題名:イタリア

重遠の 入り口に戻る

日付:1999/4/5


魔が差したのでしょうか、なんとJTB主催の「王道イタリア」というツアーに参加したのです。
JTBなどいう老舗のブランドは、8年前、ある縁で旅行券を頂戴したときに、それを消化するために参加して以来のことでした。

・薄日下氷百態北極海

・ミラノ

今回、最初の観光場所はミラノ市のスフォルツァ城でした。バスを下りるやいなや皆さん一斉にデジカメのボタンを押し始めました。
昔、戦争の様子を記述するのに「敵はわれわれに気付いて、左右のトーチカから狂ったように撃ちかけてきた」というような文章がありました。
ここスフォルツァ城でも、まさに狂ったようなシャッターの嵐でした。
それも自分たちが画面に入り、Vサインなどしながらなのです。
わたしだって50年前には、筆者近影でも撮るかなどと、芸術性のなさを自嘲しながら、ファインダーに収まったものでした。でも、最近では、画面に汚いジジ イが出てくるのが、たまらなく嫌になっているのです。

いま振り返ると、有名なポイントで自分の姿が入った写真を撮ることと、ブランド品を買うことが、このツアー参加者の主な目的だったよ うでした。
世間知らずのわたしにとって、今の世相を教えられる貴重な旅になりました。

日本では室町時代、能楽師の世阿弥が能を作っていたころ、ミラノではこのスフォルツァ城が造られていたのでした。レオナルド・ダビン チも建設に関わったとされます。
イタリアという統一国家の体裁が整ったのは1870年(明治2年)ですから、それまでは都市国家ミラノ公国の領主の住むお城だったのでした。

昔の町の様子が銅板に刻んでありました。街は、この領主の居城とドゥオーモ(大教会)を中心にして環状に作られています。
この図を見ていて、先年、フランスでレンタカーを運転していたとき散々苦労したことが、改めて頭に浮かんできました。

広い平らな土地に都市を計画的に作るのに際して、基本的にふたつの配置方法、プランがあります。
ひとつは何かを中心にして放射状に道をつけ、それを環状の道でつなぐ環状プランです。
もうひとつは縦と横の道で作られた格子状プランです。


昔の町の様子


ヨーロッパの古い都市には環状プランが多いようです。
日本では、古く奈良、京都など都の造営にあたって、当時の先進国であった中国の首都を真似たため、ほとんどの都市が格子状プランになっています。
ただ東京の田園調布では、その頃のハイカラな西洋への憧れから扇状に整備された地域があります。その評判は良くないようです。

それぞれ得失はあるのでしょう。
環状プランでは、中央からどこかへ行くのも、また、どこかから中央に行くにも、放射状の道を使って最も短距離で到達できます。つまり中央に特権が与えられ ていることになります。
日本でも、政治、経済、教育などの分野では、東京へ東京へと靡いているようなものです。
この点、格子状プランでは、移動距離の面で特定の場所が特権を持つわけではないのです。

同じヨーロッパ系の人たちが作った都市でも、アメリカ合衆国では基本的に格子状プランによって作られています。
比較的新しい時期に作られたオーストラリアの首都キャンベラ、ブラジルの首都ブラジリアでも、格子状プランを基本にして作られています。
こうして、現代では格子状プランが圧倒的に優位となっているように見えます。
中世ヨーロッパにおける環状プランの都市は、教会・聖職者や領主たちの特権的立場から計画されたものだと考えるのも、あながち無理ではないのではないで しょうか。
もっとも、ローマ、パリ、イスタンブールなどの道は、古い時代にロバの道として作られたものであり、現在の自動車全盛の時代には、不具合が出るのはやむを 得ないことです。そんな古い都市について、動脈が無くて、あるのは毛細血管ばかりだと批判するのは酷でありましょう。

・ピエタ像母子相似て冬温し

・冬の旅
観光の最盛期を外れた1月のイタリアでは諸料金は割安です。
そして今回の旅行で経験したように、道路が空いているので、観光スポットへもホテルへも早め早めに着くことができます。
そして美術館など、ゆったりして、説明を聞いて廻ることができました。
なによりも、優秀なガイドさんと添乗員さんにアテンドして貰えたのは、お金に換えがたいメリットだったと思います。

あるガイドさんのパーフォーマンスです。
「みなさん、あの時計を見て下さい」、「あれはイタリアでは珍しい時計なんです・・・・。時間が合ってます」。そんなように笑わせてくれました。
こんなサービス精神一杯のガイドさんが話してくれたことが、どこまで本当かはともかく、わたしには面白く聞こえました。
「イタリアの男って、ケチだしマザコンがひどいんです。日本の若い女の子は、イタリアの男はマッチョの誉れ高く、ラテン・ラバーのグローバルネーミングの とおり絶え間なく女性を賛美してくれると思っています。他方、イタリアの男は、日本の女は歌劇マダム・バタフライのヒロインの蝶々さんのように献身的に尽 くすと思っています。
本当のところは、両方ともひどい思い違いですから、結婚生活がうまくわけはありません。
イタリアの男性と結婚した、わたしの友人の日本女性のことです。結婚し、やがて安定期に入りました。イタリアは貧乏ですし、男達はけちんぼです。
台所の出来事です。わたしの友達がスープを温めようとしてガスコンロに火を点けました。もちろんそのガスコンロは何十年も前にお母さんが使っていたもので すから、自動点火なんかじゃありません。
マッチをすって点火しました。
もうひとつのガスの口に火を点けようとしてマッチをすると、彼がこう言いました。なんでそんな贅沢なことをするの?さっき使ったマッチの軸が残っているで しょう。いま点けたガス口でその軸に火を点けて、隣りに点火すればいいのに。
わたしの友人は、マッチ一本のことになんてミミッチイことをいうの、と血圧が上がったのです。なんと彼氏はそれに続けて、こう言ったんです。お母さんはい つもそうしてたんだよ。それを聞いて彼女は完全に切れてしまったのでした」。

