題名:カンボジア出張記録

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日付:1998/2/5


                         平成7年2月25日〜3月2日

 大勢が見守るなか,シアヌーク国王が起動ボタンを押された。圧縮空気がディーゼルエンジンのシリンダーに流れ込み回転が始まり,燃料に点火され煙突から煙が吹き出した。拍手の音が一斉に湧き上がった。

 日本からの援助,約22億円を投じて建設されたこの5千キロワット発電設備は,現在のプノンペン市の電力需要の4分の1を供給する。さらに第2期として,同容量の発電設備の建設がスタートしている。

 プノンペン市には,すでに発電所が4か所あり,それぞれフランス,ソビエト,チェコ,アメリカによって建設されている。合計容量は結構多いのだが,例えばソビエトが作った発電所は補修部品がなく運転できないなど,電力不足は深刻と聞く。

 

◯シアヌーク国王

 シアヌーク国王は72才,時々北京へゆき癌の治療をしていると報じられているが,実際に見ると,意外に若々しく,顔色もよい。

 会場に到着されてから,席につかれるまでに大変時間がかかる。屈強の男が差し掛ける金色の日よけ傘の下ではあるが,折角敷いてある絨毯の道には目もくれず,出迎えの群衆に近付き,声をかけ手を握ってサービスこれ勤めながらの行進である。

 つかつかと私の前に来られ,手を出されるので,つい平生の握手のように片手を出したが,すぐに先方と同様,両手を合わせて握って頂いた。前列に座った全員にそうされてから席につかれた。

 式の最初に国王が,列席の僧侶に花を捧げられた。仏に奉仕する僧侶を自分よりも上位とされているのであろう。

 最初に君が世,ついでカンボジア国歌の演奏がある。さすがにじんとする。

 小柄なフンセン第2首相から計画の意義,概要,感謝の演説があり,次いで今川日本大使が英語で援助について話され,最後にシアヌーク国王が演説された。

 国王の声はやや高い音階で少々ハスキー気味に聞こえた。カンボジア語,そして英語,フランス語を使い分け,語り掛けるというよりは,やはり政治家らしく見栄をきるショー演説である。

 その演説はかなり長く,時々日本人の方へ身を乗り出しては英語で話す。感謝の言葉を最大限の形容詞で表現しておられた。

 なんでもフランス語では,日本の援助を見習えと言っていたとかである。みんなが新しい設備を見たいと思っているだろうから,長話でもあるまいと締め括られた。

 王妃は美しく品のある方である。イタリア人の血が4分の1とか,ちょっとエリザベス女王を思い出す。王妃の場合は,大男のかざす日よけの傘の色が銀色で「金の鞍には王子様,銀の鞍には王女様」という歌を思い出してしまった。

 王妃は国王の長い演説の途中で,白衣の長老たちがカンカン照りの砂利の上に座っているのに目をとめられ,女官長とおぼきしお付きに,国王の前の日陰に移動するように指示された。

 人口約800万人の国の,王室と国民のなんとも家族的な雰囲気であった。

 国王は竣工設備の視察,パーティー会場での樽酒の鏡割りを勤められ,終始,国民団結に最大限のパフォーマンスを示され,大きなベンツでお帰りになった。

 ボデーガードは,北朝鮮から来ているプロフェッショナルたちだとかで,鋭い目付きで采配を振るっていた。

 発電所ではこの午前中一杯,楽隊が音楽を奏で,会場までの道で日の丸を振って迎えてくれた子供たちが柵の金網にしがみついて式の様子を眺めていた。

 最初カンボジア・ホテルに着いた時,ホテルの時計が20分進んでいるのに気がついた。修正しようとしてボタンを押したが駄目だった。

 3日目に20分の進みを見込んでホテルをチェックアウトしようとして,念のため自分の時計を見て驚いた。ホテルの時計は丸2日でさらに20分も進んでいるのであった。

 多分,電気の周波数が進んでいるのであろう。しかし,仮に時計がクォーツで,それが大変に進むクォーツであったとしても,この国ではそうバランスを失している存在だとも思われなかった。

   ・青年僧じっと汗して喜捨受くる

 

