを止めて見物に行くときはカンカン照りの日に当ててやりました。
こうして一週間の旅を連れて帰り、いま家の庭の鉢に埋けてあります。死んだ様子でもありませんので、大事に育てて、今度の旅を思い出すヨスガにしようと思っています。
目下、幹は地表3センチほどですが、何センチになるまで、私が生きて見られることでしょうか。
船は、先生に引率された奄美大島の生徒たちがいたりして、大入り満員で、食堂を臨時の客室に使っていました。私はそんなことは気にしないで、アイ・マスクをして早くから寝てしまいました。
名瀬の港に入る直前から、甲板に出て操船を見ていました。自分が操船するつもりで見ていれば、フェリーの操船はなかなか難しくて、何回見ても見飽きません。
下船して、F君が出てくるのを長い間待っていました。
最後に膝をかばいながら出てきました。まだ6時前です。桟橋ビルの中で、ただ一軒だけ開いていたお土産店で「宝島へ行く船のことは、どこで聞けばいいですか」と尋ねました。
行ってみると、そこは港を管理している県庁の支所でした。
親切に教えていただけました。
「宝島に行くのは、としま丸だけです。明日の夕方入ってきて、明後日の朝出発します」「帰りの便は、いつあるのでしょうか」「何週間ぐらい滞在されますか」という会話でした。我々は5日後に那覇から名古屋へ帰る航空券を持っているのです。
私「今回のスケジュールでは、どうも無理です」、先方「いや、私たちも時間があったら、一度行きたいと思っているんですよ」。
というわけで、宝島計画は、最初の日の朝にもろくも潰えたのでした。
キョロキョロ見ると、9時に観光バスが出ることが分かりました。
「まあ、朝飯でも食って、宿を探し、それから観光バスに乗ろうや」と決めて、私はテレビを見ていました。
F君が「朝飯を食べさせてくれるところがあるって」と情報を入れてくれました。
それは埠頭の直ぐ近くの福祉会館とかいう所でした。我々が乗ってきたフェリーの荷役作業をする人たちを対象に、こんな早朝から営業していたのです。朝は洋食と和食の定食があります。彼は和食、私は洋食を注文しました。
例のソテツをテーブルに飾ると、結構良い感じなのです。
お客さんの洋食と和食の好みを見ていると、男性は和食、女性は洋食が多いようでした。
食堂のおばさんに、港の近くに泊めてくれるところはないですかと聞くと、ここだって空いていれば泊めてくれるよ、と言うのです。
二人とも、いざというときの用意に、寝袋を持ってきているぐらいなのですから、屋根さえあればどんなところでも、文句があろう訳はありません。もう一も二もなく、事務の人が出てくるのを待って、ここに泊めて貰うことにしました。
ところで私は、その日の泊まり場所が決まると、ほっとするタチなのです。
第1日はこうして決まりました。
ついでに、これから後の泊まりのことだけ、まとめて書いてしまいましょう。
第2日は徳之島の亀徳港に、9時に着きました。ここは、港に建物があって、中に観光案内所があったのです。
そこのお姉さんに、F君が足を労りながら出てくる前に、もう安い宿を紹介して貰っていました。ここ徳之島までは、旅の常識どおりといってよいでしょう。
宿はサウナを経営しているお店でした。サウナに入って地元の人同士の会話を聞いていましたが、その方言がちっとも分かりませんでした。
夕飯は近くの炉端焼き屋で適当に食べ、朝食は宿で食べさせてくれました。部屋は個室で、テレビもあり、そのチャンネルの中の島の観光案内で、観光シーズンだけ実物を見せている闘牛の物語を放映していたのは大変参考になりました。
さて、3日目は沖永良部島の和泊港に正午時近くに入港しました。
港の外では、たまたま飛び魚の群に出会い、飛び魚が空中を20メートルほども飛んでは歓迎してくれるのを見ていました。
港を見ると、コンクリートで出来た埠頭はあるのですが、乗客待合室というような建物は全く見当たらないのです。
しかし、働いている人たちの様子では、どうも、そこに着船しそうな雰囲気ではありました。
フェリーの操船は、昔の船とは違って、船を真横に動かせるスラスターを使うので、遊園地のボートを両手の櫂で操るように、大きな船を曳船なしでも自由に動かせるのです。