恥ずかしながら、このわたしも相当ケチなほうなのです。
ミラノのホテルでの朝、鏡に向かって髪を整えようとしました。ところがなんと、洗面道具の袋の中の櫛がふたつに折れていたのでした。
一時期、航空会社がアイマスク、歯磨きセット、櫛などを景品にくれた時代がありました。そんな昔に貰ったプラスチックの櫛でした。何年か前に「髪に何かつ いてますよ」と注意されたことがありました。それは折れた櫛の歯で、そのころから欠け始めていたのでした。その後も、文字通り「櫛の歯を引く」ように、歯 は減ってゆきました。そして今回、とうとうポッキリふたつに折れてしまったのです。先の半分には歯が8本、元のほうには14本残っていました。
「ま、今回は、これで済ますか」と一瞬思いました。だって名古屋の家に帰れば、景品にもらった櫛がまだ2本も3本もあるのです。でも、賢明にも「こういう ふうだからオレは女性に持てないんだ、つぎに入った店で、断然買うぞ」と思い直したのです。
さっそく、つぎに立ち寄ったトイレストップの売店で探しました。歯ブラシはありましたが、櫛はありませんでした。もともと運命の女神から、ロマンスチャン スなんて、とうに見放されているのです。

・ミラノ大聖堂

スカラ座を見て、エマヌエーレ二世ガッレリアを通り抜けました。それは明治初期に作られたアーケード街で、アーチ形のガラス天井や床のモザイクが素敵な アーケード街でした。
ガイドさんは、ファッションの街ミラノといわれている、ここがその場所なのですと解説しました。同行のみなさんは、自由時間になったらここに駆けつけよう と目を輝かせました。ところが私には、ルイ・ビトンやグッチなんかの店と軒をならべて、マクドナルドが営業しているのが、とても興味深く見えたのでした。 ブランド品を買うのに財布をはたいてしまい、底にへばりついた小銭でハンバーガーを注文して空腹をしのぐなんて、壮烈じゃありませんか。

最近の服にはポケットが少ないのが私には不服なのです。それで今回は登山用の網ベストを着てポケットに貴重品を入れて歩いていまし た。こうして、北極から出てきたエスキモーが、ここ冬のミラノが暑くてたまらないとでもいうような格好で街をノシ歩いていたのです。ひょっとすると、これ がミラノ発ニューファッションとして、世界中に発信されるかもしれません。

このアーケードを抜けると、数多の尖塔を突き上げている、かのミラノ大聖堂がそそり立っていました。世界で最大のゴシック建築といわ れます。
1386年に建設が始まり、19世紀初頭に完成しました。約500年もかかっています。このように外国では、数百年かけて完成させる例が少なくありませ ん。そのことが、日本人のせっかちさ、飽きやすさに対して、計画性、持続性のある腰の据わった国民性であると好印象をもって語られていました。
でも、イタリアでは「大聖堂の建設」という諺は、風刺的に「いっこうに完成しない作業」として、マイナスの意味で使われるのだそうです。わたしたちが訪れ たときも、なにやら工事をしているようでした。


工事中の大聖堂

大聖堂の屋上にエレベーターで上がりました。数センチもある厚い大理石で屋根が葺かれていました。建物全体が石でできているのですか ら、ものすごい重量なはずです。建設当時に建築基準法などあったわけはなく、強度計算は今ほど詳細にされてはいないはずです。経験と勘によって、石を積み 上げたにちがいありません。建て始められてから現在まで700年近く、倒壊していないとはいえ、わたしは怖くなりました。思わず、このあたりに地震はない のですかと聞いてしまいました。ほとんどないという返事が返ってきました。
そういえば、イスタンブールのブルーモスクも建築基準法非適用です。しかもあそこは、地震のあるところです。
ああいう建物は、現代の目で見ると安全係数がいくつぐらいになっているのでしょうか。壊れるときは、どこから壊れ始めるものでしょうか。

・ワイヤレス・マイク
今度のツアーで、とてもよかったと思うもののひとつにワイヤレス・マイクがあります。機械そのものは、何十年も前からスナックのカラオケで、似たものが使 われています。ガイドさんが口元で吹き込む説明を電波で飛ばし、お客さんは耳にかけたイヤホンで聞くことができるのです。わたしのように耳が遠いうえに、 ビデオを撮るためガイドさんと離れがちになるものにとって大変助かりました。
サン・マルコ寺院の前で、よその国の団体さんが、昔ながらの拡声器で説明を聞いているのを見たとき、差をつけたなと思いました。
観光中、「ほら、向こうからジプシーが2人きましたよ。ジロジロ見ないで下さいね」なんていうガイドもありました。危険の見分け方を実地で教育できるなん て、効果絶大でした。
ほかの日本人団体も使っていましたが、チャンネルが2つありますから、実用上なんの障害もありませんでした。

・ロンバルディア平原
ミラノで昼食したあと、高速道路を東方、ベネチアに向けて、ひた走りました。約300kmほどあります。
ここ、ロンバルディア平原は、中部ヨーロッパの人たちがアルプスを越え、日の光溢れる南の国イタリアに入った、まさにその場所なのです。メンデルスゾーン 作曲のイタリア狂想曲の明るいメロディーが、思わず唇に浮かんでくるところなのです。
BC3世紀、ハンニバルが兵5万と像37頭を連れ、アルプスを越え攻め込んできたのも、ここロンバルディア平原なのでした。

ああそれなのに、ずっと霧が立ちこめ、視界は200mほどしかありませんでした。必死に窓の外に目を走らせていると、平らな土地を川 が数メートル削り込んでいるのがわかりました。海抜ゼロに近い沖積平野ではなくて、アルプス山脈とポー川の間に広がる平原であることを示しているのです。
車窓に流れる畑、牧場などの緑が目にしみました。
冬に降雨量が多い地中海式気候のせいなのでしょう。
高速道路の周りに中規模の工場を沢山見受けました。タンクとか反応塔、煙突といったものは見あたらず、軽工業的な四角い平たい大きな建物ばかりが現れては 消えてゆきました。
送電線の多さからこの地域が工業の盛んな地域だと分かりました。大規模送電線は、日本の4導体と異なり、ほとんどが3導体でした。2導体はほんの1〜2 回、4導体は一度も見ませんでした。
このイタリア北部地域で、国の総生産額の80パーセントを稼ぎ出しているのだそうです。なんでおれたちばかり必死に働いて、南部の遊んでいる連中を養わな くてはならないのだという北部の住民の不満から、南北分離の声も出ているとのことでした。そして分離するときに、ローマをどちらに入れるべきかといえば、 たぶん南だろうとのことだそうです。ここまで聞けばあまり本気の話とは思えないのです。
なんか日本でも、沖縄在住の学者さんが沖縄独立論を主張しておられるそうです。所詮、お荷物になっている地域はどこにでもあることで、貧富による国家の分 離論は、建設的な議論にはならないものです。

