題名:1年遅れのモンブラン

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日付:1998/2/5


 モンブランには,昨年みんなと登りに行った。登頂予定日の1996年8月21日にグーテの小屋で午前2時に起き,スパッツを着け,まさに出発しようとするところまではいったのだった。だが,この日は生憎風雪激しい悪天候で,登頂できずに涙を呑んだ。

 このとき,私たちと違ってガイドなしで行った連中は,その後,小屋で2日粘り,ついに登頂を果たして帰ったのだった。

 もしもモンブランが名古屋の近くの山だったら,私は次の週にでも,きっと登りに行っていたことだろう。しかし,なにせ遙かな本場のアルプスのこと,やはり再挑戦には1年の待ち時間が必要だった。

今回のスケジュールは次のとおり

8月28日 名古屋発 機中泊

8月29日 チューリッヒ着 カンデルシュテークからエッシネンゼー観光後

      ツェルマットへ ユースホステル泊

8月30日 ブライトホルン挑戦,中途で吹雪のため敗退,ヘルンリ小屋下まで偵察

      ユースホステル泊

8月31日 ブライトホルン登頂後 サースフェーへ ユースホステル泊

9月1日  アラリンホルン登頂 氷河博物館 ユースホステル泊

9月2日  シャモニへ ホテル・ド・ミディ泊

9月3日  天気回復待ち日 ラック・ブランにハイキング ホテル・ド・ミディ泊

9月4日  小屋予約待ち日 モンタンベールにハイキング ホテル・ド・ミディ泊

9月5日  グーテ小屋まで グーテ小屋泊

9月6日  モンブラン登頂後 シャモニへ ホテル・ド・ミディ泊

9月7日  インターラーケン観光後 グリンデル・バルトへ ユースホステル泊

9月8日  ユングフラウ・ヨッホ メンヒ小屋トレッキング後 ユースホステル泊

9月9日  ベルン観光 ユースホステル泊

9月10日 チューリッヒ発 機中泊

9月11日 名古屋着

 

 

アルプスの山岳ガイド

 昨年のモンブラン行きでは,なんとなくガイドが付くことになってしまった。そして予定していた登頂日は吹雪,真夏に降る雪に出会って,やはり本場のアルブスは日本とは違うわいと思わせられた。ガイドは,この雪が続くと撤退も難しくなるから,一刻も早く下山するようにと強く勧めた。このため,折角のグループが,即日下山組と停滞・続行組の二つに分かれてしまったのであった。

 去年使った二人のガイドは,シャモニ在住のAさんのご配慮で選んで下さったのだと思うが,大変に気遣いしてくれる人たちであった。先方から,休もうかとか,遠慮しないで希望を言えとか言ってくれた。そんなこともあり,別れる時に,もう当然のことのように「次回,再挑戦するときは,また頼むよ」と心から言ったのだった。

 その後,昨年の経験を基に冷静に考えると,登頂だけを目的にして考えれば,ガイドは頼まないほうが,かえって望ましいようにも思われた。だから今年の再挑戦では,ガイドのことは,まったく決めずにスイスに入った。

 着いたあと,まずブライトホルン,続いてアラリンホルンと4000メートル峰二つをソロで登り,その体験を基にして,毎晩ベッドの中で,ガイドを雇うかどうかについていろいろと考え続けた。

 アルプスでは,ソロで登っている人は非常に少ないというのが実感であった。

 しかしザイルで相互確保している理由は,前述の二つの初歩的な雪山では,わりに素人っぽい登山者が多く,そのための必要上からザイルを使わざるを得ないのも一因と見た。しかし,また氷河のクレバスの危険も,それなりに認識させられた。

