冬のロシア
(2005/03/04〜12)
日付:2005/4/20
「じっくりロシア文化を楽しむ9日間」というのが、こんど参加したツアーの名前でした。
現実に訪ねたロシア文化の対象物を思いかえすと、エルミタージュ美術館、エカテリーナ宮殿、マリインスキー劇場、ボリショイ劇場などのほか,ロシア正教の教会、修道院がたくさんありました。
個々の対象の記述は観光案内や解説書にお願いすることにして、あい変わらずわたくし個人の独断と偏見に満ちた感想を主体に述べさせていただきます。
今回は文中のところどころに【 】で囲って、ロシア小話、アネクドートを散りばめてみました。
やってみて感じたのですが、どうも最近はロシア小話の秀作が見あたらないのです。ペレストロイカのせいじゃないかと思うのです。人生という劇場は、悪役がいないと面白味がないのですね。
日本でも「このごろ都に流行るもの、夜討ち、強盗、偽倫旨、召人、早馬、空騒ぎ、生首、還俗・・・」と続く二条河原落書は、都が焼け野になった乱世の作品であります。とかく世の中が落ち着くと、反骨文芸は低調になるのでしょう。
ま、ご同慶の至りです。
【このごろの玩具ときたらひどい品質だ。壊れて危ないものさえある。
こんな状態でむずかる子供をどうやってあやしたらよいか、と母親が文化相に訴え出た。
文化相は落ち着いて答えた「玩具を買ってやるとおどしなさい」】
●冬のロシアに行く日本人
わたしがスナックのママに「来週、ロシアに行くよ」というと、いかにも心配そうに「ロシアって、なにか怖いみたい」といってくれました。
「こんな寒い冬に、寒いロシアにゆくなんて気が知れない。どんな変人がゆくのかしら。顔をみてみたいわ」と哀れむようにおっしゃったのは、当家の奥方です。そして「年寄りが多いと思うよ」というわたしに「若くて元気な人たちにきまってるわよ」と反論なさるのです。
実は、昨年も真冬にロシアへゆくツアーに申し込んだのでした。
でも、参加者が少なくて成立しませんでした。ことしも2月出発のに申し込みましたが、やはり成立しませんでした。
ですから郵便受けに旅行社からの封筒がきているのをみて、また不成立なのかと思ったのも無理ではないでしょう。ところが有り難いことに、最少催行10名とあるのに、7名しか参加しないのにやってくれるとの通知でした。
成田空港に集まった客は、実際は6名、男は、かく申す75才のわたくしたったひとりでした。
家内が想像したように、みなさん元気なことは間違いもありませんが、わたしの妹ほどの年格好のかたもいらっしゃいました。
そして、女性5人のうち友達同士だったのはおふたり、つまりあとの3人はおひとりずつバラバラに申し込まれたのです。外面如菩薩内心如弁慶!
