エジプト やぶにらみ
(2007/9/14〜23) 

重遠の入り口に戻る



なんだかおかしな題です。実際、この旅行記は題だけじゃなくて中味もおかしいのです。
たしかに10日間エジプトを旅し、いろいろと見聞してきました。でも、今までの旅と違って、いまいち感激を感じていないのです。
まともな旅行記にでてくる観光対象については、ほとんど触れていません。なにせ、こぼれ話ばかりですから、お読みにならない方がよいかもしれないと思いますよ。

暑いことは暑かったのです。訪問先の一番南はアブ・シンベル大神殿です。ここは南のスーダン国境まで約50km、北緯22度、台湾の南端とほぼ同じですか ら、もう立派な熱帯です。滅多に雨の降らないガンガン照りの砂漠で暑いこと暑いこと。岩の壁に彫り込まれた折角の価値あるレリーフなのに、丹念に見るほど の根気は失せていました。帽子をポケットにねじ込んだまでは覚えているのですが、注意力が散漫になり、いつの間にか紛失してしまいました。

ラムセス
アブ・シンベル大神殿 4体ともラムセス2世


エジプトで寒い目にあったといえば不審にお思いになるでしょう。それは列車の中のことだったのです。
問題は、カイロからアレキサンドリアに向かう一等車の冷房でした。これは実によく冷えました。あまりの寒さに、添乗員さんが現地ガイドにメチャに冷えてる じゃないのとツッコミをいれました。でも、現地ガイドは「ほんとによく冷えてる。大サービス」と答え、始めからギブアップしているのです。
エジプトはタクシーにメーターが付いてはいても、回ってはいない国なのです。おまけに車両は日本製ではなく、スペインあるいはフランス製とのこと、窓は作りつけで開閉できません。わたしも早々に観念いたしました。
同行の皆さんは「隣の箱は暖かいぞ」とか、いろいろ努力しておれられました。しかし指定席であることもあり、結局、車両の前後の通路のドアを開け放しにし て暖気を取り入れるのが精一杯の対策でした。それをまた車掌が通るたびに律儀に閉めるのには閉口しました。私といえば約3時間、平静を装っていました。で も、背もたれから薄いシーツをはぎ取って膝に掛けていたと白状すれば、どんなに耐えていたかおわかりいただけることでしょう。

アレキサンドリア市での最初の見学ポイントは、コームッシュアーファのカタコンベでした。地下のお墓に下ってゆき説明を聞いているうちに幽かな便意を感 じ、なんとなく頭から血が引いてゆきました。グループから離れトイレをすませ、バスの座席で横になっていました。こうしてその後のポンペイ塔見学と昼食は パスして休んでいました。午後のアレキサンドリア国立博物館には、どうにか参加できました。
夕刻、カイロに帰ってからの夕食では、警戒しながら、ほんの少しだけ食べてみました。ところが、たちまちあぶら汗が湧いて気分が悪くなり、トイレに駆け込 みました。この日は一日中、手足の指先が冷たい感じでした。それでホテルでホットシャワーを思いっきり浴びましたが、妙に体が暖まってきませんでした。と もかく部屋の冷房を切って寝ました。

おかげで、翌朝はかなり気分がよくなっていました。手で腹を押してみると、胃だけでなく全体に鈍痛がありました。夜中、一度もトイレに行きませんでしたから、そうひどい下痢でもないのです。
翌朝はパンと卵を内臓が受けつけました。昼には恐る恐るコカコーラを飲んで、軽い刺激を与えてみました。これはオーケーでした。発症から24時間経ったあたりから、めきめき元気が出てきました。そして、夕食にはビールを飲んでもなんともないまでに回復したのです。

ここで、さらに話は脱線します。
私の母は病気になったとき自己診断をする癖があります。健康なときは、身体検査と称して近所のクリニックに定期検診にゆくのですから、とくに医者嫌いとい うわけではないのです。ところが実際に病気になると「これは肝臓が悪いのだから、2〜3日断食していれば良くなる」「いまが病の峠で、一番悪いところだ。 あとは良くなる一方」というようなことを宣言して、医者にゆきません。
わたしたち子供達も「おばあちゃんは医者より偉いんだから」とか「治らないビョーキは一生に一回しかないんだから」など言っては匙を投げているのです。そんなにしながら母は、先日、満100才の感謝状を総理大臣からいただきました。
わたしも母のDNAを受け継いでいますから自己診断をしてみましょう。今回、わたしがエジプトで罹った病名は「ストレス性胃腸障害」であります。念のため ネットで「寒冷ストレス」を引きましたら、その症状として「子豚の下痢」が出てきました。お前のようなジジイが可愛い子豚チャンを引き合いに出すとは僭越 ではないか、いっぺん鏡で自分のシワとシミだらけの顔を見てみろといわれそうです。でも、豚だったら77歳まで生きさせてはもらえないのです。だから年寄 り豚についての記述がないのです。
ツアーの一行のうち何人かが体調を崩されたようでした。でも、私が一番重症でありました。寒いといっても胴震いがでるほどではありませんでしたから、なん のコレシキとばかり、イイカッコウをしていたのは事実です。でも年老いたいまは、もう無理の利く体ではなくなっているのです。「年をとったら義理を欠け」 というのはこのことなのでしょう。

