日付:2002/4/2
●わが家の庭15年ほど前、父が90才で亡くなりました。
そのあと、ひとり住まいの母の世話をするため、母の家の近くに転居しようと考えたのでした。
その矢先に、運良く、生家のすぐ近くに土地の出物があったので、そこに家を建てることになりました。
もともと、私も家内も家を建てることには関心が薄いのです。
結婚してからずっと転勤の連続で社宅住まい、それも行く先行く先、どこも鉄筋コンクリートのアパートで、楽ばかりさせてもらっていました。
いざ、一戸建ての家を建てなくてはならない段になると、今まで住んでいた集合住宅のような既製品を買うのとは違って、建築業者から当方の意向をいろいろと聞かれました。
私は、家というものは、長時間そこにいる主婦が城主で、会社ばかり行っている亭主は単なる寄宿人だと悟っていましたから、資金調達以外は、すべて家内に任せることにしていました。そして、その家内は、家の建築に関心と経験の豊富な妹と相談しながら進めてくれました。
こうして、なんとか外見も内容も、そこそこに人並みらしい家が建ったのでした。
そもそも土地がわずか60坪と狭く、その中に建てられるぎりぎりの広さで、建物を建てました。その結果、庭はとても狭くなってしまいました。
土地の狭いことを、猫の額のようなということがありますが、当家の場合はネズミの額としか言えないほどの庭が残ったのです。
また、造園に関しても、両人ともまったく自信がなく、すべて業者にお任せしました。
住んでから15年経った今振り返ると、家屋については夫婦ともなんらの不都合は見付けられず、いまだに手を加えたところは思い浮かびません。
それに反して、庭には、成り行きとは言え、随分、手を入れました。
一番大きな改造は、隣の家との境界に、竹垣に見せかけたプラスチック製の壁を立ててしまったことなのです。
最初は、従前住んでいた方のお好みを造園業者が踏襲し、イヌマキの生け垣になっていました。でも、住んでみると、何となく他人に覗かれているような気がして嫌だったのです。
15年後のいま、最初に植えられた生け垣のイヌマキの列は、頭にだけ葉を残し、下の部分は日が当たらないためにすっかり枝が枯れてしまい、裸の幹になってしまっているのです。
また、いつの間にか、この狭い庭に、植木の数が、とんでもなく増えてしまっているのです。
最初に木の数が増えたのは、白梅が枯れたのがきっかけでした。
なにせ家が完成したのが暑い夏の終わりでしたから、木を植えるのには最悪の時期でした。
それでも、業者にクレームをつけると、植木屋が白梅の補償として紅梅を持ってきました。
植木屋は、帰るときに「この白梅は萎れているけれども、まだ息があるよ。可哀想だったら、自分でどこかに植えなさい」と言って置いてゆきました。こうして、梅が2本になりました。
次の春、この白梅にも少々花が咲きました。花数は少なかったのですが、大輪の、とても綺麗な花でした。
この梅の木は、たしかに死にはしなかったのですが、主幹の下部が腐って三日月状になり、元の円形の五分の一ほどの断面しか残っていないのです。
花が美しいので家内は大変に贔屓して「五郎も、なんとかこの木を大事にしてやってくれと言ってるよ」と、息子まで味方につけて私の尻を叩くのです。
最初は、一本枯れたから、代わりに一本持ってきたというだけの、いわば、ただの一本の梅でしたが、いまや家族の思いの懸かったわが家の梅様になっているのです。
私だってなんとかしてやりたいのですが、幹を昔のように完全なサイズに戻してやる方法は思いつきません。むしろ、いつ、幹が折れてしまうかと心配で、せめてのことに挿し木をしてみましたが、これは成功しませんでした。
そうこうするうちに、自分たち夫婦でも、しばしば稲沢の植木市に足を運ぶようになりました。そして苗木を買ってきては、ずいぶん沢山植えたのです。
私は長年、ある植物研究会に参加して、あちらこちらの観察会に出席してきました。
潜在的に、自分の家の庭にも、いろいろな植物を植えたい気持ちがあったのでしょう。
そんな流れのなかで植えた木に、ムラサキシキブ、ニシキギ、ロウバイ、マンサク、センリョウ、コクラン。ツルコウジがあります。
