日付:1998/2/5
◯遠い国
最初に,ボリビアが日本からどんなに遠い国かを,感じて欲しいのです。
南米の食べ物といえばまず牛肉です。そのわらじのようなビーフステーキに閉口したわたしたちは,旅の最後の夜には何か口に通りやすいものを食べようじゃないかいうことになりました。
外国でこういう話が出ると,いまでは多くの街に日本料理があるとはいうものの,やはり中華料理が手近かということになります。ホテルに紹介してもらったその中華料理の店は,首都ラパスの中でも各国の大使館がある一角の,いかにも高級そうな造りでした。
座ってから,この店では英語が通じないことがわかりました。それも一興というわけでメニューを指でつついて注文をしたのでした。
お酒は招興酒にしょうと一決しました。しばらく待っていると,「これですか」というような仕ぐさで,透明なお酒が入った瓶を持って来ました。招興酒とメニューには,ちゃんと書いてはあるのですが,久しく注文する人がないらしく,店の人はどれが招興酒か知らないのでした。自分で見たほうが早いと,I氏がお酒の棚へ出向き招興酒を頼んで来ました。
食べ物も注文どおりに出て来たわけではありません。肉饅頭が意外に幾皿も来ましたし,逆に頼んだのに来ないのもありました。そのうちに台所の様子が静かになったので,ともかくこれで終わりだろうと判断し,お勘定を頼みました。鱈腹食べた食事が、一人前たったの1500円なのに,一瓶を4人で飲んだ招興酒に1人あたり2000円も請求されたのにはびっくりしました。1ドル360円の昔に,銀座のクラブでナポレオンを飲んだようなものなのでしょうか。どうですか,こう聞くとボリビアは遠い国のような気がしませんか。
ガイドを勤めてくれたカルロス君に,東京の地下鉄サリン事件を知っているかどうかを尋ねてみました。彼は知りませんでした。そして,オクラホマの爆発事件なら知っていると答えました。やっぱり日本からは遠い国ですね。
オーム教騒ぎで厳戒の成田を出てからボリビアの首都ラパスまで,空港での乗り継ぎの時間も入れて飛行機で31時間もかかりました。10日間の旅の復路にロスアンゼルスに着いたときは,もう日本のどこかに帰って来たような気がしたぐらいです。
ラパスの空港は標高4000�です。サンパウロからの飛行機B737の機内圧力は,最初からやや低めの2500m相当でしたが,着陸態勢に入ると,普通とは逆に機内の気圧を下げてゆき,着陸時に現地とおなじ4000�の気圧にしました。空気は平地の約60%の薄さです。
首都ラパスの街はすり鉢状で,底の空気が濃いところが都心,高いところに行くにしたがって粗末な住宅がならんでいました。
●連休を若き巡査が検問す
◯対足庶点
二枚の板を横たえ,一人の人はその上に立ちます。もう一人は下の板に逆立ちの状態で立ちます。勿論このままでは落っこちてしまいますから,仮に足を板に縛り付けておくことにしましょう。そしてこの二枚の板をどんどん離してゆきます。1万2千7百キロ離したら間に地球を挟みます。そうすれば二人とも地球の引力に足を引っ張られ,自由に歩くことができます。
言ってみれば,日本人とボリビア人は,今この瞬間もそうして生活しているのです。もしも地球が透明だったら,自分の足の下に相手の足の裏が見えるはずなのです。もう少し正確にいえば,日本の真裏はブラジル沖の大西洋ですし,ボリビアの真裏はフィリピンとベトナムの間に当たります。
地球が丸い球であることとか,ニュートンの万有引力などは,小学校で習い,だれも試験の答案にはちゃんと正しい答えを書いたと思います。
しかし,いまの地球の裏表の話について,どれほどの人が実感として分かっているのかしらと思えるのです。飛行機で長い時間,横の方へ飛んで行ったら南米だったというのが普通の感覚でしょう。
理論と実感のギャップは,常人には所詮埋められないものがあります。理論のわかる人はそれなりの尊敬を受けるべきでしょう。
いよいよ戦後50年,民主主義のあるべき姿を冷静に考えることが必要ではないでしょうか。主人である民衆には責任と自制,理性と謙虚さが求められるのです。
自分の希望を言うのは権利です。でも,いつも自分自身がどのような存在なのかを知っておかなくてはなりません。