ここまでお読みになって、なんでこれがエジプト旅行記なんだと、私のことを軽蔑なさっているでしょうね。
わたしも本心、読み続けるようにと、おすすめする気はないのです。

1日目、パックツアー参加の25名が、朝8時半、名古屋駅西口に集合しました。関西空港まではバスです。そこからカイロまでは約13時間のフライト、すぐ乗りついでルクソールまでゆきました。ホテルの部屋に落ち着いたのは0時40分、時差が7時間あるので実質23時間の旅でした。

2日目、メムノンの巨像、王家の谷、ハトシェプスト女王葬祭殿、カルナック神殿、ルクソール神殿と盛り沢山の観光でした。
ルクソール周辺の遺跡は、三千数百年前、日本でいえば縄文後期頃の遺跡です。遺跡の壮大さもさることながら、エジプトには文字があったため、当時の王家 や、神官たちの勢力の消長などもわかっています。その人たちの権力闘争の様子は、かれらより二千数百年後の日本の平安時代と似ているように思いました。
まったく、世界を見てまわるということは、人を謙虚にさせるものです。

3日目、バスでナイル川に沿い南下し、途中、ホルス神殿、コムオンボ神殿を見て、アスワンの街までゆきました。
二つの神殿は、いずれも古くからあった神殿を二千数百年前に改修したのものです。そのため比較的傷みが少なく、一部の壁には色さえ残っています。
この時代にはもうローマの影響を受け、女性が女性らしく表現されています。つまり、脚の表現を、古代にとられていた木の幹のように描く画法を卒業し、ふっくらと丸みを持たせて刻んでいます。
そういえば、パピルス製品を売っている土産店には、太古の女性の姿を、まったく現代風に、B・W・H何cmとでも表現されるように美しく描いたのがありました。わたしならこういうのを買いますね。

このルクソールからアスワンまでと、後日のアスワンからアブ・シンベルへのバス移動は、コンボイ方式(護送船団方式)で運行されました。決った時間に街の 一カ所にバスや乗用車が集まり、集団の前後を警察が押さえて運行されます。もう集合する地点から、銃を構えた警官が取り囲み、ものものしい警戒です。道の 途中には柵を置いて一般車の検問を行っています。そんな場所の見張りの塔では銃を持った警官が見下ろしています。
エジプトの国家収入は、大きい順から、石油輸出、観光、出稼ぎ、スエズ運河使用料だそうです。観光客が減ったら大変です。だから安全には大変に気をつかっているのです。

アスワンでの泊まりは、カタラクト・ホテルでした。このホテルの旧館の一室で、アガサ・クリスティが「ナイル殺人事件」を書いたことが、このホテルのウリ になっています。カタラクトというのは、瀬というのでしょうか河床に岩が現れ、流れに抵抗を生じている場所なのです。ナイル川には数カ所あるのだそうです が、エジプトに入ってから地中海まで約1000kmのあいだには、ここ一カ所だけなのです。

ナイル
ホテルの窓からのナイル川 緑そして砂漠


ホテルの窓から外を眺めると小さな岩山が見えました。登ったらさぞかし見晴らしがよかろうと思われました。一人で登ってゆくと、途中にヌビア博物館があり ました。スーダンと接する、このエジプト南部地域はヌビアと呼ばれます。人種的にも北のエジプト人と違うヌビア人なのです。色が黒く、背が低いのです。残 念ながら博物館は休館時間でした。山の頂上からはアスワン市街が見下ろされます。緑があるのはナイルの川沿いのほんの少しの低地で、あとは荒涼たる岩と砂 の世界、そこにごみごみと家々がひしめいています。そうそう、アスワンでは最近、始めてエスカレーターが登場したそうで、それをウリにしてお店の宣伝をし ているとのことでした。

ホテルに帰るのに、来た道ではなくヌビア人の部落を抜け、ナイル川沿いに帰ってみました。部落のなかは舗装もしてない曲がりくねった道でした。小さな子供達が珍しそうにハロー、ハローと言ってついてきます。彼らをデジカメに写し、デスプレイで見せてやりました。
話に聞いていた、素焼きの壷に水を入れ、しみ出た水の蒸発熱で冷やしているのが道端にありました。これを無邪気に、地元の人の知恵だと賛嘆する向きもありましょう。でも、そういう種類の人に限って、自分ではミネラルウオーター以外に手を出さないものです。

