ルーマニア・ブルガリア ハイキング

(2010/06/09〜24)

重遠の部に戻る


あるパーティで、Kさんに「こんなのどうですか」とパンフレットを渡されました。Kさんとは、いつかキリマンジェロに登った経験を話し合ったことが あったのです。結構、連日、何時間か歩くスケジュールになっています。なかには徒歩数時間という日もあるようなのです。いまの体力として歩ける自信がある わけではありませんが、といって出来ないと決めつけるほどでもないようなのです。

つまり、現在の体力テストとして、まことに適当な山旅に思われました。それで参加することにしたのです。

結果は次の通りでした。(歩数計はロカスPWJ90-19)

月・日
歩数 工程
6/9 1,317
自宅〜セントレア〜成田〜ウイーン〜ブカレスト
6/10
18,440 シナイア〜山歩き〜ペシュテラ
6/11
16,924 バベレ山歩き〜洞窟寺院
6/12
23,496 峠を越えてモエチュ村まで
6/13
19,413 ハイキング〜ドラキュラのブラン城
6/14
8,311 ドナウ川河口トゥルチャまでバス移動
6/15
6,888 ドナウデルタクルーズ〜博物館
6/16
10,556 国境を越えブルガリア・ルセまでバス移動
6/17
15,266 大関琴欧州生誕地〜シプカ峠ハイク〜カザンラク
6/18
40,000 バルカン山脈スタラプラニア往復山歩き 9時間
6/19
16,869 ボロベッツ・ハイク
6/20
9,313 リラ湖など氷河湖巡り
6/21
14,190 リラ僧院 砂のピラミッドなどハイク・ソフィア
6/22
7,672 ソフィア市見物〜国際列車(22時間)でウイーンへ
6/23
時差修正 朝ウイーンに到着〜空港〜成田 (機中 泊)
6/24
8,743 成田〜セントレア〜自宅

登り道では、私がグループの中で最も鈍足でしたから偉そうなことは申せませんが、とくに力まず全行程をこなすことができました。

旅を終わった今、疲れていることは間違いありませんが、老人は感度が鈍っているので、どの程度と言い表すのが容易ではありません。たとえば筋肉痛な ど、も うここ何年も感じたことがないのです。老人が、喉が渇いたと思わないままに脱水症状になるのも肯けます。

ただ、旅の末期に、過去、サンチャゴ巡礼のとき経験した、いやな咳が出ることは気がついていました。グループのお一人は、もう最初から、花粉症であ ると宣 言され、沢山お持ちになったティッシューを盛大に使っておられました。また、途中から風邪気味だということで、一部のハイキングを控えられた方もおられま した。よく気をつけてみると、ほかにも軽い咳をしておられる方が何人かおられました。

咳は帰った次の日が一番強く出ました。私は花粉症だよと申しましたが、家内は「花粉症なら、眼とか鼻とか浅いところの症状なはずだ。こういう肺の深 いとこ ろから咳が出るのは肺炎に違いない」と心配するのです。

三日目の朝には、症状はぐっと軽くなりました。家内は肺炎説を取り下げ、安心してくれました。実のところ私だって、若い人のように治癒力がないので すか ら、花粉起源性肺炎にでもならなければよいと、多少は心配していたのです。

ともかく、医者などゆかないのですから、家内も私も無免許医者的性格だと思われることでしょう。これは母譲りなのです。母は周りから「お医者さんよ り偉い んだから」と当てつけられながら「これは肝臓が悪いんだから、断食してればよくなる」「昨日が峠だった。これからはよくなる一方だ」など、自己診断して医 者にはゆかないのです。私も面倒になって「好きにしなさい。一生に一回だけ治らないことがあるけれど、それまではきっと治るよ」と匙を投げているのです。 実際、いま母は百二才ですが、まだ治らない病気にはなってないのです。

1日目

セントレアからはKさんと私、関空から5名、福岡から2名と成田で集合しました。ツアリーダーのFさんはエベレスト登頂歴をもつ日本山岳会の大物、 女性が7名、合計10名のパーティです。成田から約11時間飛びウイーンへ到着、さらに1時間半ほど飛びルーマニアの首都ブカレスト空港に着きました。ホ テルは空港のすぐ近く、まず、煙草を吸っている人が多いのが、この国の初印象でした。

2日目

翌朝、カードキーを返しにホテルのフロントに行きました。デスクの中には3人いました。返そうとすると、そのうち二人は電話をかけている男を指差 し、彼に帰せというのです。長い長い電話が終わったのでさしだすと、ルームナンバー?と聞きます。15と答えましたら、なんと「アー ユー シュ アー」(本当かい?)というのです。ルーマニアは、戦後50年ほど共産主義時代があったのです。その時代から20年経った今でも、ほかの人にもこんな調子 でやっているようでした。もちろん悪意があるわけではなくって、社会主義体制ショウをサービスしてくれたのでしょう。

こんなところに、いきなり地図を持ってきて申し訳ありません。

ルーマニア・ブルガリアとも、まさに向こう三軒両隣、5カ国づつ他国と隣り合っています。そのいずれの国々とも、過去に苦い思いがあるのです。以下 の文中 に、その関連がたくさん出てきますので、ここで頭に入れておいていただけるとよいと思ってお見せしたのです。

我々が訪ねたところは、必ずしも有名観光地ではありませんので、普通の地図には地名が出てきません。大体の場所をご理解いただければ有り難いです。


ブカレストから200kmほど北のシナイアに向けてバス旅行が始まりました。広い広い平野です。郊外には超近代的なスーパーマーケットもあります。 しかし 民家も工場も新しいものは見あたりませんでした。一面ラベンダーで紫の野原もあり、原野風のところでは羊飼いが羊の群を追っています。そして、その羊飼い は携帯電話を耳にあてがっているのです。バッタがお辞儀をしているような石油井戸を見ながら美しい谷に入ってゆきます。

シナイアの僧院はルーマニア正教、17世紀に建てられたものです。正教系ですから、オルガンなどなく声楽一本、参会者が座る椅子もありません。黒い 僧衣を 着た男が3人、庭で土方仕事をしていました。日本でも昔は、寺の仕事一切をする寺男がいたことを思い出しました。そういえばこの街に入ったときから、なに か昔を思い出させる懐かしい気分がしていました。私が中学生だった時代、自転車に乗って友達の家を訪ねた頃の雰囲気があるのです。このあたりの標高は 800m、かってはブカレストの貴族たちの別荘地だったのだそうです。古い時代の、屋根といい、窓も手摺りも、手数がかかるのを厭わず細工をこらした家が 立ち並んでいるのです。昭和10年ごろ普通の日本家屋でも、玄関脇の応接間だけが洋風に作られていました。洋館と呼んでいました。それがなんとも、ちまち まとハイカラだったのでした。現在では生活空間を広くした、無駄を省いた簡素・合理的な建物に変わっていますが。

リフトとゴンドラを乗り継いで、いきなり2000mの稜線に上がり、ここからトレッキングが始まりました。ここはトランシルバニア地方、第一次世界 大戦で ルーマニアが戦勝国となったため、敗戦国ハンガリーから奪い取った土地です。山はカルパチア山脈、スイス・フランスから北上したアルプス山脈が東に曲が り、黒海に消えて行く直前の部分なのです。山も谷も南北方向に並んでいます。稜線部分は、まるで霧ヶ峰高原のような連続したゆったりしたピークで、大きな 木もなく美しい草原が連なっています。火山性ではなく、石灰岩、砂岩などの堆積岩地帯で、深い谷、絶壁もありました。

「この山域は、わざわざ海外から来るというわけではありませんが、地元の人たちは歩いているようです。日本から歩きにきたのは多分我々が最初でしょ う」と リーダーさんがいいました。なるほど、羊たちが踏みつけて作った小道で、網の目になっている場所もあり、人工度の低いルートですが、目印のポールがちゃん と立てられていました。

