題名:出雲八重垣

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日付:2002/4/29


今年の春の旅は、出雲路が主体でした。

今回もMさんと同行です。
まず新幹線で姫路までゆき、そこで駅レンタカーを借りました。

レンタカーで走ったのは約800キロですから、そう大変な距離ではありません。
でも、4日間に訪ねた場所は、大変な数に上ります。
下に羅列させていただきます。
ご安心下さい。そんな沢山の訪問先について、いちいち内容を書く気持ちはありません。
ただ、どんなにゴソゴソ訪ねたかを、分かっていただきたい気持ちで、並べ立てただけなのですから。どうぞ、お気軽に、数の多さだけを眺めて下さい。

原始時代 荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、玉造遺跡、淀江資料館、
     妻木晩田遺跡、天の真名井、玄武洞、

古代   出石神社、八重垣神社、風土記の丘、神魂神社、国庁跡、
     国分寺跡、真名井神社、熊野神社、上淀廃寺、一畑薬師、 

中世   院庄作楽(さくら)神社、城福寺、富田城跡、名和神社、
     竹田城跡、

近世   石見銀山、生野銀山、美保神社、関の五本松、

現代   余部鉄橋

・櫻の幹に十字の詩
最初の訪問地、院庄(いんのしょう)は、中国自動車道、院庄のインターからすぐ近くでした。
駐車場に車を止め、案内の看板を眺めていました。
小雨の日でした。社務所の人が我々を見掛けたからでしょう、スピーカーから「櫻の幹に十字の詩・・・」と昔々の小学校で習った歌が流れ始めました。
すると観光タクシーが来て、母子が降りてきました。
私と同じ年格好の母親が、タクシーの運転手さんをつかまえて「この歌、私、学校で習って憶えてるの」と演説が始まっていました。
どうも様子では、この辺りの名所へ連れて行けと言ってタクシーを雇ったら、まず、ここ作楽(さくら)神社に連れてこられ、流れてきた歌を聴いて始めて、後醍醐天皇の旧跡であることに気が付いた様子でした。

1331年、後醍醐天皇が隠岐島に流されるとき、なんとか道中で救出しようと、児島高徳という武士が機を窺っていたのです。しかし、警備が大変に厳しくて近づくことができませんでした。
それで夜中に、天皇が泊まっておられる宿の庭にあった櫻の幹を削って「天勾践(こうせん)を空しゅうするなかれ、時に氾嶺?(はんれい)なきにしもあらず」と、10文字の漢詩を書き付けたのでした。昔、中国で勾践という名の王様が捕らわれたのを、氾嶺?という忠臣が助け出したという故事によったものであります。
後醍醐天皇に、私、高徳を始め、忠臣たちがお助けしようとしているのですと、気持ちを伝えたのでした。
この物語は、昭和の初期、国民の天皇への忠誠心を高めようとされた時代に、盛んに持ち出されたものでした。
Mさんは「書いた人も、読んだ方も教養があったんですよ。あの頃の人たちも、殺し合いだけしていたんじゃない」と感想を漏らされました。

児島高徳という人は、太平記の中でもこの場面しか登場せず、その実在を疑う説も出されています。
この件を図書館で調べてみたのですが、歴史の棚には、一切、影も形なくて、日本文学の棚にあった「太平記」の中で、やっと項目を見付けました。
そしてその解説の部分には、物語そのものも中国の故事を引いてきたもので、「作者が熱烈に仕立て上げた」と書かれていました。

この図書館で閲覧をしていて、日本人が院庄の「十字の詩事件」を、かって自国民が犯した疚しい過去であり、蓋をしておこうとしているようだという印象を受けました。
でも、十字の詩事件は、日本人が現在やろうということではなくて、14世紀に作られた、古典の中に記された話なのであります。
世界のどの民族でも、グループのトップに忠実をつくすということは、美談として書き止めていると思われます。
早い話が、院庄の話だって、中国の忠義の故事を引いてきているのです。

敗戦後、忠君愛国が、いかがわしいものとされてから、はや半世紀以上過ぎました。
もともと、民族が持っている古典の内容を、殊更に自慢したり、あるいは恥じて萎縮したりするのは、理性とは次元が違う行為ではないでしょうか。
そろそろ、戦前の狂信的な皇国主義からも、また、戦後の総評や日教組の流れのイデオロギー的視点からも脱し、広い視野から、正しく歴史を見てゆくことも、現時点で課せられた構造改革の一つの課題ではないでしょうか。

