題名:シニアの常念・蝶が岳

重遠の入り口に戻る

日付:2004/8/2


今回同行したFさんは、60才を越えてから登山を始められました。

ご自宅の近くの標高400m級の山で、かなり頻繁にトレーニングに励んでおられます。

数年前から、ときどき山へご一緒するようになりました。

あるとき、常念岳に行きたいと言いだされました。

「簡単ですよ。2日仕事ですね」、私はそう答えたのです。

20年ほど前、仲間たちと登ったときのことを思っていたのです。

朝、長野市を出発し、三つ又に車を置いて登り始め、常念小屋泊、翌日蝶が岳を回り、三つ又に下山したのでした。

さて改めて計画を立ててみると、Fさんが72才、私がそれより上という現状では、どうしても4日はかかりそうなのです。

4日間連続して、天気が良いのを期待するのは難しいと思われます。

そして何より、常念岳ひとつだけに4日使うというのがどうも勿体なく思われたのでした。

とうとう今年になって、4日使うのも仕方ないなと、自分の体力低下を観念する心境になってきたのです。

そして、たまたま所属する山岳会で100山ラリーなどいう企みがスタートしました。私は、好きな山に、好きなようにしか登る気がありませんが、まあ、お 付き合いということはあります。長壁山、蝶が岳、常念岳と3山を4日で登るなら、まあいいかという気になったのです。

2003年の夏は8月になってから天気が悪く、冷夏の様相を呈していました。

私の都合が4日間空けられる時期で、しかも老人らしく週末の休日を若い人たちに譲ろうとして探すと、そんなに沢山チャンスがあるわけではありません。

お盆を過ぎた頃、テレビの週間天気予報の最後に、やっと晴れマークが出てきました。いくらなんでも、もう太平洋高気圧が出てくるはずでした。そこでとう とう俳句の会は欠席することとし、常念岳へのチャレンジを決意しました。

1人でしたら、当日決定、行き当たりバッタリでよいのですが、2人となるとそうもゆきません。列車、徳沢の宿の予約をしました。

出発日が近づくにつれ、気象庁は晴天到来の日延べを始めました。

出発の前日、上高地の様子をインターネットで調べてみました。すると「本日小雨、最高気温18度C、今年は夏がないのではないかと言い合っています」と ありました。

私も日延べをしたい気分でした。

中央西線、松本電鉄と乗り継いで上高地に入りました。そういえば、このところ、づっとマイカーばかり使っていました。公共交通機関で上高地に入るのは、 いい加減20年ぶりのことです。

途中までは良い天気でした。Fさんにも良い日を選んでくれたと喜んで貰えるなと、心中、思っていました。

ところがバスが沢渡までゆくと、ビニールの合羽をかぶった、ずぶ濡れの人たちがどやどやと乗り込んできました。

河童橋のたもとの食堂で昼食しました。梓川の水位は、かって見たことがないほど高く、滔々と流れていました。

この日は徳沢までの行程です。心配した雨は、ときどきパラパラ当たってきましたが、徳沢に入る直前に傘を広げる程度ですみました。

・夏寒し水嵩高き梓川

上高地からの梓川沿いは、何度歩いた道でしょう。コウモリソウ、カニコウモリの多い道です。懐かしいツバメオモトも目につきます。

Fさんに植物の講釈をしながら、かって名前を教えてくれた人や名前を教えてあげた人たちのことを,頻りに思いながら歩いていました。

Fさんは「若いときなら手帳に書き留めて、うちへ帰ったら図鑑を見たのに。今では・・」と言うのです。私だって、ただ過去の自分の思い出のためだけに、 植物の名前を口にしているのですもの。 お互い、そういう年令なのです。

1時間弱歩くと明神です。

ここからは急に人影が疎らになります。ここまではあまり人が多くて、すれ違う人たち全部とは、とても挨拶を交わす気分にはなりませんでした。

だから、山の人とおぼしき相手に限って挨拶していました。いくら鈍い私でも、歩くだけの人と、登る人との区別は分かるようです。挨拶された相手もそのよ うでした。

15時前に入った徳沢の宿には、お風呂までありました。

なにか気力に欠けた私は、2段ベッドの下の段で、翌朝6時まで、ほぼ12時間横になっていました。

朝7時、徳沢園の裏から、いきなり急登の斜面に取り付きました。

すぐ、男女のカップルに追い抜かれました。我々の倍ほどのスピードで登ってゆきました。

2度目の休憩をしているときに、別の中年の男性に抜かれました。その人は相当重い荷を背負って、ゆっくりゆっくり登ってゆかれました。

前者のカップルとは、結局、相前後して登ることになりましたが、後者は、以後まったく姿を見ませんでした。ただのネズミではないのでしょう。ゆっくりで すが、自分のペースで休まず登って行ったと想像されます。

