日付:2008/8/22
昨年9月のエジプト以来、久し振りの海外旅行です。
今回の旅の大雑把な場所は、イタリア半島の付け根、あるいはアルプス山脈の東の端といえばよいでしょうか。ドイツのミュンヘンとイタリアのベネッチアと は、直線距離で320kmほど離れていますが、そのほぼ真ん中あたりをウロウロしていたことになります。
まずはドイツ南部のミュンヘンから南下し、国境を越えオーストリアへ、その後インスブリュックを見物したあと、イタリアのドロミテ地方に入ります。
道中、いろいろな最高峰を展望しますが、わたしとしては有名なドロミテのドライ・チンネン周遊ハイキングをメインの行事と考えていました。
最後は再びオーストリアに戻り、ザルツブルグを経てミュンヘンに戻るという内容でした。
大陸を西へ飛びをり雲の峰
§オールド・テロリスト
アルパインツアー社のパックツアーです。参加者たちは日本の各所からバラバラで飛びます。
フランクフルト空港でのセキュリティ・チェックは、念には念を入れて行われました。長い列の何人か前では、腕時計もはずすようにいわれたようで、私の前の 人もその前の人も、はずしてプラスチックのトレイに入れました。すると係員が、時計をはめたままでよいといっていました。それを見ていて、わたしははめた まま通ろうとしました。ところがなんと、はずせといわれました。一応の検査基準はあるのでしょうが、安全確保は大事なことですから、やっぱり最後は人相を 見るのでしょう。
案の定、ゲートのブザーにもひっかかりました。そのあと、あっち向け、両手を上げてと、じつに懇切丁寧にボディ・チェックをしてもらいました。どうも登山 用スラックスのポケットのジッパーがブザーを鳴らしているようでした。
ともかく、いっぱしのテロリスト候補者として処遇してもらったようでした。
さて、むかし長野に単身赴任していた頃のことです。権堂の飲屋街で若い客引きから「ヨッ係長! 寄ってってください」と声をかけられたことがありました。 じつはその頃、もう子供も大学入試で、決して若くはなかったのでした。それなのに始めて役付になって子分を引き連れてきたように見えるのかしら、おれって そんなに若く見えるのかなと、いい気分がしたことでした。
ここフランクフルトでも、長野の時と同様、わたしは上機嫌になりました。
今度の旅をとおして、上り坂で息苦しくなるたびに「ヘロヘロの〜テロリスト。ヘロヘロの〜テロリスト」と、苦しい息の下から呟いては自らを元気づけていた のでした。
全員、ミュンヘン空港で合流しました。メンバーは16名、東京から10名、大阪から4名、名古屋代表として私、そしてツアーリーダーです。
男性はたったの3名、私以外は二組のご夫婦の旦那様です。なんとツアーリーダーも、ルーマニア在住で旅行社勤務の大和撫子なのです。
・若き娘がぐいと担げるリュックかな
§ドイツ最高峰ツークシュピッツエ
2日目、ドイツの最高峰、ツークシュピッツエに登りました。麓のガルミッシュ・パンテンキルヘンからアプト式登山電車とゴ ンドラ・リフトで 2964mの頂上展望台に上がってしまいます。新旧の小屋が2軒もある広いフラットな回廊があります。本峰は回廊からピッチング・ウェッジで十分届く距離 にあります。そして高さも2966mと2m高いだけなのです。主峰の稜線沿いに手摺りが見えました。前の日に雪が降り、一面の銀世界で、登山路に人影はあ りません。なんでもその雪の中の耐久登山マラソンで、ランナーの一人が亡くなったとのこと、Tシャツ短パンの軽装を「子供じゃないのに」と非難されていま した。
ともかく、かく申す私もこうして、シャモニーのゴンドラ・リフトでエーギュ・ド・ミディに上がって、モンブランに登ったと思っている人たちのお仲間に入っ たのです。
坊ちゃんを通して喜寿や峰の雪
§インスブルック
