日付:2000/10/29
♡登りたがらないガイドジャカルタ空港には、現地の旅行社の人が出迎えていてくれました。
来てくれても、別になんと言うこともないのですが、ともかく空港内にあるホテルまで案内してくれました。
部屋に落ち着き、料金の精算とか、これからのスケジュールなどを打ち合わせているうちに、旅行社の人が、かなり深刻そうな顔をしてこんなことを言い出しました。
「登山のスケジュールのことですが、天気が良ければ最初の日に登頂を済ませ、第2シェルター(避難小屋)まで降りてテントに泊まり、次の日に下山して、パダン市まで帰ることになっています。
しかし、もし最初の日の天気が悪いと、その日は第2シェルターまで登ってそこで泊まり、次の日の早朝、天気を見て可能ならば登頂を狙うことになります。
しかし、そうすると、その夜はパダン市のホテルに帰りつくのが真夜中になってしまいます。翌朝の飛行機出発の時刻が早いので、とても大変だと思います。それでも頂上まで登られますか?」
私たちは、日本からわざわざ登りに来ているのですし、もともと山登り屋は自然相手に臨機応変に動いているのですから、眠る時間が短くなることなどは、まったく気にしないのです。
だからその時は、そんな当たり前のことを、なぜ聞くのかしらと思いました。それでごく素直に「ええ、遅くなってもかまいませんよ」と答えておきました。
登山当日の朝、ガイドは予定していた第2シェルターではなくて、もっと上の第3シェルターにテントを張ると言い出しました。
「私たちは良いけれども、テントを担ぎ上げるポーターたちは大変じゃないか」というと、ポーターたちは納得してる、むしろ彼らが第3には最近水があることを知っていて、第3にしたいと言っているというのです。
第2が標高3000m、第3は3200mです。登ってみて分かったのですが、その間は雨で削られた溝のようになった、相当の悪路を急登しなければならないのです。
山岳ガイドは2人でした。
一人はジャカルタから来た、英語の話せる年かさの男でした。
もう一人は地元の若いガイドで、もうクリンチ山には何度も登っているとのことでした。彼は立派なニコンを持っていて、写真を撮りまくっていました。
7時に登山口を出発して、14時半に第3シェルターに着きました。上の方は、霧が立ちこめていました。その天気は70点以上でもなく、50点以下でもないと、私は判断していました。
若いガイドは、この近くまで写真を撮りながら最後尾を勤めていましたが、先ほどから影も形も見えませんでした。
第3シェルター地点では、ポーターたちがもうテントを張り始めていました。
そこで一服ムードになったときに、年かさのガイドが「コングラチュエーション(おめでとう)」と握手を求めてきました。
実は、これからの行動について、われわれの中でも意見が割れていたのです。
学校で美術を教えられ,今でも版画教室のお世話ををしておられるWさんは、明朝、晴れ上がるのを待っての登頂を期待したいご様子でした。
若いTさんは、現時点で雨が降っているというわけでもなく、登れるうちに登っておきたいというご希望でした。
小心な私は、50点以上の天気なのだから、今日のうちに登っておかないと、テントで横になっていても、明日の天気が心配で眠られないと分かっていました。でも、もうちょっと、お二人で話し合って見たらと、様子を窺っていました。
10分近く、相談してたでしょうか、Tさんが「時間がもったいない、独りでも登る」と宣言され、登り始められました。
その旨、私がガイドに伝えると「それじゃ、私が案内します」とかなり不機嫌な様子でした。そうは言ったものの、彼にはそれまで登る気がなかったようで、準備に手間取っていました。
Tさんはもうどんどん行ってしまいます。すぐ私はついて行きました。
しばらく遅れてWさん、だいぶ遅れてガイドが登ってきます。「ウエイト、ウエイト」とガイドが下から叫びます。Tさんは、かまわずにどんどん行ってしまいます。私は待っていました。
登頂を果たし、下山路にかかるとガイドはかなり遅れました。火山によくある、崩れやすく、ずるずる滑る道なのです。バランスの悪い彼は、腰が引けて余計滑りやすくなっていました。
お客さんたちはどんどん降って行ってしまいます。
ガイドとしては、キャンプ地点にお客さんたちよりずっと遅れて帰り着いたのでは、地元のポーターたちに、どんなに悪く言われるか分からないと私は気を回しました。
それで、写真など撮ったりして時間をかけて彼を待って、ガイドにちゃんとガイドしてもらった態で、帰り着いたのでした。
