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日付:1998/2/5


(アンナプルナ・ダウラギリ MAY 1994)

●第1日

 名古屋空港は,連休を海外で過ごそうという人達でごった返していた。出国手続きゲート10数列のうちの,どの列に付けば早く進むのかを,得意げに披瀝するベテランさえいた。まさに今の日本人の海外旅行ブームを,改めて知る思いであった。

 離陸直前,右の窓から見える滑走路脇には,つい4日前,着陸に失敗して炎上した中華航空のA300の焼け焦げた残骸が痛ましかった。

 われわれの乗機はトライスター,離陸1時間後に鹿児島上空を過ぎ,2時間30分で台北空港に着陸した。

 この時期,大洋の真ん中にも赤潮が発生しているのが望見された。

 台北からは同じ飛行機のまま,1時間30分の飛行で香港に着く。ここで今回のグループ全員が集結した。

 私達のグループは,東京から3人,大阪,名古屋各1人の計5人,それにツァーリーダーが1人であった。お客の平均年令は59才。

 東京発11時,大阪発10時半,名古屋発10時の,それぞれの便で香港まで飛び,それらがよく似た時間内に到着するのである。

 ツァーリーダーはスコット君,若いニュージランド人である。立教大を卒業して,日本で働いている。日本語は上手だし,日本人の心理も良く分かっている。そして,なにより幸せだったのは,今日日の普通の日本の若者の様に年寄りだからと敬遠して,勝手に良きに計らうことをせずに,物おじせずに我々の意向を聞いてくれたことである。

 スコット君の例のように,辛い仕事を外国人が引き受けている日本の現状を見ていて,将来のある日,イラン人が法衣を付けて,暑くて忙しいお盆の時期に,お経を上げに飛び回るようになるのではないかなどと思ってしまった。

 そこから,ボーイング757形機でカトマンズまで約6時間の飛行である。この飛行機にはイヤホンもリクライニング・シートもない。かってのインドのネール首相に似た,健康的な体型の女性が目に付く。そして彼女らが額や,耳や鼻につけている飾りが珍しかった

 暗くなるにつれ,標高約1万メートルを飛ぶ飛行機の窓の外には,澄み切った空気の彼方に,獅子座などの春の星がまばゆいまでに輝いていた。そして時々,雷の電光が,遙か遠くの雲の塔を赤く浮かびあがらせていた。こうして星と雷の光りに迎えられ,カトマンズ空港に下り立った。カトマンズへは現地時間の20時到着。(時差3時間15分)

 ゲートから出るやいなや,子供たちが体当たりしてきた。荷物を持たせろというのである。チップと言ってもせいぜい20円かそこらだから,雇ってやってもどうということはないが,ひとりにやらせるということは,その後ろに何万人という同族がいると思わなければならないとのことである。要らないものは要らないと突っ張ってしまう。

 日本人観光客につきまとい,なにか仕事を提供する機会がないかと窺っているネパールの人達を見ていて,彼らとわれわれの違いは何だろうかと,何回も考えた。

 そんな時,日本人は現在,たまたまお金を持っているだけが取り柄の人間集団ではないかと思わせられることがあった。そのお金を得るために,他人に比べて何か特別の努力をしたのであれば,良きにつけ,悪しきにつけ,何か他人には無いものを持っている筈である。ところが,沢山の日本人がそういう特別のものを持っているとは思えなかった。

 お気の毒だが,家庭の主婦をその例として上げさせていただこうか。彼女らは,十年前の同じ年令の主婦と比べて、何か変わった高度な家事をしているだろうか。多分,してはいないと思う。しかし,現実に彼女らが海外で使う時の金の価値は,為替レートが250円だった頃に比べれば,実に2,5倍の価値にまで上がっているのである。