今回のグループは、私以外は皆さん何回も一緒に海外トレッキングをなさった顔見知り同志なのです。私の山歩きのペースは、登りが大変遅いのです。最 初の登 りでは、全体の足を引っ張っては申し訳ない、また、誘ってくださったKさんの顔を潰してはならぬと、年寄りのくせに、柄にもなく久し振りに緊張したのでし た。それで、いったん鞍部に下り休んでいるときに「私は遅いですから、ちょっと先に行っています」と先発しました。もっとも、こんなにしおらしかったのは 最初だけで、すぐに、誘ったほうが悪い、とマイペースになる図々しい私だったのです。

やはり皆さんのほうでも、今度来たじじいは、どんな奴だろうと観察しておられたようです。その私についての評判では、とくに下りに体が左右に大きく 揺れる ということでした。

実は3年前、沖縄の山を下っているとき「なにかバランスがよくないようですね」といわれ、ハッとしたのでした。自分でいうのも変ですが、昔はどちら かとい うとバランスがよいといわれていたのです。若いころは膝のクッションが効いていて、じわじわと着地していたのです。老化が進むにつれてクッションがなくな り、ドスンドスンと足をつくようになったと、自分でも、その頃感じていたのですが。

試みに、膝と腰の関節を前後に動かさないで、左足を挙げてみて下さい。体を右に傾けるよりありません。左右に体を揺すって歩くしかないのです。要す るに関 節という関節が固くなっているのです。正直にいいますと、それ以外に、足元を見ている視力もかなり衰えていて、本能的に怖々と足を下ろすようになってもい るのです。


先行者尾根に消えたる登山道


もっとも、なにも歩き方だけではなくて、姿勢も顔つきも、多分脳力だって昔とは違っているわけで、それが正常というものなのです。

3日目

昨日はシナイアの一本西の、ペシュテラという谷底にあるホテルまで、稜線から歩いて下り、泊まりました。今日はこちら側からまた昨日の稜線に、別の ゴンドラで上がり、さらに北のバベレ・ピークを往復しました。侵食から取り残された奇妙な形の砂岩が、スフィンクスなどと名付けられています。

山上駅子燕が口開けおり


山頂の崖っぷちに高さ50mの金属製の十字架が建てられ、点灯して里の街から見上げる仕掛けになっています。こんなことを考えつく人があるのも、驚 異のひ とつです。午後は鍾乳洞に埋め込まれた教会を訪ねました。石灰岩の崖に直径10mほどの鍾乳洞があるのです。奥まで入りましたが、上から垂れ下がる鍾乳石 や下から立ち上がる石筍が認められず、どうしてかなと話し合いました。やはり何か理由があるのでしょう。洞窟の底面には貧弱な棚状のノッチが認められまし た。

洞窟と神殿との組み合わせは、インドでも韓国でも日本でも見たことがあります。人類共通の心情といってよいのでしょう。多分、遠い昔、洞窟を住処に してい た痕跡なのでしょう。

このあとは、近くの湖を周回ハイキングする予定でした。でも、行ってみると、湖の周りに道路はありませんでした。調べ尽くされたパックツアーでは味 わえな いサプライズです。翌日の登り口を偵察し、ホテルに戻りました。

4日目

今日は弁当持ちのハイキングです。羊の牧場までは普通の山道ですが、それから先は、羊たちの食事場になっている可憐な花の咲き乱れた草原の踏み跡を 辿ってゆきます。2時間弱登って峠に着きました。石灰岩の尾根が絶壁になっています。隣に見える山々の上部が、一面にうっすらと赤く見えます。ロードデン ドリウム、つまりツツジの一種だそうです。鋭い稜線の西側に、傾斜の緩い、かなり広い段が続いているので、快適な天上のプロムナードが楽しめました。キン ポウゲ、サクラソウ、リンドウなどが、そんな豪華でこそありませんが、可憐に、もう一面に贅沢に咲きまくっています。

羊等に無心の憩いこの花野


羊の餌になるのは草花のほんの一部分で、植物のほとんどは自分たちの子孫を残すだけのために生きているのでしょう。たまたま私たちはそこに居合わせ て、楽 しませてもらっているのです。なんという有り難い前世の因縁なのでしょう。

石灰岩に嵌入した片麻岩の部分が侵食を受けて谷になっていて、そんなところはツガ、シラベ系の高木の林になっています。

だんだんに標高が下がり、樹林帯に入るあたりに車が停まり、警官が二人立っていました。愛想よく挨拶して別れたのですが、あとで聞くと、ここも人の 世、森 の木を盗伐する悪者がいるため、張っているんだそうです。

この日は暑さとの戦いでした。朝飯が早かったし、もう12時を過ぎました。昼飯を食べたいというリクエストが出されました。日陰があったら、そこで という ムードでした。でも、現地山岳ガイドはどんどん下って止まろうともしません。なんで止まらないの?と聞くと、もうちょっと下れば川があって涼しいところが あるというのです。そこまで何分かかるのと聞くと10分というのです。現地ガイドの10分は我々なら30分のことです。我々の怨念が通じたのか、途中の林 の中で昼食の号令がかかりました。ホテルが持たせてくれたサンドイッチには、中味が、パンからはみ出したのと、ちゃんと収まってるのと2種類ありました。 「二つのうちどっちが食べよいの?」という質問が出ます。でも、私もそうでしたが「ひとつしか食べられなかったから、比較できない!」という返事ばかりで した。大きなサンドイッチは、ひとつだけでも、やっと水で喉に流し込む状態だったのでした。


一日の炎天なりし酸きスープ


たどり着いた川岸はキャンプ場になっていました。ここまでは車が入るので、地元の人もかなりきていました。暫く待っていたのですが、我々が到着する のが予 定よりも早かったので、迎えの車は現れず、街まで歩くことになりました。がんがん照りの舗装道路の暑かったこと、そして道路際の急な崖堆地に広がる花野の 美しかったこと。このチーズの里といわれるモチェの村では、あちこちで上半身裸になった男たちがミレーの絵にでも出てくるような刃の長いフォークで干し草 を拡げたり掻き集めたりしていました。こんな灼けた車道の死の行進に音を上げ、とあるレストランに飛び込み冷たいビールに喉を潤していると、迎えのバスが 通りかかったのでした。

夕食、脱水症気味だった我々には、ルーマニア風スープの酸味が、喉に快く感じられました。

5日目

この日、最初の登り口は、ブラン城のかなり南にある小さな村の教会でした。日曜日の朝でしたから教会の鐘が鳴り、子供達が日曜学校にきていました。 教会にはお墓がありました。

以下はガイドさんの話です。亡くなった人は、3日経ったら、教会の墓地の石のお棺に入れます。その3日間、遺体を教会に置いてもらうとお金が要りま すが、 家に置いておけばお金は要りません。石の棺の中で、実際は2〜3年で骨だけになるけれども、7年間は次の人を入れることが出来ない定めになっています。お 棺を買い取る人もあるし、お金が無くて借りる人もある。

というようなことを言ったようですが、私は耳が遠いので、多少は聞き違えているかもしれません。

しばらく急な道を登ると、あとは麦畑と花野の中の快適な尾根歩きです。緩やかな丘の稜線部分に道が通っているのです。そして道端に可愛い教会があ り、そこ で一休みしました。村から離れた場所にあり、車10台ほどの信者が集まってくる小さな教会です。聖書の詩編を、歌うように唱えている女の人の声が漏れてき ました。50余年前、アメリカの田舎にいたころのことを、とても懐かしく思い出しました。そして、よほど信仰深い村人たちなのだろうと思いながらも、集落 が小さいゆえにズルしてサボれないのかしらなど、50年の月日が、純真な若者を世俗にまみれた男に変えてしまったのを悲しんだのです。

このあと、いったんバスで移動して、第二ラウンドのハイキングです。最初の40分は風の通らない太陽が照りつける暑い谷底の道でした。それに飽き飽 きした 頃、ガイドさんは草を分けて斜面に取り付きました。このあとの40分も、美しいけれども、まともに日が照りつける斜面の急登です。こうして鍾乳洞を二つ見 せてもらいました。鍾乳洞の中のひんやりした空気が、なによりのご馳走に感じられました。こんなように、土地のことを知り尽くしたガイドさんがついていて こそ、手垢の付いていない贅沢なトレッキングができるのです。