家内も家内で、自分の好みで、いろいろと買ってきました。
コウヤマキをビニールの買い物袋にぶら下げて買ってきたときは「この木はどんなに大きくなるか知ってるのか?何年かしたら大木になって、この町の目印になるぞ」と私に言われました。
コアジサイは、私が好きだと言っていたのを聞いて、買ってきてくれたのです。
夫婦合意で買ったのは、サザンカやユズなどです。
また、孫が生まれるたびに、サトミザクラ、美咲ドウダン、太一ボケなど、孫たちの名前を付けた木も植えました。
サトミザクラは、私たちの初孫である聡美の名を採った枝垂れ桜なのです。600円で買ってきたときには、ほんの鉛筆ほどの太さでしたが、いまでは大木になり、紅梅、サザンカ、コアジサイ、など仲間の上に覆いかぶさっています。
そのほかにも、よその方から頂戴した木、買い物のおまけに貰った木、捨てた種から発芽したナツミカンまで植わっているのですから、もう、超過密の状態なのです。
・明け初むる庭に白梅仄かにて
●樹々の争い
さて、木が生存してゆく上で基本的に必要な条件は、光と水、そして温度でありましょう。
その基本的条件の中で、わが家の超過密の庭の植木たちのあいだでは、枝を伸ばして光を奪い合う、凄まじい闘争が行われているのです。
そのほかにも、樹の根っこが領土の獲得競争をしていることも、薄うすは感じています。
でも、それは土の下のことですから、私は見て見ない振りをしているのです。
当家の庭の樹々が、日光獲得闘争をしていることは、だいぶ前から気づいていました。
対策として一番容易なのは、家の中から見える側の枝だけを残して、反対側の枝をすっかり落としてしまうことでした。こうすれば残った葉っぱたちは沢山日光を受けることができます。つまり、わが家の樹木は、上から見れば半円形になっているのです。
次は、樹と樹との縄張り調整です。
樹勢の強いロウバイやモミジ、それにマンサクなどは、切って切って、切りまくっています。
始めのうち、木たちはここに連れてこられる前の自分の樹形に、未練を残しているようでした、まるで、またそのうちには、十分日光を受けられる時節が来るとでも思っていたようだと言ったらよいでしょうか。
でも、10年経ってみると、彼等もさすがに諦め、新しい環境に順応する構造改革に踏み切った様子です。
密植され超過密になった状態では、横から来る光は、ほかの木に獲られてしまい、受けとることは期待できません。
それで、将来のことはともかく、まず目先の日光を獲得するために、木たちは頂上に葉を茂らせることに全勢力を集中させます。つまり、どれもこれも頭でっかちになってしまっています。
そのことが気になって、最近は、木の頭の部分の葉を思い切って落とし、下の枝にも光を漏らしてやることに専念しているのです。
こうして幹に較べて葉の少ない、極めて人工的な、いわば盆栽のような庭木にしているのです。
伸び過ぎて私に切られる枝たちは、それだけ見れば極めて合目的な動きをしています。
枝たちは、自分の本体を健康に成長させるために、不足勝ちな日光を可能な限り取り込もうと、いじらし努力をしているのです。それは、もう誰の目に見え見えに見えるのです。
そんな、元気の良い若い枝を切るときに、私はいつもこう言って聞かせるのです。
「ごめんな。気持ちはよく分かるよ。お前が、なにも怪しからんことをしてるわけじゃない。
ただ、ほかにも事情があるからな。
悪いのは、こんな過密にしているオレが悪いんだから。
済まないけれど、この際、譲ってくれ」。
ゴタゴタ書いてきましたが、要するに、この私が僭越にも、わが家の庭の神様の役をしているのだと言いたいのです。
・この春も紅白の梅競うらし
●地球の神様
さて、地球上の生物をコントロールしている神様は、どのような考えをお持ちだと想像なさいますか。
地球上の生物の現状はいったい、どうなっているのでしょうか。
クジラやニシンは減りました。トキやオオタカも減りました。トラもオオカミも減りました。熱帯雨林もタイガも減りました、天然痘や小児麻痺の病原体に至ってはほぼ絶滅してしまいました。