ともかく、その昔を知っている私には、平成の今日、ここ作楽神社の塀に「当神社は他の神社と違って氏子がないので、経済的に大変苦しい。ぜひ、寄付をしていただきたい」と書いた看板がかかっているのが、いかにも、もっともだと思えるのでした。

この日は途中から米子自動車道に入り、日本海側に抜け、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡を見て、夕刻、城福寺に泊まりました。

・春雨に忠臣の像額突ける

・ユース・ホステル
さて、今回の旅行では、3泊ともユース・ホステルに泊まりました。
最初の宿が城福寺でした。これはお寺が泊めて下さるのです。
2日目は松江のレークサイドというユースでした。
ここは、若者たちの研修とか合宿用に使われる設備のようで、生徒用に2段ベッドをおいた部屋が幾つかあります。
そして、この建物の一番奥に、先生用らしい畳の部屋がありました。
私たちは、その先生用の部屋に泊めていただいたのでした。
3日目は、兵庫県浜坂町の諸寄(もろよせ)ユースに泊まりました。
ここは、一般の民宿がユース・ホステルも兼ねていて、この地方に出張して工事をしている人などと同宿するのです。
若くて元気のいい人たちと同じ部屋で夕食したりするのですから、面白い話も聞けました。
とても明るい女主人でした。
若いお兄さんが「お宅も、食べながらテレビが見られると、言うことないんだけど」と言いました。すると、彼女は「わたしの顔を見ながらじゃ駄目かしら」など言い返すのでした。
ここ諸寄の街にもスナックがあるのだそうです。
そこの娘さんがホステスさんなのですが、彼女が夜8時頃、JRで隣の町の勤め先から帰ってくるまで、80才になるお婆さんが「よっこらしょ」と声を掛けながら、お客のカラオケサービスをしてくれるのだという話も出ました。
そんなことで、3夜とも、いろいろのタイプのユース・ホステルを経験することができ、それぞれに楽しませていただきました。

最初の宿、城福寺は、高野山真言宗の古刹であります。
夕食後暫くして、ご住職と奥様が「今日は、お彼岸の中日ですから、おはぎを作りました」と呼んで下さいました。
お客は、若いカップルとわれわれ2人、炬燵を囲み、おはぎを戴きながら、しばらくお話をしました。
本来は若い人が、ご住職のアリガタく、かつ、タメになるお話を聞くというのが、ユース・ホステルっぽい雰囲気なのですが、われわれはそれには、ちょっと老け過ぎでした。

私たちはこの日午後、弥生時代の遺跡を見てから宿に入りましたから、当然のように考古学が話題になりました。
すぐ先日、こんな報道がありました。
「四国で発掘された縄文時代の人骨に、戦いで殺された跡が見つかった。
従来、縄文時代は戦のない平和な時代で、弥生時代に入り階層社会が発生してから、殺し合いが始まったとされていた。
今回の発掘の結果により、従来の説に疑問が提起された」。

そのことが話題になったとき、わたしが持論を持ち出したのは、ご想像のとおりであります。

世界中に住んでいる沢山の人たちと、その人たちが今までにやってきた歴史を素直に見れば、人間社会に争いが尽きないのは自明の理であります。闘争本能は、もう人類の遺伝子レベルにまで、深く組み込まれているものなのです。
「むかしは人びとを養うのに十分だった土地が、今ではそれがあまりにも小さくなり、もはや十分ではない。だから人びとは隣人から土地を奪取しなければならない」。
このように、今だったら論議をかもしそうな現実を口にしたのは、古代ギリシャの哲学者プラトンでした。そしてプラトンの時代の地球上の人口は、現在とは比べられないほど、少なかったはずです。
そんな与えられたレールの上を、人類は、その時代時代に、集められる最大の集団を作り、かつ、採用できる最も殺傷力の強い武器を使っては、相手を殺し合って走ってきたのでした。
握り拳が棍棒になり、石斧、弓矢、鉄砲、機関銃、核兵器と、道具や手段、参戦規模は変わっても、その流れは一貫しているのです。

