題名:エブリ差岳、以東岳、粟が岳

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日付:1999/12/10


(99/10/7〜11)

いつものとおり、宿の手配は丸山さん、レンタカーは私、そのほかの仕事はそれぞれの分担です。

最初の日の夜、JR長岡駅の直ぐ横の、長岡ステーションホテルで合流しました。

私は、この日の昼、長野市内で開かれた会社のOB会に出席し、あと、鈍行の乗り継ぎで、ここまで来たのです。

 

・日短列車通学小学生

 

丸山さんは、仕事のケリをつけてから、名古屋から特急、特急の乗り継ぎで来ました。

彼は現役、隠居の私との差です。

 

翌朝、普通の人と一緒に7時に食事をし、レンタカーを借りにゆきました。

レンタカーの事務所に着いたのは、8時の開業前でしたが、若い背の高い女性が、気分良く受け付けてくれました。

車を飛ばし、三条市から東に入り、粟が岳を目指します。

登山口駐車場という看板がある、立派に舗装された駐車場に車を置きました。

なんとそこから立派な道を約20分ほど歩いて、本当の登山口に着きました。

情報が足らないと、こういうことになるのです。

もっとも、そこにはそんなに広いスペースはありませんから、登山シーズンで車が多いときには、下の駐車場に置くより仕方ないのですが。

しばらく登ると、5合目の、やや平らなところへ出ます。ここには立派な避難小屋があり、また、祠があって粟地蔵様をお祭りしてあります。

大谷石で出来た祠の中に、7体鎮座しておられました。

この辺りの亭々たるブナの大木の純林は、まことに見事なものであります。

 

・枯葉浮くブナの森なる泉かな

 

この日は、10月上旬にしては気温が高く、また当日、山はすっかり霧に包まれていたので、湿度は100パーセント、その猛烈な蒸し暑さに悩まされ、汗だくだくで登る羽目になりました。

さらに登ると稜線に出ます。そして間もなく左手に、北から登るコースの砥沢ヒュッテが見えてきます。

ここで丁度、昼になったので休憩をとり、パンを食べました。

休んでいる間に霧が一瞬切れ、頂上らしきものがちらっと見えました。道は幾つもの小ピークを越え、右から回り込んでいるようです。

この辺りから,道の刈払いがちゃんとできていなくて、紅葉が始まった山ウルシがとても気になりました。

若い頃、山ウルシに猛烈にやられました。鈴鹿の宇賀渓でキャンプ・ファイアをしていたときに、暗闇で扱った薪にウルシの木が紛れ込んでいたらしいのです。それ以来、私の体内にウルシに対する抗体が出来るので、とてもカブレやすいのです。

こうして4時間弱で辿り着いた頂上は、ただ霧の中でした。

こんな日でしたから、一日中、ほかの登山者にはまったく会いませんでした。

下山後、三条市、新潟市、新発田市を経て、今夜の泊まり、黒川村は胎内パークホテルまで3時間半ほどドライブしました。

経由したのは国道8号線と国道7号線、どちらも新潟市周辺では素晴らしい道なのです。

まるで、有料高速道路を、無料で走っている感じです。

今は昔、あの日本列島改造論者だった田中角栄総理大臣の地元だからなのでしょうか。

日本の、いわゆる裏日本で唯一活気のあるこの新潟地域は、新幹線と、この高規格道路網を抜きにしてはあり得なかったと思われます。

一方で不景気、失職を嘆きながら、同じ口で原始保全を賛美する、つまり変化を非難するその不合理に気がつかない「考えない人」が満ち溢れている世相に、理屈では理解しながら、腹からはどうしても同化できない私なのです。

少なくとも、新潟の人たちは、土地を有効に活かす方法を知ってしまったと思われます。

そして、いったんそれを知ってしまった以上、もう今後、教条的な開発反対の立場に、退歩してゆくことはあり得まいと思われます。

 

山形県と新潟県の県境にある飯豊山地は、南東から北西へと連なる全長約20キロの堂々たる山群です。

飯豊本峰などには,もう以前に登っていますが、今回は、まだ登っていない山群の西北端に位置するエブリ差岳を目指しました。

登山口は胎内小屋です。ここまでの胎内川には、県営の発電所が何カ所もありました。道が良く、観光地化の下地は出来ているような感じでした。

早朝の胎内小屋には、もう、車が10台ばかり駐車してありました。

ここからの広い舗装道路は通行止めにしてあるので、登山者は小一時間、てくてく歩かなくてはなりません。

もしも、この道路に車を走らせ登山口まで行けるようにしたら、胎内小屋の存在価値が大きく減少してしまうという、かなり政策的な判断なのだろうと思いました。しかし、この道には立派なトンネルを掘削中でしたから、いずれは車が通ることになるのでしょう。