ルーマニアには鍾乳洞が一万二千以上もあるということです。今回歩いたルーマニアも、その南に接するブルガリアも、緑豊かな恵まれた土地でした。ア フリカ から入ってきたネアンデルタール人やホモサピエンスが、西欧、たとえばオーストリアのネアンデル谷へとたどったときの通路としてふさわしい土地柄です。鍾 乳洞は石灰岩でできていて、人骨の保存に有利なのです。いまも、遙かな先史時代の人骨が、このあたりのどこかの鍾乳洞で眠っていると想像されます。何時の 日か、彼らの生活の痕跡が発見されることでしょう。

先程、いきなりブラン城と書きましたが、この城はルーマニア北部のトランシルバニア地方にある、吸血鬼ドラキュラの居城のモデルになった城なので す。14 世紀にワラキア一世が、ブランの町の石灰岩でできた小山の上に城を築いたのです。このころ領土拡張をはかり進入を繰り返すオスマントルコを監視、撃退する のが目的でした。彼の孫のワラキア三世は苛酷な性格で、トルコの軍人や反逆者を、見せしめのため串刺しにしたと伝えられます。もっとも、この時代にはこん なことは普通のことで、とくに残忍だというわけではないという説もあります。後日、確か、イギリスの貴族が別荘として買い取ったこともあったようです。と もかく、小さくて、ごちゃごちゃしていて、こんな城を私なら買う気は起こりません。

暑苦しい城を出て、風の通う鞍部のベンチで休みました。我々一行の女性たちが地元の可愛い女の子をあやします。この子を抱いている女性もなかなかの 美人で した。大阪のおばさんは「お子さんいくつ?」と日本語で聞いています。「これ子供でない。孫」と通訳さん、なるほど、これもたいそう美人の母親は隣にいま した。


・三代の美人家系や青葉光

お土産店の近くで「30分後、ここに集合」ということになりました。

あとの話になりますが、ある女性がこういいました「あんなところで時間をとるなんて、ガイドと土産店と、きっとなんかあるわね」。それに対して「そ れはそ うよ。日本でだって同じことじゃないの。どうせ、どこかで何かを買うんだから、私たちがどう上手にやるかなのよ」。実に現実派だとは思いませんか。こうい う性格ならば、某ルーピー氏の「コンクリートから人へ」とかの、うわごとに乗せられることは考えられないじゃありませんか。

われらグループのこと

今回の旅の記録のどこかで、今回のグループのことを書かなくてはと思っていましたが、とうとうここで触れることになったようです。

とても旅慣れた方々ばかりでした。まず、なんといっても心底、旅がお好きなのです。「あーあ、あと三泊になっちゃた」と、悲しそうに口走ったりなさ るので す。

外国人相手に「下りる人が済んでから乗るんよ!」など、大阪弁でやっています。支離滅裂に英語の単語を並べるのは、よほど気を遣っているときなので す。も ともと、大抵の国の人は、外国でも自分流で押し通しているもので、やたら気を遣うのは、日本人の特殊なところなのです。

お仕着せの案内に頼らず、自分から見てやろうという好奇心の塊みたいな人たちですから、植物の名前など実によく知っていらっしゃいます。知っている だけ じゃなくて「あっ、ラべンダーが咲いてる」、「ほら、アマポーラが可愛いわよ」、「こんなとこにもリュウキンカがある」など、頻繁に口走られるのです。 ルーマニアのガイドさんは、軽さのある男でした。そんな私たちに「あっ、狐がいる」と叫びました。我々が不審な顔をしていると「ほら、黒い狐」、なんと道 路の前方に黒い犬が座っていました。

植物といえば、マツ、ブナなど科のレベルで認識しておられるのに感心しました。葉の縁がギザギザしているとか、裏に細かい毛が生えているというよう なレベ ルではなく、全体から、ぱっと判断される様子が素敵でした。よく個々の名前に執着しスズランをランの類と思ったりしているのと正反対で、分類法の基本を自 然に身につけておられると思いました。

一行の中で、男性はツアリーダーと私、そしてTさんです。Tさんは、まったくのご趣味で、天文台を持っておられるのだそうです。天文学だけではな く、何事 にも広く深い知識をお持ちだとお見受けしました。今回の旅行は、小惑星イトカワ探査の「はやぶさ」が、オーストラリアの砂漠に帰還する時期でした。ツア リーダーが、ケータイを駆使して逐一情報を入れてくれ、Tさんが解説してくださいました。わたしも天文学を好きな方ですが、Tさんは何倍もよくご存じで、 まったく舌を巻いたのでした。

そもそもこのグループは、昔、トムラウシ登山のパックツアーに参加した仲間で、ツアリーダーの魅力で結晶構造が成長したようなのです。

なかなかキツイ場面もありました。前日買ったお土産が不揃いで、交換を要求しようと、翌朝、15分ほど寄り道したことがありました。すると「不揃い のもの を受け取ったのは自分の責任ではないか。それなのに、我々全体に回り道させるとはなんたることであるか」と、かなり本気で異議申し立てがありました。

でも、そういうことがシコリにはならないんですね。私は遠い昔のことを思い出していました。惣領の私が小学生の頃です。両親に伊勢神宮に連れて行か れまし た。紅葉の時期でした。兄弟で、美しい紅葉の落ち葉を取り合い、喧嘩をしているうちに迷子になってしまったのでした。血縁で結ばれている安心感から、お互 い自分の地金を出しているのですね。このグループも、つまるところ気が合うものですから、結構、地金を出しているのだと思います。また、そう振る舞えるほ ど気が合う仲間だということなのだと思います。

6日目

朝、出発前に、暖房に使われているはずの軽油タンクが見あたらないという小発見から家捜しが始まり、通訳さんやペンションの家主さんまで動員して、 薪ボイラーの勉強をしました。なんとも好奇心の強いお方たちです。

なるほど、どこの家でも、一辺20cm、長さ1mほどの薪を、敷地に山と積み上げてあります。それを高さ2m、巾1m、奥行き3mほどのボイラーで 燃や し、温水を作って暖房しているのでした。軽油やガスと較べれば燃焼コントロールは難しいはずですが、それでも自動制御しているといっていました。温水を クッションにすれば可能なのでしょう。一冬の暖房費が40万円とか、軽油やガスより安いそうです。燃やしただけ森が育てば、炭酸ガスの増加はありません。 ここでは煙突は飾り物ではないのです。朝、どこの家の煙突からも薄い煙が上がり、のどかな風景でした。ちなみに、この辺りの緯度は北海道の函館と同じ、夏 の気温は名古屋とそう変わりませんが、冬は10℃ほど低いようです。

昨日まで天気に恵まれたのですが、この日から一変し、ときどき大雷雨が襲うようになりました。バスは、カルパチア山脈を抜け、いったんブカレスト近 くまで 南下し、あとドナウ川河口の街、トゥルチャまで東へ走りました。距離は直線距離にして約480kmですが、昼食時間を含めて10時間ちょっとかかっていま す。なにせ山の中は、センターラインもない曲がりくねった道だったのですから。

何よりの印象は、トラキア平野の広さでした。ルーマニアの国土の3分の2は山です。その山地と南のドナウ川との間、東西500km、南北150km がトラ キア平野なのです。大垣、岡崎間が約80kmといえば、濃尾平野とは桁違いの広さがわかっていただけましょう。大きな街はありません。作物としては、沢山 目についた順に、小麦、とうもろこし、菜種、そして少々のヒマワリ、その畑が広がっています。とうもろこしは、まだ小さく成長途上でした。でも、小麦、と くに菜種はもう完全に熟していて、菜種など種が落ちてしまいはしないかと心配になるような濃い茶色をしていました。それなのに取り入れをしている様子が まったくないのです。日本のチマチマした感覚からすると、取り入れを始めても、どれだけ時間がかかるか想像もつかないぐらいの広さなのです。アメリカの農 場で使われているような大型農機でなければ手がつけられないような広さです。ルーマニアに大型農機があるのでしょうか、あったとしても、収穫するのには何 日も要るでしょう。それがまだ、どこにも収穫が始まっている気配がないのです。その不審は、いまだに解けていないのです。