辺鄙な島では,喫水の深く採れるところに、岸壁だけ造って用を足しているようです。
従って、岸壁は街から離れたところにあり、普段は人っ子ひとりいないことになります。船会社は、ライトバンを乗り付け、後ろのドアを上げ、臨時の切符売り場を開業するのです。
ここもそのようで、船は陸に向かい真っ直ぐ突っ込んで止まり、次ぎに左後方にバックしながら接岸しました。
レンタカー会社が客引きに来ていましたが,F君が下船してくる前に、本当にあっという間に、引き上げて行ってしまいました。
ライトバンの臨時切符売り場で「観光地図をくれたり、宿を世話してくれるところはありませんか」と尋ねました。そうは言ったものの、見てのとおり、外に何もないのですから、「あなた世話してくれませんか」という、お願いなのでしたが、残念なことに、役場へ行くのがよろしかろうとの返事しか貰えませんでした。
F君が来るのを待って了解を取り、未練がましく残っていたタクシーに乗って、役場へ連れていってくれるように頼みました。
タクシーの運ちゃんに事情を話すと「そういうことは、役所は一番知らないんだ」と言いました。おまけにこの日は日曜日でしたから、宿直の方から観光地図は戴けましたが、ドアを開けていたばっかりに面倒な奴が飛び込んできたという感じで、ドアをしっかり閉められてしまいました。
しかし、なんと言ってもここは街のセンターですから、レンタカー屋に当たり、2軒目で軽自動車を借りることが出来ました。
もう前の日からF君はラーメンを食いたい、ラーメンを食いたいと、執念を燃やしていました。ですからドライブの最初の仕事はラーメン屋探しでした。
そして、ご想像のように、ラーメン屋で「安い宿はないかね」と聞くと、うちでもやってるんだけど、という成り行きになったのでした。
終日、観光したあと、その旅館の狭い階段を3階まで上がるのが、大荷物のF君には大変でした。
琉球石灰岩で出来た島の水道ですから、風呂桶、トイレなどには、石灰質の白い粉がついていて綺麗には見えませんでした。でも別に不潔なわけではありません。我々は二人相部屋でした。
宿の向かいが、この島の歓楽街なので、開店前の腹ごしらえをする、ホストのお兄さんたちと一緒に夕食を食べました。
・飛び魚を飛ばせフェリーの入港す
宿探しも、僻地に行くにつれ、だんだんとスリルが高まってきます。
与論島に近づくと、フェリーは市街地を行き過ぎ、岬を回りました。すると、本当に何もないところに埠頭だけがあったのです。
例のごとく船が埠頭に近づきました。とくと眺めると、ここにはタクシーさえ見当たらないのです。
ここの港は、島の住人だとか、宿を予約してあるとか、みんな埠頭から先、身の振り方の決まった人ばかりしかいないといった様子でした。
ボケボケしていると、人っ子一人いない埠頭に、われわれ二人だけが残されることになりそうです。正直のところ、人がいる間に、なんとかしなくてはと焦ってしまいました。
そこでF君は放っておいて、先頭集団に割り込んで上陸し、切符売りのお姉さまに事情を話しお願いしました。
すると彼女は、今、お客さんを送ってきた民宿の人がいるからと,発進しかかっている車を大声で呼び止めてくれました。
もう、高いとか安いとか、綺麗、汚いなんて問題ではありません。その場で泊めてくださるようお願いしてしまいました。本心、切符売りのお姉さまが、女神様に見えたのでした。
民宿のおじさんは、車が小さいからとか言って、ほかの人たちを乗せて行ってしまい、私たち二人だけ、ぽつんと待っていました。小雨も降り始め、暗い気持ちでした。再び戻ってきたおじさんの車に乗せた貰って、やっとほっとしました。
おまけに、翌日は、そのおじさんの車を2000円で貸して貰い、島内観光をしました。なにせ小さな島ですから、午前中に島を車で2周もしたのです。
最後の夜は、沖縄の那覇市で泊まりました。
今度の旅の「行き当たりばったりで」という言葉に協賛して、結構ここまで面白くやては来ました。しかし、お分かりの通り、結局、全部私が添乗員役をしてきたのです。
そこで、こう宣言したのでした。
「那覇の到着は、夕方だいぶ遅くなる。それから宿を探すのでは、しんどいし、条件も不利になる。ユースホステルを予約するよ」。まるで準備などしていませんでしたから、NTTの番号案内で調べて貰って予約しました。
