日付:2001/6/16
*旅のアウトライン今回の旅では、大型連休の後半、5月3日、名古屋発1番列車のひかり号に乗り、東京駅乗り替えで小山まで行き、あとレンタカーで館林、足利、桐生、日光周辺の山々、利根村と廻りました。
最後の日、5月6日には、皇海山に登ったあと迦葉山へ廻り天狗様を拝み、本庄市で追突事故を経験し、大宮で氷川神社に参拝のあと、駅で車を返し、深夜、名古屋に帰り着いたのでした。
*分福茶釜の茂林寺
東北新幹線小山駅から西へ約30キロほど行くと館林市です。市の南部に茂林寺というお寺があります。
”むかしむかし、あるところに”で始まる昔話の分福茶釜発祥の地とされています。
現に、今でも茶釜が寺宝になっているのです。
山門をくぐると、両側に狸の焼き物22体がずらっと並んで出迎えています。茶釜から頭、尻尾、手足が突き出たようなのや、墨染めの衣、つまり坊主に化けた狸も並んでいます。たいていの狸たちは、徳利や大福帳を下げ、顎をやや突き出し、仰向き加減に立っています。
その狸たちの一つ一つに川柳が添えてあり、それが結構微笑ませてくれるようになっています。
「富士には月見草が似合う」と書いたのは、高名な作家でありますが、この寺では
「狸には川柳が似合う」といった趣であります。
左手奧には、参道に並んでいるものよりも、一段と大きな狸像が立っています。これはこの寺への主要交通機関である東武鉄道が寄進したものです。
茂林寺の門前市では、狸の置物はじめ、狸の名がついた饅頭、最中の類を売っていました。
観光バスも来ていて、「お手々つないで・・」ではありませんが、まさに善男善女ムードであります。
狸といえばカチカチ山を思いだし、なんとなく里山を住処としているように連想させられます。
ところが、ここ茂林寺は山からは、ほど遠く、むしろ水郷といった感じの場所であります。
泥の船に乗せられ「助けてくれー」と叫んでいるシーンならば、この辺りの景色から想像できます。
多分大昔には、狸は山だけではなくて平地にも住んでいたのでしょう。それがやがて平地を人間にとられ、だんだん山へ追いやられたのでしょうか。
・善男女狸の寺の青葉道
*足利学校
狸の寺、茂林寺から15キロほど北西に走ると、足利市です。
渡良瀬川が街の中を流れ、昔の街は多少高みにあたる山際に展開していたようであります。
そんなところに、足利氏の住居跡があります。いまは「はん阿寺」になっています。
堀をめぐらした広大な住居跡であります。
足利市民は、明治以来、日本歴史のなかで、後醍醐天皇と楠正成が善玉とされた反面、自分たちの土地の祖先、足利尊氏が逆臣に仕立てられていたことを快く思っていなかったようであります。
忠臣蔵の吉良上野介のように、損な役割りを押しつけられていたと言えましょう。
この桐生の街の中に足利学校跡があります。
この学校が創建された時期は、奈良時代、鎌倉時代などの諸説があり、はっきりしないのだそうであります。
そしてともかく、上杉憲実(1410〜1466)によって、中興されたことは確実であります。
最盛期には生徒の数は3000人を数え、1550年頃フランシスコ・ザビエルが
「日本国中最も大にして、もっとも有名な坂東の大学」として、世界に紹介しています。
平成2年、江戸時代中期頃の姿に復元され、観光客がぞろぞろ訪ねてきています。
中世末のこの地に思いを巡らすと、領主の屋敷といい大学といい、地方の時代とは、まさにこの事であろうという気がしてくるのです。
足利学校の聖廟には中国の孔子をお祭りしてあります。また孔子の墓地からとってきた種から育ったという楷樹の木が植えられています。孔子71代の子孫のお手植えの木もありました。
当時、先進国であった中国に対する憧憬、そして徳川幕府による統治の思想的バックボーンに適した、忠君愛国を説く儒教に対する熱意が、どんなに激しいものであったかを思わせています。