この日の午後、インスブルックを再訪しました。
8年前はスイス人のマイアー夫妻が妹と私を案内してくれたのでした。
マイアー夫人のキャシーが、私の母へと、チロルの名物である世界的に有名なスワロフスキーのクリスタルを買ってプレゼントしてくれました。
その夜のパーティで、彼らの別荘の隣人たちが、キャシーが元気になったと喜んでくれたことが思い出されます。今度もあのときと同じ、かってゲーテも食べた というレストランで昼飯にしました。
いったんは癌を克服したかに見えたキャシーは、再発、亡くなりました。
月日は確実に流れているのです。
空蝉や今生の身は借りしもの
この日は、インスブルックからイン河に沿って西に走りました。この河の北側つまりドイツの側の斜面は急傾斜ですが、南側は比較的緩 やかです。したがって谷は南側に発達しています。最初の谷がエッツ谷です。この谷は〈アイスマン〉で有名です。
1991年、山歩きを楽しんでいたシモン夫妻が、氷河で覆われた小渓谷 (海抜約3200 m) の溶けかけた氷水の中に褐色に変色し、骨や脊椎が浮き出た死体 (アイスマンと呼ばれる) を発見したのでした。 当初は、10年以上前に遭難した人と考えられていました。ところが警察によってインスブルック大学の法医学教室に運び込まれ、検死によって、はるかに古い 遺体であることが判明しました。彼は約5,200年前に生きていた、身 長159 cm、生前の推定体重40 kgの46歳程度の男性ミイラであることがわかったのです。
石の鏃のついた 矢が体を貫通し、肩甲骨に約2センチの穴を開けていました。重要な器官は傷つきませんでしたが、彼に致命的出血の傷を負わせたと考えるのが妥当だとされて います。
現代の環境保護原理主義者たちは、すぐ決まり文句として「人類は、昔は豊かな自然の中で平和に暮らしていたが・・・」と前置きしてから、現代文明の攻撃に 入るのですが、この前提は単なる思いこみ以外ではないのです。
ミイラは現在イタリアのボルツアーノの博物館にあります。発見場所がイタリア領だと主張し強奪していったと、オーストリア人の心のわだかまりになっている ようです。
われわれはその一本西にあたる谷、ピッツ谷を奥まで入ったホテルに泊まりました。
幻に氷河滑降弧を描く
3日目、この日はチロルの最高峰、ビルトシュピッツェに登る予定でした。
山腹の下を堀抜いた氷河地下鉄と称するケーブルカーで2840mの山上駅までゆきました。本来は、あとゴンドラリフトで3440mまで登り、3分歩けばそ こが山頂、絶好の展望台というプランだったのです。
ところがゴンドラリフトが不調のため調整中、ときどき動いてはいましたが、お客を乗せるわけにはゆかないとのことで、折角の好天なのにまことに残念でし た。
なだらかな2本の氷河の合流点にレストランがあるという、快適なスキーリゾートになっているのでした。私は雪原に分け入り、目の前に見える、氷河に舐めら れて丸みを帯びた片麻岩の小山の奥を、足に任せて一回りしてきました。この歳になっても冒険癖が顔をだすのです。
§ブレンナー峠
東進し、インスブルック市街を通り過ぎたところから南下すると、30分ほどで有名な「ブレンナー峠」にさしかかります。現在は使われていない国境検閲所が 意味するように、ここでイタリアに入ります。
ブレンナー峠はアルプスを越える峠のうちで、1375mと最も標高が低いのです。それだけに古くから交通の要所になっていて、BC3500年にすでに人が 峠を利用した痕跡があるとされます。その後もローマ皇帝、ドイツ皇帝などが、何回もここを通過し、モツアルト、ゲーテを始め文人墨客が往来した歴史があり ます。周辺は第一次世界大戦の激戦地でもあり、第二次大戦末期には、イタリアが連合国軍に寝返ると同時に、ここに待機していたドイツ軍が峠を越えてイタリ アに殺到し首都ローマを占領したのでした。日本の関ヶ原と同様に頸動脈にもたとえられる、峠のなかの峠であります。
