2002/5/22〜24
日付:2002/6/5
●大峰奧駆け紀伊半島は大きな半島です。
半島の南部には果無山脈のように東西方向の山脈もありますが、北部は南北に長い山脈が3列、並んでいます。
一番東側の山の連なりが大台ヶ原や高見山を含む大高山脈、真ん中が大峰山脈、西に高野山、伯母子山の山脈であります。
紀伊半島の最高峰は大峰山脈の八剣岳1915mで、標高としては、そんなに高くはありません。しかし、隆起速度が速く降雨量が多いせいでしょう、非常に峻険な谷を持っています。
なかでも山上が岳は険しくて、山伏が修行を行うには、絶好の地形であります。大峰山信仰は7世紀後半、役行者によって開かれたとされます。
大峰参籠は上方の男たちの成年になる通過儀礼でありました。
先達に連れられて登ってきた若者たちは、覗きと名付けられた絶壁から、下を覗かされます。
体には縄が掛けてあり安全ではあるのですが、ズルズルと崖の端に降ろされ「親の言うことを聞くか」など、脅されるのが行なのだそうです。
紀ノ川の上流である吉野川の直ぐ南の吉野山から、半島南端の熊野大社まで険しい山の稜線づたいに南下するのが、大峰奧駆けで、これも修行のひとつになっています。
昔は全行程を歩き通すのに、2ヶ月もかかったいわれます。
今回、私たちは、大峰奧駆け修験道の北部、4分の1ほどを、逆コースで歩いたことになります。
まず、大普賢岳で主稜線に取り付き、北上し、山上が岳、大天井ガ岳を経て吉野山に入り、蔵王堂に詣で、ケーブルで近鉄吉野駅に下りたのです。
謡曲に「嵐山」という曲があります。この曲趣は、京都嵐山の櫻は吉野の櫻の種を採ったものだと説き、褒め称えるのです。
その曲の中で、吉野を語るのに、笙(しょう)の岩屋、青根が峰、子守勝手、蔵王権現などの言葉が出てきます。この地名は、今回の旅のなかで、全部足で踏みました。
能が完成をみた15世紀頃の都人にとって、これらはすべて人口に膾炙した地名だったのでしょう。
今回、ご一緒させていただいたのは、鈴木さん、辻さん、堀さんで、いづれも元中部電力山岳部員で、現在も日本山岳会のメンバーです。
私などとは比べにならないほど頻繁に山に登っておられます。
みさんベテランですが、それぞれ個性的な山登りのパターンを持っておられます。
堀さんは求道的ともいえるピークハンターです。事前に、地図からピークを克明に拾い出され、克明に登られ、そして克明に記録を取っておられます。
既に1100山を越すピークを稼いでおられ、いつ、1500に達するだろうかが周囲の関心の的になっております。
辻さんは若い頃からの本格的登山家で、昨年もヒマラヤのガングスタン峰(6162m)に登ってこられました。
鈴木さんも本格派です。そして鈴木さんはタダ登るだけでなくて、山スキー、ラフチング(カヌー)など、幅広く自然を楽しんでおられます。
そうそう、今回、同行した鈴木さんがこの大普賢岳で
《大普賢 子あり孫あり 山つつじ》
という句を詠まれました。大普賢岳は、周りに子普賢、孫普賢という名のピークを従えているのです。
今年、ここ大峰でも、季節は例年よりも先行しているようでした。ちょうどいま、標高1700m地点では、木の芽が、ほぐれ始めたばかりの状況でした。
登山路のあちこちで、シャクナゲ(石楠花)が見事に咲いていました。
その様子を見て、鈴木さんは《大普賢 子あり孫あり 石楠花》
としたかったのだそうであります。でも、シャクナゲでは4音で調子が悪いので「山つつじ」と5音にしたとのことでした。
あとで考えてみると、《石楠花や 子あり孫あり 大普賢》にすれば、一応シャクナゲを詠み込めるように思いますが、いかがなものでしょうか。
最初の日に、名古屋から近鉄で大和八木までゆき、あと奈良交通のバスで、山脈の東側を通っている東熊野街道を南下しました。そして、新伯母子トンネルの南口に当たる和佐又口バス停で下車しました。
30分ほど舗装道路を歩いたあと、山道にはずれ、約1時間歩き、スキー場のヒュッテに着きました。ここは、今どき珍しいリフトのないスキー場なのです。