 氷が一日に何10センチも動いていることは間違いないし,何時どこがどう動いて割け目が出来ているか,だれにも分からないと言われれば,その通りではあった。

 ブライトホルンでは雪に降られた。新雪に隠されたクレバスに落ち込むのが怖くないのかと言はれれば,それに逆らう理由はない。

 災難に会うか会わないかは,確率の問題であり,日本の山を歩いていても,激流の上のスノー・ブリッジを通るときなどに,毎度それなりの判断で処理していることではある。 なにも起こらなければ良いが,もしなにか起こったら,去年のガイドへの口約束があるから「日本人は約束を守らない。それで・・」と言われるのは間違いなかろうと考えた。それは,登山者がガイドを雇わないのは,彼らにとって生活にかかる重大な障害だからである。

 そうは言うものの,去年の失敗のことを思うと,依然として,ガイドを頼まず,自分の判断で行動したいという気持も抑え難かった。しかし,その場合は当然ソロとなる。

 毎度のことながら,割り切りの悪い私は,そんなことを,とつおいつ考えた末,天候さえしっかり判断すれば,やはりガイド付きのほうが,穏当に違いないと結論付けた。

 そう決めたので,シャモニへ着いて、また去年のとおりS運動具店のKさんのお世話になった。お陰で,その夜のうちに,好天が予報されている日に,去年付いてくれたクリストフというガイドに予約ができ,今回は順風満帆と思われた。

 ところが次の日になって,グーテの小屋が満員だということで宿泊の予約を断られた。このためスケジュールを一日遅らさざるを得ず,そうなるとクリストフの都合がつかないことになった。

 結局,新規のガイドがきた。山行を終わってみると,そのガイドは噂に聞いていたアルプスの山岳ガイドのパフォーマンスのとおりであった。それで,Kさんに「あんなところが平均かね」と聞くと,その通りだとの返事が返ってきた。

 9月5日,7時30分に車でシャモニのホテルを出発した。レ・ズーシュから8時の始発ケーブルでベルビューまで上がり,登山電車の終着駅ニー・デグル(2386m)を9時に歩き始めた。

 テート・ルースの小屋には11時50分に到着し,昨年同様ジャガイモのたっぷり入ったオムレツの昼飯をとった。

 午後の取っかかりに,例の落石注意のクーロワールを走って抜け,あとはじくじくと高度を稼ぎ,15時をちょっと廻ったころグーテの小屋に入った。

 昨年の新館とは違い,今回は旧館の上段のベッドが当たった。窓を開けて寝ないと暑くてたまらんと聞いたところである。そのことは誰もが知っているようで,本当に窓を開けて寝た,もちろんすぐ外は雪の壁なのだが。

 午前1時40分,部屋の電灯が点き,みんな一斉に起き出し食事が始まった。私のガイドは寝坊らしく,なかなかエンジンがかからず,出発は3時になってしまった。もう山頂に向かって点々と,先発の登山者たちのライトが散見された。

 7時55分,4807メートル,ヨーロッパの最高点,モンブラン頂上に到達した。高曇りで風が強く,ひどく寒い。みんなあたふたと下山してゆく。われわれも約10分滞在しただけで下山にかかった。

 途中まったく休まずにグーテの小屋に10時着,小憩,テート・ルース小屋12時通過,そしてニー・デグルの駅には13時30分に着き,15時過ぎにはシャモニのホテルに帰り着いた。さすがに疲れ,約半日は食欲がなかった。そして今後も,体重オーバーになったら,厳しいガイドを雇ってモンブランに登るのが有効だと思った。

 ガイドは,登りも下りも常に急き立てた。慎重にとか,気をつけてという言葉は彼の語彙にないようであったし,下山路で登りの登山者に道を譲るエチケットも知らないようであった。

 登りについて言えば,ザイルでぐいぐいと引いた。と言っても,高度を稼ぐのに役立つように,引き上げて助けてくれる訳ではなくて,馬は引け牛は追え式の御者の目的で,ペースを強要する手綱捌きであった。

 私も当日は割に体調が良く,その催促に何とか耐えられたので,日本男児の面目にかけて,休まずに登り続けた。うまくしたもので,そのうちに彼が引っ張るタイミングを上手に掴めば,いくばくかのエネルギーを得られることが分かった。それで,2日間のガイド料金が7万円なので,心の中で「7万円,7万円」と唱えながら,その引っ張りを利用して登っていった。