 まさに,たまたま金持ちになっているのである。このことは,なにも主婦だけではない。多少仕事の内容が変わったにしろ,日本人全部が大同小異の状態であるに違いない。

 周りの人がぺこぺこするからと言って、自分が優れても居ないし、偉くもないことは往々にしてあることである。そしてそれは、他人は言っては呉れないので、自分で考えるより裸の王様になるのを免れる手段はない。

出国の長蛇の列や目に青葉

 

●第2日

 ホテル・エベレストを出て空港に行く。この時のバスの冷房がこれから6日間,文明の贅沢,エアコンディショニングとの,お別れであった。今度の山旅は,稜線で雹に降られ,寒いときもあったが,大体は暑さとの戦いであった。

 国内線の空港は,昨日到着した国際線とは違って,日本で言えば,田舎の島の渡し船の発着場のように小さく,まことにお粗末な設備であった。そして構内一杯に,人が溢れていた。

 セキュリティ・チェック・ゲートはX線によらず,昔のように体を撫で回す方式である。ポカラ行きの飛行機は同じ時刻に大小の機種で2便あるようだった。我々は,その中のアブロ製の20人乗りの高翼,双発の小型のほうに乗り込んだ。。

 カトマンズから,さらに奥のポカラまで約40分の飛行である。客席と操縦席との間のドアは開いたままなので,私は山よりもパイロットの操縦のほうを見ていた。飛行機の操縦はそんなに難しいようには見えなかった。

 空中に浮かんで,街を抜けると,一面に段々畑が広がっていた。眼下に見える山々は,どうにも手の付けられない急斜面を除いて,およそ全土が段々畑と化していた。そして所々に家や,小屋があり,稜線には人の踏み跡が続いていた。つまり,全土がくまなく人工物となり,人間に利用されているのが印象的だった。

 その後の旅行全体を通しても,見渡す限りの段々畑こそ,ネパールについての強烈な印象のひとつに入ることは間違いないと思う。

 かって,長崎に寄港した中国人が「耕して天に至る,もってその貧をしるべし」と,母国である中国に対比し,日本の貧しさをあざけったといわれる。

 私は明治の頃の長崎は知らない。しかし今日のネパールの段々畠が,信州の田毎の月や,能登の蓑田とは桁違いに大きなスケールであることは間違いない。

 今の日本でも,もしも社会基盤が江戸時代並のものとなり,工場やデパート,オフィスなどが存在し得ないと仮定してみよう。その上で,みんなが生きてゆこうとすれば,ネパールのように,森や藪を,徹底的に根こそぎ段々畠に変えなければならないだろう。日本では少しでも,自分の所得を増やそうと工夫した結果が,自然林より人工林,それよりも畑作,さらにハイテク産業や瀟洒快適な宅地と,今の国土利用形態に落ち着いてきているのだと思われた。

 土地が畠ならば自然で,工場やビルは自然ではないと言うのなら,確かにネパールは自然が豊かではある。しかし耕作や牧畜が自然破壊であるならば、壮大な自然破壊である。

 ポカラの街は標高800m,1300mのカトマンズよりも標高が下がり,南国の照りつける日に焼けていた。

 ポカラ空港の前では,牛がのんびりと紙屑を食っていて,異国情緒をかき立てた。

 近くのアンナプルナ・ホテルで,シェルパ達の準備が整うまでの時間を潰した。ブーゲンビリアの咲くホテルの庭を,暫くの間チョロチョロした。ホテルの門を出てみるとデブの守衛さんが敬礼をしてくれた。もともと人の出入りの殆どない田舎のホテルなのである。

 そのうちにやっと,山へ入るバスが来た。昼飯は山へ入ってから食うのだという。このあたりのスケジュールは,全く先方の気分にお任せで,行き当たりばったりである。

 バスの入り口のステップに足を掛けて,岩登りの要領でよいしょと乗り込む。

 大変なオンボロバスである。ハンドルの軸にカバーはなく,ユニバーサルジョイントがどういう仕掛けで前輪を回すのかが大変良く分かる。スピードメーターは,車輪が廻る前から120キロを指している。そしてエンジンの冷却水は車内から補給できるようにジョウゴがついていて,ちゃんと2つのポリタンクに水が用意してある。エンジンのスタートは,所謂押しかけである。平地のないネパールならではのエンジンスタート方式と言ってよかろう。