・軟水・硬水
ミラノ市はアルプス山脈の麓に位置する傾斜地で、標高は100m以上あります。水はかなりの速度で流れているはずですから、汚染度は低いだろうと踏んでい ました。そういうふうに、添乗員さんに話を向けてみました。すると「ミラノの水は美味しいという評判です」といってくれました。
そしてバス旅行のつれづれに硬水の解説をしてくれました。「日本の水は軟水、外国は硬水で日本人の体に合わないといわれていました。軟水とか硬水とかは、 溶け込んでいるカルシウムなどの成分が多いか少ないかでいうのです。ヨーロッパの人たちが飲んでいるのは、硬水といっても200ぐらいのものです。日本で もダイエット用とかいって1000以上の水も飲まれています。イタリアでは水道の水ならば飲んでも大丈夫です」と、彼女の話は非常に的確でした。
帰ってからインターネットで調べてみました。かっては、軟水はカルシウム60ミリグラム/リットル以下の水をいっていました。でも、現在では100〜 300を中硬水、それより下を低硬水、それ以上を高硬水と呼ぶという説もあります。
みんなが普通に買って飲んでいる有名ブランドのミネラルウオーターの硬度は297、また、ヘルス・サプリメントと宣伝している有名ブランドのものは、なん と1468と記載されていました。
わたしは旅の始めにミラノで、水筒にするため500mlのミネラルウオーターを一本買っただけで、あとは水道の水を詰めていました。もちろん、問題などあ るはずもありません。
東京の下町と信州松本を一緒くたにして、日本の水はなど議論の対象にするのが愚かなことは自明であります。日本よりももっと広い外国を一緒くたにして、外 国の水は硬水などということが不合理なのは誰にでもわかるはずです。
だいたい、消毒にも使うアルコールが入った焼酎やウイスキーを飲んでいるのに、硬水だ軟水だなど騒ぐのはおかしくありませんか。
「よい水」を売る、という商売もあり、また少しでもよいものを摂取したいという願望ありの世の中で、つい野暮なことを申してしまいました。

たいへん威勢のよいことを言いましたが、わたしもひどい目にあったことがあるのです。昔、ネパールの山を歩いていたときです。頻繁に 下痢に襲われ、テントの中でガタガタ震えて一夜を過ごしたことがありました。つらかったですねえ。
そのネパールの旅では、よそのグループと出会うと、ツアーリーダー同士が「おたく、何人やられました?」「7割やられました」「うちは5割ですわ、どうし てもこれぐらいはやられますねぇ」というような会話を交わしていました。
世界の水には、赤痢など病原菌がいる危険性は大いにあります。
インターネットの情報のうちに、安心して水の飲める国という寄稿を発見しました。それにはイタリアが入っていないのです。
その理由が「この国では基準が定めてあっても、決められたことを必ずしも守らないという評判なので除いた」とありました。イタリア製の自動車には、部品の つけ忘れのクレームが多いというジョーク?からの連想でしょうか。

・べローナ
ミラノからベネチアへの中間点にベローナという町があります。ここでトイレ休憩を取りました。日本で普通、バス旅行でのトイレ休憩といえば、道路脇のレス ト・エリアに入るのだと思います。ところが今回のイタリア北部の旅では、どこでも、いったんインターを出て日本人向けのお土産店に入るのが普通でした。も ちろんそこは無料の綺麗なトイレ付きです。さすが観光立国の国だと感心しました。
現地ガイドさんの話では、日本人は血液サラサラ健康によいと、努めて水分を摂取するので、イタリアの人の3倍ほどトイレにゆくのだそうです。
また、イタリアではトイレを大切にしないので、電灯がつかないぐらいのことは珍しくないのだそうです。
そしてかなりのところで料金を取られます。
ガイドさんは、こうも言いました。「ロックが固いと感じたら、ロックしないで下さい。開けられなくなって集合時間になってから、見あたらないと大騒ぎにな ることがあります」。
冬の旅で道路が空いているので、どうしても時間は余り気味になります。ここベローナのお土産・トイレ店では1時間半の休憩でした。
ベローナ市はロミオとジュリエットの街です。伝ジュリエット邸は人気の観光ポイントになっているそうです。下でロミオが口説いたバルコニーを見上げては胸 をときめかすのもいいですね。
モンタギュー家とキャピュレット家があったことは事実だそうです。
シェークスピアは二人の悲劇を、ほかの戯曲と同様、既存の種本を元にして脚色したのでした。宝石の原石を磨いて光らせるような天才だったのですね。
シェークスピアはこのほかにも、この街を題材にして「ベローナの二紳士」という戯曲も書いています。
オーストリアのインスブルックからアルプスをブレンナー峠で越え、イタリアの平野に入った場所にある古くから栄えた街です。北国の人たちにとって憧れの地 だったのです。
こんなに訪ねてみたいベローナなのですが、パックツアーでは融通は利きません。お土産店で無為に過ごした一時間半、空しさは募るばかりでした。

・王道ツアー

いつもの乞食旅行からみれば、今回のJTB「王道イタリア」は、わたしにとっては、まさに王道でした。今度のお仲間は、このクラスの旅行を何度も経験して おられるようでした。
添乗員さんのお誘いによれば「王道スペイン」というのも、大変に魅力的なようであります。なにせスペインはイタリアと世界遺産の数で1・2位を争っている のだそうですから。
お客さんから、次はどんなツアーが売り出されるんですか?と質問が飛びました。
「最近は、中欧が人気です。みなさん中欧へ行かれるかたが多いですよ」。
やはりホモサピエンスです。あの人が行くから私も行くなのです。
あるあるのダイエット納豆と同じですねぇ。

出発にあたってセントレアに集合したとき、まず、グループのメンバーが全体的に若いなと感じました。総勢42名うち男は9名、ご夫 婦、母と娘、友達同士などが殆どで、単独なのは女性が1名と、男はかく申す私一人でした。変わったところではブラジル国籍の若い女性の3人連れがいまし た。
これだけの人数なのに、煙草を吸うのは男性ひとりだけでした。
みなさんとても旅慣れていて、航空券さえ渡せば、あとは自分で時間までにゲートにゆき乗り込むといった風でした。もちろん、添乗員さんは抜け目なく員数 チェックを欠かしませんでしたが。
むかし、半ば揶揄的に「農協さんの団体旅行」と呼んだ、添乗員さんが旗を高く掲げ、ぞろぞろついて歩いていた雰囲気はもうありません。
かの、スリ、ひったくりの本場であるとの悪名高きイタリア・ツアーなのに、被害は一件もありませんでした。
何回もの集合時間に遅れることなど一度もありませんでした。
日本人ツアー客の評判が良いのもうなずけます。

