日付:2001/2/18
●パプア・ニューギニアニューギニアは、グリーンランドに次いで、世界で二番目に大きい島なのです。その島の東半分がパプア・ニューギニアという國なのです。
赤道と南緯10度との間にあり、日本の真南よりちょっと東に寄った位置にあります。
島の半分といっても、パプア・ニューギニアの面積は46万平米余、日本の37万平米よりも大きいのです。
それでいて、人口はたったの400万人に過ぎません。
ここに4万年ほど前に、人が住み着いたといわれています。メラネシア系の人であります。
ヨーロッパ人が最初にコンタクトしたのは16世紀始めですが、19世紀後半に、ヨーロッパ諸国による植民地獲得競争が激しくなった頃から、本格的な関係ができたのでした。
島の西半分はオランダがとり、現在はインドネシア国のイリアン・ジャヤ州になっています。
島の東半分の北側はドイツ、南半分はイギリスがとりました。今度登ったウィルヘルム山は、ドイツ人が名を付けたのでしょう。その後、第一次大戦でドイツが負けたので北側もイギリスの勢力範囲となり、植民地解消の時代を迎え、1975年,ついに独立を獲得したのです。
コーヒー、ココア、コプラ(椰子の実)、銅などを輸出しています。
今回訪ねた1月始めは、雨期の最中であります。
熱帯の雨期は、日本の梅雨とは違って、ジトジト降るのではなく、激しい夕立が毎日来て雨量が多くなるのだと書いた本がありました。
また熱帯では、年によって気候の様子がすっかり変わるので、最低2年は住まないと、ああこう言うべきではないと書いた本もありました。
私の体験だけ言えば、5日滞在していたうちに、ジトジトが2日、夕立が2日ありました。
昨年オーストラリアを旅していたときに、南半球では、真昼に太陽がある方向が北だと、自分にくどく言い聞かせていましたが、ここニューギニアのように赤道に近いと、1月という時期には太陽はさらに南にあり、理屈の正しさを面白く思いました。
ニューギニアに、なぜ人口が少ないのか、大変疑問に思いますが、どうしてもそのすっきりした理由は分からないのです。
私が行った地方は、山が多いことは分かりましたが、世界地図で見ると、この國には平野だって結構あるようなのです。その平野がどんなになっているのか、まったく分かりません。
全体に、温度、降雨、日照には恵まれていると言って良いでしょう。似たような緯度にあるジャワ本島の人口密度は、世界のトップクラスなのです。この違いは、一体何が原因になっているのでしょうか。
ある本には、今より約300年ほど前、在来のタロ芋にくらべ低温でも栽培できるサツマ芋が導入されてから、ニューギニアの人口は爆発的に増加したと書いありました。
また、オーストラリアに似て大型動物がいなかったために、タンパク質が不足し、昆虫や蜘蛛まで食べたり、また、そのために食人の習慣さえあったのだとも書かれていました。
日本でも縄文時代には、最も温暖で繁栄した前期末さえ、人口は26万人に過ぎなかったという説があります。
食料生産技術と医療技術のレベルが上がれば、この国は、もっと沢山の人間を養える土地のようにも思われます。
・初旅行用心召されニューギニア
●ポート・モレスビーへ
日本から、パプア・ニューギニアまでの定期便はなく、私たちは正月休みを対象にした関西空港からのチャーター便を使いました。
使用機体はエアバス・310−300,満席でした。
ウィルヘルム山への登山客が2組、ほかにはブッシュ・ウオークやダイビングの若い人たち、そして戦没者の慰霊団の人たちのようでした。
21時46分離陸、翌朝4時42分着陸でした。飛行時間は6時間ですから、日本の真南より時差1時間分だけ東に寄っているのです。
乗客は100パーセント日本人でした。
人口1億1千万の金持ちの國と、人口400万の国との間の交通機関では、こういうことになるのでしょう。
パプアというのは、マレー語で髪が縮れていると言う意味なのだそうです。
ギニアはアフリカの國の名前ですね。
ですから、パプア・ニューギニアという国名は「髪の毛の縮れた、新しいギニア」ということになり、まるで日本のことを「チョンマゲを結ったニュー・中国」と呼んでいるような、失礼なことだと書いている人がいました。
そう思って見ると、飛行機に乗っている客室乗務員たちは、多かれ少なかれ縮れ毛でした。
人種的にはメラネシア系なのだそうです。
旅を終えた今思い返すと、短い期間だけ滞在した印象としても、パプア・ニューギニアには、大変にいろんな顔つきの人がいたように思われます。
近年まで各部族が外界との交流が少ないままに住んでいて、人種的に均質化がまだ進んでいないのではないかと思うのです。
その中で、航空会社の客室乗務員としては、全体から見て、ニューギニア人らしい特徴が希薄な顔つきの人を採用しているように思いました。
我々はポート・モレスビー空港の国際線の玄関で、三菱ローザというミニ・バスに乗せられました。
前もって渡されていた旅行スケジュールには、ここから国内線でマウントハーゲンに飛ぶように書かれています。
「このバスに羽が生えて,飛ぶんとちゃうか」と誰かが言いました。
バスは、空港の前の小山の麓など廻って、500mも走ったでしょうか、先ほどの国際線から、100m弱離れた国内線玄関に、ぐるっと廻って着いたのでした。「これも地元に金落としとるんやろ」と、日本人もすっかり大人になったものです。
待合室で待っていると、カウンターの前で激しい怒号が起こりました。恐ろしいニューギニア丸出しの顔つきの男が、なお恐ろしい形相で食いかかっているのです。
その原因は、予約の受け付け過ぎ、つまりオーバー・ブッキングなのでした。
ところがこれは、他人事ではありませんでした。我々も、2時間後に予定していたマウントハーゲン行きの便に乗れなくなってしまっていたのです。
我々のリーダーは、もう、デスクにへばりついて、航空会社と談判してくれていました。
その結果、4時間後のマダン行きの便を、途中でマウントハーゲンに寄り道させることに成功しました。
言ってみれば、羽田発名古屋行きの便の経路を臨時に変更して、途中、我々だけ金沢で降ろしてくれるようなものなのです。
この國では、スケジュールだけでなくて、ほかの決めごと総てが、搗き立ての餅のようにブヨブヨしているのかもしれません。