 ネパール人達が4〜5名,どやどやと乗ってきた。そのひとりが自分がサーダーだと名乗った。サーダーというのは一行の人夫頭なのである。彼は中部電力の某常務に似た賢そうな顔立ちで,見掛けのとおり,なかなかの大物であった。

 バスはポカラの街のあっちこっちで止まり,その度に何名が乗り込んでくる。そして私がシェルパですとか,コックですとか自分の役割を言う。サーダーが自分の家来を平生から掴んでいるのだそうである。

 なにせ電話のない国のことである。どのような手段で,どのような内容の指示をしたのだろうか。察するに彼らの中の何人かは,朝からバスが来るまで,半日,のんびりと待っていたのであろう。まるで,熱田神宮で戦勝を祈願してから,桶狭間へ出陣する間に,軍勢としての体裁を整えたと伝えられる信長の進軍を髣髴とさせる人集めであった。

 

 人夫頭の権限は大したものである。その日の内でも,仕事の良し悪しの査定があり,あるものは途中の部落で契約が打ち切られ,現地の人夫に切り換えられる。従って,人数は始終変動しており,旅行の途中でポーター達に,お前らは何人いるのかと尋ねても,にわかには返事が出来ないようであった。

 ポカラから,このガタガタ・バスに2時間半ほど揺られ,ルムレという所で下りる。ここから6日間は,足だけが頼りの原始生活に入るのである。

 幅2m程の石畳の道が,延々と続く。道端には,ハコベやハルリンドウに似た花が咲いていた。この日は,チャンドラコットという部落でのテントに泊まる。

 夕刻,雲が切れてくると,アンナプルナ・サウスとマチャプチャレと2つの高峰が,思いもかけぬ高さに姿を現した。

 シャツ一枚で山を仰ぐ気候の頃には,日本の3000メートル峰の雪は,なんとなく暖かい色を帯びているものである。ところが,ここの7000メートル峰では,まだ雪煙が立ち,厳寒の凍った雪の世界なのである。雪の白さが鮮烈だった。そして,斧の刃のようなヒマラヤ襞が眼にしみた。改めて世界の屋根の標高差の迫力を見せつけられ,しばし,初めて仰ぐヒマラヤの峰々に眺め入っていた。

 最近,テントの客を狙う夜盗が出たとの情報があって,シェルパ達が,毎晩,夜警をしてくれた。

・残照にヒマラヤ襞の影著るし

 

 

●第3日

 朝6時「ティー オア コヒー」とクックが起こしてくれる。コーヒーを所望し,飲んでいると洗面用のぬるま湯を持って来てくれる。まさに大名旅行である。

 今日はチャンドラコットの部落から一旦急降し,モディ川の岸に出て,それを遡り,ガンドルンまでの行程である。アンナプルナ山群の氷河が岩をやすりのように擦り減らし,それが融けて水となるので,この川は白濁した激流となっている。

 モディ川に沿った石畳の道を川上へと歩いていると,病気のお婆さんを籠に入れ,若い孫に背負わせ,いい年の息子が心配そうに付き添って下って行った。医者のいる所まで行くのである。

 昔,奥吉野の民宿に泊まったことがあった。そこの主婦が,若い頃,産褥熱にかかったとき,尾根まではやはり籠で担ぎ上げてもらい,後は戸板で吉野の町の医者の所まで運ばれたと語っていたことを思い出した。

