日付:1998/2/5
2月1日の夕方,今年の下座の当屋にあたる蛸井家の雪の庭には,黒川能を見ようという人達の長い列が出来ていた。当屋には,今朝早く,春日神社から御神体が,座の若人達によって運び込まれてきている。午後5時,御神体の前で氏子たちが飲んだり食ったりした昼間の宴も、すでに終わった。そこで,いよいよこれから黒川能を,翌日朝まで夜通し神様にご覧いただこうというのである。なにせそれは,普通の民家で行われるのであるから,演ずるほうも見るほうも大変に窮屈な配置である。したがって,並んでいる人達はみんな,自分だけはいい席に座りたいと思っているのである。
私の前に並んでいる男の人は,事情通らしく「ここの家のこの部分は,今度当屋を勤めるために,廊下の外に張出しとして作った所だ。壁を外したり増築したりで,当屋に当たるとやっぱり500万円はかかるね。」などと説明してくれる。するとそのまた前にいる女性が「毎年,同じ場所で能を演ずることに決めて,もっと沢山の人を入れられる,見易い舞台を作るというわけにはいけないんでしょうか。」と都会人らしい,合理的な意見を述べている。
先程の男性は「そうは言っても,来年,再来年に,当屋をやりたいと期待している人だっているし,それはちょっと難しいんじゃない」とさらに地元の事情に詳しそうなことを言う。
本来が,この時期に黒川に集まって来る人達は,能だけを見に来ているのではない。
盛り沢山な行事からなる,古式豊かな春日神社のお祭を見せていただきに来ているのである。そして,そのお祭の中の一部が能なのだと私は思う。祭りあっての能,能あっての祭り,両者は一体不可分の関係なのである。
やがて能が始まった。
黒川能では,演者の言葉が分からないと言う評判を,前から聞かされていた。なるほど分からない。
一番始めに,「大社」が演ぜられた。脇と脇ツレが出てきて謡出した時,普段聞いている謡とあまりに違って聞こえたので,思わず他の曲ではないかと,ページをめくって見たほどである。
段々に分析してみると,いわゆる東北弁として,「山伏」を「やまぶス」と訛るようなのは別として,ウミ字を大きく,かつ必ずアとワの中間の音で謡っているために,大変違って聞こえていることが分かった。
例を上げてみると「そもそもこれは山伏にて候」という句は,「そぁもぁこぁれぁやぁまぁぶぁしぁにぁてぁそぁろぁ」と謡う。普通の「そぉもぉそぉもぉこぉれぇわぁやぁまぁぶぅしぃにぃてぇそぉおぉろぉおぉ」ではないのである。
もっとも,地謡やシテはかなり普通に謡っているから,この特殊な謡いかたは若い人達にだけ,とくにこのように謡ヘと教えられているのではないかと思われた。
これについては,我々一行の中の一人が,これは教える上でのひとつの手法だと思う,と言う説を立ててたが,はたして当たっているだろうか。
その説と言うのは,初心者に謡を教える場合,謡にならずに,普通の会話のようにぽつぽつと途切れてしまうのは,ウミ字の扱い方を会得することが難しいからである。
従ってこのような場合には,若い人の黒川能の謡いかたのようにように,ウミ字を,一番素直に口を開いて発声できる「ぁ」音で謡えば,謡らしく謡えるようになるのではなかろうか。その後,ウミ字の扱い方が完成した時点で,普通の謡曲の謡い方に戻しているのではないかと。
黒川能を見ていて,もうひとつ感じたことは,後見という役の本来の存在理由である。我々が平生見ている能では,後見の出番はもっぱら衣装の付け替えか,小道具の始末ぐらいである。ところが黒川能では,演者はいわば素人である。だから例えば4〜6才の子供が舞う時は,後見は舞台のあっちこっちへ先回りして行って,手招きをしなくてはならない。
そしてもしも幼い演者が,おしっこをしたくなって,べそをかけば,抱き上げて連れてゆき用を足してやらなくてはならない。