標高が増すにつれて、道はコメツガの高木、シラビソの高木と変化してゆきます。

高木の林を登っているうちは、樹間から明神岳の岩壁が見えました。

傾斜が緩くなるあたりから、シラビソの密生した森になります。

5年前、厳冬期に雪の中で苦闘した場所です。道がはっきりせず、足が雪にずぶっと落ち込んだことを思い出しました。あの時は比較的風の弱いところで、 立ったまま昼飯にしました。手の指先と足の爪先が、まるでアルミの円筒をかぶせたみたいに、触っているのにまったく感触がなくなってしまいました。

ピッケルを持ち替えては、空いた方の手を脇の下に挟んで暖めながら、風の弱いところまで下がりました。すると嘘のように直ってしまいました。

長壁山は、山というより尾根の途中に三角点があるだけの場所です。

間もなく可愛い池がありました。登山道から比高で20mほど低いのですが、周りの斜面がまるで芝を人工的に張り付けたような、柔らかな緑でした。

「まだほかに本当の妖精の池があるかもしれないけれど、これも妖精の池だね」、そう私が言いました。なんというシニアらしい猜疑チックな言い回しでしょ う。間違ってもいいのですから「ワッ綺麗!妖精の池だ!」、素直な若者ならそう叫んだことでしょう。

蝶が岳の最高点は、なんということもない、なだらかな高まりです。尖った蝶槍よりこちらの方が高いことが最近確かめられたと、いくつかの案内書に書かれ ています。

すぐ足下に、今夜の宿、蝶が岳ヒュッテが見えるのですから、楽な気分です。

二人でゆっくり景色を楽しみました。懐かしい、懐かしい山々です。 穂高、槍は頭が雲に入っていました。でも、槍沢、唐沢の雪渓は真向かいに見えます。

焼岳、乗鞍、御嶽と南の方はどうにか見えました。

14時到着、清潔な気持ちの良い小屋でした。

街では150円のお茶が、ここでは500円でした。同じく300円の缶ビールが600円でした。当然、大抵の人はビールを選びます。でも、私はウーロン 茶を選んだのです。山に入る前から、鼻水が出たり、体調は良くなかったのです。体調の良いときだけ山へ登るものではないなど、悟った気分になっているの もシニアゆえなのです。

夕食後、高山医学のレクチャーがありました。

大学医学部の人たちが、ここの小屋に詰めていて、診療所を開いているのです。検診一回1000円、保険証は要りません。どうぞお気軽に、というような札 が掛かっていました。

レクチャーでは、ユーモアをまじえ、要領よく話す現代の学生さんたちに、すっかり好意を持ってしまいました。

高山病のレクチャーも面白かったのですが、登山靴の底が剥がれたときの対処方法はとても参考になりました。最近のプラスチックの登山靴は、運が悪いと突 然底が剥がれるようです。そんなとき、基本的には鉄の針金を用意しておき、縛ると良いのだそうです。

ある人はなんとか小屋までたどり着き、靴を借りたのだそうです。でも、貸した人は、その後どうしたのでしょうね、とクスグリました。 そして、常念小屋では靴まで売っているというくだりには、聴衆からどっと笑い声が上がりました。

レクチャーの後で、血圧測定、血液中酸素濃度測定をしてくれます。

あまり希望者が多かったので、私は並ばずにテレビを見ていました。イラクの国連事務所が自爆テロにやられた、ライブの放映でした。

行列がなくなってから、血液中酸素濃度測定だけお願いしました。89パーセントでした。学生さんが「全然、正常です」と言ってくれました。「深呼吸して みます」、これは私が言ったのです。やってみると酸素濃度は見る見る92,94と上がったのです。

「先月、4000mピークに行ってきたんです」、こんなことを言うシニアが、好かれるわけありませんよねえ。

日の出は5時10分頃です。

私はぐずぐず寝ていましたが、Fさんは外に見に出てゆかれました。 でも「ちょっと遅れちゃった」とのことでした。 当然小屋の中も「カーテン開けてよ」などガヤガヤしてきて、私も窓越しにご来光を見たのです。

水平にたなびいている雲の間に、太陽の丸さを確かめることはできました。

でも、金の矢が広がるような、素晴らしい日の出とはほど遠く、まさに目下の日本経済そのもののような冴えないご来光でした。

・御来光薄ぼんやりや寒き夏

6時20分、靴を履きながら、小屋を出てゆくほかの人たちの様子を見ていました。

そのときは、今日は雨具をつけたり脱いだりだなと予想したのです。

でも、出るともう直ぐにパラパラきて、慌てて雨具を着ました。

雨は降り放しでこそありませんでしたが、かといって脱げるほどでもなく、結局、13時、常念の登りの途中でゴアのズボンを脱ぎ、常念の頭で上着も脱ぐま で、ずっと雨具を着たままでした。