 このネパール地方では,子供がうじゃうじゃいるわりに,お年寄りを見受けることは稀である。平均寿命が低いのであろう。

 山を離れる最後の晩に泊まったビレタンティの宿では,宿の小さい娘が,われわれのテントに入り込んできた。なんという甘やかされた子供だろうかと思ったものである。

 その夜,その父親にに,あの子は何才なのかと聞いてみた。私の孫とほぼ同じというので話し込んだ。聞いて見ると,上に子供が二人いたのだが,死んでしまったのだという。悪いことを思い出させてしまったし,残された大事な子に甘くなるのももっともだと思った。

 外人トレッカーの常識として,土地の人にせがまれても,消毒薬のように塗るものならばよいが,内服薬は絶対に与えてはいけないのだそうである。なにかあると,ネパールでも責任問題にされる危険があるのだという。

 

 貧しそうな村々を通過し,夕刻,アンナプルナサウス(7219メートル)を眼近に望むガンドルンの部落につく。ここで思いもかけず電気という文明の産物に出会う。ネパール政府が,特別に自然保護に力をいれている町なのだという。尾根の突端に一見,瀟洒な建物があり,横にヘリポートまである。

 その建物は,自然保護をメインテーマにした,郷土資料館のようなものであった。

 ガイドが以前に,その建物の中の売店で地図を買ったことがあるというので訪ねてみた。ところが,そこの事務員が言うには,前の地図は古くなったので,いま改定作業中である。古いのはないし,新しいのはまだ来ていないと平然たるものである。

 同じ店で,普通の絵葉書と比べて長辺が1,5倍ほどある写真を絵葉書として売っている。裏は全くの白紙であった。宛先と本文をどう配分して書くのかと尋ねると,それはお前の勝手だと言われてしまった。半信半疑で書いて日本の友人に出したが,最近着いたと電話があった。

 例の放物線状の鏡で出来た太陽熱クッカーがガラス棚の中に並べてあった。ネパールのような,極端なエネルギー不足の地域でも,これは使うものではなくて,陳列しておく物であることが良く分かった。

 思いつきのような自然エネルギー利用の手段を並べて,それだから原子力は要らないみたいなことを言う向きもあるようだが,まず自分がそれに頼って生きてみて有効性を実証するべきであろう。

 ここの展示室には日本の大メーカーのビデオセットがあり,常時,自然保護のPRビデオを見ることができることになっている。ところが実はぜんぜん動かなかった。それはただ単に,リモコンの電池が消耗しているだけなのかもしれなかったが,いずれにしても、ただ捨て置かれていた。企画そのものが、もともと土地の人達が望んでいるのは別のことだったのであろう。主義主張を押しつけた,外部の人間のひとり良がりではないのかとも思われるのであった。

・ヒマラヤの氷河の岸に萌ゆるあり

 

 

●第4日

 今日も,コックの持ってくるコーヒーで起き出す。

 好天である。早速,山の写真を撮りにゆく。しばらく待っていると,まずアンナプルナの真っ白なヒマラヤ襞の頂きが,日を受けて赤く輝く。どのルートをとれば登れるのだろうかと,ついその気になって眼を走らせるのは,やはり山屋の性なのである。

 信仰の山マチャプチャレからのご来光は,まだかまだかと焦らせた挙句,一旦陽光が漏れれば,あとは一気呵成に光りが溢れる。

 この日は石畳の里道から離れ,山道へ入る。こうなれば,ネパール名物の段々畑も見えず,日本の山のような趣となる。名前の後にモドキを付ければ,日本でも通用するような,テンナンショウ,ウバユリ,ヒイラギナンテン,サクラソウ,ウワバミソウなどの植生であった。ただときどき,がさがさと羊の群が下草を食べているのに出っくわす。これはもちろん,羊飼いの生活の種で,日本との大きな相違である。

タダパニまで標高差1300m位をゆっくりと登った。

 ヒマラヤ地方にあるしゃくなげの巨木のことは前から聞いていた。

 標高2300mに差し掛かる辺りから,そのしゃくなげが現れてきた。しかし,この辺りではもう花期は過ぎていた。どうにか残っている花を一生懸命写真に撮ったりして登って行った。

