サンチャゴ巡礼
(2007//05/30〜06/16)
今回の旅に出てくるサンチャゴとは、スペイン北西部にある人口9万人弱の都市の名前です。もう少しで大西洋岸に達 する、ヨーロッパ大陸の西の端にあります。
サンチャゴはローマン・カソリック教の三大聖地の一つであります。ほかの二つ、エルサレムとローマとはよく知られていますが、サンチャゴを知っている日本 人は稀といってよいでしょう。キリスト教国でも、本当によく知られているかどうか、確かめたい気がしてくるぐらいです。
スペイン語のサンチャゴはフランス語ではサン・ジャック、英語ならばセント・ジェイコブ、日本の聖書では聖ヤコブです。彼はイエスに従った十二弟子のなか で最初の殉教者になったのでした。
中世末の日本に対するヨーロッパ諸国の進出・布教は、ポルトガル、スペイン、オランダの順になされました。1637年、天草四郎率いるキリシタン衆が「天 皇陛下万歳!」ならぬ「サンチャゴ!」を唱えながら幕府の陣営に突入したという説もあります。スペインに大きく影響されていたのです。
9世紀以来、サンチャゴを目指しヨーロッパ各地から貴賎を問わず老若男女、大勢の巡礼たちが集まりました。一時期イスラムの支配下にあったこの地方を、レ コンキスタ運動によってキリスト教の復権をめざした時期、つまり11世紀頃には年間50万人とも100万人ともいわれる信者たちが押しかけたといわれま す。
サンチャゴ巡礼の名の付いた巡礼路は幾ルートもあります。私たちが訪れたのは、フランス南西からのもので、全長800kmとも900kmとも称されます。
日本にも、熊野詣の最盛期が11世紀から13世紀、京都から往復700km弱、また四国八十八カ所では17世紀以降、距離1400kmなど、似た信仰の道 があります。
どんな距離を旅したのか比較のために、カーブの多いJR在来線で距離を調べてみました。
巡礼の道の全長800kmは、名古屋から仙台までが717km、盛岡までが901kmありますから、その中間ぐらいです。
全長800kmのうち、最初と最後を歩き、途中はバスを使いキセルしました。
自分の足で歩いた最初の65kmは、名古屋ー豊橋の73kmより少し短いのです。仕上げの部分で歩いた156kmは、名古屋ー島田が159kmといえば大 体の感じはつかんでいただけるでしょう。
1日あたりの歩行距離としては、28.7km、28.8kmと2日連続で歩いたのが長い歩行記録です。
赤塗りは徒歩、点線はバス、断面図は左が 東
最初、スペインの夏の旅と聞いて、暑さとの戦いだと覚悟しました。
でも、道が通っている緯度は、札幌とほぼ同じ北緯43度付近です。そしてそのことよりもメキシコ湾流の影響が大きく、理科年表によればサンチャゴに近い ラ・コルナの気温は、考えられないほど温和な気候なのです。
1月 8月 ラ・コルナ 10.2℃ 18.7℃ 名古屋 3.7℃ 27.1℃
また、標高が400〜700mの部分が多いのも助かりました。
つまり6月のサンチャゴ巡礼の道は、最高のコンディションだったのです。
今回の旅の相棒は、私よりも一回りほど若い友人でした。
二人の間でなにかの機会に、サンチャゴ巡礼が話題に上りました。彼は早速、俳人、黛まどかさんの巡礼紀行『星の旅人』を貸してくれました。私は最近、体力 低下が著しく、そのくせ、なにかに挑戦したいと思っていました。また、若い女性の甘い俳句にもついフラッとしてしまったのです。
その相談をしたときから、日が長くなる夏の時期を待つため、ほぼ一年、準備期間がありました。
調査、スケジュールの立案、その他全部は相棒がやってくれました、私はまるで何もしませんでしたから、航空券を購入する時期になってやっと旅の実感が湧い てきたのでした。
5月30日、最初、名古屋からパリに飛びまし た。
私はいつもの空の旅では、窓際にへばりついて下界を眺めているのです。でも、このたびは通路を挟んで座りました。こうしてJALの美味しい食事を楽しみ、 日航寄席を聴いては笑い、映画を見るのもなかなかのものでした。
お陰様で、映画「父親たちの星条旗」だけ見て片参りになっていた「硫黄島からの手紙」も見ましたし、カラオケでたまに歌う「セーラー服と機関銃」も始めて 見ることができました。
5月31日、パリに一泊、翌日特急列車TGV で一路南下しました。
ボルドーを経由し、バイヨンヌまで直行、ローカル線に乗り換えます。
ここの駅で、すっかりサンチャゴ巡礼ムードが高まってきました。
フランスでは自国語以外の表示をしませんから、みんなでウロウロします。係員のような人に行く先を告げ、これだと指された車両に乗り込みました。やがて車 掌のようなのがきて「向こうのだ」といいました。また、みんなでゾロゾロ移ってみると、最初からそちらに行っていた連中もありました。
3〜4人のグループが多く、それぞれ大きなリュックを背負い、足元を固めています。お互い、わけのわからない言葉で「どこから来たのか」・・推測・・と言 い合っています。「カミーノ?(巡礼かい?)」「カミーノ」というだけで、もう仲間気分です。
世界中からこんなところまで来る人たちですから、正直のところ、普通の人ではありません。みんな、私ほどの変人ではなくても、一癖とはいわないまでも、半 癖ぐらいはありそうな顔つきをしています。
一般論として、かなり陽気で、鈍感力が強く、そしてインテリジェンスが高い人間集団といった様子なのでした。
ここまでずっと平地を走ってきたフランス国鉄も、いよいよスペインとの国境ピレネー山脈を目指して登り始めます。高山線の美濃太田か ら白川口に入るような雰囲気でした。
目的地サン・ジャン・ピエ・ド・ポーで降りたのは20人ほどだったでしょうか。パリから直線距離で約600km、6時間ほどかかりました。
雨が止んだばかりといった様子で、道路は濡れていました。道路際に石の十字架があり、いよいよ巡礼の始まりだという気分が高まってきました。
巡礼の最初は、クレデンシャルという巡礼証明書を発行してくれる事務所にゆくのです。事務所へ行く道順を示すようなものは一切目につ きませんでした。
ともかくドイツ人らしい若い長身の女性がどんどん歩いていくのについてゆきました。
街の中のとくに目立つわけでもない石造りの家の、小さな入り口を入るとそこが巡礼証明発行事務所でした。先程、列車で知り合った元気なおばさんが、日本人 だと言ってくれました。6人いる受付のうち英語が通ずるのが2人だとのことでした。
かってはここの受付けに、うるさ型のおばさんがいて、巡礼に来た目的を厳しく問いただしたのでした。その方が亡くなられたそうで、巡礼途上の難関の一つが なくなったなど、不謹慎な情報がネットに上がっていました。
証明書は2ユーロ、300円ほど、折りたたんだ冊子で、訪問先でスタンプを押すようになった御朱印帳のようなものです。
この街では、巡礼証明発行事務所で紹介された古い典型的な巡礼宿に泊まりました。築後、少なくとも200年は経っているでしょう。石 造りの家で、中にはがっしりした骨太の柱や板が使われています。2階の寝室に2段ベッドやダブルベッドが雑然と置かれ、トイレやシャワー、食堂は1階にし かなくて不便でした。
ここのおじさんがコンニチワと日本語で迎えてくれました。オハヨウ、アリガトウと3つだけ言えるそうです。
6月1日、いよいよ800kmの旅への出発で す。
今思い出すと、巡礼の最初の2日だけ、宿が出す朝飯を食べたのでした。
ここ最初の宿では、昼飯まで作ってもらいました。弁当はサンドイッチで、生ハムのとチーズのとの2種類でした。さしずめ、日本なら梅干しと塩昆布のお握り とでもいうように、これが定番なのでした。
巡礼道の表示は、日本の東海自然歩道と比べて数倍懇切丁寧です。
巡礼の象徴である貝殻マークのついた道標はもとより、家々の壁や、路面にまで黄色い矢印が書いてあります。これなら歯を食いしばり、足元ばかり見つめて歩 いていても目に入ります。
今日の行程は、通称ナポレオン道を8km強、標高差約700mを登るだけです。天候は雨が降ったり止んだり、行程の殆どは交通量の少 ない舗装道路をゆきます。
1時間半ほど登り道端の喫茶店に入りました。二人とも「無理しないでゆきましょうや」と思っているのです。カフェオーレを頼みました。店にはゴアテックス の雨具を脱いで入ったのですが、気むずかしそうなじいさんが「オーバー・ゼア(あっちで飲め)」と外で飲むようにいいました。