とくに、人を育てることに注力したのは、素晴らしいことではないでしょうか。
役に立つものを積極的に取り入れ、自分の物にした、こんな先人たちを持ったことを、日本人として誇ってよいと思います。
この学校には、字降松(かなふりまつ)という松がありました。
学生たちが、読めなかったり意味が分からない字に出会ったときに、それを紙に書いて、この松の木の枝先に結んでおくと、翌日には、ふりがなや注釈が付けられていたのだそうです。
質問する人と答える人の、触れあいの時間調整が、現代のEメールみたいだなと思いました。
・今年見し延齢草ややや小振り
*岩宿遺跡
足利市から、さらに20キロほど北西に走り、桐生市の近く、笠懸町にある岩宿遺跡を訪ねました。
岩宿遺跡は日本の旧石器時代の原点であります。
旧石器、新石器とは欧米流の分類でありますが、石器自体には画然たる境界があるわけではなく、最近ではむしろその時代区分に土器を持っていたかどうかに着目して、従前の旧石器時代のことを先土器時代と呼ぶ人もいます。
第二次世界大戦が終わった翌年、1946年に、ここ岩宿の地で、日本で始めて旧石器時代の石器が発見され、人が生活していた証拠が見つかったのです。
それまで日本では、1万年以前には噴火活動が激しくて、人は住んでいないと思われていました。遺跡の発掘調査をしていても、一万年以上前に降り積もった関東ローム層とよばれる火山灰の地層まで掘り進むと、これより下には遺物はないものとして、調査を打ち切ったのでした。
ところが、ここ岩宿の崖に、その1万年より古い火山灰の地層の中に1X3センチほどの人工の石片が顔を出していたのです。
火山が噴火すると、大量の火山灰を吹き上げます。灰は風に乗って飛んで行き、地表に積もります。荒い灰は近くに積もり、細かい灰はもっと遠くまで飛んで行きます。
山によって灰の性質、例えば色が違います。こんなふうにして、九州の姶良火山の灰が福島県でもはっきり区別できるのです。
日本では、その火山灰の研究が進み、遺物が出てきた地層を精密に調査すれば、その灰がどの火山の何時の噴火であるのか、つまり何年前の出来事だったのか特定できるのです。
日本中の発掘している地層に、まるで本のページ数のように、共通した年代が記入されていると言ってもよいでしょう。
岩宿で先土器時代の石器を発見したのは本職の考古学者ではなくて、相沢忠洋さんという小学校しか出ていない素人の考古学ファンだったのです。私より4才年上です。
彼は、恵まれない少年時代に、丁稚奉公をしている頃から、ずっと歴史に興味を持ち、遺跡の調査を続けていたのでした。
そのころ自分の住んでいる赤城山麓では、永年の経験から、石剥片という石器を作る際に出る石屑が、土器を含む層よりも下から出てくることを知っていました。そして、いずれは旧石器時代の石器を発見するチャンスが到来するのを期待していたようであります。
そういう下地があってこそ、旧石器の発見に結びついたのであります。
1946年といえば終戦の翌年です。国民だれもが飢えに苦しんでいるときに、納豆の行商をして、カツカツの生活を支えていた相沢さんが、見方によっては、世間的になんの役にも立たない石器の発見などに情熱を燃やしていたのを、凄いと思わずにはいられないではありませんか。
今度訪ねた、半世紀前に相沢さんが石器を見付けた切り通しの道は、今は舗装され、車が凄いスピードで行き交っていました。
そして近くの資料館には、この辺り一帯の遺跡の出土品が展示され、村おこしの目玉になっていました。
資料館には、昔の発掘の様子を示す写真が飾ってありました。
同行したMさんと私は、その昔の写真の中で、土をほじくっている明治大学の学生たちがかぶっている角帽や、足に巻いているゲートルになんとも言えない懐かしさと、過ぎ去った月日を思ったのでした。