那覇港で船を下りると、客引きがいました。我々は、もう予約してるからと、見向きもしないで通り過ぎました。
しかし、もう待合室に入ってから、まだ、しつこい客引きが、一人2000円でどうだと呼びかけました。
所持金の淋しくなっていた両人は、ちょっと心を動かされましたが、予約したユースホステルだって、朝飯付きで3550円なのですから、2000円の話は断りました。埠頭近くの飯屋に入り込み、オリオン生ビールで乾杯し、刺身定食を食べても、ひとり千円ちょっとでした。大都会とは、なんと有り難いものなのでしょうか。
さて、宿の話はここまでです。
話の続きは、奄美大島の観光バスから始めましょう。
60人乗りの大型バスに、お客は、我々のほかにはひとりだけの、3人でスタートしました。
もっとも、途中でバス会社の人が、お客を二人乗せて追いついて合流させましたから、5人ということになります。
この日は5月6日と連休明けですから、こんなにも不入りだったのでしょう。その後、バスは飛行機が到着する時間に、空港に寄りました。「30人ぐらい案内してこいよ」と運転手がガイドさんに声をかけました。私はほんとかと思って、横の席に散らかしていたパンフレットを片づけました。しばらく、待ちましたが、結果はゼロでした。
「今日は、お客さんが多いから、ちゃんと人数を数えなくちゃ」。運転手さんは、そうも言いました。私が、冗談だと思って笑うと「お客さん、これでも昨日よりも多いんだよ」と真顔で言いました。
会社は、観光シーズンを待ち焦がれているのでした。
確かに、我々の訪ねた時期は、オフシーズンの極ではありました。でも、そうでなくても、観光客の減少は絶望的といえる状況だそうです。
どの島でも地元の人たちは「外国との観光戦争に負けた」と正確に捉え、すっかり諦め切っている様子でした。
与論島にある九州電力の発電所の正門には、正式の表札と並べて「電力基地」という札も掛かっていました。
何年か前に、若い人を誘う遊び心とかで、与論共和国という観光ポスターが張ってあるのを見た覚えがあります。バブルは、かってここにも存在し、そして潰れたのでした。
レンタカーで回っていると、いかにも道標が整備されていないところもありましたけれども、「なにせ、お客さんに来て貰えないものだから」そう言われると返す言葉がありませんでした。
奄美大島は、佐渡ガ島に次いで、日本で2番目に大きな島です。人口は7万5千人、そのうち4万4千人が名瀬市に住んでいるのだそうです。
主な観光地は、島の北部にあるとのことで、観光バスは島の北部だけで9時から17時まで、じっくり見せてくれます。
可愛いガイドさんで、参考書片手に説明してくれました。
ここの発電所で、日本で始めてヂィーゼルエンジンに、安いC重油を使える技術を開発したのだと教えてくれました。そのC重油の説明をしているうちに、家庭の天ぷら油で、2〜3回使ったのがA重油、何回も使ってゴミが入り黒くなったのがC重油と言いました。彼女の教科書では、この話を多分例え話として使っているのでしょう。
でも、説明しているうちに、天ぷら油を燃料にしていることになってしまい、面白いと思いました。まさかガイドさんも、往年の火力発電技術者が二人も乗ってるとは夢にも思わなかったことでしょう。それにつけても、自分の今の境遇がとても幸せに思われるのでした。楽しい思い出としてとっておきます。
西郷隆盛が流された所へ案内されました。彼は30才前半に2度、通算6年もこの辺りに流されていたのです。
1回目は、自分の藩には認められながら、中央の幕府の意向をおもんばかっての処置でしたが、2度目は本当に藩主の不興を蒙ったのでした。
今となっては藩主島津久光と西郷隆盛の評価はどうなのでしょうか。
西郷さんはここで結婚し、ここで生まれた息子さんは京都市長を2期勤め、娘さんは大山元帥の息子に嫁行っています。ここでの奥さんは入籍はしなかったそうです。
今だったら、若いときに6年もブランクが生じたら、先はないと言っても良いのではないでしょうか。
波瀾万丈の時代だったのですね。