世間には,自分は理数学が不得意だったから何学科に入ったのだと,さも自慢げに言う人がいます。また,震度とマグニチュードとを取り違えることを当然のように主張する厚かましい人が居て,かえって専門の学者がそのことについて謝罪するなどいうのはちょっとどうかなと思うのです。
●地は球よ春の裏には秋があり
◯ボリビア
面積は日本の約3倍,人口は僅か760万人です。その首都ラパスは南緯16度で,赤道からの距離はタイのバンコクとほぼ同じの熱帯なのです。しかし標高が3600�と高いので,5月の平均気温が8度と名古屋よりも寒いのです。もっとも同じボリビア国内でも低地のアマゾン地方はジャングルで暑いうえ,雨期には水浸しになり,人類がコントロールするのはまだ難しいようです。
おもな産業は錫,アンチモン,タングステン,銀,鉛など鉱物資源の採掘です。そのためどうしても鉱山の利権をめぐって外国資本との結び付きが生まれ,かっては国内の対立が続き,クーデターが繰り返され政情不安定で,1985年には年間インフレ率がなんと23400にも跳ね上がったのだそうです。ただし,いまはどうにか安定しています。まだ町中で兵隊さんが小銃を持って警戒しています。
例のヒラヒラのスカートに山高帽のインディヘナのおばさんたちが,観光用ではなく,生活の場で元気いっぱい歩き回っています。日本の和服よりはよほど多く目に触れます。日本人はちょんまげにこれほどまでは固執しなかったと思います。あのおばさんたちも,ある時期に西洋人の衣装を取り入れたのですが,少なくともいまは頑固なまでに習慣を変えようとはしていないようです。
人々は写真を撮られるのを極端に嫌います。物売りの商品を撮ろうとして,激しく拒否されたこともありました。過去の外国旅行の経験で,アメリカではVサインをしてカメラに収まってくれる若者がいました。アフリカのマサイ族は写真を撮られると魂を吸い取られると信じて嫌うと聞きましたが,実際は結構撮らせてくれました。ネパールでは時によっては,写真どうぞ,その代わりにお金をくれという感じがしたこともありました。
ラパスで市場を冷やかし,雑踏の中を歩いたことがありました。昔の日本のように,ガイジン,ガイジンと珍しがって子供たちがぞろぞろついてくるような雰囲気は全くありませんでした。彼らはわれわれを見ていないように装っていました。まるで神様に対して「いや外国人がいたことなど知りませんでしたよ」と言い訳をしよう,まるでそんなふうにさえ見えました。
湖水を撮ろうとしたカメラの視野に,電線が入って邪魔になるので,われわれの仲間が畑の小道に入ったときのことです。ジャガイモの収穫をしていたボリビア人の家族が,薯を投げてくれました。「どんな薯だかひとつ見てみないかね」そんな雰囲気で,仲間は笑い声さえ立てました。ところがガイドが慌てて飛んできて,入って欲しくないと言っているのだと言いました。威嚇の投石だったのです。そういえば,いろいろの所に理解に苦しむほどしつこく,境界の塀を,例の日干し煉瓦で作っていました。
この百年ほどの間にボリビアは,周りのチリやブラジル,パラグアイに戦争で領土を奪われたことが影響しているのかもしれません。
管見であることは承知の上ですが,人類の歴史の上では,僅か数万年前にアジア大陸の東部で,われわれ日本人は南へ彼らは東へと別れた,同じモンゴリアンでありながらが,今となってはほかの外国人よりも,もっと心理的に離れたポジションにいる人達のように思われました。
●恐ろしきまで女等は日焼けもし
◯わがアミーゴたち
ゴールデンウィークというのに,われわれのツアーのお客はたったの5人でした。よくよくの変わり者が揃ったねと,お互いに自嘲し合いました。お客は東京から3人,京都,名古屋から各1人,男3人,女性2人です。それにツアーリーダーとして6700�登頂の実績を持つ30代の山男が日本から同行し,さらに現地ではガイド1人にドライバーと合計8名での旅でした。私ともうひとりが65才,あとは50才前後,現地ガイドのカルロス君は地元大学の旅行学科卒で27才,大変な物知りで英語も上手でした。
過去に台湾の玉山,キナバル,キリマンジァロ,ヒマラヤの経験ありと,それなりのつもりの私も,このグループでは全然かたなしでした。なにせカナダのホテルの話になると「うん,そこなら僕も泊まったよ」,ニュジーランドの土産物店には「あそこは碌な物ないわね」といった調子でした。ただただお話を聞かせて頂きました。