 

この日登った、足の松尾根という変な名前の尾根は、かなりの難物でした。

標高差約1100m、4時間弱かかっています。

最初は木の根っこが網目状に露出した急な登りが連続しています。

尾根の中程は高低差は殆どなく、小うるさいアップダウンの連続です。ただし、痩せ尾根が続き、バランスの悪くなっている老登山家にとっては、緊張の連続を強いられます。

岩を抱いて回るようなところが2カ所,跳ばなくてはならない小ギャップがひとつあります。

 

・肝冷やす難所過ぎての昼餉かな

 

そこを過ぎて大石山にかかると、ふたたび急な登りになります。

大石山からは稜線伝いの道ですが、途中に鉾立峰という小ピークがあります。それを越え、小屋から少々の登るとエブリ差岳の頂上につきます。

車のところから5時間50分かかっていました。

大石山の登りで、たまたま単独行の中年の人と相前後するようになりました。

「私は遅いですから」と道を譲ったのですが「私にも丁度良いペースですから」と言って,話しながら登っていきました。

ここの麓の黒川村の村長さんは、遣り手企業家といったタイプの人なのだそうです。

昔の植樹祭の時、天皇陛下がこの村に来られたとき以来、中央官庁の人との面識を大事にして、村興しを心掛けておられるとのことでした。まるで株式会社黒川村なのだと、その方は面白可笑しくおっしゃるのでした。

このエブリ差岳は、さすがに有名な山ですから、この日も、4〜5組のパーティーが登っていました。

抜きもせず、抜かれもせず頂上に着いたのでした。

 

南方には、どっしりした門内岳がどんと座っています。

いかにも東北の山らしく、登山路などまったく目に入らない、雄大で、たおやかな稜線が、秋の色をまとい、目を楽しませてくれました。

 

・秋空に磐梯爪の先より小

 

間もなく小屋まで降り、また弁当を広げました。

ご夫婦で来ておられる奥様が「登ってきた尾根を、今日、また降られるのだそうですね。すごいですね」と、私におっしゃいました。我々の行程のことは、丸山さんから聞かれたのでしょう。

あの、危険っぽい尾根を登ってこられて、女性として、かなりこりごりしておられるのだろうと思いました。

私たち以外は、みな今夜はここの小屋で泊まり、あとは明日の行動ということになるのです。食料、寝袋を持ち上げるのも大変ではありますが、言われてみれば、折角ここまで登ってきて、またすぐ降るのが勿体ないという気がしないでもありません。

我々は、明日移動して、明後日は別の山に登ろうというのです。そして、何時もそんな登山ばかりしているので、勿体ないところに、気がつかなかったのでした。

下山路の安全圏内に戻ってからは、フィックス・ロープを100パーセント利用して、駆け下りました。

それでも、この日の行動時間は10時間50分でした。

 

この日の泊まりは、村上市のタウン・ホテルです。1時間半のドライブでした。

翌朝は、まず村上城に登りました。天守閣跡からは、昨日登った飯豊連峰、明日登る朝日連峰そして日本海、瀬波温泉がよく見えました。

村上市は静かな街でした。とくに観光客が動き出す前の、早朝でしたから、その町並みの昔ながらの雰囲気を楽しませてもらいました。

 

この日は移動日ですから、国道7号線ではなく、海岸沿いの細い道をのんびり鶴岡に向かいます。

「笹川流れ」という名の海岸では、岩壁美を堪能しました。また、もう間もなく冬に入る日本海の、透き通った潮の動きに眺め入ったのでした。

釣り糸を垂れている人もいましたが、この日は、魚さえも餌を食べるのを忘れるほどの美しい日和でした。

念珠関、鼠ケ関は、同じネズガセキで、どちらを括弧に入れるか迷います。丸山さんは2回目ですから、案内、説明をしてくれました。

平安時代から明治まで、ここに関があったのです。

最初の目的は、これから南は大和朝廷の支配地、北は蝦夷の土地という城壁に似た性格だったのでしょう。そして時代と共に、その機能は変化したのでしょう。

弁慶が勧進帳を読んだのは、北陸の安宅の関だと思っていますが、ここ念珠関も「此処こそ、その情景を彷彿とさせる」と、多少未練がましい解釈を書き加えてありました。

いずれにせよ、今は、観光地としての役目を期待されています。「地主」という民宿が頑張っていました。

 

