題名:いろいろトルコ

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日付:2002/11/11


●パック旅行

名古屋を午前11時に出て、次の日の朝8時に、人口約650万人、トルコ最大の都市イスタンブールに着きました。時差が6時間でしたから、実際には27時間後に着いたことになります。

今回のシンガポール経由のルートでは、飛行距離は約10000キロ、直線距離は約6000キロですから、かなりの遠回りになります。

今年6月のハワイ旅行は、4000mピークに登る、ひとり旅でした。
そのときの、ひとり旅のストレスの強さに、いささか懲りたせいで、今度はなにもかにも旅行社まかせで楽なパック旅行にしたのです。

航空会社はシンガポール航空、名古屋からシンガポール、ドバイを経由してイスタンブールまで飛びます。機体はボーイング777,エコノミークラスでも、各席ごとに液晶パネルで好きな画面が見られる最新の機材です。

往路では、シンガポールで乗り継ぎのために、7時間半、待ち時間がありました。その時間を利用して航空会社が無料で、マーライオンなど街の見物に連れていってくれました。

●マルマラ海・エーゲ海沿いに

トルコの第一日 イスタンブール〜チャナッカレ 
        走行距離295km(名古屋ー大磯ほど)
訪問先     ダーダネルス海峡、トロイの遺跡

50人乗りほどの大きさのバスでしたから、全員、2人分の座席を使ってゆったりした旅ができました。バスの中では完全に禁煙だったことも、快適でした。

まず、空港から、マルマラ海沿いに南西に走りました。

パック旅行ですから、バスが動き始めるとすぐに、旅の注意がありました。

「集合時間を守ること、荷物に気をつけること、とくに、お金に関することは日本と違うから、よく確かめること、あとで言われても手の打ちようがないから、そのときすぐに申し出ること、トルコ人が悪いワケじゃない、どこの国でも悪い人もいるから」

ごもっともです。

そう言われて改めて考えると、日本人は世界の中でも、ことさら優等生っぽい国民だと思えるのです。

でも、日本に住んでいると、ノーベル賞をもらった野依さんが脱税した、トップの食品会社が産地を誤魔化した、大商社が外国で贈賄した、国政議員が口利きをした、大電力会社が点検結果を隠した、校長先生がいかがわしことをした、病院が病人を殺して隠していた、などのニュースが新聞、テレビに飛び交っています。

マスコミの報道だけ見ていれば、正義まさに地に落ちた地獄に見えます。その挙げ句「会社を正直にさせる運動」など、真顔で言いだす能天気な人まで現れます。会社は、人間で成り立っているのですが。

もしも、どこかの星から宇宙人が地球に来たとします。宇宙人のジャーナリストは、虐殺、汚職などが日常的に行われている国にはゆかず、もっともそういうことが稀にしか起こらない国に行っては、それ起こった、やれ大変だと騒ぎ立てるだろうと思います。多分、宇宙人の読者たちも、そんなニュースを、もてはやすのでしょうから。

2時間ほど走ったところのお店で、最初のトイレ休憩がありました。
テーブルで、ひとりぽつんと煙草をふかしているガイドさんに質問をしました。

最初の質問として「ここまで来る途中で、しゃれた家が沢山見えたが、あれはリゾートの別荘なのか。それとも、このあたりの農家の人が住んでいる家であるのか。そもそも、このあたりでは、どんな農作物を作っているのか」と尋ねました。

ガイドさんは、ツルッ禿の男性でした。最初、40代後半かと思いましたが、実は32才ということでした。もっとも、そんなことはどうでもいいですね。

なかなか主張のあるガイドさんで「あれらの建物は全部別荘だ。トルコは夏休みが3ヶ月あるから」そう答えてくれましたが、なおも質問を続けようとする私に「産業のこと、宗教のこと、教育体制のこと、そんな日本人が聞きたがることは、先刻、心得ておる。明日から、旅のつれづれに体系的にまとめて話してやるから」と、個々に質問されることを喜ばない様子でした。

ここから始まるエーゲ海沿いの家々の屋根の上には、太陽熱温水器がのっているのに気がつきました。トルコでは円筒形の貯湯槽が、縦に置かれているのが日本のとは変わっています。

普及率は70パーセントを超すのではないかと見ました。

高層アパートの屋上にも、所狭しと置かれているのにはびっくりしました。そしてトルコでは、アパートに住んでいる人が多いのです。

したがって「駐車場あり」のほかに「温水器設置場所あり」がセールスポイントになるのではないかと思いました。

もちろん、トルコのどの地方でも使われているというわけではなくて、アンカラ、イスタンブールなどでは見掛けません、あくまで日照時間との関係でしょうから。

コンヤという200kmほど内陸に入ったあたりまで目につきました。太陽光発電でも、同じことだろうと思いながら見ていました。

再びバスが動き始めると、ほかのお客さんから質問が飛びました。

「あの、鉄の柵で囲った家々のグループはなんですか?なんであんなに建設途中で工事を中断してる家が多いのですか?」

そんなリゾートハウスにくるのは、北ヨーロッパの人というより、夏休みが3ヶ月もある、都会に住んでいるトルコ人たちのようであります。

ガイドさんが、建てかけて工事を中断している家は、インフレがひどくて、途中でお金が足らなくなったケースもあるし、また、屋根さえ作らなければ未完成と見なされ税金がかからないから、下だけ建てて住んでいるのもある、と説明してくれました。

それなりに理解できるのですが、でも、旅の終わりまで通して、工事中断の家の数はとうてい想像できないぐらい多かったのです。年率50%程度の激しいインフレで、お金を物、つまり建築中の建物に変えておくとしても、あまりに数が多過ぎるとしか思えませんでした。

われわれ一行の中には、息子さんがトルコに駐在員で来ておられる方がありました。

その息子さんは単身赴任なのですが、会社の近くに通勤用の家と、ほかにも週末に暮らす家と2軒与えられているそうです。

ともかく、建設中も含めて、1世帯あたり何軒家を持っているかを調べれば、はっきり差が出るぐらい日本よりトルコのほうが多いに違いないと思われます。

一人あたりのGDPは3000ドルと、日本の約10分の1しかありませんが「日本と、どっちが金持ちか、分からなくなってきた」とある方が呟かれたのが実感です。

日本を出てから帰るまで、我々に同行してくれた添乗員さんが「今、窓の外に見えているのがオリーブの木です」と言ったら、トルコ人のガイドさんに「お前は喋りすぎる」とたしなめられたとのことです。

たしかに、やる気のあるガイドさんではありました。

でも、私としては関心の深かった第一次世界大戦のガリポリの戦跡や、3年前の大地震の仮設住宅が窓の外に見えているのに、それらについては、なにも説明してくれませんでした。