飛行機はヴァリグ・ブラジル航空の747・300型でした。ずっと満席で,ロスアンジェルスまでは機長がポルトガル語と英語で,あとはスチュワーデスたちが交代で日本語,韓国語,中国語と忙しくアナウンスしてくれました。民族の坩堝です。
どこの国民がどうだとはいいませんが,日本からの沢山の団体さんたちのマナーが,誉められるわけはありません。なにせ我が国では公衆道徳という言葉自体が死語同様にになってしまっているのですから。
サンパウロで若いブラジルの娘さんが,老婆にさっと席を譲ったが爽やかでした。
ブラジルでは今でも躾が厳しいのだそうです。
●GW日本の弱者ら天駆ける
◯アンデス山脈
海底が動いてきて,その圧力で地面が押しつけられ,盛り上がり,断層を造り,地震を起こすプレートテクトニクス理論は,阪神大震災ですっかり日本人の常識になってしまいました。
同じことが南米でも起こっていて,その盛り上がりがアンデス山脈なのです。その長さは南北5000キロはあるでしょう。
最高峰はアルゼンチンのアコンカグア6958mです。今回訪ねたボリビアでは,遠い昔,海底に堆積した砂岩,泥岩が主体ですが,大陸北部のエクアドルでは火山が主体で,活火山として世界で一番高いコトパクシ山(5897m)があります。そこは日本の八ヶ岳地区に対応すると言えるでしょう。
ボリビアは多分大きな固い地盤なのでしょう,全体が高く押し上げられ高原となり,東のアマゾン低地に接する地域を主体に6000�を越す山が12座もあります。
今回登ったボリビア・アンデス山脈は高峰へのアプローチが容易なのが特徴です。
朝,一泊100ドルもする首都の超高級ホテルでバイキングを食べ,ゆっくり8時半に車で出発して5400mの山に登り,その夜にはまたラパスのレストランでディナーをということができるのです。
こんなことができるための条件は,次の3つだろうと思います。
まず第一は,土地全体の標高が高いことです。1000m登ればもう5000m頂なのです。
2番目は,鉱業が盛んだったことと水力発電が発達していることです。そのために山の奥まで道が造られているのです。
そして,3番目には気温が低く,かつ雨が少なく,過酷な不毛の土地であるため,一度道を造れば,何年経っても手入れせずとも使うことができるためなのです。
本来,われわれのような気まぐれな山屋のための車道であるわけはありませんが,結果として使うことができるというわけです。
このようにアプローチが楽なので,問題は高山病がクリアできるかどうかにかかってきます。
私達が使った旅行社では,今度のように3800m以上で泊まる場合,出発前に東京医科大学エベレスト高山研究所での検診を要求し,また何が起こっても文句を言いませんという誓書の提出を求めます。
旅のスケジュールも,いったん標高の高い所で行動しては,また低い所へ戻ることを繰り返すように組まれています。一番低い所はソラタという水と木のある2600mの町でした。
旅のあいだずっと,朝と夕方に血液の中の酸素濃度を計り,綿密な管理のもとの登山でした。これは今回初めての経験でした。
6年前にキリマンジァロに登った時は,事前に名古屋市,丸の内にある減圧室で6000m級の空気の中でトレーニングを受けたり,富士山に登ったり,慎重に薄い空気への順化をはかりました。しかし今度はなんとなく,何もしないままに出発の日がきてしまいました。二度目というものは大分気分が違うものです。もっとも高度順化は3か月しか持続しないという話を後で聞きましたが。
平地では96%あった血中酸素濃度は,旅の始め標高3620mのラパスに着き一晩寝た後は82%まで下がりました。その後,登り下りのトレーニングを繰り返し,4日後に再びラパスに着いた時は88%でした。そんな状態で最終目標のチャカルタヤ峰5395mに挑んだわけです。
私も4000m辺りの生活で,息切れは何度も感じました。一行の中には軽い食欲不振や頭痛を感じた人もいました。しかしどんな山でも,しょせん山登りというものは苦しいものですし,全員登頂に成功しました。
●アンデスの星よとリンドウ瞬けり
◯チチカカ湖
面積が琵琶湖の12倍もあるといえば大きく聞こえるのですが,世界の湖水の順位では上位はおろか,北米のスペリオル湖の10分の1でしかありません。琵琶湖が小さいということでしょうか。
