日付:2001/10/28
・犬のお見送りうちの犬、あいちゃんは、胴が長くて足が短いミニチュア・ダックスフントです。家にきてから1年になりました。
あいちゃんも大人になり、わが家のしきたりにも馴れてきました。
私は、このところ、なぜか山へ行く機会がとても多いのです。
朝早く、トレパンをはきリュックを持つと、あいちゃんは、これはもう連れていってはもらえぬものと観念して、追いかけないようになりました。
いつもは車で出掛けますから、靴を突っかけ、さっと玄関を出てしまいます。
でも、今回の北海道行きは、空港までかなり歩かなくてはなりませんから、玄関の上がりかまちに腰を下ろし、しっかりと靴の紐を結んでいました。
軽く肩を押された気がしたので振り返ってみると、あいちゃんがきて寄りかかっていました。先ほど「ウエイト」といわれ、いったんは諦めて部屋に残っていたのに、また出てきたのです。お見送りなのです。
犬って、ほんとに可愛いものですね。
考えてみると、家内には見送られたことはないのです。
ゴルフなどのように、自分の遊びで早朝に出るときはもちろんのこと、東京に出張する仕事のときでも、いつもより早い時間に出るときは、見送らないように申しつけてあるのです。
私は朝飯をひとりで食べるのに、なんの抵抗もありませんし、たった30分の仕事のために、家内の睡眠を中断する意義を認めていないのです。それより、元気で、機嫌のよいほうが、よっぽど幸せだと思っているのです。
話はちょっとずれますが、私が現役を退いてから、家内が過去何十年も、朝、無理をして起きてくれていたことに気がついたのです。私は5時に起き犬を連れて散歩してという体内時計を持っているのですが、家内の体内時計は大部違うようなのです。体内時計は、ひとりひとりに生まれつき備わったもので、良し悪しとは関係はないのですが、それでも具体的な時間は、彼女のために公表しない方が良かろうと思います。
それにしても、連れていってももらえないし、合理主義者のご主人にほめてもらえるとも思わなくても、体を寄せて見送る犬のあいちゃんは、可愛いと思いました。
私も、上役に対して理屈抜きで献身的に仕えていたら、いま少し出世したかもしれないと考えさせられてしまいました。
・帰省子と犬の蚤とる暑さかな
・昆布採り
様似(さまに)の民宿を朝5時半過ぎに出ました。太平洋に沿って南東に走ります。
道路は海岸端にあり、防波堤が連続しています。
あちこちに車が止まっていました。地元の人たちは車の中にいたり、道をブラブラしていたりして、なにかを待っているようでした。
トラックには簡単なウインチが乗っていて、地元の人たちは昆布取りに来ているようでした。
このあたりでは、民家の周りに、直径数センチほどの砂利を敷いた土地が目につきます。昆布に砂がつかないように、この砂利の上で干すのです。
波はかなり荒く、昆布が流れ寄ってくるのでしょう。
さて、6時になると、長い長い海岸堤防のあちらこちらで、するすると赤い旗が上がります。そして今まで待っていた人たちは、一斉に波打ち際に殺到するのでした。
早起きの人だけに有利にならないようにしているのです。
名古屋から東へ豊田に向かって行くと、三好ゴルフ場を過ぎたところに田籾という部落があります。ここに鶏石の伝説があります。
延宝年間、この地に加納武知という働き者がやってきて稲作を始めました。日の出前から働いていると、かたわらの林の中からコケコッコーと鳴く声が聞こえます。声は大きな岩から出ているのですが、近づくと消えてしまいました。このことを伝え聞いた村の人たちは、われもわれもと、朝、暗いうちに起きては、不思議な声を聞こうと出掛けました。ともかくこんなにして、村中みんな早起きになり、ついつい働くようになり、村は栄えるようになったということです。
自由競争こそはグローバル・スタンダードなりなどと主張して、どこかの国から昆布採りがこないように祈りましょう。
この日はアポイ岳に登りました。