§スフネ谷
しばらく南下した後、東へ向かう小さな谷、スフネ谷に入ります。この谷は住民が少ないのでしょう。舗装こそされていますが、曲がりくねった細い道を急角度 で登ってゆきます。狭い谷が開けると目を疑うような絶景が目に飛び込んできました。
みどり野や菩薩か夜叉か女とは
この地方では、理由はわかりませんが、小さな教会が部落から離れて緑の広がる牧場の中にぽつんと建てられています。それをバックにして、怪奇な形相をした ガイスラーの山並みがあるのですから、絶好のビューポイント、撮影ポイントになるわけです。そんな場所、3カ所に案内されました。その山容といえば、明る い、ややピンクがかった灰白色の岩の尖塔が、群になって地中から突きだしていると形容すればよいのでしょうか。周りの山は、緑の樹木に覆われた普通の姿を していますから、余計に怪異に見えるのです。最初にこの谷に分け入り、この山を目にした人類にとって、どんなに大きな驚きだったことかと想像しました。
大勢の観光客が押しかけることなく、静寂かつ清楚な、このスフネ谷とガイスラー山群を、ドロミテに触れる最初の地点として選んだ旅行社の演出は、まさに心 憎いものがあります。
なお、人類として始めてエベレストに無酸素で登頂したラインハルト・メスナーはこの土地の出身で、今でも彼のお姉さんが教会のお守りをしているとのことで す。
§サッソルンゴ
いったんドロミテ街道に戻り南下、今度はガルデナ谷を東進します。この谷は大観光地ですから美しいホテルや民宿が軒を連ねています。
怪峰サッソルンゴの麓、モンテ・パナのホテルに入りました。部屋からサッソルンゴがよく見えました。そそり立つ岩峰の中でも、まるで動物の犬歯のように先 の尖った円筒状の岩が印象的でした。
有名なホテルなのでしょう。名車のラリーがあるとかで、フェラーリ、ベンツ、ロールスロイスなどが駐車場に詰めかけていました。
大花野敷き伏す牛の目は優し
4日目、昨日暮れるまで見えていたサッソルンゴが、朝にはもう霧の中でした。そして、これからあと、旅を終わるまで晴天はなかった のです。
絶壁の裾を約3時間歩き、セッラ峠に出ました。
露に濡れた花野がなんとも素敵で、美しい道でした。
道端で母牛が、可愛くてたまらないように子牛の首を舐めてやっていました。子牛のほうも、なんとも甘ったれた目つきをしていました。自分の家で犬を飼うま では、こんな動物のボディランゲージを知りませんでした。でも今では、犬たちが声も出さずに目つきだけで「こんどはジーチャンのところへ行こうや」という ような相談をしているのが分かるのです。動物語というものを考えてみると、人類が操る言葉は、じつに広範で恐ろしく正確なものだと思わずにはいられませ ん。閑話休題。
その後、ポルドイ峠まで車で移動し、昼食をとりました。いよいよ雨が降り始めました。このとき、ツアーリーダーは今回の旅で一番難しい判断を迫られていた のだと思います。「昨日はこの峠で霰が降り、雷が鳴ったという。今日もこの様子では、目的であるドロミテ最高峰のマルモラーダ(3342m)の展望が得ら れるはずがない。ただ雨の中を歩くだけで、もしも雷の事故でも起こしたら・・・」そんな彼女の苦渋が痛いほど察せられました。
結局、ハイキングは決行になりました。ピエル・デル・パン小屋まで往復約3時間の雨の中のハイキングでしたが、私はよい気分でした。皆さんも歩きたい気分 だったようで、ひと言も文句は出ませんでした。
夕方7時近くミズリーナのホテルに入りました。標高1700m、濡れて寒い玄関ホールの待ち時間でした。
山上湖とは連想の多きもの
§ドライ・チンネン
5日目、いよいよ今回の目玉であるドライ・チンネン周遊ハイキングの日です。ドイツ語のドライ・チンネンとは英語でいえばスリー・チムニー、巨大な3本の 岩塔なのです。