また時には,主役であるシテにまで「ゆっくり,ゆっくり」と声を掛けたりする。まさに,日常の先生が舞台でコーチしているのでである。
このように考えると,演者のレベルが上がれば上がるほど,後見の目立った動きはなくなるが,それだけにより高いレベルの後見の仕事が必要とされているのであろう。
さて私は先程,黒川では,能も春日神社のお祭の一部なのだと言った。
いかに地域の祭りとしての性格が優先されているかを,強く感じさせた,ひとつの例を次に上げて見よう。
お祭の最後のほうで,御神体を神社の元の位置に御納めし,その後,天井から吊るした直径1メートル近いお餅を,落とす「餅切り」の儀式がある。上座と下座から選ばれた若人ふたりづつが,競争で,吊るしてある荒縄を引き切って,床へどすんと落とす。早く落としたほうの部落が豊作になると言うのだから,責任は重大である。
ところが,前の行事が終わってから,その餅切りの儀式にかかるまで,見物人はひたすらに待たなくてはならない。ある要領のいいおじさんは「あと30分はかかるから」と何処かへ出ていってしまった。
ところが今年はその後,30分どころか実に1時間の余も待たされたのである。その間に,来年の当屋を誰にするかの相談とか,いろいろな恒例の手続きがあるのだそうだが,何れにしても,あくまで神事を主体として進められ,観光客などはどっちでもいい存在として扱われている。
最近世間では,結婚式ばかりでなく,一部の宗教儀式も観光化してきている。この黒川能が,もしも見世物であったならば,このような待時間の長さも予めセットされ,その間に,これから行われる行事の紹介やら,その歴史やら,一つひとつの動作の持つ意味などを,甘い声の女性が節をつけて,マイクで流すことでもあろう。
そんなことを考えながら,私は周りの人達の会話に耳を澄ませていた。
同じクラスの外人の友達を連れてきたとおぼしき,東京から来た女子大学生の会話。
「昔はお祭りに出る男の人達は,お祭の何日も前から冷たい水を体に掛けて,身を清めていたのよ。でも今は,お風呂から上がった時に,冷たいシャワーを浴びることでその代わりにしているんですって。」
「それでも今でも,昔からの決まりをちゃんと守って,ハンバーグなんかの肉類は食べないようにしているそうよ」
外人に説明するときは,物事を曖昧じゃなくて端的に表現するから,わかりいい。
イギリスのBBCからは,数人のスタッフで取材にきていた。彼らもお祭に協賛し,お酒を飲みのみビデオを回していた。
観客の中の,なかなかチャーミングな地元の若奥さんが彼女の連れと,こんなお喋りをしていた。
「えぇー,あれが正ちゃん!あの近所じゅうで評判の悪ガキの」
とまあ,こんなふうである。
話の中の正ちゃんとは,先程述べた餅切りの儀式のとき,座の代表選手として荒縄を引き切る合図を,いまや遅しと待ち構えている男の子のことである。
悪ガキにもこんなふうにして,能力発揮の場所が与えられるということは,それなりに素晴らしいことではなかろうか。
また,難波のツレを舞った少年は,まだ中学生であろうか,女としても美しい方に入ると言ってもよかった。舞のセンスもよく,うまくお囃しに乗っていた。ところがこの子が一か所文句を忘れ,絶句してしまい,後見に付けてもらった。その少年はそのあとは,地が謡っている間も,口をもぐもぐさせて謡の文句を追っていた。
その真剣さには打たれるものがあった。大人になると,なかなか体裁など思んばかって,こういうことはしないものなのである。
自分の若かった頃のことを思うと,彼らが自分から進んで能を覚え,祭りに参加しているとは思えない。まわりの環境から,親に練習を強いられているのではないかと想像する。そして大袈裟に言えば,運命と諦めて舞っているのかもしれない。しかし,辛い仕事にチャレンジし,なんとか遣り遂げている彼らは,結局,幸せなのではないかと思った。無為に暮らし無為のうちに死んでゆくより,数等,価値ある人生というべきてあろう。