機体はフォッカー28、60人ほど乗れる大きさで、胴体後部に2つのジェット・エンジンが付いていました。
山から戻り帰国する日の午前中に、ポート・モレスビー市の観光をしました。
市は、この國の政治、経済の中心地で、人口は30万人といっています。
旧来の社会の中に、新しい変化が急激に持ち込まれていて,色んなものが、チグハグだという感じは否めませんでした。
ワイガニ地区は、官庁街、丸の内であります。
バスで回り、国会議事堂、国立図書館始め、政府の省庁の建物などを、外から見せてもらいました。
それらの建物は、なだらかな丘陵地帯に、ゆったりと配置されていました。
建築は、近代的というよりは、未来的とさえ感じられました。
街の中央から海へ突きだしたパガ岬の高台には、昔の砲台の跡があり、絶好の展望になっていました。
そこに立った私の目は、足下の市街地を越え、ついつい、遠くの山並みに走るのでした。
1942年9月、あの山並みを向こう側から越え、この街の灯が見えるところまで来ていながら、敗退していった日本軍のことを思っていたのです。
丘には、名も知らぬ大木が、溢れるほど、真っ赤な花をつけていました。
コキ地区のマーケットを見物しました。
某電機会社のコマーシャルに出てくるような大きな木の下に、商品を並べていました。
もちろん、周りにはテント張りのお店も沢山ありました。
食いしん坊の私は,新鮮なカツオ、サツマイモ、ジャガイモ、バナナなどに食指が動きました。でも、この年齢では、もう単身赴任して自炊することなんかなさそうなのが、残念です。
珍しいことに、カニと並んでカメを沢山売っていました。両方とも紐で縛って山のように積んでありました。日本でもスッポンを食べるのですが、やはりちょっと異様でした。
魚屋の盤台の上には、赤ちゃんがハンモックに入れられ、揺れていました。もちろん、赤ちゃんを売っているのではありません。
バナナが各種、長いのや短いのや、緑、黄色など、広場いっぱいに並べてありました。
全然興味が湧かなかったのは、ドレスの売場です。原色のドレスが、ロープに洗濯物のように翻っていました。
近くの海岸には、モツ族の水上村落がありました。
海中に細い木の柱を組み、その上に家を造っています。
面白かったのは、この人たちは、陸に上がってもやはり細い柱を組んでその上に住居を構えるのです。家の下は風通しのよい空間になり、結構、快適そうでした。
湾内に沈没した貨物船の残骸が見えました。第二次世界大戦中、日本の空軍に撃沈された連合軍の貨物船なのだそうです。
この島の周辺の死闘で、両軍合わせて膨大な数の艦船、そして人命が失われたのでした。
私は赤錆びた船の残骸を、墓標としての想いで眺めていました。
・黒南風や沈船すでに半世紀
●ウィルヘルム登山
真夜中の12時に起床、ツアー・リーダーが日本から持ってきてくれたカップうどんを美味しくいただきました。そして午前1時の出発です。
13人のパーティーに現地ガイドが4人つきました。最初は、3人おきにガイドが入るという整然たる体勢で出発したのでした。
真夜中ですから、みんなヘッド・ランプで足下を照らしながら歩いて行きます。
ピウンデ湖畔を過ぎると急な登りになります。
多少幅のある立派な滝の横を登ると、上にあるアウンデ湖につきます。
ここまで約1時間、ここで最初の休憩をとりました。
上の湖アウンデという言葉が男を、下のピウンデが女性を意味するのだそうです。
「男は一家のヘッドだから」とガイドが言いました。もちろんガイドは男です。
この地点までは、高度順化のため、昨日午後にも、前もって一度登ってきたのでした。
その同じ道なのですが、昨日はトントンと飛び越せたところで、今朝は踏み外し小さな川にドボンと落ちたりしました。
昨夜来の雨でぬかるみがひどくなったのか、暗くてよく見えないせいなのか、それとも今日は1日分の荷物を担いでいるからなのか、ともかく滑りやすく落差の大きい泥の坂は、難行苦行の連続なのでした。
息が収まると、出発です。
そのうちに私は便意を催しました。
大便には規則的な体質なのですが、今回の旅では空港でガタガタしたりして、本当の便意ではなく、時間の割り振りで用を足していたのです。
そして、順調ならば今日の行動を終わり小屋に帰るまでは、しなくてすむ予定だったのです。
山屋は排便のことを「キジ打ち」と言います。それは、草原で鉄砲を構えるスタイルで、しゃがんでするからだといいます。人類は、その発生以来400万年間も、ほかのほ乳類と同じく、自然のリサイクルに任せる方式で処理してきたのでした。
しかし、人類という動物の個体数が異常に増加したため、最近の自然保護では、登山中に排出した大便は自分で持ち帰るべきだと言われるところまで来ています。
その点で申し訳ないことですが、この私の場合、地震のような突発事態で、ほかに選択肢がなかったのです。「出物、腫れ物ところ嫌わず」というではありませんか。いずれにせよ、もし我慢して体調のハンディになるようなら、早めに済ませておくべきことは、いうまでもありません。
団体行動ですから予定外のストップは、ほかのメンバーに迷惑をかけることになります。しかし、次の休憩まで待って、明るくなってから、樹林帯を抜けて身を隠す影もない所で屈むよりは、このあたりの木の間で済ませてしまった方が賢明であろうと愚考しました。
そこで「トイレット、トイレット」とガイドに言いました。
道からかなり外れたところでしゃがんだつもりだったのですが、後続の連中に「何だ、何だ」とヘッド・ランプで、何度も照らされました。
もしも病的な下痢だとしたら、この長丁場の山では脱落に結びつくと言えるでしょう。
欧米以外の海外では、生水は飲んではならないというのが常識です。ところが、パプア・ニューギニアに入った最初のロッジで、温水器のお湯がなかなか沸騰しませんでした。それで、とうとう待ちきれずに、50度Cほどに暖まった時、まだ早いかななどと言い合いながら、飲んだことがあったのでした。
その時の引け目があり、少々不安がありました。
あいつもこれで終わりだ、ほかの隊員たちはそう思っていたと想像します。
ところが、有り難いことに下痢ではなくて、固いのと柔らかいのが交互に交じったような、食べたものの履歴のような便が、いっぱい出て、すっきりしました。