◯交通事情

 ちょっと古い資料だが1988年のこの国の一人あたりのGNPは約130ドルとのことで,これでは当然,町中自動車が一杯と言うわけにはいかない。

 片側3車線もある目抜き通りに,バイクが満ち溢れている。バイクの運転手が帽子を被っているのはタクシー,被ってないのがオーナードライバーだとのことである。バイクタクシーに4人乗りぐらいは,そう稀ではない。

 交通信号灯は2か所見掛けたが,電気は点いていなかった。つまり無いと同じなのである。繁華街のラッシュでどうにもならない場合だけ,警官が手信号で整理しているのを見た。制限速度の表示は,ついにひとつも見かけなかった。

 私は栗原工業殿のベンツに乗せていただいていた。しかし街では前後左右をバイクに取り囲まれ,それらが何時思いもよらぬことをしはしないかと,運転しながら神経を擦り減らしているのがよくわかった。

 この心配は走っているどの運転者にとっても同じことなので,必然的にスピードは上がらない。だから街中では高速で走っているのを見たことはなく,どこでも奇妙に同じぐらいのスピードで走っているのであった。昔,運転免許の試験勉強で,徐行とは時速何キロかという質問に「いつでも止まれるスピード」との模範回答があったように記憶している。その値はプノンペンでの状況を見ると,人間の性能から,どうも時速20キロ程度であるように思われた。

 みんながやり易くするために規則は必要である。仕事のやり方がプノンペンのバイク式になっていたのでは,激しい競争で生き残るのは難しいだろう。

 竣工式の午後,2月とはいえ35度もあるプノンペンの街を,3時間あまりろうろしてみた。そこで一番印象的だったのは,歩いている人が殆どないということであった。

 理想的な交通の条件のひとつはドア・ツウ・ドアである。その意味からはバイクは理想的な乗り物である。そしてバイクがあまねく行き渡った状態では歩くことがなくなるのであろう。バイク・タクシーは恐ろしく安価であり庶民が気楽に利用しているし,交通の原則は右側通行だが,広い道の端では近所へ行くために逆行するのは常識のようであった。 日本の大都会のように,バスや電車の駅まで歩くなどいうことは要らないのである。

 したがって歩道の使い道は,ある時は物売場として,またある時は駐車場として使われていた。

   ・オリオンを天心に見る熱帯夜

 

◯平らな土地

 飛行機がタイからカンボジアに入ると,土地が荒涼たる感じになる。村が小さく,大きな木がなく人の気配がない。

 内戦の結果,劣勢なポルポト派が地雷を埋めては隠れるので,危なくて畑に入れないのだそうである。

 観光地では,50年前の日本と同様,義足の傷夷軍人が物乞いをしていた。国が地雷を処理しているが,今のペースでは全部処理するのに150年かかるという話があるそうである。

 プノンペンもバンコクも大きな河のほとりに出来た街である。大きな沼があり,霞ヶ浦あたりの景色を思い出させる。

 ところが,その広さが尋常ではない。行けども行けども,ただ平らである。熱帯特有のどんよりした空気を通しての視程では,いくら目を凝らしても山らしきものにはお目に掛かかれない。

 今回の旅で,切り開きで地層を見る機会は一度もなかった。

 私が子供の頃は,日本が欧州諸国の真似をして,植民地を求めていた時代であった。

 学校の先生から「日本には石炭も,金も銀もある。しかし小男は総身が知恵でもしれたものという言葉がある」とか「日本は山ばっかりで,米のとれる役に立つ平野はほんのちょっとしかない」などと教えられた。

 しかしこうして,周囲の水面とほぼすれすれのだだっ広い土地を見ていて考えさせられるものがあった。洪水が来ても冠水しないようにと,土地の高上げをしようにも,土を持ってくるところがないのではないだろうか。高上げしたと同じ面積の池が出来るばかりだろう。

 また,アメリカ中部やアフリカ中央部のように平らで水面より高いところも,灌漑が大変だろう。

 恐ろしいまでに平らな湿原をドライブしながら,日本のように水が流れて来ては流れて去り,山から土を取ってきて池を埋めれば,両方に土地が生み出せるところも悪くはないという気がしてきた。

   ・熱帯の冬日に古都の塔傾ぐ

 

◯ポルポトのこと

 市内の学校をポルポト派が監獄にした。それがメモリアルとなり,観光名所のひとつになっている。2階以上が収容所,一階が拷問室だったとのことである。事件が昭和40年頃のことであるから,まだ生々しく,また写真が一杯ある時代なので,われわれにただの昔話とは違った迫り方をしてくる。