わたしだって、天下無敵の日本女性の中に男がひとりだけと知ったうえで申し込んだのなら、その勇気を称賛していただけるのかもしれませんが。
なんにちかご一緒しているうちに、みなさんに共通している点は、要するに前向きの姿勢をお持ちなのだと、わかってきたのです。
どなたもロシアは始めてでした。とうぜん初めて食べるものが多いのです。
それなのにいつも、すべての皿に手を出されました。
「まずい」という言葉は最後まで聞かれませんでした。そして「これ、なにが入ってるのかしら」、「こんなお料理の方法もあるのね」そんな言葉の連続だったのです。
ウラジーミルのレストランで出てきたミネラルウオータはガス入りでした。
ガイドさんが「すみません。すぐ取り替えます」と、おお慌てしました。
よく、ガイドブックには「ヨーロッパのレストランでミネラルウオーターを注文すると、たいていはガス入りが出てきます。ガス入りは日本人の口に合いませんから、xxxといってガスの入ってないのを頼みましょう」と書かれているのです。
それなのに今回のメンバーでは、取り替えてもらったのは、おひとりだけでした。
「わたしはこれがいいのよ。いままでのお店でも、お願いすればガス入りにしていただけたのかしら」とまでおっしゃるかたがいらっしゃったぐらいです。
日本へ帰る日、わたしたちは空港のチェックインデスクにならんでいました。50才格好の日本人男性が、わたしたちのグループの途中に横入りしました。団体さんというものはぐじゃぐじゃと固まり、ちゃんと一列には並ばないものです。そのおじさんは曲がったところに、いかにも自分のほうが由緒正しとばかりにくっつきました。しばらくして、自分の失敗に気づかれたのかもしれませんが、ともかくそのまま押し通し、出国審査を通過したころは影も形も見えませんでした。普通の人間とは一緒にヤッテレレルカ、というお考えのかたなのでしょう。
アエロフロート航空ボーイング777機の客室最後尾には、トイレと機内サービスに使うスペースがあります。
用足しにゆくと、その公衆便所の前のスペースに何人かの日本の若い男女が車座になって座っていました。女の子は、若い人特有の、あのあごのはずれたような話し方の嬌声をあげていました。
しばらくして、お兄ちゃんがもどってきて、頭上の荷物入れからお土産らしきウォッカを出してもってゆきました。彼らはおおいに盛り上がっていました。
わたしの若かったころ、大陸浪人という言葉を聞いたことを覚えています。
自分の腕一本をたよりに、波乱に満ちた社会のなかで一旗あげようという、生活力の旺盛な人種をそう呼んだという印象があります。
こんなシーズンにロシアに行ってみようという日本人は、平均より生活力の強いひとたちなのかもしれません。
今回同行させていただいたお仲間は、ある意味で変わった人たちなのかもしれません。でも、よいほうに変わった人たちだったのは、とてもしあわせでした。
【チェコの代表がモスクワを訪れ軍艦を供与して欲しいと要請した。ソ連側はびっくりしていった。
「どうして?貴国に海はないではありませんか」。
するとチェコ代表は平然としていった。
「でも貴国ソ連にも文化省があるではありませんか」】
●変わった国
「おまえ、なんでロシアなんかにいくんだ?」と不審そうにいった人がありました。
ロシアが想像できないほど変わった社会であるという気はありません。
でも、ちょっと変わったところがあることも間違いありません。
変わっていると感じたことをならべたててみます。
成田からモスクワまでは10時間前後のフライトです。
往きも帰りもアエロフロート航空では「ビデオは故障しております。上映できませんのでご容赦ねがいます」とアナウンスがありました。
たいていの海外パックツアーでは、出発の半月か10日前には集合場所、搭乗便名、滞在ホテル名などを連絡してくるものです。
ところが今回は一週間前になってもこないのです。
ロシアのお役所の手続きは、普通にやるとたいへん時間がかかるが、ワイロを使えばすぐに解決するのだといわれます。