あとで相棒が、トイレを使わせてくれと頼んだら、やっぱりオーバー・ゼアと言われてしまったそうです。
でも、これは考えてみると幸せでした。その後の巡礼路で用を足したくなるたびに、あのじいさんが言った「オーバー・ゼア(あっちのほう)」というのは、こ このことだったのだ自分の良心を納得させられたからです。
オリソンというアルベルゲには昼前に着いてしまいました。アルベルゲというのは巡礼宿のことで、ヨーロッパではユースホステルを指す のにも使われます。
予約で部屋は満杯、テントしかないといわれました。
アルベルゲでは予約を受け付けず、先着順だと聞いていたので、そのときは、ちょっと腑に落ちませんでした。
旅を終わって振り返ると、案内書にはホテル、オスタル、カサ、アルベルゲなど宿に等級があるように書かれていますが、実際は、設備も料金も、名は体を表し ていないと思ったほうが無難です。
いずれにせよ私にとっては、どの宿でも日本の山小屋と比べると天国みたいなものでした。
さて、翌朝の出発まで長い長いテント生活になりました。私は寝袋に潜り込み持参した文庫本を読んでいました。降ったり止んだりの日で したから、そのたびに薄い布でできているテントの中は、急に明るくなったり暗くなったりしました。暑くもなく寒くもなく、私には快適な時間でした。
建物の中から女の人が次々と出てきては、軒下で、携帯電話で長い長い話をしていました。テントは布一枚ですから、彼女たちから私の姿 は見えません。でも声だけは素通しに聞こえるのです。言葉は全然分かりませんので、余計に「女性というものはこういう生きものであるのか」と、生物学者の ような気分にさせられました。
テント泊羊と原野棲み分ける
夕食は大騒ぎでした。スペイン人、フランス人、イタリア人など、自分たち仲間での会話のほか、周りのグループにも気を遣って話しかけるのでした。
それが、どんな会話だったか想像がつきますでしょうか。
スペイン人「日本とシナとは、トラブルがあるそうだが」。
わたし「いや、うまくやってるよ。第二次大戦後、60年間、日本は世界中に謝罪し続けているんだ。チャイナのガバメントだって自国に問題があって、日本に 威張ってみせる必要があるんだ」。
フランス人「シナは貧富の差が大きくて問題を抱えている。インドもそうだ」。
こんな調子でした。
どのグループにも、ひとりぐらいは英語の分かるのがいるものです。したがって共通の言葉は英語なのですが、彼らの英語では中国のことをシナと発音していま した。わたしが、ガバメントといっても通じない様子でしたから、トップとかボスとか言い換えてみましたが、はたして分かって貰えたかどうか自信はありませ ん。
会話集など見ますと、「私の名は」とか、「兄弟は何人ですか」とかの例が出てきます。
それなのに、この夜の会話のように、両方ともひどい英語を使いながら、なぜ会話集とかけ離れた難しい国際問題など話し合うのか、不思議といえば不思議な現 象です。
まあ、そのひとつの理由は、体育会系国際派連中は、言葉が素直に通じないのは当たり前と諦観しているのです。それに通じなくても、別にどうということがあ るわけではなく、お互いに友好ムードを確かめることには役立つことを知っているのです。
6月2日、いよいよピレネー越えの日です。
朝から濃い霧でした。食堂が開くまでの時間、ベルギー人のご夫婦と話していました。彼らはもう、自国からここまで2000kmも歩いてきたとのことでし た。しかもテントも持っていて、荷物が15kgもあるというのです。
この日午前中は、雨時々小止みという日でした。
牧場のなかの緩やかな舗装道路を上下しながら次第に高度を上げて行きます。牛や羊に「オーラ(今日は)」と、声をかけました。
東北方向からやや強い風が吹き、吹きさらしの鞍部では寒さを感じ、雨具に両手を通しました。いつもこの程度の山では、雨具はリュック の上から羽織るだけで、体温を上げないことを心がけているのですが。
やがて道は舗装道路を右に離れ、山道に入ります。といっても、いわゆる胸突き八丁などいう急な地形は最後までありませんでした。
ちょうどへばり具合のよいあたりで、腹ごしらえをしているグループがいました。その直後が最高点約1400mでした。
山霧や人が定めし国境
そこからほんの少し山道を降ると、もう林道になります。
そんな林道の途中に簡単な木の柵がありました。それが国境で、フランスからスペインに入ったのです。
スペインに入ってからの道は殆ど林道で、不安感はないのですが、これがなかなかの曲者でした。
地道なので、ところどころ道路全面が深い車の轍でぐちゃぐちゃになっているのでした。こんな場所はとても歩けませんから、横の崖を木につかまりながらヘ ツッてゆくようになっていました。これは山屋にとってはなんということもないのですが、カミーノ(巡礼)にとっては異例の歩き方であります。
牧場の中の一カ所は、こんなぐちゃぐちゃの湿原から逃げようもなく、大変手こずったこともありました。
フランスとスペインの国境であるピレネー山脈も、こんど越えた西端近くなるとごく緩やかな山容で、山歩きそのものは信州霧ヶ峰あたりを散策しているような ものでした。ただし、天候によっては遭難者が出ることがあるというのも肯けないでもありません。
こうして雨の中を進むほどに、人声が風に乗って流れてくると、間もなく大聖堂の石の壁が見えてきました。ロンシェスバージェスの町で す。ここには大きな観光バスが止まり、巡礼ではない普通の人たちも大勢ウロウロしていました。
聖堂の奥にあるセージョ(押印所)の前の暗い廊下では、大勢の雨に濡れたカミーノたちが、サンドイッチなどをかじっていました。
わたしたちは町のレストランに入りました。満員でしたが、昨日から顔見知りの一行が席を空けてくれました。もう完全にカミーノ仲間なのです。
この店でクロワッサンとカフェオーレに、冷えた体を暖めたのです。
この日は、このあと1時間、平地を歩いてブルゲーテという町で泊まりました。
この町にあるホテル・ブルゲーテというのは、かの「日はまた昇る」の著者、ヘミングウェイの定宿でした。ヘミングウェイは近くの川で鱒釣りを楽しんだそう です。
われわれもその宿に泊まりました。ヘミングウェイの部屋は25号室、われわれはその真上の35号室でした。最上階らしく屋根に沿って部屋の天井が斜めに低 くなっていました。
6月3日、7時30分、出発しようとしました が、まだホテルの係員が起きていません。エレベータをガタガタと何度も上下させて起こし、支払いを済ませ出発しました。
この朝、今度の旅で始めて晴れ、お日様を拝みました。そして涼しい風も吹き、快適な日でした。
昨日、宿に着く30分ほど前から、右足親指の付け根にマメ(肉刺)ができそうな、ちょっと嫌な予兆がありました。ずっと雨の中を歩 き、靴下が濡れてきたせいだと思います。
それでこの日の朝、右足は靴下の上からレジ袋を被せて靴をはいていたのです。これは本来、春山で一日中雪の上を歩いているときに、濡れないための手段なの ですが、マメにも有効です。どうしても多少は蒸れ気味になりますが、歩いているうちにレジ袋が適当に破れ、換気できるものです。ともかく、こうすると靴と 靴下の間でツルツル滑るので、足の裏の皮膚が擦れずにすむのです。
この作戦は当たったと思いました。でも、右も左もあまりに靴がブカブカする感じではありました。
サンチャゴ巡礼の長い距離を歩くのに、靴はズック靴にしようと最初から決めていました。
もう5年前になりますが、ハワイのマウナ・ロアという山に登に行きました。この山はひどく平らな山で、標高4000mあたりを日帰りで往復20kmも歩か なくてはならないのです。
前もって、私の家から東西南北、直線で10kmの地点を決め、往復してみました。重い山靴で歩いたときには、大変疲れ、またマメも作りました。
マウナ・ロアは、ろくな道のない溶岩の山ですから、結局は山靴でゆきました。でも、そのときの経験から、長距離を歩くのならばズック靴にかぎると決めてい たのです。
出発する3ヶ月前に、量販店で三千円弱の大きめなズック靴を購入したのです。そのとき店のお兄さんがセットしてくれた、靴ひもを一番上の穴には通さないス タイルのまま、ここまで歩いてきたのです。