 下山も,頂上からグーテの小屋まで,休まずに下ったのは厳しかった。私は滑落してからピッケルで止めるより,滑落しないことを優先して考えるので,アイゼンの爪を引っ掛けないように,慎重にゆっくり足を運ぶのを止めなかった。そのためガイドはかなりいらいらしたようだった。私も最後はすっかり疲れ,小さな雪の凸凹に躓いて転んだりするほどだった。

 グーテ小屋から下は,アイゼンを外して下ったが,やはりガイドに早く早くと急きたてられた。ジグザクの道を,突っ切って真っ直ぐ下れというのであった。これは,後続のほかのグループが落とす落石の危険箇所を,早く通過してしまおうという意図であるらしかった。大変にうるさかったが,私としては,やはり滑落してから止めてもらうよりはと思い,適当に付き合っておいた。

 言ってみれば,去年のガイドたちとの比較で,もうちょっとお客の要望なり,情況なりを考慮してもしかるべきではないかと感じていたのである。

 先に述べた,ガイドを斡旋してくれたKさんへ「ガイドとしては,あんなところが平均なんですか」と言ったのは,そのことを指して言ったのである。

 さすがにKさんは,その辺の評判は既によく耳にしているのであろう「アルプスのガイドたちは,お客さんの安全を最優先させるのです。そのために時として,スピードについて厳しいことも言うこともあります。なにせ,お客さんを労ったつもりが,事故につながり,かえって仇になってしまうこともありますので」と答えた。

 それは全くその通りであると思う。しかし,その時,私はほかのことも併せて考えていたのである。

 そのひとつは,アルプスの人たちが山に抱いている考え方が、われわれのものとは違っているように思えることである。

 日本の人たちは,山を信仰と結びつけたり,あるいは獣,魚,山菜,茸など山の恵みとの関連から,あたかも自分の庭のようにポジティブに扱うところがあると思うのである。 たとえば道端に水が滲み出ているところを見つけると,この次に来た時に飲みやすいようにしておこうと,手で堀り窪めておいたりする。

 一方,アルプス地方の高い山は,まったく岩と氷の世界で,山の恵みなどはないと言ってよいだろう。だから,彼らの登山とは冒険で,しなくても済むことに挑む,文字通りのチャレンジなのである。真夏でも吹雪くこともある,危険な,言ってみれば悪魔の家の庭に,こっそり忍び込むようなことだと考えているように見える。

 そのため幸運にも頂上を踏めたら,あとは一目散に人間の領域に逃げ込むべきだというところがあるように思われるのである。

 魔の山マッターホーンの初登頂が,スイス人ではなくて,損得と関係なく,困難にチャレンジする,ジョン・ブル魂を持つといわれる,イギリス人のウインパーによってなされたのも分かるような気がする。

 山をWITHと考えるかAGAINST と考えるかの違いがあるように思われるのである。

さて, もうひとつ考えていたのは,山のプロフェッショナルが都会から訪ねてきた客人に抱く,ある種の感情のことである。

 日本でも,昔,お江戸の人たちが富士登山をするとき,小屋の若い衆に手荒に扱われたと言われる。私たちも若い頃,ある地域の小屋についても,よくそんな話を聞かされたものである。

 平生は羨んでいる境遇の人が,たまたま特殊な環境で,自分より無力になったときに,やっかみも手伝って殊更に優位性を見せつけたいという気になる心理が,人間の深層に潜んでいるように思う。

 普通の社会では,その深層心理の露頭は,またいつか逆の立場になるかもしれないというブレーキがかかり,強くは現れないが,一生に一度の富士登山に来ている客ならば,しっぺ返しされる心配はない。そのため,つい本性が出てしまったのであろう。

