題名:東北の暑い山々
(2002/07/23〜28)

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日付:2002/8/17


旅の始めは例のごとく、名鉄バスセンターを21時30分に発車する夜行バスです。仙台へは翌朝7時30分に到着しました。
すぐレンタカーを借り、福島駅に向かいました。ここで東京からきた I さんと合流しました。
こうして、名古屋からのM さん、SUさん、 SHさん、それに私と総勢5名、20才台から70才台までの混成部隊が出来上がりました。

●霊山(りょうぜん)
最初の山は、福島市の東約20キロ、阿武隈山脈の奇峰、霊山です。
水曜日なのに、登山口駐車場にはもう10台ほど車が止まっていました。
ここから見上げる岩壁は、三河の鳳来寺山そっくりでした。

昔、小学校の地理の時間に、阿武隈山脈は浸食が進んだ老年期の山脈だと習いました。
父の故郷が盛岡でしたから、東北本線は何度も利用しました。それで、車窓からこの地域を眺める機会はありました。線路に沿ってゆったりと川が流れ、なるほど老年期の山脈はこのようなものかと納得していたのです。
霊山も、おおよそはそのパターンなのですが、ただ主稜線だけ玄武岩質集塊岩が露出し、険しい地形になっているのでした。
この険しくて修行にふさわしい地形に目を付け、平安時代初期、慈覚大師が霊山寺を開かれたと伝えられます。
下って南北朝時代には、南朝側の武将北畠顕家が義良親王を奉じ、ここに陸奥将軍府を開いていました。1337年から10年間のことです。ついに北朝側の軍門に降り、このとき寺の建物はすべて焼き払われたとのことです。

いまは立派な遊歩道が巡らされています。そしてあちこちに「親不知、子不知」「蟻の戸渡り」「天狗の相撲場」など、よそでも聞いたことがあるポイントの立て札があります。2時間ほどで巡ることができます。

この日は会津若松を過ぎ、飯豊山の麓、飯豊鉱泉に泊まりました。

・それぞれのお国言葉よ山小屋は


●飯豊山(いいでさん)
この山へは、私はちょうど10年前に、今回と同じコースから登っているのです。当時は百名山を目指していました。まだ現役でしたから、スケジュールの余裕がなく、車中泊まりになってしまいました。車の窓を閉め切ると、とても蒸し暑くて、なかなか寝られませんでした。そのせいでしょう、翌日、三国岳への登りで、随分バテた記憶があります。
今回は登山客が集中する週末を避け、木曜日の夜に泊まるスケジュールを撰んだのです。ところがたまたま「飯豊のつどい」という催しと、かち合ってしまいました。
そのため4時半には出ないと、駐車場が満員になってしまうという話で、早く出発しました。お陰様で、前半のきつい登りを、まだ気温が上がらないうちに通過することができました。
途中の水場の、冷たい山の水の美味しさは、今も相変わらずでした。
宿泊予定の切合小屋に入ったのは、まだ11時過ぎでした。
Mさん、SUさん , I さんは、いわば「暇つぶしに」明日登る予定だった飯豊本山に登りに行ってしまいました。
私は、雪渓尻の水場を訪れたり、近くのピークに登り、涼しい風に吹かれたりしながら、俳句などひねって過ごしました。山でこんなにゆったりした時間を持てたのは、始めてのことでした。
その夜、小屋は超満員でした。暑くて暑くて寝苦しかったのです。
横になって、いろいろのことを考えていました。
昨夕、S U さんが、2度登るほど魅力のあるピークじゃないと言ったのが気になり始めました。
もしも翌朝天気が怪しくなれば、小屋から直接、下山しようということになるかも知れないと思いました。
3年前、スマトラ島のクリンチ山に登ったときも、仲間内で同じ論争が起こりました。その時、私は、体力と天候の変化を考えて、スケジュールを早めても、登れるうちに登っておく方に荷担したのでした。
今度の飯豊本山登山では、昨日は素晴らしい天気だったのです。だから登らなかったのは明らかに失敗だったと、しきりに反省する気持ちになってきたのでした。このピークには、以前にもう登っているので、今回、なんとしても登りたいという意欲が足らなかったのだとも、恥ずかしく思ったのでした。
さて、3時半頃何人か、ガサガサ動いて、小屋を出て行きました。
もう薄明るい様子でしたから、トイレに立ちました。
満月が西の空にかかり、好天でした。
寝場所に帰ってみると、隣で寝ていたS Hさんがいないのです。私は、昨日登らなかった彼が、今朝早く出て登りに行ったのだと思ったのでした。
今度のパーティ編成は始めてでしたから、ここではこんなように単独行の集合のような動きをするのかと思ったのです。そうだとすると、私一人登らなかったことになってしまう、そう思いこんで、バタバタと用意し登りに行きました。
飯豊本山頂上6時、小屋に帰ったのが7時半でした。
下界における日頃の生活で、5時に起き犬と散歩に行き、帰宅後は習い事の稽古、8時過ぎに奥様が起きて来られてから食事する習慣がついているので、朝飯前に何かするのにまったく抵抗感がなくなっていることを、今さらのように感じました。

