日付:2000/6/18
同行のmさんはまだ現役です。それで今回も、休暇を取りやすい春のお彼岸を掛けての旅でした。夜行バスの切符を手配しなくてはならないのに、なんとなく、ぐずぐずしていました。
やっと申し込んで時にはもう満席だと断られてしまいました。それでmさんはバス、私はJRということになりました。
JRの夜行列車に乗るのは、4年ぶりのことです。
京都始発でした。大分前から列車は入っていましたから、乗り込んでベッドに横になっていました。動き出すとすぐに改札をしてくれましたから,あとは翌朝まで寝ていました。
バスに乗れば、料金が安く、また連続して走るからスタート・ストップのショックがなくて良いなと思い、JRに乗れば乗ったで、やっぱり横になれると楽だと思う、満足屋に生まれついているのです。
小倉駅でレンタカーを借り、一路南へ、平尾台を目指しました。
ここは石灰岩の山で、白い岩がまるで羊の群のように点々と見えます。
今度の旅では、この平尾台の後で行った香春岳も、秋吉台も石灰岩の山で、基本的には同じ様な景観なのでした。
石灰岩は、大気中の炭酸ガスが溶け込んだ微酸性の雨水に容易に浸食されるので、各所で自然の造形を見せてくれるのです。
偶然、前の週に訪れたオーストラリア西部のピナクルという景勝地も、石灰岩が造り出した、岩の柱が林立したところでした。
もっともオーストラリアでは、石灰岩ができてから、そのままじっとして安定しているので、雨水がしみ込んだり、地下を流れたりはしません。鍾乳洞観光などもありません。
ピナクルでは、岩塔は風に運ばれた砂が削り出したものなのでした。
♡羊群と見紛う岩や焼くる野に
香春岳は一の岳から三の岳まで、同じ様な石灰岩の山が3つあったのです。しかし、香春一の岳は、セメントの原料にされて、もう人間で言えば膝の辺りまで、切り取られてしまっています。
役に立つということは、こういうことなのでしょう。関東の武甲山、中部の伊吹山などもかなり削られています。
♡下界には温室光り春爛漫
今度の旅では、この後で大分県の杵築市も訪れました。ここでは、昔の景観を残した武家屋敷やお城が観光名所になっています。
ここのお城は海岸近くの、入り江を見下ろす小高い岡の上に建てられています。
杵築は、昔、小さな船しかなかった頃には、港を持ったそれなりの土地だったのでしょう。でも、総ての物が大規模になった後の時代には、そんな港では余所とは太刀打ちできず、産業に頼って発展できる土地ではなかったのです。
そんなにして、役に立たない土地として置き去りにされているうちに、古いものがもてはやされる時代が巡ってきたのです。
別に、反近代化とか、自然保護を目的として計画的にとって置いたたというわけではないでしょう。現に、古い町並みの姿を整えるために、お金を掛け工事をしているのですから。
大局的に見れば、香春と杵築のどちらの例も、物事はなるようにしかならないし、また結局はなるようになったので、所詮、備わった資質と時節で決まることです。そしてそのことは、土地だけではなくて、人間でも同じことのように思われるのです。
この日は欲張って、平尾台、香春二の岳、三の岳のほかに、夕方から英彦山にも登りました。駐車場の管理人さんは「お前らが降りる頃にはもういないから」と、見つくろいで料金を請求しました。お土産店の客引きさんも「お帰りにどうぞ」とは言いませんでした。もちろん、下ってきたら、まだ明るいのに店は全部閉まっていました、なにせ我々の外には、お客さんは1人もいないのですから。
終業時間いっぱいまで会議をやるような調子で、山登りをしている当方のほうが、変わっていると言われれば、そのとおりであります。
♡犬ふぐり踏み放題の疲れやう
耶馬渓、羅漢寺、熊野磨崖仏などの、岩と仏様の組み合わせの絶妙さも今回の旅で気づいたことのひとつです。
羅漢寺は、礫を含んだ比較的新しい凝灰岩で出来た山にあります。この地質の崖は、中腹の柔らかい岩の層が浸食されて凹んでいるのです。
百を越す羅漢像がこの窪みを木の格子で囲った中に安置してありました。
大勢の羅漢様たちは、俗世のわれわれと同じですから、泣いたり笑ったり、つまり普通の人間の顔をしておられました。
驚いたのは、この羅漢寺の大きな本堂までが、岩の巨大な窪みに入り込んで建てられてることでした。まるで、岩の屋根を差し掛けてある感じなのです。
熊野の磨崖仏も、見事な岩の彫刻でした。
