題名:またまた富士へ

(99/6/30〜7/1)

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日付:1999/7/17


毎朝読んでいる新聞に、富士登山パックツアーの広告が出ていました。

このツアーのうち、シーズン最初に行われるのは、お山開きとして、特価16,800円とありました。

まだ、梅雨の最中ですからこんな値段なのだろうと思いました。

 

「富士山に1度も登らないのは馬鹿、2度登るのはもっと馬鹿」という言葉があります。

ところがこの私は、富士山にはもう4回も行っているのです。

ともかく、もう一回、申し込みました。

 

振り返ってみると、最初、富士山に登ったのは1975年でした。

その時は前の週に、立山から剣岳に登りました。途中、カニの横這いという岩場では、登る人と降る人とを重ならないように交通整理していました。その指導員さんがみんなを待たせている間に遠くを指さし、あれが加賀の白山、すぐそこの立山、遠くの富士と合わせ、日本3名山が一時に眺められる場所ですと、解説してくれたのでした。

それを聞いたとたんに、来週は富士、その次の週は白山へ行こうと決心し、また実行したのでした。その気になれば、週末を使うだけで、そんなこともできたのですね。

 

最初は、富士宮口から登り、御殿場に降りました。その頃も、お金はありませんでしたから、宝永山の近くにツェルトを張り仮眠したのでした。

東京の上空がぼんやりと赤く見えました。流れ星が豪華な夜で、くるくると螺旋を描いて飛んで行った大きな流れ星が印象的でした。

この時は、頂上でお鉢巡りをしました。

 

その後は、2度登る馬鹿にならないようにと、長い間、この山に寄りつきませんでした。

1989年、アフリカの最高峰キリマンジェロ(5895m)に行くときは、地表の半分しかない薄い空気に馴れるため、高所順化を慎重にやりました。まづ、名古屋市内の減圧室で、6000mの空気を経験しました。その後、御嶽山(3063m)に行き、次いで富士山(3776m)にも登りました。

日本の最高峰、祖国の霊山であるこの山を、外国の、もっと大きな山へ登る小手調べに使わせて貰うことに、申し訳ない気持ちがしたのを覚えています。

 

3回目と4回目は、両方ともモンブラン(4807m)に行く前の高所順化に使わせて貰ったのでした。

3回目は悪天候のため、3000mをちょっと超す山小屋で一晩過ごしただけで、降りてしまいました。この時は、なんと、お目当てのモンブランでも真夏に雪の降る悪天候に阻まれ、3800mにあるグーテの小屋に泊まっただけで,登頂できませんでした。

4回目には、富士にもモンブランにも登頂をはたしました。

 

さて今回は、あとに、とくに高い山に登る計画が控えているわけではないので、いわば欲求不満解消の感じだったのです。

というのは、今年は、まだあまり大きな山には登っていません。

御嶽山にも、なにかチャンスがないのです。

そうなると何となく、体が鈍ってしまったのではないかという、後ろめたい気分がしてきていたのです。

そんなとき、株主総会が終わった次の日に出発する格安のツアー広告が目に入ったのです。思い切ってのんびりしたいという気持ちと、山へ行っていない後ろめたさを吹っ切りたい思いとから申し込みました。

なにか浅ましかったのかもしれません。

 

出発の前日まで大雨で、九州、中国で30人余の犠牲者が出ていました。

予報も芳しいものではありませんでした。妻は、最悪の日に当たったわねと同情してくれました。

私も、観光業者はお金を欲しいから、ともかくスタートだけはするだろうが、途中でお客の方から中止を言い出すだろうよ、と分かったような口を利いたのでした。

結果は、両日とも一滴の雨にも会わず、ご来光を拝み、雲海の上に頭を出している懐かしい山々との再会を果たすことができたのでした。南から東,北と伊豆大島、箱根金時山、山中湖、三つ峠山、御坂黒岳、春に登った釈迦、深田久弥さんが亡くなられた茅が岳までの大展望でした。

当日、山頂に立った400人の中に、心がけの良い、お聖人さまがいらっしゃったに違いありません。

 

名古屋からは68名、バス2台でした。

混成の団体旅行ですから、善男善女の一人として、気楽に過ごそうと思い、ボロな装備、服装にしていました。荷物を減らすために、電気剃刀をわざと持っていかなかったことから、その爺ムササをご想像下さい。

ところが、肩を叩かれて振り向くと、現役時代に大変お世話になったU さんがニコニコしていらっしゃるではありませんか。奥様と参加しておられるのでした。天網恢々、まったく悪いことはできないものです。

バスは春日井インターから中央道に入り、恵那サービス・エリアで休憩,茅野で一旦高速を降り、野沢菜会館という土産屋に連れ込まれました。再び高速に入り、今度は甲府昭和で降り、水晶を売る店に連れて行かれました。甲府の水晶は無色透明なのだそうです。店長さんが、ネックレスのピンからキリまでを見せてくれました。比べて見せて貰うと、どうしてもピンしか欲しくなくなりますし、ピンは手が出ないほど高価なのです。そしてなにより、貰って喜んでくれる異性がいないのが、老の悲しさです。良い日々は、もう過ぎ去ったのです。