荷物を置き、空身で和佐又山(1344m)を約1時間で往復しました。
和佐又ヒュッテまでは車が入るので、若者たちの合宿などによく使われているようです。3段ベッドがあり、大勢泊まれるようになっています。お風呂もあります。
翌朝は6時にヒュッテを出ました。
ここから大普賢岳(1779m)までが、険路であります。
大普賢岳だけ登るのに、このヒュッテから往復する人が多いようです。「大普賢岳の帰路に墜落事故が頻発しています。山頂で十分に休息して、疲労回復を待って下って下さい」と張り紙が出ていました。
この登山路には、何々の岩屋と名付けられた、頭の上に岩がかぶさったような、奧駆け行者たちの仮泊に適した地形が何カ所もあります。そんなところは、垂直の絶壁を通り越して、オーバーハングになっています。
そのように、たしかに地形は険しいのですが、固い岩に刻まれた道はしっかりしていて、一見、危険はないように見えます。
大普賢岳を直前にした、小普賢からの急降下地点には、こんな鎮魂の歌が掲げられていました。
鎮魂歌 若きリーダーに捧げる
若き命を春まだき
残雪崩れる小普賢の
友を庇ひて千尋の
渓谷に散りし君は今
白き墓標とかわりたり
散りにし君に父母なきや
故郷の乙女は君待ちて
還らぬ日々を泣きぬれて
山ゆく仲間は永遠に
君を想うて歩むなり
雪消え風もおさまりて
日本ヶ岳は晴れるとも
うらみは残る地獄谷
間もなく開く石楠花を
君に捧げて弔うらん
この地点には、もう一件、別の遭難の慰霊碑がありました。道はしっかりしているのですが、雪があったり、疲労でつまずいたりすると、地形そのものは険しいので、思いがけない事故につながるのだと思われます。
名古屋は青葉、和佐又ヒュッテは若葉でしたが、大普賢の頂上は明るい日差しに木々の芽がやっと動き始めたところでした。
ここまで来れば、遠くの山上が岳頂上に大峰山寺の三角の屋根も見えました。標高差でいえば、80mほど向こうのほうが低いのです。多少のアップダウンしかないと思えば、ルンルン気分になろうというものです。
ピークを下ったところは、尾根がちょっと広くなっていました。
ぶな、かえで、こなら、もみ、などいろいろの樹が、ほどよく点在する気持ちの良い場所でした。意気込んで歩いていた、いにしえの修験者共も、こんな所では、鹿の踊り場とでも名付けたかったのではないでしょうか。
やがて柏木の集落から上がってくる道との、出合いに着きました。
ここには女性禁制の結界がありました。
ちょっとした門があって、看板が2種類立っていました。
ずっと昔から立っている大きな看板には「宗教上の定めで、この先、女性は入っていけない」と、日本語と英文とで書かれています。
ところが今回は、それとは別に、新たに作った看板も追加されていたのです。
その看板には「最近、一部の報道機関が女人禁制が解除されたと伝えたが、当山ではそんなことを決めたことも発表したこともない、依然として女人禁制である」旨が記されていました。
まだ11時でしたが、朝飯は5時に食べたのですから、ここで昼飯にしました。
昼飯は、全部堀さんが用意してくれました。おいしいパンがメインですが、毎回、チーズだとか鯖の味噌煮の缶詰にフルーツなど、いろいろハイセンスな副食も付きます。
山上が岳に着く小1時間ほど前に、小笹の宿を通過しました。水の豊富な場所で、無人ですが泊まれる小屋や、行場がありました。
そして、13時には、もう山上が岳の大峰山寺に着きました。
堂々たる本堂です。その暗い中で、私は賽銭を投じ手を合わせました。
「中はダメ!」と激しい声が飛びました。
その声に、私は怯んだのです。賽銭箱に行く手前に香を焚く鉢があったのですが、それより奧に入ったという意識がありました。
ところが実は、警告の対象は私ではなくて、ビデオを撮っていた人がいたのでした。
でも、私は鼻白んで、拝むのは止めました。そんなにしてまで、拝ませて頂かなくても結構、私の信仰心はその程度なのです。
燦々と日の降り注ぐ山頂の1等三角点を囲み、シナい蛸の姿焼きを囓り、ブランデーを啜り、お喋りしながら自然環境を楽しんでいました。