確かに地元のポーターたちは、荷物を背負ってどんどん登り、その凄いパワーには感心させられました。しかし、いろいろ判断すると、ジャカルタに住んでいるガイド氏は、山登りにはそんなに強くはないようでした。
登り口でこそ、若さにまかせてどんどん先に行っては、ゆっくり登る私が追いつくのを待ってくれている様子でした。でも、第3シェルターにたどり着く頃にはへばってしまい、この老人とほぼ同じペースになっているのが見てとれました。
英語の通訳ができ旅行の世話もできて、山へも登れるという人に、山登りも人並みはずれて強いことを要求するのは酷のように思います。
若いガイドのように登頂をさぼったりせずに、彼はともかくも頂上までは行ってくれたのです。その責任感を讃えたいと思います。
そして、できれば天気が悪くなって、標高が相当高い第3シェルター地点まで登っているのだから、そこでおめでとうを言い、お客に登頂を断念してもらえれば、こんな良いことはないと思うのも、もっともなことだと納得したのでした。
ジャカルタ空港のホテルでの会話は、最初の日の天気が思わしくなかったら第2シェルターまでにして登頂は諦める、そんな言質を取っておきたかったのかしらと邪推してしまいました。
私は自分がそんなに強くないので、ついこんなふうに同情してしまうのです。
・秋空へジェットぐいぐい登りゆく
♡スマトラさん
第二次世界大戦中に、日本軍は当時インドネシアを支配していたオランダ軍を攻め、スマトラを占領しました。スマトラ島にある産油基地パレンバンには落下傘部隊を降下させ、油田を破壊される前に確保してしまいました。
殆ど石油を産出しない日本にとっては、「石油の一滴は血の一滴」といわれるほど貴重な資源だったのです。なにせ石油の供給をアメリカ、イギリス、オランダにストップされたことが戦争開始の大きな原因になったのでした。
そのとき、山梨県で役人をしていた私の伯父は、司政官としてスマトラに行きました。
その後、戦争に負けて帰国した伯父からは、スマトラについて幾つか話を聞いていました。
常夏の國インドネシアでは、なにせ暑くて、夜になっても寝付けないので、マンデーと呼ぶ水浴をして体を冷やし、暖まる前に眠ってしまうのだと言っていました。また、西欧文化に憧れを抱いていて、丁寧にものを頼むときには「Would you helpme 」というのだと、当時高校生だった私に教えてくれました。
また、フィリップモーリスなど外国の煙草って実に美味いものだと言っていて、1958年私がアメリカから帰るときにお土産に買って来てくれと頼まれたことがありました。
伯父は東北の弘前に住んでいましたから、スマトラから帰った頃は、夏になっても寒い寒いと言って炬燵を抱えていたそうです。
残念なことに、伯父は数年前に亡くなりました。生きていたら、今度の私のスマトラ行きで、どんなにか話が弾んだろうかと思うのです。
スマトラの司政官についてなにか資料がないかと思い、図書館に行ってみました。
インドネシア国立文書館編の「ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本軍政時代」という本がありました。
庶民からの聞き取り集といった感じの本であります。自分の國を支配しに入ってきた外国人を、良く言うはずはありません。
その本に書かれている具体的な内容は、私たちが戦時中日本で経験したこととほぼ同様であります。
つまり、食糧不足、貧困な医療、精神主義を振り回して威張る軍人などが出てきます。
これらの話から私は、日本がインドネシアで、そう特別に悪いことをしていたわけじゃないなと、むしろ安堵の思いをしたのです。
もう一つ「インドネシア 歴史と現在」というオーストラリアの大学教授が書いた本もありました。
こちらは、全体で370ページのうち、日本の軍政時代として、僅か5ぺーじを割いているだけです。
それに拠れば、オランダは1930年頃から行政の中間管理層までオランダ人を配し、強い締め付けを行っていました。しかし、日本は基本的にインドネシアの行政組織を使い、自分たちはその上に立ってコントロールしようとしたのだそうです。このような情勢の中で、行政機関の役職に抜擢される人もあって、インドネシア人たちはある種の自信を得たのだそうです。
また、日本はインドネシアを味方に付け、ともに戦わせようとして、武器を与え訓練して郷土防衛義勇軍を編成したのでした。そのことがいろいろの面で独立に強い影響を与えたのだとしています。
なにせインドネシアは、1945年8月15日に日本が降伏した僅か2日後に独立を宣言したのでした。
帰国する日、飛行機の便を待つ半日の間に、ジャカルタの独立記念塔に行ってみました。ここの塔の台座に歴史大ジオラマがあり、インドネシアの歴史を48コマのジオラマで展示していました。