そんな点で、多少、不満がないでもありませんでしたが、まあ、まとまった説明をしてくれたことも事実であります。

第一次世界大戦のガリポリ半島の戦いは、連合国側が上陸したものの、トルコ軍の猛攻に会い海岸に釘付けになったまま進めず、大層苦戦したのです。

先年、私がオーストラリアを訪れたときに、キャンベラの戦争博物館で、この戦いについての展示ブースで、弾痕痛々しい水筒を見たのをありありと覚えているのです。

また、オーストラリア西海岸パース市のキングズ公園に行ったときのことです。

大きな樹木に金属製の札がついていました。樹木の種類でも表示してあるのかしらと思って読んでみると、なんとこれが80数年前の記念植樹であることがわかりました。

「リー・ウォーカー氏を讃える。1917年5月28日。作戦中に戦死。21才」。

そのときは、よもや後年トルコにきて、リー・ウォーカーさんが亡くなった戦場を見るとは思ってもみませんでした。

実は、こんどトルコに来ても、ガリポリがどこにあるかも知りませんでした。バスの車窓から、丘の上に第二次世界大戦で私たちが造ったトーチカのような、コンクリートの覆いが見えましたので、地図をよく見るとガリポリと読めた、そんな偶然のようなことだったのです。

こうして私の海外旅行も、網の目がつながり始めたような、来るところまで来たという感がしたのでした。

オーストラリア、キャンベラの戦争博物館では、自分たちが苦戦していた戦いに、日本が地中海まで艦隊を派遣し助けてくれたことへの感謝が述べられていました。日本があのときのまま、連合国側について、世界政治の中で泳いでいたらよかったのに、という感はあります。

でも、日本の大衆の気の良さ、政治家たちの視野の狭さ、マスコミによる大衆迎合報道姿勢などを考え合わせると、やはり気に入らないという理由だけで強国を相手に戦争を始め、徹底的に打ちのめされたのは、蓋然性が高かったと考えられます。

過去のことは過ぎたことです。私は過去の責任論をいっているのではありません。将来こそ大事です。それゆえ、そのために今後どうあるべきかを論じたいのです。

その答えは、みんながもっと賢くなることしかないと考えるのです。

●ダーダネルス海峡
今までの私の海外旅行は、山仲間と一緒だったり、ひとりで行ったりしていますから、今度のトルコは久しぶりのパック・ツアーでした。

総勢は18名、夫婦が4組、女性2人組が2組、男性2人組が2組、男の単独参加が私ともうひとり計2名でした。

ご夫婦は3組が私と同年代でした。

長年連れ添ったご夫婦たちは、奥様が「おとうさん、あれ持った?」「そんなもの持っとる。要らんこと言わんで、自分のこと忘れるな」。そんな会話を、お互いメゲズに続けておられ、私に悔しい思いをさせて下さいました。

ひとり参加のBさんは、素晴らしい能力を持っておられました。

他人を見て、引退前の職業を推定する面白さを、教えてくださいました。

「あの人は、先生だったらしい」あるいは「あの人は役員タイプだ」。そうおっしゃれば、それが、まさに正解なのでした。

パック旅行には、こんな魅力もあるのですね。

今度の旅行の参加者は、立派な方たちが多かったのです。

立派な人のことを立派だと書いたのでは、面白くもなんともないでしょう。

むしろ、駄目な自分と比べると、なにか悔しい気分さえしてくるじゃありませんか。

だから面白いほうだけ書くことにします。

名古屋を飛び立ち、シンガポールに着きました。飛行機を出た廊下の最初の角で、添乗員さんがみんなを集めて、人数の点検をしました。

乗客の列が途切れても、2人足らないのです。

「大部、酔ってた人がいましたよ。なにせ7〜8杯呑んでたから」と誰かが言いました。果たせるかな、相棒の肩を借りてヨロヨロと出てきた人がいました。

シンガポール空港第2ターミナルが、その方には、天国のように見えたのでしょう。

待合いのソファに座っていた私たち同行者に、サンドイッチを山のように買ってきて、おごって下さいました。

やがてイスタンブールへの便が出る時間になりました。その方のお顔は見えないのです。よそのツアーの添乗員さんが、大慌てで飛んできて「添乗員さんはいませんか。お宅のツアーの人が、歩けなくなっているんです」と言いました。

間もなく、彼は車椅子に乗せられて現れました。「乗せる、乗せないは機長の判断です」という声が聞こえました。

ともかく、お陰様で、予定通りの旅を続けることができましたが、以後、ずっと添乗員さんが隣に張り付いて「お好きなのも、お強いのも、よくわかってます。でも、あんまり呑んじゃいけません」とたしなめ続けていたのです。
女の人の徳というものでしょう。こんなにしても、刺々しくならないものなのですね。

そして、なんといっても、添乗員さんには、ツアー客一同の熱烈なサポートがついていたのですから。

さて、今年の夏前にJALの便でハワイにゆきました。機内のテレビで、飛行中の泥酔防止、禁煙、電子機器の使用禁止を、コミック風なビデオにまとめて,実に上手く流していました。

そのときは、その見事な出来映えに、ただ感心していたのですが、今回のパック旅行で起こったこんな事実を体験してみると、日本人乗客には特別に警告しておく必要性があるのかとも思ってしまいました。

過去半世紀、日本では、政府、大企業が非難されることはあっても、大衆は常に正しいものとされ、咎められることなく、すっかり「裸の王様」になってしまっている気配はするのです。

さて、もうひとりのメンバーCさんも、こんなパック・ツアーじゃなくてはとてもお目にかかれない天真爛漫な方でした。

トルコに入国した日の午後、フェリーボートでダーダネルス海峡を、ガリポリ半島からチャナッカレに渡りました。

そのおじさんは、「なるほど、向こうの島まで橋がかかっていないから、船で行くんだな」。
そのようにノタまって、「今、立っているヨーロッパから、対岸に見えているアジアに渡るんだ」などと、観念的な感慨に浸っているインテリたちの度肝を抜いたのでした。

事実、このダーダネルス海峡にせよ、やや北に位置するボスフォラス海峡にせよ、古来、十字軍始めここを渡った沢山の人々は、両大陸を渡るなど構えずに、ごく素直に、向こう側に見える岸まで船でゆくという気分であったことでしょう。

トロイの遺跡で、トルコ人のガイドさんが「ここは紀元前17世紀に・・」と説明を始めても、Cさんは「この大きな石の柱は、わざと倒したもんかね。人間じゃ倒せないだろうな。地震なのかなあ」と、ご自分のお考えを大きな声で述べられるのです。