・走っても走ってもなお麦熟るる

不審といえばもうひとつ、前を走っているトラックが止まり、我々のバスも止まりました。前のトラック運転手が、道路に下りてタバコを吸い始めまし た。まっ たく異常を感じさせる雰囲気はなく、予定された道路工事でもあるのかと思いました。しばらくすると、右手の遠くから、3両客車を引っ張った列車がゆっくり 現れました。踏切だったのです。多少オーバーにいいますと、5分ぐらい前からバーが下りていたようです。ブルガリアでもそうでしたが、踏切番が充分以上の 時間的余裕を持って、手で遮断機を下ろしていました。

ユーラシア大陸の東の端の日本では、利用者の要望に沿い、急いで急いで時間を刻み、自動で遮断機を上下し、膨大な交通量を捌いていることを思い合わ せまし た。JR宝塚線の脱線は大惨事でした。控えめに1日80本通過するとみて一年間に29,000本、国鉄民営化以来20年として約60万回通過している勘定 になります。59万9千9百9十9回は脱線しなかったのです。なぜ脱線したのか、歴代の社長に責任を求める日本流の考え方の不思議さに、外国旅行をしてい て気がついたのでした。

7日目

世界遺産のドナウ・デルタをクルーズする日です。ドイツを発したドナウ川は東に流れ、ヨーロッパ8カ国の土砂を運び、ついにここで黒海の浅瀬に堆積 させているのです。毎年、陸地の巾が400mづつ広がるということです。

クルーズは10時半からなので、その前に自然史博物館に行こうと「地球の歩き方」という案内書を片手に街へ出ました。中央広場は、なんなくわかりま した。 ところが細い道は地図には出ていないようで、博物館はわかりません。土地の人を捕まえて聞いてみました。こんな観光の街ですから、観光客を捕まえても仕方 ありません、レジ袋を下げたおじいさんに聞いてみました。全然言葉は通じませんが、私が泊まっているデルタ・ホテルの名を言っているのはわかりました。地 図とは全然違うので取りあえず、有り難うといって引き下がりました。


すれ違うたびに手を振る夏の航


ホテルに戻り、フロントで街の地図をリクエストしましたが、ありませんでした。でも、2年前に博物館はこのホテルから200mのところに引っ越した ことを 教えてくれました。行ってみると、開館時間もガイドブックと違っていました。

こうしてこのトゥルチャの街で多少困った環境にいながら、若い?頃、言葉の通じない国を、行き当たりばったり歩いていた日々を思い出していました。 この歳 になって、まだこんなことをしている、できる、と思うと、限りなく幸せな気持ちがしたのです。

ホテル専属のクルーズは、いわば大がかりな水郷巡りです。完全に水没しながらも、高木が根腐れにもならないで茂っているのに感心しました。アジアの マング ローブで見られるヒルギのような特殊な木ではなく、柳とか、まあ普通の木に見えたのですが。

3400種以上の魚が住んでいるそうですが、一匹も見ませんでした。そうそう昼飯のお皿にはパイクという大きな魚が乗っていて、ワインによく合いま した。

ペリカンは滅多に見られないとのことで、なかば諦めていました。でも、たまたま空高く、大きく羽を広げ、ゆうゆうと滑空しているのが見え大感激でし た。

港には10隻ほど軍艦が停泊していました。ルーマニア海軍は7000名の陣容なのです。大砲には白いキャンバスがかぶせてあり一人前なのですが、な にせ小 さいのです。「ピストルで撃たれたら穴が開いちゃうな」と、昼のワインが暴言を吐かせます。「そう、これ海軍じゃなくて、川軍」。ガイドさんはユーモア たっぷりです。そうそう彼はバスの人数を確認しているとき、けげんな顔をして「ひとり多い」といって笑わせたこともありました。

8日目

トゥルチャからバスでいったん南下し高速道路に入り、西のブカレストまで行き、直前で南下、ドナウ川を渡りブルガリアに入りました。高速道路に平行 している鉄道は、フランスで見たような立派な電化が行われています。また、ブカレスト近郊の送電線の回廊も立派なもので、この国の力が思いやられました。
今回は、自分の足で歩くという旅の目的からして、渋滞して時間を食うブカレスト市内には、結局、一度も入りませんでした。当然、ワシントンDCにあるペン タゴンに次ぐ、世界で2番目に大きい建物だといわれる「国民の館」も見ずに終わりました。
ルーマニアもブルガリアも2004年にNATOに加盟、2007年にはEUに加盟しました。でも、いまだに通貨はユーロでなく自国通貨ですから、両替、使 い切りが必要です。
バスもガイドさんもここで交代します。ここまでのルーマニアでは、通訳、登山ガイド、バス運転手の3名のサポートでしたが、ここからのブルガリア側では、 通訳、登山ガイド、同補助ガイド、運転手と4人のサポートを受けました。
ドナウ川のブルガリア側の街、ルセについたのは17時過ぎ、8時間のバス旅行でした。夕食後、街に出てみました。石畳の道、古い建物と、なんとも懐かしい 雰囲気の残った街でした。ドナウ川にも行ってみましたが、外国人といっても容赦しない蚊が一杯いたので退却しました。

9日目

ドナウ川の岸辺から南下すると、すぐバルカン山脈に分け入ってゆきます。

始めは緩やかな丘の連続です。トンネルは素堀で内部照明はなく真っ暗です。貧しそうな村がときどき現れます。

ブルガリアでは、ロシア語でお馴染みのキリル文字が使われています。もともとこのキリル文字は、ブルガリアの宣教師キュリロスが、スラヴ人に布教す るため にギリシャ文字を元に考案したとされ、彼の名前をとってキリルとしたのだそうです。つまり、ブルガリアがキリル文字の元祖というわけです。HがNで、Pが R、ГがGなのです。我々としては道標を追ってゆくのに苦労です。もっともかなりの場合、とくに外国人に金を落としてもらいたいような対象には、ローマ字 も併記されていますが。

廃墟になった火力発電所など見え、パットしない気分になっているうちにベルコ・タルノボの街に入りました。狭い急勾配の、家が建て込んだ狭い道を 走ってい ると、日本文化センターと書かれた小さな札が見えました。大相撲の琴欧州はこの街の出身なのです。幾つかの丘に、新旧の家が建ち並んだこの美しい街は、 12世紀から14世紀、第二ブルガリア帝国時代の首都だったのです。この時代にはブルガリアがバルカン半島全土を支配していたとのことです。

南下するにつれて、バルカン山脈は標高を上げてゆきます。シプカ峠の駐車場でバスを降り、小高い山に登りました。高度計は1200mを示していまし た。大 きな記念碑が建ち、数門の古い大砲が南方、遠くトルコの方角を睨んでいました。シプカ峠は、明治9〜10年にかけて、ロシアとブルガリアの連合軍がトルコ 軍と全力を挙げて戦った戦場だったのです。その結果、ロシア・ブルガリア勢が勝利し、敗走するトルコ軍を追って、首都イスタンブールまで攻め込み、ブルガ リアの独立が達成されたのでした。その戦いにおけるロシアの功績への感謝を示す記念塔だとのことでした。ここから2時間弱、ブルガリアでの最初のトレッキ ングを楽しみました。これまでは、主として草花の咲き乱れる草原を歩いたのですが、ここではブナ林など、樹林の中のトレッキングでした。どちらが好きとは 申しませんが、この日歩いた木洩れ日の樹林では、いいなあ、いいなあと感嘆の言葉が引きも切りませんでした。

カザンラクのホテルに荷物を置き、30分ほど西に走りシプカ僧院を訪ねました。前述したシプカ峠の戦で命を落とした、20万人にもおよぶロシア兵の 鎮魂の ために建てられた教会なのです。ネギ坊主のような教会の屋根の上に立てられた、横棒が一本多い、キのような十字架のことを、通訳はロシア式の十字架といっ ていました。



分け入れば森に緑の風通う

午後5時に、鐘を33回つくということで、サクランボを頬張りながら待っていました。お堂の壁に燕が巣を作り、出入りしていました。Tさんはお堂を 一巡りされ、燕の巣が37個あることを確認され「巣の下は糞で汚れるものだが、ここは綺麗だ。余程よく掃除してるに違いない」と調査結果にコメントまで付 け加えられました。なにせ好奇心、研究熱心なグループの皆さんなのです。