標高は810mと、そんなに高くはないのですが、橄欖岩、蛇紋岩というマグネシウムに富んだ岩で出来ています。この成分は植物が好まず、また太平洋に突き出した地形で、海から4kmしかなく、冷たい強い風が常時吹きつけます。このような条件から、この山特有の植生になっていて、特別天然記念物に指定されています。
道は良く整備され、山頂まで4時間弱で往復できますから、こんな小雨が降る平日にでも、沢山の人が登っていました。
下山して、襟裳岬に向かいました。
・滴りや先月吾は退職す
・襟裳岬の植林、環境保護団体の原子力推進
襟裳岬には西の方、日高側から入ってゆきました。それまでほぼ海面と同じレベルで走ってきた道が、だんだん登りになります。そして牧場というのでしょうか、遠目にはゴルフコースとも見えるような、緑の絨毯に覆われた岡の連続になってきます。
この景色が変化してゆく様子は、数年前、宗谷岬を訪れたときと、まったく瓜二つであります。
寒冷地の岬は、樹木にとって厳しい生活条件になるので、必然的にこんな植生になるのかと思いました。
岬の駐車場に車を入れると、あいにくの雨で、観光客たちは透き通ったビニールの合羽など着て、震えていました。今年の北海道は7月30日でもかなりの寒さなのです。
村営の「風の館」という有料の展示施設があって、その中からボーッという、もの悲しい霧笛の音が聞こえてきました。
岬の展望台に立ちました。昨日登った神威岳、今朝登ってきたアポイ岳、そんな山々からなる日高山脈が、ここで太平洋に落ち込んで行くのです。
ごつごつした岩の連なりが、だんだん海に没してゆく様子は、恐竜の背骨を思い出させました。この先、どんなに沖合遠く、深い海の底まで続いているのかしらと、山の稜線を彷徨ってきた私たちは、ひときわ、想像を掻き立てられたのでした。
岬の先端には「襟裳の岬は、何もない春です」という、森進一が歌った一節が岩に刻まれていました。そういえば立待岬、宗谷岬などもヒット曲になり、さんざん夜の巷のカラオケで聞かせてもらったものでした。
風と波の騒ぐ荒れた岬、それも最果ての北海道ともなれば、ひときわ哀愁の旅情が身に沁みるのです。
さて、岬をあとにして東へ、広尾、帯広を目指しました。
岬の東側には、家々がへばりつき、小さな部落になっています。
その先は、地形的には岬の西側と同じなのですが、草原ではなくて森になっていました。
このあたりは、かってはカシワやダケカンバの林でした。しかし、開拓の影響などで、昭和の初期には砂漠化してしまっていました。そこに昭和28年から緑化事業が開始されました。なにせ風が強いので林を作る事業は困難を極め、試行錯誤の結果、北海道には自生していない黒松を植えることで現状に漕ぎ付けることができたのです。今は、樹高3〜4メートルの、立派な林が広がっています。
木を切らず、牛や馬を飼わずにいれば、緑が戻ることに深い感銘を受けました。そして、つい、こんな白昼夢を見てしまったのでした。
自然環境保護団体の国際会議の席上のことです。
「一部のグループの動きは、政治的に過ぎやしないか。炭酸ガスの排出抑制の決め手ともいうべき原子力発電に反対するなんて。真面目な自然保護団体としては、マスコミ好みの派手なパフォーマンスばかりしてないで、自然環境の保護を純粋に追い求めるべきだ」と、あちこちの国から陰湿な声ばかりでなく、大きな声までが上がりました。
戦闘的な環境保護運動をすることで知られる市民団体グリーン・パンプキンのピュア・ピュア議長は、やっきになって自分たちは自然環境保護以外には何ひとつとして企んでいるところはないのだと強弁しました。そのような成り行きの中で、今までなかったような、国際間、業界間の利害を離れた真剣な討議が交わされました。
「田畑を作らなければ、原野は残せる」「牧畜を禁止すれば、自然の森が戻る」「家を建てなければ森は破壊されない」「道路を造り車を走らせることが環境破壊の最大の元凶だ」「公園や緑地を作ることだって、自然の破壊だ」そんな意見までが飛び交いました。