部落の道の真ん中で、男が二人口論をしていました。巻き込まれたら大変だと思い、急ぎ足で通り過ぎました。20mほど過ぎたところで、にわかに慌ただしくなりました。
振り返ると一方が露地に逃げ込み、もう一人が追いかけてゆきました。
すると、村じゅう、どこからでてきたかのと思うほど沢山の男たちがふたりを追って走ってゆきます。喧嘩の仲裁なんでしょうか。女たちは家々の門口に出て、心配そうに成り行きを眺めています。文字通り、村をあげて個人の喧嘩に関わっているのでした。
つい日本でも、鎮守の祭りには村をあげて囃すのを連想してしまいました。
「世間体が悪い」「村八分だ」といった村の論理が支配していた昔の日本の田舎が、まだここでは健在なのだろうと想像しました。

ホテルの近くまでくると二人連れの若い男が「ジャパン?」といって握手を求めてきました。このあたりの人たちはやたら握手をするのです。
ひとりが、近くの店で飲まないかというようなことをいいました。夕飯はホテルで食うことになっているというと「すませてからこい、9時でも10時でも待っ てる」というようなことをいうのです。オーケーとはいいましたが、相手も当方も、実現することのない、うわべの口約束であることを承知のようにニヤッと 笑って別れました。

さて、ホテルの入り口では、門番たちが夕食を食べていました。そして、私にちょっと食べてゆけと、スプーンを差し出すのです。丁重にお断りしましたが、若くてピチピチの胃袋だったら、一口二口お相伴してあげたい雰囲気でした。
もしも、さっきの二人連れと、夜、落ち合ったらどうなったと想像されますでしょうか。
わたしは、結構おごられ上手だと自認しているのです。何年か前、タスマニアでスコットランド人の青年にお茶をおごられたことがあるのです。
ジョークの世界では、スコットランド人はけちんぼの代名詞として登場することはご存じでしょう。なんと、そのスコットランド人におごってもらったのです。
今回の実現しなかったご招待でも、わたしは十中八九まで、ヌビアの人たちとなんか賑やかにやって、いい気分で別れたことだろうと思います。
万が一という危険性はありますが、百万に一という危険ならば、幾ら用心しても避けられるものではありません。どこまで楽天的に生きるか悲観的に考えるかは天性のもののように思われます。

4日目、5日目、アブ・シンベルでホテルに泊まり、大神殿、小神殿の見学、夜の「音と光りのショー」を見物 しました。ホテルの電話機は指で回すダイアル式でした。今どき珍しくて、写真に収めました。また、エアコンの元気のよい大声に出会ったのも、アメリカの モーテル以来で、久し振りのことでした。

アスワンへの帰り道にアスワン・ハイダムを見学、17時発の夜行寝台でカイロに向かいました。この日は地平線に、朝日が上り夕日が沈んでゆくのをじっくり と見ました。地表の空気には砂漠の砂塵がしっかり含まれていますから、ススでいぶしたガラスなど使わなくても、丸い太陽をしっかり見ることができます。も ちろん、邪魔になる雲など、切れっ端さえありません。

・日の出入りともに酷暑の砂漠なる

バスを連ねてアブ・シンベルまで約300km、例のコンボイ方式で、3時間ほど、ノンストップで突っ走りました。大まかにいえばナイル川に沿って南へ走る のです。ナイル川は左手の低いところを流れているので、一度も目に触れることはありません。ただひたすら砂漠のなかを走るのです。
このあたりの地質は、過去にケニア、モロッコなどを旅行したときに印象づけられたアフリカ大陸らしい赤いラテライトではなくて、白っぽい砂や岩の砂漠でありました。
ところどころ、ピラミッドのように見える、先が尖った左右対称の小山が見えました。「ときどき、あれもピラミッドかと聞かれるが、ピラミッドはずっと北のカイロだけ。あれは自然の山」とガイドさんがいいました。
そういえば2日目の王家の谷のどん詰まりにも、ピラミッドによく似た山の頂が見えました。殆ど雨が降らず、水流や植物によって削られることのない、緩慢な 風化で造り出される地形が、エジプトの旅の4日目には何となく理解できるようになってきていました。一種のメサ地形で、上に固い岩があり下の軟らかい層が 崩れてゆくのです。高松市に近い屋島の、天井に相当する岩が、風化して点のように小さくなったことを想像すればよいのです。

蜃気楼が見え始めました。すごく大きな湖があるように見えるのです。向こう側にある黒い小さな丘の影まで水面に映っているように見えます。そんなにまで、まことしやかに見えるのには驚かされました。
熱砂に焼かれ、喉の渇きに苛まれている探検隊が、前方に湖やオアシスを望みながら、ゆけどもゆけども現実のものにならない失望感を、昔、本で読んでは身につまされたものです。
それを、いま時速100kmで走る、冷房の効いたバスの車窓から見ているのだと思うとなにか変な気がしました。