この日の朝は500mほど歩いたところで座り込み、紐を一番上の穴まで通しました。でも、紐は緩めに締めたのでした。締め過ぎてマメを作るのを警戒してい たのです。
この日の歩行距離は18.5km、累積の登りが270m、降りが635m、とうとう下りで足のつま先を傷めてしまいました。痛くて、この日はほとんど何も 考えず、ただ足のことだけ考えて歩いていました。
今日の目的地、ズビリの街に入るところに下り坂がありました。爪先が痛むものですから、脚が反射的に足をゆっくりそっと置くようにしか反応してくれないの です。そのためふくらはぎも腿も、普段経験しないほど疲れてしまいました。
いつも、爪先のこともマメのことも気にしないで、下り坂をドカドカと降りていたあの山靴がどんなにか恋しかったことでしょう。
今まで、山を下るときに苦労している人に対して同情が足らなかったと、始めて気がつきました。そして、そんな人たちがしているように、爪先がツカエないよ うに斜めに降りたり、ついには後ろ向きに降りたりもしました。
こんなような苦労話を披露しますと、その先の長い道を、どんなにして歩いたのかと心配なさいますでしょうね。
その夜、2段ベッドで寝ながら考えたのです、ともかく、紐をきつく締め、足の甲をストッパーにして爪先が当たらないようにしようと。
この作戦は成功しました。
旅を終わってみれば、全体の行程の80パーセントは、よい状態で歩けたのです。つまり、一日の終わりに、足のどこかに痛みを感じていても、次の朝には元の 状態に戻っていました。
教訓として、不具合を感じたら、我慢しないで即刻締め方を変えるなど、対策を試みろということです。
一度だけ、逆に締めすぎたこともありました。このときは、すぐ、座って緩めました。
ズック靴ですと、小石が入りますから、途中からショート・スパッツをつけました。これは大変有効でした。ただし、私以外に使っている人は見かけませんでし た。
革の靴ですと、だんだん足の形に馴染んできてくれますが、ズック靴は頑固で、いつまでも自己を主張し続けます。でも、これは仕方ないことでしょう。
そうそう、今回、二人とも最後までマメはできませんでした。
私の場合は平地の長旅には馴れていませんから、ひとえにラッキーでした。これというのも、一日の行程を最初の頃は短めに抑え、後半でも一日に30kmを越 えないように計画したのがよかったのでしょう。
それから、私が荷物を極端に少なく、軽量にしていたのも奏功したはずです。
具体的には、いつも海外旅行に持って行く600gのビデオカメラをやめ、150gのデジカメにしました。また、電池式ヒゲ剃り器をやめ100円ショップの 使い捨てカミソリ3本にし、無精髭後免にしました。雨具は防寒具を兼ねて、軽いゴアテックスの上着だけ、濡れたって仕方ない、死ななければいいと割り切っ たのです。また、巡礼に付き物のような杖さえ持たず、減量に努めました。
途中で知り合ったお若い日本女性は、雨具にも長いのと短いのとをお持ちだそうで、荷物は15kgといっておられました。
ところが、私といえばたった5kgの着た切り雀、年寄りって悲しいものです。
颯爽と追い抜いていったイギリスの女性が、すこし先の休憩所で足の手入れをしていました。
格好良い足にグルッとテープが巻かれています。こんなふうになると、手入れするのに一回30分はかかるものだそうです。
馴れた人たちは休憩毎に靴を脱いで、乾かすように努力していました。
フランス人の女性秘書を連れた、おどけ者のスペインのおじさんが、他人が乾かしている足に、パンクした自転車にポンプで空気を入れる仕草をして笑わせまし た。
そのおじさんは別の時には、足の甲に手を当てて、ノコギリで切り落とす真似をしたこともありました。
外見からは分かりませんが、大抵のカミーノたちは、痛む部分を切って捨てたいような気持ちで歩いているのです。
雨霧をゆく人のあり吾も行く
ズビリのレストランではオーストラリア人と同席になりました。20歳ぐらいの息子を連れたご夫婦でした。
もう何年もサンチャゴ巡礼に来ておられるそうで、昼間からビールを飲み、今日はすぐ隣の町まで歩いていって、そこで泊まるのだといっていました。こんなカ ミーノもいるんですね。
6月4日、今日はパンプローナという飛行場の ある大きな街までです。
6時50分出発、街の出口で私は道を間違えました。
カミーノ(巡礼)たちは、トータルとして同じような速さで歩いているように思います。特別に足の早い若い人もいるのでしょうが、夏休み前のこの時期には若 くない人のほうが多いようでした。
馬力のある人たちは、一定のペースで歩いています。ところが、私は山と同じで、登りは極端に遅くなってしまい、その代わり降りは地球の引力で落ちるのに、 ブレーキをかける程度に速く歩いていました。意図的にそうするというわけではなく、そうしかできない体力なのです。でも見ていると、一日の終わりごろは、 誰でも、私流のペース配分に近づいているのに気がつきました。偉そうに言えば、私は旅慣れているので、一日の始めからそうしているように見えるかもしれま せん。
終始、相前後して歩いていた長身、年配のデンマークのおじさんは、明らかに私のペースを真似するようになってきました。つまり、坂を登り切ったところで ハーハーいう代わりに、ゆっくり登るように途中から変えていました。
道中、前後して歩いている世界中からきたカミーノたちと話しあう機会がありました。
カミーノで出会う外国の人と話していると、日本に行ったことがあるといわれることがとても多かったのです。やはりサンチャゴ巡礼にきている人は、家にじっ としていられる人種ではないのでしょう。
そうそう、この日の冒頭の私が道を間違えた話のことです。そのときは長い舗装道路を下りきり未舗装の登りにかかったところでした。車 の進入禁止の標識があったので、てっきり巡礼道だと思ったのです。ところが30mほどゆくと、後ろから「オーラ。オーラ」と誰かが呼ぶのです。実は私も ちょっと変だなと思っていたのですぐ気がつきました。ちょっと戻ってみると、舗装道路の終点から右下へ細い巡礼道が分かれていました。
もう一回も、20mぐらい間違った方向に進んだところで呼び戻されました。
なんと、2回とも呼び戻してくれたのは若い女性でした。でも、これはまったくの偶然で、わざと若い女性を選んで道を間違えたわけではありません。
どうも私は巡礼者用の進入禁止マークを、ついうっかり車の進入禁止と間違える癖があるようなのです。
巡礼路の前半、山の中の細い道では、泥のぐちゃぐちゃに悩まされました。
日本の山歩きでも珍しいものではありませんが、巡礼路には、ぐちゃぐちゃの場所が大変沢山あるのです。日本の白神山をはるかに凌駕し、中国の大姑娘山をも 抜く規模と言ってよろしいでしょう。
巡礼路では自転車のカミーノたちが「ブエン、カミーノ(良い巡礼でありますように)」といいながら追い抜いて行きます。そんな自転車の連中も、ドロドロの 坂では苦闘していました。
私は山の素人ではありせんから、ドロドロ道なんか馴れていると自負しています。無理に右往左往せずに固そうな足場を選び、精力の消耗を抑えるように通過し ていました。
でも、あまりにもシツッコイものですから、ついには、もしもダンテがこんな旅を経験していたら、地獄編に「泥道地獄」を記述したことだろうと、いかにも巡 礼らしく殊勝に、かつ抹香臭く、思いめぐらしたのでした。
田一枚植えてたちさる柳かな 芭蕉
ピレネー山脈を越えてから、ナメクジの色が変わったのに気がつきました。
ナメクジたちは車道のアスファルトの上を、いたるところで横切っているのです。車に潰されたりしていますが、かれらなりに道を渡る理由があるのでしょう。
最初、フランス側で見たとき、その格好良さに驚嘆しました。背中に縦のヒダをとり、日本のみたいにノッペラボウじゃないんです。
日本のナメクジのおばさんたちが見たら、ナメクジにだっておばさんはいるはずです、きっと「御フランスの方って素敵!」と追っ掛けになること必定と感じ たのです。
ピレネーを越えたスペインでは、ナメクジたちは黒い色でした。
闘牛でマタドールに突っかかる猛牛の色、さすがにマッチョです。大きなものは長さ10cmを越え、親指ほどの太さがあります。