・登山客発たせ小屋番ビール酌む

●川口の民宿
川口の民宿に着いたのは、16時過ぎでした。
飯豊山の下山路で、上十五里、中十五里、下十五里などいう場所は、正午過ぎに通ったのでした。
この日、福島市の最高気温が36度cと報ぜられていました。
気温が高い上に、そよとの風もなく、体温を下げる条件は極めて不利になっていました。
体重が重くて発生熱量の多い私は、皆さんに先に行ってもらい、熱中症を警戒しながら、体を冷やし冷やし下っていました。
車を置いておいたキャンプ場に着くやいなや、みんな洗面所に走り、汗でドロドロのシャツをぬぎ、水で洗い、体を拭き、頭に冷水をかぶり、やっと人心地がついたのでした。
車ではギンギンに冷房をかけました。そして、今夜の宿でも冷房が効いているようにと、お祈りしていたのです。

たどり着いた、只見川の谷間にある川口の町の宿の様子は、とても冷房などあるようには見えませんでした。
果たせるかな、宿のお母さんは、2階の客室は暑いから、少しでも涼しい階下の板の間で休みなさいと言ってくれたのでした。
首振りの扇風機が見下ろし、風を送っているテーブルで、登頂祝いにビールの杯を挙げ始めました。
小父さんが、田舎の味噌だからしょっぱいけれどと言いながら、キュウリをもいできてくれました。
私たちは山で多量の汗をかき、体内の塩分が失われていたためなのでしょう。その「もろきゅう」の美味しさといったらありませんでした。
あっという間に、なくなってしまいました。
それを見ていて、小父さんは、キュウリを山のように追加してくれました。こんどは、鷹の爪を入れた、ピリ辛醤油でいただきました。
なにせ私たちは、山中でろくなものを食べていないので、そのガツガツ食べる様子が、はたから見れば可哀想にも、またサービスし甲斐があるようにも、見えたのでしょう。
さらに、ネギ科植物で根が玉の様になったものも、ご馳走して下さいました。

夕食も大変に美味しく、量もたっぷりでした。
小父さんは、テーブルに地酒の「夢心地」を一本提げてきて座られました。そして、みんなに勧め、かつご自身のお口にも供養しておられました。
小父さんは、土地の政治家で、家財を傾け、社会に尽くしておられるようです。
この町は、50年前には人口が1万6千人あったそうです。ところが今や、たった3000人に減少しているそうです。
過疎化に歯止めをかけることは、町の至上命題であります。
そこで、この民宿だって、地域の観光のために民宿がなくては話にならない、あんたやってくれないかとみんなに頼まれ、始められたようでした。
当然、家族は気乗り薄です。ご主人が、お酒を飲み酔っぱらうのにも反対です。地酒の「夢心地」だって、お客さんにサービスするという大義名分を、有効に行使しておられるのだと邪推したのです。
この宿のお勘定が、びっくりするほどお安かったことにも、政治家とは辛い商売なのだと思わされました。

翌朝、きゅうり1袋づつと山菜の缶詰をお土産に下さいました。
ともかくも、私が今まで泊まった民宿の中で、最も民宿らしい民宿でした。
この老骨、私めも、長生きしたお陰で、こんな宿に泊まれて良かったと思いました。

・カナカナよ明日の天気を何と告ぐ

●御神楽岳(みかぐらだけ)
翌朝、御神楽岳に向かいました。
途中、只見川の川面には川霧が立ちこめていました。皆さんは、川霧を大層、珍しがられました。
私といえば、長野に単身赴任していた頃、信州新町あたりの犀川が、いつもこんなだったのを思い出していました。あれからもう、20年の月日が過ぎたのです。