詰まるところ、人間が何かをすれば、つまり人間が生存していることそれ自身が、自然の破壊だという結論になりそうでした。
会議の出席者のひとりが、こう言い出しました。「人間がいなければ、確かに人間による環境破壊はない。しかし、人間がいない環境を自然環境と呼べるだろうか。それはいまだかって人類が経験したことがないもので、むしろ超自然環境と呼ぶべきものではなかろうか」。
この意見は、目指すべき自然環境がどんなものなのかを決めなければならないという、至難の問題を浮き彫りにしたのです。
人類が存在することも自然の一部であると認めるならば、氷河時代、石器時代、産業革命後、エネルギー大量消費時代に、それぞれの時期の人類活動に応じた自然環境があることになってしまうのです。日本でいえば、縄文時代の最盛期のように全国の人口が僅かに数十万人、平均寿命10歳代程度の規模でしたら、循環型社会が成り立っていたでしょう。しかし弥生時代の環境まで生活レベルが上がった状態では、循環型社会が永続的に成り立ったかどうか、議論のあるところでしょう。
「詰まるところ」、またこんな言葉が出てきましたが、詰まるところ会議の参加者たちは、理念上の超自然環境が、人類の手によって、自分が子供だった頃の程度に破壊された状態を、目標とすべき自然環境だと思いこんでいることに思い至ったのでした。
到達するべき目標としての自然環境が、人の判断によってまちまちであるならば、そこに至る手段に絶対的な判断基準ができるわけもありません。
会議開催の意義が問われかねない事態になりました。
グリーン・パンプキン議長のピュア・ピュア氏は、先ほど究極の自然環境保護に大見得を切った手前、かくてはならじと、大声で、ある案を提唱したのです。
翌朝の新聞にこんな見出しが躍っていました。
「あのグリーン・パンプキンが原子力推進を提唱!」。
驚いた市民たちは記事の中身を見て、さらにびっくりでした。
それは、推奨しているのが炭酸ガス排出を減らすための原子力発電ではなくて、あわよくば人類の絶滅を期待できるからという理由で、核弾頭ミサイルの生産競争を促進せよと主張していたのでした。
・原発の弓なりの浜夏に入る
・カーナビそしてヘッドアップ人間
また今度も、例のとおりレンタカーを借りて北海道を飛び回ったのです。
車種はコンパクト・カーでしたが、頼みもしないのにカー・ナビゲーターがついていました。やはり時代です。この店で貸し出す総てのレンタカーにカーナビが装備され、貸し出しカウンターと並んでカーナビの扱い方を教えるコーナーまで設けられ、可愛いお嬢さんのインストラクターが座っていました。
前にも書いたことがあるのですが、カーナビにはノース・アップ方式とヘッド・アップ方式があります。
ノース・アップ方式では、画面には常に北を上にした地図が映され、その地図の上を自分の車が目標に向かって走ってゆくのです。例えば東に進むときには、自分の車が右へ向かって進みます。
ヘッド・アップ方式では、自分の車は常に上を向いていて、地図の方が回転します。
先の例のように東に進むときは、地図の方が反時計方向に90度回転しますし、南へ進むときには地図の北は下方向になっています。
東西南北のことなど知ったことではない。あるのは自分を中心とした前後左右だけであるという、主観本意の考え方であります。
現在では、ヘッド・アップ方式が圧倒的に選択されています。
人生にたとえれば、多くの人の共通の認識としての社会があって、その中で自分がどの位置にあり、どんなことをしようとしているのかを考えながら行動するのがノース・アップ方式であります。それに反して、あくまで自分を中心にして、万事、自分の都合の良いように考えるのがヘッド・アップ方式のように思えます。
いろいろの犯罪をみると、たとえば、大きい方では旅客機をハイジャックし高層ビルに突っ込むのも、小の方では少女を自分のアイドルにしたいので誘拐するなど、自分の勝手だけで行動しているのが目につきます。