大島紬の里へも行きました。こんな所は、自分からは絶対に行かない場所ですから、観光バスが連れていってくれたのは有り難いことでした。
大体、紬(つむぎ)と言う言葉は聞いたことがあっても、その定義を知らなかったのです。あまりの無学が恥ずかしくて、帰ってから辞書で引いてみました。「紬糸で織った絹布」とありました。私だって絹の他に木綿、羊毛,化繊があるのは知っています。でも、紬じゃない糸にはどんなのがあるかになると、知識がないのです。
試しに、家内に「紬ってなんだ」と聞いてみました。「100万円とか、すごく高いのよ」と言います。「高けりゃ紬か」、そういうことを言う悪い旦那なのです。「高くて、丈夫なんだけど、絶対に会には着てゆけないものよ。労働着だったんじゃない」と一生懸命教えてくれるのです。
なぜ特別の土から鉄分を染み込ませなくてはならないのか、なんで椎の木からタンニンを煮出さなくてはならないのか、どうしてあんなに何回も何回も手間をかけて染め上げなくてはならないのか、美的感覚が欠除し、ブランド非崇拝の私には、そういうことが理解できないのです。
ただ、ハブの胴の模様を写したという説明には納得しました。また、子供の頃、母が大事に着ていたことを,おぼろげながら懐かしく思い出したのでした。
その後も、紬がどうも気になるので、図書館に行き百科事典で引いてみました。紬糸でない糸には、玉糸と言うのがあるようです。そういえば、繭玉をほぐして、長いままの糸を何本か合わせるのをテレビで見たことがありました。化繊でも玉糸は出来そうです。
紬の風合いは、木綿のようで、ごつごつして、艶がないとあります。
そして、玉糸を使っても、そんな風合いを持たせた布を紬と呼ぶこともある、とも書いてあります。また、紬糸を使わず風合いも紬とは違うが、昔、紬の名産地だった土地で織られるので紬と呼ぶのもあると書かれていました。
家内の定義は、結構いい線を行っていたことが分かりました。
奄美大島観光の最後はハブセンターでした。マングースとの決闘とか書いてありました。まあ料金に入っているのだから,ついて行くか程度の軽い気持ちでした。
ところが展示してある資料を見ている中に、引き込まれてしまいました。昨年12月、沖縄本島の最高峰である与那覇岳に登ったとき、地元の役場や宿に人から、今は寒いからハブは出てこないよと言われました。名古屋に帰ってから、ハブはどうだったねと冷やかしで聞かれるたびに、受け売りの話をしていたのです。
ところが、このハブセンターは、非常にまじめに生データを集計し、展示していたのです。私は先の沖縄登山の下地があったので、ここに展示してあるいろいろのデータを、それこそむさぼるように見て歩きました。
大雑把にいえば、今でも年間200人ぐらいが噛まれ、2人ばかりが亡くなっているということでしょうか。12月、1月の被害も、全くのゼロではありません。
被害者の写真もショッキングでした。ハブの牙から出る毒は、タンパク質を溶かす毒なので、ふくらはぎなどが溶けて窪んでしまうのです。
そのうちに決闘のショウが始まりました。弁士はなかなか名調子なのです。
なかば文語調の美辞麗句を連ね、立て板に水なのです。
しかも、話の筋がちゃんと流れ、かつ科学的な内容でした。
マングースとの決闘は、一瞬のことで、マングースはハブの脳天に歯を立てます。ハブは毒という強力武器に頼っていて、ほかの蛇のように、相手に体を巻き付け絞め殺すことはしないのだそうです。だから、ごろごろ、のたうち回っているだけです。そのうちに、豚肉でマングースをおびき寄せ、仕切を下ろして終りでした。
そのあとのハブは、大してダメージを受けたようには、見えませんでしたが,脳を破壊されていて「明日はハンドバッグ」だそうです。
おみやげ店では、ハブ酒など買わずに、「ハブ捕り物語」という本を買いました。読み始めたら、面白くて、旅行中に最後まで読んでしまいました。
読んで気がついたのですが、この本の著者は、マングースの決闘の時の弁士さんなのでした。さすが、ただ者ではないはずです。
今度は、そのハブの本からの受け売りです。
九州から沖縄県の南端まで、ハブのいる島と、いない島とがあります。
奄美大島から100キロほど北、小宝島と悪石島とのあいだに渡瀬線という生物分布上重要な線があります。