想えば私の存在そのものだって、若い人たちから見ると、考古学的遺物になりかかっているのかもしれません。
この発掘から、もう55年の月日が経っています。縄文時代が終わったのは、その30倍ほど昔のこと、そして岩宿1文化の時代は300倍前のことでした。その1万7千年昔に、この辺りで、まだ土器も持っていない日本人が細々と生きていたのでした。
昨年東北の遺跡を見て回りました。
そして縄文時代前期末から中期にかけ沢山あった生活の跡が、その後3000年ほどは殆ど見あたらない状態になっている現実に、人間の集団の絶滅ということに関心を持たされました。
温暖化とか、オゾンホールだとか、環境ホルモンだとか、いろいろ恐ろしい話題があり、そのたびに人類の集団が連綿と生き延びるのが当然のように思いこんだ議論がされますが、自然の脅威から人類の集団が絶滅を免れるようになったのは、ほんの最近のことのように思われます。
極端に言えば、東日本の縄文人の遺伝子は、現代には伝わっていないと思ったほうが、当を得ているように思うのです。
・老鶯や光に満てる笹原に
*日光
日光では、例のごとくユース・ホステルに泊めてもらいました。
さすがに国際的観光地、日光です。泊まった2晩とも外人がいました。
ユースでは、なんといっても、いろいろお喋り出来るのが楽しいのです。
経験の多い年寄りが多弁になるのは、客観的に許されることにしておきましょう。
食後、Mさんと街を散歩し、日光駅にも行きました。
昔々、終列車が出たあと駅舎の中の待合室から追い出され、建物の外側にあったベンチで、寝袋に入って寝たことを思い出しました。
そういえば、ここ日光では、最高級の富士屋ホテルに泊まったこともありました。
今回はユース・ホステルです。
日光の宿の、ピンからキリまで泊まったことになります。
いずれも、屋根の下というものは、快適なものだと思います。
日光の周りにある山々のうち、男体山と奧白根山には、2人とも過去に登っているのです。それで今度は、5月4日に女峰山(2464m)、5月5日には太郎山(2368m)に登りました。
今年はこの時期、標高2000mから上は雪がまだ残っていて、1日の行動時間が、それぞれ9時間40分、7時間と、蝸牛のような老人には結構なアルバイトでした。
私は、いろいろな登山のスタイルのうちでも、よく締まった雪の上を行く春山が一番好きなのです。
この年齢で、もう諦めかかっていた、春山登山を満喫できたのは望外の喜びでした。
・芽吹き待つ間も燦々と日は降れり
*老神温泉と皇海山
老神温泉では、民宿に泊まりました。
新築ホヤホヤの綺麗な民宿でした。
千葉県船橋市に住み、サラリーマンをしておられたご主人が、退職後、最近始められたのだそうです。
同宿のお客さんは、船橋から来ておられました。
ご主人は、大変、多弁な方でした。
Mさんが到着1時間前に、予告の電話を入れました。横で聞いていると「あー、そうですか。あー、そうですか」を連発しているのです。
聞くと、村へ入る前に見える滝が「日本百名瀑に入ってるのを知ってるか」から始まって、次から次へと話が枝の方に飛んで行き、なかなか本論に入らないのだそうです。
民宿に入ってから、ご本人にお目にかかりました。
私の孫にお喋りがいます。話すチャンスを与えられないと「ちっとも僕に喋らせてくれないんだもん」と涙声を出したりします。
50年前、アメリカで知り合った保険勧誘員のAさんは、機関銃のように喋る人でした。孫より相当ウワテであります。
メキシコのオリサバ山に登りに行ったときのガイドが、運転手と喋っているのを見たときは、彼らこそ世界チャンピオンであろうと思いました。
スペイン語を片言しか話せない私は、そのために気楽だったことを感謝しながら、絶え間ないお喋りに感嘆していました。