・島影を映し静もる蜃気楼

あと50kmほどでスーダンとの国境というあたりで左折し、ナイル川の岸にあるアブ・シンベルに向かいます。そのすぐ手前で、にわかに人間の手になる光景が現れます。貧弱な植林、そして集合住宅と大変電所がそれでした。
そういえばアスワンからずっと道路の西側に大きな送電線が並行して走ってきていました。
ここがトシュカ・プロジェクトのポンプ・ステーションなのです。
アスワン・ハイダムで堰きとめられたナセル湖の水を汲み上げ、西側の低地に流し、新しく人間が生きてゆける農地を作る計画が進行中なのです。
新しく創出される耕地面積は5665平方キロメートル、三重県ほどの面積で、数百万人の人が移住できる目論見だとのことです。
エジプトの人口は、第二次世界大戦が終わった約60年前には1900万人でした。それが現在では約7500万人です。
最近では毎年250万人づつ増えているそうです。そのため、たとえば学校の建物の建設が間に合わないので、学校制度を暫定的に変えざるを得なくなっています。
ガイドさんに尋ねました。「それじゃ、人口は4年前は6500万人だったのか?4年後には8500万人になるのか?」。答え「以前は、人口、ちゃんと分 かってなかった。最近、物価が上がったから、子供あんまり作らない」。でも、ほんとのところ、どうなるのでしょうか。ともかく、環境原理主義者たちから自 然環境に変化を与えるようなことはするなといわれたら、エジプト人たちは「それじゃ、どうしろというのか」と怒り出すのは間違いないはずです。

アブ・シンベルには、例のダム水没にともなって移設された、ラムセス2世の大神殿があります。豊かな地中海沿岸から1000kmも内陸に入った、こんな砂漠の中の地点が、どうして神殿の候補地に選ばれたのかと思いました。
われわれのようにバスでせわしなく通過する旅人が想像するのとは違って、大昔にはどうやらスーダンとの紛争の押さえの戦略地点として、エジプト王家とは馴染みの深い土地だったようなのです。

1970年、ソビエトの援助で造られたアスワン・ハイダムは、洪水時に上流から大量に流れ込んでくる水を食い止め、渇水のときは貯めておいた水を計画的に下流に補給してやるのが役目です。
エジプトではほとんど雨が降りません。そのためナイル川の両岸の狭い平地と、河口部分の三角州でしか、水の恵みを受けることはできません。このため国民の95%が国土の5%しかない緑地で暮らしているのです。
ナイル川の長さは約6800km(これは札幌から鹿児島までの距離の4.5倍にあたる)関係する国は10カ国におよぶといわれます。

貯水池の長さは550km(名古屋から仙台の先までにあたる)貯水容量は1620億トン、日本中にあるダムの貯水容量の合計は174億トンですから、それ の約9倍もあります。平均すれば2年分の流入量を貯められるのです。こんな巨大なダムはほかに聞いたことがありません。こんな大ダムですがこの水を使って 発電する発電所の規模は210万キロワット、原子力発電機2台分でしかありません。

アスワン地点では、平均的には年間840億トンの水が得られる計算です。その80%が洪水期、20%が渇水期に流れてきます。
また、年によっても増減が著しく、過去の年間流量の数字は1500億トン(1878年)から420億トン(1913年)と大きく変動しています。
自分勝手に流れ込んでくる水をダムで平均化し、災害を防ぎ、人間に役立つ水として価値を生み出しているのです。

予想外の洪水に襲われた場合でも、ダムの上端からは水が溢れないように洪水捌けが設けられています。アスワン・ハイダムではダムの上流300kmのところ で、西側の砂漠へ水を逃がすように広い溝が掘られています。ダムが完成してから、洪水捌けが1回も働いていないという説と、1回は溢水したという説とがあ りますがどちらが本当でしょうか。

貯水池の上流部200kmほどは、スーダン国内に達しています。水の価値に目をつけると、当然、国家間の問題を生じます。
上流の国からは、水がドンドン蒸発してしまうエジプトで無理して野菜を作らなくても、上流の緑豊かなわが国で作って売るようにすればいいじゃないかという意見はでています。
西欧諸国の勢力が強かった1920年代に、第三者的見地から、ナイルの水利用の権利は、エジプトが12分の11、スーダンが12分の1と決められました。第二次世界大戦後各国が独立し、過去の取り決めはご破算になりました。
まったく水資源のないエジプトは弱い立場です。1959年、エジプト4分の3、スーダン4分の1と改訂になりました。

ともかくエジプトでは、人間と河川の水との関係が、ギリギリの限界までにあからさまになっているのです。
およそダムとか水路とか、河川の水の防災や利水について口を出そうとするのなら、エジプトの現実を勉強すると大層タメになります。
ま、あんまり深く考えず、国連に折り鶴を持ち込めば平和が実現するような気分で空騒ぎをしているほうが幸せかも知れませんが。

6日目、アスワンから夜行寝台列車を使い、12時間の旅で、朝5時にカイロに着きました。
朝、ホテルのロビーで時間つぶしをしていて、ふと窓の外に目をやると、空に白いものが見えるではありませんか。「ひょっとして雲では」というと、みんなが 雲だ雲だと、ひと騒ぎしました。ここカイロは、昨日までいたアブ・シンベルから地中海に向かって800km北上したところで、あと海まで140kmなので す。雨は1年に数日しか降らないそうですが、雲ぐらいはたまに湧くのでしょう。カイロは北緯30度、この時期の気温は、NHK国際テレビで見た名古屋(北 緯35度)の気温と殆ど変わりませんでした。