今までに奈良辺りで拝見した磨崖仏は、岩の壁に仏様を線で彫り込んだものでした。
でも、ここ国東半島のものは、仏像を岩から削り出したものなのです。
とくに、大日如来様は、ふっくらとして、美しいと申し上げたくなる、お姿でした。
♡春風や摩崖如来の胸豊か
これらを拝見させて頂いていると、昨年、インドの仏教美術探訪の旅で、かの地で大量かつ大規模な岩の芸術を見た目には、なにか共通したムードを感じさせられるのでした。
インドに発した仏教が、我が国に流れてきた通路に当たる、シルクロード、中国でも、岩と仏像の組み合わせが多いと聞きます。
昔、日本から留学していた僧侶たちがそれを見て、先進国への憧れとともに、そのイメージを日本に持ち込んだような気がするのです。
耶馬渓は、青の洞門で有名です。私も教科書で習いました。
あまりにも有名なために、耶馬渓町があり、その東隣に本耶馬渓町があります。
そして、耶馬渓もありますし、その外にも本耶馬渓、奧耶馬渓、裏耶馬渓、深耶馬渓、津民耶馬渓まであります。
今の風潮が続けばそのうちに池袋を軽井沢口と呼びかねない、というジョークを聞いたことがありました。
東の軽井沢、西の耶馬渓といったところでしょうか。でも、○○銀座までには、とても及びもありません。
私たちが走った、小倉から南の地域は、田川など名を知られた昔の炭坑のある筑豊炭田なのです。今でも、石炭記念公園があって、往事を偲ぶことができます。
有名な炭坑節の「あんまり煙突が高いので」と歌われる煙突もここのものだと言われています。
その煙突に使われている煉瓦は、イギリスから輸入されたということです。ついでながら、我が国で最初にできた新橋と横浜の間の鉄道でも、線路の下に敷く砂利(バラス)がなんのことか分からないで、わざわざ外国から輸入したということです。
日本の産業は、そんなふうにして始まったのでした。
中津市では、中津城と福沢諭吉旧邸を見ました。
中津城には、あの豊橋の奧の、長篠の合戦で城に籠城し活躍した奥平氏の子孫が、その後三河の新城、岐阜の加納などを経て、1717年に入府し、以後明治まで155年にわたって支配したのだそうです。
奥平氏が私たちの地元の出身であることや、大組織のサラリーマンのように転勤を命じられていた様子に、なにか親近感を感じてしまいました。
福沢邸では、今更のように、あの福沢諭吉の、旧来の権威に対する歯に衣を着せない批判を読み返して、スカッと溜飲の下がる思いを味合わせて貰いました。
「御殿の大略を言えば,無識無学の婦女子群居して無知無徳の一主人に仕え、勉強を以て賞せらるるに非ず、懶惰に由って罰せられるに非ず、諫めて叱られることもあり、諫めずして叱られることもあり、言うも善し言わざるも善し、謀るも悪し謀らざるも悪し、ただ朝夕の臨機応変にて主人の寵愛を僥倖するのみ」。例えば、こんな調子なのです。
明治という革命の時代、先進国に対する急激なキャッチアップの時代は、そんな福沢を受け入れたのです。
諭吉のお母さんは、大変に慈悲深い方だったのだそうです。
近所の貧しい家の娘を時々家に呼んでは、髪の毛からシラミを50匹とか100匹とかとってやり、取らせてくれたお礼という名目をつけては、飯を食べさせては帰したと伝えられます。
それは、今の日本とは較べものにならない貧しい時代の話なのです。
豊かであっても、他人を思いやる気持ちのない世界は殺伐としたものでしかありません。
事の本質は、物の豊かさではありませんし、教養とも、また、ちょっと違うように思います。言ってみれば、人間性と、良いと信ずることを実行する勇気なのかもしれません。
現在の地球上の貧しい国々にも、こんな素晴らしいお母さんたちは、きっといるに違いありません。
諭吉のような子供に、活躍できる社会環境があれば良いのですが。
♡我が影は梅に映りて歩みけり
宇佐神宮から、柳ヶ浦を訪ねました。
宇佐神宮は、日本の各地に二万四千社も散在する八幡様の総本社です。
御祭神は応神天皇、戦の神様です。
考えてみると、こんなに戦に勝たせて下さいとお願いする八幡様が沢山ある日本という国は、問題が多かったことの証左にも思えます。清洲では信長が駿河軍に勝たせてくれと祈り、駿府では義元が尾張軍に勝たせてくれと、根元は同じ八幡様にお願いしていたのです。