私も学校で非常勤講師を勤めていました。講義を始めようとするとき、学生たちがワンワンと私語しているのが大変気になり、話し出し難かったのを覚えています。

こんなことを2度、3度やられたガイドさんは、とうとう「オトウサン!」とたしなめたのですが、そんなことを気にするぐらいなら、始めから大声の独白はなさらないはずです。

「ああ、そうですか」ぐらいのことしか言えない気の弱い私を、Cさんは、よい話し相手と認めて下さったようです。

エフェソス(聖書に出てくるエペソ)の遺跡で、ガイドさんが「ビザンチン時代は・・・」と説明している後ろで、Cさんは私に「オレがローマに行ったとき・・。シーザーは王様で、アントニオはだだの将軍だったんだ。キリストを元老院は迫害したから、あとで建物を徹底的に壊されたんだ。アントニオは、迫害しなかったから像は壊されずに残ってるんだ」というようなことを教えて下さいました。

残念なことに、聖徳太子の爪の垢を頂いていなかった私は、たった二つの話さえ、うまく聞くことができませんでした。

何年か前、スイスのアイガー北壁の下を登山電車で通っているときに、たまたま同席した日本の方から「不景気でも女物だけは売れる。だからこの日頃、デパートで男物は段々上の階へ追い上げられる。デパートでは一階上に上げられると、それだけで一割売り上げが落ちるものだ」というお話を伺いながら、北壁を見ないでその方のお顔を見ていたことがありました。

あのとき、私はひとり旅だったのですが、運が悪かったのでした。

現役で仕事をしているときでしたら、こんな場合に、嫌なことのひとつも言って遮ったり、悪くすると怒鳴りつけたりしなくてはならないのですが、半分当惑している自分を外から眺めて面白がっていられるのも、ハッピー・リタイアメントの功徳であります。

パック旅行ですから、個人旅行では一顧だにしない高級ホテルに泊まることもあります。

今回はイスタンブールで一番新しいリッツ・カールトンホテルに2泊もしたのです。
旅に出る前に、頭の古い私は、どんな服装をしていったらよいかと、心配しました。
ホテルに到着し眺めていると、玄関に立ってる門番は、キンキラキンの帽子や肩飾りのついた服を着ていました。また、ホテルの従業員たちは、男も女も、とても格好いい服装をしていたのです。
でも、お客といえば、どこの国の人でも、観光客は好き勝手な服装をしているのでした。
私もとうとう、この年になって悟ったのです。
女性と名がつけば、毛皮のコートからノー・スリーブまで、どんな勝手な服装をしても咎められないように、観光客と名がつけば、どんな高級ホテルでもTシャツ短パンでもOKなのだと。

・音もなく秋の海峡ゆく巨船

●トロイ
日本に帰ってから改めてスケジュール表を見てみると「トロイの木馬観光」となっていました。そのとおりで、観光用に作られた原寸大と称する木馬に、世界各国の観光客が出入りし、盛んにシャッター音を響かせていました。
素人考古学者であったドイツ人ハインリッヒ・シュリーマンが、詩人ホロメスによって書かれたギリシャ神話イーリアスを史実と信じ、私財を投じて発掘に挑み、1871年、実在を証明したとして有名な遺跡であります。
いまでもドイツからの観光客が多いようで「ウント、ホイテ・・・」などの言葉が聞こえました。
ホロメスが叙事詩イーリアスを書いたのがBC800年、書かれた木馬の登場する戦争はBC1200年ごろ、我々が関ヶ原の合戦を記述するぐらい時間が離れています。
その後、現在まで続けられている発掘によって、この遺跡の始まりはBC3000年、終末はBC350年、その間に9層にわたって破壊、再建設が行われたとされています。
日本でいえば、縄文時代後期から晩期のものですが、その石垣は、天智天皇が大陸からの侵略を恐れて築いた、7世紀の城の石垣ぐらいの技術、規模に見受けられました。
ここは、なんといっても、考古学における大きなモニュメントであります。
名古屋でいえば、笠寺とか鳴海あたりのような緩やかな丘陵地の末端にある高台といった地形であります。
丘の上に立つと、足下から平らな土地が広がっています。
遠くには灯台が霞んで見え、その向こうがエーゲ海、まさにダーダネルス海峡の入り口で、キーポイントになる地点であります。
ヨーロッパでは、海進、海退がどうだったのかしらなど、想像しているうちに、考古学に絞ったツアーがあって参加できればどんなに素敵かしらと思いました。そのうえに、私がもう10才若ければとも、無い物ねだりを願ったのです。
日本でも古事記には、すでに葬られたイザナミを夫のイザナギが訪ねてゆくシーンが出てきます。それを古墳の石室に導くトンネルに譬える例があります。しかし古事記の物語が、特定の、どの古墳のことだという話は聞いたことがありません。
シュリーマンが、考古学に大きな進歩をもたらし、とくに考古学を志す人たちの情熱を掻き立てたことは大きな功績であります。
今のトルコのトゥルヴァ、英語でトロイ、ドイツ語でトロイア、この金看板の遺跡に立って、学問の面では事実だけを見つめ、過去に引きずられてはなりませんが、観光の面では、ロマンに心を遊ばさせてもらいたいと思ったことでした。

・ヘレナ パリス幾星霜ぞ昼ちちろ

●ベルガマ

トルコの第二日 チャナッカレ〜クシャダス
        走行距離435km(名古屋ー宇都宮ほど)
訪問先     アクロポリス、アスクレピオン、トルコ石の土産店 

パック旅行の料金がびっくりするほど安いのは、旅行の行程におみやげ店を沢山盛り込んでいて、そんな店からのリベートがあるからだという説があります。
日本からの観光客も、昔のように目の色を変えてお土産を漁っていた時代は、通り越したといってよいでしょう。でも、やはり少々は買いたい気もありますし、そんなに高くないのならば、お付き合いとして買ってやろうかという気分にはなるようです。

今回のツアーでも、美しいブルーのトルコ石を売る店、革ジャン、革コート、トルコ絨毯、トルコ陶器などのお土産店に連れ込まれました。
ガイドさんが言うのです。
トルコ人はアラビヤ人とは違う。売値の十分の一の値段から交渉を始めても無駄です。
まあ、15パーセント引きが、いいところでしょうと。