この村の犯罪の率がどうであるかは知らない。しかし勉強だけじゃなく,子供達の特性を発揮できる場があることは,そうでなければ,陰湿になりかねないその子達の人生を,明るくしていることは間違いなかろう。
観衆の会話を紹介するなどと言いながら,結局,お前は女性の会話ばかり聞いていたんじゃないか,と非難されるかと思う。
しかし何といっても,女性の方がよく喋るのだから,仕方ない。
そして実際,ここ庄内平野の片隅に来て,私はそこの地の女性たちを,珍しいものでも見るような目で見ていたと思う。それは,いま都会でグルメとかブランドものだとかに血道を上げ,わが身さえも忘れはてて浮かれている女性達とは,別の存在であるかのように見えたからである。
その地のある女性は「孫の出てくるビデオは何回見ても、なお見たい,そして孫の出てくるシーンへ来るといつも涙が出てきて」と我々のまえで孫可愛さを,のろけて見せた。
また,この土地の女性たちが働きものなのには,改めてびっくりさせられた。
御主人が車で送ってくださると言っても,雪の中を車庫まで走っていって,車を玄関先まで回し,ウォームアップしておくのは,お嫁さんなのである。
また,お祭に参加する子供たちの着せ替えや,会場への送り届けも彼女らの仕事なのである。お客さんの世話をしたうえ,午前4時の子供の出演に付き添うのだ。それでいて次の日にはもう,昼に誰さんの家へおよばれしてきたと,全く屈託がないのである。
そして,不満の一つも洩らさない。彼女らは,常日頃,一体どんな暮らしをしているのであろうかと,不思議に思えてきた。
現在の都会では失われてしまった,もうひとつのものとして,部落の中の人と人との結びつきの強さのことも,思い知らされた。
子供たちを核として,母親,祖父,祖母たちが参加する,家族単位の結びつきについては既に述べたと思う。
男たちの付き合いは,ほんの子供の頃,御神体の王祇様をお運びするとき,うぉーっと吠えながら歩いたときから始まるのである。そして,能の練習や,御神体をお納めする競争での戦友として結びつきが深められる。さらには老人になってからも,長人衆と呼ばれ,神社の能舞台の周りに裃姿で座り,お酒,料理を持ち込み観客になる。こうして一生のあいだ,このお祭を中心として色々のステージで,付き合いが続くのである。
神事に携わるのは,男性の特権であるように思われた。
それで,若い男衆達は御神体をお納めしたあと,お供えの造花をとって,家族や女性に渡していた。どこかのおじさんが,私にその造花が一本幾らすると教えて呉れた。が,東北弁と,先方と当方にしたたか入ったお酒のせいで,結局,何円するのかを読者にお伝え出来ないことは残念である。
ともかくも,お祭のいなせな恰好をして,知り合いの女性に花を投げてやっている姿など,まるでカルメンとドン・ホセを髣髴とさせるものがあった。
結局,一番見掛けなかったのは,未婚の女性であったように思う。
しかし,遠くて近きは男女の仲とか言うではないか。
先程の若奥さんたちの会話のなかには「男衆も,昔はべろべろになってたもんだよね」とか男衆,男衆という言葉が頻繁に出てきていた。
そして,彼女たちがこの言葉を口にする時,その言葉の中に,なんとも言えない華やぎが秘められているのが私には感じられた。彼女たちの若い日々に,一体どんな思い出があったのであろうか。
どうやら酒に始まり,酒に終わるこの庄内平野の一隅,黒川の里での祭りにどっぷりと身を浸しつつ,私も,いにしへ人にならい,楽しい酔いが回ってきたようだ。
住むも訪うもなべて美人や黒川能