鶴岡から南下し、泡滝ダムに車を置きました。

途中「滝太郎」という食堂で牡蠣フライを食べました。

ガイドブックによれば「タキタロウ」というのは、この日の午後我々が入る、大鳥池に住んでいるという、幻の大魚なのです。その大魚の噺を、地元の人たちがどう思っているのかと思い、食堂のお姉さんに水を向けてみました。ところが、この迷信爺いめと思われたのか、「大きなお魚です、箸袋に書いてあります」とあしらわれてしまいました。

若い人は冷たいですねえ。どうせ、伝説を100パーセントは信用はしないのですから、もうちょっと馬鹿馬鹿しい話をして、旅人を喜ばせてくれれば良いのに。

 

川沿いに、だらだら登って行きます。

韋駄天のような女性の二人連れが、追い抜いてゆきました。

瞬間速度は、私の2倍以上あったでしょう。もう、見る見る間に、視界から姿が消えてしまうのです。でも、不思議なことに、その後、彼女らを何回も追い抜きました。

小屋にはほぼ同時に着きました。

これほど、両極端なペースの登山者が出会うというのも、珍しい縁と思いましたので、とくに書き留めさせてもらいます。

 

標高差約500m、2時間半で大鳥小屋に着きます。

小屋への到着は、まだ16時半でした。それでもこの日の到着順はビリ2でした。

もう、部屋は一杯だから,玄関で寝るように言われました。

なにせ小屋は、この日定員一杯の大繁盛でした。飛び交う言葉こそ東北弁でしたが、その混み方は北アルプス並みでした。

小屋の外で、途中のコンビニで買ってきた中華弁当を食べました。

標高960m、寒さがひしひしと体にしみ込んできます。

17時半、ありったけの衣類を身につけ、寝袋に潜り込みました。

その直後、今日の最後の客が到着しました。

その人は、小屋の管理人にひどく叱られていました。山での常識がないと、お説教されているのです。そのお客さんは「終点の大鳥までバスできました。バスは14時に着きました。それから歩いてくるとこの時間になちゃうんです」と、言い訳していました。

レンタカーで泡滝ダムまで入った私たちより、その人は、かなり余分に歩いて来たのです。

管理人さんのお叱りをまともに聞けば、この小屋には、公共交通機関を使って来てはいけないよ、ということになります。しかし実は、管理人さんも小屋が大入り満員なので、ご機嫌が良く、元気が出ていたということのようでした。

その内、ウトウトしていると、なんとか場所が出来たからと言って、私たちも台所の隅に入れてもらえました。

 

次の日は、朝5時に起き、朝日連峰の西北部の雄峰、以東岳(1771m)に登り、駆け下り、鶴岡発15時半の特急に乗り、名古屋の自宅には21時半に帰り着いたのでした。

 

この時期、東北の山の標高1500mあたりは、どこも紅葉が真っ盛りでした。

そして今回の山行では、3つの山とも、見事なブナの森に目の保養をさせてもらったのでした。

 

・秋の夜に低く呟くブナ大樹

 

今回の山旅では全行程を通じ、長い年月、山の友達だった伊藤さんのことを考え考え歩いていたのでした。その彼をつい10日ほど前、ガンで失ったのです。

とくに以東岳(いとうだけ)では、彼の性と同じ発音なので、なにか因縁めいた気持ちで足を運んでいたのでした。

 

彼と過ごした山の思い出を、弔辞から引用させていただきます。

 

「その後、同じ仕事をする機会はありませんでした。ご一緒するのは、もっぱら山でした。

丸山さんを大将にして、本当に、数え切れないほどの山々に、ご一緒させていただきましたね。

我々一同、なにせ口数の少ないメンバーが多く、一日に何回も口を利くこともなく、ただ、黙々と歩いていることが多かったように思います。

それでいて、心は通い合っていましたから、飯を食うとか、タクシーを呼ぶとかの、次ぎに起こるアクションには、言わず語らず、みんなでスーッと入ってゆけたのでした。

 

年長で体力のない私は、いつも伊藤さんに助けていただきました。よく、重いバーナーセットを担ぎ上げて下さり、熱いお茶を飲ませていただいたことが忘れられません。

 

また、あれは九州の山だったと思います。

そそっかしい私は電気剃刀を忘れて、貴方からお借りしました。電池が弱っていたので、あるかないかの私の髭はスット剃れましたが、髭の濃い貴方には苦しそうな音を立てていましたね。