ひとしきりズルズルの泥の坂を登った後は、多少岩っぽい登りになりました。こんな場所では、一旦ガイドに離されると、ルートが分かり難くなるのです。
私の組では、前の2人がガイドについてドンドン行ってしまいました。遅いメンバーに気を遣って付き合っていると、自分たちまで登れなくなると判断したのでしよう。
私の後から来るメンバーたちは、そんなに早くはありませんでした。
彼らも小屋をスタートした頃は、無理して頑張っていました。でも、全行程の20パーセント辺りに当たるこの地点では、しかるべきスピードに落ち着いて来ているのでした。
私は、しばらくはこのグループのトップにいて、ペース・メーカーのつもりで登っていたのです。
なんと、このグループのガイドはランプを持っていないのです。それで、私がヘッドランプで先を照らしてやるとガイドが高度を稼いで立ち止まり、次ぎに私がガイドが止まって待っている場所に追いつく、そんなペースの登りをしばらく続けました。もう、4000mを越えた地点ですから、どうせスイスイとは登れないのです。
そのうちにガイドの様子が変わりました。メインのガイドが、若いのに「お前がやれ」という感じになったのです。
道も歩きやすいトラバースに入ったのです。大した所じゃないから若いのに任せる、という気なのかと思いました。
ところが次のガラ場にかかるとメインのガイドは「止まって、後の連中を待とう」と言って座り込みました。
そのうちに、よその旅行社のうちで足の早いグループが、どやどや通過していったようででした。ともかく、暗闇の中ををヘッドランプが過ぎて行くのです。情勢はよく分かりませんでした。
気がつくと、年かさのガイドは見えなくなっていました。
このガイドには、その後頂上近くで会いました。
彼は先に行って、われわれグループのうちの快速組が、岩場を通過するのをサポートしていたと言っていました。
彼は、私たち鈍行グループの様子を見ていて、この連中は途中でギブアップしてしまい、頂上には登れないなと、見限っていたのだと想像されます。
6時、薄明るくなってきました。
どうやら、われわれが最後尾になってしまったようでした。
地元ガイドが大声で下の方とやり取りしていました。グループの1人が、体調を崩し、引き返すと言っているとのことでした。
薄い空気の中で、登りの傾斜が強いところではスピードを落とし、緩くなればピッチを上げる、例の私のペースでジクジクと登っていました。
平均すると、ほかの人とほぼ同じ速度なのですが、私は休まないだけジリジリと追い抜いてゆきました。
辺りの人たちの顔が、みんな黄色っぽい色に見えます。私だってそうなっているのでしょう。このあたりから、よそのグループに高度障害でリタイアする人が、ちょくちょく見受けられるようになってきました。
ツアー・リーダーが「ちょっと後の人たちを待ちましょう」と言いました。
6時間前出発したときの整然たる隊列が、この時はもうバラバラになっていたのです。
先行し影も形も見えない特急組4名、若いペアの別働隊2名、そしてわれわれ鈍行組6名、そしてリタイア1名と分かれたのでした。
鈍行組のひとりが「われわれ脱落ですかね」とリーダーに問いかけました。「なにか急にペースが落ちてきましたね。この辺の人たちはみんな、脱落寸前ですね。ところで高度障害の出ている人はいますか」リーダーは正直にそう言います。「空気が薄くて、息が苦しいいだけだ」と経験豊富なNさんが言ってくれました。
「バランスがおかしくなった人は、まだ出ていないようだし、ゆっくり行きますから、ついてきて下さい。ついて来られない人は帰って貰います」。リーダーは、やはり見るところは見ているのです。
ところが、次の急な登りで、私が「ついてゆけません」と音を上げたのです。エネルギーを補給しようとして頬張った、甘い甘いキャンディーにむせてしまい、苦しくって苦しくって。
平均したパフォーマンスの良い私が音を上げたのは、リーダーにとって意外なようでした。
「ま、ついてこられるところまで来て下さい」、そう言ってややスピードを落としてくれたようでした。
それからは多少の余裕を感じながら、稜線の峠を乗り越えました。
その後は、長い長いトラバースに入ります。
まるで北アルプスの裏銀座か、爺が岳あたりにいるようなムードの、支尾根を次々と越えてゆくトラバースでした。
そのうちに前方の霧の中から特急組の面々が現れました。もう、登頂を終わり引き返してきたのです。
いつも山に同行してくれているMさんは、特急組です。私に「登れて良かったですね」そう言ってくれました。
これには、下痢でリタイアもせず良かったね、ここまで来たら、あとは根性だけでも登れる、そう言ってくれているのだと理解しました。
鈍行組はこのところ、まさにこの言葉のとおり、根性だけが登り続けていて、体はそれに付いているという状態だったのです。
ついに濃い霧の奧に、槍ヶ岳のような恐ろしげな岩頭が、まるで夢の中の出来事のように薄黒く感じられました。
最後の岩場を楽しんで登り切ると、パプア・ニューギニア最高峰ウィルヘルム山4508mの山頂でした。
山頂で、若い別働隊のお二人に「随分お待たせしたでしょう」と声を掛けると、「いや、高山病にやられ、バテバテで、いま着いたとこですよ」との言葉が返ってきました。
その男性は、12年前キリマンジェロに一緒に登った人でした。私に「登れて良かったね。この山、キリマンジェロよりきついねえ」と言いました。彼も私のスタート直後のトイレを見て、脱落すると予想していたのでしょう。
昨夜は3500mの小屋で寝ています。その高さでも高度障害が出る可能性はあります。
今日も、高度4000mを越えてからもう7時間は経っています。
下山する人たちに高山病が襲いかかってきました。
高山病の特効薬は、高度を下げ、濃い空気を吸うことです。
ところが、このウィルヘルム山ではトラバースが大変長いので、なかなか高度が下がらず、空気が濃くならないのです。
「酒に酔ったように、足下がふらついて見えるんです」そう言う人もいました。
私も以前、メキシコのオリサバ山で高度障害を経験したことがありました。
その時の状態は、なんとも表現しにくいのですが、視野がイマイチはっきりしなかったのを覚えています。
幸い、今回の私には、それはありませんでした。