そのかなりの部分が、インドネシアがダッチ(オランダ人)に虐げられ、反乱を起こした歴史で構成されていました。それに反して、日本の支配については、ほんの少し、さらっと触れているだけだったので、助かったという思いがしました。
それにしても、連合国軍がジャワに攻めてこなかったのは有り難いことでした。もしも戦場になっていたら、インドネシアの人にも日本人にも、数え切れないほどの醜いことや残酷なことが起こったに違いないでしょう。げに憎むべきは戦争であります。
戦後、帰ってきた伯父は、学校の先生などしていたのですが、ついついスマトラの話が出てしまうのでしょう、生徒さんたちに「スマトラさん」と言うあだ名を付けられていたと聞きました。
・秋彼岸老婆機上にベルト締め
♡島国
よく、日本は島国だと言われます。
でもインドネシアは、なんと13,700もの島からなっているのだそうです。
これはもう、桁違いの島國であります。
また、こんど私がスマトラ島で富士山より高い山に登ってきたと報告しますと、島なのにそんな大きな山があるのかねと驚かれます。でも、島は島でもスマトラという島の面積は、日本の本州の約2倍もあるのです。
例の地球儀を持ち出して、成田からジャカルタまでの最短ルートを探してみました。
すると、フィリピンのマニラのちょっと南を通ってゆくことが分かりました。
私は窓際の席で、フィリピン通過を固唾を呑んで待ち受けていました。
しかし、少年時代に戦争の報道から印象づけられていたフィリピンのイメージと較べると、小さな島をぱらぱらと見ているうちに、あっと言う間に通り過ぎてしまった感じでした。
そしてそのあと、ボルネオ島に至るまで、点々と島が続いている様子なのです。
日本人とか日本文化のルーツを探るときに、南方から渡ってきたという議論があります。
今回飛んだ飛行ルートの1万メートルの高空から眺めていた感じでは、太平洋の西部では、天気の良い日には、隣の島が見えるほど、島が続いているのではないかと思えるのでした。
昨年、鹿児島から沖縄本島までフェリーで航行しましたが、そのときは奄美大島から徳之島、徳之島から沖永良部島、与論島、沖縄本島というように、まさに次々と島が見えたことを思い出しました。
改めて地図を眺めて見ると、ニューギニアからフィリピンまでは、実に島が多い海域であることが分かりました。
なにも航海術とか星に頼るとか言わないでも、視力と度胸と経験さえあれば案外容易に往来できるように思いました。
しかし、なんと言っても島と島の間の海は障壁ではあります。異なった言語、文化が存在することは必然であります。
人口約2億人の大国インドネシアには、細分化すれば3000にものぼる民族、そして200とも400とも言われる異なった種類の言語があると書かれています。
そんなような雑多な人々をひっくるめて、インドネシアという國は出来あがっているのです。まさに「多様性の中の統一」であります。日本などとは、全く事情は異なります。
インドネシア滞在中に、東チモールの分離・独立問題を先方から話題にされました。
東チモールがインドネシアから出て行くなら、それで結構、もともと入っていたってインドネシアにとってはなんの利益もないんだからと、複数の人から聞きました。今、問題になっている東チモールはオランダではなくてポルトガルの統治の下にあったので、おおよそジャワ的ではないに違いありません。一枚岩とか固い結束などとはほど遠い、いわば、よく熟した鮭の卵のような、今にもバラバラになりそうだが何とかくっついているといった状態だったのでしょうか。
東チモールの併合、分離の問題は、国家としての威信の問題と、少数の人の利害関係の問題のようにも見えます。
地理的な観点から、島国度というようなものを考えてみると、インドネシアは横綱級であります。
フィリピンだって、地図をよく眺めれば、相当のものであります。
その意味では、日本やイギリスは島国と言っても序の口に過ぎないようです。
言ってみればインドネシアという國は、キューバ、ジャマイカなどカリブ海に浮かぶ沢山の島國を、纏めて一つの国家にしている感があります。
こんなふうにどんな形態でも可能にする人間の柔軟性と、それゆえに他の総ての生物を圧してはびこり、地球を欲しいままにしている恐るべき現状を感じないではいられないではありませんか。
・鰯雲上から見ても鰯雲
♡クリンチ山登山
クリンチ山は昨年登ったバリ島のアグン山と同様、独立峰の火山であります。
インドネシアの最高峰としては、國の東の端のニューギニアに堆積岩で出来たカルステンツ山(5030m)があります。