ただその湖面が3812mという高さにあるのが唱い文句です。気温は零下6度まで下がるけれども,湖面は凍らないとのことです。
「コンチキ号の冒険」を耳にした人もいらっしゃると思います。太平洋に浮かぶポリネシア諸島へは,古代,南米から南赤道海流に乗って渡ったのだと言うことを,現代において原始的な船を仕立てて実証しようとした冒険です。このほかにラー号,ラー2世号など同種の試みがなされました。そのラー号を造った小父さんが,このチチカカ湖のほとりでお土産店を営んでいるのでした。
ラー号は葦を結んで造ってあります。このあたりは不毛の地で,ほとんど木というものがありません。葦細工は得意なわけです。まるで標本のようにぽつんと立っている木は,松またはユーカリです。いずれも近年外国から導入移植したものだそうです。特別高圧の送電線路の電柱には,そのなけなしの木を使っています。可哀そうなほど短く細く,くねくねしています。
そういえば,チチカカ湖の鱒は日本から連れてきたのだそうです。赤い身でしたから,多分姫鱒なのでしょう。美味でした。
●高原の大湖に五月風渡る
◯チュチュ峠から展望コルへ
最初の高地での行動です。前夜は,標高が低くて空気が濃く、水と緑があってこのあたりの天国と呼ばれるソラタの町のホテルで泊まりました。タイルでできた粗末なシャワー室のシャワーは,ノズルに電熱器がついていました。ザーザー出すとまるで冷水,あまり絞るとスイッチが切れるというわけで,半分絞りの状態でやっと冷たくない程度の水が使えました。
登山の日に錫,鉛の鉱山のために作られた道を車でぐいぐい登って行きました。ところが,すれ違う車が意外に少ないのです。不審に思って聞いてみましたら,ここ数年の金属類の値下がりで鉱山の閉山が相次いでいるとのことでした。操業中の鉱山も近代化のための資金が不足し,また労働者も会社が健康のために奨励する防塵マスクを嫌がり,コカの葉を噛みながら働くという劣悪な条件だとガイドが嘆いていました。
ボリビア高原のなかでとくに湿度に恵まれたこのソラタ辺りは,野生のルピナス,日本のものとよく似たスイバ,ギシギシなどが見られました。
4000mを越すと,私の日本製腕時計の高度計はFULLと表示し,富士山より高いところは、もう自分の責任ではないと不貞腐れていました。
チュチュ峠4660mに車をおき,道などない原始の斜面を適当に登ってゆきました。茎がなく地面にくっっいて咲いているタンポポのような花や,ミヤマリンドウをまたひと回り小さくしたリンドウ科の花がぱっちりと目を開けていました。
空気の薄さを警戒し,写真をとりながらゆっくり登ってゆきました。花の接写を狙いながら,接写レンズと標準レンズを取り違え,なぜこの距離でピントが合わないのかなと一瞬悩んでしまいました。そんなドジを踏んだ原因を,私は高所障害の一種だったと信じているのですが「それは本人の言い分さ。あんた平地だって何時もそんなことばかりしているじゃないの,それは老人ぼけというものさ」とう言う冷たい声も聞こえて来るようです。
1時間20分の喘登で辿り着いたコル4800mからは,足の下の荒涼たる谷と,その向こうに氷河を従え縦に鋭いヒマラヤ襞をみせるイアンプー主峰が素晴らしく,思わず息を飲んだのでした。
ガイドのカルロス君は,ここでこの景色を見てから山を好きになったんだと述懐していました。
●秋風にフォルクローレやリャマ歩む
◯コンドリリ峰
その前夜はチチカカ湖,湖畔のホテルで泊まりました。夕食後,夜,星を見に外へ出ました。眩しいほどの星空でした。オリオンだとかサソリ座だとか思いつく星座を当てはめてみましたが,どうも確信が持てず不本意のまま引っ込んでしまいました。薄い空気で寝つかれぬままに,その理由を夜中考えてみました。日本では天の赤道が南上空にあるので南天を仰ぎ西から星座を追ってゆくのですが,南半球のここでは北空を仰ぎ西から追うのでは駄目だろうとの結論に達しました。つまり引っくり返ったサソリ座の星の塊は,サソリの姿には見えないのではないかと思うのです。それですから,まず体を南に向け,頭を反らせ天頂を越えて赤道を見ると見慣れた星座になるはずです。残念ながら次の夜は都会の真ん中に泊まったので,それを確かめることは出来ず,宿題になってしまいました。