昨日登った飯豊山の暑さが、カンカン照りの日差しに焙られていたのだとすると、今日は靄を通して落ちてくる薄日でしたが、まるで湿度の高い「ムロ」に閉じこめられて蒸されているような暑さでした。
径は登山口から谷川に沿って緩く登ってゆきます。そして最後に、尾根を急登するようになります。
登り着いたピークには、本名御神楽岳と刻まれた石柱があり、先に登っていた連中に「本峰はあれですよ」と指さされました。
眺めると、長い釣り尾根の向こうにもうひとつ山稜があり、左に緩く登ったところが御神楽岳の山頂のようでありました。
御神楽岳は、越後の谷川岳とも呼ばれる山ですが、このルートには特段の難場はないようであります。
MさんとSUさんは本峰を目指して出発しました。私たちはホンナ御神楽岳を、ホンミョウ御神楽岳と無理に読み違えて、ここまでと登山を打ち切ったのです。
本峰から戻ってきた男性に「あんたら根性がありませんね」と、言われてしまいましたが、彼に言い返す言葉など、どうしても探せませんでした。
でも私は、心の中では、ここで頑張って、もし熱中症にでもなれば、年寄りの冷や水と笑われるに違いないと考えていたのです。
正直に告白しますと、私は昔から、主観的に望んでいることに、あたかも客観的に正当と見えるような理由がちゃんと浮かんでくる性格なのです。

登山口に駐車した車の中で、サミッターの2人を待ちながら、リタイア3人組は、冷房を最強にしていました。
この日はこのあと、会津高田にあるユースホステルまで走りました。
この地方は昔から桐細工で有名なのです。道路を走っていても桐の大木が目につきました。桐の里と書かれた表示もありました。
また「沼沢湖に妖精を探しにゆこう」と書かれた看板もありました。

・ボンネット虻子細げに調べおり

●沼沢沼
それで、半世紀前の若き日の記憶が蘇ってきたのです。
当時、沼沢湖は、沼沢沼でした。
その後、いつの日か、観光客を呼び込むために、「沼」の字では小さくて水が濁ったイメージになってしまうので、「湖」の字に変えたのでしょう。
たしかに十和田沼、中禅寺沼、芦ノ沼では、「サマ」になませんものね。
東北電力沼沢沼発電所は、当時はまったく珍しい揚水発電所でした。
夕方、家庭が一斉に電灯を点け始める頃に、急増する電力使用量を賄うために作られた発電所だったのです。
上池には、天然自然のカルデラ、面積3平方キロの沼沢沼を使いました。
水平なシャフトの真ん中に発電機が据えられ、その左右にポンプと水車とが別々にありました。水車とポンプは別物と考えられていたのでした。
現在では、100万キロワットを越す、巨大な揚水式発電所が作られています。
これは、盛夏、昼下がりの冷房需要や、原子力、火力の大きな発電所が故障したときに電力を供給するのが主な役目であります。
上池はダムで川を堰き止めて作ります。
シャフトは垂直で、上に発電機、下にポンプ・水車がついています。
技術の進歩は、同じ羽根車を、回す方向を変えることで、ポンプにしたり水車にしたりして使うことが可能になったのです。

1951年夏休み、学生だった頃、東北電力で実習をさせていただいていました。その間に、ここを見学させていただいたのです。宮下の合宿で夕食を頂いた後、一人で沼沢沼まで歩いて登ってゆきました。
もう薄暗くなった道で、大きな薪を背負った地元の人とすれ違いました。私は、覚えたばかりの土地の言葉で「おばんです」と挨拶しました。
いま地図で見ると、町から沼までは結構な距離と登りなのですが、往時茫々、覚えているのは、その夕暮れの挨拶のシーンだけなのです。

実習の拠点は、当時、最大出力だった阿賀野川の豊実発電所でした。
大発電所ですから、ここで東北電力の周波数を調整していました。
鉄片の共振を利用した振動式の周波数計を見ながら、ハンドルを動かし、水量を加減して、発電量を調整するのです。
自動周波数調整装置もありましたが、すぐに銀接点が焼けてしまい、実用にはなっていませんでした。
きめ細かい調整などできるわけはなく、電気時計には「不良」と書かれた紙が貼られていた時代の話であります。

いま振り返ると、私は電気の道で51年間働いたことになります。
そして、技術者として、とくにコントロールの分野での縁が深かったのでした。
現在の巨大な電力系統と、その複雑、微妙なコントロール・システムに行き着く道程を思うと、長い年月を通して、数え切れない思い出が積み重なっているのを感ずるのです。
確かに、趣味として国内外、沢山の山にも登り、ひとつひとつのピークに、数々の思い出はあります。でも、やってきた仕事では、もっともっと種類が広く、もっともっと苦しみや喜びの深い、自分にとっては大切な思い出が詰まっていることを感じます。
それにつけても、自分は果報者であったと、つくずく思わずにはいられません。