多数の人間が認めた社会ルールが法律であり、それに従わないのが犯罪なのですから、自分の勝手だけを押し進めれば犯罪になる確率は高いわけであります。
ヘッド・アップ方式のカーナビが、自分勝手な人間を増やしたわけではなく、もともと世間には自分勝手な人間が多いことが、カーナビ方式を選択する態度によって炙り出されたというべきでありましょう。
今度の北海道旅行では、道路はそんな複雑ではなく、Mさんのような優秀なナビゲーターが隣に座っていてくれたので、カーナビはまったくの玩具でした。
・吾を診る医者も夏風邪らしき声
・ペテガリ岳への執念と神威岳
最初の日に新千歳空港の近くでレンタカーを借り、ひたすら東に走りました。
富川で昼食をとり、浦河町荻伏で赤心社記念館を見ました。
この地には、明治13年頃、主に広島、愛媛などから入植してきたのでした。その頃のコミュニュティーセンターの建物が残っているのです。
赤心社の建物は明治21年新築されたとありますから、110余年、世の移り変わりを見ていたことになります。大変モダンな、今でもイギリス系の土地で人が住んでいるような、白いペンキ塗りの、窓にギャラリーがある洋館でありました。
ここで国道を離れ、長い長い川沿いの林道を山に分け入り、神威山荘に着きました。
林道の途中で、Mさんが、先年、崩れて通れなかったのは、ここだと教えてくれました。なるほど、右側の崖が崩れ川へ落ち込んでいた様子が容易に想像できました。こんな無理をして造った場所が林道の何カ所にもあるのです。
「道路の費用を入山料で回収することにしたら大変な金額だね」、二人でそう言い合いました。
この日の無人、神威岳山荘の泊まりは、我々の外にも2組いました。
1組は我々より若く、人生の油の乗った年頃でした。
小屋の前の広場で、二人ともそれぞれに、なにやら掌に入るぐらいの、何年か前に流行ったタマゴッチの兄貴分みたいなものを盛んに覗き込んでいます。
なんですかと尋ねてみました。「GPSです。衛星から電波が届くところなら、実に正確に自分のいる位置がわかるのです」と言って、試しにやってくれました。すると、なんとピタリと地図の小屋の位置と一致しました。
お二人は、翌日、道のない尾根を越えて一本南の谷にあるぺテガリ小屋に泊まり、次の日にペテガリ岳を往復、次の日にまたここに戻ってくる計画なのだそうです。
ペテガリといえば私の相棒のMさんは、3年前ペテガリを目指しました。でも、その年は道が崩れていて入れなかったのです。それも簡単な崩れではなくて、復旧は今年までかかる予定でした。その今年、Mさんが夏前に状況を電話で尋ねたところ、入山可能との返事だったのだそうです。
ところが、出発1週間前に再確認したところ、また道路が壊れて入れないことが分かり、代わりにオプタテシケ岳を選んだのでした。
この北海道日高の現地まできて情報を集めてみると、ペテガリ岳には、この同宿の二人組が選んだルートや、かなり長丁場になる東側のルートから、入っている人たちがあるようなのでした。
最近は登山ブームで、ゾロゾロとリーダーの旗にくっついて行く、他人任せのイージーな登山もあるといいます。
しかしその反対に、通常のルートが長期間駄目になっていると、しびれを切らして、なんとか工夫して登ろうという山男たちの執念に、チャレンジ精神いまだ健在なりと、エールを送りたいのです。
・最後には川の水飲む夏山行
・濡れにぞ濡れし
神威岳は行程の半分以上、川に沿って進みます。左岸を歩いてゆき崖にぶつかると、川を右岸に渡る必要があります。
幌尻岳と同様、川を渡るときの橋はないので、川にジャボジャボ入って渡る、つまり徒渉を繰り返すことになります。幌尻岳では20回を越す徒渉が必要ですが、ここでも約10回は必要でした。
Mさんはズック靴を持ってきました。徒渉区間を終わるまでズック靴を履いていて、いよいよ山の斜面の登りにかかるときに登山靴に履き替えました。