 拷問室には鉄筋を曲げた拷問器具が置いてあり,その部屋に置いてある鉄のベッドで殺された人の写真が壁にかけてある。ある部屋には血が流れたのがそのままになっている。庭に木の門を作り,被害者を逆吊りにして,水瓶に顔をつけたという。その木の門もまだ朽ちていない,そんな最近の時期に起こった惨劇なのである。

 収容され,拷問を受けていた人達の顔写真がふたつの部屋の壁一杯に張ってある。始めは,こんな子供までもなどと,そんな気持ちで見ていたが,沢山見ているうちに彼らの顔が不安と恐怖に引きつっているのが分かってきた。そう思って見ると,この部屋にいること自体に鬼気迫るものがあった。

 次の部屋には処刑された犠牲者の顔写真が張りつけてあった。なんという狂気の仕業であろうか。彼らは死者の写真まで撮ったのである。こちらは数十枚の展示である。目をつむったの,開いたままのなどあるが,表情には処刑前の不安は既になく,人間にとって死は安らぎであるのかと思わせた。

 ある部屋には加害者の側の写真があった。ポルポトと友人の写真があり,解説者がこのなかの3人は後にポルポトに殺されたと説明していた。日本の娘さんが「どうして仲間を殺したんですか」と納得できないように聞き返した。私が彼女に「日本の浅間山荘事件を知っていますか」と聞いたら,彼女は「その年に私は生まれたのです」と答えた。

 殺した側の若い男女の写真もかなりあった。みんな例の中共型の帽子を被っている。こちらの写真はいづれも,使命感と自信に溢れた表情であった。マスコミが「彼らの目は澄んでいた」と報道したのはあれなのであろう。

 また,街に入ってきた軍隊を,市民が歓迎している写真があった。

 あんまり気を入れて聞いていない観光客たちは,ポルポト派を追い払ってくれた軍隊を市民が迎えていると思ったようで,既に行き過ぎようとしていた。

 私が,これは市民がポルポト派を歓迎しているのですねと念を押していると,えっどうしてですかと戻ってきて聞き返していた。

 反体制時代の甘言がどのように伝えられ,市民がどう反応するかを示す貴重な資料だと思う。

 反政府派が政権を取ったとたんに,掌を返すように主張を変える例は少なくない。

 従前の反原子力発電から原子力推進に変えたフランス,原子力発電と自衛隊を容認し現実路線をとった日本など,国民は幸せでなくてなんであろう。

 ポルポト派には当時の国の人口の半分,300万人以上が殺されたという。「どうしてそうなったのですか」と聞いてみた。

 始めは,国に貧しい人がいるのは,政府がフランスに国を売ったためだということで,政府の役人,警察,教師,宗教者などが対象にされた。そのうちにリッチだというだけで対象にされ,ついには都市に住んでいる人を田舎の人が殺すとういパターンにまでなっていったのだとの返事であった。

 有名な歌手も殺され,持っている自転車を没収したいがために時計屋が技術者だという言いがかりをつけられて殺された例もあるといわれる。

 人間というものはなんと恐ろしいものであろう。他人事ではなく,私も貴方も人間全体の遺伝子のなかのどこかに,ポルポトの行為がすりこまれているに違いない。

 日本の浅間山荘事件の行為が,中国の文化大革命の規模で起こらない保証はない。フランス革命の際のジャコバン党もそうだったのだろう。

 今日「地方の時代」などという言葉を使う時にも,心の底に潜む首都人へのやっかみを感情的に煽っている響きが全くないといえるであろうか。

 ポルポトの情報コントロールは厳格であった。過去にそこから得られた情報で動いた人たちは,今,心の中で恥ずかしく感じているはずである。

 同じような残虐な事件が今も世界のどこかで起こっているかも知れないし,将来起こらないという保証はない。

 学べることは明らかにして学んでおくべきである。

 ポルポト派は,いまなおカンボジア西北のバッタンバン地区に5000人ほどいるとのことであるが,すでに昔の勢力はない。

 ただ,さらに追い詰めらたとき,正規の軍事行動を諦め,市民に紛れゲリラ活動に走りはしないかと心配している人もいた。

   ・無残やな処刑場椰子実のもげて

 

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