翌朝はまた例のごとく,10年前に錫鉱山のため作った道を車で奥まで入りました。流れを横切る所だけは荒れていますから,運転手は止まって川の上流,下流を眺め,よさそうな所を強引に通過してゆきます。
初日にあれほど珍しく感じ,カメラのシャッターを乱射した首の長い羊のようなリャマも,この辺りではもう一杯いるので,ただ見過ごすだけです。
最後の部落のはずれにゲートがあり,止まっていると村の男がやってきました。最初はこれから先は行けないから,馬を雇って荷物を運ばせ人間は歩いて行けと言っているのだそうです。しかし,それは一種の儀礼みたいなもので,結局,金を払ってゲートを開けてもらったのでした。
この手のゲートは,この国のあっちこっちにあるようでした。朝,一回払えば,その日の中は要らないとか,別に券をくれるわけでもなく適当なもののようでした。道路の補修とか学校の費用とかに使うという説明でしたが,昔,名古屋から伊勢まで30いくつの関があったのを,織田信長が廃止させたという話を思い出してしまいました。
この先に10年前に操業開始したのに,もう今は閉山している鉱山がありました。廃水の溜池の色が異様でした。
車道の終点からは,過去に氷河に削られたU字型の谷を,モレーン(堆石)の所は急登,その他のところはトロトロと登って行きました。高度計はすでにFULLを示しているのにすぐ下の谷にはまだぽつんと一軒,家が見えます。カルロス君に「この辺りの人は一体どの高さまで住んでるの」と聞くと「4200mまで。ジャガイモを作ってる。質が良いので舗装道路の終点まで持ってゆき,売っている。一年中定住し,子供も一杯いるよ」と答えてくれました。日本でしたら,とうの昔に都会に移住していたに違いありません。この執念深さも今の日本人には理解できないものがあります。
先日登ったチュチュ峠の時と比べて,この谷では取り上げるような植物は目に触れませんでした。行けどもゆけども、ただ稲科のスゲのようなものが疎らにあるだけでした。
向こうから子供に追われてリャマの群れがやって来ました。われわれのいる崖の上を通過したリャマたちは,空気の分子が少なく黒澄むまでに透き通った空を背景に浮かび上がります。すっくと首を立てたリャマはとても恰好いいものです。そしてその内でもとくに可愛い一頭の両耳の先には赤いリボンが結んであり,おもわず青春の日のある面影が胸を横切ったほどでした。
モレーンで堰き止められた湖が次々と現れ,その3つ目のが今日の目的地のコンドリリ湖でした。ここの標高は4660m,氷河の末端までもうすぐの所なのです。
雪で真っ白なコンドリリ峰,コンドルが羽を拡げたような姿のコンドリリ峰,空気の透明度が高く真っ黒に見えるジャンダルムのような岩壁,それらがさざ波の立つコンドリリ湖に映り,これはもう私の人生で出会った天国のひとつ,そう心に刻み込みました。
驚いたことには,ここまでも羊の放牧のおじさんが来ていて,記念にと帳面に署名を求められました。外人が多いのでしょう。パスポートの番号までどうぞと言われたのは,ご愛嬌でした。この日の4時間半の行動が,高度順化の仕上げでした。
●秋の日やモレーンU字谷を埋め
◯チャカルタヤ峰
いよいよ今回の旅の最高点,チャカルタヤ(5395m)への登頂の日です。
おもえばグループから脱落してはならじと,成田を発ってからずっと,食べ物を関税障壁なしに胃袋に詰め込んできました。それもいよいよ今日の登頂で終わり,夕食からはダイエットへの復帰です。朝飯のバイキングの皿に、昨日までの旅で,美味そうだなと目星をつけてきた料理を一杯積み込みました。
車でぐいぐいと山に登って行きます。なにか郵便ポストみたいなものが一杯あると思ったら,それは日本からの援助でスタートした太陽エネルギー利用の研究所なのだそうです。もっともどんな研究をしているのか,ぜんぜん分かりませんでした。
さらにその先が世界で一番標高の高いスキー場で,そこが道の終点,登山口です。スキー場にはTバーリフトが一本あり,滑っている人もいました。とても急で,しかも日本の雪とは大違いの,氷の粒みたいな斜面でした。