ナメクジのおばさんたち! まあ、どちらでも好きな方を追っかけてください。
御ムッシュー
御セニョール
さて、だんだん都会らしいムードになり、石橋を渡りパンプローナに着いたのです。やはり大きな都市という印象でした。とりあえず、バ ル(スペイン風ミニストップ)に入り、ゆっくり昼飯を食べました。
そのあとの道のことです。黄色い矢印はありますし、カミーノたちも三々五々歩いて行きます。
主要道路から側道に下ってゆくと、緑の多い川岸の淋しい雰囲気になりました。この日はパンプローナに泊まる予定でしたから、パンプローナを通り過ぎてし まったのかしらと不安になったのです。
通りかかった人たちに、地図を見せて、ここはどこなのか聞いてみました。
「カテドラルは2km先だ」と誰の答えも同じで、ここがどこなのかを地図で指さしてくれる人はありませんでした。
このときちょうど雨も降り出し、二人ともちょっと暗い雰囲気になりました。
私は現地の人たちが対応してくれる様子から、この人たちは地図を見慣れていない人たちだと判断したのです。
日本の山村でも、5万分の一の地図を見せて、ここが地図の上のどこなのかを尋ねたとき、まともに地図を見てくれる人は少ないのです。とくに、女性の場合は 絶望的です。
かって中国で、広大なトウモロコシ畑の中で感陽宮の遺跡を探すときに、大学出の中国人ガイドが、同じところを何回もグルグル回りながら、あくまで地元の人 に聞くだけでバスを進めていたことがありました。そのとき、この人たちは、地図が地形と対応しているものだという概念がなく、地図で教えたり、地図に従っ て場所を探すことなど考えもしないのだと感じました。
またネットで、スコットランドのグラスゴー市の街を北へ抜けるルートを検索したことがありました。それが地図を使わず「200m先で二股に分かれるから左 をとれ」とか、地図で示すのなら簡単なのに、言葉でくどくどと説明しているのにびっくりしたことがありました。
ともかく、こういうときは、地図の概念が分かった人に聞くよりしかたがないものなのです。
カミーノたちがボツボツ通過して行くので、われわれも歩き出しました。
その先の、とあるバス停に地図が掲示してあり、そこでカミーノたちに聞いてみました。何人目かに地図の分かる人がいて、やっと事情が分かりました。
いってみれば名古屋に東から入ってきたときに、鶴舞公園に出っくわし、名古屋を通り過ぎたのかしらと心配したようなもので、栄交差点はまだまだ先だったの です。想像していたよりも大きな都市だったのです。
パンプローナのアルベルゲは、典型的な巡礼の救護宿といった感じでした。
トイレ、洗面所、シャワーと、水を使う設備は1部屋にまとめられ、多人数の泊まり客にたった2カ所しかありませんでした。だから、女性がシャワーに入った ら、もう当分はなにもかにもお手上げなのです。しつこい私はドアの前で待っていましたが、何人も来ては「レディー?」と訊ね、頷くと手を広げて行ってしま いました。
・汗し待つ女はシャワー長きもの
街に出ました。明日、ブルゴスに行く切符を手に入れようというのです。インフォメーション・センターはすぐわかりました。そこでは、 英語を話す女性が町の地図をくれて、ここが鉄道の事務所、ここがバス・センターとマークを入れ、そこへ行ったら時刻表もあるし、切符も買えると教えてくれ ました。
実は日本の案内所のように、いろいろ相談に乗ってくれたり、あわよくば切符も買えたらいいがと期待して訪れたのですが、なんとも気楽なインフォメーション でした。
パンプローナは、ヘミングウェイが「日はまた昇る」で紹介し、世界的に有名になった牛追い祭りの町です。街の中心地にある闘牛場や、牛追い祭りのブロンズ 像など見たあと、小説に登場するカフェ・イルーニャで飲んだビールの美味しかったこと。
最近スペインでは、女性から、女性だけの牛追い祭りもやってくれという要求が出ているのだそうです。牛も雌牛で、ということです。
ジョッキ干す日はまた昇る力なれ
6月5日、今日はバスを使い、ビトリア乗り換えでブルゴスまで行くのです。
ビトリアはバスク地方にあります。ここは、スペイン語とは全く違うバスク語を話し、独立国の気風を残し、問題を振りまいている土地です。もっとも、バスで 通過するのですから、どうということはありません。
バスは朝遅い出発なので、宿でゆっくりしていました。大勢のカミーノたちはどんどん出て行き、そのうちに誰もいなくなりました。
われわれも居にくくなって、いい加減に出発し、喫茶店で時間をつぶしていました。
明け易や巡礼いずれまで行きし
私は、今度もフランスに入ってからは、郷に入れば郷にしたがえとばかり、地元の人たちと同じ歩行者ルール、つまり自己責任制を励行していたのです。
フランスでもスペインでも、歩行者が図々しいだけに、運転者たちは慎重なようで、車を止めては、行けと手でサインしてくれるのに気がつきました。
スペインでは交通標識に道路番号が表示されています。
かってフランスでレンタカーを借りて運転したとき、高速道路以外では道路番号を使っていないので大変に苦労しました。
今でも世界の中でフランスとモンゴルだけは、自分では絶対にハンドルを握るまいと思っているぐらいです。
スペインなら大丈夫です。おなじラテン系の国でも、結構、違うものです。
柳絮舞う幾興亡の古都の辻
ブルゴスは11世紀に最盛期を謳歌していた古都です。現在の市の人口は20万人弱です。
300年もかかって完成したカテドラルは、スペインの三大カテドラルのひとつで、もちろん世界遺産になっています。
こんな大観光資源でも、13時過ぎから16時までは観光客に門を閉ざしているのです。この時間は有名なスペインのシエスタ、昼寝の時間なのです。
こうしてスペイン社会は午後のスタートが遅いので、押せ押せで夕食も遅くなります。
朝早いカミーノたちにとっては、夕食は早いほうが有り難いのです。
お店の夕食が何時からなのかを確認することが、今度の旅で、日課になったのでした。といっても、記憶力など見本にするほども残っていない老人のことですか ら、ナイフとフォークを使う身振りをして、片手は開き、あと指を2本、3本と添えるボディーランゲイジを使ったのでした。どうせ、スペイン語がペラペラの 外人カミーノなんて何人もいるわけないので、万事そういう社会なところが面白いじゃありませんか。
ブルゴスのレストランでは午後9時からといわれました。これには降参して、居酒屋でビールを飲みながら適当につまんで終わりにしました。
6月6日、この日はバスでブルゴスからレオン まで。
バスは朝7時発で、次の便は11時発なのです。11時のに乗りました。
高速道路と一般道を適当に乗り継いで、お客を運んでいます。
こんなにして、キセルの旅の竹筒の部分を、バスで2日半。直線距離で500kmほど走ったわけです。
この間、緩やかな丘が連なる、海抜数百mの気の遠くなるような広い高原が続いています。日本では見られない、大陸の一部としての貫禄があります。
どのように土地が上下し、雨や氷に削られて、このような地形になったのかと考えてみても、日本とはあまりにかけ離れた地形なので、想像もできませんでし た。
丘の切り通しで崖の面に、割に大きな礫を含んだ、日本では洪積層といわれる地層が、幾層も不整合に積もっているのに気がつきました。
日本は海洋プレートの沈み込む力によって地形の変動が激しく、4回あったといわれる氷河期の最後の洪積層しか見たことがありません。
イベリア半島北部の高原などヨーロッパでは、それぞれの氷期に対応する洪積層が観察され、氷河の学問が進んだのかしらなど想像しました。
もとより素人の感想ですから、ご叱正を賜れば嬉しいと思い、敢えて愚見を披露した次第です。
君に会いたしアマポーラ赤かりし 黛まどか
この区間は山岳コースではないので、カミーノ道はかなりの部分バス道と並行していました。真面目なカミーノたちがせっせと歩いて います。
私たちだって半真面目カミーノですから、半ば羨み,半ば同情して車窓から眺めていました。
小麦、トウモロコシの畑が広がっています。焼けるような日の光と、赤いアマポーラ(ポピー)の花が印象的な道でした。
話に聞いていたように、風力発電の風車があちこちに見えます。
緩やかな丘の稜線に造られていますから、建設用道路、送電線など安くできることでしょう。