今回登ったクリンチ山(3805m)はスマトラ島の最高峰で、またインドネシアの火山として最高峰なのです。
1958年に噴火したと言っていましたが、理科年表に出ていませんから、噴火はそんなに大きくはなかったのでしょう。現在でも、ごうごうと音を立て、強い刺激臭のある噴煙を上げています。
南緯約2度、まさに赤道直下であります。
標高約1500mにあるクルシクッオという村の宿に泊まりました。この宿は登山客用とのことで、2階にお客さんが10人ほど、また下階にはガイドたちが泊まれるようになっていました。
周囲には静岡の茶畑など問題にならないほど広大な茶畑が広がっています。
この茶畑は、オランダが植民地時代に開発したものです。
登山口は標高約1600mの、お茶畑のはずれにありました。
山頂まで、ずっと立派な道が続いています。
以前登られた日本の方は、このクリンチ山の年間登山者が2〜300人であるとガイドから聞かれたとのことです。
でも、私たちのガイドたちは、こんなことを言っていました。
インドネシアではどの山でも、8月17日の独立記念日と元旦に沢山の人が登る、このクリンチ山へも、一日に500人も登るのだと言いました。もっとも、もうひとりのガイドは一日に1000人も登ると言いました。ま、聞いた話というものはそんなものなのでありましょう。
私たちはジャワ中央大学の数人のパーティとすれ違いました。いずれにせよ、道の様子からすれば、相当沢山の人が登っているものと思われました。
登山口からずっとジャングルが続いていて、3200mあたりが森林限界になっています。それから上は、火山の砂礫の急斜面になっています。
登り始めは緩やかですが,山体に取り付いてからは、富士山に直登するような趣であります。道は、かなり急だったり、また雨水で深い溝になっていたりします。木の根、岩の根にすがってずり上がるようなところもありました。
登り口に近いジャングルの中では、行きの日も帰りの日も、ブラック・モンキーたちがお祭りをしている声が聞こえました。
朝飯が済んだ後で、カラオケでもやっているような、とても賑やかな調子なのです。
姿こそ見えませんでしたが、相当大勢で、低い連続した声と、高いリズミカルな声がちょっとしたハーモニイを聞かせてくれました。
道端には、名も知らぬ熱帯の植物に混じって、スマトラという接頭語を付ければ本名に出来るような、ダケブキ、ツバメオモト、ニリンソウ、ドウダンなどに似た植物も見えました。
7時に登り始め、頂上は16時20分でしたから、休憩時間込みで9時間半の難行苦行でした。標高差2200mを平均230m/時で登っていることになります。普通の登高速度はは400m/時としたものですから、これはかなり遅いペースです。実際、記録高度計のデータを見ても、15分のラップタイムで70m辺りの数字がずっと並んでいます。これは280m/時に相当します。
最高のラップは、15時45分から16時までの15分間に3485mから3575mまで90m登っています。これは酸素濃度が70パーセントしかない高さですし、登り始めてからもう9時間も経ち疲れているのですから、この360m/時という登高速度は、まあまあのペースだったと思っています。
長丁場ですから、決してギブアップすることのないペースを守ろうとは心掛けていましたが、と言ってペース配分を誇る気など毛頭ありません。ただただ、鈍足を嘆くだけであります。
ともかく相当、ハードな山でした。
火口は直径300m、深さ200mほどだと聞きます。残念ながら私たちが滞在している間は、火口の側は一面のガスと霧で全く見えず、ただ、ごうごうと言う音を聞き、ツンとくるガスにむせただけでした。
でも火口の反対側では、どうにか時々雲が切れ太陽が覗き、目の高さに乱立する雲の峰がひしめいて、この世のものとも思えない景色を見せてくれていました。
未練がましく火口を覗き込むと、太陽を背にして、ガスに私の影とそれを取り囲む光輪が見えました。ブロッケンと呼ばれる現象なのです。
キャンプに戻る道でも、山の稜線とそこに立っている私の影が雲に映り、まるで仏様でもあるように、周りを光輪が囲んで引き立ててくれていました。
・噴煙に吾がブロッケン拝みぬ
♡ローバー
登山口まで降りてくると11時でした。迎えの車は13時に来るように言ってあるとガイドは言うのです。
ガイドは村まで歩こうと言うのですが、私たちは「来るまで待ってるよ」と答え、座り込んでいました。だって村まではとても遠いのです。また山道を歩いていた間は、記録や感想を手帳に書きこむ余裕も十分ではなかったのですから、その整理もしておきたかったのです。