アジア大陸の縁にあたるこの列島は、過去、地形の変動で上下してきました。約3000万年前、900メートルも陸地が隆起し、大陸と地続きになっていた時も、この間の海峡だけは非常に深くて、アジア大陸から北上してきた動物はこの海峡を越えられなかったのです。
ハブもここより北にはいません。
また、その後一番沈み込んだときには、現在の海抜約350メートルのところが海面だったのです。それは、山の標高350メートル付近に、珊瑚礁があるので証明されます。これより低い山しかない島では、ハブたちは溺れ死んだのでした。
高い山のある島では、頂上付近に生き残ったハブが、島が再び盛り上がってきたときに、散らばっていったのです。
こうして奄美大島、徳之島、沖縄本島、石垣島、西表島などにはハブがいて、喜界島、沖永良部島,宮古島など平らな島にはいないのです。
戦時中、燃料が不足し奄美大島から隣の喜界島に薪を送ったことがあったそうです。そのときハブが3匹潜んでいました。二匹はたたき殺され、一匹は気温の関係で死んだという話です。
なにせハブを見たら殺せ、というのが島の掟だそうですが、島の人の気持ちは分かりますね。
いい加減に、トキのように、金網の中で、絶滅から保護するようになればいいですね。
ハブは有名ではありますが,島民でも実際に出会った経験がある人は、僅か1パーセントだと言います。だから、いつか、そんな理想も夢ではなくなるかもしれません。
ハブは、何よりも、直射日光が苦手で、気温30度で直射日光に晒されると、たった10分で死んでしまうそうです。何せ、外気温度で自分の体温が変わる爬虫類ですから、なにごとも気温次第で、24度から26度の間が一番活発だということです。
自分の体温より高いものに飛びかかるので、気温が人間の体温より高くなると自分の体温も高くなってしまって、飛びかからなかったといいます。
19時〜22時と4時〜6時にもっとも活動的になるのですが、これは餌になるネズミの活動時間と一致しています。
この夜の宿のことです。一寝入りした頃、がらがらと窓を開けて、部屋の中でF君が煙草を吸い始めました。やはり私に遠慮して、窓は開けてくれているのです。でも、煙草を吸う人は、吸わない人にとって煙がどんなに嫌なのかは理解できないものなのです。
F君が吸い終わるまで、私はベランダに出ていました。
まだ、車が盛んに走っています。「いま、何時?」と聞くと「3時」との返事でした。
なんという変な町だろうと思いました。でも、布団に帰り自分で時計を見たら、まだ日付が変わって30分しか経っていませんでした。
その後眠っていると、また、がらがらと、煙草の匂いです。また、私はベランダです。
今度は、道路はすっかり静かになっていました。時計を見ると本当の3時でした。
さっきのは、奄美銀座で飲んで歌って午前様になったお兄さんたちの、ご帰館だったのでしょう。
次は徳之島になります。
借りた車は、軽乗用車ながらAT車で、オフロード車のような格好いい車でした。
F君は、しきりにラーメンを食いたいというのです。まだ10時でした。朝飯は船の食堂のサンドイッチで済ませてきたのですが。いずれにせよ、レンタカーの最初の仕事はラーメン屋探しになりました。
いざとなると、なかなか叶わぬものです。やっと喫茶店を見つけ入りました。私はホットコーヒーを啜り、彼はスパゲッティをつついていました。
歴史民族資料館を見てから、ギネスブックにも載った、世界長生き記録保持者、泉重千代さんの生家に行きました。
東シナ海から緩い傾斜を登っていったところです。本当にのんびりした雰囲気の田舎でした。道路に立っていた標識が妙に曲がっていたため、要らない回り道をさせられましたが、そんなことを気にするような人が住む雰囲気ではありませんでした。
重千代さんは、生まれたときには、まだ苗字というものがなくて、途中で泉性を名乗ったと書いてありました。苗字帯刀を許されるなど言って、平民には苗字がないという古いしきたりがあったことは承知していましたが、その具体的な人が同世代に生きていたのは、一寸した感慨でした。
重千代さんの銅像に並んで、お互い、写真を撮り合いました。
次に、犬田布岬にある戦艦大和の鎮魂碑を訪ねました。