徒歩の日も含め、風力発電設備群の見える日が4日ありました。そのうちの2日は風が弱く、風車は雁首を揃えて止まっていました。風が吹くまで「シエスタ」 かなんて、場所がスペインだけに似つかわしい眺めでした。
レオン市も10世紀から14世紀に栄えた街で、現在の人口は15万人ほどです。お天気がよかったせいもあり、パリに似た雰囲気を持つ 美しい街と見ました。
バスセンターから真っ直ぐカテドラルに向かうと、左側に5階建てほどのハッとさせる建物が目にはいりました。ガウディが設計したカサ・デ・ロス・ボティー ネスという建物です。
夏空を尖塔指せる石館
スペインって、こんなふうに、やたらに長い名前が多いんです。意味があるのでしょうが、意味が分からないので、その長さに閉口しました。
今回のサンチャゴ巡礼の出発地、サン・ジャン・ピエ・ド・ポーだって「寿下無ジュゲム」ほどではありませんが覚えにくい名前です。
巡礼の途中、何回も「どこから歩いてきたのか」と尋ねられました。
サン・ジャンまではいいのですが、どうにか続けてピエ・ド・ポーが出てくるようになったのは、旅も終わりの頃でした。
さて、ガウディの話でした。
日本のどこかの博覧会で、ガウディの城とかいうのがありました。宣伝を見ていて、ピカソみたいな、奇抜な、ねじれたもののような印象を受けて、とうとう行 きませんでした。
でも、ここレオンで見たガウディの建物は素敵でした。食わず嫌いはいけません。
レオンのカテドラルのステンドグラスは、スペインで一番美しいといわれます。そのためでしょう、建物の中は極端に 暗くしてありました。
天気がよかったこともあり、評判通りの美観に恵まれました。考えてみれば、電気など発明されるまでは、いつもこんなだったのでしょう。
6月7日、バスの旅はこの日の前半で終わり、 後半からはまた自分の2本の足に頼ることになるのです。
ブルゴス、レオンなど都会とは違って、今日は小さな村のバス停で下りて、巡礼の道に途中から入るのです。正しいバスに乗れるか、下車する村はわかるのかと 少し心配でした。でも、カミーノの姿なので周りがちゃんと察してくれました。
この日の目的地はセブレイロ峠です。年中天候の悪いところだそうです。標高は約1300mとそんなに高くありませんが、ヨーロッパ各 地からずっと歩き通してきた巡礼たちにとっては、最後の難所とされた峠です。
私たちはバスで1100mあたりまで登っているので、1時間強の登りでセブレイロの村に着きました。
なにせ辺鄙な場所で、ケルト文化の名残が見られるのです。
なるほど、円形の低い石積みの壁に粗朶葺きの屋根が乗った建物は、一昨年アイルランドで見たニューグレンジの巨大古墳を小さくしたように見えました。そう いえば八ヶ岳山麓などに復元された縄文時代中期の住居跡も、壁の部分だけ石積みにすれば、これも似たものだといえそうです。
一昨年のイギリス訪問以来、ケルト人など、1万年ほど前からのヨーロッパの民族変遷について興味を持ち続けたいるのです。でも、この2年間、新しい知見は 入っていません。教科書が書き換えられるような研究が進んでいるに違いありませんが、やはり遠い国なのですね。
貧しさの極まる峠昼の虫
6月8日、この日はトリア・カステラまで。まだ山道です。
フランス国境から歩き始めた頃、カミーノの主力は外国人たちでした。でも、最終目的地サンチャゴ・コンポステーラに近ずくに従ってスペイン人の割合が増え てくるようでした。
そして、はじめのうちは自転車カミーノたちも、細い泥道のカミーノ道を走っていましたが、後半になるとカミーノ道とは別の舗装した車 道を走っていました。
私の印象では、サンチャゴ巡礼とはいいながら、現在では全体に宗教色は、もう、かなり希薄になっていると見受けられました。
とくにセブレイロ峠を越えてからの自転車組の様子は、巡礼というよりはツール・ド・フランスのミニ版といった気分のように見受けられました。
サポートの車がついて、荷物を運んだり、リタイアする人を収容したり、そんなパックツアーでもあるみたいでした。
ついでながら、サンチャゴ巡礼路成就証明の発行条件は、徒歩の場合は100km以上歩いたことであり、自転車の場合は200km以上走ったことになってい ます。
涼風と自転車がボン・カミーノと
この日は、休むのに適当なところが見つからず長丁場になりました。
やっと出会ったバルに入りコカコーラを注文しました。その時は、まだ、先へと歩くつもりだったのです。ところが適当に話しているうちに、そこのお店の上に 泊まることにしました。
トイレ、シャワーはフロア毎の共同使用であるものの、新しく、綺麗で安い宿でした。でも、ここで泊まるなら、コカコーラじゃなくてビールにすればよかった と思いました。たしかビールのほうが安かったはずです。
夕方、激しい雷雨がきました。日本の山でも雷3日などいって、こんな天気は続くものです。スペインでも同様、次の日の午後も雷雨がきました。
6月9日、サリアまで、
朝は濃い霧でしたが、やがて晴れ、美しい快晴の日になりました。
トリア・カステラからサリアまでは、舗装道路沿いの谷ルートと、山岳ルートがあります。私たちは山岳ルートをとりました。
このルートでは、いかつい姿の樫の木を沢山見かけました。
子供向けのヘンゼルとグレーテルの絵本に出てくるような、暗い夜には目玉があったり、手を広げたりする樫の木です。
森ではカッコウが鳴いていました。日本と同じ鳴き声でしたから、すぐにわかりました。
青葉樫巨根に依れる憩いかな
この日、サリアの宿として、今回の旅行で一番立派なホテルをおごりました。
その最高級の宿の名はアルフォンソ・ホテル、といっても一泊一人7000円ほどでした。今回、唯一、エアコンがついたホテルだったのです。
快適なエアコン環境のなかで、ペラッとした薄い布を掛けて寝るのは苦手です。夜中、薄ら寒くなり、衣装棚から毛布を出して掛けました。重いフトンを常用し ている野蛮人の情けなさです。
さて、旅行中、いくつかの宿の部屋には、テレビが備え付けられていました。
私たちは宿を確保するために、早発ち早着きを心がけていましたから、テレビがありさえすれば見る時間は充分あったのです。
小さな街の安宿では、5チャンネルほどしか入りませんでした。
色々のチャンネルをつけ放しにして見ましたが、スペインではニュースの時間が少ないことは間違いないようです。天気予報は一度も見ませんでした。
ひとつはっきり専門が分かったのは、スポーツ・チャンネルだけでした。
NHK総合に相当するのがどのチャンネルなのか、最後まで分かりませんでした。一見、真面目そうな対談が多いのがそれなのかしらと想像していたぐらいで す。
ここサリアの高級ホテル・アルフォンソでは、テレビは60チャンネル用で、十数チャンネル流れていました。まともな内容としてイギリス、ドイツ、ユーロの 海外放送、そしてCNNを見ることができました。
それらも、もっぱらパレスチナ紛争と、ローマ法王に若い男が飛びかかったニュースばかりを繰り返していた印象です。
日本に関するニュースはなにもありませんでした。相変わらず、お役人や校長先生、院長先生や社長さんたちが頭をペコペコ下げさせられているだけで、天下太 平であるらしいと想像され胸を撫で下ろしていました。
スペインの天気予報は、これら海外チャンネルで、ヨーロッパ全体の一部として見ることができました。
ドイツの放送をぼんやり見ていると、いがぐり頭の学者が遺伝子組み換え食品の危険性を訴えていました。ぱっと場面が変わると、名前を 聞いたこともない貧相な日本の研究者がシャーレーをガラス棒でかき回していました。そして銀座の街頭録画といった様子で、若い日本の女性が遺伝子組み換え 食品の恐ろしさに怯えていました。さらに画面は変わり、アメリカの政府食品安全担当部署のボスが食品団体から献金を受けていたとクローズアップされまし た。
私の頭の中に70年前の日独伊三国同盟が甦りました。いま見た組み換え食品の番組も、ドイツ、日本の旧枢軸国がアメリカに挑もうという構図ではありません か。
番組の制作者が、個々の画像を自分の筋書きに合うように都合よく当て嵌め、マスメディアを通じて発信すれば、大衆にはそれが正しいものとして受け取られま す。
いわゆるメディア・バイアスという社会現象です。
私はゾッとしました。