私は登山靴のまま、じゃぶじゃぶと水の中に入って渡りました。いつもそうしているからです。
Mさんだって、二組の靴を持ち運ぶことの不利はご承知です。私だって乾いた靴の方が好きなのです。でも、二人ともそれぞれやり方の得失を自分に当てはめて、違った手段をとっているのです。
小屋での食事どき、ほかの組の人たちは暗い部屋の中で食べていました。
Mさんは山での食事は、いつも明るい小屋の外で食べることに決めているのです。私もそれが好きですが、寒いときや、ブヨがわんわんと寄ってくるときには、本当は外で食べるのは苦手なのです。でも、これは我慢すればどうということもないので、いつも異を唱えたことはありません。
こんども背中をいっぱい食われ、暫くは触るとざらざらしていました。私の家内だったらブヨに刺されると凄く腫れあがり大変なのですが、さいわい私はそんなことはありません。でも、Mさんには、ブヨが寄りつかないのだそうです。
若いときでしたら、相互のやり方が違うことを意識して、相手に合わせたり、あるいはやり方が違うことに理由付けをしたりしたものですが、この年になると、もうお互い、徒渉も食事も、それぞれ自分の流儀でやろうよ、それでいいじゃないの、と割り切っているのです。
この日の神威岳には、登り5時間、下り4時間かかりました。相当のものです。
天気の悪い北海道でも、この日だけは珍しく晴天でした。
神威岳の山頂からは、かって訪れた幌尻岳や、まだ果たせないペテガリ岳が見えました。そしてなによりも、林道や送電線など人工物の痕跡もない、一面の緑の原生林の広がりを満喫しました。今ではもう、こんな景色は日本のほかの地域では見ることができなくなってしまいました。まさにこれこそは、北海道ならではの景色でありました。
ともかく、この日の神威岳の徒渉が、靴の濡れ始めでした。
次の日のアポイ岳は雨でした。
その次の日のオプタテシケ岳の往復10時間40分は、終日ガスが去来する日でした。
こんな日には、道に覆いかぶさっている笹の葉に凝結した露が、トレパン、靴下から靴まで、ぐっしょりと濡らしてくれるのでした。
最後の夕張岳も、冷たい小雨でした。この日に名古屋に帰ったのですから、今回の旅も、まさに「濡れにぞ濡れし、乾く間もなし」でした。
改めて過去の山の友達とのお付き合いを考えてみると、どうも私は濡れることについての抵抗感が、ほかの人よりも薄いように思います。
お腹のまわりを、脂肪が人並み以上に巻いているせいなのかもしれません。
神威岳ではブヨにさんざん刺されましたし、その前の週には三重県の山でヒルに食われ、もう体のあちらもこちらも、かゆくてしかたない状態でした。
神威岳から下りてきて、流れで体を洗ったときに右の背中になにかぷつっと手に当たるのを感じました。
ヒルに食われた痕がかさぶたになったような感じでした。それからも、かゆくて、ちっとも良くなりませんでした。
名古屋に帰ってから、ガイドブックを読み返していました。すると神威岳の解説に、南日高はダニが多い地域なので、草木に触れたら注意して欲しいと書いてありました。
そこで、うん、それだとピーンときました。食われてから1週間も経っていて、その間に何度も熱い風呂にも入っているのです。ダニも私も、相当鈍いとしか言いようがありませんね。
家内と孫が、コワーイなどとキャーキャー言いながら取ってくれました。もうその時は、吸った血が黒くなっていたそうです。そして、頭だけは食い込んでどうしても取れないのだそうです。回虫をお腹に飼っている藤田紘一郎先生に心酔している小生のことですから、いいよ、いいよと今でも背中にダニの頭をくっつけたままにしているのです。
「ダニみたいなヤツという言葉があるけれど、私、始めて見たわ」と家内は言ってお
ります。食いついたら絶対に放さず、吸い取れるだけ吸い取る、そんなダニのようなという言葉は、山に住むダニに会って、始めて実感できるもののようです。現代の日本人は、その存在は体験しないで、言葉としてだけ習慣的に使っているのでしよう。