お仲間の日本人は、皆さん、とても買い物上手のようでした。
私はただただ感心して、そのやりとりを見ていたのでした。
私は、孫に記念品を買ってやる以外に、なにも買う気がありませんでした。
わが家は狭くて、物を置くところがありません。トルコ絨毯だって、家内が今年始めにもう買ってきて、玄関に敷いてあるのです。
そこで私は、食べれば消えてしまい、場所をとらない菓子だけ、ちょっと買いました。
あちこちのおみやげ店で、可愛い売り子さんに「奥様へお土産に・・・」と、何回も言われました。
そのたびに、家内はもう死んじゃったからと、何回、家内を殺したことでしょう。でも、そう言うと、なおもしつこく「それじゃ、女友達にどうです」と言われましたか
ら、「この次は、女友達を作ってから来るよ」ということにしてあります。
トルコを訪ねる外国からの観光客は、ドイツ人がもっとも多いそうです。
でも、一番お金を落とすのは日本人だろうと思うのです。そこで、どこの店でも日本語ペラペラの売り子が一杯いました。
革製品の店に連れて行かれたときのことです。われわれは舞台の回りに座らされ、ファッション・ショーが始まりました。
若くて格好のよいトルコ人男女が、革製品を身につけ、しゃなりしゃなりと歩くのです。
そのうちに、われわれ一行の中の、美形男女ひとりずつに目を付けていて、無理矢理引っ張って行きました。
やがてお二人が、革ジャンと革のコートをお召しになって、舞台奧からステップも軽やかに出てこられました。
ショウが終わると「お二人とも素敵です。どうです、私の店で働いてくれませんか」
そんなことを言ってはサービスこれ努めてくれるのでした。

・土産買えと呼ぶ売り子らの目よ汗よ

●アスクレピオン
アスクレピオンは、縄文晩期ぐらいに当たるBC2世紀頃に最盛期を迎えた、ベルガマの街にあります。実在したとされるギリシャの医療の神、アスクレピオスにちなんで造営された総合医療機関のような施設です。
物理療法、心理療法、薬草療法など行われたといいます。
ガイドさんの説明によると、病院の評判を上げるために、入院前に検査して、治る見込みの強い人しか入院させなかったそうです。
また、院内の円形劇場では、悲劇しか上演しなかったといいます。それは患者たちに、自分よりもっと不幸な人がいる、自分はまだましだと思わせるためだったそうです。
こういう真偽の怪しい話は、ガイドがいないと聞けません。
また、3mX3m、長さ100m弱の真っ暗なトンネルがありました。天井には5mおきほどに小さな穴が開いています。患者たちはここを歩かされます。天井から医者が「治る、治る、きっと治る」と、聞こえるか聞こえないかの声で囁くのです。それが神の声のように聞こえたといいます。
21世紀の今、新聞折り込み広告を埋め尽くしている健康食品ぐらいの効果はあったに違いありません。

夕刻、今夜泊まるクシャダスの港町に着きました。有名なリゾートです。
山に囲まれた入り江を埋め尽くす白い建物と、スマートなクルーザーを見て、一日中自然を見続けてきた人たちから、一斉に「まあ、素敵」という声が上がりました。
このように、自然環境礼賛は客観ではなくて、主観なのですから、当否を争うものではなく、多数決しか決めようがないものなのです。

●エフェソス

トルコの第三日 クシャダス〜パムッカレ
        走行距離210km(名古屋ー富士ほど)
訪問先     エフェソス、アルテミス神殿、パムッカレ

世界遺跡に指定されているエフェソスの遺跡を訪ねる日の朝、まず、近くにあるイエス・キリストの母親、マリアが生前住んでいたという家を訪ねました。
イエスは自分の十字架での死が迫ったことを知ったとき、弟子のヨハネに自分の母のマリアを託したのだそうであります。
確かに、ヨハネは、このトルコのエフェソスの街に縁が深かったのです。
ところで、マリアの終の棲家とされる建物は、人里離れた山奥、いわば猿投山の菊石が見られる場所のようなところにあるのです。
もちろん、復元されたものでありますが、そこには古い建物の基礎があったそうであります。
一度も現地を踏んだことがないドイツの有名な神秘家エムリックという人が、幻にありありとその家の場所、姿を預言したとあります。
ここで湧きだしている水を飲むと、万病が治るのだそうです。ルルドの泉というのも聞いたことがあります。
ここでは、水道のような蛇口から飲むようになっていました。
そして、ガイドさんは「飲んじゃいけません」といったのです。

我々が知っているキリスト教は、明治になってから入ってきた、いわば新しいキリスト教で、豊かな先進国の宣教師たちがもたらしたものであります。
こんなトルコの古くてローカルなキリスト教の有り難いお話を聞いていると、日本でも、同じ様な話があったのを連想させられます。たとえば元善光寺の縁起では、本多善光が「善光(よしみつ)、善光」と呼ぶ声に応えて、堀から仏像を掘りだし、伊那谷の飯田市、元善光寺に祭ったということになっています。

エフェソスの遺跡は、BC1700から、AD400年と2000年余にわたった遺跡であります。
なにせ基本的になんでも石で造られていますから、ハードウエアとして残っているものを、一杯見ることができます。
土砂に埋まっているので、現在でも発掘が進行中で、実に大変な遺跡であります。
世界遺産に指定されています。そして世界中からの観光客でごった返しています。
遺跡のメインの紹介は観光ガイドブックなどに譲り、ここでは、こぼれ話にだけ触れることにします。
公衆トイレが残っています。20m角ほどの壁に囲まれた四角形の空間であります。
真ん中にやはり四角形の池があります。
部屋の周囲に、昔の国鉄の駅の待合室といった感じで、長いベンチが巡らしてあります。壁もベンチもみんな大理石で造られています。そのベンチに、1,5mほどの間隔でくりぬきがあります。そこに腰掛け、お喋りしながら用を足したのだそうです。
一種の社交場であったということです。
現代の我々からすると、なんだか恥ずかしく、格好悪いように見えますが、その頃の人たちは、ふっくらしたワンピースのような服を着ていたのですから、普通に座っているのと大差ない姿だったようです。
下水の溝は、うんと深い底に造ってありました。
ガイドさんは、一応の説明を終わると「その頃のトイレは有料でした。今のトルコ人、その真似をしてるだけ」と付け加えて、みんなを笑わせました。

見学コースの終わり近くに、円形劇場に案内されました。
円形劇場もトルコの遺跡巡りでもう3つ目でした。その意味ではまたかという感でしたが、「この劇場の舞台で、ヨハネと、そしてパウロがキリストの福音を説いた」という説明を聞いたときには身の引き締まる思いがしました。
聖書に書かれている物語は、なんといっても私には遠いものでありました。
今までは考えたこともなかったのですが、今さらのように考えてみると、キリスト教の教義とか、イエスの生涯は、それなりに素直に理解していたと言えます。
でも、パウロが伝道に尽くした、コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、テサロニケなどの土地のことは、中国の史書、魏志倭人伝に出てくる古代日本の狗奴国、投馬国などと同じ感じで受け取っていたのでした。
また、パウロの伝道の様子も、時代が下る7世紀に書かれた西遊記に出てくる三蔵法師、孫悟空と似たような、宗教を勧めるのを目的とした、かなりフィクションを含んだもののように理解していた気がするのです。
人口25万人のエフェソスの町の1割、2万5千人を収容できるという大劇場の、このいま見ているこの石の舞台の上で、ヨハネやパウロが熱弁を振るったと知って、聖書の世界が、とてもリアルに私の体の中に入ってきたのです。
聖書にエペソという土地の名前が出てくることは、前から知っていました。
こんど訪れたエフェソスは、発音がエペソと似ています。あとで調べてみるとやはり同じ土地でした。
ついでに聖書を見ると、使徒行伝にエペソがかなり登場しているのでした。
キリスト教が霊験あらたかなることを知った大衆が、銀5万にもあたる従前の教典を焼いた焚書のことや、アルテミス神殿の模型を作って生計を立てていた銀細工師が、キリスト教の説く偶像崇拝否定に反発して、大衆を反対運動に動員したことなどなど、ノンフィクション的に記述されていました。