・夏草に蛇恐れつつ分け入りぬ

●頼もしい家族
会津高田のユースホステルは、まだ新しく、四つ星ランクなのです。
管理人さんも大変意欲的で、気持ちよく過ごさせてもらいました。
美味しい夕食をすませ、談話室で、洗濯が出来上がってくるのを待っていました。談話室だけは、冷房がよく効いているのです。
Mさんが飛び込んできて「頼もしい家族がきたよ。子供が5人もいる」と報告しました。
思わず、私は、これで3世代揃ったねと申しました。
だって、宿泊客の主力は、若い男女の団体のサークルだったのです。彼らは食後のミーティングで議事録をとったり、まことに真面目にやっておられました。それに、われわれオジン・グループだったのですから。
この新来のご家族には、全員、尊敬、脱帽でした。談話室の隣の食堂で、遅れて食事をされるのを眺めていました。
小柄なご夫婦でした。一番上は女の子で、もう、まったくお母さん代わりで、下の子たちの世話を焼いていました。下の可愛い子たちが、私たちを眺める目つきも、なにか昔の大家族を思い出させるものがあったのです。
私の親は、4人の子供をよく旅行に連れていってくれました。子供も4人になると、もう列車の中にいるのを忘れてしまって、本気になって喧嘩などしたのでした。
今度会った5人の子供たちも、家族の雰囲気をそのままどこへも持って行き、それに包まれている目つきをしていました。
団体客が数を頼んで横着をするというようなマイナスの面もあるかもしれません。でも、私はこの家族の幼児たちの目に、ほのぼのとしたものを見たのです。
こんな家族が多くなれば、いまの日本で少子化に悩んでいる、例えば学校などは大喜びでしょう。デフレ、不況対策として、もっとも基礎的な支えになります。健康保険、年金など、各種保険の収支も安泰になりましょう。
Mさんが、しきりに頼もしいを連発するのも、むべなるかなであります。

・蜻蛉らも忙しき一日終りけり

●那須の山々
最後の日の朝、会津から南下、さらに東進し那須に入りました。
ロープウエイで茶臼岳に登りました。ここは観光客の世界であります。
19年前に訪れたときには、山の中腹から、噴気がもの凄い勢いで、ゴーゴー音を立てて吹き出していたのでしたが、いまは、もうすっかり勢いを失っていました。
このあとの、お鉢巡り、さらに峰の茶屋跡経由で、朝日岳にいたる道は、観光ルートの延長といえましょう。
私たちは最高峰の3本槍岳までゆきました。さすがにここまでくると、登山者たちの世界でした。
この日は西風が吹いて、火照った体を冷やしてくれました。
「これでこそ登山だ」、何遍、そう呟いたことでしょうか。

新幹線那須塩原駅から帰路につきました。
ここから東京行きは、1時間に1本ほど出ます。私たちは日曜日の17時過ぎの列車にに乗りました。
発車時刻が近づいてくると、いかにも那須高原で週末を過ごしたという人たちが、続々とホームに現れ始めました。
その人たちのうちの男性は、一様に薄い夏背広を瀟洒に着こなしておられるのでした。
気が付いてみれば、私も数年前までは、仕事上、そんな人たちとお仲間のようにしていたのです。
でも、いまの私は、この那須駅のホームで、Tシャツに半ズボン、体のどこを舐めても塩っぱい状態なのです。
私も昔は、夏だって、背広、ワイシャツにネクタイの出で立ちがメインだったこともありました。その頃は、たまの休みだけに、登山スタイル、ホームレス・ルックで過ごしたのでした。
いまの時代のように、自分の好き勝手の生活路線を選択できるのは、報酬で縛られていないだけではありません。世間全体が、他人に小うるさく干渉しないような風潮になっているためでもありましょう。
ともかく、私にとっては有り難い世の中であります。

・足下より沢音風に吹き登る

●東北の暑い山々
霊山(805m)、三国岳(1631m)、飯豊本山(2105m)、御神楽岳(1386m)、茶臼岳(1898m)、三本槍(1917m)と、いずれも低山です。標高による温度低下率を0,6℃/100mとして、一番高い飯豊本山でも海面上より13℃マイナスです。
今回は、今まで経験した、どの山登りよりも、暑い暑い毎日でした。それで、終始、熱中症を恐れながら旅していたのでした。
実は夏の始めまで、例年と同様、北海道の登山のつもりで、ペテガリ岳を目標にしていたのです。ところが、ひと月前に、登山口への道路が崩れ、復旧の見込みが立たないという情報が入りました。それで、急遽、東北地方南部の山々に変更したのでした。
口から大量の水分を取り入れ、体中から大量の水を排出する、まるでクラゲみたいな毎日でした。
でも、体温の上昇を抑えようとしてゆっくり行動したお陰で、息せき切って登りピークを稼ぐ頑張りの山登りを、外の人からの目で見る機会を得たように思います。
そして半端でなく、思い切って心身ともにのんびりと構えた山旅の良さを、発見したように思います。
そんな楽しみ方を、いよいよ体力が衰えてくる今後につなげたい、との思いも生まれてきました。

・汗汗汗汗が総ての登山かな

 

 

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