次の世代になると、山でダニを見て「ダニって、ダニのようなヤツみたいだね」と言うことになりかねません。
・滝の音蝉の声吾が耳鳴りと
・夢2題
神威岳山荘のような無人の山小屋ではもちろんのこと、様似村の駅前民宿などでも、夕食をすませると私たちはすぐ寝てしまうことにしています。
これは、常人はもとより、山屋としても特殊のほうのように思います。
むかし、山のテントの中で「いつも12時頃寝てるのにこんな早くから寝られるか」など言いながら、お喋りを続け、21時頃になって、やっと、もう寝るかということになるのが普通でした。
私の悩みのひとつは、昼飯のあとに、どうしようもなく眠たくなることです。もうひとつ、山を下りてきて30分から1時間たったときにも、睡魔が襲ってくるのです。
睡魔という怖ろしい魔物に襲われるのは、私の母親もそうなので、遺伝子のどこかに入っているのでしょう。
その様子は分かっていますから、私はそんなときには、すぐに車を止めて10分ほど眠ることにしているのです。さらに安眠できるように、車のポケットにアイ・マスクまで用意しているのです。
ひとりのときは、それでよいのですが、よその人を乗せていると、時間をとらせるのがやはり気になります。
その点で、前の日に十分過ぎるぐらい寝ておくと、睡魔の跳梁はぐっと穏やかになるのです。また、自宅にいるときは、なにやかにやと無限に用事があるのですが、旅先の夜はすることがなくて、早くからぐっすり眠られるのです。
Mさんにとって、その辺の事情がどうなのか聞いてみたことはありませんが、少なくとも寝つきは私よりも、もっとよいのです。
ともかく、二人とも夕食をすませたら、すぐ寝てしまうのです。
夕方の6時過ぎから朝の5時まで寝ていると、さすがに最後は眠りは浅くなっています。それで、夢をいっぱい見ます。私は夢も楽しみのうちだと思っているのです。今度の旅で見た夢の話です。
なにか、毎朝散歩する近所の川っぷちを歩いているのです。
車止めの杭が立っているところをすり抜けて下ってゆきます。
前方に緑の芝と赤いアンツーカの競技場が見えます。
「発電機なんかの重量品の運搬の仕事なんかないでしょうかね」と、隣に並んで歩いている人から問いかけられています。
「そうですね、新名古屋火力の発電機は大部売ってしまったけれども、まだ何台か残っていたかもしれませんね」そんな返事をしながら、さて所長をしていたMさんに尋ねてみるかと思ったのです。
途端に、Mさんと5時に起きて出発しようといっていた約束を思い出したのです。今、こんな所にいたのでは、約束の時間には遅れてしまう。でも、一番早く帰り着くにはどうしたらよいだろう。
盛んにアセッテいる結末でした。
おシッコをしたくなりました。ズボンに手をやると、なんとズボンなんかはいていないで、パンツひとつではありませんか。
まわりを見回すと、人がいっぱいいます。
お店には、頭は少し薄いのですが、血色がよく眼鏡をかけた恰幅の良い顔が見えます。
中学校の同級生のS君じゃありませんか。彼はデパートの薬局に勤めていたはずです。
そうそう、ここはデパートのフロアなのです。
気がつくと、私は宇宙人のような金ぴかの衣装を着ています。
みんなになんと言われるだろう。頭がおかしいと思われ、会社を首になっちゃうかもしれない。「こういうのが流行ってるんです」と言い訳をしようとして見回しますが、周りの人たちはみんなまったく普通の服装をしています。
これもアセッテ、アセッテの結末でした。
・夜明くれば青田の中の宿なりし
・北海道のドライブ事情
ある意味で、私は北海道でドライブするのは苦手なのです。
それは、車の流れに乗っていると、制限速度をかなりオーバーしてしまうからなのです。
例外はありますが、なんといっても北海道では交通の密度が低いのです。
北海道の最大の産業は公共事業だと聞いたことがあります。一人あたりの道路建設費は、全国平均を遙かに上回っているに違いありません。