ここから標高差たったの200mほどの登りでチャカルタヤの頂上です。しかし気温はマイナス2度,風が強く,のんびりしたムードではなく,何かに追われるように頂上を目指しました。この空気の薄さの中を約30分で登り切ったのですから,かなりの苦闘でした。
頂上は文字通り360度の展望でした。下界は見渡すかぎり強風にあおられ砂煙が立ち,ぼんやりと煙っていました。その層の上に,この数日で知り合った6千m級の諸ピーク,北からイヤンプー(6362m,男山),アンコウーマ(6462m,白水岳),チャチャコマニ(6074m)コンドリリ(5648m,コンドル岳),チャカルタヤ(5395m,氷門岳),ワイナポトシ(6094m,新燃岳),イリマニ(6462m,女峰山)の面々と改めて対面の時を過ごしました。
このとき撮った写真を後で見ましたら,エベレスト登頂の写真のように影になった顔が真っ黒に写っていました。太陽の光りが辺りの何にも反射しないで,すっと通り過ぎていってしまうためなのでしょう。
帰りの岩陰で風を避けながら,カルロス君が化石を拾ってくれました。数�の三葉虫が見えます。女性たちは先程までの苦闘はどこへやら,デパートにでもいるように化石の収集に夢中でした。
●登攀す岩頭の空黒く澄む
◯ゾンゴ峠
チャカルタヤ峰に登ったあと,車でゾンゴ峠(4780m)に行きました。ここはラパス辺りの高原から東に登ったところで,この峠を越すと段々にアマゾンのジャングルへ下っていくようです。
峠の前後で景色が一変します。西にあたる降水量の少ない高原の側は固い氷河で削られたU字谷で植生は貧弱です。それに反して峠の東の平野側は木があり,水で削られたV字谷になっています。
川に水が流れ,落差があれば,当然水力発電の対象になります。この高い所に15万ボルト級の送電線3ルート,4回線通っています。5000mに近いのですから,空気が薄く絶縁が下がる効果が,実際に効いてくるだろうと思いました。下の発電所群から,ラパスへ電気が流れているのが,昔電力屋の私には分かりました。
ワイナポトシ峰と氷河の写真を撮ろうとして「あの電線が邪魔」と誰かが言いました。確かにその景色には送電線はそれなりに本当に邪魔でした。
実は,首都ラパスへ電力を供給する,このライフラインに目をつけた人がほかにもいたのです。それは国内動乱時代のゲリラでした。送電線が3か所で爆破され,人口110万人のラパスは暗黒の街となったとのことでした。
自分にとって他人が生きていることが邪魔になることはあります。それが邪魔なら邪魔だと主張するのは,当然の権利でしょう。しかし敗戦によって与えられた民主主義で甘やかされ,砂糖漬になってはいても,片一方の立場からする主張が,必ずしも社会正義ではないということは心するべきでしょう。
●高きより野分ジャングルへと下る
◯アディオス
最後の日の午前,考古学博物館へゆきました。ふたつのことが印象的でした。
ひとつは石の矢尻がついた矢が展示してあったことです。
矢尻は素材も作り方も日本のものと同じと言ってよいと思います。日本では矢尻をどんなふうにして矢に固定したかは私は知りません。アスファルトで固定したのではないかという説を読んだことがあります。この博物館の展示品は細い紐で縛ってありました。この博物館ではほかの出土品も年代があまり書いてありません。この矢も石器時代のものが乾燥地帯のため保存が良くて残った物なのか,後で推定によって復元した品物なのか分かりませんでした。
もうひとつ驚いたのは,幼児の時から頭にタガを嵌めて後頭部を伸ばした頭蓋骨でした。足を小さくした中国の縛足と同様の,人工的な骨の歪曲です。
あとで,古代ティワナコ時代の人達が太陽を崇めるあまりに,太陽に近づけるために頭を伸ばしたとの解説を聞きました。どこまで正確な話かは知りませんが人間って怖いなと思いました。
異国の旅は楽しいものです。たった数日のことで,私達の挨拶はグッドモーニングからブェノス・ディアスに,サンキューからグラーシャスに変わりました。そう声を掛けるだけでボリビアの人たちの表情が変わるのが分かります。いろんなことをやってみることができて,旅は楽しいものです。
タキシーウエイをノロノロと走り始めたサンパウロへ帰るB737の窓から,昨日登ったチャカルタヤ峰5395mがすぐそこに,氷の橋というその名のように白銀に輝いて見えるのでした。
アディオス・ボリビア・アンデス!
●旅終わり帰る祖国ははや青葉