宗教は信ずるもので、論ずるものではありません。
私は、信心深い立派な友人たちを沢山知っています。
その人たちは、信ずることによって自分の幸せを得ているだけでなく、その幸せを世間に広くお裾分けして下さっています。
そんな私が尊敬している人たちは、私が宗教をハートでなく、理屈で論ずるのを見て、軽蔑するかもしれないと心配なのです。

でも、理屈の世界は理屈の世界と割り切って、車の両輪のうち、片方だけを論ずることを許して頂きたいと思うのです。
人類発生以来の長い長い時間、最初はどの人間集団にも共通して、石、草木、川など総てのものに神が宿っているとするアミニズムがあったとされます。草木国土悉皆成仏の世界であります。
ところが、ある時期、約2000年前、人類の長い歴史から見れば殆ど同時期に、いわゆるメジャーな宗教が起こりました。
そしてそれ以来、アミニズムはいわば迷信といったような扱いを受けるようになったのだと思います。
しかし形式的に考えれば、万物流転の世のこと、宗教の世界だけに、これが永遠に絶対、究極だというものがありうるものでしょうか。
一歩譲っても、いまのメジャーな宗教が、その究極のものだと断定できるのでしょうか。

日本には宗教的儀式はあります。でも、宗教があるといえるでしょうか。
21世紀に入りました。気が遠くなるような宇宙の構造や地球の歴史について知見を深め、人間を始め生物を、より物質的な存在として位置づけずには置かない遺伝子の究明が進んだ現代では、日本の無宗教とも見える現状は、宗教の変遷の過程の一幕なのかもしれません。

あまり、話が難しくなってしまい、自分でも何が何やら分からなくなってしまいました。
そこで、次のようないい加減な話で遊ばせていただきましょうか。

新訳聖書。ヨハネによる福音書8章3節

《すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、イエスのところへ姦淫をしているときにつかまえられたた女をひっぱってきた、中に立たせた上、イエスに言った。
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのはイエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかしイエスは身をかがめて、指で地面になにか書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

そしてまた身をかがめて、地面に物を書き続けられた。これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついにイエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起こして女に言われた。「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。
イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。》

ところで、この説話の後半の部分は、現代ではつぎのようになるように思うのです。
《・・・。そしてまた身をかがめて、地面に物を書き続けられた。これを聞くと、彼らは、はじめはおずおずと、そして、ついには「私に罪がないとは言わないが、新聞種にされたことはない。その立場で、マスコミの指弾を浴びた者に石を投げつけていると、あたかも自分が正義のヤカラであるかのような、高揚した気分になれるのだ」
と叫びながら、激しく石を投げつけた。女はやがて血塗れになり、ときどき手足をヒクヒクと痙攣させ、横たわっていた。そこでイエスは身を起こして女にに言われた。
「女よ、ニーチェが言ったように、神はもう死んだのだ」。女は言った、「神は死んだのではありません。罪があるかないかではなくて、ただ数を頼む世論だけが、神になってしまったのです」。イエスは言われた、「わたしだけはあなたを罰しない。しかし今は、ただ諦めなさい」。》

他人を悪玉に仕立てることにより、自らを正義漢とする芝居を演じて楽しむことを、悪いことだとはいいませんが、どう考えても、生産的な行為でないのも事実といわざるを得ません。

・天高し大理石柱立つ遺跡

●パムッカレ

トルコの第四日 パムッカレーカッパドキア 走行距離640km(名古屋  ー福島ほど)
訪問先     メブラーナ博物館、キャラバン・サライ

パムッカレというのは「綿の城」という意味だそうであります。
やはり、世界遺産に撰ばれた、天下の奇観であります。
地形は山からは少々離れた段丘の崖です。上面、下面とも水平に近いですから、正断層で下の面が落ち込んだようにも見えます。その崖の上面から高さ100m近く、幅2000mほどが綿のように真っ白なのです。ある場所は千枚田のようにプールが連続し、また、ある場所では氷柱の列を吊り下げたように見えます。
上面から温度35度ほどの、カルシウムを溶かし込んだ温泉が湧いています。そのお湯が流下する道程で、空気中の炭酸ガスとくっつき炭酸カルシウムつまり真っ白な石灰となるのです。
この現象は、日本のあちこちの鍾乳洞でも見られます。鍾乳石、石筍、石灰棚などと同じであります。ただ、パムッカレのように丘の上部の広い範囲から地表を流下し、色が真っ白、しかも長い長い年月変わらないという条件は、地球上でここだけなのでありましょう。
大勢の観光客は裸足になって石灰の坂道を歩いています。用意のよい人たちは海水着に着替えてきて、自然の石灰プールで泳いだりしています。
裸足で歩くと、表面はザラザラしていて、やわな足の裏では、ちょっと痛く感じます。
いずれにせよ、地面の底では湯に溶け込んで失われ、空洞になっている部分があるのですから、そこがいつまで持つのか、また、トルコは地震国ですから、今の奇観を呈している条件が変わらないとも限りません。

そういうわけでパムッカレは温泉ですから、古くから湯治場として大勢の病人たちが集まってきました。「綿の城」のすぐ上に、BC190年頃からヒエラポリスという
町ができました。15000人収容できるという円形劇場があるほどです。
この街も1354年の大地震で破壊され、再起不能になってしまいました。
また、折角、養生にきたのに、薬石効なく亡くなった人たちのお墓が、数千あるといわれます。街に隣接した墓地は、ネクロポリスと呼ばれています。病人たちは随分遠くからも療養にきたのだそうで、つまりお金持ちがきたということだそうです。
彼らの出自の地方色豊かで立派なお墓が沢山あります。
楊貴妃のお墓のように、土饅頭のもありますし、日本の古墳に収めれられている家形石棺そっくりのもあります。まさか、日本や中国からきたわけではないでしょうが。