ドイツは第二次世界大戦の罪はすべてヒットラーにあるとして、いま大衆は涼しい顔をしています。でも、ヒットラーに力を与えたのはドイツ大衆です。
日本の大衆だって、かってヒットラーを賛美しました。ヒットラーの著書「マイン・カンプ(わが闘争)」が競って読まれました。毛沢東語録をモテ囃し賛美し たようなもので、毛沢東語録のことならば覚えている人は多いでしょう。
なぜ日本大衆はドイツとの同盟に熱を上げたのでしょうか。
そもそもホモサピエンスは自分よりも強い者、豊かな者を妬むものです。
その力の差があまりに大きいときは、反抗するよりも長いものに巻かれる道を選択します。
そして、その差が小さいときは、なんとか自分が代わって強い者、豊かな者になろうとします。
70年前、世界の中の植民地獲得競争、経済競争、軍備などの国力で、ドイツも日本も出遅れ、2流あるいは1.5流のポジションにあったのでした。
科学技術の面では、日本はドイツを兄貴分として尊敬していました。実際、日本の風船爆弾とドイツのV−1号、V−2号では大変な違いでした。
ドイツの進んだレーダー技術も教えて貰ったのでした。戦争末期、もう制海権は失っていたので潜水艦をドイツの港に送り受け取ろうとしたのです。
ドイツの科学者ならばウラン爆弾の開発を成功させて、アメリカをやっつけてくれるのではないかと、中学生たちは期待し話し合っていました。
頼りになる兄貴と組んで、傲慢な英米など一等国をやっつけようとマスメディアが煽り、日本国民の嫉妬心はメラメラと燃え上がったのです。
マスメディアは、ことの内容よりも、権力や富みに対する反骨こそが正義であるかのように行動するものです。そして裸の王様ですから、反省もしませんし責任 をとることもありません。
この日見た、組み換え食品番組が、どれほどドイツ国民を代表しているのか、私には分かりません。しかし、ドイツと組むことの恐ろしさ にはゾッとさせられました。
私は子や孫に遺訓を垂れる性格ではありません。自分のことは自分たちで判断しろというのが信念です。
でも、ドイツと組んで一流国に立ち向かう事態になったら、口がカラカラになるまでたっぷり唾を眉につけろ、とくにマスメディアが熱を入れ煽り始めたら、交 渉はまずノーから始めるように言い伝えたい、そう思ったのでした。
6月10日、今日も丘を6つほど越え、ポル ト・マリンまで歩くのです。
西に進むにつれてカミーノの人数も増え、なんとなく文明の世の中に近づいたような気分です。前の日、水飲み場が増えてきたように感じたので、ペットボトル の水を少なめにしました。ところが、この日の道では意外に水に恵まれなかったのです。結果的には水切れにならずに済みましたが、大事にしてチビチビと飲ん でいたのも事実です。
水はパリに着いた日に750mlのミネラルウオーターを1本買っただけで、あとはそのペットボトルに現地の水を入れて使っていまし た。こうして旅行中の廃棄物はペットボトル1本に抑制したのです、なにせ私は環境保護のお祭り騒ぎ協賛者ではなくて、実践者になることを心がけているので すから。
この日、サンチャゴまであと100kmと刻まれた石の標識を通過しました。
ここポルト・マリンのレストランで、日本女性Hさんとお会いしました。
一緒のテーブルに座っていただき、いろいろお話ししました。
やはり日本語で話せるのは、なんとも言えず気が休まるものです。
職業はお尋ねしませんでしたが、もうスペインは9回目だとのことでしたから、なにか講座で教えにきておられるのかもしれません。
スペインのことをいろいろ教えていただきました。
囀りに結び直して旅の靴 黛まどか
Hさんによれば、道中、気になっていたワラビの大きいようなのは、あく抜きして食べられるのだそうです。
そして彼女には、それ以上に人生のことも教えられた気がしています。
彼女いわく、「なるほど、私の体は一人できているのだけれども、それができるのも家族や周りの人たちが支えてくれているからだ」。
それには、私もまったく同感なのです。
医者に膠原病だとかいわれたそうですが、それはそれとして、できることはできるうちにやっておくつもりだともおっしゃいました。これもまったく同感なので す。
精神的に強い方だと思いました。
おなじアルベルゲにお泊まりになったので、日本茶をご馳走になったりして翌朝の出発までご一緒させていただきました。
6月11日、パラス・ド・レイまでです
6月上旬は花の一番美しい季節なようでした。
ピレネー山脈にさしかかった最初から、ニワトコの白い花が目につきました。子供のころ西洋の小説を読んでいるときに、よく出てきた木の名前です。そのころ はどんな木だろうと思っていました。日本にもあるのですが、やはり本場のカミーノ道では絶えず視野に入っていました。
エニシダは南半球の原産だそうですが、この地方でもいたるところで盛大に自生し、黄色い花を咲かせていました。
キンポウゲ、ゲンノショウコなど、日本の普通の雑草が、ここでもほんの少し形を変え、やっぱり普通の雑草として山野を飾っていました。
ブルー・ベルとかカンパニュラとか西洋くさい名前ですが、ホタルブクロの親類のようなのも盛んに咲き誇っていました。
カミーノのおじさんが、カンパニュラの筒状の花の先っぽをつまみ、指で腹を押さえると、風船玉のようにパンと音を立てて破裂しました。「子供のころ、こん なにして遊んでいたんだ」とおじさんも昔を懐かしんでいました。
パラス・ド・レイでは、最初に入ったホテルでコムプリート(完成=満室)と断られました。2軒目に行くと、なにか先方の都合で、ツイ ンの部屋にひとりしか寝られないとかで、高い料金を提示されました。もう仕方ないと思ってオーケーを言いかかったのです。ところが、受付のお姉さんは、涙 を拭く仕草をして地図を出し、もう一軒、ほかの宿を推薦してくれました。
そこへいってみると幸い空いていました。でも、おばあさんは全然言葉が通じません。おばあさんが電話をしていると思ったら、娘さんが現れました。外国語な ら若い者を呼ぶというケースは、よそでもありました。とても微笑ましい家族だと楽しくなりました。
花野来て峠越ゆればまた花野
6月12日、この日、28.7kmの長丁場でアルズアまで。
2時間ほど歩き、最初のバルでカフェオレを飲み、休みました。
お店の庭のテーブルを囲んで、大宴会になりました。この頃はもう、カミーノ仲間同志、顔見知りになっているのです。
世界中からの人が集まっています。オリンピックのように、競争するわけではありません。他人に強制されて歩いているわけでもありません。
自分の意志で、好きで来ているのです。
おまけに、喋っているあいだは、痛む足を忘れていられます。盛り上がらない訳はないのです。体の芯から、戦争することの愚かさを痛感させられます。
やがて、おしゃべりの輪をを解散、出発する前に、全員、記念撮影に並びました。そして、店のお嬢さんにわれもわれもとデジカメを渡して撮って貰いました。 あんまり多いので、お嬢さんはもうオロオロです。私のカメラで撮るのを忘れました。私は自分のカメラですから、撮ってもらっていないことに気がついていた のです。でも、気の毒に思って黙っていました。
この頃になって、私のたった5kgのリュックの重みが肩にこたえるようになってきたのでした。今様のリュックは重さを腰で受けるよう に太いバンドがついています。でも、私のは昔々の、ポケットが一杯ついたヤツなので、まともに肩に重さがかかるのです。
細引きで腰でも重さを分担するようにしたり、軽い短パンをリュックに入れ、より重いトレパンを履くなど、いろいろ対策を考えては足掻いてみたのでした。
巡礼の木陰犬まで仲間入り
サンチャゴ巡礼を語るときに、牛のフンの話を避けて通るわけにはゆきません。全行程の80パーセントは牛のウンチの匂いとともに歩いていたように思いま す。
馬、羊、鶏もいましたが、人間と犬を除いた動物の80パーセントは牛だったといってよいでしょう。
高速道路の車窓から、丘の上に大きな黒い牛がいるように見えました。近づいてみると牛の形をした看板でした。スペインにきたら、なにせ牛さ、というのがス ペイン人の主張であり誇りであるようであります。
ネパールのトレッキングでは、道の匂いの象徴は馬のフンでした。馬のは、藁が丸まった饅頭状の乾質のフンであります。ところが牛のフ ンは軟質です。バシャバシャという音を聞いて、オシッコかと思って見たらウンチをしているのでした。道路にも撒き散らかしたというように落ちています。