 昼飯のあとから夕立が降り始めた。ときどきは晴れて,日の光りが差すこともあった。そのうちにヒルが這い出してきて,だれかの靴下で見つかり,早速捕えられた。靴下に,ヒル避けに塩をまいた。

 この日は,稜線にあるタダパニという小さな部落にテントを張った。

 時々襲ってくる驟雨は夕方には雹となって,気温が急降下した。この夜は夕食をそそくさと済ませ,寝袋に潜り込んだ。

・雹交る雷雨上がりて峰見え来

 

●第5日

 今日は,タダパニからゴレパニへと,移動するのである。パニというのは,ネパール語で水を指すとのことで,タダパニは遠い水を意味するのだそうである。ゴレパニの意味は聞き洩らした。

 この辺りのしゃくなげは樹高が30m近くもあった。しかも,そのしゃくなげの巨木群が純林となっているので,特異な風景を作り出している。

 この日辿ったルートの標高2500mから3000m辺りは,まさにしゃくなげ街道であった。道のほとりのしゃくなげの花が,ひときわ見事だと見るうちに,ラリグラス・ロッジ=しゃくなげ小屋に着いた。同行のポーターはこともなげに,しゃくなげの花を手折り,自分の広い胸を飾った。

 私が見たしゃくなげは3種類あった。先に述べた樹高30mに達する,細葉で葉裏は白い細毛,椿と同じ赤い色の花のもの,次に日本のホンシャクナゲに似た広葉で葉裏は茶色の細毛,樹高4m程の薄紫の花のもの,そして細い葉は日本のハクサンシャクナゲに似て葉裏に毛がなく,樹高約4m,黄色がかった赤い花のものである。ホンシャクナゲのような7弁の花にはは出会わず,いづれも5弁であった。

 向かい側の山の全斜面が赤く見えるほど,しゃくなげの多い所もあった。

 途中の小屋に「当小屋では,環境保護のために石油を使っています」と誇らしげに看板を掲げていた。木材を燃料にしていないという意味である。

 本日の宿ゴレパニは,久し振りのちゃんとした部落である。小学校もある。かわいい子供達がボールで遊んでいた。学校は朝は9時に集まって,10時から授業だとのこと,遊び盛りの子供たちにとって楽しい話である。この村の民宿は全部同じ料金ですと書いた大きな看板が出ていた。この辺りはトレッカー擦れしていて,うるさい公正取引委員会など勿論ないのである。

・春昼や物売り虚しく戻りけり

 

●第6日

 今朝が,今回のトレッキングのハイライトなのだ。4時前にテントを出発し,標高3200mのプーン・ヒルでアンナプルナ山群とダウラギリを,思い切り眺めながらご来光を迎えるのである。さすがに空気が薄くなっているので,慎重にスピードを抑えて登ってゆく。もちろん,諸パーティに先駆けて頂上に着く。同行の一人は写真の専門家であるので,最も良い場所を確保する。もっとも,後から来たほかのグループの日本人たちが,カメラの前に入り込み,構図が台無しになり,その常識の無さに憤慨しておられた。

 東西南北も,山の形も分からぬような女性が,いかにもツァーずれした英語で,あの山は何というのかと同じ事を何回もシェルパに尋ねていた。それを見ていて,若の花,貴の花ブームの今日,安芸島がギャルにサイン帳を突きつけられたので,たわむれに「若の花」とサインしてやったら「ワー若さまのサインもらったー」と行ってしまったので憮然としてしまったという,よくできた作り話を思い出した。

 かっては,海外に出る日本人は,日本人の代表として,いわば心に裃をつけていた。

 国内では地下鉄の入口に立ちはだかって,他の客の邪魔をしているような学生でも,いったん外国へ行くと,日本人として笑われないようにと心掛けたものである。

 今,マス海外渡航時代を迎え,自省という概念が念頭にもない無邪気,無教養な日本人が溢れていた。

 ネパールの子供たちが「◯◯ルピー」と叫ぶのに何回か出くわした。お金をくれと言っているらしかった。ガイドのニュージーランド人であるスコット君に「50年前,われわれも同じ事をしていたんだよ」と私は話しかけた。