駐車場の横にある喫茶店までも「やまと」という名前でした。
初夏の日差しが強い、風のない静かな日でした。
ひとりで展望台から海を見下ろしました。西に広がるはるかな紺色の大海原の果ては、おぼろに霞んでいました。
草の斜面を降り、鎮魂碑にぬかずきました。
1945年、沖縄に米軍が上陸した1週間後の4月7日、日本海軍に残された最後の艦隊が、この沖を沖縄に向かって航行していたのでした。
戦艦大和には、既に付き従う空母もなく、日本海軍の誇りとしていた重巡洋艦群もなく、同行するのは軽巡洋艦矢矧、駆逐艦8隻だけという裸同然の艦隊でした。また南方からの燃料油の輸送路も絶たれ、沖縄にたどり着けるだけの片道燃料しか積んで
いなかったのです。
この艦隊は、前夜、九州の沖で、アメリカの潜水艦に、もう見つかっていたのです。
当日米軍は、朝から長距離偵察機48機を飛ばせ探していました。8時22分にはもう見つかってしまったのでした。
大和のレーダーが敵を発見したのは10時でした。
そして戦艦大和が最初の攻撃を受けたのは12時20分でした。次々と襲いかかるアメリカ軍飛行機の猛烈な攻撃にさらされ、十数本の魚雷、多数の爆弾を受け、14時23分、ついに弾薬庫が爆発し、あっけなく海面から姿を消したのでした。
その爆発の煙のキノコ雲は、6000メートルの高さにも達し、陸上から望見されたのでした。ある資料によれば大和の乗組員の戦死者は2498名、海に投げ出された生存者は280名と言われます。
駆逐艦2隻だけが辛うじて沈没は免れたものの、この午後、日本海軍の水上部隊は事実上壊滅してしまったのです。
制空権のない戦が、いかに惨めなものか、まさにやりたい放題やられたと表現してよいでしょう。なにせ完全に受け身なのです。
対空火器で撃ち返すことはできますが、速度と自由度が違いますから、攻める側は雲に隠れながら、不意に姿を見せては魚雷、爆弾を投下したのでした。参加した386機の中、10機を失っただけといえば、どんなに一方的な戦だったか想像がつきます。
始めから、牌を相手に見せたままで、麻雀をやるようなものです。こんな情勢のもとで戦わなければならなかったのですから、みんなは、どんなに悔しかったことでしょう。
碇をあしらった巨大な鎮魂碑のみ前で、碑に刻まれた大和はじめ艦艇乗組員3721柱の御霊に、寧らかに眠り給えと祈りました。
これが海かしらと思うほど、今日の東シナ海は静もっていました。
・わたずみに風死す大和鎮魂碑
現今の経済戦争を50年後に回顧したとき、大和の最後のように惨めでなければ良いのですが。
F君はこの間、レストラン「やまと」に入っていたようでした。
私が例の日光浴させていたソテツを車に取り込み、車を動かしていると「ラーメンでも食べませんか」と彼がノソノソ出てきました。
私は「次へ行こうよ」とラーメンには応じませんでした。というのは、朝、宿の人から次の観光ポイントで食べればいいですよと聞いていたからです。ところが、うまく行かないもので、次の犬の門蓋がなかなか見つからなかったのです。そして最後にはなんとか行き着いたものの、食事する適当なところはとうとう見つからなかったのでした。
こんなふうに、F君は妙に勘のいいところがあるのです。彼には済まないことをしてしまいました。
仕方なしに、だいぶ遅れて、空港のレストランで、カレーライスを食べました。
それから白い花崗岩が紺碧の海に落ち込んでいる「むしろ瀬」や、200年以上も経ったソテツ数百本が造っている見事な「ソテツのトンネル」など名所を見て回りました。
横綱朝潮の生家へも行きました。あのすごく大きな体で、一寸気の弱い朝潮です。20年近く前、朝潮関がもう親方になって名古屋場所で来ていた頃に、さるクラブで2度ほど会ったことを思い出していました。ここ徳之島の地元では、もちろん、英雄だったに違いありません。彼は後進のために土俵を造っていました。
・五月晴海に落込む白き崖
宿のサウナで爽快な気分になってから、町中にある風来坊という炉端焼きへ行きました。周りが海ばっかりのこんな島なのに、全然、魚料理というムードではありませんでした。観光客目当ての高級旅館ならば、こんなことはないでしょうが。