交通事故を起こしたとき、救急車に乗せてもらうときからワイロが力を発揮するのだなどいう話は、「お噺し」として楽しんでいるのではないかと思うのですが。
なにせ今回はパック旅行だから気楽なものです。責任を旅行社にあずけ、おおかたワイロを使わないで窓口で並んでるんじゃないかなど、わたしもロシア小話を楽しんでいました。
詳細スケジュールは出発5日まえに、やっと到着しました。
ロシアに行くには査証(ビザ)をとる必要があります。
そのビザをとるのはなかなか面倒なようです。
まずロシア国内での全日程、ルートを決めて、宿泊ホテルを決め、旅行社を通じて予約、全代金を日本で支払ったあとでないとビザをもらえないのです。
そして入国の時に渡されたレギストラーツィヤという紙を毎回ホテルに提出し、たしかに宿泊したことを証明するスタンプを押してもらわないと出国できないのです。
わたしたちは成田空港で降雪のため出発が遅れ、その日のうちにサンクト・ペテルブルグまでゆけなくなりました。そのためモスクワで一晩臨時に泊まりました。個人旅行だったら面倒なことになったのだろうと思います。
帰国の日、モスクワ・シェレメチュヴォ空港のゲートの前の待合所には椅子が足りませんでした。わたしたちの9番ゲート成田行きはボーイング777機ですから、乗客は300人ほどです。廊下に並んだ椅子は、始めから、もうぜんぜん足らないのです。
みんな諦めて近くの階段に腰掛けています。わたしもその仲間に入れてもらいました。
機内への搭乗案内が始まりました。ところが長い列の動きがときどき止まるのです。近くにいってからその原因がわかりました。
搭乗券を手でもぎっているのは女性ひとりで、20枚ほど集まると、机に向かって座席表に搭乗済みの番号を消し込んでいるのです。効率を上げるとか、サービスを向上させるとかのインセンティブがなかった共産主義時代から抜け出すのは容易ではないようです。
ガイドさんがキャッシュカードは使わないでルーブルで支払いなさいと勧めるのです。なにせ相手が馴れていないので、間違ったりその訂正に時間がかかったり、ともかく団体行動として大変困るということでした。
また、現地ガイドさんにもらった名刺にはeメールアドレスがありました。帰国後、メールを送ってみると届きません。
使った日本の旅行社に話すと「使うパソコンによって届かないことがあるようです。わたしがいま使っているのからも、届いたり届かなかったり・・・」と返事がきました。
ネットシステムの実態と、そのことへの不信感は、まだ相当なものです。
アメリカでは、見ず知らずの人と目が合うとニコッと笑いかけられます。
いつも、あわててこちらも口の端をゆるめては、外国へきたんだなと心を引き締めるのです。
ロシアの人たちは目が合っても、われわれ日本人と同様、さっとそらせるのが普通のようです。
朝7時に開くホテルの食堂に6時58分にいって、ドアをガチャガチャさせても開けてはくれません。そして7時になっても「お待たせしました。どうぞ」などいってはくれません。ただ入ればよいのです。
このように態度が違っても心が違うわけではなくて、どちらが親切とか不親切とかいうことは関係ありません。ロシア人はハニカミ屋のようにみえます。
【モスクワの兵器工場で、出勤してきた3人の男が逮捕された。
10分前に出てきた男はスパイ容疑で、10分遅れた男はサボタージュで、きっちりにきた男は日本製かスイス製の時計を持っていることが証明されたからだ。】
●二度目の夕暮れ
一日に2回、夕暮れに会ったのです。
普通の世界地図を見てください。縦の線(経線)がまっすぐなやつです。
東京とモスクワに定規を当ててみましょう。西に向かってソウル,北京、ゴビの砂漠、そしてあまり馴染みのないカザフなどを経てモスクワがあります。
でも、飛行機は最短距離をゆきます。最短ルートを知るためには、地球儀の東京とモスクワとのあいだに糸を張ると分かります。弛めば長いのですから、ピンと張るのです。まず、ウラジオストックに向かい北上します。その後、だんだん西寄りに進路をとり、バイカル湖の北端を経由、東経80度では北緯60度を越えるまで北上、真西に向かい、その後、やや南寄りに進路を変えながらモスクワに到着するのです。