一日かけて、ピラミッド発祥の地サッカーラ、巨大ピラミッド群のギザ地区、古都メンフィスを見学しました。

ガイドさんはここに巨大ピラミッドが造られたころ、世界の人口は5000万人、エジプトの人口は1000万人、世界中でずばぬけた文明国だったのだと誇らしげに解説しました。
この数字自体はどこまで当たっているか分かりませんが、文明を論ずる場合人口が大きな判断要素になるのですから、わたしは好意的に受け取りました。

かの有名なピラミッドやスフィンクスの前で、自身の写真を撮りたいという人たちが、世界中から集まってきているという印象でした。

ギザ地区のピラミッドが、意外に大きく、また角度が急に見えること、市街地に近接していることなどを実感することができました。

一番大きいのがクフ王のピラミッドです。使われている石材が大きく、品質も最高です。
2番目のものはクフ王の子のカフラー王のピラミッドで、全体のサイズも石材のサイズも小さく、風化もひどく、四角い石の角が丸くなっています。
3番目のものはクフ王の孫のメンカウラー王のもので、サイズはぐっと小さく、葺き石として良質の花崗岩を使い始めましたが、途中で王が亡くなり未完成のままで終わっています。(売り家と唐様では書いてありませんでしたが)

これをもって古王国時代の巨大ピラミッドは終わり、やがて新王国時代の神殿造りに移行してゆきます。
日本でも仁徳天皇陵などの巨大古墳を終わりとし、古墳時代から仏閣建立へと移行したのに似ています。
エジプトと日本では場所も離れていますし、移行の起こった時代も全然違います。両者はそれぞれ、独立して起こった事象です。人間、ホモサピエンスの考えることは、所詮、同じなのでありましょう。

クフ
クフ王ピラミッドの巨石



ピラミッド
直ぐ向こうが大カイロ市


わたしたちはカフラー王のピラミッドの中に入りました。狭い通路を2回上下すると部屋があります。通路には木製の手摺りがついています。なにせ暑いので、 汗で濡れ、握るとぬるっとしました。始めは嫌でしたが、なにせ腰をかがめて歩かなくては頭が天井に支えてしまうので、やむを得ず手摺りのご厄介になりまし た。衛生もなにもあったものではありません。ここに来る人はみんなそうしているのです。
ピラミッドの奥の部屋の壁には落書きがありました。
SCOPERIA DAG BEIZONI  2 MAR 1818 と読めました。イタリア人だそうです。ボールペンでちょこちょこなんてケチなものではなく、30cm角ほどの字で、大書してあります。もう5000年も経つとこれにも解説が付くのでしょう。

ピラミッドに使われている石材は、何種類もあるのだそうです。
わたしの目についたのは、僅かな花崗岩を除いては石灰岩が殆どでした。
小学校の頃、理科の時間に石灰岩に希塩酸を注いで炭酸ガスを発生させてから、石灰岩は溶けやすい、だから鍾乳洞になるのだと思いこんでいます。
ところが世界中あちこちで、結構、石灰岩が構造物に使われていることは意外なほどです。
パック旅行ですから、そう自分の好きなところに時間をかけることはできません。感じだけですが、エジプトでは建材の主体は石灰岩のようでした。
帰国後調べていると、ギザのあたりの地盤は石灰岩で、それも古第三期のものだと知りました。古くても6500万年前、海の底で生まれたのです。
地球の現在の陸地は、ゴンドワナ大陸が分裂、移動したものだと説かれています。分裂を始めたのは4億年前ごろからといわれています。解説図にはアフリカは その主要部として描かれていますから、アフリカこそ元祖大陸、4億年以前の岩石でできていると思いこんでいたのでした。おおよそのストーリーとしてはそう かもしれませんが、ある時期、アフリカの北東部は海に沈んでいたのでしょう。素人だからこそ、こんなことも目新しく、楽しめるのです。

7日目、アレキサンドリア日帰り往復。
冒頭で、ぼやきましたように、この日は一等冷凍車事件で散々でした。
アレキサンドリアは美しい街のようでした。海岸道路には自動車が大層沢山走っていました。

8日目、午前はエジプト考古学博物館の見学、午後はオールド・カイロとイスラム地区を訪ねました。
考古学博物館では、内部の撮影は一切禁止です。改めてロンドンの大英博物館がオールフリーだったことに尊敬の念をおぼえました。
ここに限らず、エジプトではどの観光施設でもカメラ・ビデオの持ち込み禁止は一般的です。まあ、安全確保上の理由だと理解しておきましょう。
われわれは、優秀なガイドのおかげで、ツタンカーメンの展示を最初に見てしまいました。あとから通りかかったときは、もう芋を洗うように混んでいて、とても見られる状態ではありませんでした。