若くて経験が足らない人とか、「まず思想ありき」という色眼鏡をかけた人とか、ともかく事実を直視しない人たちは、特定の時代とか、特定の人間集団をユートピアとして画きたがるものであります。
ソビエトのコミュニズム、中国の文化大革命、カンボジアのポルポト政治などは、我々世代に経験した現実の事件でありました。
わたしは、それを賛美していた人たちを、実際に思い浮かべることができます。
その人たちは、あの美しく画かれた看板の裏で行われていた、人権無視の弾圧や大量殺人を知らなかったり、または故意に正当化していたのです。
なにせ、真実が報道されるのは、その体制が変わってから、何年も経ってからのことになるのは、いつものことなのですから。
ところで、この私の性悪説的文脈に沿って考えると、いまの民主主義やグローバリゼーションだけが、人類固有の呪縛から逃れた最終のユートピアになり得るはずもないでしょう。
小泉首相が登場する頃、彼が唱える構造改革にユートピアを見た人は多かったと思われます。が、その実体は、総理ご本人が仰るように痛みを伴うものであります。
しかし、大衆が受け取ったのは、痛みは他人が受ける痛みであり、それが過ぎ去れば、その後には繁栄というユートピアが来ると夢見たようでした。
でも、くどいようですが、所詮は人の世です。
構造改革が避けられないものではあっても、絵に描いたようなユートピアと違うことは、始めから決まっているのです。

こんな因果のもとで、ユートピアを実現できる資質は、人類に備わってはいないのです。
しかし、また同時に、裏切られても裏切られても、人間が持っている良い面を信じて、未来永劫にユートピアを夢見ずにはいられないのが人類でもあります。
現実を直視する勇気と知恵を持つように努めること、そして理由は何であれ残虐なことは残虐なことと認め、少なくしてゆきたいというのが、人類の一員として、私の自戒なのであります。

イエ、いくら相手が私より年の若いお坊さんだからといっても、上に述べたような偉そうなお説教を、私が城福寺でぶったわけではありません。
いったい、私は内気で無口なのですから、さわりだけを、こそこそ口にしただけです。こんな小難しい理屈は、心の中で反芻していただけのことであります。

・春疾風波頭砕くる白兎浜

・石見銀山と生野銀山
「石見銀山、ネズミとり」と、昔語りに銀と毒薬で名前が出てくる石見銀山は、出雲大社の南西40キロほどのところにあります。
この鉱山の最盛期は、徳川時代でした。いっときは、世界中の銀の産出量の三分の一を、この石見銀山が占めていたのです。
その銀貨が、鉄砲、陶器、絹、綿布、香料、お茶など、当時の世界貿易の場で、地球上を経巡っていました。
ある時期には、山間の狭い谷間、石見銀山は活況を呈し、20万人の人が犇めいていたといわれます。それが今では、たったの400人だというのです。
石見銀山は、どんな本にも1309年に発見され、1526年に本格的に開発されたと書いてあります。
時は戦国時代ですから、大内、小笠原、尼子、毛利など諸大名のあいだで激しい奪い合いが行われました。
徳川家康も、その重要性を早くから認識していて、関ヶ原の合戦が終わったわずか10日後に、ここを幕府直轄の天領として組み入れています。

石見銀山では、観光用に整備された竜源寺間歩(まぶ、坑道のこと)に入り歩いてみました。
人形が置いてあって、掘る人のほかにも、鉱石を運ぶ人、坑道が崩れないように木の枠を組む人、排水する人、送風する人など、沢山の人が働いていた様子を展示していました。
そういえば最盛期には、この谷の中にあった寺の数が100を超えていたとのことです。
劣悪な環境のなかで過酷な労働をするのですから当然短命で、30才になると尾頭付きで「長寿」を祝ったと解説してありました。
精錬も、この狭い谷間でしていたのですから、空気の汚染だって相当のものだったに違いありません。
でも、当時の人たちの視点に立てば、石見銀山の仕事があったからこそ、お陰様で人間らしく30才まで生きられたのかも知れないのです。
こんな猛烈な生産ドライブをかけて銀を堀り、最盛期には年間38トンほども生産したのでしたが、徳川末期には年間わずか225kgと、堀尽くされた感がありました。
その後、明治になってから藤田組(現在の同和鉱業)に払い下げられ、新しい技術を取り入れて開発することが計られましたが、大正12年(1923年)遂に休山になってしまいました。