朝はどうにか雲の切れ間もあり、美しいミズリーナ湖に雲のアクセントをつけた写真など写しました。
車でドライ・チンネンの駐車場までゆくと、もうまったくいけません。2時間半ほどドライ・チンネンの南壁の根本を見ながら歩き、ロカチェリ小屋に入り昼食 です。食事中に、一瞬、霧が薄れ三本のピークが見えました。「見えるうちに」と何人かが窓から写真を撮っていました。
その後は北壁の根本から多少離れ、いったん下ったあと登り返し、ドライ・チンネンの西側をとおり、出発点に戻りました。谷の最低点あたりの10mほどの岩 場で、少年がザイルを使って岩登りの練習をしていて、みんなで声援を送っていました。こんなにしてクライマーが育ってゆくのでしょう。
この日は、休憩時間を入れて約6時間のハイキングでした。腕時計の高度計の累積登り量は450mを示していました。
北壁側に回ってからは時雨模様で、ときどき強い雨にも遭いましたが、日がさしドライ・チンネンの全景が見えるときもありました。
北壁は垂直に切り立っています。なのに堆積面を示していると思われる、ほぼ水平の縞模様があり、なにか積んで造られたような印象も与えます。
体力を測りつ喘ぐ登山道
山を下りた足で、コルチナ・ダンペッツオの街へ行きました。標高約1200m、イタリア最大のアルペン・リゾートです。
買い物趣味のない私は、スーパーマーケットに入り、魚売り場を探しました。どの国でも肉類はほぼ同じです。野菜も果物もそんなに変わりません。でも、獲れ る魚は結構珍しいものがあるものです。だから魚売り場に興味があるのです。でも、ここのスーパーには並べてありませんでした。
棚には日本のアサヒの生ビールの瓶が並んでいました。もちろん外国製ですから高価です。そういえば街角で、トヨタ・セルシオのお店の案内も見ました。
6日目、北上し再びオーストリアに戻り、ハイリゲン・ブルートに入りました。
途中、リエンツの街を散策しました。ヨーロッパはもう夏期休暇に入っているので、広い石畳の道にはみ出したレストランのテントの席には、観光客が満ちあふ れていました。
ハイリゲン・ブルートは、ドイツ語ではHeilligen blut、英語では holly blood 聖なる血を意味します。キリストの血を携えて布教していた行者がここで息を引き取ったのが村の名前の由来だとか聞きました。私もこの歳になっ て、綴りなんかはどうでもいい、ボディ・ランゲージと似たような言葉で用を足そうと図々しくなっています。そうなってみると、英語はドイツ語から出たもの だという説が、なんとなく素直に納得できるのです。
この日の午後、3時間ほどの滝見物のハイキングに参加しました。
§グロース・グロックナー
7日目、実質的に最後の日です。山岳道路の終点フランツ。ヨーゼフ・ヘーエからのハイキングで、オーストリアの最高峰、グロース・グロックナー (3798m)を近くから眺めようという計画なのです。
朝、ホテルの部屋の小さな窓から、昨日は雲の中だったグロース・グロックナーが、真っ白に雪をまとい、そそり立つのが見えました。ただ、9合目あたりから 上に、小さな雲が絡んでいました。今日こそは晴れるだろうと、心が弾みました。
ハイキングをスタートし、山腹にくりぬいた6つのトンネルを過ぎましたが、出てみるとまたもやガスと雲、足元の谷底にあるパステルツェ氷河さえ、やっと見 えるたびに感激の声が上がるという情けないハイキングになりました。
約1時間半かけてエーデルワイスの群落のあるところまで行き、展望は断念し引き返しました。思えば8年前、インスブルックの北の山頂からも、グロース・グ ロックナーを探したことがありましたが、あのときも山頂にまみえることは叶わなかったのです。ま、人生は思うようにならないのが当たり前のことです。そう 諦観せず自己中心に走ると、無差別殺人なんかするようになってしまうのです。