日本円で2000円ぐらい、エジプトとしては高額の追加料金を払ってミイラを見ました。女性には髪が作りつけられています。
カラカラに乾き、真っ黒になったミイラから表情を読み取ることなどできるはずはないのです。でもわたし的には、ラムセス2世の顔には、もっと生きていたい という意思表示を感じたのです。「ラムセス2世は自己顕示欲が強いだけでなくて、90才を越え長生きをした。それだから自分の像をあんなにも沢山残したの だ」との解説を覚えていたせいなのでしょう。
ともかく、わたしはホッとした安らかな顔のミイラになりたいと願ったのでした。蛇足中の蛇足ですが、どのミイラも外反母趾に悩まされた様子はないようでした。人間、どうしても自分のことが気になるものです。

前日のストレス性胃腸障害でまだ便が緩かったので、午前に一回トイレに行きました。博物館の中で、警官にトイレはどこだと聞きました。警官は館員を呼んで くれました。館員は番人のいる有料のトイレに連れて行ってくれました。こんなにしてチップを沢山の人にあげました。エジプトの経済はこうして回っているの です。

ツタンカーメンを見ようと、世界中から観光客が詰めかけています。朝一番の入場が始まっても、警戒の身体チェックが厳しくて長い列ができます。みんなが並 んでいる横を、見て見ない振りをして、白人の一団が横入りしました。参考までに、どこから来たのかと、にこやかに聞いてみました。「ポーランド」と返事が 返ってきました。横入りは中国人の専売特許かと思っていましたが、いつまでも安泰ではないようです。
日本人のマナーは、煙草を吸わない人への配慮など、今や世界中で堂々たる一等国になったことをつくづく思うのです。
あえて難をいえば、自分のほかにも他人がいることを、つい忘れがちなことでしょう。通路を塞がないようにと、しょっちゅうガイドに注意されていました。

博物館
エジプト考古学博物館


カイロ市の南部、オールド・カイロでは、コプト教の教会へゆきました。コプト教は原始キリスト教の一派です。イエスが昇天してから間もなく、聖マルコがア レキサンドリアで布教を始め、2世紀にはエジプト全土がキリスト教になりました。ところが5世紀に、ローマのキリスト教から、エジプトのものはイエスの神 性だけを重視し、人性を認めない異端の教えだとして破門されたのです。
現在でもコプト教の信者は、人口の7%いるといわれます。
こんな説明を聞いたとき、宗教のことはよくわからないながら、一週間エジプトを旅した感想からして、エジプト人って頑固な性格じゃないかと思ってしまいました。

カイロ市のイスラム地区では、ガーマ・ムハマンド・アリにゆきました。トルコのイスタンブールにあるブルー・モスクを模したといわれる壮大な聖堂です。
現在、パリのコンコルド広場に立っているオベリスクは、エジプトのルクソール神殿で2本、対になって立っていたうちの一本です。そのオベリスクと交換でフ ランスからもらった時計台がここの聖堂に立っています。時計は貰ったときから動いていなかったという説があります。ともかく、いま動いていないのは確かで した。

広い聖堂の中で、あちらに一団、こちらに一団と固まって、ガイドの説明を聞いていました。国民の90%がイスラム教スンニ派、エジプトはスンニ派の中核国家なのだそうです。
わたしたちのガイドは、かなり熱烈なイスラム教信者のようでした。
こんなように解説してくれました。「ほかの宗教のように、神様との間の仲介者はない。神様と自分との直接の関係だ。一日5回のお祈りも、神様と自分の心と の関係だ。メッカの方向が分からなければ、自分がそうだと思った方向でよい。体が動かせないのなら横になったままでよい。自分の脳の働きが神様にお祈りす ればよい」
「人間には頭を下げない。頭を下げるのは神様にだけ」そんな言葉が頭に残っています。
わたしたちがエジプト入りした前日からラマダン月が始まっていました。日中の断食、断飲は日没のとき終わります。夕方のお祈りには、聖堂に入りきらない人たちが、街中の広場などで熱心にお祈りしていました。

大変に立派な宗教であり、熱心な信者たちの国であることは分かりました。でも、ほかの宗教の場合と同様、それが実生活、たとえば、強引な運転ルールなどと、どう結びつくのかは分からないところです。警官が見ていなくても神様は見ていらっしゃるはずなのですが。

ピラミッド
右のピラミッドはコンコルド広場へ寄贈

時計塔
オベリスクと交換に貰った時計塔


イスラム教の社会では、教義は教義として、それよりも信者同士の助け合いとか、強い生活慣習で結ばれているように見えます。イマームと呼ばれる指導者がコーランの教えを、個々の具体的なケースについて具体的な解釈を下しているそうです。
ある浮気は悪い浮気、また別の浮気は良い浮気、わたしならそんないい加減なことを考えかねません。

