さよならラリー
(2005/11/22〜26)

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日付:2006/1/25


何回か書いたことのある、ラリー・アンドリアセン氏は、2005年6月に亡くなりました。90才でした。

Lawrence R . Andreasen 、アメリカでは、改まったとき以外はファーストネームで呼ぶので、Larry になるわけです。わたしたち日本人仲間では、あまり正確な発音ではありませんが、ラリーといったりローリーといったりしていました。

ラリーは、1945年の秋、占領軍として日本にきていました。アメリカ軍司令部は、日本人たちが意外に反抗的でなかったので、ソフトな占領政策をとること にして、日本兵を敵とし戦った戦闘経験のある兵士たちに代えて、訓練しか知らない新兵たちを送り込んだという説もあります。
ともかく、そのとき、もう30才になり常識人だったラリーは、日本に良い印象こそあれ、悪い印象はまったく持っていませんでした。
1956年、わたしはニューヨーク州スケネクタディ市のジェネラル・エレクトリック社で研修を受けていました。
着いてから1週間もたたないある日、モホーク川にかかる橋を歩いていました。すると車が止まって、窓から話しかけてきたのがラリーだったのです。
思い出してみると、スケネクタディ市に着いてから、ひと月ばかりの間に3人のアメリカ人から招待を受けました。
ポンテァックに乗った、お金持ちらしい老夫婦のお宅でご馳走になりました。それから、泊まっていたYMCAの近くの教会の墓守さんが、サンクス・ギビン グ・デーの夕食に呼んでくれました。
ラリーも、サンクス・ギビング・デーの夕食に誘ってくれたのですが、「先約があるから」と断ったのでした。

ラリーは、人好きでおしゃべりで、メトロポリタン・ライフ・インシュアランスという生命保険会社で、優秀なセールスマンとして働き、会社が賞として提供す る夫婦旅行に何度も選ばれたことを自慢していました。
15才年下のわたしと、わたしと一緒に行ったU君とを、家族の一員のように可愛がってくれました。
遠慮するという気持ちはあるのですが、それが遠慮するという行為につながらないわたしは、ずるずると、どこまでもラリーの好意に甘えていました。
ジェネラル・エレクトリック社にいた、東芝、日立、東京電力などいろいろの日本人も、お世話にあずかりました。
そのうちにインド人、インドネシア人などもグループに入りました。
アメリカ人の側も、スケネクタディだけではなくて、ニューヨーク州の首都オーバニィにまで広がりました。そんな集まりを、一時は、インタナショナル・パー ティといっておりました。
これらはひとえに、ラリーの人柄、人脈で広がったのでした。

1983年(昭和58年)にラリー夫妻を日本に招待しました。
そして、東京、名古屋、京都で、それぞれ世話になった連中が案内したのです。
わたしは、その後、在職中、カナダ出張の帰りに1日だけ、スケネクタディに寄って、アンドリアセン宅に泊めてもらいました。
1990年、ラリーが癌などで苦労していると、奥さんのフローレンスから便りがありました。わたしも気にはなりましたが、仕事のこともあり、文通だけです ませていたのでした。
1997年、わたしが67才になり、現役を退いた夏、1週間ほどスケネクタディにラリーを訪ね、帰りにカナディアン・ロッキーを見物してきました。
かれは尿の袋を腰にぶら下げてはいましたが、持ち前の話し好きと馬力をフルに使い、不動産取引の仲介をしていて、元気にその話をまくしたててくれました。
2003年7月、ホイットニー山に登ったあと、彼を訪ねました。ラリーはずっと北の、メイン州フリーポートに住む娘の近くのホームに引きこもっていまし た。わたしが空港に着くのが待ち遠しくて、早くから押しかけ「来るか来るかと1マイルは歩いたよ」と娘のリサが話したぐらいです。
2005年6月11日、ラリーが亡くなったと聞きました。わたしの妹の女友達からの電話です。彼女もアメリカで音楽の勉強をしているときに、ラリーの世話 になったのでした。彼女は英語が達者で、いつもアンドリアセン家と電話で話をしているのです。
すぐにでも、弔問にゆきたいと思いました。
でも、そのとき、わたしは7月上旬から20日間、イギリスに行くことにし、手配を終わっていました。
8月には、やはりラリーの友人だった、名古屋のKさんがアンドリアセン家を訪ねると聞いていました。ラリーが亡くなる前からの計画でしたが、そのまま弔問 されることになったのです。
わたしはリタイアし、毎日がサンデーだとはいっても、結構あれやこれやあるのです。それで11月上旬の台湾玉山登山から帰ってきた11月下旬がどうだろう と、ラリーの娘のリサに相談したのでした。先方も子供たちの学校の休暇や、わたしのために時間を割いて世話をするのに、サンクス・ギビング・デーの週がよ いというので、そう決まったのです。