フィレンツェでのことです。向こうから歩道を歩いてきた身なりのよいイタリア人の夫婦が「あっ、日本人の団体だ」というような嫌な顔 をして、車道にはみ出し、すれ違って行ったのを見てしまいました。
外国人の眼を忖度し、日本人に強いて苦言を呈するとすれば「自分以外にも人が居るのだ」という社会認識にかけている点が玉に瑕なのです。悪意はないのです が、他人の通り道を塞いでいることに気がつかないのは、毎々のことでした。見ていて恥かしく思ったことがありました。
わたしは小言幸兵衛の常として、いつも、地下鉄での座り方やエスカレーターの立ち方のことで苦言をを申し上げているのですが、日常、他人の存在に無関心な ことがあまりにも多くはないでしょうか。
表面的な行為そのものは老幼男女同じですが、内実は違いがあるようです。
古い時代の人は、他人を思いやらないことは良くないことだという意識はあるのです。それを承知のうえで、県知事だって大企業だって悪いことをしてるじゃな いか、オレだってこれぐらいのことはやってやるわい、文句アッカ、というような顔を無理に作って、横に荷物などを置いています。
ところが新時代の人になると、そもそもそんなことがあることも意識していないのです。指摘を受けると「えっ、わたしのほかにも座りたい人がいたの?」と まったく無邪気な様子なのです。
こういった社会性は、男は仕事上しごかれるので自然と身に付いてゆきますが、女性は甘やかされているのでいつまでも欠如したままのようです。

社会性が、人間にとって先天的なものか後天的なものか考えてみました。
神様がアダムをお作りになったとき、人間は一人きりでしたから、社会性は必要ありませんでした。
どうも、人間には社会性を自発的に認識するDNAは入っていないようです。
後天的、つまり教えられなくては獲得できない能力なのかもしれません。
どの敗戦国でも、戦後、指導者の権威は低下するものです。過去の日本の指導者だって、どんなに弁護しても負け組に荷担した責任は免れないのです。
半世紀以上指導者の権威が低下し甘やかされた国民に、社会道徳教育の成果を期待することは元々無理なことでしょう。

老人の毒舌をお許し下さい。こんどのツアー客42人のうちでも、私は飛び抜けた老人だったのです。私の次の高齢者はちょうど一回り下 の年齢でした。「この人にあやかり、もう10年は生きていたい」、「矍鑠(かくしゃく)としていらっしゃいますね」など、老人じゃなくちゃ言って貰えない ようなお言葉を、いただいたことでした。

・ベネチア・ゴンドラ

ベネチアの市街は島の中にあります。島へは鉄道も自動車道も橋で入ります。午後6時前に島に入ろうとすると、大変高額な立ち入り料を取られます。

イタリアは観光立国の国で、過去の遺産を見せることを大きな収入源にしているのです。このベネチアだけでなく、ミラノでもフィレン ツェでも立ち入り料が必要なのだそうです。
そのほかにも、どこの観光でもライセンスを持ったイタリア人のガイドを同行させるよう義務づけています。説明は日本語を話すガイドがするので、現地ガイド がすることといったらチケットを求めること、客の求めの応じて一緒にカメラに収まることぐらいなのですが。

もう暗くなったバスターミナルでバスを降りました。ベネチアの街の道は自動車どころか自転車さえ禁止で、どんな人でも歩くしかないの です。みなさんのスーツケースは小舟に積み込んで運ぶのでした。
わたしは全財産を収めたリュックを背負ってホテルまで歩きました。これには哀しい物語があるのです。
ミラノ空港の荷物受け取りベルトの横には、イタリア人のポーターたちが待ちかまえ、JTBの荷札のついたスーツケースを引っ張り出しては車に積み込んでい ました。
わたしの古ぼけたリュックは彼らの眼をすり抜け、先のほうまで行ってしまったのです。それで、慌てて私が拾ったのでした。
このあと、最初のホテルについたときエレベータ・ロビーに、これもグループのものでしょうかというような半信半疑の顔で、一番最後に持ってこられたのが、 わたしのリュックでした。
いわば日本人観光客としての制服、大きなスーツケースでないと、ちゃんと認知されない様子なのです。こんな理由から、紛失する前に、身につけて運ぶことに 決めていたのです。
せまい島の中では、増設に増設を重ねた、鰻の寝床のようなホテルに2泊しました。
サン・マルコ寺院は、まさに壮大、とても筆舌に尽くせません。
軟弱地に据えた超重量建造物です。不等沈下で床も凸凹なら、柱も傾いています。まだ崩れずに立っているのには驚嘆しました。


サン・マルコ寺院


・水都への鉄橋長き寒暮かな


船体がプラスチックで作られたゴンドラに小一時間乗りました。
船頭さんが上手に櫓を扱うのを感心してみていました。
当節は観光客相手には、カンツォーネなど歌ってはくれないのだそうです。実際、真っ昼間、途切れなく列になって続くゴンドラの船頭さんたちが唄ったらどう でしょう。合唱なのか非合唱なのか、ともかくロマンチックどころか、音楽のうちに入らないのではないでしょうか。
船頭は、ほかのゴンドラの船頭と、大声のおしゃべりに余念ありません。
「おめぇの舟にゃ、いい女が乗ったなぁ」「お前ところの、しみったれたジジイも、結構、チップだけは弾むかもしれねぇぞ」そんなことを言っているのかもし れません。ともかくイタリア語ですから、全然分かりません。
なにせこの街では水路が道路になっているのですから、ダンプカーに相当する舟や、ブルドーザーとかクレーンの役目をする重機の舟とも、すれ違ったりしまし た。

・聖堂に老いたる鳩の日向ぼこ

・ベネチア・迷路

ベネチアでのオプショナルツアーは「ガラス工房案内とレース工房案内の島巡り」とありましたから、一目散に自由行動に逃げ込みました。
最初にアカデミア美術館を訪ねました。そのあと、サンタ・マリア・グロリオーサ・フラーリ教会、サン・ロッコ信者会、魚市場、リアルト橋を見物し、ホテル まで歩いて帰りました。