ポーターの何人かが、車を拾いに歩いて行きました。そして、ほんの5分ほどすると、もう車が上がって来ました。近くの茶畑で働いていた人を掴まえたようでした。
このあたりの村では、茶摘みは朝夕に行い、日中は休んでいるのだそうです。その代わり常夏の國ですから、一年中茶摘みをしなければなりません。いずれにせよ、人々が働いていない日中の時間に、うまく車を見付けたのですから、まあ運が良かったのでしょう。
来たのは、私が35年前に乗っていたスバル360を思い出させるような、余分なものなど一切付いていないローバーという車でした。でも、この際は絶大な威力でした。
ガタガタの農道を走っていると、運転手の横のドアが開きました。彼はこともなげに閉め直します。そのうちに隣に座ったWさんの横のドアが突然開きました。これは予期していなかったので、大変あわてました。運転手はWさんの前の物入れの棚を指さし,しっかりそれに掴まっておれと言ったようでした。
こんなにして、言葉が通じなくても、人間同士は何とかなるものなのです。
・常夏のスマトラ茶摘み一年中
♡ドリアン
大東亜戦争の頃、私は中学生でした。
日本の勢力範囲に入った南方の国々の事情がよく紹介され、また、それを覚えるのが次代を担う小国民の努めのようなムードがあったのです。
いろいろの熱帯の植物が紹介されていました。バナナ、マンゴー、パパイア、マンゴスチン、そしてそれらの中で、ドリアンという果物は熱帯の果物の女王なのだと書かれていました。
数年前、バンコクへ行ったときに街の店で、話しに聞いたトゲトゲのあるドリアンを見ました。でも、案内してくれた某社の社長さんは、まだシーズンじゃないからと冷淡でした。たしかに、そのドリアンはまだ緑色が濃かったのです。でも、ほんとうは社長さんは、あの匂いが嫌いだったのかも知れません。
このたびも、ガイドさんが「ドリアンのこと、白人たちは、匂いはヘル(地獄)、味はヘブン(天国)といいます。試して見ませんか」と我々に解説したのです。同行したWさんは、前にインドに住んでいた頃に試したことがあって、あの匂いが嫌だと言われました。
私はそのWさんに遠慮してぐずぐず言っていましたが、村に着く前にガイドが買い物するときに、食べてみたいと申し出ました。
マスクメロンよりちょっと大きいのですが,割るとミカンの房のような感じで、縦に4列ほど丸い実が入っています。直径3センチほどの堅い種の周りに厚さ1センチぐらいどろどろの果肉が付いていて、それを食べるのでした。
私は匂いは全然気になりませんでした。ものの本には、最近は匂いが気にならないように改良された品種が栽培されていると書いてあります。その旨、Wさんに言いましたが、やっぱり匂うと仰って座を外されました。
私は匂いが地獄だとは思いませんでしたが、味も最初は天国だとは思えませんでした。でも、そのピンポン玉のようなのを次々と食べているうちに、段々甘みを感ずるようになり、なるほど美味しいわいと思うところまでゆくことができました。言ってみればオレンジのように強い味ではなくて、とても淡い味なのでした。
ひとつ食べてみただけで、ドリアンについて、あれこれ言うのは妥当ではないでしょう。これからは、機会があればいろいろ食べ較べて、どの土地のものはどうだ、など言えるようになりたいと思います。(過去の私の人生から見れば、そういうことにはなりそうにないのです。どれもこれも美味しいと言うのが、セキノヤマでしょう)。
・貴妃にしてなほ香水を求めけむ
♡煙草
成田出発のとき、インドネシア・ガルーダ航空のカウンターで、私は客室後部よりの窓際席を下さいと頼みました。国際線ですから前からファーストクラス、ビジネスクラスがあり、もしも主翼の上の席に当たってしまうと下界が見えないので、いっそのこと後部の席にしたいと思ったのです。
ところが「後部だと喫煙席になりますが、いいですか」との返事が返ってきました。
今どき、喫煙席のある航空会社があるなんて、びっくりしてしまいました。
昔むかし、アメリカの空港で禁煙席にしてほしいと頼んだら、当社の便は全席禁煙だと言われてショックを受けたのの裏返しのようなものです。
ちなみに機体はエアバス330で、エンジンの前端あたりの席があたり、どうにか下界を見ることが出来ました。
帰りのジャカルタからの便では、喫煙席しか残っていませんでした。
ジャカルタ空港の待合室で城山三郎さんの「総会屋錦城」を読んでいました。30年前、あんなに有名だったこの小説を、まだ読んでいなかったのです。まだまだやり残していることが、山ほどあるような気がします。
23時の出発予定時刻を1時間ほど遅れた頃、お客さんがどやどやと入ってきました。