今日の行程は、一旦、蝶が岳から約200m下り、そのあと常念岳まで400mほど登り返すことになります。

最低鞍部らしきところで、逆行するパーティの数人が腰を下ろしていました。その中のシニアとおぼしき人に「お幾つですか」と人懐っこいFさんが声をかけ ました。「80才だよ。あんたも同じぐらいじゃないか?」と私のことを言ってくれるのです。なにせFさんは童顔ですから、まあ仕方ありません。

話し込むと、その方は熊本から来ておられ、中房温泉から入り、上高地に降りる、夜行列車まで使った強行スケジュールなのです。世の中には凄いシニアもい るものだと驚きました。

「蝶までは、まだあるかね?」と尋ねられました。「コブを2つばかり越えて、あと登ったとこが蝶ですよ」、私が答えました。Fさんは、あとで「山では、 短めに答えるものなんですね」と小声でコメントしました。

山は人間が作ったのではなくて、自然にあるものですから、小さな凸凹は幾つもあります。東大出で頭が緻密なFさんは、かなり細かいコブまで意識していた のでしょう。改めて、私のアバウトに生きてきた人生を思いました。

今日に至るまで、一番というのは夜行バスの指定席番号ぐらいしかない私なのです。

折角、常念岳頂上(2857m)に着きましたが、向かい側、主稜線にある槍、穂高は中腹から下しか見えませんでした。

大休止していると、よその人たちの話がよく聞こえます。

鈴鹿市からきているという60才がらみの人が「70才までは何とか登り続けたいと思ってな」と、何回も言うのが耳に触りました。

Fさんも私も70才を越えています。山登りは確かに辛いのですが、また明日続けて登るとしても、別にどうということもない気分なのです。

若い頃は、会社の部長など、年取った偉い人だと思っていました。でも、自分がその年になると、一向に年をとったようには思いませんでした。

人間、自分がなってみないと、他人の気持ちはわからないものです。

・展望図山頂にただ霧流れ

16時30分、常念小屋に入りました。

私も生ビールをジョッキで楽しみました。体調は回復しつつあるのです。

翌朝は最高の天気でした。

穂高岳こそ常念岳の巨体に隠れて見えませんが、誰も彼も、槍の穂先をバックにしてカメラに収まっていました。

6時30分、小屋の帳場から電話で、登山口まで迎えにくるようタクシーを予約しました。

天気の良い、下りの道ですから楽な気分です。おまけに、この「一の沢ルート」は水場が豊富なので、冷たく美味しい水を賞味しながらの漫歩です。

何度もゆっくり休みをとりました。

Fさんの煙草の煙が、残雪の詰まった白樺の谷に流れてゆきます。そのとき、なにか昔の歌の文句に出会ったような気がしたのです。

・白樺の谷へと流す紫煙かな

タクシーが待つ「ヒエ平」には12時過ぎに着きました。

穂高町にある町営シャクナゲ荘で風呂に入り、さっぱりしました。

そのあと近所の高級らしき蕎麦屋さんに入り、無事山行を終えた安堵感に身を委ねながら、ビールで祝杯を挙げました。

Fさんはここの蕎麦がお気に召さなかったようです。私はなんでも美味しい方なので、Fさんがタクシーを呼んでくれている間も、蕎麦をグチャグチャ噛ん で、香りを楽しんでいました。

そういえば、つい最近「死ぬまでに、一度でいいから、美味しくないというものを食べてみたい」と公言する豪傑に会いました。私もどちらかといえば、そち らの派閥に属するのです。

すべての仕事を退いた今は、向こうから仕事が飛び込んでくることは稀です。

今回は、やらなくてもどうということのない常念岳へ登るというプロジェクトを、自分から計画したのでした。

後から振り返れば、二日目の、ときどき雨が降る日の稜線歩きでは、少々不安を感じていたのです。

確率は低いのですが、もしも中間点あたりで足を挫き小屋に救援を求める事態にでもなったら、日没を過ぎるだろうと思われました。

遭難とまでは考えませんでしたが「こんな日に、こんな老人が」という 非難は免れないでしょう。

少しでも早く、先に進んでおきたいという意識は持ち続けていたのでした。

とかく消極的になりたがる老いの身に鞭打ち、こうして無事山行を終えたいま、若いときとはひと味違った満足感に包まれているのです。

ともかく、申し分のない楽しい旅でした。                 

重遠の入り口に戻る