空港にはラリーの奥さんのフローレンスとリサがきていました。
改めてラリーがいない現実に、こころからミスしました。
英語で、別れるときの挨拶に「アイ ウイル ミス ユー 」、お前がいなくなって悲しいよ、といいますね。わたしはそのとき、こころからラリーをミスして いたのです。
おもわず、恥ずかしがらずに、車いすのフローレンスの体に手を回しました。
ひとりでミスするより、ミスするふたりのほうがよいと思えたからです。

名古屋からメイン州フリーポートまで、往きと帰りに一日ずつ、フリーポートにまる3日、合わせて4泊5日の旅でした。
リサの家に泊めてもらいました。

最初の日の朝、リサについて近所の家に、小鳥の餌をやりにゆきました。
サンクス・ギビング・デーには、親類、友人が集まるので、2〜3日家を空けるケースも多いのです。そんなとき、近所のつきあいで、こんなにしてペットたち の世話をやきあっているのです。
わたしの家にはダックスフントが2匹います。わたしたち夫婦が結婚式などで揃って家を空けるときは、近所の獣医さんのところで預かってもらうのです。置い てゆかれるときの悲しそうな声や、再会したときの気が違ったような喜びかたのことを思うと、こんなアメリカの田舎の近所づきあいがあったら、どんなによい かと羨ましく思いました。

ラリーが住んでいたホームへゆきました。3棟、合計54戸のコンドミニアムがある、リタイアした人たち向けの住まいです。
フローレンスは、ここに独りで住んでいるのです。
入ると、昔のわれわれの写真を飾り、クラシック音楽をかけて待っていてくれました。でも、その音がとても大きかったのです。リサが慌てて音量をしぼりまし た。他人事ではありません。わたしもかなり耳が遠くなっているのです。
フローレンスは、ラリーの病気のことを、それはそれは詳しく話してくれました。二人の医者の意見が喰い違ったという怨み節は、前回聞いたときと同じ話でし た。ともかく、こんなに詳しく故人の病気の経過を話されたのは、生まれて始めてでした。よくも正確に覚えているなぁと感心したり、話していると気が晴れる のかしらと想像したりしていました。

いよいよ病状が重くなったとき、医師が延命策をとりますか?と質問したそうです。「要らない、と答えました」とのことでした。
ラリーもフローレンスも敬虔なクリスチャンです。二人とも神の御許にゆく幸せを信じているのでした。
奥さんのフローレンスは、わたしがいる間、一度も涙を見せませんでした。娘のリサは、父親のことを話していて、何回か涙声になりました。
こんどの訪問で、信仰の御利益というものを、理論的にも体験的にも納得させられたのは事実であります。

リサはしばらくいて、昼飯前に帰ってゆきました。
昼からはフローレンスに、過去にアンドリアセン家を訪ねたときに書いた紀行文のうち関係するところを、英語に翻訳しながら読んでいました。
2時間ほどそうしていたでしょうか。始めは聞き役に徹していたフローレンスも、だんだん自分の話をするようになりました。また、ちょうどわたしも疲れてき たので、まだ文は残っていましたが割愛させていただき、あとはとりとめのない話をしていました。
クリスマス・イブと同様に、サンクス・ギビング・デーの前日、11月23日には、家族が全員集合して賑やかに夕食します。
フローレンス、リサと二人の男の子、一緒に住んでいるクリスとその両親、そして近所に住む知り合いのおばあさんまで、リサの家にきました。

クリスの父親は、ノルマンディー上陸作戦の勇士です。
いまはもう足が不自由で、ゆっくりゆっくり歩いています。
「日本にテレビはあるか」など話しかけるのです。日本を軽蔑したりする気はまったくないのです。
アジアから来た人と、どんな話題で話せばよいかわからないので、とっさに田圃だとか、菅笠だとか頭に浮かんだのでしょう。
わたしたちだって、メキシコやケニヤで、われわれと同じように暮らしている人たちのことを、テレビの画面に出てくる特殊な人ばかりのように感じていないと はいえないのです。
クリスの母親はフランス人です。ノルマンディーの勇士に見初められて結婚し、連れてこられたのです。彼女は世間の事情にも通じ、おしゃべりであり、普通の 会話ができました。
ただ、ひどいフランス語訛なのです。みなさんの評判では、年をとるに従って訛がひどくなってくるそうです。娘のクリスも、自分の母親にフランス訛があるな んて、いままで気がつかなかったといっているそうです。
98才になるわたしの母が、年をとるにつれて子供のころの津軽訛が出るようになったのと同じことなようです。
他人事じゃありません。わたしも、エンジンのことを「発動機」など、中学生時代に使った言葉がひょっと口から出てしまうこともあるのです。