・日の出前数多の男女綿を摘む

●カッパドキア

トルコの第五日 カッパドキア〜アンカラ
        走行距離285km(名古屋ー小田原ほど)
訪問先     カッパドキア、カイマクル、ウチヒサール、大塩湖

世界遺跡に指定されているカッパドキアというのは特定の場所ではなくて、かなり広い地域を指しています。
柔らかい火山堆積物が浸食されてできた、3階建てほどの高さの円錐状の柱の上に、固い安山岩を帽子のように乗せていて、まさに妖精の煙突という言葉がピッタリな奇岩が、目の届く限り林立しています。
しかし、こんな天下の奇観についての記述は、ガイドブックにまかせましょう。

ここでは最初に、カイマクルの地下都市を見ました。
標高1300mほどの、高原状の場所にあります。
地下都市は、適当な固さの地盤をくりぬいて造られています。壁の厚さが僅か15cmほどのところもありますが、それでも崩れず、そうかといって本当の岩のようにカンカンに硬い岩でもないのです。鹿児島のシラス地帯に似ていますが、もうちょっと固結が進んだ状態なのでしょう。

地下約40m、8〜10階の集合住宅です。不規則に掘り進めてあり、まるでアリの巣のようです。礼拝堂、学校、酒醸造所、共同炊事場などあり、共同生活を営んでいたのです。
換気坑を見せられましたが、垂直でした。緊急時は若者はここを上下したとの説明でした。ステップこそ切ってありましたが、とても危険そうで、命がいくつあっても足らないだろうと思いました。
具体的に、過去に生活していたある人が、次ぎに掘り進むときに、どの方向にどれほど掘り進もうと考えたのか、それは何を基準に撰んだのかなど考え始めると、人間の判断って不思議なものだと思えてきます。

私は過去に沖縄の海軍壕を見ました。地下施設の配置は実に計画的でした。
ベトナムのベトコンの地下壕にも入ってみました。戦闘用のものですから、狭いというのが最大の特徴です。不規則ながら、基本的には2層にするなど、使い慣れればよく分かるように、ある意味では計画的なプランだったように思います。
このカイマクルのものはスケールが、ずば抜けて大きいですし、3次限的に不規則なのですから、自分の日常の行動範囲のブロック以外は、人間の記憶能力を超えているに違いありません。
イスラムの侵略を受けたときに、キリスト教徒が地下に潜って、難を避けたことが強調され、迷路、仕切の大石などが説明されますが、私にはただ不思議に思われました。
ガイドさんに「なぜ今朝のホテルのように、401,402というように造らなかったのかなあ」と話しかけると、「まじめな質問かと思ったら、なんだジョーダンか」といわれましたが。
なんと、こんな地下都市に紀元前400年から、1960年までですから、つい最近40年前まで人が住んでいたのです。一番多いときの人口は1万5千人だったといわれます。危険だからと法律で禁止されて、居住は終わったのだそうです。
やはりこの地域で、ウチヒサールという村では、地下ではありませんが、軟らかい山や崖を堀り込んだ洞窟を40年前まで住居として使っていたのでした。
日本でしたら、地下の洞窟に住むなど、ジメジメして暗くてと思ってしまうはずです。
乾燥した風土とはいいながら、洞窟に住むことに抵抗感を持たない人たちがいるのには、驚かされました。

私は地形、地質には興味がありますから、今回の旅行を通して、バスの窓からキョロキョロと外を眺めていました。そして、好きなときにウトウトと居眠りするのです。
1日に700kmちかく走っても、こうしていれば、天国です。
いまトルコには、目に見える火山がなくても、火山岩でできた土地が随分多いことが分かりました。もっとも、日本のように噴煙を出している火山はないとガイドさんは言いましたが。
ガイドさんはこの地方にある二つの火山、エルジネス山(3900m)とハサン山(3200m)から吹き出した火山灰、溶岩が積り、のちに浸食され、このカッパドキアの奇観を造り出したのだと説明しました。
また、あるガイドブックには、数億年前にエルジャシュ山の噴火で、火山灰と溶岩が数百メートルずつ積み重なった末、凝灰岩や溶岩層になっていると書かれています。
私には、ガイドブックの解説は、年数も地層の厚さも、桁が違っているように思われます。
また、ガイドさんが挙げた山名では、距離がありすぎますし、現実の噴出物の量から見て、噴出した火山は地底が空洞になり、大きく陥没してカルデラになっているのは間違いないと思われます。
当てずっぽうに想像すれば、今はカルデラとなり姿のなくなってしまった大きな火山から噴出、堆積した火山灰層の上に、後年、ややローカルな火山から溶岩がかぶさったというのならば肯けます。

この地域の火山の位置、地質形成から始まって、地下洞窟の換気の力には何を使ったのか、排水はどうしていたのか、住民たちが屋内外で過ごした時間はどれぐらいの割合だったのかなど、知りたくても分からないことが山ほどできてしまいました。
ともかく、たった1時間の見学では、地下都市という分厚い本の、最初の一行を読んだだけのような、これからこれからという気がしています。
72才の爺いの言い分としてはおかしいのですが、まったく、《老い易く学成り難し》です。

・露草や日の出の遅き国に来し

●アンカラ考古博物館 

トルコの第六日 アンカラ〜イスタンブール
        走行距離454km(名古屋ー宇都宮ほど)
訪問先     考古博物館、アタチュルク廟

トルコの首都、アンカラ市にある博物館です。
時代を追って展示されていますが、旧石器、新石器や日本でいえば弥生式土器に相当する時代までの品物の展示は、最初のほんの少しだけで、すぐに手の込んだ青銅器や土器の展示になってしまいます。
このため、私は考古博物館というよりは美術館といった印象を受けました。

アルテミスの像がありました。ギリシャ人にとってはアルテミス、ローマ人にとってはダイアナとよばれるこの女神は、すんなりとした若い活発な女神ということになっています。
3日前に行ったエフェソス観光の中に、アルテミスの神殿というのもありました。
BC550年頃建てられたときは、高さ18mの大理石の柱127本を使った、アテネのパルテオンの2倍のスケールを持つ大神殿でした。ビザンチン時代の世界の七不思議には、エジプトのピラミッドなどと並んで撰ばれています。
現在は昔日の面影はまったく見られず、127本あったという柱の1本だけが復元されていました。
さて、女神アルテミスは、もともとは、この土地の住民の地母神でもありました。この博物館に展示されている古いヒッタイト時代の地母神アルテミスは、ゾウのような体格で乳房をたくさん持った、叩いても死なないような、叩かれたらこっちが死んでしまうような、ものすごい代物でした。
日本の八ヶ岳山麓で出土した縄文のビーナスといわれる土偶も、下半身がしっかりし、ゾウのような足をしていたのを思い出しました。
人と家畜の多産、五穀豊穣を司る神の姿は、このように強く逞しくなくては信頼されないのでしょう。
21世紀、自然から遠く離れ、薬づけになっているお陰で、女性たちはあくまでも美しく、われわれ男性に、鼻の下を長くさせてくれているのですね。