どうして鐘をつく回数は33回なのでしょうか。イエス・キリストが亡くなったのが33才だったからと通訳さんはいうのです。帰ってからネットで調べ てみま した。「30才前半だと思われるが、正確には不明である」と書かれていました。何事につけても、手軽に調べられる時代になりました。でも、正直のところ証 拠書類を自分で調べたわけではありませんから、どちらが本当か、責任を持って申し上げるわけにはゆきません。そのうちに鐘が鳴り始めたので、私はビデオを 廻し始めました。暫くして、やけに沢山鳴っていることに気がついたのです。研究熱心なかたたちは、75回だ、いや76回だと議論しておられました。


教会の鐘鳴り止まずサクランボ


この教会の祭壇の前で、不信心な私めが、珍しく長くたたずんでいました。戦争の意図、目的も知らぬまま死んでいった沢山の男たちにとっては、教会など建て て供養してくれたって何になると、やりきれぬ想いに囚われていたのです。

欧州の火薬庫

今回の旅は、極論すれば、Kさんに誘われ、なんとかついて行けそうなトレッキングだったから参加したようなものです。告白すれば、ルーマニアもブル ガリアも東欧であることは知っていましたが、どちらが北で、どちらが南なのかも知りませんでした。でも、いざその土地にきてみると、この場所にスポットラ イトが当たります。歴史を読んでみました。両国とも、それぞれの歴史があります。あまりにも戦争の繰り返しばかりです。大まかにまとめれば、大国に支配さ れ、それから独立し、また支配され独立するということの繰り返しです。大国とはマケドニア、ローマ、ビザンツ、オスマントルコ、オーストリア・ハンガリー などです。先にも触れましたが、12世紀には、ブルガリア自身も、バルカン諸国の支配者だったことだってあるのです。

煩雑を避けるために、わりに近い時代の幾つかの出来事を挙げておきましょう。ブルガリアは明治10年のシプカ峠の戦闘に続く勝利で、広大な領土を手 に入れ ました。しかし、この事態でロシアの南下を恐れた欧州列強は、干渉してきます。そして東ルメリアとマケドニアを割譲させられます。そのため以後、ブルガリ アでは、いったん手に入れた領土の再獲得が宿願になります。明治17年、東ルメリアとの合併を宣言、さらに明治43年にはマケドニア獲得のためセルビア、 モンテネグロ、ギリシャと同盟を結びトルコをやっつけたのです。ところが今度は戦勝国同志で領土の取り決めがこじれ、また戦争です。今度の戦争では負け て・・・。第一次大戦では領土的野心から同盟国側に入ったものの、敗戦によりさらに領土を失いました。第二次大戦では枢軸側につき、ギリシャ、ユーゴスラ ビアに侵攻しましたが、敗色濃厚となり、ソ連が宣戦布告し侵攻してきてと、領土争いの亡者といった様子です。

ルーマニアだって、第一次大戦では勝った連合国側につき、念願のトランシルバニア(ドイツ人、ハンガリー人など共存していた)を敗戦国ハンガリーか ら手に 入れました。第二次大戦では、初期のドイツの勝ち戦を見て枢軸国側につき、ソビエトへ侵攻を開始しました。でも、形勢が悪くなると国内クーデターで政府が 代わり、今度はドイツに宣戦布告したのでした。

前に地図でお示ししたように、バルカン半島にはこのほかにも、国が沢山あります。最近でも、ボスニアだとか、ヘルツェゴビナだとか、話題を提供し続 けてい ます。沢山ある国々の歴史を勉強すればするほど、ここに挙げた領土獲得欲の奴隷説を強めることになるのでしょう。

こんな現実を、皆様はどのようにお考えになるでしょうか。

この地域では、常時、これだけ戦争をしていると、「男の仕事のひとつに、戦争という職業があるのではないか」という気がしてきました。動物の雄が雌 を取り 合って争っているテレビ番組からの連想もあったのです。先日、前提を抜きにそう発言したところ、平和団体の方の気を悪くさせてしまいました。私はどんなこ とがあっても戦争はするべきではないと思っていますが、他方、人間は争うように作られた生き物だという認識を曲げられないのも事実です。

自分の考えをいえば、戦争をしたって良いことなどひとつもないのは、自明のことです。今日現在でも、イスラエル、パレスチナ、イラク、アフガニスタ ン、 チェチェンなどで、大部分の人は、戦いを迷惑だと思っている筈なのです。それなのに、相手が理不尽だから戦わざるを得ない、として行動しているのが現実で す。

紛争を避けられない現実を踏まえて、どう振る舞えばそのデメリットを少なくすることができるでしょうか。

ひとつは、よくいえば冷静、悪くいえば狡猾に徹し、本気で戦争をしない方法ではどうでしょう。侵略とは、地図の国境線が動き、税金の納付先が変わる のが現 実だと考えるのです。村に侵入してくる敵軍に、この次自分が攻められるときのことも考えてご覧、顔は立てるから、あんまりひどいことはしなさんなと話すの です。

せいぜい、「まあひとつ頑張って下さいよ」と、足は強いが頭の弱い、つまり私みたいな若者を4〜5人、戦の加勢に提供し、頭のいい役に立つ青年は、 こいつ ら弱虫で一向に役に立たないからと温存しておくのです。常に天下の風向きを見ていて、得をするか、間違っても損しない側につくのです。たとえば第二次大戦 末期のソ連の振る舞いなどがそれです。

もうひとつは、個々の小さな集団の欲望を、大きな塊の力で調整して抑えることでしょう。戦国時代に、武田、北条、織田、徳川など日本中の国々が争っ ていた のを、強力な徳川幕府の統制のもとに300年の泰平の世を築いた例があります。「地方分権」などとガス抜きまでに叫ばせておけば、平和は続くのです。ルー マニア・ブルガリアでも、オスマントルコの支配下にあったときは、大部分の民衆は平和を享受していたのではないでしょうか。トルコは最後に負けた国なの で、いつまでも悪者と言いふらされていますが。

いまは超強国家のアメリカがあり、その保証の下に機能しているEU、NATOがあるといえましょう。ガイドさんのひとりはEU、NATOに賭け、だ からど この国とも仲がいいと、私のどこの国が好きかという質問を跳ねつけました。

10日目

この日はバルカン山脈ボテブ峰方面への、往復9時間の登山でした。

登山口まではひどい悪路で、バスが可哀想になりました。

樹林を抜けて草花の美しい草原を登ります。ここかしこに野薔薇のこんもりとした茂みがあり、白い小さな花をつけていました。

このカザンラク地方は、東西数百キロにおよぶバラの谷の中心部なのです。ガイドブックにはカザンラクとは、バラを加工する「銅の鍋」という意味だと 書いて あります。ここで催されるバラ祭りには、世界中、日本からも大勢の人が訪れるそうです。村々の家の庭にも、バラが美しく咲き乱れていました。もともと、バ ラに適した自然環境なのでしょう。

1時間ほど草原を登り、いったん谷に下ってから先は、ブナを主体とする樹林帯を登ってゆきます。森の王様と呼びたいようなブナの巨木が、ときどき目 につき ます。このところ連日、上空に寒気が入って不安定な気象が続き、ときどき短い時間、ごーっと雷雨が襲ってきていました。この日の天気予報は、午後から雷雨 でした。登山口からもう、ガスっぽい雰囲気でしたが、登るに連れてガスは濃くなってきます。樹林帯に入る頃には、上空の寒気が下の湿った空気に入り込んで きたようで、ブナの森は白と黒、モノクロの世界になっています。若いころ「ブナには霧がよく似合う」というような、甘い文章を書いたことを思い出しまし た。