でも、休んだときに喉に痰が詰まった感じがして、エヘンと咳払いしようとすると、グッと吐き気が突き上げてきました。
後で「オレもそうだった、あれは過労だよ」と言う人がありましたが、高度障害の一種かも知れないと思っています。
私もこれまで、高度障害の出るような山を、かなり経験してきました。
高度障害には、強い人と弱い人があるようです。
同じ人でも、その時によって違うようでもあります。
私は高度障害にひどくやられたことはないのですが、私の場合は障害が出る以前に、もう息が苦しくて苦しくて、傍から見ていると、もう駄目ではないかと思うほど、荒い息をしなければ登れないのです。
今回のウィルヘルム登山でも、呼吸の回数については、私が誰よりも多かったのだろうと思っています。
標高が高い山の、空気の薄いところでは、体のいろいろな器官が酸素不足になり障害が出てくるのですが、私の場合は肺の酸素取り込み能力が一番先に限界に来るようなのです。
下山の途中で後続組を待っている間、降りてくる人たちを見ていると、惨憺たる有様でした。
うつろな目をして、ガイドに手を引かれてくる人、背に負われてくる人などありました。
「降りられる人は、注意して降りていいですよ」というリーダーの言葉で、ひとりで降り始めました。
私は、降りは自信がありますから、どんどん降りました。
しかし、この山はなかなかに標高が下がらず、本当に大きいなと思わされました。
かなり降って、4000mあたりまで下がると、頑丈な体つきの現地人が3人待っていました。助けは要らないか、飲み物食い物は要らないかと言うのです。
それが、結構、商売になっているようでした。
私の後から、そんな男に手を引かれた人が降りてゆきました。男は実に献身的で、裸足の自分が道から外れても、お客さんを歩きよい足場へ誘導しては降りてゆくのです。
料金は知りませんが、その様子は感激的でありました。それにしても、手を引いて貰うってどんな気持ちがするものでしょうか。かえって、恐いような気もするのですが。
お酒に酔ったようにフラフラすると言っていた人にとっては、そんなときは力強い支えなのかも知れません。
帰路は、こんな乱戦模様になってしまい、ガイドに預けた私の水と携帯食が、どこかへ行ってしまいました。深夜にカップうどんを食べ、あと少々の軽食と水を飲んだだけでしたから、午後に入ると、さすがに足が重くなり、雨さえ激しさを加え、敗残兵めいた気分になってきました。
4000mを切ったあたりに、第2次大戦中に墜落した飛行機の残骸がありました。
オーストラリアのものだとのことですが、その時は、とても時間をかけて調べるほどの心理的余裕は残っていませんでした。
最後に小屋が見えてからは、あと300m、200mという思いで、やっと帰り着いたのでした。
そう言いながらも、スパッツや靴を綺麗に洗ってから小屋に入ったのですから、年寄りというものはどんな事態になっても、深い皺の中に、こっそり予備力を隠しているものなのです。
そして早速、砂糖をたっぷり入れた紅茶を胃に流し込み、寝袋に入っては体を暖めました。
まだ行ける、まだ行けると理詰めで指示を下す頭脳に付き合って、13時間あまりも、エネルギーを絞り出し虐待された体に、こうして償いをしてやったのでした。
翌日、朝4時半に起床し、6時に下山を開始しました。
ポーターたちは、その日の朝、標高約2500mにある村を出発し、3500mの小屋まで登ってきて、その足で我々の荷物を担ぎ降ろしてくれるのです。
同じ道を、我々は日本から5000キロも飛行機で飛んで来て、金にあかしたハイテク装備に包まれ、6時間もかかって登り、その成果に大満足なのです。
彼らの気持ちは、私が毎朝、犬を連れて1時間散歩に出るときぐらいのものでしょう。
弁当持ちで遠足に行くほどの気負いも、ありますまい。
客観的に見れば、まったく逞しいガイドやポーターたちであり、それと反対の、ひ弱な登山客たちではあります。
その登山客だって、国に帰れば平均以上なのですから、上には上があると言うべきか、下には下があると言うべきかなのでしょう。
まことに世の中は面白いものであります。
・霧深き奧に岩頭あるらしく
●山の人々
マウントハーゲンの空港からガイドが同行してきました。我々一行の中のただひとりの女性が「まあ、汚い」と座るのを躊躇するようなバスでした。
バスはハイランド・ハイウエイという舗装道路を快適に走ります。
この國はイギリスに統治されていたので、車は右ハンドル、左側通行です。
道の左右には、ユーカリの大木、ポインセチアの大きな木、紫のブーゲンビリア、コーヒー畑、サツマイモ畠などが見えました。
気温は30度もあるのですが、高原で.乾燥しているのでしょう、窓からの空気は快適でした。
2時間ほど走ったところで、トイレ休憩になりました。車は相手車線を横切り、反対側のちょっと広くなったところに止まりました。
意外だったのは、運転手が早く済ませてバスに帰れと、せき立てることでした。このあたりは、治安が悪いからと言うのです。
今さらながら、ここはニューギニアなのだと思いました。
こんな感じの事件が、帰り路にも一度ありました。
道端の広場で、部落のお祭りが開かれていました。大勢の見物人が輪になって見ている中で、頭に飾りを着けた男たちが、歌いながら踊っていました。
我々としては、当然、見たい、写真に撮りたいということになります。
ところがガイドは「バスから降りちゃいかん。どんな法外な金を要求されるか分からんぞ」と言いました。
具体的に挙げればこの2回だけなのですが、全体の雰囲気から察すると、パプア・ニューギニアではまだ、小さな単位の各部族が、強い権利意識のもとに、お互いに不信感を持ち合い、張り合っているようなのです。
その様子は譬えてみれば、町内会程度のグループが、それぞれチェチェン、チモールなどの役を演じているのではないでしょうか。
織田信長以前は、日本でも村々がやたらに関を設け、通行料を徴収していたということです。
ニューギニアの人々は、ついこの間まで中央集権型の政治形態を知らなかったそうであります。大局的、長期的な判断ができない、小さなグループによる住民投票だけでは、所詮、大を成すのは無理なのです。
この國では今でも、貨幣経済に入っているのは、人口の20パーセントぐらいだという人もいます。