時間が止まったような、この石見の古い鉱山の町並みを、ユネスコの世界遺産に指定してもらおうと、町中でボルテージを上げているように見受けられました。

他方、今度の旅の最後に訪ねたのが生野銀山でした。
ここは姫路市の北約40キロにあたる山中で、石見銀山からだと、東へ200キロぐらい離れています。ですから、どうしてこんなに中国地方ばかりに銀山が集まっているの、というほどのことではないでしょう。
生野銀山の開坑は、よく大同2年(807年)と書かれています。しかし、大同2年という年は、日本の古代史の中で、なぜか物事の始めに、まるで枕詞のようにして使われています。
たとえば、謡曲田村に「そもそも当寺、清水寺と申すは、大同2年の御草創」と出てきます。あちこちの神社の縁起などをご覧になれば、大同2年の多さに、自動的に眉に唾をつけたくなること請け合いであります。
生野銀山でも事情は同じと考えられます。
確実な資料としては、1542年に鉱石が見つかり、石見から精錬の技術者を連れてきたという記録があります。
石見銀山の始まりも、朝鮮から製錬技術者を招いて、その力を借りたとありますから、シルバー・ラッシュは、この頃、こんなにして広まったのでしょう。
随分、栄枯盛衰はあったようですが、生野銀山は徳川幕府から明治政府に引き継がれ、延べ23人のフランス人を雇い、近代的な鉱山経営を行いました。
その頃の、菊のご紋章が刻まれた玄関の石柱が残っています。
明治29年には三菱合資会社(現在の三菱マテリアル社)に払い下げられました。
当時も、こんな形で国有企業を民営化したことがあったのですね。
その後、あらゆる意味で、近代的な鉱山になったのですが、鉱山の運命として堀尽くす日が来て、昭和48年(1973年)その歴史を終えたのです。

貴金属は鉄のような実用品ではなく、装飾が主目的だったとはいえ、古くから貴重な宝として尊重されていました。
古くは金の装飾品が古墳から頻繁に出土しています。
また、万葉集にも山上憶良の歌として「銀も金も玉もなにせむに まされる宝 子にしかめやも」とあります。
しかし、その重要度は秀吉、家康の頃に至り、日本統一や海外交易の大規模化により、一段と高まったように思われます。
一つの鉱山は、一つの国に相当するとまで、大事に扱われるようになっていました。

両方の鉱山とも、銀の産出量は年によって大きくばらついているようです。
現実は、優秀な鉱脈を見付けた年に、産出量が大きくなるのです。
日本の鉱脈は断層でズタズタに切られていて規模が小さく、短い期間で堀尽くしてしまいます。このため探鉱が極めて重要であります。
優秀な鉱脈を発見した人に、国の名前である石見を名乗らせ表彰したりしています。
産出量を増やすため、いろいろの手段をとっています。
それらの手段が、目下、平成の国際競争、不況克服に際していわれている諸策とあまりに酷似していて、人間のやることは同じだなとの感を深くさせられました。
新鉱脈の発見を促すための、ベンチャー山師群の競争促進策、鉱区の採掘権の入札による価格釣り上げなど、意外に思われるほど自由な発想が採用されていたのです。
ある人が、入札によって得た鉱区で、対抗者が現れるまでの間にできるだけ利益をあげてしまおうと、大車輪で採掘します。すると他方、ある鉱区で豊富に鉱石が出ているとの情報を入手して、より高い値段で採掘権を入手しようとする人が現れると言った具合なのです。情報戦も熾烈だったというべきでしょう。

堀尽くして閉山になった時期が、石見銀山が1923年(大正12年)、生野銀山が1973年(昭和48年)と50年違います。
この50年という年月が、日本の鉱工業の歴史の中で、どんなに大きなものであったかを、見せつけられる感じでした。
 坑道や機械設備、そして作業能率や保健安全対策でも、まったく異質なほど向上しています。