ブナに霧肺の底まで湿らせて


小休止した場所の太いブナの幹に、落書きが刻まれていました。落書きはホモサピエンス共通の行為ですが、ここではキリル文字であるのが珍しいと思っ て撮っ た写真をお目にかけます。どんな雰囲気だったか、ご想像いただけますでしょうか。山頂を越え少し下って辿り着いた山小屋は、がっしりした造りでした。サン ドイッチ、サクランボ、そしてガイドさん提供の絞りたてのミルクで、昼食を楽しみました。この先30分ばかりのところに、大きな滝があるのだそうです。そ こへゆく元気組と別れ、私は直接下山する組に入りました。最高点の草付きのコブに登り返したとき、一発目の雷鳴が聞こえました。あたりは霧以外なにも見え ませんし、もう一目散に樹林帯に駆け込みました。背の高い木に囲まれていれば、雷は直接私に落ちることはありません。木の幹から2m以内に近づかなければ 心配は無用なのです。雷はどんどん落ちますし、雹も少し降ってきます。でも、お陰で、雨粒が霧を払い落とし、ブナの森の視界はすっきりとなってきました。 同じ道を往復するので心配はありません。早い人は先にゆき、遅い人は後から、私は雨具に守られながら、ひとりマイペースで下りていました。



霧深し樹の落書きもキリル文字


若いころは、逃げ場のない稜線で雷鳴に脅されたり、長丁場だったりして、緊張感を強いられる雷山行をよく経験したものです。でも、この年月、山へゆ くとき は単独か、熟年グループに入ってゆくばかりです。だから、天候が悪いとすぐ中止です。そのため、この日の雷が、私の人生の最後の雷山行になるのだろうかな どと思いながら、このチャンスに会えたことの幸福感に包まれ、下山路をたどっていました。

バスに帰って万歩計を見ると、実際の時間は17時50分でしたのに、16時、37,000歩を指したまま、フリーズしていました。雷撃の誘導を受け たので しょう。オールリセットで再起動しました。仕方ありませんから、この日のデータには仲間の万歩計のデータ、40.000歩を採用しました。

11日目

カザンラクから西進、やがて南下し、人口38万人、ブルガリア第二の都市プロブデフを過ぎます。どの村も古いただずまいで、新しいものといえば道路 と車だけ、といった様子です。村の市場で西瓜を売っているのが、おばさまたちの目に止まりました。即、買い物です。「みなさん、掏摸に注意して下さい」と ガイドさん。私は外で写真を撮っていました。そういえばブルガリアに入ってから、東ドイツ製のトラバントという車を見かけました。ベルリンの壁が破られた ころ、東側の技術のおくれの象徴ともされた、パフォーマンスの悪さで悪名高き車なのです。ブルガリアでは、まだ200台に1台ぐらいの割合で走っているよ うでした。いまだに古いサニーに乗っている私としては、膨大な資源とエネルギーを費やし、温暖化ガスを排出して作った新車には浮気せず、使える物を大事に 使うことこそ、究極のエコ対策だと力みたいところです。

リラ山脈のリゾート地ボロベッツ(標高1360m)に入りました。この日も、午後は雷雨との予報でしたが、ここまでは抜けるような晴天です。スキー ゲレン デには、マウンテンバイクのルートが設けてあります。ヘルメット、脛当てなど完全装備をした若い人たちが、スキルに応じたコースを下っています。彼らは登 りはリフトを使います。


年月や村のバザーに夏の冷え


我々もリフトの頂上駅からトレッキングに入りました。この日はバルカン半島の最高峰ムサラ(2925m)に登る計画でしたが、天気予報がよくなかっ たの で、別の峠までの往復に変更したのです。多少心残りですから、展望台からムサラ峰を眺めました。登山者が稜線を歩いているのが見えました。しばらく山道を ゆくと、その先は林道を歩くようになります。2時間弱歩いたころ、ごろごろと雷鳴が聞こえたので足を早めました。峠の山小屋に飛び込むと同時に、ざっと大 粒の雨が襲ってきました。そして雷撃とともに地面が白くなるほど雹が降り、気温は11℃まで急降しました。

そんなことで、この日はもう15時半にはホテルに帰り、宴会です。西瓜を嫌というほど沢山食べました。西瓜は、この時期、ブルガリアではまだ早く、 ギリ シャから入ってくるそうです。

客室での内輪の宴会を終わり、夕食にエレベーターでロビーまで下りてゆきました。ロビー階でドアが開くと、前には人が溢れ、いまにも乗り込んでくる 気配で す。「わっ、ギリシャ人だ」と叫んだのは通訳さん、そして「降りる人がすんでから!」これは日本のおばさんです。

ギリシャからバスで100人ほど、観光にきているのです。「財政破綻させた人たちだ」と誰かがいいました。確かに、年金世代の団体旅行でした。

この夜は食堂でギリシャ人を観察していました。

思えば少年のころは、ギリシャこそ人類の文明が開花したところ、ピタゴラス、アリストテレス、ソクラテス、プラトンなど、あご髭が印象的な賢人たち を輩出 した素晴らしい国という印象を持っていました。

青年時代には、アメリカで、下宿の近くのドラッグストアの主人がギリシャ移民と知り、ギリシャ人も普通の人になりました。

オーストラリアを旅していたとき、移民を歓迎するオーストラリアに移民し、年金が付くとすぐギリシャに帰れば豊に暮らせる、そのため本国より、オー ストラ リアに住んでいるギリシャ人の方が多いと聞きそんな国民かと思いました。

最近の財政破綻をきっかけとした財政引き締めの報道では、10人にひとりが公務員であること、年金支給が高額であることなど、働かないくせに権利意 識だけ が強いという印象で伝えられています。しかし、ネットを読んでいると、統一通貨ユーロを採用するときに、外国製品、たとえばドイツ製品を買わせるような無 理なレートにされたという議論もありました。どの説が妥当なのか、私には判断できません。

食堂に溢れたギリシャの老人たちは、どちらかといえば背が低く、猫背が目立ちました。ギリシャ人を、国家財政を破綻させた人などと指弾するならば、 財政赤 字を見て見ぬ振りをしている我々日本人だって似たようなものです。私は、○○国人はこうだ、という意見には与したくありません。表面上、一定の差異がある のは認めますが、人類は結局、深層では共通性が高いと信じているのです。

12日目

この日はパニチステというところの、山上氷河湖巡りをする日です。昨日と同じリラ山脈ですが、さらに西になります。我々を乗せたバスは、駒ヶ根の 「しらび平」に登るような調子で、山道をぐいぐい登ってゆきます。そのあと標高1600mから2100mまで、スピードの遅い二人掛けリフトで30分弱か けて上ります。この日も天気は良くなく、朝もにわか雨が通り過ぎました。このリフトでは雨にこそ降られませんでしたが風か強く、すっかり冷えてしまいまし た。上にはホテルといってもいいような立派な山小屋があります。

雷鳴の遠ざかりゆく花野かな


ここから今日のトレッキングが始まります。右側の稜線と左の谷との間に、ゆるい起伏が連続した平な面があります。ここに氷河が作った湖が点在して いるのです。地質も、冬の気象や積雪の様子もわかりませんので、氷河がどんな様子だったか、想像しづらかったのですが、氷河の底で小石が削った擦跡やモ レーンは認められました。通年、残雪があるようです。雪が解けたばかりの場所にクロッカスの紫の花が咲き出していました。青々と水を湛えた湖が見えてきま した。氷河の作用でできた氷河湖なのです。その対岸の崖の上に瀟洒な山小屋が見えます。湖の右手の岩壁には、水が蜘蛛手になって落ちてきています。その上 には、次の湖があることが想像されます。あそこまでゆけば素晴らしい景色だよと、ガイドさんはなんとかして、全員を連れてゆきたそうです。

そのうち、登山道はちょっとした小川に行き当たりました。このところ連日の雨で増水しているのでしょう、ひょいと渡るわけにはいきません。渡渉点を 探して いるうちに、怪しかった空が暗くなり雷鳴が轟きました。危険を冒すわけにはいきません。残念ですが、撤退です。雨の中、三々五々下ります。草原ですから、 踏み跡が3筋も4筋もついています。私は登りが苦手ですから、道の良し悪しと関係なく、登りが少なくなる踏み跡を選んでは下っていました。雷鳴から判断す ると、雲中放電が多かったようで、それも暫くして遠ざかってゆきました。雨の中、一人きり自分勝手に道を選びながら、過去の山行を懐かしみ、またもや幸福 感に包まれていたのでした。