沢山の部族の中には、女性が農耕に従事し、男は家で炊事、育児に従事していた部族もあったそうです。面白いことに、その社会では、男性が人形に興味を示したのだと書いてありました。
最近まで、外界との接触がなく、既成概念なしに営まれていた社会は、大変に興味深いに違いありません。
ただ、お人好しの日本人、その中でもとくにお人好しの私などは、この國では、あまりホイホイするのは問題だと、心を引き締めたのでした。
バスは約2時間走り、クンディワナの街に入りました。ここはちょっとした町で、銀行もあります。
これまでは東向きに走ってきましたが、これから北に方向を変え山道に入るのです。
今までのバスを降りて、四駆のトラックの荷台に乗り替えました。
この町で荷物の積み替えをしてくれる人たちは、足が短く、顔が大きく、いかつくて、南洋土産の人形に抱いていた印象にぴったりでした。
窮屈ながら、全員トラックの荷台に収まったと思ったら、元気のよい小母さんが飛び出してきて、自分も乗るんだとわめきました。もっとも、自分でテキパキ判断し、別のトラックのほうが余裕があると決めて、そちらに体をコジ入れていました。
その時は気が付きませんでしたが、彼女こそ、その夜泊まった標高2550mにあるベティズ・ロッジの女経営者、ベティだったのです。
とにかく、元気のよい小母さんなのでした。
ロッジでは、結構な料理を作ってくれました。
「夕食は、予定より30分遅れるが、心配しなくていいよ」そう言うベティの英語は、ピジンではない綺麗な英語でした。
彼女の真骨頂は、次の日の朝、仕事にありつこうとして詰めかけた大勢の村人の中から、彼女の差配で、ポーターに起用するメンバーの名を呼び上げたときでした。
どんな基準で選んだのか知れませんが、ある女性には「後で袋を貸して上げる。あんたはこの軽いのを3つだよ」と言っているのが分かりました。
あとで実際に運んでいるのを見ると、お母さんに子供が2人くっついて、それぞれ荷物を担いで登っているのがいました。
ベティが部落の女ボスを張っていくには、村の母子家庭にも随分気を遣っているのでしょう。もっともこれは想像に過ぎませんが。
話はわき道にそれますが、子供といえば、子供でもポーターとして、結構、荷物を担ぎます。
また、友人のMさんが彼らの小屋で観察したお話を聞きましたら、子供でも大人に混じってタバコは吸うし、お金を賭けてバクチを打っていたそうです。
弱い人を労るのは、余裕ができて、始めて可能になることなのであります。
なんとその後、ベティは3500mの山の上の小屋まで登って来てまで、ポーターたちを仕切っていました。
帰りの警察の車の中でも、彼女は賑やかしていました。
そしてこんなことを言うのです。「今度来たら、ニジマスの刺身を食べさせたげるよ。
寿司はまだ作れないけど、刺身はもう造れるの。次回は山なんか登らないで、ずっと家に泊まって周りを散策するといいのよ」。
「今度日本から来るときには、若くて綺麗な女性を連れてきて、お寿司の作り方を教えて上げる」。これは私が言ったのです。
もちろん冗談ですが、でも、だれか一緒に行きたい人、まさか、いないでしょうね。
トラックの荷台に座っての旅は大変でした。2時間と聞いていましたが、実際には約3時間も掛かりました。
動き出して間もなく、雨が降ってきました。それも中途半端な雨ではなく、噂に聞くスコールというのでしょう、凄い降り方でした。
山へ登りに来たのですから、当然、日本から雨具は持って来ています。しかし、まさかトラックの荷台で降られるとは思ってもいないので、みんなは雨具を大きな荷物のほうに入れ、別途運んで貰っていたのです。
取り敢えず小さな傘を出し、隣の人に遠慮しながら窄めて入っていました。黒い雲から落ちてくる冷たい雨に、直接打たれることこそありませんでしたが、結局、ずくずくに濡れてしまいました。私が一番ひどく濡れたように感じましたが、それは全員、自分が一番ひどいと思っていたことでしょう。
行程の丁度中頃で、車が止まりました。先行していた車がバックしてくるのです。
「どうした、どうした」と言う声に応えて「道がないのよ」と運転台にいる女性の声がします。そのうちにガラガラと凄い音がして、前を見ていた連中が総立ちになりました。50mほど先の小さな沢に土石流が押し出してきたのでした。
その事態に、私もいつまでも骨惜しみしないで、立ち上がって見ました。右から道を横切ってぞろぞろと岩が流れ出し、左の遙か下を流れる本流目がけて、ぶつかり合いながら落ちていました。
後での話ですが、ツアー・リーダーはこのとき一旦、今回の登山はこれで打ち切りかなと観念したのだそうです。ポート・モレスビーの観光に1日、あとはどこに案内すれば、登山の打ち切りを勘弁して貰えるかと考えたそうです。
これも後で考えると、始めに女性が道がないと言っていたときは、右の沢から流れてきた岩が、道に小山のように溜まっていたのでしょう。その山が段々大きくなりダムのように水を堰き止め、ついには支えきれなくなって土石流として一気に落ちていったのでしょう。
そのあと、道の抉れたところに岩を詰め、我々を荷台に乗せたまま強引に突破しました。
「日本だったら絶対にしないね。キャンセル料を払っても、万一の補償を考えたらとてもできない」とみんなで話し合ったことでした。
ともかく、今度の旅行で一番の危機は、この時でした。
ロッジに近づく頃は標高が上がり傾斜も急になり、泥の坂では四駆でもスリップして車が横を向いてしまうようになってきました。
そうすると、どこにこんな沢山の人が住んでいるのかしらと思うほど、老幼も交え男たちが出てきて車を押してくれるのです。
やっとタイヤが地面に懸かって動き出すと、運転手はもうひたすらアクセルを踏み続けます。ロー・ギヤで喘ぎながら登って行く車を、彼らは走って追いかけてくるのです。
なるほど、また少し先に滑る難所があったのです。そして、彼らはよいしょよいしょと押してくれるのです。荷台の私たちの顔と彼らの顔の間はいくらも距離はありません。こうなれば「有り難う、サンキュー」、何を言っても意志は十分通じます。
この車押しは、一見、彼らにとって滅多にない面白い事件が起こり、達成感を楽しんでいるようにも見えるのでした。私たちでも、踏切の中でエンコした車を押し出すのに手を貸して、良いことをして上げたと自己満足することは考えられます。