最悪の難所は、上り坂の舗装道路が道路の左上から右下にかけて、巾20mほど褐色の液体がジクジク流れているところでした。坂を登り切って眺めると、牛の ウンチの大きな集積場があり、そこから流れ出しているのでした。
お世辞にも良い匂いとは言いかねます。でも、馴れてみればやはり草食動物のフンの匂いであります。
牛追い祭バスも頭に牛の角
ゆうるりと牛追いてゆく日の盛り
「文人悪食」という本の受け売りですが、こんなことが書いてありました。
内田百間先生は牛鍋が大好物でした。ところが病にかかり、主治医から肉は食べないようにいわれました。百間先生は「藁を牛の胃袋に入れて蒸すと牛肉にな る。牛肉は藁だ。主治医が食べちゃいかんというのは、虎や猫の肉のことだろう」という理論を作りました。そして「藁鍋」と称して盛んに食べたとのことで す。
なるほどカミーノの旅の最後の頃は、私も牛のフンに藁の匂いを感ずるようになってきたのでした。
土地のおじさんやおばさんが、ゆっくり牛の群を追っているのを追い抜くケースが何回かありました。
あるときは、道が川のようになって、横が人ひとり通れる細い道になっていました。牛たちの主力は水の中をジャブジャブ歩いていましたが、一頭だけ人の道を 歩いていました。
こんなとき、昔の私だったら恐怖心があったと思います。でも、今は家で犬を飼っていて、動物と話をしている日々なので、気軽に「おい、どいてくれよ」と日 本語で申しました。と、牛は素直に譲ってくれました。
こんなにして、自然のなかで動物と一体となって十数日を過ごしているうちに、こんな生活をしていた民族が、パリやマルセイユなど大都市でも、犬のフンを気 にするようになるのには時間がかかるのも当然だと肯けました。
道出水牛に細道譲られて
この夜、ホテルのレストランでメニューを眺めていると、例のおじさんがきて、料理の名のスペイン語を英語に訳し、注文の手助けしてくれました。
おまけに明日はどこに泊まるのかと尋ね、自分らと一緒の宿に泊まれとホテルの人を呼んで予約まで入れてしまいました。
カミーノでこんなところに来ているのは、品のよい人たちだと見受けました。
6月13日、この日もラバコーラまで連日 28km超の長丁場
いよいよ標高が400mを切るまで低くなってきました。
サンチャゴまでの距離を刻んだ道標の数字も、30kmを切りました。そして、今までよりも短く、0.5kmごとに頻繁に道標が置かれています。10分足ら ずで数字が小さくなるのですから、秒読みに入ったようで励みがつきます。
こんな道標を置いてくれたり、決して美的とはいえない黄色い矢印を自分の家の壁に書いてくれたり、土地の人たちがカミーノたちを大事にしてくれている気持 ちが伝わってきて有り難く思いました。
この2〜3日、道の周囲でユーカリの植林が目につくようになりました。もうかなり大きくなっています。ユーカリは、もともとオースト ラリア原産のはずです。また、黄色の花のエニシダも南半球原産の植物ですが、これも今度歩いた周りで自生化しています。気候風土が似ているのでしょうか。
カミーノ道は原則として主要道路とは分離されています。
主要道路は、一番短距離で平坦な良いルートを通るのですから、鉄道や主要国道の脇に平行して歩道が作られている部分も沢山ありました。また、新しい主要道 路にルートを奪われてしまい、既存の農道などを組み合わせてカミーノ道とする方法もよく選ばれます。こんな時は昔より遠回りしたり、上り下りが多くなった りしているように感じました。
カミーノたちは、忠実にカミーノ道を辿っていました。目的地に早く楽に着くのが目的ではなくて、カミーノ道を歩くことが目的なのです から。
今日、早く切り上げれば、明日からの苦労が、それだけ沢山残ります。今日、苦しんでおけば、将来その分だけ楽になります。
とはいいながら、我々がその日の目標にしている手前の村でもう切り上げて、清流に足を浸している女性や、ジョッキを傾けているおじさんたちが羨ましくな かったといえば嘘になります。
苦あれば楽あり、楽あれば苦あり。人生で起こる当たり前のことが、単純、明快に身を以て理解できるのがサンチャゴ巡礼でありました。
巡礼ら早ビール飲む昼下がり
待合室でも宿でも、時間が余ると、持っていった文庫本を読んでいました。文庫本は軽くて情報が一杯入っています。その日の巡礼のノルマを果たしたあと、 ベッドで横になって、読みながらウトウトするのは、至福の時間でありました。
持っていったのは嵐山光三朗著の「文人悪食」という本でした。
漱石、鴎外から三島由紀夫まで、32人の文人たちについて、食事癖を軸に据え、性行、作品を論じた本です。
読んでいて、百年も経たない時間のうちに、社会通念が大きく変わったものだと思わされました。
漱石や鴎外の時代には、男が自分の手料理を振る舞うなんて考えられないことでした。でも、いつの間にか男が厨房に入る世の中になっています。
また、遊郭が公認されていた反面、姦通罪があった時代、事件に巻き込まれた有島武郎、北原白秋が、現在だったらどんなことになっていたかと思います。異性 関係の社会的評価も昔と今とでは大違いなのです。
あからさまにいえば、作品は立派でも、身近にいたら、とても迷惑するに違いないという文人・作家は多いのです。むしろ、嵐山光三朗氏 が漏らすように「立派な人にはよい作品は作れない」というほうが至言のように思われてくるのです。
読み終わって感じたのは、文人といわれるほどの人は、ともかく個性的であるということです。
漱石は砂糖をまぶしたピーナッツが大好きで、それで命を落としたとか、また鴎外はお握り、焼き芋が好きだったそうです。世評や価格とは無関係に、自分の判 断で好きなものは好きとなさる人格だったのです。
それと違って、世間で評判になると、ドコのお店のナニナニを食べようなどと行列を作るグルメさんたちは、さしずめ「凡人善食」でありましょう。
私はそんな凡人と一緒にいることこそ幸せだと思う、凡人のひとりのつもりなのです。
巡礼の旅も日が経つにつれて、毎日の日課が定型的になってきます。
朝6時起床、7時出発、14時か15時には目的地に着きます。
遠くに見えてくる村落の大きさから、そこがその日の宿泊場所かどうか推察できるようになってきました。
街に入ったら、レストラン、スーパーマーケットに近いところで宿を探します。レジ袋を下げた人の往き来から、スーパーの在り処が匂ってくるのでした。
シャワーを浴び、シェスタ(昼寝の時間)を避けて街に出ます。
食事は一日一食はメニュー(定食のこと、2000円ぐらいまで)、あとはホテルの部屋とか、道中で、随時、適当に食べることにしました。
レストランのメニューは、私の通常ペースの3食分ぐらいの量があると感じられ、毎食では胃が可哀想なのです。
スーパーでは、日頃食べたいと思っているマドレーヌ、クラッカー、フルーツの入ったケーキなどを、この時とばかりに掴みました。ウエハスは子供のころ、病 気の回復期だけに与えられた貴重品です。これも何日か楽しみました。
ハム、チーズなどタンパク質、トマト、キウリ、人参、レタスなどの野菜、洋梨、スモモ、リンゴ、桃、オレンジなど豊富な果物と、栄養のバランスを考えなが ら、自分の一番好きなものを選びました。日常品は安く、スーパーで買っていれば、どんなにおごってもしれた出費でした。
レストランの定食には、飲み物代も含まれているのです。黙っていればワインがついてきます。私はとくにビールを注文していました。
運動とビール、この何日間かのサンチャゴ巡礼のあいだ、実に美味しいビールを飲ませてもらいました。先年、あの空気の乾いたカリフォルニアで飲んだビール から、久し振りのお恵みでした。
21時には「お休み」をいうので長い夜になります。明け方には眠りが浅くなり、いっぱい夢を見ました。
意外に、現役時代の会社の夢、たとえば「こんな年齢になったのに、なぜ働いているんだろう? 早く若い人に譲らなくては・・・」というような、多少、自慢 げな楽しい夢がが多かったのです。
覚めたときは幾つか憶えていても、手帖に書き止めているうちに、最後のは思い出せなくなっているとか、夢を見ることも楽しんだのでした。
