題名:雄阿寒、摩周、アポイ岳

(2003/07/24〜28)

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日付:2003/9/11


今夏の北海道ゆきは3人でした。いつものMさんのほかに、今回はYさんも参加してくれました。Yさんは、今春の「しまなみ海道」のときも一緒でした。
名古屋空港発、朝8時の札幌千歳行きです。
折角、窓際の席を確保したのに、この梅雨の季節ですから、窓の外は、まずは雲ばかりでした。でも、秋田県能代市のあたりから鰺ヶ沢にかけて、下界の景色を楽しむことができました。
寒く、梅雨明けが遅い今年、梅雨前線はまだ本州に止まっていてくれました。お陰様で、今回ほど好天が続いた北海道山行は始めてでした。
テレビのお天気情報では、私たちが帰った次の週から、北海道も梅雨らしい日が続いていました。北海道にだって梅雨の季節に梅雨らしい日はあります。でも、あれを梅雨など呼んだら、観光業者たちから苦情がくることでしょう。

●ペテガリ岳
レンタカーには日産のマーチが当たりました。すぐ、日高へと向かいます。
競走馬を飼育している広々とした牧場では、子馬たちが母馬に首を擦りつけては甘えていました。
ここ日高の牧場でも、つい先週、アメリカで見ていたと同じ、直径2mほどに巻いた牧草のロールが、あちこちに転がっていました。
静内町(しずない)で国道を離れます。ここでガソリンを入れ、コンビニで今日の夕食、明日の朝食、昼飯と3食分を仕入れました。
どこかで昼食を食べに入ろうと思いながら走っているうちに、小さな町のことですから、あっという間に淋しい町並みになってしまいました。
そこで、またコンビニに入り弁当を買いました。
どんどん走り、高見発電所のダムの上に作られた展望台で、コンビニ弁当を食べました。この発電所は20万kw、水力発電所としては大きな規模です。
大電力を送電できる超高圧の送電線が入っていました。
舗装が切れ、地道を走ってゆきます。狐が2匹出てきました。なんと先方から車に寄ってくるのです。餌を与える、若い人たちは餌をあげると言いますが、そんな人たちがいるのでしょうか。車で跳ねやしないかと心配しながら通過しました。その後も、あちこちで狐にはよく出会いました。
さらに山奥に入ってゆくと、右へ「東の沢支線」の分岐がありました。「右だ、右だ」と入った途端、前方に、がっしりした鉄製のゲートが閉まっていました。
看板が3種類ありました。ひとつは右の「東の沢支線」に入ってゆけばペテガリ小屋まで9.6kmであるとしたもの、もうひとつは6月22日から9月末日までは工事をするから立入禁止、ただし金曜日の16時から月曜日の9時までは、徒歩でなら入ってもよいとしたもの、もうひとつは、車を邪魔にならないように置く場所を指示したものでありました。
私たちは折角来たのだからと、寝袋、マット、食糧などを背負い、歩き始めました。
1.7km入った地点で道が崩れ落ち、工事中でした。
崩壊の巾は約30mほどですが、左手の崖の高いところから、100mもあろうという谷底まで、一気に崩れ落ちています。
ぼろぼろ崩れた崖ぶちに、工事現場で使うアルミ製の仮足場で、歩行者用の道をつける工事をしているところでした。
「明日の夕方には通れるようにする。それまでは駄目。さっきも内地の人がきたが、帰ってもらった」とのことでした。
参考のために「ここの岩は、なんという種類なのですか?」と、工事監督さんに聞いてみました。「破砕岩だが、岩なんかじゃない」と、掃いて捨てるようにいわれました。
一見して、物理的にとても駄目なことは十分納得しました。諦めて回れ右して歩き出しました。