大体この辺りの島では、町を歩いていても、魚屋が目に付かないのです。魚は買うものじゃなくて、自分で釣ってくるものになっていると言っては、言い過ぎでしょうが。
それで、肉ジャガなどでビールを飲んでいました。
ご機嫌になったF君は「お酒、辛口がいい」など言い始めました。
お酒と聞いて、お店の人は信じられない顔をしました。言ってみれば、寿司屋でカレーライスをくれと言われたような顔でした。しばらくして、どこからか剣菱らしい一升瓶を持ってきました。
最後にお勘定しましたら、一皿400円とか足し算したのより、大分ノシていました。何せここでは、飲まれているのはみんな焼酎で、お酒は、栓を抜いたものの、当分飲む人がいないのかなと思いました。
次は沖永良部島です。
到着したのが、ほぼ正午でした。なにせ暑いと思いました。
まずはF君が渇望するラーメン屋に入り、豚骨ラーメンを食べました。喉が乾いて仕方ないので、塩辛いラーメンを、水をがぶがぶ飲みながら流し込んだのでした。
運転をしないF君が飲むビールが、なんとも美味そうに見えました。
ラーメンを食べながら、スケジュールに話題が行きました。
最初の日の朝、宝島へ行くのを断念したときに、もう1島1泊ルールで決まったと私は思っていたのですが、彼は腹に落ちていなかったとみえます。
与論島に船が寄ることを、彼は知らなかったようでした。それだと1日余ることになります。
ところで、今回の旅行を通じて、ほかの日は名古屋と比べて、あんまり暑いとは思いませんでした。
しかし、この日の昼だけは、とても暑かったのです。
昔、勤めていた頃、夏に沖縄から飛行機で着いたばかりの人から「名古屋は暑いですね」と言われたことが、何回もありました。
その一方、那覇から冬に出張してくるときには,事務所で唯一人外套というものを持っている所長から、みんなで代わる代わるに借りては出て来るという話も聞きました。数字で見てみましょう。
8月は、名古屋 最高32,2度 最低23,5度
那覇 30,7度 25,8度
1月は、名古屋 最高 8,4度 最低ー0,2度
那覇 18,6度 13,6度
一言で言えば、沖縄は「寒くない」ということなのです。
和泊港の郊外にある冷房のギンギンに効いた大きなスーパーに入り、アイスモナカを囓り、体の上部を冷やして相談し、スケジュールは直ぐにまとまりました。
二人とも奄美の海で潜るつもりで、海水パンツを持ってきているのです。ましてや、F君はシュノーケリングの3点セットを、はるばる担いで持って来ているのです。
この日こそというわけで,沖泊という海水浴場へ行き泳ぎました。珊瑚礁の切れ目で、泳いだり潜ったりして、大きな魚や、美しい魚を見ることが出来ました。
ここもやはり人は少なく,釣師が2人と、我々が帰る頃に若い男女が4人来ただけでした。
このほかにも大きな鍾乳洞や、日本一のガジュマルの木や、およそ島中の名所という
名所は全部見て廻りました。
F君は絵描きですから、一カ所にゆっくりして絵をものにしたい気持ちがあったことでしょう。その点では、レンタカーで飛び回ってしまって気の毒でした。でも、始めから欲張った計画でしたし、今回はまあ目録のようなもので、気に入った所へ今度はゆっくり来て、腰を据えて絵にすればいいと思います。
与論島は全島珊瑚礁で出来た平らな島です。隆起する途中で、いったん東北方向に傾いたため、崖が出来ていて、そこはかってお城にもなり、いまは神社となり、展望台にもなっています。
着いた日に、この島の、100メートルほどの長さがある奄美銀座をぶらつきました。でも銀座から一寸はずれると、波トタンで壁を囲ってあるバラック建てのパチンコ屋があって、これは珍品だと思いました。
この与論島は、奄美諸島の中でも、一番海水浴場に恵まれているのだそうです。でも、
私たちがいた日は凄い雨風で、別の意味で印象が深かったのです。
5月10日、この日、気象庁は沖縄、奄美地方に、もう早々と梅雨入りを宣言したのでした。
・奄美にて早き梅雨入を見て帰る
最後の日、那覇の宿から空港に出るのに、時間はかかりますが窓から観光できる、賑やかな国際通りを通るバスを選びました。
折角そんな配慮したのに、F君は終始ぐーぐー寝たきりでした。