滝落ちて濁世の塵を払いけり


こんなわけで、折角、美しい氷河湖を見せようとしているのに、天候がはかばかしくなく早々に下ってしまったので、ガイドさんは代わりに温泉と絨毯の 洗い場 に案内してくれました。

温泉は小さな村の小さな公園にありました。説明はありませんでしたが、地下から温水が湧いていて、一旦、貯湯槽に貯め、どこかで使っているようでし た。少 量の蒸気を大気に放出していて、強くはありませんが硫化水素の匂いがしました。子供みたいに「どうしてここに温泉が湧いているのですか」と訊いてみまし た。変なことを訊く奴だなという空気が流れ「ブルガリアに火山はありません」と返事がありました。

しつこい私は、火山の徴候がないかと、バスの車窓から目を走らせていました。でも、ついに見あたりませんでした。帰国してから、ネットで「ブルガリ ア火 山」で検索してみました。その結果では、首都ソフィアにも温泉があるようです。また「死火山の火口」とか「第四期火山はない」というような言葉が散見され ます。確かに、噴煙を上げたり溶岩を流している火山はないとしても、いつの時代のものか、いずれにせよ加熱能力を持ったマグマが地下に眠っているようで す。もちろん前述のバラの谷、カザンラク市のカザンが火山と関係あるわけではありません。


熟女等の声湧き上がるお花畑

絨毯の洗濯場は、直径1m強の円形のタンクの壁に絨毯を張りつけ、川の上流から取った水をジェット状に噴出させ、旋回流を作っていました。1日に何 枚洗えるものか、のんびりした様子に見えました。

この二つの案件は、もしも世間一般のパックツアーに組み込まれているものでしたら、ちゃんとした説明が用意されていたことでしょう。でも、登山を雨 のため 早く切り上げた裏番組として、ガイドさんの好意で見せてもらったのです。私が外人客の登山ガイドをしていて、山の代わりの場所を案内したら、そのとき知っ ていること以外説明できない筈です。説明が明快でないのも仕方ないと諦めました。


13日目

前夜泊まったホテルから、一旦、リラの僧院を抜けて谷の奥まで入り、そこからトレッキング開始です。ブナの林を登ってゆくと石造りの小さな僧院があ りました。10世紀にイバン・リルスキィが最初に建てたものか、または途中、異教徒の迫害を避けて山奥に隠れたのか、そのへんがよくわからないのが悲しい ところです。日本の山岳信仰にもあるような洞窟があり、狭い岩の隙間を胎内潜りできるようになっていました。そのあと暫く巡礼道というかハイキングコース というか、美しい山道を辿ると、もうひとつ小さな僧院がありました。こうして、再び車道に出会うまで2時間弱、朝の森の中の快いトレッキングを楽しみまし た。

午後はいよいよリラの僧院の見学です。ここは世界遺産になっています。あまりにも有名ですから、次頁に写真だけ掲げておきます。ああ、あれかでお分かりに なることと思います。

人間集団とその纏まり方

この地域ではキリスト教といっても、ブルガリア正教なのです。

日本で、日頃、キリスト教といえば、カソリックとプロテスタントを思い浮かべることでしょう。でも、世界中のキリスト教徒の数からいえば、カソリッ クが 10.8億人、プロテスタントが3.5億人、正教会2.2億人なのですから、正教も決して小さな勢力ではありません。

正教はロシア正教、ルーマニア正教など、国ごとにあるのだそうです。また、カソリックではローマ法王が世界中を統治しているのと違い、各国の正教会 は、平 等、並列なのだそうです。

このリラの僧院で感じたことが二つありました。

ひとつは14世紀末から500年間、トルコつまりイスラム教の支配下にありながら、ブルガリア正教が許容されていた点です。オスマン・トルコは寛容 だった のです。




峰入りもここは外つ国リラの寺


国々を束ねて、帝国としてうまくやってゆくには、合理的寛容さを備えていることが必須の条件だと思います。帝国主義時代の最後に登場した日本は、天 孫降 臨、万世一系といったように、非常に精神論に偏り、ゆく先々で神社を作り参拝を強要するなど非寛容だったと思うのです。日本が極東の孤島であり、単一民族 であるという特殊性に根付いた思考体系からの帰結でしょう。現在世界を見渡せば、実際問題として、ひとつの国がひとつの民族で構成されているのは、むしろ 例外です。それらの国が、それぞれ問題を抱えながらなんとか、内乱もなくやっているのは、やはり、ケースバイケースで飴と鞭を使い分けているからなので す。それが国民の大多数の安定した生活を可能にしているのです。ある国が、国内の民族の違いから内乱になり殺し合っているのは、ある場合は理性を失った狂 乱の結果であり、また多くの場合、他国が自国の利益のため、どちらかの勢力に肩入れしていることが多いのです。日本のように単一民族で、そのあたりの事情 がわからないマスメディアが、教条的に民族自立を賛美し、独立と口にしさえすれば無差別に英雄視するのは、無思慮な所行といわざるを得ません。

もうひとつは、僧院の歴史博物館の展示で、ロシアの援助を讃えるトーンから導入されている点でした。ブルガリア正教がロシアに力添えを頼みに行き、 ロシア 正教の援助の基に栄えたのは事実でありましょう。また、ロシアの力でトルコの支配から独立をかちとったのも事実でありましょう。でも、客観的に見れば、ロ シア、ソ連が単なる好意で力を添えた筈がありません。実際、ブルガリアは、1989年まで強力な共産主義体制が続いていたのです。その時期に育った現在の 若い人たちは、コソボでNATOが爆撃をしたからアメリカは嫌い、ロシアはお友達という感情を持っているように感じました。

おおかたの日本人は、ソ連、ロシアと聞けば、第二次大戦の末期、不可侵条約を破棄して参戦し、たった2週間で千島・樺太を奪い、60万人の兵士に強 制労働 を課した、ひどい国だと思っています。他方、アメリカには、双手をあげて賛成ではないものの、世界各国の中では好意を感じています。ブルガリアと日本、両 国民の感情が異なる理由はいろいろ考えられますが、いずれにせよ、頭を冷やして判断することの重要性を考えさせられた思いでした。



この旅の勿忘草もあと三日

このあと、首都ソフィアに出る途中で、砂のピラミッドを見せてもらいました。徳島県、阿波の土柱(どちゅう)と同じものです。百万年ほど前、湖に川 が流れ込んでいる場所を想像してみましょう。川の流れが静かなときは、細かい砂が底に貯まります。洪水の時は、大きな岩も混ざってどっと流れ込んできま す。月日が過ぎ、ここが隆起し丘になります。雨で砂が浸食されます。そのとき岩の下は、雨がかからないので残ります。こうして土の柱ができるのです。ここ でも、理屈のとおり、土の柱が林立していました。砂はあまり固まっても、またパラパラでもいけません。阿波のものは130万年前に堆積したものだそうで す。土柱はチロル、ロッキーにもあって、これらも有名なのだそうです。

ピラミッドの見物で、灼熱の道を2時間ほど上り下りしてバスに戻ってくると、ガイドさんが「コノトオリオシャシントリマスカ」と聞きます。「この通 り、お 写真撮りますか?」いったい何のことだろうかと首を傾げました。バスでしばらく走り、ある街で写真を撮る段になってわかりました。「コウノトリの写真を、 撮りますか」と、聞いていたのです。押しつけになってはいけないと、気を遣ってくれていたのでした。

この日の夕食は、ソフィアの街にある外人観光客用のレストランでした。民族衣装の踊り子さんたちが踊りを見せてくれました。最後に、お客も参加し、 フロア を練り歩きました。私はこういうのは不得手なので、テーブルにしがみつき、ひたすらよそのテーブルを観察していました。どこの国にも、ひとりふたり、尻込 み屋がいるということがわかりました。

14日目

朝、ホテルの窓から雪を冠したビトシャ山が、すぐ近くに見えました。ソフィアの標高は550m、高原都市なのです。正午過ぎには列車に乗るので、そ れまで街を見物しました。