ペテガリ岳は、もうここ数年、毎年狙っているのです。道路が崩れて入れなくなったのは、何年も前のことです。
それから何年かあと、道が直ったと聞きました。でも、念のため直前に電話を入れると、また崩れましたという返事でした。
今年はMさんが、直前に管理所に電話したところ、今年は入っているとのことで、やれ嬉やとやってきたのでした。
ペテガリ岳は、稜線に上がってから、幾つものコブを越えて行く、かなり体力の要る山なのです。
登山では、悪天候その他、悪条件の時は「撤退する勇気を持て」ということをいいます。そんなとき、また「山は逃げて行かない。またという日が、きっと来るから」と付け加えられるのです。
でも、私の年になると、今年はチャレンジする気持ちがあって来たのですが、来年その気になるかどうか、疑問がないでもないのです。
私にとって6,000mピークは、もう幻になりました。ペテガリも幻の山になるかも知れません。
でも所詮、私は可能性のある限界を試してみるのが主義ですから、幻の山があっても、それはそれで結構だと思っているのです。
ともかく、せめてのことに、その夜の宿で「ペテガリの間」と名付けられた部屋の名札をカメラに収めさせてもらいました。

なにせ無人の小屋に泊まって、山に登ろうというのです。調理済みの食糧を沢山仕入れて持っています。
次の日の夜泊まる予定だった宿に、今夜の宿泊をお願いして「もうこんな遅い時間ですから、夕食は要りません」とお断りしました。すると「当家は全部夕食、朝食付きなので」と親切に言って下さったのです。
行ってみると大きな温泉施設で、食堂が別に付いていたのです。日帰りのお客さんも一緒に利用するのですから、時間が遅くても別にどうということはないわけです。
「明日は朝早く出ます。料金は決められたとおりで結構ですから、朝食は要りません」と、また、お断りしました。
翌朝、部屋で、前日の夕方の分として買った弁当を食べました。洋風懐石弁当とかいうのでしたが、朝飯としては大変重い食事でした。
さて、宿を出ようとすると「朝飯は、お握りにしておきました」と、フロントの方が渡して下さったのです。
やっと在庫整理が進んだと思ったら、また戻ってしまったのです。思わず「まるで、銀行の不良債権みたいだね」と言ってしまいました。
その後、ツナお握りなど、傷みやすいと思われる順に片つけて行きました。
山にきて肥満を気にしながら、大食いするのも変なものでしたが、最後の菓子パンにやっと手がついたのは、買ってから4日目の昼食でした。
食べ物を捨てられないのは、昭和ヒトケタ生まれのセイでしょうか、それとも貧乏性のセイでしょうか。
だれも、資源を大事にする精神からだとは言ってくれないでしょうね。でも、私の場合、まさにそれがピンポーンなんですよ。

●アポイ岳・襟裳岬
スケジュールが狂ってしまったので、阿寒まで移動する途中に、一昨年に訪ねたばかりですが、アポイ岳、襟裳岬に寄ることにしました。
アポイの入り口の看板は面白いのです。
前回は、看板を見落として行き過ぎてしまい、お陰で地元の人たちが昆布採りをする様子を、しっかり見ることができました。
地図の読める人は、アポイへの道は左に入ることが分かっているので、道路の左側を見ながら車を走らせます。地図の読めない人は、道の真っ直ぐ前方を見ながら走ってゆきます。
アポイの看板は、道路の右側に、海に突きだして立ててあります。もちろん、大きな矢印が左に入るように書かれてはいますが。
こうして、地図を読みながら運転する人は、必ず見落とすことになるのです。

駐車場には何台か車が止まっていました。前回はここで雨具をつけましたが、今回は気持ちのよい、爽やかな晴天でした。
3合目あたりを登っていると、鈴の音をさせて、おじさんが追いついてきました。話し好きの方で「あとの二人は、お連れなんですか?」と話しかけてきました。駐車場で我々を見ていたのでしょう。
「早いから先に行っちゃった。思いやりのない連中だからネー」。私はいつもこう言って、相手を笑わせるのです。
山には、登り、降り、それぞれ人によってペースがありますから、私はバラバラの方が歩きやすいのです。本当に、仲間が思いやりがないと思っていたら、そんなこと口に出せないじゃありませんか。
でもそれは、ご隠居様が「うちの若いもんは・・・」というような、明るい調子に聞こえるようで、これは結構、相手に受けるのです。
その人は埼玉の方で、やっと定年になったので、北海道の山にきているのだそうです。
「熊が恐くて。誰でもよいから人と一緒になりたかった。それで息せき切って追いついてきたんだ」とのことでした。ここで、私が熊についての蘊蓄を傾けたことは申し上げるまでもありません。
アポイ岳登山口の掲示板には、最近も熊を見掛けたと表示されていました。
熊が姿を見せたのは、1合目、2合目と低い場所ばかりのようです。私が熊だったら、やっぱりそんな住み良い森林地帯にいるつもりです。
絶好の晴天の山ですから、のんびりと楽しみました。

