日付:2000/5/21
敗戦の翌年の冬、校内にある青冥寮は満杯でした。私たち1年生は第二青冥寮に入れられました。神通川を萩浦橋で西へ渡り、約1キロ離れた、戦時中に、さる工場の工員寮として使われていた建物でした。当時は戦中、戦後の荒廃で、食事も住居も、なにもかにも無い無い尽くしでした。
火の気のない粗末な木造の建物での生活は、寒くて耐え難いものでした。体温を逃さないように、みんな押入の中に布団を敷いて寝ていました。米も貴重でしたし、それを炊く燃料も貴重でした。
天井板は、もうとっくの昔に、先輩たちが燃やしてしまっていて、そのことが部屋を一層寒々とさせていたのです。運河から拾ってきた木は、いくら乾かしても塩気が浸みていて、なかなか景気良くは燃えてくれませんでした。
また、試験の前になると飯を炊く時間が惜しくて、米を炒っては囓ったものでした。
昼飯がサツマイモ一つだったこともありました。それも食堂幹事が、二つ持ってゆく不心得者がいないかと、見張っているのでした。
そんな生活の中でも、仲間、何人かが誘い合い、夜分、親切な先生のお宅にお邪魔し,正課以外のフランス語を教えて頂いたこともありました。勉強にも貪欲だったのです。
あれから半世紀余、あの頃なかった品々は、今、巷に満ち溢れています。あの頃の熱い向学心が、なお健在なことを祈るのです。
・オトロシヤ神通河畔鰤起し