展示のうち、とくに興味を引いたのは、チャタールという今から9000年ほど前にあった、人類最古といわれる集落の復元写真の展示でした。
どこまでが出土遺構でどこからが想像による復元か分かりませんでしたが、土地を広く使い、四角形の家を全体が四角になるように水平に敷き並べ、その上に少し小さく家の集団を積み上げ、3段ほどになっていたようです。
ちょっというと、客船の客室のような感じです。
考えようによっては、スケールの小さなカッパドキアの地下都市を、地上に造ったような村であります。
ガイドさんの説明によれば「一階には出入り口がありませんでした。恐ろしい動物が入ってこられないようにです」とのことでした。

明治以前の日本にも、考古学が全然なかったわけではないと思います。
しかし、考古学もほかの学問と同様に明治の開国以後、西洋から入ってきました。モース氏による大森貝塚の発掘が、まるで考古学の嚆矢のようにいわれているのです。
1930年生まれの私には、子供の頃、本で読んだ考古学として、石器時代の人たちは、洞窟に住み、猛獣に襲われないように、獣が怖がる火を絶やさなかった、そんな風に教えられた印象が残っています。
日本で、数多くの遺跡を見て回った今としては、洞窟の生活跡もあるにはありますが、
平地に縦穴住宅を造って住むのが原始時代の基本的な生活様式であったのは確実だと思えます。
こんどのトルコ旅行で、洞窟に住むことに抵抗感のない人たちがいたことを知って、ヨーロッパでは原始時代に洞窟に住むことが一般的であって、その考え方を輸入したために、日本における遺跡跡分布の事実と離れた認識を持ったのかと、一瞬思いました。
しかし、よく考えると地球上のたいていの地域では、平坦っぽい土地に木や土や石で建物を造って住むのがメジャーで、生活の場として洞窟が使われたのはマイナーだったのではないかと思うのです。
考古学者たちが、まず、目をつけやすいのは人が住みそうに見える洞窟でしょう。変哲もない平地を、やたら、闇雲に掘るというわけにはゆかないでしょう。ここ掘れワンワンではありませんが、大雨で土が流れて、石器や土器の破片が顔を出したとか、運動場を造ろうとしてブルドーザーで削ったとか、そんなことが平地での遺跡発掘の端緒になるのです。

原始人たちの防衛策の目的が「恐ろしい動物が入ってこないように」という言葉であることを、私も子供の頃は、虎やオオカミや熊が襲ってくることを指しているのだと思っていました。そのように書いたり、話したりしている人たちも、多分、猛獣を頭に描いていらっしゃるのでしょう。
でも、いまの私は違います。どんな昔であっても、最も恐ろしい動物というのは、毛のない動物、つまり敵対する人間だったに違いないと信じています。
ヒッタイトの人たちは9000年も前から、敵の戦士に備えて、入り口のない石造りの村落を作っていたのです。
日本では、村落の周りに堀を巡らし始めたのが、弥生時代、やっと2000年ほど前のことです。それ以前は、木の垣ぐらいだったのでしょう。
そんな日本民族が、防衛先進国というか、戦争先進国というか、ともかく、そういう伝統を持った人たちと戦争するのは愚かなことであります。
実際に経験したとおり、ノモンハンで完膚無きまでに叩きのめされたのに、まだ目が覚めなかったのは愚かなことでありました。
この博物館の展示を見て、間違っても、戦争プロたちと事を構えるなと、子々孫々まで語り伝えたいと思ったことでした。

●アタチュルク聖廟
首都アンカラではアタチュルク聖廟を訪ねました。
トルコの国勢は、16世紀、オスマン・トルコ時代、最高潮に達しました。
しかし、第一次世界大戦でドイツ側に与したために、国運はいっきに転落の道をたどることになります。
1918年第一次世界大戦は終わりました。しかし1919年、弱ったトルコにギリシャが攻め込みました。
歴戦の司令官ケマル=パシャは、1921年サカリヤァ川の決戦でギリシャ軍を破り、国土から追い出しました。これは、斜陽の一途をたどっていたトルコ国民にとって、大いに意気上がる戦果でありました。
かくして、ケマル=パシャは、トルコ共和国の初代大統領に就任し、首都をアンカラに定めたのです。
その後、彼は「国の父」を意味するアタチュルクと呼ばれ、民主主義社会としてはまったく珍しく、国民の信頼を一身に集めたのであります。
その信頼が、トルコを目覚ましく近代国家として脱皮させたのです。
ヨーロッパで、一番最初に女性に参政権を与えたのはトルコだと、彼らは胸を張ります。
スイスにならった憲法制定、一夫多妻制度の廃止、男女同権の制定、トルコ帽の着用禁止、ラテン文字の採用など、かずかずの思い切った革新が推進されました。
なかでも、イスラム教のもとで政治と宗教を分離し、世界の仲間入りを果たしました。
昨今の情勢から、それがどんなに難しいものであるかは、我々にもよく分かるのです。
信頼するに足る人がいたこと、そしてその人を信頼し実行させたこと、そのことだけでトルコ国民を尊敬してもよいのではないでしょうか。
とかく民主主義社会では、他人の足を引っ張ることばかりに目がゆき、本当は、やるべきことでも、その負の部分をつついて、潰してしまうのが普通なのですから。
リーダーシップも「万世一系」や「将軍様」までゆくと問題ですが、たまにはこんなことを考えてみるのもいかがでしょうか。
ともかく、いま、トルコの周りには、西にボスニア・ヘルツェゴビナ、東にイスラエル、パレスチナ・イラン、イラクなど問題を抱えた国がいっぱいあります。
なにか問題が起こると、アメリカ空軍がトルコの基地から飛び立つと報道されます。
トルコのような安定した国が、そこにいてくれることは、世界にとって有り難いことでありましょう。

旅の最初に、ガイドさんはレクチャーとして「トルコ人は北方からきた狩猟民族です」と言いました。
でも、いろいろな遺跡を見ているうちに、一体、トルコ人って何なんだろうという感じが強くなってきました。
これは私が日本人という単一民族のひとりであるからで、外の国の人には理解できない感情なのかもしれません。