・七月の色明るしや昼の海
・波白く荒ぶに昆布競い採る
・エゾ笹に七月の陽の降り注ぐ
・木漏れ日の道や人里はや近し

襟裳岬を再訪しました。前回は冷たい霧が吹き付け、ボーボー悲しく泣く霧笛が似合う襟裳岬でした。
今回は、セリ科のウドに似た白い花に蝶が戯れていました。
天気が良いということは、こんな素晴らしいものなのでしょうか。
足で歩ける岬の最先端まで歩いて降りてゆきました。

広尾から先の国道336号線へは、始めて入りました。
この帯広市の東、40kmほどにある平原を走っていて、モンゴルの奥地を走っているような気分になったのです。
険しい山がある訳ではなく、地形的には、緑が一杯で、人が住んでいても、また畑があったり、牛や馬が牧草を食べていたって、決して不思議ではない様子なのです。
でも現実は、樹木の背が低く、ところどころ湿原状態になって、不毛の地らしいのです。人間が利用するという点では、まったく適していないように見えます。
地形の問題でないとすると、原因は、このあたりの気候が厳しいためなのでしょう。
この地方はこの時期、梅雨前線の北側で、オホーツク海高気圧の南の端に当たっています。寒流の流れる海から、冷たい東風が入ってきて、ちょっと高みにかかるとすぐ霧になります。冬の北陸の気候のような、日照が少なく冷涼な状態が作られています。ここでは、そんな期間が一年のうち長く続くのでしょう。

この国道336号線だって、数年前までは十勝川の河口部分は車が通れず、人と自転車だけ渡し船で運んでいたのです。
なるほど地図で見ると、十勝川の河口は、堤防などなくて氾濫原のままです。流路は幾筋にも分かれ、氾濫を繰り返している自然そのままの姿であります。
それが災害として聞こえてこないのは、人が住んでいないところの氾濫は、ニュースにならないからでしょう。
利用価値が低いために、人間の利用、つまり自然破壊を免れていた土地なのです。
日本でここだけといえるような、平らな荒れ地が破壊されるのは惜しいと思いました。規制の厳しいアメリカの国立公園から帰ったばかりで、人が入ること、とくに車が入る道が出来ることが自然破壊の元凶であると、しきりに思うこの頃であります。

この日の泊まりは、阿寒の野中温泉でした。
ここは、数年前、私がユース・ホステルを使い始めた最初の宿でした。
あの頃はまだ好景気でした。民宿に1人で予約しようとすると、効率が悪いせいか、軒並み断られることが多く、ユース・ホステルに転向したのでした。
あのときも、ここの同じ敷地にある一般の旅館には若い人たちが泊まり、このユース・ホステルには、教員らしいグループと私という、年輩組ばかりが泊まっていました。それで、ユース・ホステル(ドイツ語で若者の宿)に、ヤングじゃないのばかりが泊まっているのを、面白いと思ったのでした。
その時、ここの食堂の入り口にかけてあるユース・ホステル協会の誓いの言葉「私たちは、簡素な旅行により未知の世界を訪ね、見聞を広めよう。うんぬん」に、大いに共感を覚え、写真に撮ったことを思い出しました。
人の一生に与えられた原資を、お洒落やグルメに使うよりは、一箇所でも余分に、この目で見ておきたい性格に生まれついているのでしょう。

ユース・ホステルのおじさんから「北海道は今年とても寒いんだが、内地じゃどうですか?」と聞かれました。
そういえば、先日、ペテガリの工事現場の監督さんも「内地からの人」という言葉を口にしました。
「内地」、懐かしい言葉です。
昭和21年夏、私の一家は、母の生まれた弘前から、父の生国盛岡に国鉄で旅行していました。青森駅で、樺太からソ連に追い出された引揚者家族たちが乗り込んできました。彼らは窓外に流れる景色を、食い入るように見つめていました。「内地には白壁があるものね」さも懐かしそうに漏らした言葉に、長年の外地での郷愁を察したのでした。
弘前の親類が持たせてくれた、当時貴重だったお握りをお分けしました。彼らがむさぼり食った様子は、その後しばらく、わが家の話題になっていました。
半世紀前の敗戦で、日本はすべての「外地」を失ってしまいました。でも、今でも北海道の人たちは、本州というべきとき「内地」というようです。