でも、この民宿のおじさんは、スーパーチャンピオンの貫禄でした。
もし、これが仕事だったら、ちっとも本題に入らず時間だけ過ぎてゆき、イライラするのでしょうが、この際は、ただ感心して観察していました。
旦那さんは、ちょっとお酒が入り、陽気に座を賑やかしてくれていました。
そして、美人で料理自慢の奥さん目当てに、お客さんが結構入っているようでした。
旅の最終日5月6日、まず皇海山(すかいさん、2144m)に登りました。日本百名山のひとつであります。
この山は、私にとって思い出多い山なのです。
この山との馴れ初めの始めは、当時の正規ルート、南側の足尾町から入りました。
前日、庚申山荘に泊まり、朝早く出発しました。ちょうど台風が通過した直後でしたから、木造の梯子が大部壊れていました。
庚申山を通過し、鋸山にかかりました。急な傾斜の崖にロープが下がっていました。
それを登ると道は左に巻いてゆきます。
歩いてゆくと、先に道がないのです。
どうしたことかとよくよく見ると、立っているところから10mほど先の所は岩壁が露出していて、そのまた向こうに道が見えるのです。途中の道が台風で滑り落ちていたのです。
はっと足元を見ると、自分が乗っている土塊の下から、小石がボロボロと遙か下の谷底に落ちているではありませんか。なんと落ちかかった道に乗っていたのです。
すぐ逃げ帰って役場に電話し、登山路を閉鎖にするように勧告したのでした。
そのあと、途中の「かじか荘」からタクシーを呼んだのですが、結婚式があるとかで、何時になるかわからんよと言われ、奥入瀬鉄道の通堂駅まで延々と歩かされたのでした。
何台もレジャーの車が来ているので、ヒッチハイクを試みましたが、とうとう乗せてくれる人は、ただの1人もありませんでした。
そのうちに、ある雑誌に、北側の利根村から短い登山ルートがあるという記事が出ました。
なんでも昔、その辺りで営林署の植林事業があったのだそうです。そのときのメンバーが年に一度、泊まり込みの同窓会を開いていているのだそうです。そのときに谷沿いに上がってみたら、短い時間で皇海山に登れたという記事でした。
それには、営林署の林道を使わせてもらうのが、絶対の条件です。
前記の記事を出された方に、何度もお電話しました。通じませんでした。
お手紙も出しましたが、返事はありません。
当時の雰囲気として、あの記事を出された方は、民間の人間に林道を使わせて万一のことがあったらどうするのだ、要らないことをしてくれたものだと、部内で批判があったのかしらと想像していました。
村役場に電話しましたら、連休の頃は、来る人が多いから林道のゲートを開けてあることが多いようですよと、間接的な表現を得ました。
こうして再挑戦は、Kさん、Sさんと越後駒ヶ岳、平ガ岳の帰りに、前記の林道から登頂を狙いました。
国道から1時間を超す、長い長い林道でした。
登山口である皇海橋のたもとにテントを張って寝ました。
夜、凄い雨降りになりました。
あの林道が崩れて不通になったらどうしようかしらと、心配で寝られませんでした。
その頃、私はもう第二の勤めでしたから仕方ないとして、前途ある若い人が予定通り出社できなければ申し訳ない、しきりにそう思うのでした。
出社できない旨、電話しようにも、電話がかけられるところまでは、歩いて1日かかるのです。
明けるまでの暗いうちは、林道が崩れないようにと、お祈りするより外にありませんでした。
そして、明るくなると同時に、皆さんに退却をお願いしたのでした。
3回目は、皇海橋まではまったく順調に入りました。
でも、そのあとのルートについては情報が少なく、谷沿いにコルまで登り、稜線に出たら左に道を採るとしか分かっていませんでした。
谷の左岸の踏み跡を辿りました。枝谷にぶつかりそのままは進めないので本谷に降り、苦労して谷を詰めました。大部登ってから、偶然右岸に取り付くと、よく分かる踏み跡があり、あとは順調に、むしろあっけなく頂上を踏むことが出来ました。