閉山後に、地域社会を政策的に動かそうという考え方も、この50年のあいだに、大きく違っているように見受けられます。
50年先行し閉山した石見銀山では、なすところなく寂れるのに任せ、いま遺跡観光地として売り出しています。
他方、生野銀山では過去のノウハウや技術者の温存を図り、シリコンなど半導体工業に転換して地域の活性化を計ろうとしているように見受けられました。
この50年と時期がほとんど重なる、1930年(昭和5年)製の私には、ひときわ感無量のものがあるのでありました。

・廃坑を出て牡丹に迎えらる

・出雲の弥生時代
今回訪ねた弥生時代の遺跡は、全国的に特別に有名なものばかりです。

まず、荒神谷(こうじんだに)遺跡にゆきました。
1984年、農道を造ろうとして調査しているときに偶然見つかったものであります。
当然、変哲もない山の斜面であります。
最初に見つかったのが銅剣358本、整然と並べられた状態で土の中に埋まっていました。
それまでに、日本中で発掘された銅剣は約300本だったのですから、ここの数の多さには、みんな驚いてしまったのでした。
その後、銅剣群から数メートル離れたところから、銅矛16本と銅鐸6個も発見されました。
銅剣や銅矛はもともとは武器でしたが、日本で作られたものは実用的ではなくて、お祭に使われたと考えられているのです。
この荒神谷の遺跡では、3種類の青銅器が一カ所から、しかも大量に発掘されたのです。これは大発見ではありますが、弥生文化の複雑さを、いっそう感じさせるものになったように思われます。

加茂岩倉(かもいわくら)遺跡は、荒神谷遺跡から約3キロ離れた山の中です。
やはり変哲もない山の中腹から、39個の銅鐸が出土したのです。

林道の建設中に、重機がざっくりすくった土の中に、銅鐸がごっそり入っていたという、荒っぽい発見でありました。1996年のことでした。

妻木晩田(むきばんだ)遺跡は米子市の東10キロほどの丘陵の上にあります。
ここは、あの有名な佐賀県の吉野ヶ里遺跡の1,3倍もの面積があるといわれています。
違う機能を果たす7つの地区に分かれ、全体では建物跡が900近く見つかっていて、当時のクニの首都的なムラと思われるともいわれます。
別の資料では、住居跡が14棟、建物跡23戸、墳丘墓24基見つかったと記されています。調査の時点か、範囲が違うのかも知れません。
この遺跡は、弥生後期中葉に最盛期を迎えていたとされます。
このような遺跡状況から、この遺跡に人々が暮らしていたのは、中国の史書、魏志倭人伝に書かれている倭の國の大乱にあたる時期で、戦争抜きでは考えられない時期だったのです。
それで、防衛することが容易な、こんな山の上に住み、周壕をめぐらしていた、いわゆる高地性遺跡と解釈されているそうです。

正直に白状すれば、これらの遺跡について、私はあまり事前の勉強をしてゆきませんでした。
そして、考古学好みの観光客を対象として整備された「洞ノ原地区」をコチョコチョと見ただけなのです。もっとも、7地区全部をじっくり見ようとすれば、何日もかかることでしょう。
たまたま訪れた日、ここに、弥生時代にあったと想像される建物を、復元する工事をしていました。
ヘルメットをかぶった技師が図面を見ながら指示を下し、クレーン車が丸太を釣り上げては、弥生風縦穴住居を建てていました。

こんな素人の私が感想を述べるのは、眼の見えない人がゾウの足に触って、ゾウって柱みたいなもんだと言っているのと同じではないかという、後ろめたさがあります。
でも、直感的に、この場所は、まとまった数の人間が、永続的に住んだ場所ではないのではないかと感じました。
第1、丘の尾根が狭すぎると感じました。
吉野ヶ里や、名古屋の高蔵とか見晴台の弥生遺跡を思い浮かべれば、問題にならないほど、狭いのです。
また、丘陵の標高は120mほどです。海のすぐ近くですから、標高差と読み替えてもそんなに変わらないでしょう。
120mの高さといえば、ビルの50階に住んでるようなものです。低地にある水田とのあいだを大きな荷を持って登り下りするのは、現代人でなくてもゾッとしない生活ではないでしょうか。
倭の大乱の時期と言っても、戦闘の行われた日と何事もなかった日とを比べてみれば、無事平穏の月日のほうが遙かに長かったに違いありません。
現代のように他国からの援助があるわけではありませんから、お互いに戦争ばかりしていては、食べてゆけないでしょう。