ベネチアの街を歩いたのは、とても面白い経験でした。
不規則な形をした島がいくつかあって、その上にてんでに建物を作っていって形成された街なのです。家を作ったのは昔のことですから、道路は、ほとんどが、 高い煉瓦造りの家々に挟まれた狭い狭い路地なのです。生活のための広場が適当にあり、そこからまた勝手に路地が出てゆきます。その上、水路が網の目のよう にあります。島と島とが橋でつながれているところは限定され、ほとんどの路地は行き止まりになっているのです。
ベネチアの街に、本当に正確な地図があるかどうかしれませんが、もともと地図を見て歩けるような街ではないのです。
何本目の角を左に曲がるとか、OOストリートとXXアベニューの交差点を右に曲がるなどという歩き方は、まるで通用しないベネチアなのです。
添乗員さんが「駅とかサンマルコ寺院とかの矢印があります。それの駅のほうへ歩けばホテルの近くにくるはずです。水上バスだったら降りる場所は・・・」 と、街を歩くコツを教えてくれました。そういう方法で帰れる場所にホテルを決めたのかもしれません。


・ベネチアの路地の底にも春返る

昼食をしたレストランからは一人旅になりました。最初の目標であるアカデミア美術館は南東の方向にあります。ともかく路地を北と西の方 向だけには行かないように闇雲に歩いてゆきました。登山用の腕時計をしていますから、東西南北はすぐに分かるのです。路地は行き止まりになったり、運河に 遮られたりします。
間もなくアカデミアという文字の読める矢印が出てきました。そしてそちらへ流れる人の動きも感じられたのです。人々は、おのずから橋が架かって渡れる路地 を歩いているのです。その人の流れに従い、アカデミア橋に着きました。街を逆S形にカットしている大きな運河、カナル・グランデにはアカデミア橋のほかは 橋が2本しかありません。だから人の動きも、ここへ収斂するわけです。

残念ながら月曜日の午後なので、美術館は休館でした。
つぎの目標は北北西、そう決めて同じ方法で歩き始めました。
こうして大まかな方向と、人の流れを頼りに観光スポットを訪ねたのです。
当然のことながら、矢印はサン・マルコ寺院、サンタルチア駅、レアルト橋など有名な場所を対象にしたものしかありません。
たとえば、サン・ロッコ信者会など、玄関先まで行っても、まだ迷っていたぐらいです。

こうして、目標を大まかに定めただけで、あとは、ほかの人がするようにして歩いていたのです。自分がどこにいるのかが正確には把握で きず、本当にこの道でよいのかと疑いながら、頭の中がモヤモヤとし続けた半日でした。
そのうちに、人生もこんなものかしらと思い始めました。
幼稚園に入り、受験勉強に励んで上の学校に進み、職業に就き、結婚し、人の流れに身をゆだね、やがては消えてゆく、方向だけはあるけれども最初定めた目標 は常に遠ざかってゆく、そんな人生の迷路を歩き続けているような気がしてきたのです。
そんな人生の旅路で、人は大まかな方向としてなにを選ぶのでしょう。
北帰行という歌の文句にある「富も、名誉も、恋も」が、まず私の頭に浮かんできました。まったく、俗物というものは、ろくなことを思いつかないものです。
そのくせ、いつどこでどうして終わるかも分からない人生行路の中で、安心立命を求める行為が宗教なのかしらなど、偉そうなことを書いてみたくなったりする のです。

・冬運河橋幾百を上下せり

・免税店
最近は、日本人の外国旅行者も旅慣れてきて、昔のように、お土産品やブランド品漁りをしなくなったね、とある人と話していました。

ブランド品にお金を費やすことは、環境保護の上から大変好ましいことであります。それはお金が、グッチとかルイビトンだとかを示す マークを自分の身につけることだけに消費されて消えてゆくからなのです。
人は環境とかエネルギーを論ずるとき、すぐ冷房温度とか電気をこまめに消すとかいう巷間の通説に囚われて、物を作るとき、あるいはそれを運ぶときにエネル ギーを消費し環境を汚していることに考えが及びません。
ブランド品のエムブレムに投ずるだけで消えてゆくお金を、もしも豪邸を建て高級車を乗り回すステイタス誇示に使ったならば、大変なエネルギーを消費し、環 境の悪化を招くのです。
シャネルのマークがついた服を買う金額を使って「しまむら」や「ユニクロ」で買い物をしたら何着買えると思いますか。それこそ膨大な資源の浪費、エネル ギーの消費、環境汚染になってしまうのです。
だから最近、日本人観光客がブランド品を買わなくなったと聞かされて、どうなることやらと心配していたのです。

でも、こんどの旅行で観察していて、ブランド品漁りは依然として健在なことがわかり、すっかり安心したのです。
帰国する日、免税の申請をする人は別の列に並びました。ほぼ、半分の人がそちらに並んだのです。少なくとも、1軒の店で150ユーロ(23000円)以上 の買い物をした人たちは、その権利があるのです。

イタリアへは、ブランド品を買うことを目的にした人が行くのだという説もあります。そういえば、今回、若い人が多かったのも、それな のかもしれません。
1月はサルディ、大バーゲンの時期だそうです。日本では相手の気に障りそうなことは、自分が言わないで他人に言ってもらおうとします。ところがイタリアの 年寄りは、若い人にヅケヅケと注意するのだと聞きました。
ですから、新聞やテレビで、さんざん「欲しい品だけを買いなさいよ。さもないと、サルディがかえって高くつく。袖を通さない服がいっぱい、というのでは倹 約につながらない」と説いているのだと聞きました。
ともかく私の場合は、冥土の土産にイタリアという国を見ておきたいという老人が、間違ってそんなグループに紛れ込んだ格好でした。
やたら免税店に連れ込まれました。

わたしはどの旅でも、孫たちへ値の張らない記念品と、犬たちへのビスケットだけを、お土産に買うことにしているのです。今度の旅で目 についた一番安いビスケットは1袋300円でした。当家の犬たちには、いつも100円のを食べさせているので、300円じゃ口に合わないかもしれぬと懸念 して、イタリアでは買いませんでした。

家には犬が2匹います。血のつながりはありませんが、2才違うので、兄犬、弟犬といっています。朝はわたしが2匹連れて散歩します。 夕方は家内が散歩に行きますが、兄犬は行きたがらず弟犬しかついてゆきません。
わたしが2匹連れているときは、弟犬はやたらによその犬に吠えかかるのです。ところが、家内が弟犬だけを連れているときは、よその犬を見かけると声も出さ ずにコソコソと、リードの長さの許す限り遠くに避けて通過するのだそうです。本当は臆病なのに、わたしと兄犬の威光を借り、吠えかかって示威しているので すね。

年寄りは話が長くなって申し訳ありません。免税店に連れ込まれたとき、わたしは弟犬同様、ブランド品の棚から一番遠いところに逃げ込 み、みなさんの買い物の嵐が過ぎ去るのを、ただ待っていたのです。