この項目の話をするには、太陽が東から昇り西へ沈む、天動説のほうが説明しやすいのです。
太陽は1日24時間で360度回りますから、1時間で360÷24=15度東から西に動きます。
西瓜を半月形に24等分したことを想像してみましょう。真ん中が厚くて端っこは尖ります。おなじ15度でも、真ん中の赤道と端の北極で距離が違うことが分かりますね。
ジェット旅客機は強い追い風をうけると1時間に1000km以上も飛びます。
地球の赤道の長さは約4万kmですから、ジェット機は1時間で360×1000÷40000=9、約9度移動するのです。
さて西瓜を上の方で水平に切ると、小さな円になります。北緯70度に相当する位置で切ると、円周は赤道の0.38と短くなります。ここならばジェット機はおなじ1時間、1000kmでも、24度も飛ぶことになり、太陽の15度より早く移動するのです。
ジェット機が成田を出発し北北西に向かっている間は、太陽はどんどん西に沈んでゆきます。ところがシベリアの高緯度の地点で西に向かって飛ぶときは、太陽よりもジェット機のほうが早く回ることになり、それがたまたま夕方だと、いったん暗くなったのがまた明るくなるのです。
今回は、まさにそういう時間帯だったのです。
【問「わが国の首脳陣の半分は馬鹿だというのは、ほんとうでしょうか?」
答「馬鹿げています。もしそうなら、あとの半分は馬鹿ではないということではありませんか」】
●サンクト・ペテルブルグ
サンクト・ペテルブルグは北緯60度、カムチャツカ半島の付け根ぐらい北の位置になります。この緯度では極東シベリアは寒すぎて人の住みつく都会はありません。ところがヨーロッパではメキシコ暖流のおかげで、北緯60度にもオスロー、ヘルシンキなど大都会があるのです。
サンクト・ペテルブルグは人口420万人、ロシア第2の都市です。前大統領のエリツィンがモスクワの出身であるのに、プーチンや過去の偉人レーニンがサンクト・ペテルブルグ出身とあって、東京と大阪のように張り合う気風があると、街の雀どもが申しておるそうです。
この街はソ連時代の名前はレニングラード、ドイツ軍に900日包囲されました。80万人の犠牲者を出しながら寒さと飢餓に耐え、守り通しました。
エルミタージュ美術館はサンクト・ペテルブルグの市内にあります。その収蔵品の質と量は大英博物館、ルーブル美術館に勝るとも劣らないといわれます。
ここを都と定めたピヨートル大帝の娘、エリザベータ女帝は無軌道、派手な性格で、金にあかせて宮殿の建設や美術品の収集に情熱をそそいだのです。次のエカテリーナ2世も強力なツアーリでしたから美術品の収集はさらにすすんだのでした。
レオナルドダビンチ25才の作品
エルミタージュ美術館にはレムブラントの作品がたくさん並んでいました。かれの作品をたくさん集中的に見て一種の陶酔感を感じさせてもらいました。
また、有名なレオナルド・ダビンチの聖母子の絵がふたつ、10mほどへだて、向かいあって飾られています。25才のときの作品のマリアは子供っぽい表情です。35歳のときの作品はまさに女に目覚めた女性の顔に描かれていました。
一枚のキャンバスに14の絵が、双六のように描かれている作品にも興味を引かれました。周りの小さな絵は、それぞれ人間が犬を使っていろいろの動物の猟をしている図です。中央には上下ふたつの大きな絵が配されています。
上は人間が大きな象の前に引き出されています。縄を持って引き立てているのは後足で立った熊です。象のしっぽを握っている実力者はライオンです。
つまり、人間と動物の地位が逆転して、人間が法廷に引き出されている図なのです。
下の大きな絵は、人間の同志である犬たちは絞首刑となり、木にぶら下げられています。人間は火であぶられ、動物たちにバーベキューにして食べられているのでした。
レオナルドダビンチ35才の作品
サンクト・ペテルブルグからバスで約1時間走るとプーシュキンという町に入ります。フィンランド湾からここまでずっと平らですが、ここまでくると標高40mほどのなだらかな高まりになります。