考古学博物館訪問の希望者は私ひとりでしたから、街の中心部にあるツムデパートで落ち合うことにして、ひとりで散策することにしました。みなさん、 そのこ とをとても心配して下さって、なにかあったらと携帯電話を持たせて下さいました。ところが時代遅れの私といえば、携帯電話を使ったことがないのです。にわ かレクチャーを受けました。

5000人を収容できるという、巨大、かつ豪華絢爛たるアレクサンダル・ネフスキー寺院は、例のトルコからの独立戦争で戦死した約20万人にのぼる ロシア 人兵士を弔う目的で40年かけて造られたものです。

その隣が国会議事堂です。人口750万人の国ですから、そんなに大きな建物ではありません。その前の広場に、トルコを打ち破って解放してくれた英 雄、ロシ ア皇帝アレクサンダル二世の騎馬像が建てられています。

大通りを西進すると聖ニコライ・ロシア教会があります。1913年にロシアの外交官クリロの命により建立された、と案内書に書かれています。さらに 進むと 巨大かつ威圧的な旧共産党本部の建物があります。

考古学博物館は、そのすぐ近くにあります。10時の開場を待って飛び込みましたから、お客は私一人きりです。真っ直ぐ「トラキアの宝」という金製品 を展示 している部屋にゆきました。どうして、どこの博物館でも金製品のところに行くかといいますと、金製品は錆びないので作られたままの状態で残っています。ま た、貴重な金属ですから、その時代の最高の加工技術が使われているので、文化の程度がわかるからです。

マケドニアの時代からAD4世紀のローマ時代まで、順を追って展示されていました。いずれも素晴らしいものでした。もっとも日本で開かれるローマ展 でも、 その頃の文明の程度は知っている筈ではあるのですが。

ヨーロッパの博物館の通弊ですが、3000年より古い時代については、まったく力が入っていません。キリスト教のアダムとイブの神話に合わない展示 は、不 信心と見なされる懸念が、底流にあるからでしょうか。


眺められ眺めつ炎天長停車


余った時間、足に任せて館内を歩き廻りましたが、要するにローマの遺物を見ている感じでした。ローマとトラキアの遺物がどう違うかなどは、私にはまったく 手に負えないレベルのことになります。いずれにせよ、想像以上立派な博物館でした。

オーストリアのウィーン行きの国際列車は、ブルガリアのソフィアを出るとき、寝台車1両、客車2両の3両編成でした。見送りにきてくれたガイドさん が、こ のオンボロ寝台車を「ワンスター・ホテル」、一つ星のホテルだと言ってくれました。ウィーンまでのあちこちで増結され、最終的には10両ほどになっていま した。電化区間が多いのですが、未電化でディーゼル機関車が引っ張る区間もありました。

ツアーリーダーさんが真剣な表情で申し渡します。

「これから明日の朝までは、半端じゃない危険な旅です。最近でも、強盗にしょっちゅ襲われています。停車中、ホームには絶対出てはいけません。ドア の鍵も 常時ロックしておいてください。トイレに行くときだけは、しかたありませんが」。不謹慎な私は、なにかあれば紀行文の種ができて、と思ったことでした。幸 か不幸か、警告が奏功したのでしょう、何事も起こりませんでした。

一部屋二人でしたが、三人用の設備の下二段を使っているような感じもしました。二段目が本来は折り畳めるのに折り畳んでないようで、頭がつかえて腰 掛けら れません。寝ころぶか、立っているしかありません。結局、日本人たちがぞろぞろ通路に立って、賑やかに喋っていました。


窓からの景色

こんどの旅行では、ルーマニア、ブルガリア、セルビア、ハンガリー、オーストリアを、バスや列車の窓から見て歩いたことになります。都会は、ある意 味でショーウインド的なものですから、国情の違いは、大都市でなくて普通の町の様子に現れています。そのような目で見ていると、国境を過ぎると、国情が歴 然と変わって見えることを感じました。

ひとことでいえば、一人あたりのGDPが低い国では、古いものをそのまま使っていて新しいものがない、という印象です。私は昔の商売柄、とくに発電 所に目 がゆくのですが、これはもう完全に新しいものが見られませんでした。

ただ、道路と車だけは、どこでもかなり新しいものが使われている印象でした。それだけ、今の世の中に必須のものなのでしょう。

10年ぶりのハンガリーは、見違えるほど活気に満ちていましたし、オーストリアまでくれば、もう完全に先進国グループのたたずまいでした。

今回通り過ぎた国のデータを挙げておきます。
  人口 万人 面積km2 GDP/人 失業率 寿命 男/女 兵力 
ルーマニア 2,200 23,8 8,000 7.6% 70/77才 73,000
ブルガリア   760 11,1 7,000 6.9 70/77
セルビア 740 7,7 6,000 17.4 71/76 27,000
ハンガリー 1,000 9,3 12,000 10.0 70/78 25,000
オーストリア 830 8,4 29,000 5.4 78/83 ?
日本 12,700 37,8 40,000 5.1 79/86 240,000


一人あたりのGDPが一番低いセルビアについての印象を、ひとつだけ挙げておきます。

首都ベルグラードの駅には、引き込み線が沢山あります。その引き込み線には、これまた沢山の有蓋貨車が停めてありました。停めてあるというより、う ち捨て られているといったほうが正確でしょう。それが浮浪者の住処や子供の遊び場所になっているのでした。ベルグラードのほかにも、この国の幾つかの駅でそんな 様子が見られました。

経済の規模が縮小し、過去の設備が不要となり、そのうえそれを整理する力もないというように見受けられました。実を申せば、これは人ごとではなく、 いま キーボードを叩いている私の身の回りも、そんな嘆かわしい様子なのですが。

セルビアという国は、流転を繰り返してきました。つい最近でも、2006年にモンテネグロ(人口62万人)が離脱・独立、さらに2008年にはコソ ボ(人 口220万人)が分離独立を宣言しました。でも、セルビアとしては、コソボの独立を認めず、認めた国からは大使を召還し対抗処置をとっています。2009 年12月、EUへの加盟を申請しましたが、まだ認められていません。国際列車も、この国の国境を出入りする際には、パスポート・チェックがあるのです。

今週、こんなニュースが入りました。「国連国際司法裁判所は7月22日、コソボがセルビアからの独立を宣言したこと につい て、合法であるとの判断を示した。今回の判断は勧告的意見であり、法的拘束力はない。コソボの独立宣言以来、米国や英国、日本を含む多くの国がコソボを独 立国家と認めているが、ロシア、中国、ボスニア、スペイン、ギリシャなどの国々は認めていない。今回の判断を受け、独立を求める他の地域が独立宣言に踏み 切る可能性もあるとみられる。一方、セルビアのイェレミッチ外相は失望感を示し、セルビアは世界の他の地域に「危険な分離独立主義の先例」をもたらさない 「平和的な妥協的解決」を求めていたと述べた」。

もし、今回、セルビアを列車で通っていなかったら、こんな記事が目に止まったとは思えません。これも旅行の功徳で す。

個人の顔・国の顔

ルーマニア・ブルガリアでは、身近に接した人たちから、大変親切にしてもらいました。あるガイドさんは、絞りたての牛乳を持ってきて飲ませてくれま した。また、通訳さんは「母が作ってくれたものですが」と手作りのお菓子をくれました。こんなようなプライベートなプレゼントは、日本ではもう絶えて久し いように思います。賞味期限だとか添加物だとか、クレーマー・クレーマーが花盛りの、いやな世の中になってしまいました。

国の体制が不安定で貧しいセルビアの人たちも、列車強盗の国のように噂されるハンガリーの人たちも、身近に接して見れば、素朴な親切な人たちだろう と想像 します。

それぞれの国の人たちは、自分の意志でその国に生まれたわけではありません。

個人と国家について、つくづく考えさせられます。「前世の因縁」としか、いいようがないではありませんか。

私に、お前そんな国で暮らせるかと聞かれたら、暮らせると答えるつもりです。

いわゆる生活レベルは下がり、寿命も10年ほど短くはなりますが、周りの人となんとか仲良くし、死ぬまで生きてゆけると思うからです。


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