6月14日、最終目標のサンチャゴ・コンポス テーラまで。
早朝5時50分出発。前夜から雨なのでカミーノたちはまだ歩き出しておらず、巡礼路に入るルートを自分たちだけで迷い迷って探しました。
放送電波の送信所らしい建物も現れ、都会が近いのを感じさせられました。雨具を着て傘をさし、ただ、ひたすら西にへ進みました。
やがてゴッソの丘へ着きました。ここは、巡礼たちが長い旅路の末、始めてサンチャゴ大聖堂を遠望し、大感激すべき高みなのです。ところが私はといえば、雨 に濡れ、冴えない姿で記念塔のレリーフにシャッターを切っていました。
丘を下りてゆくとモンテ・ド・ゴッソのアルベルゲです。あとカテドラルまでは約4km、ハイキングムードのお客さんも多いのでしょう。映画「サン・ジャッ クへの道」にも出てきたところで、80人収容の宿舎が10棟も並んでいます。
旅の最初に泊まったサン・ジャン・ピエ・ド・ポーのアルベルゲは、たった2部屋、定員が十数人でした。まったく大違いです。
市街地らしい広い道が、石畳の細い曲がった道に変わると旧市街です。そしてサンチャゴ・コンポステーラのカテドラル(大聖堂)に飛び 出しました。観光客がゾロゾロ歩いています。
早く出て早く着いたので、聖堂の前から3列目に座り、正午から行われるミサを約1時間、延々と待っていました。
ここがローマン・カソリックの三大聖地の一つとされた理由を説明する文章は、インターネットに幾つものっています。それらのうち上出 来な一つを、原文のまま下記に借用させていただきました。
《 聖ヤコブはキリストの12使徒の1人。キリストの昇天後、使徒達はそれぞれ担当を決めて手分けをしてキリスト教の布教に歩く。
彼の担当はスペイン。当時『地の果て』(Finis Terrae:Finitre)と呼ばれたイベリア半島の北西端のGalicia地方に船で上陸し、ここを基点に6年間程スペイン中を布教に廻る。 その間にZaragozaのPilarのマリアのよ うな奇跡を起こすものの、説教が上手くなく殆ど弟子ができず、失意の内にイスラエルに戻る。
当時はヘロデ王のキリスト教徒への迫害が激烈を極めた時期で、彼はすぐに捕らえられ斬首刑に処せられる。12使徒最初の殉教者となる。屍は野ざらしにされ 野獣の餌にされるが、夜になって彼の2人の弟子がその屍をこっそり浜辺に運び 出したところ、沖から船頭もいない一艘の船が近づき、「乗れ」と言わんばかりに彼らの前に停まった。 「これは神が遣わした船に違いない」と天を仰ぎその奇跡に感謝の祈りを上げた後、師匠の遺体と共に乗り込む。船は突然動き出し、地中海を通りジブラルタル 海峡を通り抜け、更に大西洋を北進してヤコブが宣教に赴いたときと同じUlla河を上って、現在Padronと呼ばれる川岸にたった一晩の内にたどり着い た。ここの川岸の小さな教区教会の祭壇には、現在もそのときにその船を繋いだ石が祀ってある。
2人の弟子は師匠の屍を川岸から少し離れた現在のイビア・フラビアと呼ばれる所まで運んで、そこにあった大きな大理石の岩の上に置いた。突然、その岩がヤ コブの体の形に溶けそのまま石棺になった。
そのお墓もそのまま忘れさられて仕舞うが、800年後にまた奇跡が起こる。9世紀に、2人の牧童が、東方の3賢人が見たと同じ形をした星が執拗に呼んでい るかのように瞬いているのを見て、それにつられ森に入っていくと、星の光を反射して輝くこの石棺を発見する。無学の2人には勿論刻まれた文字が分からず、 当時の司教Teodomiroに伝えられ、聖ヤコブの墓であることが知られるようになった。そして千年を超える巡礼の旅が始まることになる 》
とのことであります。
これを読んでいて、源氏物語の「須磨」の段を思い出したのです。
下記は与謝野晶子の源氏物語から、これも原文のまま引用しました。
《 異形の者からお告げを受けたのです。信じがたいこととは思いましたが、十三日が来れば明瞭になる、舟の支度をしておいて、必ず雨 風がやんだら須磨の源氏の住居に行けというようなお告げがありましたから、試みに舟の用意をして待っていますと、たいへんな雨風でしょう、そして雷でしょ う、支那などでも夢の告げを信じてそれで国難を救うことができたりした例もあるのですから、こちら様ではお信じにならなくても、示しのあった十三日にはこ ちらへ伺ってお話だけは申し上げようと思いまして、舟を出してみますと、特別のような風が細く、私の舟だけを吹き送ってくれますような 風でこちらへ着きましたが、やはり神様のご案内だったと思います 》
昔、船旅は旅の楽な手段として庶民に親しみがありました。10世紀頃は舟による交易がかなり行われていたことが知られています。
特別な風が吹いて助けてくれたというテーマは、あちこちで生まれたとも思えます。でも、大国主命と因幡の白兎の話が、世界各地にあるなどの例からすれば、 ひとつの話が伝えられたとも思えます。
日本を出発する前に山男たちの集まりがありました。私はサンチャゴ巡礼の講釈をしたあとで「どうせカトリックの話は嘘ばかりでしょう から」と、要らないことをいいました。自分がキリシタンの熱い信仰からゆくのではないと、照れ隠しに付け加えただけなのですが。
すると世話役が慌てて「ここにいるNさんはクリスチャンですよ。しかもカソリックですよ」といわれました。
私はすっかり動転し「キリストの聖衣の切れ端を尊ぶなんて、仏舎利と同じ・・」とか、しどろもどろで言い訳をしていました。
さて、みなさんは前掲のサンチャゴの御縁起をどこまでお信じになるでしょうか。
いまでもアメリカ人の半分は、キリスト教の聖書にあるとおりに、神様が紀元前4004年10月18日から24日にかけて、地上の生物を6日間で作られたと 信じていると報じられます。日本では信じているといったら変な目で見られるでしょうね。
ミサが始まるのを延々と待っていましたので、文章のほうも延々と道草を食いました。
緑の僧衣を着た神父さんたちが7人入ってこられミサが始まりました。
汗の香の祈りの列の端につく 黛まどか
カテドラルは超満員でした。今日は木曜日です。日曜日でもないのにこれだけの会衆が集まるのということは大変なことであります。
合唱が堂内の空気を揺るがせます。
宗教の存在は教義だけではなく、ホモサピエンス共通の未知なものに対する不安、犯さずにはいられない罪への懼れ、ご先祖様、父母、兄弟、隣人たちの宗教活 動、そんないろいろな要素の集積なのでしょう。
ともかく現実に、世界中から、かくも大勢の人が押しかけているのです。
御縁起の非合理性は宗教が持ついろいろの面のひとつに過ぎません。
それは、深く考えないでも済むことでもありますし、あれはあれこれはこれと割り切ることが可能でもあります。
チーフの神父さんがお説教をなさいました。なんでもその説教の中に前日サンチャゴ巡礼を達成した人を、どこの国の人が何人来たと折り 込まれるのだそうです。
でも、私といえば、主教様の頭の格好がフルシチョフ書記長そっくりだとか、初老のおばさまが全体に目配りしていて、実質的にミサを仕切っているようだと か、くだらないことばかり見ていたのです。そもそも、もう耳が遠くて、聞こえないし、聞く努力さえもしない老人なのですから。
カテドラルの前に立ったときから、折角ここまで来たのにちっとも感激していない自分を、損な性格の男だなと憐れんでいたのです。
でも、大聖堂の栄光の門の際で喜捨を求めていた黒衣の老婆に、半ユーロのコインを進呈したのは、やはり心のどこかが柔らかくなっていたのでしょう。
次の日は朝早い飛行機に乗るので、サンチャゴには泊まらず、バスで前夜と同じラバコラの宿に帰りました。
6月15日、いよいよ日本に帰る日です。
朝、靴を履くときに、これでもう歩くことはないなと思いました。
飛行機の中で脱ぎやすいようにと、ズック靴の一番上の穴をはずし、靴ひもをゆるく結びました。
カミーノの旅は終わったのです。
空港に着きカフェテリアでクロワッサンとコーヒーのお代を払いました。
小銭入れを包んでいたビニール袋を捨てました。
それだけでなく、キャッシュカードを入れていたパス入れ、首から提げていたパスポート入れ、カメラ、と貴重品を包んでいたビニール袋、すべてをはずし、すべてを捨て ました。
もう、雨にも汗にも濡れることはないのですから。
サンチャゴ巡礼の旅は終わったのです。
・巡礼も今日が最後と夜濯ぐ