・冬の旅免税店の熱気かな

・テレビ

今回泊まったイタリアのホテルでは、日本のテレビ番組を見ることはできませんでした。
大きなニュースだけは逃すまいと、CNNは頻繁に見ていました。
でも、わたしの印象では新鮮味がなく、何日も同じようなヒラリー出馬の番組ばかり流していました。

チャンネルを探しながら、イタリアの言葉をたっぷり聞きました。
中国言葉やフランス言葉が柔らかいほうだとすると、イタリア言葉は強い方だろうと思います。
そんなあるとき、ロミオとジュリエットもイタリア言葉で恋を語っていたことに気付きました。若い男女がチョウチョウナンナンと語るのには、イタリア言葉 じゃどうかなぁという気がするのです。
でも私などどこへいっても、素敵な女性が話す方言はすぐ好きになり、そのトーンに引き込まれてしまうことも事実なんです。
ともかく、将軍様をたたえる、あのお隣の国の女性アナウンサーの怖い口調だけは願い下げです。

天気予報は、いろんな局を、かなりしっかり見たつもりです。イタリアには気象予報士がなくって、各局で勝手に予報しているとのことで す。
面白いのは、等圧線の入った天気図というものを、一度も目にしませんでした。
晴れか雨か、暑いか寒いか、風はどちらから吹くかという、そんな直感だけで満足しているのでしょう。イタリアの大衆にとって、どうしてそうなるのかという 基本条件は関心がないのでしょう。

そもそも今回の旅行では、ベネチアでの半日を除き、霧っぽい日がほとんどでした。そのため、楽しみにしていた車窓からの景色は、残念 な結果に終わってしまったのでした。
1月としては異常に気温が高いのだそうです。ローマのある日など、最低気温8度、最高気温18度でした。持参した厚めのコートは、とうとうリュックの底に 収まったままでした。ローマは函館、ミラノは稚内と同じ緯度でかなり北なのですが、通常なら、イタリアは東海地方とほぼ同じ気温なのです。


・フィレンツェへ
小雨かと思うほど濃い霧が降るベネチアを、朝8時過ぎに出発し高速道路を一路、東南300kmのフィレンツェへ向かいます。

・どこまでも平野どこまでも霧

しばらくのあいだは、ポー川がつくったパダノ・ベネタ平野を走るのです。
このあたりでは稲作が行われています。半世紀むかし「苦い米」というシルバーナ・マンガーノ主演のイタリア映画があったことを思い浮かべました。
今回もリゾットなど、お米を使った料理に何回も出会いました。
「いまでは、日本の”コシヒカリ”に似た稲も栽培されています。その米の袋になんと印刷されていると思いますか? ”イタヒカリ”なんです」とガイドさん がいいました。みんなドット笑いましたが、本当のことだそうです。
そういえば、アララギの歌人斎藤茂吉がウイーンに留学していたとき、こんな歌を詠んでいます。

・イタリアの米を炊ぎてひとり食うこのたそがれの塩のいろはや

フィレンツェへ入る前にアペニン山脈を越えます。
ついでながら、月の表面にもアペニン山脈があるのです。なにせ望遠鏡で月面を観測したガリレオは、イタリアの人なのですから。
わたしの腕時計の高度計では900mが道路の最高点でした。高速道路といっても山に入ると日本にくらべてかなりお粗末な様子になります。
アペニン山脈の東北斜面はモミ系の林、南西に越えると乾燥地に適応した松系の林に変わるのが目につきました。といっても、霧で見通しが利かない条件はあり ましたが、今回のイタリア旅行では、森というものを見た記憶がないのです。イギリスを旅したときと同様です。いろいろ原因はあるのでしょうが、日本では古 い時代から、時の政府によって森林資源の管理が巧妙になされていたことは誇るべきことだと思います。

フィレンツェ市街の南にあたるミケランジェロ広場の丘から、街を見下ろしました。盆地の底にある、小さなフィレンツェの街の中央に、 大聖堂がとび抜けて大きく見えます。ヨーロッパは、建物の高さの制限が通用する社会なのだなと、付随する社会の諸々のことを思ったのでした。
花の都フィレンツェのドゥオーモ、洗礼堂、ミケランジェロ作のダビデ像など、見るべきものは見せてもらいました。良質の大理石が近くで得られるとかで、そ の美しい白さと黒との模様が、きっちり直線状に決まって、羨ましくなるまでの美しさを演出しています。


・神ならぬ画家ヴィーナスを生みしかな


なんといっても圧巻はウッフィツィ美術館でした。
現地在住の日本女性ガイドが、とびきり博識かつ解説上手なせいもあったと思います。たとえば、ジョット描くところの聖母子では、ほころんだマリア様の口元 を、ある位置から見ると、唇から歯が何枚かこぼれて見えるとか教えてくれました。
ダビンチ、ミケランジェロ、ボッティチェッリ、ラファエッロなどの、おなじみの画にお目にかかったのです。
音楽だって、ベートーベンの第五、第九、歌劇なら椿姫、カルメンなんて知っているのは、耳に聞きよいではありませんか。
自由時間に、ほかのどこにも行かず、ここの画に眺め入っていました。いまでも、もっと見ていたかったなあと思い返すのです。

・ピサの斜塔
フィレンツェから西へ100km、ピサに向かいます。途中、道路ぎわに苗木を育てている畑が続き、名古屋の北にあたる稲沢とよく似た光景でした。
ピサはもう海に近く、沖積平野にある町です。観光バスは街の入り口までしか入らず、あとはシャトルバスで進入します。
高い壁の門をくぐると、そこはおなじみのピサの斜塔でした。
ここの大聖堂や洗礼堂は、大理石が真っ白でとても美しいのです。そしてそれらの大きな建物が真っ直ぐ立っているので、斜塔の傾斜がよくわかります。
わたしは写真でよく見る傾いた塔身の景色よりも、地面にのめり込んでいる塔の基礎の様子に、いまも沈んでゆくような凄い迫力を感じました。




・冬の雨斜塔大地にのめり込む


一度に25人、293段の階段を登らせてくれます。階段も大理石でできています。大理石は鉄で削れるほど軟らかいのです。いままでに何人の人が登ったこと でしょうか。塔が傾いているので階段の踏み面も水平ではありません。長い年月、沢山の人が踏み面の低い側に足を置き、堀り込んでできたくぼみは、なんとも いえぬ味がありました。
この塔は1173年、建て始められました。京都の鹿ヶ谷で行われていた平家討伐の密議が発覚し、源平抗争がスタートした頃です。
建設を始めて間もなく地盤が不等沈下し、傾くのが分かりました。それで5階からは上階は、垂直方向に修正しながら建設が進められました。
現在、塔の頂上には鉄の手摺りが設けられ、立ってもそんな怖いわけではありません。ここに立って地平線を透かしてみると、塔の高さが北側で55.22m、 南側で54.52mと70cmも差があるのがよくわかります。