大戦中ドイツ軍はここまで進み、900日にわたってサンクト・ペテルブルグを包囲していたのでした。
エカテリーナ宮殿の近くでマイクロバスを降りると、軍楽隊の服装をした男たちが4人、トランペット、ホルンなどで君が代を演奏して迎えてくれました。そのおおげさな歓迎には、総理ならぬわたしたち庶民はすっかり度肝を抜かれてしまいました。アルバイトなのだそうです。
厳寒の土地ですから、管楽器のバルブのあたりは奏者の手を含めてダウンらしきウォーマーで覆ってありました。
この宮殿も、あの出来損ないのエリザベータ女帝が贅を尽くした建物です。
部屋ごとにドイツ軍が破壊した写真が展示してあります。ドイツ人はここは訪ねたがらないことでしょう。
琥珀の間の琥珀はドイツが持ち去り、いまだに所在不明とのことです。
この琥珀の間だけは撮影禁止になっています。琥珀はロシアの土産店でいっぱい売っているぐらいですから、世界に誇るものなのでしょう。
そういえば、ダイアモンドもロシアは南アフリカと競う生産国なのだそうです。
ここの大広間は、ロシアに漂着した大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に帰国させて欲しいと嘆願したところなのだそうです。
ロシアは日本に領土的関心を持っていました。それで日本との外交接点を求める意図を含んで帰国させたのであろうとされます。こうして幕末の北方領土問題のキナくさい時代へとつながってゆくのです。
【X線がレントゲンの発見だというのは誤りで、ロシア人なのだ。
すでに1604年ロシア貴族モロゾフが夫人宛に書き残している。
「オレはオマエのすべてを見透しだ。このバイタめ!」】
●歌劇、バレー、聖歌、民謡
サンクト・ペテルブルグ市ではマリインスキー劇場で「ルスランとリュドミラ」というオペラを見ました。大筋は白雪姫のようなものです。英語の文字が舞台の幕の上にでるので、おおかた理解できました。
いま、日本の能でも、同じような解説を流す設備があるようです。この劇場で自分が外人になってみて、くわしくない人にも結構わかりやすい方法だと感心していました。
この劇場は1847年設立、ソ連時代はキーロフ劇場と呼ばれていました。
チャイコフスキーが作曲した、魔女、クルミ割り人形、眠れる森の美女をはじめ、ほとんどのロシアの古典バレー、オペラミュージックはこの劇場から世にでたのでした。
安っぽい折りたたみ椅子を鉄のフレームにくくりつけたような固い座席でした。それに4時間座っているのは、ちょっとした苦行でした。
家族連れが多くて子供がたくさんいました。出し物にもよるのでしょうが入場料が割安なので、気楽にきて楽しんでいる雰囲気でした。このあたりの事情はウインのオペラ劇場でも同様に感じました。高価で堅苦しい日本の観劇のほうが特殊なように思います。
モスクワのボリショイ劇場では、バレー「眠れる森の美女」をみました。これも筋は白雪姫のたぐいに入れてもよいでしょう。ともかく知っているメロディーがでてくるだけに、よけいに楽しめました。
このボリショイ劇場に運命を託した音楽家は、グリンカ、ムソルグスキー、チャイコフスキー、リムスキーコルサコフ、プロコフィエフ、ショスタコービッチと枚挙にいとまありません。
バレリーナというものは美しいものです。西洋の女性はどうしてあんなに手や足が長いのでしょうか。とくに、腕から指先まで、計算され尽くした美しさを見せてくれます。あの伝統の長さと深さ、そして舞台の上で極度の緊張感を保ちつづける力量など、ただただ感心して見させてもらいました。
劇場の入り口をくぐり、頭や肩に積もった淡雪を振り落とし受付にゆくと、厳しい持ち物検査がありました。お姉さんがわたしのビデオカメラを指さして、決して撮るではないぞと厳しく警告しました。
ところが劇場内でロシア人たちは写真をバンバン撮るのです。だれだって開演前に、きらびやかな劇場内部をバックに自分の記念写真ぐらい撮りたくなりますよねぇ。
そしてそれぐらいなら撮っちゃいけない理由なんかないのだと思います。
ところが上演中にも結構撮るヤツがいるのです。とうぜん舞台までフラッシュがとどくわけもないのですが、ときどき客席でフラッシュがピカッと光っていました。