それもほどほどにして宿坊に入ったのは、まだ午後2時でした。
宿坊では、東側にある見晴らしの良い部屋を使わせてくれました。
美しい三角錐の高見山、その左に尖った尼ガ岳、双こぶラクダの背のような大洞山、登ったことのある人にだけ分かる三峯山、学能堂山などが見えていました。
暗くなるのを待って寝たのですが、まだ18時過ぎでした。それから翌朝5時まで、久しぶりに重い綿の布団に押し潰されながら、長い夜を過ごしました。
山上が岳から吉野山までは、標高差1300mほどの下りの道です。しかし距離は26kmほどと十分あります。
途中、大天井岳と四寸岩山で、それぞれ標高差200mほどの登りがありました。
それにしても、四寸とは約12cmです。12cmの岩というのは、あまりにササヤカです。四寸岩山とは、なんでそんなに遠慮したの?と聞きたくなる名前ではありませんか。
吉野山の町内に入ってからは、舗装された急勾配の下りでした。
それが疲れた腿には、妙にこたえました。
堀さんの計測によれば、1日目と2日目で24000歩、第3日は35000歩の歩行でした。
・大峰は若葉溢れて行者の碑
●オプション
吉野山から熊野へ抜ける大峰奧駆けは、行者の修験道ですから、途中各所に行場が配置されています。
しかし、奧駆けをする修験者たちにとって、ピーク・ハンティングは興味がなかったようで、修験道は必ずしも頂上を通っているわけではないのです。
たとえば、今回、我々の縦走の目玉だった大普賢岳は、孫普賢岳、子普賢岳と名付けられた小ピークを従えていました。でも、孫普賢、子普賢の山頂には、登山道は通ってはいないのです。
こんな時、堀さんは修験道をはずれ、克明に、あるかなきかの踏み跡を頼みに、頂上を踏んでピークをハントするのです。
彼等のグループでは、その行為を海外旅行のそれに見立て、オプショナル・ツアー、略してオプションと呼んでいるのでした。
もっともそれは、時として「なんだ、また、道草を食うのかね」といわれることもありました。
確かに登ったピークの数は増えますが、時間はかかるし、エネルギーは消耗します。オプションと呼び、道草と称することで、この行為が、グループの中でどのように位置づけされているが、なんとなく察していただけるでしょうか。
私自身は、ピークハントとはまた別の意味で、こういう道のないような登高の探検気分が大好きなのです。
こんなにして今回登ったオプションは、日本ガ岳、子普賢、小普賢、阿弥陀の森、龍ヶ岳、大天井ヶ岳、四寸岩山、青根が峰でした。
・せせらぎの何時しか消えし若葉道
●女人禁制
大峰山は、大峰行者たちが修験をする行場であり、大峰山寺本堂がある山上が岳を中心とする核心部は、今でも女人禁制です。
登山道のしかるべきところには、立ち入りを禁止する旨の書かれた2種類の看板が立っていました。
宿坊に到着したとき、娑婆の宿屋のように女性が出迎えてくれるわけではなくて、だいぶ耳の遠いお爺さんと若者が応対してくれました。
正直の話、まるで女気なしだと、何となしに違和感が残ったのでした。
下山の日は、平日でした。
朝6時に宿坊を出てから、道中、数時間、女性はおろか人っ子ひとり、会いませんでした。
午後3時近くになり、吉野山の街まで出てきて、2日ぶりに観光客のおばさんたちを見ました。
久しぶりに女性に会ったとき、意外に新鮮な気持ちがしました。
私たちの年代は、男女6才にして席を同じうせずとかいう社会ルールがまだ尻尾を引きずっていたのです。
小学校では5年生になると、松組と櫻組とが男、梅組と桃組が女と分かれてしまいました。ましてや、もっと年長の学校では、すべて、男は中学校、女は女学校というように、男女、はっきり分かれていました。
そういうわけで、私にとって女性は大学にいたるまで遠い存在でしたから、ある意味では、いつも憧れの対象でありました。悪くいえば、見ぬもの清しということかもしれませんが。
現代では、性差別するなんて、とんでもないことだと、一蹴されることでしょう。