左 フローレンス  右 リサ 右 


ブッシュ大統領は、若い連中にはボロクソにいわれていました。
「あいつ、馬鹿だと思っていたが、最近やることをみてると卑劣だ」とまでいうのです。やはり、イラクで戦死者が出ていることが、評価を下げています。「教 会のジョージが戦死した。22才だった。子供が生まれたばかりだったのに」、こんな話が交わされるのです。日本人たちの反戦感情より、ずっと身近です。
考えてみれば、兵士ばかりではなく、警察官、消防士、ガードマン、仕事で車を運転する人など、その仕事に就かなければ死ななくてすむ人たちは多いのです。
死んではいけない人たちが、現実に死んでいるのです。
その一方では、極悪の殺人者たちが、弁護士たちの法理論闘争のお陰で、国費を浪費しながら生き続けているのです。弁護士は法律を駆使して依頼人を守るのが 職務なのですから。
こういうのを、情治国ではなくて法治国というのでありましょう。2日目の午前中は、テレビでニューヨーク市ブロードウエイのサンクス・ギビング・パレード を、延々と見ていました。
クリスが勤めている学校の生徒たちが、一輪車に乗り風船を持ちながら行進するというのでみんなで見守りました。ほんの一瞬出てきました。アメリカ中の家庭 で、こんなにして見ているのでしょう。
パレードでは、全般的にアメリカの若い人たちの振る舞いが、日本の若い人と較べて、キビキビしているように感じました。
パレードが終わったところで、わたしが持参した、昔訪問したときのビデオを流しました。
1997年、ラリーが82才、まだスケネクタディにいた頃、夜、居間でくつろいでいるシーンの評判がよかったのです。リンゴ農家だった90才のルーや、 甥っ子のクリスなど登場します。そのシーンを、リサの子供のマシューがDVDにコピーしていました。
この日の昼食が、サンクス・ギビング・デーの正餐なのです。大きな七面鳥をブロイルしたのをみんなで食べました。大勢でしたが食べ切れませんでした。七面 鳥の残りが、その日の夜も、次の日も出てきました。日本のおせち料理みたいなものです。

3日目の朝、リサは朝の3時半から量販店にゆき、子供のパソコンのプリンターと姉のデジカメを買ってきました。
普段の三分の一の値段になるのだそうです。
サンクス・ギビング・デーが11月の第三木曜と決まっているので、その翌日の金曜日のことをブラック・フライディと呼ぶことになっています。これは株が大 暴落したブラック・マンデイをもじった呼び名なのです。
わたしはなんとなく、売り手にとって出血サービスなので心の暗くなる金曜日かと思っていたのです。でも、先日、ラジオで海外便りを聞いていましたら、売り 切れる前にと、お客さんたちが暗いうちから出かけるからブラックなのだと解説していました。
リサに頼んで、ラリーのお墓にゆきました。前の日に雪が降って、30cmほど積もったのです。街からちょっと離れた、新しくできた墓地でした。



アメリカは、まだ土葬ですから広い土地が要るのです。「まだ、墓標も、なにもしていない」と、リサは恥ずかしそうにいうのです。まさに、だだっ広い雪の 原っぱでした。
「隣は赤ちゃんが死んだの」とリサはいいました。なるほど、熊ちゃんのお人形が立ててありました。それの隣がラリーの奥津城でもあるのでした。
ここで、わたしが日本語の賛美歌を2曲歌いました。リサは「ダディもその曲が好きだった」と、涙声でいいました。わたしも鼻をすすっていました。
わたしにしては、ずいぶん芝居がかったことをしたものです。

ラリーが行っていた教会にもゆきました。新しい明るい小さな教会でした。椅子にかけ、しばし黙祷しました。
このあと、お墓とは反対側の町はずれにあるザ・マップ・ストアという会社を訪ねました。
フローレンスが、シゲトオはきっとここが好きだよと推薦したそうです。
それは地図の有名な会社で、地図に関するいろいろなものを揃えています。
そして、ギネスブックに登録された、世界最大の地球儀が回っています。縮尺百万分の一、重さが約2トンだそうです。山も海も凹凸がつけられ、それが連続し た動いています。地軸のまわりの回転だけではなく、地軸の傾きの年間の変化も行っています。
わたしは大いに気に入って、階段を登ったり下ったり、自分が行ったことがある場所を飽かずに眺めていました。1時間は楽しんだでしょう。リサは何が面白い か分からんと言って、ソファにくつろいでいました。