この違法フラッシュ撮影はボリショイ劇場でもマリインスキー劇場でも同様でした。
いまロシアのこの階級の人たちにはデジカメが大流行のようです。みんな嬉々として撮りあっていました。
そんな彼らを見ながら、わたしは昔、従兄弟から聞いた話を思い出しながら感慨にふけっていました。
わたしの従兄弟の家族は第二次大戦敗戦時、朝鮮のソ連国境に近い羅津にいました。叔父が教員をしていたのです。
叔父は戦後の混乱のなかで発疹チブスで亡くなってしまいました。そして叔母と二人の子供が着の身着のままで日本に帰ってきました。叔母は当時の大宮市の旅館で女中をつとめ、従兄弟は名古屋のわたしの家に寄宿していたのでした。
従兄弟は、ソ連軍が入ってきて日本人から腕時計を略奪し、3つも4つも腕にはめていたといっていました。
かれはロシア兵のことを露助(ロスケ)たちが、といいながら、かつは憎み、かつはその頭の弱さ軽蔑しておりました。
今度のロシア旅行からもどり成田から東武電車に乗り込むと、向かい側に座った7人のうちの3人がケータイをつつきだしました。そのとき「ああ、日本に帰ったのだな」と強く感じたのです。
ロシアでもケータイは使われています。モスクワのように駐車場がなくて交通渋滞が常態になっているところでは、パックツアーのガイドにとってケータイは必需品だといってもよいでしょう。
でも、ロシア全体でみると、ほぼ半分の人がいまでも電話なしで暮らしているといいます。ぜんぜんケータイ中毒が蔓延している状態ではありませんでした。
いったい、あのロシア人たちが、ちいさなケータイを指でつついて「君を好きだよ」などメールしている情景が似合うとは思えないのです。かれらなら、直接、自分の口でいうでしょうね。
劇場でデジカメのフラッシュを光らせているロシア人たちは、腕時計を一杯腕につけていた兵隊さんの孫たちなのでしょう。新しい玩具を手にしたことが嬉しくて仕方ないといった風情でした。おそらくフラッシュがどの距離までとどくとか、フラッシュを除外することができることなど知らないのだと思います。
1億4千万人のロシア人たちを一括りにできるわけはありません。でも、エリートではないロシア大衆に限れば、機械との相性がよいようには思えませんでした。
たとえてみると、透き通るような伊万里の磁器に比べた厚ぼったい常滑の土管、京都のお公家さんに対する田舎のお百姓とでもいったような素朴さが感じられるのです。
だから、あの上演中のフラッシュでも、わたしはおおらかに許したくなりました。目くじらを立てては、いかにも島国根性といった感じになるのではないでしょうか。
ボリショイ劇場の入場券だけは日本で旅行社経由で購入しました。ここだけはぜひ観たいと思っていたからです。まずはインターネットで探しましたが、わたしには見つけられませんでした。ロシアではインターネットが日本ほど普及していないのだろうと思います。
チャイコフスキー劇場にもゆきたいと思っていました。でも、ここなら現地ホテルで買えばいいと判断し、事前には購入しませんでした。
現地で買うにあたって、個人旅行ならば切符を買ってから次の行動に移ればよいのですが、パック旅行では共同のスケジュールが優先です。なかなか思った場所、思った時間をとることができませんでした。
モスクワ市での泊まりはロシアホテル、5500室もある大ホテルです。ここで時間を盗んで案内所にゆき、どこで切符を買えばよいのか尋ねようと思いました。でも、大ホテルだけあって案内所に大勢お客が詰めかけていました。列を作るでもなく勝手に係を捕まえて質問していました。あんな大男たちに伍して、ロシア語で話をするなんて思いもよりませんでしたから、さっとチャイコフスキー劇場はあきらめました。
ついでながら、かってはソ連の栄光の象徴であったこのホテルも、あまりにも巨大であるため、万事において非能率で、来年閉鎖されることが決まったそうです。