わたしが一番関心を持ったのは、目立つほど傾き始めたことを認めながら、いったん解体し建て直すことなく、1万4千トンも重量のある 塔の建設を継続した点です。
私が世にある頃、平板に棒を溶接した機械で不具合を生じたことがありました。「真っ直ぐ溶接してなかったのが原因でした」という報告を受け「世の中に真っ 直ぐなどいうことはあり得ない。0.あるいは0,0何度という傾きはあるはずだ。1度以内とか、具体的な判定基準を決めなさい」とわめいていたことを思い 出します。
わたしの言い方ですと、塔はみんな多かれ少なかれ斜塔ということになります。実際、目で見て傾いている塔が、ほかにも結構あるのです。
中国の蘇州にある虎塔は15度傾いているそうです。それに比べれば、ピサの斜塔はたったの5.5度なのです。
1964年、イタリア政府は世界各国の建設会社に倒壊防止策の提案を求めました。そして倒壊回避手段がとられた結果、現在公開されているのです。専門家の お墨付きを貰ったと認めるべきでしょう。
改めて石造建築物の強度計算って、どうするのかと疑問が湧いてきました。鉄筋コンクリートとか鋼材構造物とは違うはずです。あのベネチアのサン・マルコ寺 院は不等沈下で床がうねっていますが、沢山の人が何喰わぬ顔で出入りしています。柔構造なのでしょう。
でも日本では、地震で灯籠や墓石が倒壊することは周知のことです。

ただの斜塔ではなくて曲塔であることにも、彼我の精神構造の違いみたいなものを感ずるのです。
もっとも、世界中から観光客を招き寄せている今となっては、傾いていることに大きな意味があるといわざるを得ません。律儀な日本人にはできない深謀遠慮と 讃えるべきでしょう。
ともかく、私はここで孫たちにピノキオ人形を求めました。

・冬の夜やピノキオ孫に読みしこと

・ローマへ
この日の昼食はアグリツーリズモ・レストランでとることになっていました。この種の施設は、田園地帯にある比較的大きな農家で、食事、あるいは宿泊を提供 していて、経済的に家族旅行ができるのだそうです。
高速道ではなく一般道を走るので、わたしは一番前の席に座らせて貰い、道路標識を見ていました。
実は3年前、北イタリア・ドロミテの山々をレンタカーで廻ることを計画したのでした。そのときは実現しませんでした。それから、だいぶ老化が進んだことは 自覚していますが、まだ、あわよくばと思わないでもないのです。
またその後、フランスでレンタカーを使ったとき、道路番号を使わないフランス式の交通標識に散々手こずったのでした。
結論からいえば、イタリアの交通標識も基本的にはフランスと同じだと思います。ただ、フランスほど中華思想が強くないのか、一部には道路番号を小さく添え た標識もありました。

わたしたちが訪れたアグリツーリズモ・レストランは大きなぶどう園で、ワイン工場でもありました。ワインが提供されたので、大宴会に なってしまいました。
そこからローマまで南へ400kmほど、ほとんど高速道路でした。東にアペニン山脈、西に小さな山脈のある広い谷間を南下します。農耕、牧畜に適した緩や かな丘がつづき、送電線と人家が現れては消えてゆきます。
イタリアも日本と似た細長い国ですが、ここまで見た印象では、利用できる土地の比率が日本よりも多そうでした。







この日、ローマでの夕食にもワインが付きました。旅の終わりに近づくにしたがって、仲間は親しくなり、食卓にはワインが付いたので す。心憎い「王道イタリア」ツアーの演出振りです。かなり盛り上がりました。

ローマでは、コロッセオ、フォロ・ロマノ、バチカン、トレビの泉を見せてもらいました。どれもこれも深い印象を与えてくれました。
ローマの街は、近代都市のあちこちに、2000年も前の遺跡が、いわば、こともなげに点在していて、歴史の古さを、ふんだんに見せています。
この遺跡はキリスト教の影響を受けたものではない、つまりプレ・キリストだと認識しながら眺めるのは、ローマに来てからの特別な感慨でした。おもえば、こ こにくるまでのツアーは、大聖堂、聖母子画など、美術品といえば、どれもこれもキリスト信仰の世界だったのです。

さて日本では、仏教の影響を受ける前の美術品が残っているのでしょうか。
正式な仏教渡来は6世紀とされます。その前から、何らかの影響は入っていたでしょう。でも、お釈迦様が生まれたとされる前6世紀を遡ることはあり得ませ ん。古墳より遙かに古い時代のことです。日本にプレ・仏教美術遺跡はないのです。
こうして、ひとしおの感慨を抱きながら、ローマの遺跡群を見ていました。

わたしが一番感激したのは、バチカンのシスティーナ礼拝堂でした。
礼拝堂は見学者でごった返しています。そして敬虔であるべき場所ですから、ガイドの説明はありません。
500年以上前に、ミケランジェロ始め天才画家たちが描いた絵画が修復され、まるで最近描かれたように、まことに美しい色彩を見せていました。
”最後の審判”に見ほれていました。天国の鍵を持ったセント・パウロが、最期の審判で、おまえは天国、お前はアッチと閻魔さんの役をしていました。
星新一のショートショートにある天国と地獄編の場面が、頭によみがえってきました。イエス様の最初の弟子、そして級長格の弟子であるパウロが閻魔大王の役 目であることは、キリスト教徒にとって、DNAにまでしみ込んでいるのでしょう。
もうひとつ、三途の川の渡し守が櫂を振り上げていたり、祝福され天使に抱えられ天に昇ってゆく者たちの姿を見ていて、仏教の阿弥陀来迎図との相似、人間と 宗教の関わり合いというようなことを思っていました。
ミラノを振り出しに、数日間、数々の大聖堂でカソリックに浸ってきた旅の終わりに、まさに相応しい感激でした。
自由時間が終わり、わたしは指定時間に指定場所で、皆さんと合流していました。でも、目だけはついつい、天井に描かれたミケランジェロの”アダムの創造” などに、飽きることなく引き付けられていました。そのうち、添乗員さんに「参りましょうか」と催促されてしまいました。気がつくと、わたしひとりが取り残 されていたのでした。