 当時,物資の豊かなアメリカ人に,日本人はおねだりをしていた。わたしはその頃,もう誇り高い中学生だったからそんなことはしなかったが,小さい子供たちは「ギブミー・チョコレート」など平気でねだっていた。その頃,進駐軍として日本に来ていた人たちの日本人に対する印象には,そのシーンが残っているに違いない。

 「でも,将来、ネパールは日本のように立派な国になれるだろうか」とスコット君は言った。なるほど,世界には立派になりたがっている国がひしめいている。

 その国々の中で,今貧しくても,将来豊かになろうと希望に燃えている途上国と,今が豊かさの絶頂で,今後,少なくとも相対的には左下がりになるしかない成熟国との,どちらがいいのかなという思いが脳裏をかすめた。

 それは人生の盛りを過ぎた男の,心のどこかに巣食っている感慨であったのかもしれなかった。

・麗かや雄鶏の鬨しきりなり

 

 

●第7日

 山を離れる日,ツァーリーダーのスコット君が,遠慮勝ちに「良い習慣だとは思わないが,今日は彼らにとってはクリスマスなんだ」と,何でも良いから,要らないものをポーター達にプレゼントしてくれないかと提案した。この打ち上げのプレゼントはキリマンジァロ登山の時もそうであった。用意の良い人は,900円の腕時計を幾つか用意してきていた。私は,全く趣旨の通りに,はいていたズボン,ゴアテックスの雨具,電池ひげそりを提供した。

 「こんなに喜んで貰えるなら,あげたいものが家の納戸に,山ほど積み込んである。ツァーに入る前にプレゼントするなら,宅急便で送るのだがな」と誰かが言った。

 前の夜,寝つく前に,あちこちから頂いて幾つも持っている万歩計を,一つ置いて行こうか,いくまいかと迷った。なにせここは足以外に,移動の手段のない世界である。健康のために歩くなどという概念などあるはずがないと私は考えたので,やらないで来てしまった。

 あとになっで,万歩計が結構彼らに喜ばれると聞いて,置いて来れば良かったと後悔した。 自動車のメーターのように,走行距離ならぬ歩行距離メーターとしてでも使うのであろうか。

 今回訪ねたネパールの地域と日本との一番の違いは,一言で言って車に頼っているかいないかにあるように思われた。

 日本では人の生活のあるところには,必ず車があり,車あってこそ人がいる状態だと言えよう。それに対して,ネパールでは車のないところに,大勢の人が暮らしているのである。

 そんな地域では,道は人間とロバのものである。

 ロバによる荷物の運搬は,この地域では、ローコスト,大量輸送の部門である。大体,7頭ぐらいのロバを1人でコントロールしながら荷物を運んでいる。

 ロバたちの一団は,それなりにリーダーロバと上級グループ,並グループに格付けされている。 多くの場合,リーダーロバは,それと分かるように頭に美しい飾りをつけ,上級グループのロバ達は頭巾をつけている。彼らはかなり自発的に歩き,後のロバが遅れると,ちゃんと止まって待ち,団体行動をしている。若いのが経験を積み,認められて係長になり,課長に昇進し,みんなもそれを認めてグループとして行動する人間社会とよく似ている。そういう点でも,ネパールでは,人間と動物と一体感が強いのを痛感した。

 話は脱線するが,動物との一体感といえば,ある昼飯のときに豚の親子がわれわれが食べている所に寄ってきた。豚の子供は可愛いのだが,なにせ汚い。しっしっと追うが,なかなか逃げてゆかない。杖を振り回しても,届かない所まで引っ込むだけで,そこで次のチャンスを待っている。そのうちにネパール人が飛んできて追う仕種をすると,さっと遠くまで逃げていった。豚は完全に人種差別をしていると見受けた。