こんなにして、あんな事もあった、こんな事もあったと、懐かしい思い出は、際限なく湧いてくるのです」

 

伊藤さんは今年2月に、体のバランス感覚の異常に気がつかれたのでした。でも、その時にはもう、腫瘍は脳だけではなく、手が着けられない状態になっていたのでした。

その後、周囲の人たちに、健気に、かつ優しく気を使いながら、あっという間に逝ってしまったのでした。

今度、秋の東北の山々を巡り、あるときは岩角を辿りながら、またある時は黄金を敷き詰めたような落葉を踏みながら、私が死んだときには、誰がどんな弔辞を読んでくれるだろうかと思いながら歩いていたのでした。

 

・幽谷の暗きに秋津光り舞う

 

多分、私への弔辞では、あんなに大酒を食らったのだからとか、年も考えず山ばかり行って無理してた、起き抜けの空腹時に酷暑厳寒朝の散歩をしてた、70の手習いの能舞台で極度の緊張をしてた等々、あまり褒められない原因がゾロゾロ繋がって出てくるのではないかと心配です。

だから、弔辞は願い下げたほうが良さそうです。

 

世間では、よく、あの人が死んだのは何々のせいだと言います。

確か、哲学者にしてフランス首相を勤めたクレマンソーの言葉だったと思います「すべての結果は必然なのだ。ただ、原因と結果との関係が余りに複雑で理解できないときに、人は偶然と呼ぶ」。

 

医療が進み、ガン以外の病気で死ぬ人は、3人の中の2人にまで減ってしまっています。ガンは依然として、難しい病気です。。

なぜ、そのガンになったかの因果関係は、一体、どこまで深く考えられるものなのでしょうか。

ヘビー・スモーカーだから肺ガンになったという論を始めにして、何々だから何々ガンになったという因果話は、無限の一歩手前というほど沢山あります。

しかし、これら山盛りの因果話の中で、専門家たちのディスカッションに耐えられれものは、意外に少ないのではないか思われます。

例えば、上役にいびられたストレスが、ガンの原因になったという話になると、私には、もうエモーションの世界のようにしか感ぜられないのです。

クレマンソー流に言えば、ガンに冒されたということは、体の中のどこかの臓器の細胞の、何番目かの遺伝子の、DNAのどこかの部分が、どのようにか壊れたことであるのには相違ありません。そして、それが壊れたのには、しかるべき原因があることも認めます。

しかし、原因をそのレベルまで掘り下げると、私はもう降参して、偶然を持ち出したくなるのです。

どうも私は、ガンだけでなくて、交通事故でも何でも、そのレベルまで考えるタチなのです。それで、死ぬ原因は、生きていたからであることから始まって、人間には分からないけれども、始めから道筋が決まっていたと考える運命論者なのです。

 

さて、連休の最終日のJRは大変です。

山形県鶴岡市から名古屋までの旅程の半分近くは、席がなくて立っていたことになります。

もしも、こんな特別な日に、全部のお客さんを座らせようとすると、車両も運転手も今の50パーセントほども余分に必用でしょう。過密な路線では、線路も余分に要るかもしれません。

それでいて、そのほかの普通の日には、お客は充分なくて、何割かの設備と人を遊ばせているのでしょう。

長年、電力会社にいた私としては、つい仕事のことが頭に浮かびます。電気は、JRが、お客様に立っていただくような、つまり到着することは到着するけれども疲れる、というようなスタイルの処理ができないのです。

電気が来ることは来るが、多少我慢が要るというようにはいかず、どうしても、電気が来たり、来なかったりということになってしまうのです。

発展途上国のうちには、いまだに電力不足の国もあります。頻繁な停電が絶対に駄目だという事態とは思いませんが、今の日本の電気器具の使用状態に当てはめると、とんでもなく大きな混乱が起こると思われるのです。

客車の通路に立ちながら、悪いのはJRじゃない、特定の日に詰めかけるお客の方だ、というようなことを考えていたのです。

でも、お客の方だって、その日しか休めないのだから、止むを得ずそうしているのです。

私だけのことを言えば、現在はもう毎日が休日の隠居の身なのです。本来は、こんな時期に旅をしては叱られるのかもしれません。

それが、現役の丸山さんのおかげで、なんとか交通戦争を経験させて貰っているといえるのです。

現役を去って2年半、この私めは早くも「憂しと見し世ぞ、今は恋しき」の心情なのでありました。

 

・妻に告げん桜紅葉は盛りよと

 

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