帰路には榛名山まで稼いで、その日の中に名古屋まで帰るという余裕でした。
その後のことですが、数年前、私と同じ会社の人がこの皇海山にゆき、遭難してしました。
その日は、生憎、雪が降っていました。2人で登っていて、コルのところで、1人が「用を足すので先に行っていてくれ」と言ったのだそうです。
ところが、先に行った人が頂上で暫く待っていましたが、追いついて来ないので戻ったところ、途中でも出会わず、コルにもいなかったというのです。
大規模な救援隊、捜索隊が繰り出されましたが、残念ながら全く手がかりがなく、捜索は打ち切られました。
今回、私たちの登山では、地元がすっかり登山者を歓迎するムードに代わっていました。
営林署も森林管理センターと名が変わっていました。今の日本では、もう木を育てて木材として売ることは、商売としては収支が合わず、すっかり赤字になっているからです。車道にも登山路にも、バッチリと道標が付けられていました。
この日もまた、適当に雪が残っていて、私の大好きな春山を楽しませて貰いました。
先に述べた遭難事件では、2人が途中で行き違ってしまい、遭難者は頂上を通り過ぎてしまったのではないか、という推定があると聞いたことがありました。
そう思ってみれば、頂上のすぐ下は平らな雪原になっていました。もしも踏み跡がなく、しかも吹雪かれたりしたら、狭い稜線とは違って、行き違いになる可能性は大きかろうと思いました。
・山深くただ早緑の刻流れ
*迦葉山
皇海山登山口に降り立ったのは、12時40分でした。また長い林道を走り、利根村役場に出ました。今日は5月6日、大型連休の最後の日です。行楽・帰省で道路は大混雑だろうと予想されていました。
それで後は、民宿のおじさんに教えて貰った裏道を沼田まで走り、迦葉山(かしょうざん)に行ってみました。
迦葉山は、かなり標高の高い、山の中腹にあるお寺です。登りと降りに分けられた曲がりくねった一方通行の山道と、広い駐車場があり、車を使った大量参拝時代にフィットさせてある様子が分かりました。
この寺は、徳川家の崇敬が厚かったとあります。
そんな一方では、大小、様々の天狗様がお祭りしてあり、何代目かの住職は天狗の力を持っていたとも伝えられます。
また、この寺は小野篁(たかむら)の創建ともいわれます。参議小野篁(802〜852)は嵯峨天皇に仕えた文人で、百人一首の「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海士の釣り船」の作者であります。彼は昼は宮中に仕え、夜は閻魔庁に仕えたと今昔物語に書かれています。伝説とは言いながら、かなり面妖な二重人格者とされている面もあります。
畳1畳ほどの大きな箱に、天狗のお面がごちゃごちゃ入っていました。
説明を読むと「これは縁起の良い開運の天狗の面です。自由にお持ち帰り下さい。そして願いが叶ってお返しになるときは、寺の前の茶店で天狗の面をひとつ買い、2つにして返して下さい」というようなことが書かれていました。
同じように、種銭というのも置いてあるようでした。勝手に持って行き、儲かったら倍にして返すと言うようなもののようでした。
最近横行している天をも恐れぬ不良外人たちには、通用しないルールのように思われます。
それにつけても、日本人の信仰の深さと、律儀さを思い知ったのでした。
坂東の山に登り始めてから、畿内にある大陸から渡来し哲学の匂いのある本式の宗教とはひと味違って、原始的信仰を色濃く残した寺社に、時々出会うように感ずるのです。
・春昼の庫裡に激しく吠える犬
*追突事故
連休最終日でしたが、前橋で高速を降り国道17号線に入ると、意外に混んではいませんでした。
それでも本庄市に入る頃から、道路が片側1車線と狭くなり、のろのろ運転になってしまいました。
