題名:秋が来て(63.7)

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日付:1998/2/5


 昔,森昌子が歌っていた「愛傷歌」を愛唱歌にしょうと思っている。その歌は

  命がいつか終わるよに 別れが来るのよ 愛しても 秋が来て 別れの時を知る 

 と、続いて行く。

 若い人の別れ、例えば失恋では,過ぎ去った輝きの日々を恋うあまりに、本人がその時は「もう,明日はない」と思い込んでいても,やっぱりそれからあとの展開というものがあり得るのである。

 ところがそれとは違って,老人が自分の過去の人生を懐かしんでいる場面では,時という冷厳な存在が、どんな甘い期待をも絶対に許しはしない。

 何時までも生きていたいとは決して願いはしないが,私は昨日までの自分の人生を,こよなくいとおしくおもう。そして明日になれば,また,今日までの私の人生を,生懲りもなくいとおしむことになろう。

 このようにして,盛りを過ぎた人は誰しも,今までの人生をいとおしみ,もうこれ以上変わらなければいいと思いながらも、その願いは叶わず,どの瞬間も、来し方に別れを告げつつ、死ぬまで生きてゆく。

 私は,もうかなり長いあいだ,人生の秋のことを思い続けてきた。そして前述の思いは、年を経るほどに心に重くのしかかって来るようになった。

 今はもう,山岳部の仲間にも,私がこれからの身の処し方をどう考えているかを告げるべき時が来ているように思う。

  山では,よく,パーティのトップを勤めさせていただいた。そんな時は,役割として,意識してスピードを抑えていたこともあった。しかし,もともと山へ登るスピードは早い方ではなかったし,それが最近は,パーティに迷惑をかけるまでに体力が落ちてきたのを意識せざるを得なくなった。ゆっくり歩いていさえいれば,まだ何日でも山行を続けられると思ってはいるが,本当は,そのはかない自信でさえも,他人からはどう思われているのかなと自分自身で疑問を持たない訳ではない。

 しかし,もはやパーティが組めなくなったと考えている致命的な理由は,なんといっても,最近一層ひどくなったスピード不足である。なにせ足がサッサッとは前へ出ないのである。

 戦争の時,遅い船団は危険に身をさらす時間が長くなるので,ある程度以上速度の遅い船は船団に入るべきではないとされていた。

 山でも,もうこれ以上,皆に迷惑をかけるべきではないと,もう一人の私が心に囁く。

 体力の衰えは食欲の減退でもわかる。かっては四天王はおろか,三羽烏の一角とも人の口の端に上っていたあの「大喰い」も,いまや昔の面影はない。もっとも食欲減退だけで済めば,周りから歓迎される話かもしれないが。

 このほかにも,老人の通弊として,口にする話題も若い人達にとけこめる種が少なくなり,昔の自慢話ばかりが多くなってきた。

 それに会社での地位の高い老人が、そこにいること自体が,若い人達の会話から活気を奪うようになって来ている。

 昔からの知り合いは相変わらず付き合ってくれるし,私自身もそうならないように努めてきたのだが,人生はそんなことで許してくれる生易しいものではない。人,そして老いと言うものは,そう言う悲しいものなのである。

 八ヶ岳の登山口,美濃戸にあるSさんの別荘に御招待をうけた。香り高い木材をふんだんに使った,広々とした素敵な山荘である。ヨーロッパからキットになっているのを,輸入されたのだという。

 ところが,同じ別荘地でも始めの頃に分譲された区画には,当時の日本を物語るように,今となっては見すぼらしい建物が幾つも残っている。

 別荘を持つだけで贅沢だった時代と比べて,外国から建材を輸入して家を建てるなんて,この数年なんという激しい生活の変わり様であろうか。

 「日本が豊かになったんだね。こんな良い時代に生まれ合わせた若い人達は,これからずっと幸せに暮らせていいね」私がそう言うと「いまはいいけれども,戦争でも起こったら,そうはいきませんよ」と言う返事がかえってきた。

 本当に,どんな事があっても戦争だけは起こして欲しくない,若い人生に幸せあれかしと,戦争を体験しているこの老人は,自分の命を懸けてそう祈るのである。

 そう言えば「若い人生に幸せあれかし」これも歌の文句ではないか,どうも日頃,カラオケの研鑽に努めていることの成果が,随所に現れてきたようだ。

  室町時代に,能を芸術にまで大成せしめた世阿弥は,能における老人の在りようについて次のように述べている。

 「老人の役だといって,腰や膝をかがめ,体をちぢこませていたのでは,ちっとも面白味がない。

 そもそも老人というものは,心では,何事でも若いかのようにしたがるものである。ところが実際には,力はなく,体は重く,耳も遠いので,心だけ逸っても,振る舞いがそれに追いつかないのだ。したがって能で老人の役を舞う時は,若々しく舞おうと努めなくてはならない。その上で,拍子にはついて行けぬ様子で少し後れるのがよい。年寄りの若振る舞いは,あたかも老木に花の咲くような趣でまことに結構である。」

 許されれば,私もいま暫くは,老木に花を咲かせたいと思う。

 私があと何年,そしてどんな状態で生きるのか,それは知らない。しかしその間,許される限り,私なりに山行は続けようと思う。

 山行は計画するのも楽しいし,登高の苦しみの中にも,時折は,山でしか出会えないこの世の天国に,しばし心身を浸すことができる。また,帰って来てから思い出すのも,そして何時の日か,山と人への再会を期待するのも大いなる喜びである。

 また,暫くは,今まで親しんできた中部電力の山岳部との絆も,なんとか一部は残しておいていただきたいと願う。

 例えば,山岳部の呑み会のうち,総会など,幾つかには今後も出席させていただきたいと思う。そして本隊の山行と,どこかの山小屋ですれちがう行程を組むなどして,山の夕べのまどいにも,たまには加わらせていただければ幸せだと思っている。

  そしてそれからもっと先のことは,また,その時に考えることとしょう。

おわり

                  

   

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