円山応挙の展覧会を見た。子犬たちの仕草が可愛かった。弟子たちが描いたのと見較べると、どこがどう違うのかは分からなかったが、応挙が描いたのはなんとも可愛いのである。応挙という人は、動物を心から好きな人だったのだろうと思った。
富士の裾野の巻狩の絵があった。弓矢をかまえた武士たちに追い詰められた親子の鹿を見ていて、心の通い合った当家の犬たちが、私たちに哀訴する眼差しが思い合わされた。 なんとも哀れに思われ、苦しくなってしまった。私が慈悲深い性質だなどいう気持ちは毛頭にもない。
中学生の頃のことだった。米軍の空襲で焼き払われ名古屋の街を去って田舎に移った。ある日、友達たちと川辺の泥の上で遊ぶ蛙たちに、石を投げて遊んだことがあった。いかに戦時下だったといえ、手投弾を真似するつもりだったことも、また、いじめるという意志があったわけではない。ただ、いかに狙ったとおり投げられるかを競い合うということだったと思う。しかし、命を失った蛙たちにとってはとんでもない迷惑、災難だったことは間違いない。
今の私には、こんなことは絶対にできないと思う。
歳をとって世の中がわかってきたせいではない。老いると皺がふえるように脳の中の働きが変わってくるのだと思う。老人は、やたらと涙もろくなるものである。
ある意味では、イジメに対する感度が高まってくるといえよう。
大津市皇子中学校における生徒のイジメに起因する自殺のケースから、学校でのイジメに関する話題が、社会で、いわゆる炎上現象を引き起こした。
この種の騒動の常として、 ことの本質を考えることはしないで、 マスメディアといわゆる世論との相互作用で、当事者への責任追及として盛り上がったのであった。
たまにはちょっと脳細胞も使ってみてはどうだろうか。
そもそも、イジメは学校だけにあるものなのだろうか。そして、学校におけるイジメだけが問題なのだろうか。
日本神話に登場する「因幡の白兎」はこんな話である。
昔々、隠岐の島に住む1匹の白兎が、ある姫神に会いたいと思い因幡の国へ行きたいと考えた。しかし、隠岐の島と因幡の間は海でとても自力では渡れない。
そこで白兎はワニザメをだまして向こう岸に渡ろうと考え、「ワニザメさん、君たちの仲間と僕たちの仲間とどちらが多いか比べてみようよ」と提案し、ワニザメを因幡の国まで並べさせ、その上をピョンピョンと渡っていった。
そしてもう少しで向こう岸に着こうというとき、あまりの嬉しさについ、「君たちはだまされたのさ」と言ってしまった。それに怒ったワニザメは、白兎の体中の毛をむしり取り、あっという間に丸裸にしてしまった。
丸裸にされた白兎がその痛みで砂浜で泣いていると、そこに大国主命の兄神様が大勢通りかかり(大国主命の兄神たちは、隣の因幡の国に八上姫という美しい 姫がいるという噂を聞きつけ、自分のお嫁さんにしようと、因幡の国に向かっている途中だった)、「海水で体を洗い、風に当たってよく乾かし、高 い山の頂上で寝ていれば治る」といった。白兎が言われたとおりにしてみると、海水が乾くにつれて体の皮が風に吹き裂かれてしまい、ますますひどくなった。
あまりの痛さに白兎が泣いていると、兄神たちの荷物を全部担がされて大きな袋を背負った大国主命が、兄神たちからずいぶんと遅れて通りかかり、白兎にわけを尋ねた。そして、「河口に行って真水で体を洗い、蒲の穂にくるまって寝ていなさい」と教えた。
白兎がその通りにすると、やがて毛が元通りになった。たいそう喜んだ白兎は「八上姫は兄神ではなく、あなたを選ぶでしょう。あのような意地悪な神様 は、八上姫をお嫁にもらうことはできません」といい残し、自らが伝令の神となって、兄神たちの到着より前に、この事実を八神姫に伝えたのだった。
これを知らない兄神たちは、先を競って姫に結婚を申し込んだが、姫はそっけなく対応し、「私はあなた方ではなく、大国主命の元へ嫁ぎます」といい、兄神たちを追い返した。
さてさて、闘牛、プロレス、事業仕分けなど、人間というものは老幼男女、ひょっとすると人間どころか神様まで、イジメ根性から無縁とはいえまい。
「杉山隆男氏著 兵士は起つ」より (一部意訳)
2011年3月17日福島原発での消防車による放水冷却は、まず警察、ついで自衛隊が行うこととなった。消防車はずっと手前で待機し、一台づつ瓦礫を除去した狭い通路に進入し、放水を終えたら速やかに退去し、被曝の恐れがあるので、現場にいる時間は最小限にとどめたのであった。
三号機の前に消防車を停めると、防護衣で全身を固めた男が立っていた。事前のブリーフィングでは、骨組みだけとなった三号機の残骸のどのあたりに向けて水を放てばよいか、指示があったが、細部については現場にいる東電側の誘導員とコンタクトを取りながら進めるように言われていた。その誘導員が、高濃度の放射能にさらされる中、屋外にひとり立っていたのだ。救難消防車の車体前部にはサーチライトが二基、屋根の上には運転室から声が流せる拡声器がついている。斎藤二曹の隣でターレットを操作する同僚の隊員が、サーチライトの強力な光を三号機の剥き出しになった梁の先に当て、拡声器で、「この方向でいいんですか」と外の誘導員に呼びかけた。誘導員の男が、オーケー、というように両手で大きな丸を作ってみせた。
東日本大震災について、やれ天災だ人災だ、想定外だ想定内だと実りのない言葉遊びに、口角泡を飛ばして夢中になっている人たちがいる。
ただ、日本国全体が大災害に襲われたことは間違いないし、それゆえに国民全体が一丸になって対処しなければならない事態であったことは自明である。
その中に、悪者探しとそれに続くイジメ行為が行われたことはなかっただろうか。
あらゆる場面で、多くの東京電力社員が体を張って、災害の収拾にあたっていたに違いない。だが、その様子を伝える記述としては、前出の「兵士は起つ」に出会ったのが、私としては始めてであり、まさに暗夜の一灯の感があった。
あのとき福島第一原発では、たとえてみれば、1985年8月、尾翼、油圧系統を失った日航ジャンボ機が、エンジン出力の加減だけで迷走していたような状況だったのであろう。正常の機能を失いながらも、必死の努力を続けていた機長のもどかしさが思われるのである。
法律では、故意、過失があれば責任が生ずるとするのが基本にある。
東京電力にどれほどの故意、過失が考えられるであろうか。
人は「飛行機は落ちるから危ない」という。そして実際に飛行機は落ちて、死者が出る。そんな現実ではあるが、「飛行機は落ちるから危ない」と予告した人がいるのに飛行機を製造あるいは運行したという行為に、どれほどの故意・過失を問えるであろうか。
最近、南海トラフ巨大地震について中央防災会議の作業部会と内閣府の検討会が、死者32万人、被害額220兆円などの被害想定を発表した。東日本大震災から、実に2年後のことなのである。 今後はこの新しい想定をもとにして、対策が進められてゆくのであろう。
イジメられるのは弱い人 、イジメるのは強い人 である。
民主主義社会で一番の強者は、主である「民」である。そして民が選んだ最高権力者は総理大臣である。また実質面では、民が直接知り得ないことを教え導くのはメディアである。
私は疑いもなく凡人である。意識しないままに、いまもどこかで、少年の頃、蛙に石をぶつけていたようなイジメ行為をしてはいないかと、胸に手を当てずばなるまい。