繰り返し繰り返し、スタートしては、ほんの少々進んでは、また止まるのです。
私はこんな運転状態の時は、止まっている間、サイドブレーキを引いてのんびり待つことにしているのです。
何十回目かの時のことです。
はっと気がつくと、前の車のお尻が目の前に迫ってきます。バックして来て、ぶつかりそうなのです。慌ててホーンを鳴らして警告しました。
前の車が止まったので、やれやれぶつからなくて良かったとホットしました。
ところが、前の車から男の人が降りてきて、お互いの車の間を眺めているのです。
「ぶつからなくて、良かったね」と私が声を掛けました。
相手は「ぶつかってるじゃないか。出てきて見ろよ」と言います。
なるほど、見ると車同士が接触しているようです。
「まあ、そこで話をしようよ」と言うことで、すぐ横の焼き肉屋の駐車場に入れました。
ショックはまったく感じませんでしたが、相手の車の後ろに針で突いたほどの傷が出来ていました。
私の運転していた車のナンバープレートを取り付けているボルトの6角になった頭の一つの角が触ったのでしょう。こちらはまったく傷がないのです。
「困るな、どうしてくれる。新車なんだよ。この車お前にやるから、新しいの買って呉れよ」と相手は言うのです。
上り坂で信号待ちをしているときなどでは、前の車がずるずると下がってくることを、過去に何回も経験しているのですが、ここは全く平坦な道です。
私が警告のホーンを鳴らしたときは、もう、てっきり相手がバックしてきたと思ったのです。しかし状況から考えると、私のサイドブレーキの引き方が甘くて、こちらの方がゆっくり前進して相手の車を押す格好になったと考えた方が理屈に合います。
たいていの自動車事故では、双方に多少のミスがあるものですが、今度の場合は相手に全く落ち度はないのですから、謝るほかありません。
うちに帰って自分の車を運転しましたら、いまさらながらサイドブレーキについて発見がありました。私の車のサイドブレーキは左足で踏み込むようになっているのです。
足で踏めば、手で引き揚げるのとは比べにならない強い力でブレーキをかけることができるのです。
私は昔ボートを漕いでいましたが、腕だけで漕ぐフィクスと、脚力も合わせて使うスライディング・シートの違いがあるのだと思いました。
私は同じミスを2度としたくないと思っていますが、サイドブレーキが甘くてクリープする事故は、なかなかなくならないように思います。
日本中で見れば、毎年、相当の件数が発生し、減少傾向が見られないのではないでしょうか。
ゴタゴタになると厄介ですから、まず、翌日会社に出なくてはならないMさんをJRの駅に送り、そのあと警察に行って事故証明をもらう手続きをしました。
流石は警察です。こんなちょっとした傷で、お上の手を患わせるななどとは仰らず、粛々と処理して下さいました。
最近の修理は、どんな小さな傷でも、鉄板ごと、ごそっと代えてしまうのだと聞いています。
でもレンタカーを借りるときに、普通の保険のほかに1日千円の保険にも入っておきましたので、面倒な手続きさえすれば、修理費は全部保険からお金が出るのでしょう。
そのための保険なのです。
”折角の連休を、私の不注意で気分悪くさせてしまいました。また、修理する面倒などお掛けしてご免なさい”で、一件落着というわけですが、まだちょっと引っ掛かるものも感じているのです。
まだ使えるどころではない、よくよく見なければ分からない傷があるだけで貴重な資源を廃棄するのです。
使えるものは使えるだけ使うとか、廃棄物処理、リサイクル、省資源、エネルギー、環境保護、そういう立派な言葉は、いったいどうなってしまうのでしょうか。
私は老人なので、つい昔のことを喋りたくなります。