ここのハイキングの道に、ある掲示がありました。説明には「ここグロース・グロックナーも古くからの国立公園である。世界で最初にを国立公園制度をつくり (イエローストーン)、自然保護の道を開いたのはアメリカ人ジョン・ミューアである」と書かれているのだそうです。世界のうちには何でも自分の国が最初に 発明したなどと主張する国もあるのに、なんとオーストリア人って、心が広いではありませんか。
ジョン・ミューラー顕彰
昼食後は、お買い物の時間です。でもここに博物館があると聞いた私は、そちらへゆきました。理科系の展示はありませんでしたが、フランツ・ヨーゼフ皇帝の コーナーには興味を惹かれました。1856年(幕末、ペリー来日が1854年)皇帝はお后を伴ってこの地に来られたのです。何時に村役場に到着されたと か、小学生たちが合唱をご披露し歓迎したとか、パノラマで展示してありました。私たちの年齢なら、各地方のお立ち台などで、明治天皇の行幸を記述した石碑 などに同様の記憶が残っているでしょう。
新興国でもあり、君臣関係を意図的に否定するアメリカ合衆国にはこんなことはありません。わが国にも似た、約400年にもおよぶハプスブルグ朝が続いた、 この国になんとなく共感を感じたのでした。
むかしウイーンのユースホステルで、オーストリアの青年が「オーストリア人は覇気がなくてダメだ。いまはみんなドイツ人にやられてしまってる」と嘆いてい たのを思い出しました。ともかくこの日の私は、大変、オーストリア贔屓の気分になっていました。
集合場所で待っていると、向こうの方からワーワーいう声が聞こえてきました。どうやら山岳耐久マラソンのゴールらしいのです。泊まっていたホテルの前か ら、このフランツ・ヨーゼフ・ヘーエまで、距離こそ13kmですが、標高差1600m登りの、それは厳しいマラソンです。バスが待っている場所まで歩いて 移動するあいだ、横目で眺めました。このマラソンは、最後のところで恐らく標高差500mはある岩壁を急登するのです。ランナーにとっては大変ですが、見 下ろす観衆からは丸見えです。豆粒ほどに見えるランナーたちは、もうのびてしまって歩いて登ってきます。岩壁を登り切ったところで気を取り直し、傾斜5度 ほどの車道をヨロヨロと駆け、ゴールへ倒れ込みます。観客たちは声援と拍手を惜しみません。
§ザルツブルグ
バスで東進し、16時近く、ザルツブルグ市のモツアルト・ホテルに投宿しました。
その後ミラベル庭園から旧市街を見学し、夕食をして午後9時にホテルに帰るまで、何度も激しい雷雨に襲われました。
8年前ここを訪れた頃、私は好奇心に満ちあふれていました。この街をベースにして、岩塩採取場、サウンド・オブ・ミュージックの舞台となったザルツカン マーグートなど訪ねたのでした。あのときは4月、光り溢れるミラベル庭園の噴水をロマンチックな思いに眺めていたのでした。
今度の再訪では、亡くなった友、会うことのなくなった友と、昔のことばかり、しきりに想われるのでした。
ミラベルはマロニエの咲き修道女
8日目の朝、ミュンヘン空港の気温は13度でした。機中泊し、翌9日目の朝8時、中部国際空港の気温は29度でした。
外来生物が在来生物を駆逐すると騒がれています。セイタカアワダチソウ、ブルーギルなどが悪者にされています。でも、暑くても寒くても平気で動き回り、資 源を使いまくる人間こそ、人間以外の生物にとっては、最強、最悪の外来生物に違いありません。
さて、今回の紀行文は一応ここで終わりです。あとは例のぐだぐだしたペダンティックな蛇足の部に入ります。読むのはお止めになったほうがよいかもしれませ ん。
§ド ロミテ地方について(その1)