私たちが乗る飛行機はバリ島から飛んできて、ここで給油してから成田に向かうのです。その間、お客さんは買い物をしたり待合室で座っていたりするのです。
バリ島から帰る日本人たちの集団は、一種異様な雰囲気でした。
典型的な若い男女のカップルは、それこそ「インド人もびっくり」というほど日焼けし、髪を黄色く染めていました。かなりの期間サーフィンを楽しんできたのでしょう。
当然、殆どが若い人で、大半は髪を染めていました。
着ているもの、持っているものは、バリ島で買ったのでしょう、総てが明るいトロピカルな色彩に輝いていました。
男女カップルでも同性同士でも、楽しく過ごした日々の余韻を、真夜中の空港待合室中に振りまいていました。
それは日本では見られないアンニュージアル光景でした。もともと旅行というものは、非日常的なものなのです。私たち登山姿の老人三人もアンニュージアル日本人集団を構成する、ひとつの材料にならせてもらっていたのでした。
こんなにして、殆どのお客さんはバリ島のデンパサール空港から乗ってくるので、我々のように途中ジャカルタから乗り込むのでは、座席選択はほぼ不可能なのでした。
そこで成田までの約7時間あまり、久しぶりに煙草の煙に悩まされました。
昔、世にあって給料を貰っていた頃は、昼の会社でも夜のクラブでも、タバコの煙をひたすら我慢していました。とくに夜の場では、必要性が薄いだけ余計に苦痛でした。
しかし、もう現役を退いて3年、年をとったら義理を欠けと言われます。この年月、好きなことしかせずに済んでいるのです。久しぶりに煙害に出会って、今の生活の幸せをつくづく感謝しました。
きっと、ガルーダ航空なら煙草が吸えるとばかり、ほぼ同じ時刻に飛んでいるJALを敬遠して、こちらに来ている人もいるのでしょう。
数列前には、いわゆるチェイン・スモーカーがいました。また、若い女性が格好良く指で挟んで煙を立てていました、さぞかし、自分の部屋の鏡の前でポーズを研究したのだろうと察せられました。このように、この便の喫煙席には、世の中の筋金入りのタバコのみが濃縮されているのでした。
着陸態勢に入るとのアナウンスがあった後には、このあとしばらく吸えないと思うのでしょう、もう一斉にふかすのでした。ダンテの神曲の地獄編も、かくやとばかり、煙が立ちこめたのでした。
一体、インドネシアではタバコを吸う人が多いのです。ポーターたちは辺り構わずタバコをふかしていました。
登山基地の宿の庭で、まだ小学生ぐらいの幼い2人が、プカプカとタバコを吹かしているのを見たときは、背筋が寒くなるのを感じました。
昔、中国で目抜きの大通りに自転車の波が溢れていた頃、あの人たちの喫煙も相当のものだと感じたことがありました。その中国でも、いまでは喫煙の害を厳しく取り上げています。
国民の生活の中でゆとりがあるレベルに達すると、タバコを吸うという、ささやかな贅沢が、一種の地位の象徴になるのかもしれません。先進国に追いついて行く過程の中での、國としての通過儀礼のようなものなのでしょうか。
先日、テレビの番組で、昨年日本国内の肺ガンによる死者は5万人、世界では400万人、2030年には1000万人にもなろう、喫煙はそれに深く関わっている、というようなことを放映していました。
そうだとすると現時点ですでに、タバコは、ダイオキシンとは較べものにならない大勢の死者を出していることになります。
インドネシアの人たちが、この危険な時期を早く通過してしまうことを祈ると言いたいところですが、日本の現状を思うと、なかなかそうもゆくまいと、ためらってしまうのです。
・手に手取る男女日焼けし髪染めて
♡美女
帰る日の朝、パダン市のホテルで5時にアラームで起きました。朝飯は7時の予定ですから、その前に街へ出て写真を撮ろうと思ったのです。
ところが、外はまだ真っ暗でした。仕方なしにテレビのスイッチを入れました。
チャンネルは4つほどありました。イスラム教の信仰が厚い地域ですから、全部のチャンネルが宗教番組でした。
なにせ言葉が全然分からないのですから、高名らしい指導者の対話などには、残念ながら取り付けません。
ひとつのチャンネルには、コーランを唱える声が朗々と流れ、白いベールを被ってお祈りしている、綺麗な女の人がアップで映っていました。
こういうチャンネルを見るのも信仰にうちなのかなと思いながら、私も功徳にあずかっていました。
そのうちにニュースがあったり、コマーシャルが入ったりしました。
言葉が分からないのですから、女の人の顔ばかり見ていました。
綺麗さから言うと、ニュース・キャスターも相当に美人なのですが、コマーシャルに出てくる女性にはさらにセクシーな美しさがありました。