そんな中に、人類だけが爆発的に増えています。
世界の人口が、最初の10億に達したのは、西暦1804年でした。
その後
20億に達するのは 123年かかりました。 (1927年)
30億に達するに 33年 (1960年)
40億に達するに 14年 (1974年)
50億に達するに 13年 (1987年)
60億に達するには わずか12年 (1999年)
そして2000年には、60億5672万人に達しています。
そして人間の数だけではなく、ひとりひとりが消費する資源や、排出する廃棄物の量も急増しているのです。
「ごめんな。気持ちはよく分かるよ。お前が、なにも怪しからんことをしてるわけじゃない。
ただ、ほかにも事情があるからな。
悪いのは、こんな過密にしているオレが悪いんだから。
済まないけれど、この際、譲ってくれ」。
地球を管理する神様が、そう話しかける相手は、いったい誰でしょうか。
外ならぬ人類ではないかと私は思うのです。
キリスト教の聖書の中で、神様は人間に対して「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われました。
でも、それは、過去に起こった地球の寒冷化によってもたらされた飢饉や病気の流行で、人間がバタバタと死ぬような、そんなにカヨワイ人類だったから、そう仰ったのです。今では、事情は、まったく違っています。
人口を減らす方法には、沢山死ぬこと、少なく生むことがあります。
過去には、若い男たちを大量に殺す戦争などいうものも、人口増加の抑制に役だっていました。
してみれば神様は、国連活動を始めとする平和維持の成功を、「折角、闘争本能をDNAに入れておいたのに、人間たち、自分の都合だけ考えやがって」と、不興げに呟いておられるのではないでしょうか。
また、かっては、ヨーロッパで人口を30パーセントも減らしたといわれるペストなどという伝染病もありました。
そして、つい最近まで、多くの発展途上国では、幼児の死亡率が驚くほど高かったのでした。
神様は医療の進歩にも、渋い顔をなさっておられることでしょう。
資源の消費を押さえるためには、貧困という手段があります。
収入が減れば、食べるだけが精一杯で、ファッションに回すお金はなくなります。
そうなれば、流行のドレスに関わる原料や加工、運搬、販売などあらゆる分野で、直接的に資源の消費を押さえることが出来ます。
さらには間接的に、それらの職業に従事している人々の失業などを通じて、人口増加の抑制にも寄与するはずです。
私が庭で木の枝を間引きながら、言い訳を優しくつぶやくように、神様も人類に随分と気を使っておられるようです。
そして「自然との調和」とか、「人類の英知」とかいう、つい気分が良くなってしまうような表現をなさいます。
しかし、しょせん自然保護運動は、なんと言い換えてみても、その本質をつきつめて考えれば、非生産的、非効率的、禁欲的なものであり、自然保護だけをしていて人間が生きてゆかれるものではありません。
つまり、その基本ベクトルは、人類の欲望と反対の方向を向いているものなのであります。
地球を傷つけるな、木を切るな、道路を通すな、建物を作るな、などと言いながら、人間たちが、良いこと、立派なことをしているうちに、いつの間にか自然界は神様好みのバランスになっている、そんな手順を神様は仕組んでおられるのかもしれないとはお思いになりませんか。
熱意溢れる自然保護活動家は、神様が手になさっている、よく切れる剪定ハサミではないのでしょうか。
際限なく快適な生活を送り、長生きしたいという人類の欲望と、人間以外の生物との折り合いも考え、全体から見てほどほどにしておけという、地球の神様の意志とは、もともと食い違っているのです。
この方針のすれ違いのどちらを支持するかと聞かれれば、庭の木たちの神様になって枝を切っている私は、もちろん、地球の神様の側につきます。
そしてなにより、私はもう老人で、間もなくあの世へゆく身なのです。
現状の生活は、私にとって、もう十分過ぎるほど満足なものなのです。
・吠立つる仔犬は知らず猫の恋