また、実際、伝えられるアフガニスタンのタリバンのように、女性は学校へ入れないというような差別の仕方は、おおよそ、どの社会でも受け入れられないでしょう。
でも、私は男女分離もケース・バイ・ケースで、それぞれ一長一短があるのだと思います。
現代でも、カソリックの修道院と修道尼院はそれぞれ厳密な異性禁制なのだと思います。
また、アングロサクソン系の人たちは、夕食後にスタッグ(雄鹿)・パーティーと呼ばれる時間を設けることがあります。そのパーティでは男だけ集まり、パイプを燻らせ、男だけの話をするのです。
聞くところによれば、世界で最も古い山岳会である英国の山岳会では、最近まで女性の入会は受け入れられませんでした。
これらの例を考えると、人間という生き物は、いろんな生き方ができるというべきだろうと思うのです。
ところでこの日、山上が岳の山頂にある女人禁制の大きな宿坊、櫻本坊に泊まったのは、われわれ4人だけでした。
この宿では、精進料理が、今どき珍しい立派なお膳に乗っってきたので、大感激でした。前夜の和佐又スキー・ヒュッテではペラペラしたプラスチックの使い捨ての容器に盛られていました。それと比べて、実に、大違いの重々しい雰囲気でした。
宿坊の料金は、現在、一泊二食6000円でしたが、来年から7000円に値上げすると予告する紙が貼ってありました。
今どき珍しい料金値上げです。さぞかし、台所は苦しいのでありましょう。
宿坊の人は、今週末の土・日には、かなり予約が入っていると言っていました。でも、いくら我々のような年金族がウロチョロする世の中だといっても、平日に訪れる男性は数少ないはずです。
女人禁制の束縛さえ外せば、元気が良くて、金離れのよいおばさまたちが、元女子禁制のブランドに引かれ、ドット押し掛けること必定であります。
日本人の信仰心の低下には目を覆うものがあります。
読売新聞のアンケートに拠れば、何かの信仰を持っているものは人口の22パーセント、20歳代では僅かに7パーセント、70歳以上でも31パーセントと前年より6パーセントも下がっているとのことであります。
ここはひとつ女性にも解放し、ドンと押し掛けて貰ったら助かるだろうなど考えるのは、私の下司のカングリに違いありません。
げに、信仰というものは、恐ろしいものであります。
娑婆では、今や規制撤廃、なんでもあり、ともかく儲かればよいというわけで、人間尊重をよそに、人員整理がゴリゴリと押し進められています。
また、地球温暖化防止を世界に約束した日本政府でさえ、値段さえ安ければというわけで、炭酸ガスを沢山出して作られた電気に、供給先を切り換える時代なのです。まこと宗教とは、尊い、浮き世を離れた別世界なのであります。
・吉野にて櫻正宗てふ酒を
●旅の徒然
和佐又ヒュッテでは、季節の珍しい山菜をいろいろと食べさせて下さいました。タラノメ、ヤマウド、ヤマブキ、ギボウシ、コゴミ、ナンテンハギ、などです。
ご主人は話し好きの方で、私たちの夜の無寥を慰めて下さいました。
私も犬好きですから、ご主人が話した犬のことが頭に残っています。
「ここへ家族揃って車で来る人たちで、犬を連れてこない人はない」と仰るのです。
「犬だって自然に触れないと、心が安静にならないと思っているからでしょう。
だだ、訪問客たちは、ここのような自然の中では、動物がフンをするのは当たり前だと思っているらしいのです。それで、後始末をしないまま帰ってしまうので困ってしまいます。
今は、たまたま、うちにも犬がいて、それが年をとって耄碌し、ふらふら歩いてはあちこちでフンをしてしまうのです。だもんで、自分のうちの犬の分と一緒に、日中はフン拾いに追われてます」。
「今夜、犬の鳴き声が気になるかもしれませんが、勘弁して下さい。なにせうちの老犬は人間の痴呆と一緒で、壁に向かって、まるで相手がいるかのように吠えるんですよ。幻覚を見ているんでしょうね」。
もうひとつ、ご主人による、当節の男女観です。
このヒュッテまで来るのに、男は昔流に、電車、乗り合いバスと公共交通機関を使い、最後は約1時間半、山道を歩いて入ってくるのだそうです。ところが、女性は、電車を降りてからタクシーを飛ばして小屋まで入るのだといいます。