次の日、3日目は摩周岳に登りました。
摩周湖第一展望台から、往復約5時間でした。標高差300m、途中に丘があるので、実質600mの標高差であることを考えても、かかった時間から距離の長さが分かると思います。登山靴をはいて長距離歩くのも、けっこう大変なものだということを感じました、やはり年令は争えません。
山頂の内側は噴火口の絶壁になっています。展望台から対岸右手に見える厳しい崖のある山なのです。
こういう山は一度登っておくと、その後、絵葉書その他でよくお目にかかる機会があるので、そのたびに良い気分になれるのです。
もっとも、有名な「霧の摩周湖」です。私も何回か訪ねていますが、湖面も摩周岳も、いつも霧の中でした。お目もじしたのは今回が最初でした。
この日は、このあと硫黄山、美幌峠で奇観、絶景を楽しませてもらいました。

次の日は、雄阿寒岳にゆきました。
宿のおじさんに、駐車した車の中に、値打ちなものを置かないようにと忠告をいただきました。
登山口に駐車した車の盗難事件は、ここ数年、山登り仲間の話題になっています。なにせ、車上狙いたちは、持ち主が帰り着くまで、少なくとも半日はゆっくり仕事できるのです。
鍵を壊されたり、窓ガラスを割られたりするより、いっそのこと車は空っぽにして、鍵をかけずに駐車して置いた方がよいとまでいわれました。
一般家庭でも、空き巣狙いのお駄賃として、1万円程度は、目立つところに置いておかないと、腹いせいに放火される、など聞いたことがあります。
「石川や 浜の真砂は尽くるとも 世に盗人の種は尽きまじ」という、大盗賊、石川五右衛門が、釜の中で茹でられながら辞世に詠んだというこの戯れ歌は、今の若い人にも通ずるでしょうか。
ともかく、国際化、ハイテク化と進化はしても、盗人の種は尽きませんね。

この雄阿寒岳は、数年前、ゴールデン・ウイークにトライしましたが、途中から登山路がツルツルの蒼氷になっていました。アイゼンを持ってこなかったので、ギブアップしたのでした。
5合目の直前に急登があります、これを越えればあとは快適なプロムナードでした。3時間半ほどで頂上に着きました。

・下山者が励まし呉るる難所かな
・山頂に霧を見下ろす憩いかな
・ややありて一団体が登り来る
・雲海の上に斜里岳見え隠れ、

下山後、ユース・ホステルの夕食時間を睨みながら、阿寒湖畔を見物しました。
石川啄木の歌碑、松浦武四郎の碑、泥火口ボッケなど見物しました。
車の中からだと、さほど大きいとは思わなかったトドマツの立派さも、小径を歩いてこそ感動させられました。

この7月27日、阿寒湖畔の日暮れは肌寒いを越え、本当に寒かったのです。
・阿寒なる展望台にある冷気、

思えば私は新婚旅行で、ここを訪れているのです。
43年前の6月上旬、羽田から千歳に飛ぶプロペラ機DC4の機長が、新婚旅行のカップルに搭乗記念のサインをしてくれる時代でした。
あれから半世紀の間に、いろいろのものがすっかり変わっています。
人気のある観光地というものは、世の中で変化の大きかったもののひとつと申せましょう。
当時、阿寒湖は、なんか淋しいところでした。交通公社に頼んだのですから、一流の宿だったのでしょう。木造の旅館でした。当時ここには鉄筋コンクリートの建物などなかったと思います。
なにせ一生に一度の新婚旅行で、再訪のことなど、まるで考えもしなかったようです。再訪するとか再訪しないとか、そんなことは、まるきり念頭になかったのでしょう。将来の時間は無限にあるような気分の、若さだったのです。
マリ藻が育つと聞く阿寒湖に、ボートを漕ぎ出した記憶があります。
43年前のこの日、天気はとても良かったのです。
手漕ぎボートの上で、8ミリカメラを回しました。コダック製のゼンマイ式で、カタカタ音のするやつでした。新婦は写されるのが嫌いで、赤いパラソルの蔭に隠れました。あの時のフィルムは、どこにいってしまったのでしょう、もう何十年も見ていません。でも、そのシーンだけは、妙に鮮明に憶えているのです。
そんな家内を、私の母方の祖母が大変気に入ってくれたのでした。
「いまどき、人を押しのけて自分が写りたがる女ばっかりなのに」そんなようにいって誉めてくれました。