道は空いていて人家は疎らですから、車のスピードを上げようと思えば、上げる余地は本土より大きいことは間違いないでしょう。
今回の旅の最後の日には、夕張岳に登りました。
登りには馬の背コース、下山には冷水コースを使いました。
この夕張岳は、お花畑が美しいので有名な山なのです。
フウロ、キンポウゲ、ウメバチソウ、ツバメオモト、シモツケなどの花が見事でした。
そして、花たちは、無惨にも冷たい雨と風の中に激しく揺れていました。(いい加減な名前を挙げました。本当は、花の名の頭にはエゾとかユウバリとかがつくのです)
こんなに湿度の多い蒸し暑い日には、山の上では濡れそぼち、寒いのに、下界に下がるとたまらなく暑く、汗でどろどろになるのです。
車に帰り着き、水をがばがば飲みました。そして世の中に、水ほど美味しいものはあるまいと,思わず口に出してしまいました。ビールだったら、こんなにガブガブと、あおったら咽せてしまうでしょうし、それにあとで酔ってくるのも嫌だと、本心から思いました。
そうはいうものの、数時間あと、空港ロビーではビールの泡の誘惑に勝てませんでした。
今度は、世の中にビールほど美味しいものがあるものか、と思いました。喉を流れ下る刺激が最高に快く、あのあとのスッキリするほろ苦さがなんともいえません。そしてホロッとした酔い心地こそ、この世の極楽じゃないでしょうか。
そうなんです、私はその時その時のものを好きになる、浮気者なんです。花から花へ移り、快楽をむさぼる蝶々なのです。
空港まで帰るのに、夕張から千歳まで高速道路を使いました。
この高速道路の制限速度は70キロです。私は制限速度のとおりに走ってみました。
たちまち後ろに車がつながり、怖ろしいほど、くっついて来て邪魔にしてくれました。
後ろに着いてきた人たちにしてみれば、いつもは一般道路を80キロぐらいで走っているのに、高速料金を払って70キロで走らされたのでは、たまったものではないのでしょう。なにせ、この区間では、まだ、ほとんどが追い越し禁止の片側1車線で、片側2車線になった追い越し区間は時々しか出てこないのです。
あなたなら、こんなときどうするでしょう。
端的に、これが私が北海道で運転しているときの悩みなのです。
結局、私は、地に入れば地にしたがえ方式で、前の車について走ることにしているのです。
それでも、両側に家並みがあり40キロ表示になっているところでは、どうしても前の車に着いては行けずに、後ろの車にご迷惑をおかけしてしまうのです。
交通法規と実際の運転との乖離という点から色んな国を較べてみますと、私の感じではアングロサクソンの国は、実状に合った守れる法規にして、その法規を守っているように思われます。
法規がどこまで整備あるいは徹底されているのか疑問なアジアの国があるかと思えば、警官がいるかいないかを先ず見て、いなければ、信号灯が赤であろうと、一方交通の逆方向だろうが入ってゆく、ラテン系の国も見てきました。
北海道では、運転者、即、違反者という図式が本土に較べ濃いことは間違いないでしょう。そして、交通事故による死者の数は、理由はともかく、北海道が全国一位であります。事故防止に、官民力を合わせ、なにか努力したいような気がしませんか。
そこで、こんな案はいかがでしょうか。
事実上、運転者全員が違反者なのですから、不公平にならないように、免許証保有者の中から約2%の人を無作為に選び出し「減点1とする。しかし今後の3ヶ月間、無事故無違反だったら減点数をゼロに戻してやる」と通知するのです。
うまくゆけば、先に述べた私の高速道路の運転のように、北海道の道という道で団子運転が発生し、北海道の車の平均速度は下がるだろうと思うのですが。
運悪く選ばれて3ヶ月間団子運転の先頭を勤めさせられる人は、順番とはいいながら、かなりの精神的負担になるわけですから、報奨金を通知と同時に受け取るのです。その金は免許証保有者全員から、あらかじめ徴収しておくのです。
・冠にエゾばかりつくお花畑