ところで、静岡県の清水市に清水の次郎長のお墓があります。その墓石を欠いて懐に持っていると、バクチに勝てるといわれます。欠かれないように金網で覆ったりしないで、欠かれて痩せてきたら墓石を新しくするのだという話を聞いたような気もしますが、本当のことは知りません。まあ、こちらのほうが八幡様よりは無難でありましょう。
ここ宇佐八幡宮で、和気清麻呂は思い通りの御神託を得て、道鏡を追い落としました。
また、安徳天皇を擁した平家は、沢山の金銀駿馬を貢ぎ物として差し出しながら、色好い御神託を得られず、そのために全軍が戦意を喪失したのでした。
朱塗りの立派なお社です。左右に応神天皇と神宮皇后のお社があり、そして中央の一際大きなお社には比売大神が鎮座しておられます。この辺りの経緯もどういうことなのでしょうか。
今やインターネットの時代になり、隠し事のできない世の中になりました。
今ならば、神様の順位決定の経緯さえも、公開の目に晒されることでしょう。
われわれ2人は山屋ですから、宇佐神宮の御神体山である御許山にも登らせてもらいました。裏側の登山口まで車で大回りしてから、雨の中を登ったのでした。
♡春雨や山々まさに南画にて
柳ヶ浦は謡曲「清経」の悲劇の舞台であります。しかし駅の案内には、それについては何も触れられていませんでした。
私たちは、阿川弘之さんが書かれた「雲の墓標」という本に出てくる、学徒出陣の青年が戦った舞台として、この辺りを逍遙しました。
その頃の戦況は、もうアメリカ軍との力の差は歴然で、日本軍は連戦連敗、戦いといっても、一方的にやられっぱなしの状態でした。
日本は、ある手段を採ったらどうなるかを考える余裕をなくしていて、ただ出来るだけのことをする事態にまで追い込まれていました。
負け戦ではどうしても悪い面が出てきます。当時の事態では、出来ることと言えば、やたら兵隊の数を増やすこと、そして正規の軍人や古参の兵隊が、学徒兵や新兵に対して精神教育を施すこととされていた様子が、阿川さんの本に述べられています。
その軍隊内の、権力者による精神教育は、今流に言えば、無意味な、いじめの要素の濃いものだったようです。
小説の主人公が滞在していた宇佐航空隊の飛行場跡は、今は菜の花が一面に咲き乱れる農地になっていました。
飛行場があったのはどこなのかと、土地の人に尋ねようとしたとき、紛う方無き掩待壕が目に入りました。敵の攻撃から飛行機を守るための、コンクリート製の半円形のドームなのです。
近寄ってみると、今はトラクターなど農機具の置き場になっていました。これに入る飛行機は、今よりずっと小さな体格だったことが分かります。
コンクリートの質が悪くてボロボロになったところもあって、あの頃の辛かったことどもを思い出させられました。
柳ヶ浦高校の向かい側には、苔蒸した特攻隊の記念碑がありました。
「神風特別攻撃隊員出身地」とあり、姓名と年齢、そして出身の県名が刻まれています。最初の方は、藤井真治、二十七才、宮崎とあります。私より丁度一回り上の方です。刻まれているのは、二十代前半の方が大部分でした。
何人かの方は、出身地が空白になっていました。どんな事情がおありだったのでしょうか。
私にとっては、他人ごととは思われず、一人一人のお名前を読ませていただいていて、鬼気迫るものがありました。そしてあれから半世紀、宇佐航空隊も特攻隊も風化寸前になっていることを感ぜずにはいられませんでした。
♡菜の花に特攻基地は埋もれて
国東半島では、東に突き出た半島の先端にあたる国見町で泊まりました。
翌朝、まず半島の中央に位置し、半島で一番高い両子山(ふたごやま)に登りました。
頂上近くに通信用のアンテナがあり、そこまで業務用の車道で上がれるようになっています。すごく急な道で、どんな車が上がるのかしらと思いました。われわれは勿論自分の足で登りました。
♡光る海おぼろ朧に四国かな
ここから両子寺までの下りには、鬼の背割とか針の耳だとか名の付いた変な道を歩きました。
比較的新しい火山なのでしょう、岩の険しい道でした。そんな岩の壁に刻み込んだ、百体観音と呼ばれているところがありました。
以前の私ならこんなところでは、信仰心の厚いお坊様たちが念仏を唱えながら刻んだことだろうと素直に考えるのでした。
ところが、先日、オーストラリアへ行ったとき監獄を見学しました。
そこで、独房の壁に、途方もなく手の込んだ彫り物をしたり絵を描いたり、つまり無限に近い時間を持て余した囚人たちの手慰みの傑作に出会いました。