 カンボジアではポルポト時代に,血に狂った若者たちに,街の腕の良い時計屋が,ただ金持ちだという理由だけで虐殺の対象に選ばれたとも聞かされたことがある。

 これらは一期一会が,恥のかき捨てにつながる,人間の醜い一面であろう。

 ところが,対象とする人がホスピスなどで死んでゆく人である場合には,人間はどう振る舞うであろうか。

 余命いくばくもない人に対しては,人は概して優しい思いやりを示す。しかしそれは,死んだ人が祟り,化けて出て来て仕返しすると信じているからではない。

 相手を本当に可哀いそうだと思うと,人間は優しい心になるのだと思う。

 やはり,いたぶるときには,相手がある意味で,優位にあることが楽しみを増すことになるのであろう。

 遠くから高い金を払って,空気の薄い山に登りにくる登山客など,恰好の対象物でなくてなんであろうか。

 この本能は,ある地域とか時代とか,いじめっ子など特別な個人に限られるものではなく,すべての人間の心の奥に,多かれ少なかれ存在するもののように思われる。

 さて,われわれは登山電車の駅,ニー・デグルに13時30分に着いた。前の電車が出て1時間過ぎたところで,次の電車までまだ2時間も待たねばならぬという。

 ガイドは,2時間待つぐらいなら,ベルビューまで20分で歩いて行けるから,歩こうと言う。私も歩くことに異論はないので歩き始めた。

 上からは,ベルビューまでの線路がずっと見えるので,どうも話がちょっとおかしいと思ったが,結局1時間かかってしまった。

 ケーブルの山麓駅へ下り立つと,ガイドが「お前ビールは好きか」と聞いた。「もちろん好きさ」と答えると,おごると言って村の店に連れて行かれた。ガイドにおごられたのでは,日本の旦那の恥になると思い,私が勘定を払った。シャモニの町とは違って,なんだか大変安かった。ところがガイドは,どうしても自分もおごりたいのだと頑張り,もう1杯づつ飲むことになった。登山の後だから,この喉越しも至極結構であった。後で考えると,登山電車の線路歩きを20分と言ったのが,1時間もかかってしまったので,お客てある私に気をつかってくれたのかもしれなかった。

 ともかく,その前夜ろくに寝ないでモンブランに登ってきて,いい加減ビールの入ったガイドの運転で,うとうとしながらシャモニのホテルに帰り着いたのであった。

 すぐ後で,ダイアナ妃が酔っぱらった運転手の運転で亡くなったことを知った。死神だって,しなびた老登山家よりは,目の大きな美人のほうが好きに決まっている。

・秋天や間近に迫るモンブラン

 

ユングフラウ・ヨッホ

 グリンデル・バルトの朝,ここの駅には,世界中のあらゆる国の人が来ている。日本や中国からの団体客用の貸し切りの電車が出てゆく。団体以外の連中は,あいつらは金持ちだから仕様がないという顔をして見送っている。

 片言の言葉で自分で切符を買っている日本人と一緒になった。人馴っっこい人で,向こうからずんずん話し掛けてくれた。聞くと私より2歳若く,やはり去年,仕事を卒業したので念願のスイスに来たのだという。中学からの友人同士,男二人の旅をしている。

 列車はアイガー北壁の直下を登ってゆく。しかしその人は,グループ行動でない日本人と会うは久し振りなのか,私を離そうとはしなかった。

 彼は長年,紳士靴の卸の仕事をしていたこと,名古屋のデパートにも商品を入れていたこと,バブル崩壊のとき,売上が婦人靴に較べ紳士靴でははるかに大きく落ち込んだこと,デパートでは売れない商品は上の階に移されること,同じ商品でも1階上に置かれると客足が減り1割売上が落ちること,大企業の退職者は年金が多くて羨ましいいことなど,次から次へと面白い話が続く。

 スイスまで来て,しかもかの高名なアイガー北壁の直下にいて,景色を見ないでこんな話をしていることに,ちょっと妙な気がした。といってそれはそれで,こんな経験は願っても得られないことだとも思った。いまはもう自分で決めればよい人生であるから,彼との話に身を入れて時間を過ごしたのであった。