でも日本人なら、あの泥の坂で、泥んこには絶対ならないでしょう。
「あの人たちに、運ちゃん、金出してるですかね」と誰かが疑問を提出しました。
「村にいくらか渡してるんだろうな」そんなことを言って、自分を納得させた人もいました。
ともかく、歓声を上げ車を追いかけてくる彼らには、義務感とか商売でやっているような様子は微塵も見られませんでした。
山の人たちは、車や外国人に対して、大変強い関心を抱いているのだと思います。
車で通りかかると、道端から手を振り「オイ」と声を掛けてくれます。
列車やバスに手を振る習慣は、日本の子供だけでなく、世界共通的にあるのですが、それが今度訪ねた地方では、大変派手であると言ったらよいでしょう。
車の音を聞きつけて、数人の子供が「オーイ、オーイ」と叫びながら、家の中から飛び出して来ることはよくありました。
また、私ぐらいの年格好の爺さんまでが、顔一杯に笑みを浮かべて「オーイ」と手を振ってくれるのです。ついでながら「オイ」というのは、英語の「ハイ」みたいな汎用挨拶語なのです。
もっとも、帰りの日のことです。「オイ、オイ」と声を掛けてくれる数人の子供たちに、トラックの荷台から手を振っていました。真ん中にいた男の子が、私を真っ直ぐ見ました。なにか赤い丸いようなものが見えました。
そして私の右のほっぺたを何かがかすめました。吹き矢を吹きかけてきたのです。頬が濡れた感じでしたから、掌でぬぐいました。幸い血ではありませんでした。文字通りかすめたのです。
それが恐ろしい毒矢で、そのうちに痺れてくるとか、肌が腐ってくるとかしやしないかと、数日間、心配していました。
日本に帰ってから直ぐ、鼻水が出たり咳が出たりするようになりました。
周りの人たちは、冬の寒さで風邪をひいたのだと言いますが、私には、どうしてもニューギニア原住民の毒矢が効いてきたように思われるのです。
山を下る日です。往路に懲りて、ガイド頭は大きなトラックを用意したということでした。ところが、思ったほど余裕がなくて、私は小さいトラックに回されました。
このトラックは、出発するその時まで、なにか修理をしているようでした。
先日苦労したぬかるみまで来るとタイヤがのめり込み、車が止まってしまいました。
スターターが使えないのだそうで、人手で押し出して下り坂でエンジンを掛けました。
沢山の人手がちゃんと付いて来ているのですから、有り難いことでした。
その後ちょっとした部落まで来ると、警察の車が後ろについて来ました。
日本でしたら、お上に土埃を掛けるなんて恐れ多いと、道を譲るところでしょう。でも、日本の観光客の方が上位と見たのでしょうか、一向に譲る気配はありません。
少し道が広くなってきたところで、警察の車が横に寄ってきました。
そして席に余裕があるから、こちらに乗らないかと言ってくれるのです。
お礼を言って、辞退しました。
それから10分も走ったでしょうか。ガタンと音がして、トラックは止まってしまいました。
同行のAさんのお見立てでは、シャフトが切れて、四駆が二駆になっちゃったのだそうです。
道はもう降り一方だから、なんとか動けるようでしたが、荷物は後送できるとしても、人間だけは確実に帰りたいのです。
それ見たことかということですが、こうなれば警察の車に乗せて貰うより仕方ありません。「パノラマ・カーをエンジョイしてた」など言い訳がましく言って乗り移りました。車の中には鉄砲を持ったお巡りさんが2人いて、まあ、逮捕されたような雰囲気を楽しみました。
もっとも後で若い人たちから「鉄砲」とは古い、お年が知れますねと言われてしまいました。これからは、「ライフル」と言うことにしましょう。
ところが、また5分ほど行くと、この警察の車は自動車のエンコ難民を2人追加収容したのです。ジープ・タイプのそんな大きな車でもないのに、大きなお巡りさんが前の席に3人、ギュウギュウ詰めに座りました。
ニューギニアのお巡りさんも大変です。
・母は子を子は母を好き母子草
●温暖化防止
ツアー旅行の悲しさで、どの便でも飛行機の窓際の席は得られませんでした。
従ってパプア・ニューギニアについては、管見も管見、マウントハーゲンからウィルヘルム山の間、約100kmを道路から眺めた感触しか得られませんでした。
最初に着いたポート・モレスビーの付近は、海岸になだらかな山と入り江がある地形で、瀬戸内海から人家を取り去ったらこうなるかという、たたずまいでした。
樹林は見受けられず、低い灌木や雑草に覆われていると言った印象でした。
ここは、この國としては年間雨量が少ないと言われています。それでも年間1200ミリあるのですから、そんなに少なくないとも言えます。
次ぎに入ったマウントハーゲンは、標高約1800m、赤道直下です。年中快適な気候で、軽井沢に比せられる街です。
このあたりの山容は、伊賀上野を囲んでいるような、なだらかな優しい姿でありました。ここにも樹林は見受けられませんでした。
ウイルヘルム山の周囲、約80kmの谷に沿った地域は、揖斐川の上流を思わせる、峻険な山と谷でした。ただ、比高は揖斐と較べて5割がたスケールが大きいのです。
ここでも最初は、樹林帯は見受けられず、急斜面に開かれた貧弱な畑のほかは草付きでした。
しかし、ウィルヘルム山に登る途中には、樹高20mを超える大木も交えたジャングルがありましたから、人手が入らなければ、このほうが自然なのかも知れません。
我々が訪れたときは、雨期でもあり、谷には奔流が溢れていました。
山中で、ガイドさんに、このあたりの人は何を糧にして生活しているのかと聞いたことがありました。
彼は、トマト、イチゴなど野菜を作るのだと言いました。材木を切って売ることはないのかと重ねて聞くと、高いところは寒くて駄目だが、以前、低い所では材木を出したことがあった。いまはもうなくなってしまった。海岸近くでは、いまでも伐採しているようだがと答えてくれました。
ニューギニアは大きな島ではありますが、赤道直下に位置し、かつ地形が複雑なのですから、植物の生育に必要な、温度、降雨、日照の条件は、それなりに備わっているはずです。
2日や3日眺めただけで、あれこれ言うのはちょっと躊躇されますが、モロッコの砂漠やモンゴルのステップのように、条件が悪い地域で、植林に悪戦苦闘しているのとは違って、地球温暖化防止のために植林するとしたら、こんな適地ほかにないように思われました。