ここ国東のお寺で、浮き世を離れて修行していた若い僧侶の中のある人は、自分の精力を、仏像を刻むことによって発散させていたのかも知れません。
やたら見聞を広げると、こういう怪しからぬことを想像するようになってしまうのです。
この後、富貴寺や熊野の磨崖仏を見ました。これらを探すのに、とても苦労しました。
♡山門の梅日を受けて匂立つ
そこで、その理由を愚痴ることをお許し下さい。
この直径30キロほどの円形をした国東半島には、豊後高田市、真玉町、香々地町、国見町、国東町、武蔵町,安芸町、杵築市の各行政区が半島の中心の両子山を頂点にして、ミカンの房のように分布しています。
私が見た範囲の地図は、どれもこれも自分の区域だけを記載し、隣の町村との関連がありませんでした。
また、どの地図にも道路の番号が、記載されていませんでした。林道しかないので、番号など付けていないのだろうと思っていました。
ところが実際に走ってみると、結構、道には番号が付けてあるのです。ただ、それが地図には記入されていないのだけだったのです。
山の中の道路ですから、登ったり下ったり分岐は沢山あります。大変に苦労させられました。
後で考えると、ここは観光に頼っている地域ですから、高速道路のインターから有名観光地までは、矢印の看板で誘導するようになっています。私たちのように半島の背中のほうから入ると、全くお手上げだったということのようでした。
世界には、地図によって場所を示すという概念がない国があります。
国東半島の人たちは、そのように見えました。
そしてなによりも「国東半島州」とか、「国東半島道」というような広域組織を作らないと、自分たちだけでは、うまく協力してやっていけないのではないかと見るのです。
♡薬湯に深く息吸う春の宿
旅の最後は、関門橋を渡り秋吉台に入り,小郡で俳人種田山頭火が住んでいた其中庵を訪ねました。
秋吉台からは、桂木山に登りました。
入り口にある滝の名を、行政は秋吉大滝と呼ばせたがっているのに、地元では従来通り白糸の滝と呼んでいるのだとのことでした。観光客を1人でも増やそうと企むマクロと、伝統を捨てないミクロの感覚の違いのように思います。これからどのように決着するのか、当方にとってはどうでもいい話ですから、面白半分に眺めていたいと思いました。
秋吉台の博物館では、洞窟に住んでいる特殊な動物の一例として、メキシコの光のない真っ暗な洞窟に住んでいて目の退化してしまった魚を展示していました。30匹ほど、ケースの中を活発に泳いでいました。目がない点を除けば、わが家の金魚とそっくりで、妙に里心がついてしまいました。
ここには地学的な説明もありました。古典的なヨーロッパ・アルプスでの研究と同じ思考の流れに依る、水平に堆積した地層が地殻変動で傾いたりひっくり返ったりして、現状になったという解釈が従来の主流でした。
しかし最近はその考えのほかに、太平洋プレートがブルドーザーのように海底の堆積物をかき集めたときに、秋吉台の石灰岩層も、その皺の一部分として、珊瑚礁が押しつぶされて出来たのだという説も出されていることを知りました。
私は専門家ではありませんが、ヒマラヤのように何日歩いても同じ地層が続いているところとは違って、日本では目まぐるしく岩の種類が変わるのですから成因も違うように感じます。
♡やうやうに着きたる宿に春灯
俳人、種田山頭火は、ある意味で性格破綻者と言えましょう。
彼の「分け入っても分け入っても青い山」の句は有名です。
「正月三日お寺の方へぶらぶら歩く」「へうへうとして水を味わう」なんていう変なのもあります。アルコールと縁の切れない人でした。
ここを訪ねる数日前に、名古屋市美術館で、池田遥邨という画家の絵を見ました。
彼は八十才を過ぎてから山頭火に、のめりこみました。
始めの頃は、山頭火の句をイメージして書いた絵に、菅笠とか杖とか山頭火を連想させる品を書き込んでいました。
しかし、段々山頭火と一体になってゆき、最後は本人が、まるで山頭火自身になったような絵になってゆくのでした。
「雪へ雪ふるしずけさにをる」「あたたかければよもぎつむ」そんな感じの絵がありました。
たしかに、山頭火にのめりこんでゆくと「母よ うどんそなえて わたしもいただきます」そんな句に出会っては、彼の裸の心に接しているような気分に引き込まれてゆくのです。
あなたはそう思いませんか。
♡小郡や酌む酒の名も山頭火