世界最大の常時回転地球儀


さて、残るのはあと半日になりました。「どうする?」とリサが尋ねました。
わたしはその言葉に、89才のフローレンスのお相手をするのは大変だろうという気遣いを読み取っていました。
思えばみんな年をとったのです。フローレンスはわたしに「リモコンが壊れただけで、テレビを買い替えろといわれてもねぇ。ちょっと歩いていってスイッチを 押しさえすればいいものを」と訴えたことがありました。
わたしはリモコンを見てやりましたが、電池切れではなくて、本当に壊れているようでした。
あるとき、わたしの面前で、母が娘に説教されました。リサは「そりゃ、リモコンを直してもらってもいいわよ、でも、古いテレビなんていつ壊れるかもしれな いし。それより新しいテレビでビデオやCDがついた便利なのが200ドルで買えるのよ」と、なんという聞き分けのない老人だろうという口調で咎めました。
じつはわたしも、温暖化防止のためなど理由をつけては、古いものを大事に使いたがる性癖があって、子供たちから顰蹙を買っているのに気がついているです。

「フローレンスのところにいることにするよ」とリサに返事しました。
フローレンスは、むかしわたしが出した手紙を持ってきて読めというのです。読んでみると「キリスト教は良い宗教だ思います。でも、わたしに全部を信じろと いわれても、それはできません」というようなことが書いてありました。
フローレンスも、あと半日だと思っているのです。50年来続けてきた、キリスト教に入れと勧める、最後の機会だと思っているのでした。
そして、わたしが良い宗教と認めていると書いた点を突いてくるのです。
たしかにリサもいうとおり、フローレンス自身は、深い信仰を持っているゆえに幸福を得ているのです。不完全な人間でも、神様の教えに従おうと全力をつくし ていれば、神様は見捨てない。夫も自分も神のみもとにゆくのだ。そう信じているからこそ、夫の延命策を拒否もし、悲しみに心を乱されることもないのです。
そして、それだから、わたしも幸せにしてやりたいと思って、勧めてくれているのです。

上手に、はぐらかしたりできないわたしは、立派なクリスチャンがいることは知っているし、尊敬もしている。でも、わたしは知りすぎているから、聖書を全部 信じろといわれてもそれはできない。科学の進んだ現在は、教会に所属しているクリスチャンでも、聖書を100%信じている人は、ほとんどいないんではない かというようなことを、丁重に話したつもりです。
フローレンスも真剣ですから、こちらもついつい、アダムのあばら骨からイブが生まれたなんて信じられるかとか、神様がパレスチナ人が住んでいる土地を、勝 手に、あそこはユダヤ人の土地だなどいったものだから、何千年も殺し合いが絶えないんだとか、大部要らないことまで言ってしまいました。

そんな話に、両方とも疲れて、リサのもう一人の息子ベンが迎えにくるのを待ち遠しく思っていました。
夕食後、フローレンスは、明日の朝,何時に迎えにくるかと、リサに聞きました。リサは厳然として、時間がないので、わたしがひとりで空港に送ってゆくと宣 言しました。フローレンスが言い争ってもムダと観念して、すぐ引き下がったのが哀れでした。
わたしも、母におなじことをしているのを、自覚しています。可哀想ですが、時間はいい加減だし、車椅子をどうするとか、とても大変なのです。
言うほうも、言われるほうも大変なのです。年をとるって、悲しいことなのです。

別れる朝、空港へ向かう車の中で、わたしはこういいました。
フローレンスの近くにいて、責任を持って物事を進めているリサこそ大変だろう。わたしも同じ立場だから、リサの苦労がよくわかる。だれがなんと言おうと、 絶対、リサの肩を持つ。よろしく頼むよ。
リサはわたしに、フローレンスのために祈ってやってくれと頼みました。

今回の弔問旅行では、紀行文を英語で読んだり、古いビデオを見せたり、墓地にいったり、ずいぶん芝居がかったことをしてしまいました。しかしそれは、本心 から、アンドリアセン家のみんなと、ラリーをしのびたいと思っていたからだとわかっていただきたいのです。
でも、こんなことをしたいという気持ちは、昔から持っていたように思います。それなのに、いままでは、こんなことをしたら、オーバーだと思われやしないか という分別が、実行に移すのを抑えていたと思います。
どうやら、年をとり先が短くなったので、やりたいことならやってしまおうと踏み切ったらしいのです。
やってみれば、まったく、だれとも、なにごとも、しっくり収まりました。
わたしの気持ちは晴れ、ラリーをミスする気持ちは一層深くなりました。

折から原油の値上がりで、1万円を超す追加燃料費をとられました。それでも、ゴルフのつき合いを3回ほど節約すればよいぐらいの航空料金でした。
こんなに容易に行ってこられるようになるなんて、50年前、ラリーと橋の上で出会ったときには想像だにしなかったのです。
                        

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