そんな土地が、現在裸で、植林を待っていると言って良いでしょう。
日本人が快適な生活を続けるために、エネルギーを使い炭酸ガスを排出する代償として、ニューギニアに植林することは、グローバルには好ましいことです。登山客のポーターになりたくて、仕事を奪い合っている、ほとんど仕事のない地元の人たちならば、険しい山腹に植林する仕事でも喜ぶことでしょう。
しかし、他人に頼むことには問題もあります。
ニューギニアのことではなく、あくまで途上国の通弊としての話ですが、
現実に植林のための資金を送っても、実行までには、その國の政治の考えが入ります。
民主主義では、票がモノを言います。票が多いのは都市であります。
ニューギニアの現状でも、資金は都市に注がれているように見えました。
また、途上国では往々にして、お金は実権を持つ独裁者一族の懐に入ってしまい、その独裁者も一夜明けると、極悪人のレッテルを貼られたりするのです。
・電光とスコール集め峪激つ
●はだし
首都ポート・モレスビーで入国し、空港を歩いている人たちを観察していると、裸足の人がいるのに、まず、びっくりしました。
ざっと眺めた感じで、30パーセントほどが裸足でした。
その時でさえ、沢山のニューギニアの人たちの様子を眺めていて、履き物を履くか履かないかは、お金のあるなしやステイタスの高低と、あまり関係なく、好き嫌いによっているのではないかと密かに思っていました。
山に入って、いよいよ裸足の良さが感じられました。
ニューギニアの山行を思い返すと、なんと言っても滑りやすい泥の斜面が悪夢のように浮かんできます。
そんな時に、現地人たちの「はだし」がつけた足跡が、今でもくっきりと目に焼き付いています。
足の太い親指と人差し指が、泥の面に深く突き立てられているのです。いわば、硬い氷に鉄の爪を食い込ませているようなのです。
彼らが裸足で泥の斜面を踏んだときに、どのぐらい滑りそうなのか、足の裏の神経が瞬間的に教えてくれるのだろうと思います。そして、反射的に足の指でグリップするのでしょう。
我々の生活では靴を履いてしまっていますから、たまたま足の指が5本あるものの、たとえ3本しかなくても、つまり中身がどうであっても、そんなに変わらない使い方になってしまっています。
我々が手の5本の指を、それぞれの指が持つ得意な能力に割り振って使っているように、彼らは裸足の5本の足指を有効に働かせているようなのです。
そんなことを考えていると、もし時間が許せば、私も裸足で歩けるように、足の裏を鍛えたくさえなってきたのでした。
前もって旅行社から渡された装備のリコメンドに従って、ゴム長靴を用意して来られた方もありました。そして、それは、かなりの威力を発揮したようでした。
始めのうちは、泥の坂を過ぎ岩場にかかったら、登山靴に変えると言っておられましたが、結局、全行程を長靴で通された方もありました。
こうなると、ごつい登山靴にするか、水と泥に強いゴム長にするか、はだしでやるかは、まったく好きずきで選ぶことのように思われてくるのでした。
・春泥に指跡深き足裏かな
●ピジン語
山へ入る最初の日、バスの中でガイド頭がこんなジョークを披露しました。
「私は奥さんを4人持っています。よかったら,帰るときに1人プレゼントしましょうか」。
旅行中、同じ様な話を、もう一度聞きましたから、これが日本の男性に受ける話題とされているのかもしれません。
ところでニューギニアのガイドは、4人の奥さんと言うのに「フォア ワイフ」と言います。フォア ワイブズではないのです。
さて、19世紀末、ヨーロッパ諸国による本格的な支配の手が入ってきた頃、パプア・ニューギニアの社会は、まだ原始の姿をとどめていました。
あちこちの狭い地域に、自分たちだけの言語を持った少人数の民族が、周りとの関わりなく、バラバラと暮らしていたのでした。
ニューギニアにあった言葉の種類の数の多さについては、500とか800とか諸説あります。
そんな雑多な人たちが、一つの國として纏まるためには、共通語が必要です。ここパプア・ニューギニアの場合は、英語が選ばれたのはひとつの成り行きでありました。
その目的が、英国人と正式に話すことよりも、まず何より、お互い同士、できるだけ多くの人が意志を伝え合うことが目的なのですから,簡単、容易であるに越したことはありません。
そんなようにして使われた言葉は、本当の英語ではなく、地方化された英語で、ピジン・イングリッシュというのだそうです。
ちょっと古い辞書で引いてみると、ピジン・イングリッシュとは「中国人が使う商用英語」とあり、ピジンとはビジネスの訛りとされています。
もっとも、ピジン・イングリッシュというものは、なにも中国やニューギニアだけではなく、世界各地にあるようです。
シンガポールで使われている通称シングリッシュは、ピジン・イングリッシュの一例でありましょう。
我々の英語だって、サラリーマン、ナイターなど和製英語と言われるものがあります。
とくに最近の日本人観光客が海外で使っている英語は、ピジンの一種、言うなればジャパ・グリッシュかも知れません。
基本的に英語を採用するといっても、教育制度の整備も急には追いつかないでしょうし、現に赤ん坊から老人までいろいろの年齢層がいるのです。
その人たちも、直ぐに使えるのが望ましいのです。
ピジンには、当然、言葉として簡単なことが求められます。
各地のピジン・イングリッシュの共通点として、アイ・アムとかユー・アーのような主語と述語の一致がないとか、単数、複数がないとか、過去形がないなどの点があるとされています。
くどくて恐縮ですが、要は、簡単だと言うことに尽きます。
対照的に複雑な言語のほうも見てみましょう。
日本語も複雑だと言われますが、私にとって日本語は母国語ですから判断は避けましょう。そうすると習った言葉の中で複雑なのは、ドイツ語ということになります。
ドイツ語では、名詞が必ず女性、中性、男性のどれかに属します。単数、複数があります。そして前置詞によって1格、2格、3格、4格と区別せねばなりません。
動詞にも現在、過去、過去分詞があります。
そんなわけで、法律の条文を正確に書くには、ドイツ語が優れているのだと言う人があります。あるいは、そうかもしれません。