 クライネ・シャイデックからは,すぐ長いトンネルに入る。景色が見えないあいだ案内人が,ここユングフラウ・ヨッホでは空気を汚さないために,登るのは電車,上の施設では電気暖房,なにもかにも全部電気でやっていると説明した。陽気なアメリカ人がいろいろと質問した。この電車にはエンジンが何台ついているかという聞き方も,自動車の国アメリカ人らしくて面白かった。また,そんなに電気に頼っていたら,電気が停まったら俺たちどうやって帰るんだというのもあった。電気は絶対に停まらないようになっていると案内人は答えたが,ある種の人のように「絶対ということはない筈だ」など意地悪を言う人はいなかった。

 パック旅行の人たちは,時間の制約がきつく,ほとんど駅の近辺だけ,そそくさと歩き廻って帰ってゆく。でも中には,時計が何分になったら引き返そうなど言って足早に外につながるトンネルを歩いている健気な人もいた。標高約3500メートルの薄い空気はこういう時にはこたえるのである。

 長いトンネルを出ると,一面の雪の原に陽光が輝いていた。天気さえ良ければ,少なくともここまて来なくては,ユングフラウ・ヨッホへ行った意味はないのではないかとさえ思った。しかし,また逆に,ぞろぞろと観光客が詰め掛けたのでは,ユングフラウ・ヨッホの良さが失われるとも思われるのであった。

 その後,私は小1時間雪の上を歩いて,メンヒの小屋まで行った。天気が良かったから,雪と岩と日の光りに包まれて,ひとり気ままに過ごした時間は,一生の内にもうひとつ余分に天国を加える思いであった。

 ゆるいゲレンデにロープリフトがあり,初心者たちがキャーキャー楽しんでいた。スキーと靴を3000円ほどで貸している。

 スキーといえば,こんなこともあった。先日訪ねた4000メートルを越すブライトホルンやアラリンホルンには,夏でも新雪で滑ることのできる本格的なサマースキー場があった。ブライトホルン登山の帰りのゴンドラで,20才ぐらいのしっかり日焼けした娘さんと相客になった。半ばお世辞に「お前はオリンピックの選手なんだろう」と言ってみると「いかにもスェーデンのナショナルチームのメンバーだ。私はスノーバレーの選手だが,日本の長野ではモーグルまでは競技種目に入れたが,スノーバレーは入っておらず,行けなくて残念だ」との返事が返ってきた。このほかアメリカチームも来ており,世界のトップクラスは一年中滑っているのだと知った。

 ユングフラウ・ヨッホに押し掛ける人たちには人気はないようだったが,私にはスフィンクスという名前の高所観測研究所が面白かった。ちなみに,みんなに人気があるのはヨーロッパで一番標高が高い郵便局から絵葉書を出すことと,お土産店で買い物することと見受けた。

 スフィンクスは,天文学,気象学,物理学,地学などの観測研究施設である。こんな標高3500mもあるユングフラウ・ヨッホへ鉄道が通じたので,資材と研究者を容易に送り込むことが可能になり,そのメリットを活かすため,国際協力のもとに設立されたものである。このような高邁な理想に燃えた研究所の発足が,私の生まれた1930年のことであるのには驚かされた。

 BITWEEN HEAVEN AND EARTHというのが, この研究所のトレードマークである。  標高3500m,平地よりは高いが,まだ上に大気がある。まさにその表現は当たっている。

 たしかに,天に近いので,宇宙からの放射線が空気でさほど弱められずに観測できる。 星がくっきり見えるので,地表ではただ,ぼうっと見えているプレアデス星団が,実は1000個以上の星から成り立っているのが分かったと研究成果が展示してあった。

 この施設の誕生から60年,最近ではアメリカが宇宙に打ち上げたハッブル望遠鏡から,星の誕生の様子などの新しい知見が次々と人類にもたらされている。このハッブル衛星は,もうHEAVENの領域に打ち上げられたと言ってよいだろう。改めて,人間の限り無い探究心と技術の進歩とを思った。