勉強不足の私は、ドロミテにはドロマイトという珍しい岩石があって、ドライ・チンネンだけがあんな特異な姿をしているのだろうという先入観を持っていまし た。
今回の紀行文でも、ガイスラー山塊、サッソルンゴ、ドライ・チンネンだけに触れています。でも、実のところ、この地方では、いたるところが垂直の岩壁、角 柱、円柱、岩箱と、まことに怪異を極めた風景を呈しているのでした。山の平均斜度というようなものを算出してみたら、かなり90度に近くなると思われま す。こんな特殊な山国であるドロミテは 90km X 100km、一説によれば 180km X 110km、の地域で、標高3000mクラスの山群が 15あるそうです。
山の姿は、構成する岩の性質、隆起した高さ、隆起の早さ、隆起した時期、浸食に寄与する降雨の様相、樹木の有無などの条件で決められるのだと思います。
ドロミテの岩はドロマイトです。この岩は、地球上広く分布する石灰岩のカルシウムの一部が、マグネシウムに置き換わったものです。日本では栃木県佐野市の ものが有名です。石灰岩地方の海が閉鎖され湖状になり、蒸発で海水が濃縮され海水中のマグネシウムが石灰岩に入り込んだとの説があります。ドロマイトで は、石灰岩で出来た秋芳洞のような洞窟はできないといわれますから、侵食の様相が違うのでしょう。
ドロミテを形成する岩石は、2億-2億6500万年前頃、1億年以上かかって海底に堆積し、大きな厚い層となりました。そして60〜500万年前に、アフ リカ大陸とヨーロッパ大陸との衝突により、地殼が隆起し、海低の鉱床が地表に出現したとされます。
侵食に関係する雨量について調べてみました。
単位mm
年間総雨量
月 最大 月 最小 名古屋 1534 6月 217 12月 40 ミュンヘン 965 6月 129 2月 51
ヨーロッパでは、一般的な河の流れから想像されるとおり、雨の降り方は梅雨末期や台風による豪雨がなく、大人しいと考えてよろしいでしょう。してみると浸 食の主力は、岩の割れ目にしみ込んだ水が夜間に凍り、膨張して崩す作用が主力ではないかと想像します。
さて、ここまで調べてきても、どうしてあんな垂直っぽい地形になるのか、どうしても理屈が立てられないのです。
崩壊と岩屑の堆積
この件では、私はネットで調べることに、限界のようなものを感じているのです。
試みにネットで「ドロミテ」と検索してみてください。
「ドロミテという名前は、その発見者ドロミュー(フランスの化学、鉱物学者)に由来しております。彼は、1789年にローマに旅行する間に、Isarco 谷の中で奇妙な種類の岩を収集しました。後の検査で、岩が未知の鉱物ドロマイトで作られていることが判明いたしました」。この記述は,孫引き、曾孫引きさ れたのでしょう、沢山あるどのサイトでもほぼ同様であります。
ドロマイトが堆積した時期についても、ネットの情報では「地質時代に」とか「何億万年も前」とかで片づけていて、前述の約2億年前に辿り着くのにかなり苦 労しました。
1789年といえば、本居宣長の時代です。
地質に限らず学問の進歩は著しいものがあります。現在では、ドロマイトやドロミテの地形についても、専門分野では研究が進み、高度の知識が得られているに 違いないと想像するのです。
このことは、スコットランドの歴史を調べているとき、先住民といえば、なんでもケルト人で片着けていることについて、現在の専門家なら、もっともっと詳し く分かっているに違いないと感じたのと同様です。
世の中の、専門家と普通の人とのあいだにある知識の落差の大きさを感ぜずにはいられないのです。民主主義、ネット社会は質よりも数の社会です。そのため、 ただ、普通の人に分かりやすいと言うだけの理由で、お粗末な認識が大勢を制してゆく現状を、折角得られた人類の知識の宝を持ち腐れにしている、勿体ないと 思わずにはいられないのです。