エジプトでは商品に値札はついていません。タクシーのメーターは回っていません。そんなことに嫌気がさして、恒例になっている孫へのお土産も、今回はパスしました。
冷えすぎの列車の車掌も頑固でした。
レストランでフォークを頼むと、テーブルの上に投げてよこします。
あちこちの店では、皿の料理を食べ終わていないのが明白なのに「フィニッシュ?」と、尋ねてきます。これは「もう下げるぞ」という通告のようなのです。年 寄りのわたしが、食べる速度が遅いのはしかたありませんが、一行の中の強い若い女性に「まだよ!」と日本語できつくいわれたぐらい厚かましいのです。
ホテルの掃除人に、自分たちの都合で「早く出て行け」といわんばかりの態度をとられたこともありました。
大事なのは神様だけ、他人は大事じゃない、神様には決められたとおりちゃんとお祈りしているんだから、という人たちとは暮らしにくいものです。
前時代的な、自分たちだけの閉鎖社会のルールでやっている社会は、わたしは好きになれませんでした。

9日目、午後、空港へ。そして日本に帰るのです。

・胸弾む日本の秋へ帰る朝

午前のフリータイムに、ひとりでホテルの近所を3時間ほど歩き回りました。
ホテルのタクシー・カウンターに座っているおじさんに、地下鉄の駅まで幾らかと聞きました。10ドルと答えました。うんと遠い街の中央のラムセス広場まで でも10ドルというのです。そして「地下鉄を使うのは止めな。オレもエジプト人だが、エジプトには悪い奴もいる。混み合うし、昨日も大阪から来た客がビデ オカメラを盗られた」などというのです。
これはわたしが尋ねる相手を間違ったのです。おじさんはタクシー料金を沢山払わせるために座っているのですから。また、より安全な方法を教えていけないわけはないでしょう。立場が違えば、わたしだってそうします。

ある本にはこんな面白いことが書いてありました。
「タクシー料金は1km2ポンド(邦貨40円)が目安だ。タクシーを降りて外からさりげなく自分の思った金額だけの札を渡そう。(エジプトは実質的に硬貨 は使われていない)あんまり安かったら運転手が怒り出すので、1ポンドずつ払ってゆこう。そのために1ポンド札を一杯持っているのがよい」

庶民の住居は、狭い露地の両側に5階建てほどの建物がびっしり詰まっています。当然、道路にはゴミが散らばっています。でも、アルミテープのひらひらの飾りが露地の空間に張り巡らされていました。それなりに生活をエンジョイしているのを微笑ましいと思いました。
街角で縦横1mほどの鉄製のゴミ箱からゴミが溢れているのを写真に撮ろうとしました。愛国者が出てきて「ノー。ノー」と激しく遮りました。

大通りには歩道もあるのですが、人々はみんな、歩道に沿って駐車している車の列の車道側を歩いているのです。
わたしはあまりに日差しが強かったので、影に入ろうと歩道を歩いてみました。歩道と車道との段差が30cmほどあり、わたしとしては「よいしょ」と声をか けたくなりました。また、家財道具がおいてあったり、かなりの頻度で人間か犬かのウンチが転がっています。やはり、陽に照らされても車道を歩くのが正解で した。

市民のメインになる交通手段は、マイクロバスなのだそうです。マイクロバスはドアを開けたまま走り回っていて、人々は手を挙げて止め、乗り込んだり降りたりしていました。行く先を示すものがあるようには見えず、どうして選ぶのか最後まで分かりませんでした。

カイロ
カイロの街角で


ラマダンの期間中ですから、イスラム教徒は日中の飲食はできません。外国人旅行者にはその制約はありませんが、彼らの目の前で水を飲むのは遠慮したほうがよいと考えられます。こっそり飲もうとしても、人の目の絶えることがないのがカイロの街でありました。

エジプト
あるところに住んでいる人たちの気質や習慣についてあれこれいうときは「どこの人間も大体は同じだけれども、とくに違っている点だけを取り上げれば」という前提を省略しているのだと思います。

日本の観光地でしたら、いろいろの案内が日本語、英語、韓国語、中国語で書かれているのが常識です。
ところがエジプトでは非常に自国語にこだわっていて、自国語でしか表示していません。このように、自国語がわからない者の面倒は見ないという点では、エジ プトはフランスに似ています。両国とも、輝かしい過去を持ち、周辺国をべっ視している点で共通しているのではないでしょうか。
その国家の国威が輝いた時期が、フランスの300年前だろうが、エジプトの4000年前だろうが、過去の栄光を誇りに思う心情に変わりはないのです。
また現在の一人あたりの年GDPがフランスの3万ドルだろうが、エジプトの千5百ドルだろうが、それがアメリカの4万2千ドルに及ばないからといって、卑屈になる理由にはならないのです。主観的判断というものはそういったものなのです。
ともかく、いま地球上で、これだけの大国、これだけの文明国が数字に1、2、3を使っていないのは驚くべきことに思えるのです。
一時期、ここの人々を支配していたイギリスは、その国民性に大変苦労しただろうと思う反面、エジプト人の自尊心を、それなりに認めた懐の深さには感心します。日本人だったらとてもこう鷹揚にはやれなかったでしょう。
カイロ市だけは、例外的に道路標識に英語が添えてありました。