 

・梅雨晴れ間ここは山梨水晶屋

 

登山口は富士スバルラインの終点、2305mです。15時30分に歩き始めました。

 

バス毎に2班に分かれ、それぞれガイドさんに連れられて登りました。

このツアーは、私たちが使った旅行社の名古屋店が企画した、富士登山の最初のものなのだそうです。それで、富士山の案内人組合としても、今後のために好評を得ておきたいと、最右翼の2人を派遣してくれたのだそうです。

そんなことを知らない私は、日本のガイドもこんなに親切に変わったものかと感心していました。

一番弱い人をターゲットにして、ゆっくり歩き、十分すぎるほどの休憩をとってくれました。

最初の休憩は、6合目の小屋跡でした。前回まであった小屋は、火事で焼けてしまって、もうありませんでした。

ここへ来るまでに、もう1人、気分が悪くなりリタイアされました。

結局、登頂率は約70パーセントでした。脛を擦りむく程度の怪我人も意外に多く出ていました。夏休みになる前の平日ですから、老人が多いグループでした。だから、この結果も仕方ないことでしょう。

しかし、生意気だと思われるかも知れませんが、私がリーダーだったら、もうちょっと良い成績を揚げられただろうと思っています。

テクニックは二つあると思います。

ひとつは、最初の10分間を、はやるお客さんたちがジリジリするのを押さえて、苦情が出るまでに、ゆっくり歩くことです。お客さんたちは、朝5時頃に起き、半日以上バスに揺られて海抜2千メートルを超えるところまで来ているのです。新しい環境に馴れさせるのは、想像以上に難しいことなのです。オーバーと思われるまで押さえて「着実ペース」を造るのが重要なのです。

二つめは、休む時間を歩く時間に入れ込み、ゆっくり歩くことです。いわば、苦しくなって休み、元気が回復したら歩き始めるのではなく、苦しくならないように、超ゆっくり歩くことなのです。

苦しくならないのに休むのですから、それは景色を眺めたり、なにか口に入れたりするための休みになります。

ゆっくり歩くということは、意外に難しいことではあります。そのわけは、ゆっくり歩こうとすると、どうしても片方の足で立っている時間が長くなるからです。そのことがバランスの悪い人にとっては難しいのです。しかし、それは大変に大事なことなのです。

始めて富士山に来た人を見ていると、ダダダッと登っては、ハアハア言っている人がとても多いのです。このことは、バランスという技術もありますが、むしろ日頃の生活の精神面が思いやられるのです。道路で、スピードメーターには目もやらず、ひたすら前の車との距離を詰めようとしている、その習慣を山に持ち込んでいるように見受けられるのです。

またまた、お説教じみた話になりました。嫌われそうですね。

長年、企業で災害防止には事前の予防が肝要であると言い続け、今また、問題が起こる前に、その芽をつみ取る事前監査がモットーだなど言っている手前、疲れ切る前にゆっくり歩けなど言うことも、お許し願いたいと存じます。

 

・五合目は霧涼しくも流るなり

 

19時頃、今夜の宿、8合目の東洋館に到着です。8合目といっても小屋が何軒もあり、上と下とでは随分標高差があるのです。東洋館は一番上でした。

ハンバーグ・ステーキの夕食です。今は圧力釜を使うので、昔のような芯の残った、食べにくいご飯ではありません。でも、そのために富士登山の土産話がひとつ減ったことになります。なにごとも良いことばかりはないものです。

20時にはもう2段ベッドで横になりました。

今年から、富士山のどこでも携帯電話が使えるようになりました。「こちらからは掛けていただいても結構ですが、先方から掛かってくると皆さんの迷惑になりますから、電源を切っておいてください」「マナー・モードにしておけばいいですか」とまるでオペラ劇場にでもいるような会話でした。

 

寝ていると,周りがざわざわしてきました。時計を見ると0時です。0時半には、もう出発なのです。

小屋は、もう標高3000mを超えていますから、これからは空気の薄い苦しい登りになります。

暗い中、細々とした電球の光を頼りに登って行きます。あんな小さな電池から、あんなに長い時間、貴重な光が出て、道を照らしてくれるのにはいつも感心します。明治の先輩たちが電池などと名付けず,携帯発電所とでも呼んでくれていたら、発電所の用地交渉についての報道姿勢が変わっていたかも知れないなど考えて足を運んでいました。

 

誰もが、山頂で日の出を拝みたいと思っているので、道は人で一杯です。

そして、岩場に差しかかると、渋滞でちっとも進みません。あちこちの暗い道端に、気分の悪くなった人たちがうずくまっています。

この程度の高さの空気の中ならば、私はゆっくり連続して登って行けます。

この日の登りでは、時間当たり標高差240メートルが最高速度でした。これは平地の速度の約半分です。

4時30分、頂上直下で、雲海の上に太陽が覗き、光の矢が火山岩の山肌を赤々と浮き上がらせました。

 