 話をロバの隊商に戻せば,どの群にも何頭に一頭かは出来の悪い落ちこぼれがいるもので,そういう連中がロバ追いの男に叱られ叱られ歩いていた。

 また,行程の間に,ロバ達が許されて食事をしてもいい時間があるようで,その時はてんでに道端の草を食っている。「道草を食う」という言葉の源を見た思いであった。

 こうしてロバの背に積まれて,ある拠点まで運ばれた物資は,あとは人間が運ぶ。人間は籠に20キロ程も物を入れ,頭に籠の紐を引っ掛けて担ぐ。ビール,トマトなどを誰それの家へ何個届けるというような,ソフトウエアが多い部分の輸送を人間が担当するのである。

 家を建てる柱も,一人が頭から紐で釣って運んでいる。大勢が力を合わせて運ぶことがないとは思わないが,そういうシーンは一度も見なかった。つまり,輸送の殆どの部分は,人一人が運ぶのが原則になっているようだ。傾斜地でもあり,道が悪いからであろう。始めはネパールの家はなぜこんなに背が低いのかと不審に思ったが,あれ以上長い柱だと,人ひとりの輸送の限界を越えるからなのだろうと,始めて納得がいった。

 ポーターの日給は約300円,支払う分にはいいが,貰うほうはたまったものではない。夕方,彼らの前で200円程もするビールを飲むのに,気が引けた。

・馬糞の香染みたる道の春を行く

 

●第8日

 いよいよネパールにお別れの日である。東京からの仲間とは,もうここカトマンズから別々の便で帰るのである。思えば,昔は列車の本数が少なく,東京に出張した帰りに,友達とわざわざ待ち合わせて同じ列車に乗ったものである。新幹線の頻発する今,そんなことをする人の無くなったことを連想した。

 カトマンズ発9時48分という便であるが,ホテル出発は7時半,飛行機の旅はどうしてもこうなってしまう。

 今日は国際空港から出発するので,国内線と違って立派な建物である。もっとも国内線ではボディチェックだったセキュリティが,ここでは古い強力X線とのことで,フィルムは手で持って見せて通過した。

 また,空港の売店は10時から開くのだという。まことにのんびりしたもので,ルピーを余してしまう。

 離陸してから,ヒマラヤの山並み近くに飛んでくれる。御陰様でエヴェレスト,カンチェンジュンガなど,ネパール東部の山々にもお目に掛かることができ,次回訪問への意欲をかき立てられた。

 東廻りなので,6時間の飛行でも,到着した香港は既に夕方になっていた。久し振りに北京ダックの豪華な夕食に舌鼓を打った。ここで,ほかのルートから帰るトレッカー達と同じテーブルで招興酒を飲んでおだをあげた。

 トレッカーは,おおまかに言って,二つの群れに分類されるようだ。

 ひとつは,私のように本来の山男で,仕事の暇を盗んで,あこがれのヒマラヤを覗きに来るグループである。その連中は哀れにも,飛行機に乗ってから,自分のスケジュールの詳細を研究したりしているのである。

 もう1群は,パリ,ロンドンを手始めに,次第にトルコ,イスラエル,そしてその延長としての,ヒマラヤの見えるネパールにも行ってみようというツァー族である。言うまでもなく,その主力はオバタリアンであり,ツァーの説明会には漏れなく出席して,値打ちな値段と男前で親切なツァーリーダーとのコースを選ぶのに労を惜しまない。

 聞くところによれば,一旦参加を決めツァー料金を払い込んだら最後,説明会の時間を独り占めし,質問を連発し,準備万端怠りなく,ツァーにご出馬なさる方もあるとのことである。ツァー会社にしてみれば,よく利用してくれ,儲けさせてくれるお客様がどちらかは自明であって,そちらに力を入れるのは当然であり,どちらがトレッカーのメジャーを占めているかは問うのも愚かである。