そう考えると、この場所は、むしろ、敵が攻めてきたときに、緊急的に避難する場所だったのではないかと思うのです。
日本各地の弥生遺跡で、周壕のあるムラとないムラが隣接している例もあります。
また、時代は下りますが、九州太宰府の後山に築かれた大野城のように、逃げ城の例もあります。
妻木晩田の人たちも、非常のときに立て籠もる場所として、見晴らしの良い祖先の眠る墳墓の丘の上に周壕を掘り、日頃から備蓄倉庫など作っておけば、格好の砦となったことでしょう。

今回、出雲地方を訪ねて、当地方に弥生、古墳時代の遺跡が高密度に分布することを痛感させられました。人口が多かったことは間違いありません。
荒神谷遺跡も加茂岩倉遺跡も、変哲もない山腹から農道の建設中に偶然見つかったものです。
出雲地方に二つしかなかった遺跡が、二つとも見つかってしまったと思うわけには行けません。
まだまだ今後出てくると考える方が自然でありましょう。
遺跡の調査、整備も進んでいます。ただ、訪れる人の数は近畿地方の遺跡とは雲泥の差であります。

全国的に弥生時代の遺跡は数が多く、調査も進んでいます。そして調査が進めば進むほど、弥生人の生活を推測する線が収斂してくるのではなく、かえって謎が多くなってくる感があります。
その理由について、私は、弥生人たちの生活は、こんなだったと一言で表現できるようなものではなくて、多岐な生活をしていたからなのだろうと想像するのです。

万葉集の中で、女流歌人額田王の「茜さす 紫野行き・・・」の歌に対して「紫の匂へる妹の憎くあらば・・・」と応えられたのは天武天皇であります。その天武天皇と額田王を争った、お兄さまの天智天皇は630年のお生まれです。1930年生まれの私より、ちょうど1300年前の方です。
私は万葉を読むたびに、そこに出てくる人たちを、まさに身近に感ずるのです。
さて、弥生の人たちは、天智天皇より僅か400年ほど前に暮らしていたのです。
天智天皇から見れば、1300年離れた平成の我々よりも、400年しか離れていない弥生の人々が近い存在だったともいえましょう。
彼等は弥生という言葉から受ける原始人ではなく、天智天皇の時代の人たちと同じような、大袈裟に言えば我々とそんなに違わない社会生活を営んでいたに違いありません。
もちろん、アイスクリームを食べたり、ケータイを突ついたりはしなかったでしょうが、それは明治の人だってしなかったのです。
もっと社会の基盤にある、たとえば永田町界隈が標的にされているようなゴタゴタに関しては、まったく同じだっただろうと断言してもよいでしょう。
もしも今、我々が彼等の会議を傍聴したら、理解できる程度の日本語を話していたことでしょう。
文字がなかったことだけが唯一の違いだと考えた方が、大局的に正鵠を得ているのではないでしょうか。

そして、弥生人は、歴史時代に入るほんのちょっと前の人たちなのですから、もっと古い時代に比べれば、神話との整合性も高いだろうと想像されます。
それなのに弥生時代を語るとき、なにか今ひとつ、すっきりせず、まるで消化不良で胃が持たれているような気分がするのです。
今さらながら、文字がなかったことが悔やまれます。
もっとも「だから、これからが面白い」と、プラス思考で考えるべきかも知れませんが。

・幼子の墳墓の列や春寒し

・関の五本松
島根半島の先端にある美保神社にお参りしました。立派なお社です。丁度、結婚式がありました。
美保神社の裏山に,関の五本松があります。
島根半島に囲まれた宍道湖が日本海と繋がるところに、境港があります。裏日本きっての良港といわれます。
昔、日本海を航行する北前舟の船乗りたちは、関の五本松が山の上に望見されると、もう間もなく境港だとわかるので、なんとも言えず嬉かったといいます。
今回の旅行で撮影してきたビデオを見せていましたら、息子に境港市の街で「水木しげるロード」を見てきたかと聞かれました。
「ぜんぜん、それなに?」と答えておきました。後日、漫画げげげのキタローの作者だと知りました。
72才というのは、げげげのキタローは知っているが、水木しげるは知らない年頃なのであります。