アスワン
アスワン駅時刻表 左右が対応している

カイロに入ってから、街で女性が目につきだしました。
エジプトの南部地域では、女性に働かせることは、その家の男たちに甲斐性がない証拠だと見なされるので、女の人は働かないのだそうです。実際は、男たちだって、単調な仕事を大勢で分け合ってのんびり働いているのです。
南部と違ってカイロでは、OLや女子学生たちが、日本同様、活発に歩き回っていました。
イスラム教では、女性は家の外では、顔と手以外は人目につかないようにせよと教えているそうです。
体を覆う衣装は、ヘジャブ、ブルカなど、いろいろの呼び名があるようです。髪だけを覆うものから、身体中をすっぽり覆う長いのまであります。わたしも、実際、目まで網で隠している女性を見かけました。

地球全体を見回すと、パリ、ミラノなどから発信されたファッションに靡いているように思われます。それらは、かっては西欧風といったものですが、現在ではむしろインターナショナル・ファッションといった有様です。
ガイドさんは「皆さんは、エジプトでも、月日とともに西欧風ファッションに変わりつつあると認識していると思います。でも実際は反対です。以前、スカート をはいていた若い人たちも、今ではどんどん体を隠す服装に走りつつあります。それはそのほうがオシャレですし、また、そうしないとキリスト教徒だと思われ てしまうからです」と説明しました。
わたしはこう尋ねました。「キリスト教徒だと思われると、なにか不利なことがあるのか?」。かれは厳然としてこう答えました。「不利なことはないが、キリスト教徒だと思われるのは嫌だ。だって、自分はイスラム教徒なのだから」。

別の機会にガイドさんに、エジプトと関係のありそうな数カ国の名を挙げて、どこが一番嫌いでどこが一番好きかと聞いてみました。
「西欧は全部嫌いだ。かれらは力に任せて、いいようにやってきた。ロシヤや日本は遠い国で無関係だ。だがな、心底憎んでいるのはイスラエルだ」と答えました。実は、こんなような中東の国の人の意見は、日本の新聞でも読んだことがありました。
鉄道網、スエズ運河、アスワンダム建設など、客観的に見ればエジプトの近代化にはたした西欧諸国の貢献は無視できないはずです。
パレスチナ問題でも、第三者的に見れば、非生産的な殺し合いなど止めた方がよいと誰もが言うでしょう。
心の問題は難しいものです。国内政治情勢から、敵国視するようにあおり、簡単に燃え上がった例は枚挙にいとまありません。

エジプトでは反西欧感情から、女性のイスラム・ファッション化にどこまでも突っ走るのでしょうか。イスラム国家に住んでいる人たちは、地球上に住むほかの地域の人たちと別思考、別行動をとるのでしょうか。
わたしはそう思わないのです。
お隣の中国でも、かっては全国民が人民服を着て、モウモウと煙草の煙を上げていたではありませんか。
その中国がいまでは、女性の服装でもデパートの売り場の様子でも、まったく先進諸国と違いがないまでに変わってきています。
中東諸国では、いまは今の風が吹いているのだと思います。

現在の国際情勢には困難な課題が山積しています。
それらを解決しようとして努力することは必要です。
そのときどき、解決の兆しは見えることでしょう。
しかし、すっかり解決する時は決して来ないでしょう。
それは、ホモサピエンスという生き物がそういう生き物だからです。
すったもんだの過程の中で、生まれ、そして死んでゆくのです。


今回、エジプトへ行ってみて、5000年も古い時代の巨大な遺跡やヒエログラフ文字を目の当たりにできたことは、大きな収穫でした。
常々、日本の文化とくらべて、古代中国の青銅器文化が、古さの点でも技術が高度である点でも、とても手の届かないレベルにあると思っていました。
ところが、エジプトのものは、それよりもまた、一段も2段も時代が古く技術も高度であると思います。
考えてみれば、同じく中東の国シュメール(現在のイラク)では、エジプトよりも早く、人類として最初の書かれた文字、楔形文字を残しています。
さらに、現代人ホモサピエンスの最も古い骨が出たのは、東隣りの国、エチオピアです。20万年ほど前の骨です。それも、いまエジプトとの国境になっている山脈の東側で発見されたのです。
それらを考え合わせると、中東という土地は、人類が誕生し、また文明を発展させた、ホモサピエンスという生物に適した風土の地域のように思えます。
しかし、その反面、歴史時代以降の人間文化の中では、砂漠っぽい土地であるハンデイを負い、定住、農耕文化を享受できる人口が極めて限定され、過酷な自然 の中を放浪し、生き延びてゆくために出来上がった「目には目を。歯には歯を」という厳しいルールのもとに暮らさざるを得なかったようにも思うのです。

いままで知らなかった素晴らしい過去を持った人たち、いままで接したことがない強烈な個性を持った人たち、そんな中東の人や文化への勉強が、これから始まるのだろう、そう思っています。
                      


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