名古屋空港で、私はいつものようにさっと出ました。でも、旅の最後ですから、F君にさよならを言おうと、外でしばらく待っていました。
そのうち彼が遠くに見えてきました。その後、悠揚迫らず電話をかけ、そのあとゆっくり出てきました。私とは20分の差がありました。
これで旅は終わったのですが、まだ一寸書き足らないような気がしています。F君のことです。
今までの文中、随所でF君のことに触れています。
確かにそれは、今回の旅の最大のトピックスだったかも知れません。
今度の旅の二人は、性格も、歩く速さも全く違うのですから、終始一緒に行動しようとすると、摩擦が大きくて、とても成立し得ない組み合わせでした。
だから適当に別行動をとり、うまく過ごしたと思っています。
世の中の人が、F君をどう見ていたかも、私には興味深かったので、それを最後に列べてみます。
徳之島の宿のご主人は、私よりもF君に親しみを持っていました。
私は、なにか取っつき難いところがあるので、F君の方が話しやすいのだろうと思いました。
宿のご主人は「また、何時かゆっくりダイビングに来て下さい」と,F君の好意を得ようと努めていました。
沖永良部島のラーメン屋の奥さんもF君を買っていました。
私は運転手でしたし、何かと、こそこそ秘書のような事務的な事を言っているのです。
ところがF君は、髭など生やして、菅笠をかぶり、世間のことなど気にしないでドーンと座っているのです。そして、一人だけ平然とビールなど楽しんでいるのです。
考えてみれば、これは凡人とは、ひと味違った芸術家の風貌ではありませんか。奇行で有名な大芸術家の噂など聞いた覚えがあります。
F君だって、絵を描きます。ひょっとすればひょっとするなど言っては失礼なのかも知れません。私は、美的鑑賞眼がありません、自信のない憶測をお詫びしておきます。
与論島から那覇までの船の中で、F君は西洋人のおじさんとずっと話していました。お互い、有益そうでした。私は外人との話は苦手なので、寄りつかないようにしていましたが。
那覇のユースで、朝、彼の楽しそうな笑い声が聞こえてきました。
ロビーで、若い女の子たちと楽しそうに話していたのです。思い切って一緒に旅に出てきて、彼にも楽しい思いをして貰って良かったなと思いました。
大昔、私が富山の高等学校に行っていた頃、17才ぐらいだったでしょう、金沢へ野球の応援に行ったことがありました。そこの電車の中で、女性と話しているのを友達に見られたことがあったのです。後で、友達から何を話していたんだと尋ねられ「金沢の市街電車は公営ですか、私営ですか」と聞いていたのだと答えて、大笑いされたことがあります。まったく、重い性格で困ったものです。
今度の旅のことではありませんが、もう一人、話題に登場してもらいたいと思っている人があるのです。
私は地下鉄に乗るときには、到着した時、エスカレーターに直ぐ行けるドア付近にいます。そして、電車のドアが開くやいなや、素早くエスカレーターに駆けつけ、歩いて登ります。面白いもので、同じような習性の人が必ず何人かいるものです。そのグループに入っていれば、みんな早く行けます。
ところが、無関心グループは、歩き方自体がゆっくりしているのです。だから、いったん遅れると、もう、ノロい人たちに取り囲まれて、どうにも動きがとれなくなってしまいます。そして、エスカレーターに乗っても、10人目ぐらいになりますと、他人は関係ないというような人が必ず現れて通路を塞ぐので、もう駆け上がることもできません。
本人として、私自身の性格を好意的に評すれば、まづ、旅行の目的とは早く、安く、快適に移動することにあるなど理念を立て、各要素のウエイトを考えたりしながら、先の先まで計画的に段取りをする性格だといえましょう。
ところが、こういう私の性格が大嫌いな人がいるのです。
それで、どこかへ一緒に行くときには、必ず私を矯正しようとして、わざわざ余分に歩いても、絶対に私から離れた席に座ります。そして遠いところから降り、ゆっくり
歩き、エスカレーターではのんびりと立ったまま上がって来て、私を長々と待たせてくれるのです。
これこそ誰あろう、当家の山の神さまなのです。
奄美を旅していて、妻は長年、F君のような男と結婚できなかったことを悔やんでいたのだなと、心から思ったことでした。