天は二物を与えずという言葉をふと思いました。才色兼備ということもありますが、才がなくても色さえあればテレビに出られ、才があってもある程度色がないと出られないのが現実かも知れません。
性差別と叱られるかも知れませんが、美しさが男と女とどちらで、より強く求められるかといえば、やはり女性でありましょう。それが人類の誕生以来連綿として続いているのですから、美しさを発現させるいろいろの遺伝子が、性染色体にまで入り込んでいるに違いありません。だから女性は美しいのでしょう。
こんなことを下心があって言っている訳ではありません。最近、家で飼い始めた子犬はまるで警戒心がなくて、動物の一番弱点であるお腹を晒し仰向けになって寝ているのです。人間の保護がなければ、1日だって生きていけない様子です。
ペットとしてチヤホヤされて何代か経つと、こんなになってしまうのかと、遺伝子の怖さを感じていたというだけのことなのです。
・明易の街にコーラン朗々と
♡スマトラの田舎
スマトラ島は、ほぼ赤道直下に位置し、世界で6番目に大きな島で、面積は日本の本州の約2倍あります。
人口は15年前の統計で3200万人とあります。
飛行機の上から眺めた印象では、飛騨金山程度の町が結構あるなと感じたり、またさらにしばらく飛ぶと、やっぱり人類未踏、緑一色の熱帯雨林だなと思ったりしました。
空港を降りたパダン市から登山口のクルシクッオまで、車で7時間弱かかりました。
往復14時間のドライブと言えば、沿道の人々の生活を相当じっくり見る機会があったことになります。
まずスマトラの地形ですが、南西のインド洋側に深い海溝があり、地殻プレートが押し上げ、所々に火山を造っている、その土地の成因が日本と似ているのですから、世界のうちでも地形は日本によく似ていると思いました。
パダン市は人口約50万人ですから、市街地は当然、家が溢れています。
しかし、市を離れ田舎に入っても、道路の両側には結構家が沢山ありました。
家の造りは、今まで訪ねたいろいろの國と較べれば、しっかりしていて、植え込みを造り、また花を咲かせて美しく飾っていました。
そして、人々が家の前のベンチに腰掛け、道路を見ているのがとても目につきました。所在なくて外を見ているのではなく、楽しそうに見ているようでした。
今になって思い返すと、アフリカを旅行していたときには、村の人たちは暗い戸口にじっと立っていたという印象が強いのです。いろいろお国柄があるようです。
スマトラの田舎の男たちは、村の中の喫茶店でオダを上げているようで、家の前で道路を眺めているのは、主として女性と子供でした。
ガイドにあの人たちは働くのかねと聞くと、朝早く働いてきて、昼間はああしてるのだと言いました。
電気も一応は来ているようでした。そして、衛星放送を受信するお椀型のアンテナも非常に普及していました。赤道直下ですから、アンテナのお椀は日本と違って、ほとんど真上を向いています。そんなにテレビが普及しているのに、なぜ家の前に出て道路を眺めているのかと不思議に思いました。
停電が多いのでしょうか、電気代が高いのでしょうか、それとも番組に魅力がないのでしょうか。調べたわけではありませんが、子供たちを夢中にさせるプレイステーションやゲーム・ソフトなどは、きっとないに違いありません。
そういうわけで、事あれかしと願っている物見高い人が、そこらに一杯いるのですから、交通事故なんかあったら大変です。
道の途中のある村で、道の遠くのほうに、人々がまるでお祭りでもあるかのように群れているのが見えたのでした。近づくと、一台の車が車輪を溝に落としていました。
それを、もう村中総出で、わいわい押し出そうとしているところでした。
日本の田舎などで、道を聞こうにも道路には人影がなく、また電話を借りようとしても、家は空っぽなどというのとは大違いです。
スマトラの住人にとっては、やはり世の中は段々忙しく、世知辛く変わりつつあるのでしょう。
人口約2000万人のジャカルタ市の喧噪は、日本以上とも見えました。ここでは日本と同様、合理化によって産み出された時間は、さらなる合理化に注ぎ込むという生き方をしているのでしょう。
でもスマトラの田舎の人たちは、自動車や電化で産み出された時間を、喫茶店でお喋りしたり、家の前に座って道路を眺めるのに使っているように我々の目には見えました。
さて、その道路を牛、山羊、鶏がやたらに横切りるのです。
インドで見たように、道端に人間といろんな動物がゾロゾロいるという感じではないのですが、その代わり動物たちは必要以上に車の前を横切って見せているようでした。
車のほうは、相当前から用心してスピードを抑え、まるで人間を相手にしているように警笛を激しく鳴らします。