専門家は大衆に迎合することなく最新の知見を主張し、大衆は専門家の意見を封殺することなく、尊重すべきではないでしょうか。
§ドロミテ地方(その2)
ミズリーナからハイリゲン・ブルートへ向かうバスの中で「右下の谷をご覧下さい」というアナウンスがありました。なんでも 谷底の村に教会が あり、その庭に見える大きな十字架をかたどって配置された施設は、第一次世界大戦で戦死したオーストリア、イタリア両軍の戦死者を合同で葬った墓地なのだ とのことでした。
1916年、第一次世界大戦開戦後、まだ中立の立場だったイタリアにイギリスから「もし協力参戦してくれたら、勝利の暁には南チロルはイタリア領にしてや る」という密約が持ちかけられたのだそうです。
そして、この地方一体が激しい戦場になったのでした。大砲、地雷、塹壕などいう恐ろしい名前がどんどん出てきます。岩に掘った塹壕ですから、いまもちゃん と残っています。ドライ・チンネンのあたりでも見られます。いま、バスで通っても、急坂を登ったり下ったり、日本では想像がつかない大変な地域です。どん なに骨の折れる戦争だったことでしょう。
「現在でもオーストリア人たちはイタリア人を快く思っていません。イタリアからオーストリアに入ったら、間違ってもボンジョルノ(おはよう)などイタリア 語の挨拶はしないでください」、そう注意されました。
ヨーロッパでの戦を想像しながら、日本国民の戦争経験について考えてみました。
日本の一般市民は、第二次世界大戦で始めて外国との戦闘に巻き込まれました。そして、沖縄、広島、長崎、東京など各地で、何十万人という死者を出しまし た。
唯一の地上戦は沖縄で戦われ、一般住民の死者は9万4千人とされています。
飛行機というジュラルミンの容器に隔てられ、お互いに顔を見会うことなく、短時間に数万人の命を奪う空襲もさることながら、地上戦では戦闘に晒される時間 の長さといい、殺意を持った相手が目に見える点といい、その悲惨さには大きなものがあります。
それでも沖縄の場合は、殺しに来たのが遠い国からきた外見が違う異国人であり、また、戦の終わったあとは、基本的には定住していないのです。
ところがドロミテの場合は、相手の姿を見ながら殺し合ったその相手は、前の日までそばに住んでいた隣人なのです。そして戦いが終わった後も隣りあって生活 しているのです。
中央政府である幕府により、17世紀初頭に国家体制が確立され、長期間、内乱らしい内乱がなかった点では、日本は世界でも珍しい安定的体制を備えた国だっ たのです。
ヨーロッパは先進地域といわれながら、多くの国では、遅くまで諸領主、諸侯などの力が強く、かつ領土の統廃合が頻繁におこなわれ、実質的な統一的主権国家 になったのはそんなに古いわけではありません。
ましてや世界を見渡せば、現在でも国連加盟約200カ国のうちでも、近代国家の躰をなさない内乱状態の国が多いのはご承知のとおりです。
下山路の風涼しきに人生論
日本人は幸いにして、他の国の人と比べ、戦争についての経験がはるかにとぼしいのです。平和を願うのにも、子供が「地震が来ません ように」と七夕の短冊に書くような能天気なところがありはしないでしょうか。
折り鶴を折って国連に持ち込めば平和が保たれ、またIAEAにお願いすれば原子力発電を叱ってくれると期待したような論調が見え隠れします。
ところがヨーロッパの人たちは、過去の経験からして人間の性悪説を捨てきれないでしょう。実際、世界のほとんどの国が、戦争の愚かさ、悲惨さをいやという ほど知り、熱烈に平和を望みつつも、なお平和が得られていないのが現実なのです。
元イギリス首相ウインストン・チャーチルの「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ」という警句が、改めて思い出されるので す。