さて、これも昔、お殿様が月見の邪魔になるといって、山の上の五本松のうち、一本を切らせてしまったのだそうです。
身勝手な殿様を咎めた地元民たちが、正面切っては抗議できないので、「関の五本松一本切りゃ四本、あとは切られぬ夫婦松」と、心情を歌に託したのだといいます。つまり2組の夫婦、もう切るまいぞ、というわけでしょう。
今日現在、五本の小松が植えてあり、3代目という注釈がついています。

頂上の広場に平和祈念塔が建っていました。
戦後のものかと思い、立て札を読んでみると、昭和2年に起こった悲劇でした。
この沖で、日本海軍が暗闇で戦う訓練をしました。2グループに分かれ、敵に見つからないようにと、灯火を一切つけないで全速力で走り回ったのです。
二件の衝突事故が発生し120名が亡くなったのでした。

昨年の壱岐・対馬旅行もそうでしたが、この春彼岸の時期には水平線は見えません。大陸の砂漠から黄砂が飛んできているのです。空と海とは、黄砂のベールの中に溶けて消えてゆくのです。
この山頂から見えるはずの伯耆大山はおろか、足元にあたる美保半島の付け根さえ霞んで見えないのです。

朝、車を見てびっくりしました。泥だらけなのです。
降り積もった黄砂に、黄砂を含んだ雨が降り注いだのです。
すれ違う車もみんな泥だらけでした。
カーラジオで各地の便りを聞いていました。福岡の局が黄砂が来ているとリポートしました。
同じラジオで、夕方に世界各地と電話で話す番組がありました。
ちょうど北京がつながりました。
日本のアナウンサーは「そちらから、いま福岡に黄砂が来ているんですよ」と話しかけました。その話っぷりは、黄砂が福岡にだけ、つまり、まるでどこかの家に小包でも着いたときのような口振りでした。
黄砂が福岡に来ているというときには、日本中に来ているのです。
東京は遠いだけ、多少薄くはなっていますが。
自分の目で見ないで、他人の言葉で事態を認識している人は沢山います。

昔、私が会社勤めをしていた頃、台風対策で会社に詰めていました。
テレビを見ていた仲間が、テレビ画面とアナウンサーの解説を聞いて「風が収まってきたね」と言ったとき、変な気がしたことを覚えています。
だって、テレビの後ろの窓の外に見える木の枝は、先程からもう大人しくなっていたのでしたから。

数年前、チューリヒから帰るとき、飛行機の上から黄砂が飛んでいるのを見てから、黄砂が忘れられないものになりました。
4月中旬でしたが、緑の平野の広がるヨーロッパを出て、中国の砂漠を越す辺りから、地上の景色は砂煙がすっかり覆ってしまいました。
そして砂煙の流れは、東に飛ぶに従って薄くはなりはしましたが、ずっと日本まで流れていました。
考えてみれば、西風の日には飛んでこない方が不思議なことなのです。こういうのを、百聞は一見に如かず、Seeing is believing と言うのでしょう。

そう思ってみていると、名古屋の空に黄砂が、見えるほど届いている日は結構多いのです。
そんな日は晴れていて、頭の真上は比較的青空なのです。しかし、地平線に近くなるにつれてどんよりと、濁った感じになっています。黄砂の層は、地表を這うように流れて来ているので、頭の真上は層が薄くて、透き通って見えるのです。
そのどんよりとした様子が、霧とは違って大変に均一なので、いちど覚えると見間違えることはありません。これは、霧は水滴からできているので、気流の流れで、微妙に濃くなったり薄くなったり変化しているからでしょう。
一番はっきりするのは、日の出、日の入りのときです。厚い黄砂の層を通して光が届くのですから、空全体が黄色の光に包まれ、この世ならぬ雰囲気を呈しています。
また、車に積もっている土埃の多さでも直ぐ分かります。もし、黄砂でなければ、ご近所で家を取り壊しているはずです。