1957年、アメリカに留学していたときに、100ドルで中古車を買いました。1947年式のプリムスでしたから、中古車ではなく大古車と言うべきだったかもしれません。
父は「一族のうちで自家用車を持ったのは、お前が始めてだ」と喜んでくれました。
1960年でも、日本の自動車の台数は、僅かに135万台でした。現在は7500万台です。道路の舗装率は2,8パーセントから75パーセントに上昇しています。
いまや21世紀、日本では猫も杓子も車を乗り回せるようになったのは、一体、誰様のお陰だと思っているのでしょうか。
ニューヨーク州の北の方は、冬にはマイナス20度近くまで冷え込みます。
昔は、エンジンが今のように簡単にはスタートしませんでした。
そんなときには、動ける車にバンパー・トウ・バンパーで押してもらってエンジンをかけたものです。そういう事情ですから、バンパーに傷があるのは当たり前のことでした。
また、その頃はバンパーも、それを支えるシャーシーも、押し掛けを見込んで頑丈に出来ていたものです。
車体の構造も、今では軽量なモノコック方式に変わってきています。
エンジンの押し掛けだって、今ではネパール、ニューギニア辺りでしか、見られなくなりました。
1958年日本に帰ってきたときに「某氏は車を大事にしていて、雨の日には車を使わないで歩いて行く」という話を聞いて、アメリカとの違いにびっくりしたものです。
近頃こそ不景気で、傷のある車を、たまには路上で見掛けるようになりましたが、依然として、日本ほどピカピカの車に乗っている国は、世界中で外にはありません。
私は「自動車」という機能にこだわり、気がつかないうちに、いつかどこかでつけられていた傷を、そのままにして走っているのです。
実は、私の外にもうひとり、傷のある車に平気で乗っている男を知っています。
それは、うちの息子なのです。これもアメリカ帰りであります。
なんといっても日本では、車の傷を直すという行為に関して、現実に、人と物と金が相当の量、動いているのでしょう。もしもそれを止めると、目に見えるほどの経済縮小が起こってくるようにも思われます。
それはファッションとか、観光とかと同じく、価値観の問題ですから、文化の問題として尊重したいと思います。
とは言いながら、もしも保険制度がなくて、特定の事件に、それに対応する出費が伴うとしたら、事態は変わるだろうと思うのです。
この問題は、健康保険制度、医療費無料化の条件下で、過剰医療をいかにして防止できるかと、議論し尽くされているところなのです。
去年、仙台市内にある約2万年前の富沢遺跡で、旧石器人たちがキャンプしたとき、彼らにとって命の次ぎに大事な、猟をするための石器が壊れたのを見ました。
また今度の旅行でも、3日前には、桐生の岩宿で旧石器人たちが生活していた跡を見てきたばかりです。
彼らは保険制度など持っていなかったでしょう。事故は自分持ちです。
今回の追突事故では、相手も、警察も、レンタカー屋も、保険屋も、そしてこの有り難い御代に生きている私も、普通の日本人として、ごく普通に円満に、常識の輪の中を泳いできたのです。
普通の人類は、アンケートの「自然環境保護は大事ですか」という項目には「はい」と答えるものです。その反面、自然保護は他人がするもので、自分の行為が関係するものだなどとは、思ってもみないものなのです。
それは社会のスケールが大きくなったために、原因と結果を結びつけて考え難くなったこと、また豊になったためにギスギスしなくても結局なんとかなってしまうことなど、幸運に恵まれたお陰でありましょう。
旧石器時代に、数家族単位で、食うや食わずで彷徨っていれば、因果応報はたちどころに現れたはずです。
ともあれ、敗戦で何もかも失い、物が貴重だった時代を知っている私だけが、こんな変な理屈をこねてみたのです。
まことに、老人というものは困ったものであります。
・ふたりして見し雪笹にまた会ひぬ