同じ阿寒湖回遊でも、過去が少なかった新婚の時よりも、目の前の景色のほかに、色々の思い出のある今の方が、より価値があるように思うのです。
本人が申すのもおかしいですが、これが年輪というものでしょう。

・夏の湖観光船に手を振れり

4日目、7月28日、帰る日です。
まず、幕別町の蝦夷民族資料館を見学しました。
アイヌ人、吉田菊太郎氏が自費で収集された資料館で、小さいのですが、個人の熱意が伝わってきます。
ここ帯広のアイヌたちは、もっと北の北見から移って来たのだそうです。
アイヌの人たちとは、徳川時代、明治時代と時が移るあいだに、何回かのいざこざもありました。でも明治4年、平民の資格で日本人になったのでした。
こんなようにして、部族並立の時代から、もっと大きなスケールの国レベルになってゆくときの、人々の暮らしの移り変わりに、私は昔から相当深い関心を持っていました。
それがパプア・ニューギニアを訪ねてから、一層興味が高まったように思います。なにせニューギニアでは、つい最近起こった事件なのですから。
先住民の生活がどんなであったのか、新しく来た人との関係がどんなように推移したのか、その関係を、イデオロギーや、世間の床屋談義抜きで、素直に見てみたいのです。
ここ幕別の資料館でも、私は説明役のボランティアさんに聞きまくりました。なんでも、ここの小学校に、よく知っている先生がおられるとのことでした。でも、私たちは時間がありませんでしたから、ここだけの見学で終わりました。
その後、アイヌについて調べてみました。
多くの資料では、アイヌたちは、豊かな自然に恵まれ、自然が与えてくれるだけの恵みで満足し、平和に暮らしていたのに、日本国が侵略、収奪し、同化政策をとり、アイヌ特有の文化を破壊し、悲惨な状況に追いつめたという、ワンパターンな記述が多いことを見ました。
実際は、自然ひとつとっても、そんなに人類に優しい面だけではありません。寒い夏には木の実が少なく、食糧不足で死に絶えた部族があったにちがいありません。
アイヌ同様、琉球も日本に独立を奪われたのだから、琉球独立王国の復活を要求しようという、サイトにも出会いました。

琉球人、アイヌ人ともに、日本の少数民族問題といえます。
世界にはアメリカのインデアン、ロシアのチェチェン、中国のチベットなど、数え切れないほどの少数民族問題があります。これらを客観的に観察すれば、ホモサピエンスレベルの共通点で、幾つかのパターンに分類できるように感じています。それを体系的に整理すれば、人類に有益な指針が浮かび上がってくることでしょう。