男性よりも、往復で4時間も時間を節約しているとのことでした。
そう言えば、今回の旅の最後のシーンは、次のようでありました。
花の吉野も、この5月中旬の時期はすっかり葉桜になっていて、人影はまばらでありました。
われわれが訪れたのは平日でしたから、目につくのは、もうほとんど女性ばかりといってもよいほどでした。
彼女らは、われわれの敗残兵同然の哀れな姿と引き替え、例外なしに美しいウエアに身を包み、お土産で脹らんだ紙袋を、ぶら下げておられるのでありました。
吉野駅から大阪行きの特急と鈍行が2分違いで発車しました。
特急に乗るのは、美しいおばさまたちであります。
鈍行に乗ったのは、哀れ悲しきわれわれオジンでありました。
・短夜や壁にもの言う痴呆犬
●列車通学
そういうわけで、帰路、吉野から普通電車に乗りました。
午後3時過ぎでしたから、学生さんたちが、次々と乗り込んできました。
かなりの時間と交通費のかかる列車通学は、子供にとっても親にとっても負担であります。
でも、自分の中学校時代を振り返ってみると、列車通学の連中は、お互いの連帯が密で、結構楽しそうにグループを作っていたように思います。
中央線で通っていた連中は、いまだに中央線会などという会を作って、楽しんでいるようです。
さて、今度の旅では、我々の乗った鈍行電車にまず乗り込んできたのは、男子生徒たちでした。
我々の座った車両の前のほうで、いじめっ子がいじめられっ子をいじめていました。
襟首を掴んで、シートの後ろの壁に頭をドカンとぶつけたりするのです。
男の子だから、随分、手荒なことをするのですね。
そのとき、「やめろ!」と、ドスの利いた声が響きました。
いじめっ子は、ばつが悪そうにして、前の箱に移ってゆきました。
たしなめた声の主は、我々の仲間の堀さんでした。堀さんは、平生は無口で物静かな学究肌の人なのです。この勇気ある行為を見て、それ以来、私は堀さんをすっかり尊敬してしまったのでした。
何番目かの駅で、女子生徒たちも乗ってきました。
お化粧が始まりました。ある子は、付けまつげをつけ始めました。
そうかと思うと、ルーズソックスを履き始める子がいました。学校にいるあいだは、禁止されているのでしょうか。
私は、あのよく見かけるルーズソックスは、こんなふうにして履くのかしらと、珍しがって観察していました。
ショートスカート姿であぐらをかくようなものですから、本人も心得たもので「おい、00子、見えないように座っててくれ」など、命令を下すのでした。
通路にベタッと座り込む女の子もいます。
車掌が飛んできて何か言いました。
「あんた、なんて言われたの?」「床に座るなと、願われちゃった」こんな女の子たちの会話でした。
デンと鞄を座席に置き、通路に足を突きだして悪ぶっていた男子生徒に、女生徒がどけなさいと言ったようでした。
姉と弟かしらと思われるほど、その堂々とした命令のしかたと、むくつけき男子生徒が唯々諾々と従う様子には、私としては身につまされるものがあったと白状いたしま
す。このように、必然的に次代を構成することになる若い人たちが通学電車の中で振る舞っている様子は、いわゆる良い子のそれではありません。
むしろ、親や教師に対して反抗的で、一見、反社会的な態度といえましょう。
でも、これを見て、日本がおかしくなってしまったなどとは申しますまい。私たちが若かった頃にも、未成年なのに隠れてタバコを吸う仲間がいました。
その頃の彼等にとって、煙草が美味しいというより、指導者に反抗することが格好良いことでありました。
70才を越えた今となって、当時の反抗族たちが過ごした一生を見ると、なかには結構社会に貢献した者がなかったわけではありません。
かといって、良い子グループより優れているわけでもありません。
もとより奨励するようなことではありませんが、かといって、まるで末世が到来したように慨嘆することでもないようです。
ともかく、こんな若さのパフォーマンスを、かつは珍しく、かつは面白く見物させてもらったのでした。
・犬連れて農夫同士が青田中