いずれにせよ、どんな民族にでも、いわく因縁故事来歴があって、結構、複雑な言語が使われているのでしょう。
ピジン語が生まれたのは、人類の移動が盛んになった結果と言えましょう。
今やインターネットの時代となり、情報の流通は巨大なスケールに成長しました。そして、その分野では世界の共通語として、英語が不動の位置を占めることになりました。
遠からず、全人類が母国語と英語という、少なくとも2つの言葉を使う時代がくるのでしょう。
現在の日本には、英語を話せないと自称する日本人がいます。
でもその彼、彼女だって、ハウス、イート、ゲットのレベルでは、ほぼ100パーセント英語も話せるのです。
これから50年、100年経ったら、地球上の人々の間に交わされる言葉は、どんなように変わってゆくのでしょうか。
ピジン・イングリッシュから、段々に正統イングリッシュに整備されてゆくのか、または、ある程度必要最小限に整理されて、新しいコモン・イングリッシュになるのでしょうか。
いずれにせよ、その結果を、私が生きている間に見届けることはできませんので、取り敢えず、どうなるかを考えるだけでも楽しんでおきましよう。
アフリカのキリマンジェロ山を訪ねる登山家にとって一番必要な言葉は、「ポレポレ」であります。
これは、早く歩きたがるガイドを引き留めるのに必要な、スワヒリ語の「ゆっくり」という意味の言葉であります。
同様にしてネパールでの「ビスターリ」アルプスでの「ランクザーム」などの言葉を、まず確認した人は多いことでしょう。
今回、日本から参加した一行に中に、快活な小母さんがいました。
早速ガイドさんと親しくなり、あの人、何でも教えてくれるのよと言いふらしていました。
その会話です。
元気な日本の小母さん「ユックリって、なんていうの」。ガイド「イッシ、イッシ」。
小母さん「お父さん、手帳にイッシ、イッシて書いておいて」「私のネーム、白石。シライシ、イッシ同じよ」とまあこんなように、浮かれているのでした。
こんなにして次々とガイドに聞いて、寒いはミーコールド、有り難うはタンキューなど、簡単な単語を次々と、お父さんの手帳に書かせていました。
「自分が寒い」というのがミー・コールド、「お前は寒いか?」も、「お前も寒いだろうな」もユー・コールドです。会話ならば、自然に、そのどちらなのか分かります。
この例からも、ピジン語の特長がよく分かると思います。
イッシはもちろん「イージー、EASY」のことで、現にイージーと言っても通じたのでした。
・高原のコーヒー畑風薫る
●戦争の記憶
旅に出る前に、今度の旅行では関空からポート・モレスビーに飛びますと言うと、私と同年輩の人たちは、なんとも言えない懐かしそうな表情を浮かべたものです。
我々のグループでも、ポート・モレスビー空港の国内線の待合室で、ラエ行きという行先表示を見ていて、つい日本軍の話が出てしまいました。ラエ・サラモアは、私の少年時代には耳慣れた地名だったのです。
思わず、お互いに「失礼ですが、貴方も結構なご年輩ですな」というようなことから、私より2ヶ月遅れのお生まれが1人、その下に69才がお1人おられるのが分かりました。
戦争は1941年12月8日に始まりました。
日本軍は、最初の頃は調子がよかったので、太平洋の海軍の根拠地であるトラック島を守るため、ここに相手から飛行機の足が届くラバウルとポート・モレスビーとの飛行場を押さえようとしたのです。
ラバウル占領は、開戦から46日後に成功しました。
その140日ほど後に、ポート・モレスビーを海から占領しようと出発したのですが、今度は相手の艦隊に阻止されました。その頃はもう海と空とを相手に制圧され始めていました。それで海から行くのを断念し、1万余の兵隊が北岸から南岸まで歩いて行くことに作戦を変更したのです。
軍隊は、各自12日分の白米は持ちましたが、あとは東洋の戦の伝統として「糧を敵に獲る」こととして進みました。ところがニューギニアでは、ちょっと奥地に入ると、まるで人間の痕跡がなかったのです。
飢えにさいなまれながらも頑張って、先頭がやっと標高3000mの脊梁山脈を突破しポート・モレスビー側の平地に出て芋畠を見付けました。
サツマ芋の収穫はもう終わっていましたが、残された芋の蔓をむさぼり食って、空き腹を満たしたのだそうです。
そのとき全行程の3分の2を突破し「糧を持った敵」のいるポート・モレスビーまで、あと約50キロの地点まで進出していたのだそうです。
8月18日に出発し、このとき既に9月13日になっていました。
そこへ本部から「一部の兵をを残し、帰れ」という命令が届いたのでした。
こんな状況下で、出発した部隊のうち何人が、元の出発地へ帰り着けたのでしょうか。
そしてそこには、もう敵が押し寄せてきていたのでした。
ニューギニア戦には、日本陸軍は約16万人を投入し、生き残ったのは、僅か1万人強に過ぎないのだそうです。
これと較べて、シベリアでは、抑留されたのが約60万人、生き残って帰国した人は約50万人といわれます。
こうして較べてみると、その戦いの悲惨さを語り伝える人の数が、まるで違います。ニューギニア戦の惨状は、あまりにも埋没してしまっているように思います。
こんな悲劇的な命令が届いたことには、通信の問題があったのでした。
無線機が使えないので、伝令と呼ばれる兵隊が、書類を持って足で運んでいたのです。
命令を出す本部は、7日前の状況で作戦を立て、前線の兵隊たちは7日前に出された命令で動いていたのだそうです。
戦争は私が小学校の6年生の時に始まりました。
今度、ニューギニア戦記を紐解くまで、あの戦争は始めのうちは勝っていて、あとの方で負けたのだと思っていました。つまり、1944年の夏ごろから急に悪くなったような印象を持っていました。
でも実は、開戦後1年以内に、ここでは、もう歯が立たない戦になっていたようなのです。
それにつけても、いま21世紀の夜、地下鉄に乗ると、若い人たちの10人が10人、ケータイを取り出しては、いじり始めるのです。通信手段は、まるで空気のように、ふんだんに溢れています。
それを見ていると、半世紀の昔、5000キロ離れた異国の山の中で、愛する家族のため、そして家族が集合してできた国家のために、あるいは飢えに、あるいは病に命を失った同胞のことを思い、涙せずにはいられないのです。
・ジャングルに行く手計れば風は死す