 ただ私には,このトレードマークが,単にその位置のことだけではなく,シェークスピアの戯曲ハムレットの中の「ホレーショよ,BITWEEN HEAVEN AND EARTHには,お前が哲学で夢見るより,もっと沢山のことがあるのだ」という言葉にかけてある,洒落たものにも感じられた。

 ここには,西暦1880年から100年余の,氷河の長さの増減記録を,事実として示してあった。これを見れば,巷間言われている,今,炭酸ガスの増加で地球が温暖化し,氷河の末端が後退しつつあるという話が正確でないことがわかる。

 事実をみれば,今の氷河末端の位置は,1880年,1905年,1940年頃と同じであり,その間に里まで伸びていた時期もあったことが示されている。

 もっとも,炭酸ガスの増加が,将来その分だけ地球の温暖化を招き,それが氷河の短縮につながることは間違いないし,その抑制が必要なことは当然である。

 しかし,それを現在の氷河の衰退の話に結びつけるのは「そんな悪いことをすると,お巡りさんが来るよ」と子供を脅して躾ける母親の言葉だと思うのである。

 科学者はその責任として,物事を正直に世間に示す必要があり,社会もそれを認める寛容さを持つべきだと思う。そうでないと,民主主義の主人公である国民に誤った判断資料与えることになりかねない。

 かってある学者の訓示を,学問を曲げて世間におもねるものだと,非難した宰相がいたことを思い出したのであった。

・アイガーの岩峰に月突き刺さる

 

ユースホステル

 最近は盛んにユースホステルを利用している。

 考えてみると,ユースホステルを教えてくれたのは,Mさんである。彼と一緒の旅では,山登りの旅や,長い歩きのある史跡巡りなどで,もっぱらユースを利用した。山小屋よりは,はるかに快適であるという印象が強い。ホテルからの下方指向ではなく,テント,山小屋からの上方指向なのである。

 最初は奈良であった。もう何10年も昔のことである。宿泊の規律がかなり厳しかったという印象が残っている。10年ほど前でも,九州のあるところで泊まった時に,ご主人がかなり義務っぽく,話相手をしてくれた。このときは夕食の量が若い人向きで,多くて閉口したのを覚えている。

 世の中がソフトになるに連れて,ユースにもビールの自動販売機が置かれたり,ミーティングなどなくなり,簡素な宿としての空気が主流になってきたようだ。

 そして最近はとみに外国の若者の利用が多くなって来ている。

 私について言えば,年令といい,登山姿でレンタカーを足に旅しているここと言い,本当は民宿あたりが一番似合うのだろうとは思っている。

 それなのに,ユースを使う一番の動機は,過去に民宿に予約を申し込んだ時に,ひとりだと断られることが多く,それが大変に嫌だったためである。

 今年,現役引退を契機に,ユースホステルの会員になった。これからは利用がふえると思い,一途に申し込んだ。しかし,今考えると,条件は変わってきている。

 しょっちゅう断られたのは,休暇がとれる繁忙シーズンに申し込んだからであって,今後は,オフシーズンの利用を多くできるし,またするべきである。そうすれば,部屋を遊ばせておくよりはと,一人で申し込んでも歓迎されるかもしれない。

 もっとも,今はまだ仕事も多少は残っており,また他の趣味との関連で,そう完全なフリーではない。しかし,もっと将来を考えても,やっぱりユースの利用には,それなりの魅力があるように思われる。

 その理由は,まず何といっても安いことであり,またワン・オブ・メニイとして沢山の人々と薄くコンタクトできることであり,もうひとつ子供と一緒に旅行しているような懐かしさが味わえることである。