・バチカンの鐘の音凍る石畳

ツアーはトレビの泉で解散、フリータイムに入りました。
まず、ローマの休日で有名なスペイン広場から階段を登り、街を見渡しました。
黒い衣装のお婆さんが物乞いをしていました。結構、喜捨してくれる人がいるのものです。わたしは、つい、ビデオのボタンを押してしまいました。随分遠くか ら望遠で狙ったのですが、婆さんはこのとき顔を上げました。「撮ったな、見ちゃった、見ちゃった」といってでもいるように思えました。なんとなく気味が悪 かったので、階段を下りまた登って行って、いささかの喜捨をさせてもらいました。
黒衣の西洋お婆さんは、悪魔のイメージぴったりでした。ほんとうは良い人なんでしょうね。ごめんなさい。

アウグストゥス帝の廟を訪ねました。直径約90m、石造りの大きな御廟です。現在は地面を数m掘り込んだような窪地にあります。テ ヴェレ川のすぐ近くですから地形が変わった可能性はあります。ともかく日本の古墳が小高い位置に造られているのとは違うようでした。エジプトにあるアレキ サンダー大王の墓を模してAD29年に造られたものだそうです。
近くにあるローマ帝国初代皇帝アウグストゥス帝をたたえBC9年に作られた平和の祭壇、アラ・パチスを見ました。ガラスの建物に収納されていました。アウ グストゥス帝の家族の姿も彫り込まれており、系図も添えられていました。
老いたりといえども、今後の人生でローマ史を読むたびに、帝王たちに親近感を持って想像できることだろうと嬉しく思いました。
これらの時代は、日本では卑弥呼より2百年ほども前に当たります。
そんな時代に作られた遺品の規模、芸術性、年代記録の正確さなどをみると、とても日本は敵わないと思いました。

ここから、テヴェレ川に沿ってポポロ門まで歩いてゆきました。川岸の街路樹の幹が、地上2mぐらいで3〜4本の太い幹に別れている姿 が変わっていると思いました。ローマでは、ほかのところでもこんなように街路樹が整形されていました。夕方5時ですが、もう薄暗くて、灯を映しテヴェレ川 は鏡のように静かでした。でも、よくよく見ると、水は北から南に流れているのがわかりました。
ポポロ門に着いたときはもう真っ暗でした。この門は、むかし、ローマの北の入り口だったのです。ゲーテもバイロンもキーツも、ローマに憧れてきた古人は、 ことごとくこの門をくぐったのです。こんな感慨に浸っている私の横を、家路に急ぐOLたちが靴音高く通り過ぎてゆくのでした。
ここの広場にはエジプトから分捕ってきたオベリスクが建っています。かってはローマ市全体に180本もあったとかです。アントニオとクレオパトラのロマン スもあったように、地中海をめぐる隣人同士だったのです。

そしてこの夜、ツアーの最後のイベントであるカンツオーネ・ディナーが始まりました。そのレストランの客は、ほかのツアーグループを 含めて日本人ばかりでした。
シンガーは男2人女1人でした。”オーソレミオ””帰れソレントへ””フニクラ・フニクラ”など聞き慣れた曲ばかりで、パフォーマンスを交えて大サービス してくれました。
やはりプロの声は素晴らしいと思いました。まさに喉や胸でできている人間楽器といってよいほどで、声量は豊か、音階は正確でした。
かって、よその国からイタリアを訪ねてきた人たちが、カンツオーネを聞いて、驚き感嘆し模倣しようとした気持ちがわかりました。
われわれの仲間の一人が、五木ひろしの演歌を聞かせたら、なんていうだろうと呟きました。わたしはどちらも、よいものはよいと思います。
カンツオーネの体の芯から声を出す発声法は、どこか日本の能の謡いに似ています。
ともかくこの夜は、心からスカットした気持ちにさせてもらったのでした。つい、自分もあんなふうに歌ってみたいと、思うことしきりですが、よほど密閉遮音 された部屋じゃないと、近所迷惑だろうと、思い止まっているのです。

・世界遺産というもの
今回のイタリア旅行が、ローマ以北の典型的な観光スポットをほぼ網羅しているものだったことは、お分かりいただけたかと思います。
有名な場所については、ガイドブックとか外の方が書かれた紹介のほうが、ずっと優れていますから、私の下手な記述はサボらせていただきました。

イタリアには、人類の素晴らしい遺産がいっぱいあります。もっともっと沢山の場所を訪ねたいし、一カ所一カ所をもっとじっくり見たい と願わないではいられません。

それほど有名ではないのかもしれませんが、ベネチアのサン・ロッコ信者会でも大感激しました。信者会(スクオーラ)というのはベネチ ア特有の制度で、個人や貴族を中心にした慈善事業を行う友好団体のことだそうです。建物の中には立派な礼拝堂、集会室、救済院などがあります。
サン・ロッコ信者会は16世紀に造られました。ルネサンス様式の建物の壁と天井は、ティントレットが20年の歳月をかけた56枚の絵で埋め尽くされていま す。テイツィアーノらの作品もあります。床のモザイクも素晴らしいものでした。
思うのは個人の勝手ですから申しますが、17世紀末に作られたフランスのベルサイユ宮殿の広間は、ここにヒントを得たのかしらとまで感激したのでした。
ここに限らず、イタリアの多くの遺産は、この世のものとも思われぬ、巨大さ、壮麗さを見せてくれました。そしてそれは、街の民家の質素さとは対照的とも思 えたのです。
それぞれの社会単位で、繁栄を謳歌していたのでしょうけれども、それを何かに集中させる、言ってみれば、一点豪華主義的な精神風土なしには、今日の世界遺 産大国イタリアはなかったのではないでしょうか。
ダビンチ、ミケランジェロなどの天才、超人を輩出したのは事実ですが、それを支えたメジチ家の富と意志なしには、人類の遺産がこんなにも多くフィレンツェ で生まれはしなかったでしょう。
住民のひとりひとりがどうしようもなく豊かで、メジチ家がそれよりさらに豊かだったとしたら、お目出度い話ですが、そんな現実があったはずはありません。
大げさに言えば、過去の社会が、その富を集中させ世界遺産を作り、かつ伝え、現在は観光事業で子孫を養っているという図式であるように見えます。
世界中の人がイタリアの世界遺産を訪ねるように、日本の世界遺産を見にくるものなのか、また、見てもらう価値のあるものがどれほどあるのかしらと思ってし まうのです。

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