黄砂は、それと気が付かないほど薄くても、当然飛んできているはずです。
年間何トン日本列島に降り注いでいるとか、地表からの高さで濃度がどう変わっているとか、濃度が季節によってどう分布しているとか、黄砂学というようなものがあっても良いような気がします。
多分、気象庁ではまとめておられるはずです。ただ、亜硫酸ガスや放射性物質のような、ニュース性がないだけのことでしょう。

それにしても、世界中どこの人でも、いつの時代でも、自分の目に映っている事実に拠らないで、むしろ耳に入る他人の言葉を優先させ、判断し、生きてきた面があると思わずにはいられません。
流行の言葉を使えば、ある意味でバーチャルな世界に生きてきたのです。
それから外れたのがコペルニクス、ルッター、ダーウィンといった人たちなのでしょう。

・白も黒も黄砂にまみれ車馳す

・竹田城の石垣
姫路市から日本海側へ3分の2ほど、約60キロ北上したところに日和田市があります。
ここに日本屈指の山城として有名な竹田城があります。

いままで、Mさんと私は、あちこちでいろんな城を見てきました。
吉野ヶ里や妻木晩田で見た弥生時代の環壕は、深さが5mほどあり、木の柵と組み合わされ、戦闘に際しては、かなりの効果を持っていたと思われます。
対馬では、天智天皇が築かれた金田城の石垣を見ました。これは、朝鮮から学んだ築城技術だそうであります。その後、この技術による城は日本各地で築かれ、我々も九州各地の神籠石、岡山の鬼ノ城などを見てきました。
そのように、険しい山に石垣を巡らす築城路線の最後に当たるのが、今回訪ねた富田城、竹田城であります。
ともに1400年代始めに小さな砦としてスタート、1600年頃に最盛期を迎えました。
その後、日本では平地に築かれる平城が主流になってゆくのです。

竹田城は豊臣秀吉が生野銀山を支配するために、弟を城主として入れたほど重要な位置にあります。
この城は、山頂に南北400m、東西100mの城郭群を構えていたのですが、今は壮大な石垣を残すのみであります。
穴太積み(あのうずみ)と呼ばれる、自然石を巧妙に組み合わせる手法によっています。
この積み方でできた石垣は、整形した切石を積むのと違って、一見、乱雑にも見えますが、水はけが良く、大層堅固だということであります。
配置だって山頂の地形に合わせて作ってあるのですから、まったく不規則、いわば手作り中の手作りで、芸術性が高い様子なのであります。
石の材質は花崗岩ですが、ここのものは多少ピンク色がかっています。それで、この城跡が、一層、人を惹きつけているのです。
たとえてみれば、戦艦大和のように、一つの時代の頂点というべき作品でしょう。

400年前の誰かが、標高353mの険しい山頂に、莫大な量の巨石を積み上げたのです。
息せき切って登り着いた本丸跡で「造った人は、さぞかし大変だったろうな」と、つい本音を漏らしてしまったのでした。
これじゃ大袈裟に言えば、城勤め、すなわち山仕事ですよ、まったく。
山城も嫌、戦争も嫌です。平地と平和がいいですね。

・城垣はフラミンゴ色春日中

・八重垣神社
この地方には「早く出雲の八重垣様に 縁の結びを願いたい」という民謡があるそうです。
八重垣神社のご祭神は、当然、「スサノオノミコト」と「イナダヒメ」であります。
スサノオはヒノ川でヤマタノオロチを退治されたあと、両親の許しを得てイナダヒメと結婚されました。それ以前は、略奪婚だったので、これが正式結婚の始めということになっています。
また「八雲立つ 出雲八重垣妻こめに 八重垣つくる その八重垣を」とスサノオが詠まれたのが、三十一文字(みそひともじ)の和歌の始めとされています。
こんな物語を持つ八重垣神社は、縁結びの神社として知られ、二股になった「連理の椿」や小枝が沢山出た「子宝の椿」、そして大変立派な結婚式場まであります。
そんなに大きなお社とは思いませんでしたが、裏に縁結びの御利益と深く結びついた「鏡の池」がありました。
紙の上に10円玉を乗せ水面に浮かべて、早く沈めば早く良縁に恵まれることになっているのです。
まだどこか幼な顔の残った女の子たちが3人しゃがみ込み、真剣に試してみていました。今どき珍しく、かつ、可愛いと思いました。

・春の水乙女の祈り爽やかに

 

 

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