 日本でも,スイスでも,カナダでも,ユースを利用していて不愉快な思いをしたことはなかった。

 考えてみると,日本のユースでは同宿者とあまり話をした記憶がない。札幌で自転車旅行でずぶ濡れになり,服を干している青年に「僕は山から下りてきたが,お互い今日はよく降られたね」と話しかけても「はぁ」といった感じで,やはり自分の親父から声をかけられたように,煙ったい様子であった。

 ツェルマットのユースでは向かいのベッドの青年が「ユークレインから来た」という。そんな国は知らんというと「元のソ連が分裂して出来た」と言う。それでピンと来て,そうか,その国は日本じゃウクライナと呼んでると答えると,そのほうが母国の本当の発音に近いと喜ばれた。その青年は,ここで貰った地図が正確じゃないので,折角のマウンテンバイクにまたがることもなく,1日中かついで歩いていたとぼやいていた。このユースには日本の若い女の子が働いていて,なにかと面倒を見てくれた。

 同じくスイスのザース・フェーのユースでは,2400円なら相部屋,400円余分に払えば個室を使わせるという。ホテルに付属した一寸した食堂での朝,夕食を含む値段である。普通のモーテルが,またユースとしても登録し,適当に泊めている感じだった。私は相部屋を採った。始めの夜は,英語の離せるドイツ人たちと一緒の部屋だった。やはり山の連中でいろいろの情報が得られた。次の夜は相客がなく,結果的に個室だった。

 グリンデル・バルトのユースでは,沢山の日本人の青年たちと会った。

 彼らは私をおじさん,おじさんと呼んでくれるのが嬉しかった。

 ある青年は,父親が競馬の関係の仕事なので,自分も馬の勉強をするために英国の大学に入っているという,そのほか習字の先生など随分と個性的に連中である。

 私の日本百名山の話を聞いて,もっといろいろ聞きたいから,夕食は一緒のテーブルに集まりましょうなど言ってくれた。そして,彼らは大変興味を持って聞いてくれた。

 30才前後と想像するが,彼らが自分の両親を,お父ちゃん,お母ちゃんと言うのが面白かった。

 彼らはヨーロッパ全土を股にかけている様子で,あそこが面白い,ここが便利だといろいろ情報交換をしていた。

 日本に帰ったら,まず最初に食べたいものとして,焼き肉とか,ラーメンとか言っていた。「インターラーケンでラーメンの幟が立っていたよ」と教えてやると,彼らは,あれは馬鹿高いからと,自分たちの対象にしていない風で,誠に健全な若者らに思えた。

 日本では泊まる施設がピンからキリまであり,それなりに使っているのに,なぜ外国へ行くと一流ホテルしか泊まらないのかと,私はいつも言っていた。

 ユースに泊まっている青年たちと話していると,その答えは「観光のパックツアーだから」であることを今更のように思った。

 彼らは,異国を,その土地の人たちの生活のペースで旅行しているのである。

 若い人たちは宵っぱりで朝寝坊である。私は夜は早くからアイマスクをして寝ることにしていた。朝出発する頃は,彼らの多くは,まだぐーぐー寝ていた。

 もっとも割引き料金の早朝電車を捕まえる子は,健気に目覚ましで起き,ひっそりと出て行った。でも目覚ましで起きられなかった子が,ドアの外で「◯◯さん」と呼ぶ女性の声で,むっくり起きていったのは面白かった。

 外国の子たちは裸で寝ているのが多かった。そして,朝起きて見るとベッドの周りに脱いだ服をぐしゃぐしゃに放ったらかしていた。うちの子たちと,こんなにして一緒に旅をしていたのは,何年昔のことだったろうかと,懐かしくて仕方なかった。

 私が知っている限りでは,どのユースでも,男と女はフロアを分けてある。

 世界共通語として英語は,インターネットの進展で,最近余計に勢いがついてきた。

 ユースでの会話も,自国語以外は英語ばかりが使われるといってよい。

 ある人たちは,英語の練習のために英語で話しかけてくるし,また,ある程度堪能になると,その流暢さを見せびらかしたくて英語で喋りかける。いずれにしても,私のように,口不精な男には,暇がつぶせて,雑知識が増えて,有り難いことである。