 食事が済むと,もう21時を廻っているのに,免税店への買い物ツァーが仕組んである。見たところ,同行の日本人は皆,香港での買い物については,先刻すでにご卒業の様子であった。

・チベットの坊主日陰でコーラ飲む

 

 

●第9日

 いよいよ旅の最終日である。昨夜は香港の豪華なキムバリィホテルで一夜を過ごした。その翌朝のバイキング形式の食堂でのことである。

 昨夜親しくなったエベレストツァー組の日本の山男たちは,おどおどしながらテーブルの周りをうろついていた。それに反して日本の若いOL達は,水を得た魚のように,嬉々とした会話を交わしながら,いわば食堂を占領していた。

 私にはヘップバーン演ずるところの,映画「旅情」のシーンが心に浮かんだ。集団を組んでのし歩く彼女らに,そこはかとない憂いを帯びた美人OLの面影を求めるのは到底無理であった。むしろイタリヤ料理は胃にもたれると無邪気に放言する、当時の金満国アメリカからのヤンキーのイメージがあった。

 その様子を,わたしの向こうのテーブルに座った,白人の老夫婦が眺めていた。

 山あり谷ありの長い人生を勤め上げ,貯めたお金で外国旅行に出て,一流のホテルに泊まっている老夫婦が,どんな気持ちで眺めているかが分かるような気がした。

 彼らの気持ちに代表される国際間の富のアンバランスの実態,そしてその平準化の行く先が,円高,日本の産業の空洞化と失業の増大,国力の衰退,円安と動いていくのだろうか。

 政治家は国民の意を汲み,票を集めなければ生きてはいけない。しかし,世界の人達の感情を汲んで,国際的な観点から金を使わなければ,日本が国際的に嫌われ者にされるのは避けられないのではないかと思わされた。

・ひたむきに絨毯を織る汗しつつ

 

●トレッキングというものを経験して

 山をただ眺めるだけで,とくに苦労して登ることのないトレッキングと言うものには,やや抵抗があった。だから,まともに山に登れないほど年をとってからすることだと,後回しにすることにしていた。

 ところが,今年のゴールデンウイークは,中2日休暇を取ると休日が10日間と特別に長く,また,私もいい加減に年をとったと思ったので,とうとうヒマラヤトレッキッグに行くことにした。

 なにせ,行く先の選定は,休日の日数内に収まることが第一条件であった。そのなかでテント泊の多いのを選んだのが,この8泊9日で,そのうち5泊はテント,そしてアンナプルナ,ダウラギリと8000mの2峰を眺めるコースに落ち着いた。

 世界のヒマラヤだからスケールこそ違うが,所詮トレッキングとは,言ってみれば,馬籠辺りのハイキングで御嶽山を眺めるようなものである。厳しさはない。

 結果から考えれば,一日の歩行時間も短く,昼食といえば2時間も座り込んでしまうというように,日頃の国内での山行と比べて,なんとも物足らず,年をとったらトレッキングと決め込んでいた,私の何時もの早とちりを後悔したのである。

 ヒマラヤは5月半ばからモンスーン,つまり雨期に入る。ゴールデンウィークはその直前だ。朝は山が見えても,昼頃から夕立になる日が多かった。

 ゴールデンウィークのヒマラヤの麓は,日本人で溢れている。

 大阪からの30人グループ,岩手からの18人グループなどといった調子である。

 しかし,年間を通ずると,一番多く訪れるのがドイツ人,二番がアメリカ人だとのことである。彼らは山が一番良く見える10月,11月に訪れるという。あくまで自分本位に行動しているのである。

 個人の都合よりも,悲しいまでに会社を大事にする日本人は,まだまだ遊びの分野では国際水準に達していないようだ。国際収支の黒字は,まだまだ増え続けるのだろう。

・雲の峰崩れ沈みて峰生るる

 

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