人間社会に起こるトラブルのうち、殺人行為はハイレベルのものであります。そこで殺人を指標にして、少数民族問題を考えてみましょう。
個人レベルでの殺人、例えば解雇された元上司への怨恨とか、保険金目当てなどでは、殺されるのがよほどの悪人でなければ、世の中での評判は良くありません。
ところが人間が、ある規模の集団になると話は違ってきます。木の実や鹿の収穫を争っている隣の集団の有力者を殺せば、自分の集団の中では利益になるので、賛美され勲章を与えられます。
昔は、高い山や大きな川といった自然の障壁が、人間たちの移動の能力を制約していました。それで人類は、ひとつの谷、ひとつの島に住む小さな集団の単位で生きていました。そんな時代には、隣の集団とのあいだで、絶え間ない戦と、殺し合いがあったことでしょう。
時代が下ると、そんな小集団の中のある集団がとくに強力になり、周りの幾つかの集団を支配下に置くことになりました。
一種の帝国の樹立であります。侵略と呼び、収奪、植民地化と呼ばれるのでしょうけれども、その帝国の中では、小集団の間の争いは効率を損ねますから、高位の支配者によって抑制されます。こうして、一応、殺人のない平和な状態が出現するといえましょう。
しかし、まだ、いくつかの帝国がドングリの背比べの状態では、帝国あるいは帝国グループの間で戦争、殺人が続きます。第一次、第二次世界大戦は、この形態の極限といえましょう。そして戦時の死者の数は、第二次大戦で空前の数に上りました。これで絶後になってほしいものです。
現在は、アメリカ一国だけがずば抜けた力を持って世界を取り仕切る、パックス・アメリカーナ体制になっています。この体制のもとでも、依然として、世界各地で、内戦やテロがあります。しかし、全人口に対する死者のパーセントで見れば、多分、人類の歴史上、死者最小の時代になっているでしょう。
私は国際問題に強くはないのですが、たとえば、アメリカの睨みがなければ、中国と台湾、インドとパキスタンなど火がつきそうに言われています。
また、日本のように防衛が手薄で美味しい国が、存在できるわけもなさそうです。

どうしても、少数民族は力が弱く、票がものをいう民主主義社会でさえ票数が少ないのです。強者から不利に扱われる差別の問題は避けられません。
チェチェン、クルド、チモール、アチェ、アメリカインディアン、アボリジニ、チベット、北アイルランドなど、数え切れないほどある、少数民族に原因を持つ紛争は、人類が避け得ない宿命に見えます。

過去のアイヌ問題で、差別行為についての攻撃の的は、もっぱら行政に向けられています。それは、その非難の成果が、施策、予算につながるのですから肯けます。
しかし、差別の実体を見れば見るほど、行政レベルでは、まだ良識が働いており、本質的な差別行為は個人レベルにあったと思うのです。
行政というものは、例えば地下鉄車内に「この座席は7人掛けです」と表示する役ですし、個人というものは、横の座席に自分の荷物を置いて5人掛けをしている現実なのです。
蝦夷地でも、行政機関が直接交易を行っていたときは、それほどひどくなかったのです。ところが、商人に直接アイヌたちと交易させ、行政機関は商人から手数料を徴収するようになってから、ひどい事態になったようです。
商人たちは、文字を知らず数の概念に弱いアイヌを相手に、あくどい商法を働いたのです。でも、商人たちも仕方なかったのでしょう。ある品を、甲の商人が80両で買っているのに、乙の商人が100両払ったとすれば、それは主人、あるいはお客さんに対して不実を働いていることになるのですから。
平成の現在、構造改革の掛け声のもとに、目先の利益だけが唯一かつ最高の目標だとされる時代になってきているので、余計そのことが思われるのです。

まず、多数側は謙虚、公平でなくてはなりません。行政はもとよりのことですし、根元的に個人が差別の心と行為をなくする「ベキ」です。しかし、絶対に「ベキ」どおりにならないのも人類の性であります。
したがって少数側には、正義に照らして不本意な点が、なくなることはないでしょう。
といって、テロや頑なな態度で傷口を広げていては永久に解決はしません。
個人の主張、民族の誇り、集団の要求は、人を殺すとか原油パイプラインを破壊するなどの過激な手段によることなく、平和的な方法で訴求するのに止める「ベキ」であります。
ともかく、人類は発生以来、自分たちのエネルギーの相当部分を、争いを起こすことと、それを解決することに使ってきました。
その歴史を見れば「みんなが良い人間になること、お互いに相手を認め合うこと、話し合いによって戦争を避け、平和に暮らすこと」といった処方箋は、過去にも無効でしたし、将来、役に立つとはとても思えないのです。

でも、かって敵対していた、私の父が生まれた南部藩と母の生まれた津軽藩が、今は同じ日本人として平和に暮らしている現実に、人類の将来を明るく見たいのです。

・麦秋や大地大きくうねりゆく
・一面のじゃがたらの花疼くもの

このあと夕張市の石炭村で、例の石炭の大露頭を見て、空港へと急いだのでした。

 

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