 帰国する前の夜は,スイス連邦の首都であるベルン市のユースで泊まった。

 ベルンは最初に通過した時,列車の窓から大きな教会が見えて,いかにもヨーロッパへ来たと感じさせてくれた街である。チューリッヒまで約1時間だから,どうせ泊まるなら,まだ行ったことのない街をと思って選んだ。若かった頃,名古屋の会議に中国電力から来られたS重役が,名古屋のホテルには泊まらず,泉鏡花の小説,歌行灯の舞台になった桑名の旅館を選ばれたのに感銘を受けたことがあったが,いまやその心境であった。

 ここのユースのシャワー室では,もう孫と言ってもいい,かわいい子供たちが騒いでいた。1部屋4つのベッドの一つには,私よりも年寄りのスイス人がいた。朝起きると,窓が開けっ放しであった。そういう習慣の人が最後に寝たのだろう。道理で夜中,絶えず車の音が聞こえていた。ユースでよく眠るには,そんなことを気にするようではいけないのである。

・秋蝶やここはお国の何万里

 

ベルン

 撮ってきたビデオを見せると,ベルンの街を女性は素敵だという。きっと素敵な旧都なのであろう。

 あの小さなスイスが23もの州からなる連邦であって,ベルンはその首都であることを,始めて知った。これも気まぐれの旅の功徳である。

 この街は観光目的の日本人はあまりおらず,むしろ韓国の団体客が目についた。

 韓国の人たちは,今度の旅を通して各地でかなり見掛けた。全般的な印象を言えば,日本人と比べて,きちっとしたところがあるように見受けられた。

 言ってみれば,ちゃんと糊の利いたカッターシャツといった感じなのである。

 それに比べ,日本人たちは,個人でも団体でも,本当によれよれジーパンという感じに見えた。

 首都ベルンには,世界中の若者たちが集まっていた。

 ジベタリアンと言うのだそうだが,若い人たちは街の至るところで,地べたに座り込んでいた。当節のファッションなのだそうである。

 ここでも,日本のある種の若者たちは,韓国の人なら恥ずかしくて躊躇する線を超え,まったく街の塵埃と同化,一体となっていた。昔なら,ヒッピーというのだろう。街行く人々の靴に踏まれ,砂ぼこりと一緒に風に飛ばされている古新聞紙と,違和感がない境地にまでに達しているようだった。

 綺麗でもなく,汚いでもなく,薄汚いのである。こうなれるのは,生きるための苦労がなく,心の底から,つっかえ棒を外してしまえるからであろうと私は考えた。やはり,この境地に達するのには,途上国では及びもないことなのであろう。

 小言幸兵衛になって恐縮であるが,最近は他人を無視することが,恰好よいファッションとされているように思う。

 電車に乗り込んできて,自分の横の席にバッグをどたっと置くとか,鏡を出してお化粧を始めるなどの行為は,その目的が,自分が他人を何とも思っていないよと,誇示することにあるように見える。

 問題は,これらの行為が外見だけに止まらず,世間全体から,聖書のなかのゴールデン・ルール「自分を愛するように,隣人を愛せよ」という,人間が社会生活を営む上で必要な普遍的なルールが,失われつつあることではないかと思う。

 人間らしく生きたいと望み,「衣食足って礼節を知る」と唱えながら,汗水たらして獲得した豊かな現代だが,いざその豊かな現実に来てみれば「衣食剰って礼節滅す」と言うところなのだろう。

 どちらが幸福かといえば,後者であろう。いくら言い繕っても,しょせん,人間はそれ以上のものではないのかも知れない。

 規制緩和,規制緩和と囃しているうちに行き過ぎて,隣人を無視するところまで行ってしまったら,それは求めていたものとは違ったものになってしまうのでなかろうか。

 そんなことを考えさせられた,ベルンの街角であった。

・教会の鐘に急かるる暮の秋

 

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