われわれ一行のうち3人は、日本でチャイコフスキー劇場のでチケットを用意され、首尾よく見に行かれました。あとで音楽会の様子を聞かせていただいたのです。「ロシアのお祭りのテーマ」という出し物でした。各地方の民族衣装で、ソロあり、大合唱あり、大変に楽しい夜だったそうです。観客も有名歌手が登場すると舞台に近寄り握手を求めたり、花束を差し出したり、写真はバチバチとるし、観客席で自薦指揮者をつとめる人がでてきたり民謡大会みたいな盛り上がりだったそうです。
チャイコフスキー劇場といえども、紳士面してシンフォニーなど聴いているばかりじゃないんですね。
そうそう、わたしがマリインスキー劇場にいった夜のことです。おひとりでサーカスを観にゆかれたかたの知見をご紹介します。
ロシア男性の案内人が連れていってくれたのですが、席がわからないといけないと、親切に席のところまで案内してくれたのです。その男性が改札のところで「席に案内したらすぐ戻るから」と切符切りのおばさんにいったところ、「保証におまえの帽子をあずけてゆけ」といったそうです。帽子なしでは寒くて死んじゃうものねと感想を述べておられました。
スズダリでのスケジュールには、ロシア民謡付きの夕食と書いてありました。
ほかのお客さんたちと一緒に、ボヤーと眺めているのかと思っていましたら、わたしたちが主賓格になっていて、挨拶され正面で演じてくれました。
すべて素晴らしかったのですが、なかでもノリの良さは最高でした。
よそのテーブルから、盛んに口笛や拍手がとびました。
わたしたち日本人といえば、ときどき手拍子をうったほかは、静かに聞かせてもらっていました。
そのうち、きれいなロシア娘がダンスに引っ張り出しにきました。
最初は添乗員さんが誘われました。これは給料のうちですから、当然のつとめだと思っていました。
何曲かめにもう一回誘いにきました。こんどは男性の番です。
ピンチ!、男はわたししかいないじゃないですか。
こんなとき、若いころは牡蠣が殻にしがみつくように椅子にしがみついて離れなかったものです。
でも、いまは大人です。流れにまかせていれば一番無難に過ぎ去ってゆくことを知っています。素直に手を引かれました。
楽団の何人かと手をつないで輪になって回ったり縮まったり、ふたりが手を挙げて門をつくっている下を潜ったり、まあ、幼稚園の子のようにかなりドタバタしたのです。
戻ってくると、仲間から、ずいぶん激しい踊りでしたねといわれました。
そしてナプキンをつけようとして気がついたのです。社会の窓、当節では非常口ともいうようですが、ズボンのチャックが閉まっていなかったのです。
年相応の認知症はしかたないとして、日頃家でトレパンで過ごしているせいでチャックと縁遠くなっていると、いいわけさせてください。
ま、とんだ「みっともないでショウ」を披露してしまいました。
スズダリの修道院では、ちょうど合唱のパフォーマンスに出くわしました。
男性3人による聖歌です。
歌い出しの柔らかな幽かな歌声に、いきなりこの世ならぬ雰囲気を感じました。
素晴らしいハーモニーでした。
わたしがもっともうたれたのは、声の柔らかさ、声量の巾、そしてたっぷりした余裕でした。100ワットの能力のあるアンプ・スピーカーシステムを10ワットで使っているとでもいったらよいでしょうか。
声量をしぼったところでもはっきりきこえるのは、教会堂の構造と歌手の立っている位置が計算し尽くされているのでしょう。
セルギエフ・ポサートの修道院の礼拝堂では信者たちが長い列を作って聖壇にぬかずき祈りを捧げていました。蝋燭の煙ですすけた暗い聖堂に、女声賛美歌が絶えることなく流れていました。これも柔らかく静かで神秘的な雰囲気を醸成していました。
あと何年わたしの寿命があるのかしれませんが、ロシアで生の教会音楽を聴いたお陰で、ヘンデルやバッハのこのたぐいの調べを、これからはイメージを持ちながら聞くことができるようになったのは、まったく有り難いことでした。
【ブレジネフがソフィア・ローレンを迎えます。
「どんな願いでもかなえてあげよう」
「どうか、おねがい、希望者を全員出国させてあげて」
「ソフィア、まさかとは思ったけど、ほんとは二人っきりになりたいんだね」】
今日もネギ坊主 明日もネギ坊主 そして華麗な十字架