・谷頭ごとに霧立つ梅雨の山

 

頂上のお鉢の周りに立つと、猛烈な冷たい西風に吹き飛ばされそうになりました。

よろけて崩した土には、2センチほどの霜柱が見えました。

自分を入れた記念撮影のシャッターを押して貰う人を捜しました。手袋をしている人には、わざわざ脱いでもらはなくてはならないので、手袋をしてない人が来るまで待っていました。

若い女性が来たので頼みました。彼女は帽子を手で持っていたのです。それで、シャッターを押すために、帽子を頭にかぶったのでした。

ところがアッという間に、風に帽子を持って行かれました。慌てて追っかけて行きましたが、私に「(シャッター押せなくて)ごめんなさい」と言ってくれました。薄い空気の中で、走るのは大変なアルバイトです。お詫びをしなくてはならないのは、私のほうなのですのに。

 

テレビ局2社が、山開きの取材に山頂まで来ていました。日の出を入れて、万歳させました。

ほかの某局は、中腹の車の入れる所までしか来ず、携帯電話とコイン・トイレを今年のお山開きの特異点であるとクローズアップして報道していました。ポケットから携帯を出して、登山者に持たせて写したのだそうです。

出演希望者が多いとはいえ、取材もなかなか大変で、ご苦労様なことです。

 

今回の吉田口からの登山では、短いけれども勾配が急な登る道と、長くて緩い降る道とが全く別で、それぞれ一方交通になっています。馴れない人には、急な下りは恐怖感が大きいので、合理的な選択であります。

 

下山路の8合目あたりで、御殿場に降る道と分かれます。もしここで間違って降りてしまうと、下界では何十キロも離れてしまうので、その分岐までは厳しく団体行動をするように言われました。

このあとは、自分のペースでどんどん降りました。5合目あたりを、ほぼ水平に走るお中道に着き、時計を見ると、頂上から1時間40分かかっていました。前回は、登山口まで2時間で着けないかと、このあと息せき切って歩いた覚えがあります。あの時は、結局、2時間10分ほどかかったように思います。今回は急ぐ理由は全くないのですが、なにせこの山には、体を洗うせせらぎもありません。また、沢山の人がぞろぞろ歩いています。とても腰を下ろして、ゆっくりという気分にはならないのです。こんな所がこの山を「2度登るのは馬鹿」と言わせているのでしょう。

 

・山開き老妻馬に乗する爺

 

 

こんなにして心ならずも、2時間27分で登山口まで帰ってしまいました。考えもなく、気分良く足拍子で降りてしまった結果なのでした。

そして今は、なぜ、同じグループの遅れた人の荷物を持ってあげなかったのか、そうすれば、またひとつ思い出のある富士登山になっただろうにと、後悔しています。

また何時か登ることがあったら、今度は、きっとそうしようと思っているのです。

 

・下山して足指開き日に晒す

 

川口湖畔のホテルで汗を流しました。バス2台分の人が同時に押し掛けるのですから、当然、満員になります。

みんな、他人に気を使って、カラスの行水で済ませては、譲り合っているのです。とても嬉しく思いました。

 

昔は、山に入る人口は多くありませんでした。そして、山に登る人たちは、自分たちの山登りのルールを持っていました。

人と出会えば必ず挨拶をします。道は登り優先ですから、下山している側が道を譲るのです。狭い小屋でも、譲り合って使います。また、朝早く出発する時は、静かに身支度し出て行きます。

 

昨秋、メキシコの最高峰オリサバ山のリオ・グランデルの小屋で、ドイツ人から、富士山のことを聞かれました。「あれは、ほかの山へは行ったこともない素人を含めて、登山シーズンの3ヶ月間に2万人も登る特殊な山なんだよ」と私は答えました。

今では、富士山だけでなく、どこの山にも沢山の人が押し掛けています。そして里のルールを、山に持ち込んでいるように見受けられます。それは、混雑した地下鉄の中で、背を丸め足を通路に突き出して座ったり、横の席に自分の荷物をドタッと置く、あの「他人は関係ない」というルールです。

 

最近では、山屋たちの「コンチハ、オッス」という挨拶を聞くのも稀になりました。狭い山道で後ろから追いつかれても、道を譲ることを知らず、お喋りに夢中のおばさんにイライラさせられた人は多いことでしょう。

やはり、豊かな社会、社会制度としての福祉の充実が、個人としての思いやりの心を忘れさせているように思えるのです。

ところが今度のツアーでは、15時間ほど、富士登山の苦しみを共にした仲間同士が、それぞれ相手を思いやっているのでした。そんな様子を見るのは、久しぶりの清々しくも心暖まる思いでした。 

だから、山登りは止められないじゃありませんか。

 

・昼風呂に深く息吸う山開き

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