そのあたりの雰囲気は、スマトラの田舎に特有のことのように感じました。
「ニワトリを刎ねたらどういうことになるのか」と聞いてみました。
「車の運転手がいくらか賠償金を払うのさ。ひき逃げするのもあるけれど、また何時か同じ道を通らなくちゃならないからね」との返事でした。
横断歩道も信号機もあるわけではありません。日本のドライバーのセンスでは、刎ねられる責任は動物、あるいは動物を管理する側にあるような気がするのですが。
ニワトリを沢山売りたいと思って、ワザとけしかけて道路を渡らせて刎ねさせたりする、よこしまな冷血漢はスマトラにはいないのでしょう。
また、学校も本もないのに、交通安全を学ぶ動物たちも大変です。
ある橋のところで、ニワトリの親子が横切りました。親は欄干に逃げ、ひよこたちが轢かれそうになったのを見ました。なんという薄情な親だろうかと思いました。
日本の大企業のおんぶに抱っこみたいな安全教育と比較すると、まさに真剣勝負そのものの安全教育であります。
・スコールやモスクの屋根に錆著き
9月12日朝、成田に着き、京成電車で上野まで出てきて、新幹線の切符を買おうとしました。すると、昨日、名古屋付近で大雨が降ったため、不通になっていることを知りました。
東京駅まで来ると、不通の様子や旅行を取りやめて欲しい旨の張り紙がしてありました。何十人かコンコースに腰を下ろしているものの、ぜんぜん殺気立った雰囲気などありません。日本もすっかり大人になったなと思いました。
後から考えれば、大雨が降ったのは前日のことで、不通は既に広く知れ渡ったことだったのです。
私は外国から家への帰り道ですし、外に手段がないのですから、東海道新幹線の運転再開に賭けるよりしかたありません。
駅構内のそば屋に入り、腹ごしらえをしながら、勘考しました。
それで、寝袋は持っているし非常食もある、どこでどうなっても心配することはない、開通を東京駅のコンコースで待つよりは、在来線で行けるところまで行こうと決めました。
私はJR東海以外の交通手段に期待していませんでしたから、普通乗車券を名古屋まで下さいと頼んだのですが、いま現在運行中の浜松までしか売らないと言われてしまいました。
なにせ開通予定が不明なのですから、それにも一理あります。不通区間の乗車券を売れば売ったで、文句を言う人がきっと出てくるご時世です。開通したときに、また買い継げばどうということはないのですから。
登りたがらないガイドの件といい、たった4時間後に開通する区間の乗車券を売りたがらないJRといい、ただ、ごもっとも、ごもっともと物わかりが良くて、まったく血圧が上がらない老人になってしまっているようです。
沼津行き、浜松行と鈍行列車を乗り継いで行く旅は、それ自身、実に楽しいものでした。
新幹線が開業した昭和39年、私は34才でした。それまで利用させて貰った東海道の在来線は、いわば私の青春の景色なのです。
大船、藤沢、辻堂と、退屈どころか、変わったものも、変わらないものも、沿線の景色の、ありとあらゆるものが私の心を揺り動かしました。
丹那トンネルに入るまでは、ピカピカの晴天でした。
新幹線の窓からではトンネル続きでまるで見えない、真鶴岬あたりの相模湾を見下ろすことができました。大きな半円形の網が仕掛けてありました。昔と同じでした。
根府川の駅で、ドアが開いている間にヤンマが飛び込みました。ヤンマはうろたえてしまい、その後ドアが開いても飛び出せず、とうとう沼津まで飛んでいました。
私も現役をリタイアしてもう3年、在来線東海道線の座席に、汚れ放題の山姿でトレパンをはき、何者にもとらわれないゆったりした気持ちで座っていました。まるでアメーバにでもなったようなフリーな気分でした。
富士川の鉄橋を渡るとき、猛り狂う濁流に橋脚が洗われているのを見て、だんだん事態のただならぬことを感じ始めました。
静岡で、動き始めたばかりの新幹線に乗り移りました。
混雑した車内通路に立っていると、若い男性がどうぞと席を譲ってくれました。私の末っ子に似た年格好と容貌の青年でした。
スマトラに山登りに行ってきた道楽者の爺いが、世の中のために働いている有為の青年に席を譲ってもらう価値があるかどうか、非常に疑わしいとは思ったのですが、客観的判断を尊重し、お礼を言って座らせて貰いました。
そんなわけで、それから何日間か、清々しい気持ちで過ごすことが出来たのです。
以上、あまり内容のない紀行になってしまいました。
山麓までの往復に4日、登山に2日、フライト待ちで半日の観光という、登山一本槍のスケジュールでは、こんなものかもしれません。
・鬼やんま迷い込みたるローカル線