現在トルコに住んでいるトルコ国民を、トルコ人と呼ぶのは妥当でしょう。
しかし、街角で見掛けるトルコの人たちには、外見的には、長年、敵であったギリシャ人のような風貌の人も、結構多いのです。そのほか、あちこちのヨーロッパ人とかアラブ人とか、いろんな顔つきの人がいます。
ガイドさんがいう、11世紀に入ってきたトルコ人というのは、いま住んでいる人たちとは、明らかに違う人たちだと思います。
約4000年前、いまのトルコの場所に栄えていたヒッタイト王国時代には、どんな人たちが住んでいたのでしょうか。
そんな先住民のところへ、新しい征服者、たとえばアレキサンダー大王などが何回も入ってきては、支配しました。
日本でいえば弥生時代、つまりBCからADに変わる頃、トルコはローマ王国に支配されていました。その頃の原住民の上に、ローマ人が立ったということです。
その後、11世紀にセルジュク・トルコが侵入し支配し、オスマン・トルコをへて、今日のトルコ共和国にいたるわけであります。
本質的には、人種の坩堝なのでありましょう。

アメリカ合衆国は、人種の坩堝であることを、大っぴらに称しています。
先住民であるアメリカ・インデアンの上に、イングランド、アイルランド、イタリア、チャイニーズ、ジャパニーズ、などが入ってきて形成されたのです。人種の混合が、約300年ほどと、わりと新しい時代ですから、風貌の違いをはっきり認め、そのうえで、なになに系アメリカ人と名乗り、アメリカ国籍をとった上は強烈な愛国心で国家を形成しています。

もとからの住民の上に、北方から異民族が攻め込んできては支配するというパターンは、中国で何回も起こったことだと思います。
でも中国では、私は原住民と新来の民族との風貌の違いを区別できません。中国人と聞けば、頭の中で、かなりはっきりとイメージを作ることができます。

ちょっと話がややこしくなりましたが、整理するとこういうことになりましょうか。
11世紀に入ってきた「狩猟民族のトルコ人」は、トルコという国名と多少の「狩猟民族のトルコ人」の形質変化をもたらしたのでしょう。
しかし、現在トルコ人というときは、トルコ共和国の国民を指していうのであります。



●なぜトルコに行ったのか
トルコの第七日 終日 イスタンブール観光
        走行距離 数キロ
訪問先     ブルー・モスク、トプカプ宮殿、ボスフォラス・クルーズ

今まで私は、海外旅行の行く先を決めるのに、まだ行ったことのない地方と、登りたい山との組み合わせをベースにして撰んでいました。
その場合、地方事情の探求が主だったり、登山が主だったりするのは、ケース・バイ・ケースではありますが。
こんどトルコを撰んだのは、アララット山の登山が最初の目標だったからです。そしてトルコの国自身も、かなり重い目標でした。
アララット山は、聖書に出てくるノアの箱船ゆかりの山とされています。

聖書の中でも、大昔とされている時代のことです。
人間たちの悪行に愛想を尽かされた神様は、正直者のノアの家族だけに、船として浮くことができる家を造って住むように言われました。
そして大雨を降らせ、大洪水を起こされました。
ノア以外の人たちは溺れ死にました。その後、水が引いたときに最初に水面に頭を出した土地がこのアララット山だというのです。
標高は5165mと十分な高さがあります。そして技術的に難しいこともなさそうで、頑張っていれば登れそうな気がしていました。
それで調べ始めたのです。ところが、なにせ場所がトルコ、ロシア、イランの国境地域であり、クルド族が住んでいるというのです。
それらの条件が、必ずしも危険とも思いませんが、現在に限っていえば、アララット山には登りに行かない方がよいように思えてきたのです。

さて、登山とは別にトルコという国についても、関心はありました。
近代トルコはヨーロッパ、とくにロシアとは対抗関係にありました。
そのため、日露戦争で日本がロシアに勝利を得たことに、トルコ国民は胸のすく気分を味わったといわれます。
とくに日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に完勝した東郷元帥の評判は高く、自分の子供にトーゴーという名を付ける人も多かったと聞いたこともありました。

私が若くて最初に西洋音楽に親しんだ頃、ベートーベンのトルコ行進曲は、異国情緒のメロディーであるという解説を聞きました。
日本人にとってはヨーロッパだって異国なのですが、ともかく私の頭には、トルコは異国だという刷り込みができていました。

長い間トルコの印象を、そんなような遠い国として文字から吸収していたのですが、一昨年、スイスの友人を訪ねたあと、オーストリアのあちこちを見て歩いたとき、この国にトルコが過去に与えた脅威が、目の前にリアルに浮かんできたのです。
オーストリアの幾つかの都市で、ペスト塔というのを見ました。街の真ん中、道路の真ん中に立っていました。
17世紀にヨーロッパで猛威を振るい、人口を激減させたペストが鎮圧された喜びは、地獄から逃れた思いだったのでしょう。
その喜びに、侵攻してきたトルコ軍が退却していった喜びを合わせ、記念に建てられたのがペスト塔だと解説がついておりました。
グラーツの街では武器博物館を見ました。
兵隊の位に応じたいろいろの甲冑が展示してありました。金の象眼を施した貴族用のものから、粗末な雑兵用のもの、そして馬につけさせた甲冑までありました。
その数も膨大で、もう一度戦争があれば持ちだして使うのかと思われるほど沢山あったのです。
このときの旅行で、オスマン・トルコがヨーロッパ人の心胆を寒からしめた強大国であったことを身をもって痛感したのです。

トルコの国土の広さは日本の約2倍、人口は約半分もある大国です。
そして国民は、かって一等国であった、なんとも言えない実力と自信を身につけている感じがしました。
接した人たちは大らかで、私ぐらいのおじい様まで、我々のバスに手を振ってくれました。

●自己嫌悪
今回の旅行中に、つくずくと自己嫌悪に落ち込まされた事件が二つありました。

旅の9日目、再び、最初に入国したイスタンブールに戻ってきました。
この人口630万人の都市で、巨大華麗なブルーモスク、かっての栄光を残すトプカプ宮殿などを訪ね、また、ボスフォラス海峡のクルーズを楽しみました。
トプカプ宮殿は15世紀から20世紀まで、約500年の間、オスマン・トルコの王様たちが住んだ宮殿です。
ヨーロッパからアジアにかけて、この地域を支配したのは、一口にギリシャ1000年、ローマ1000年、トルコ500年といわれます。トルコは長い期間にわたって一等国だったのです。
宮殿のいろいろの建物は、いまは博物館になっています。
収蔵品のごく一部だけしか展示していないのだそうですが、それでも、たとえば陶器の場所には、膨大な、中国の元、明時代のもの、そして日本の伊万里のものが並んでいました。
入場料のほかに、別料金をとって見せる宝物館には、世界で何番目かという82カラットのダイアモンドが展示されています。
エメラルド、ルビーなどで飾り立てた、剣、函、水差し、勲章など、もう、まばゆいばかりの品物が、素敵な照明に輝きながら、つぎつぎと目に飛び込んできます。
なにせ、この国の最盛期に、イスタンブールは一度も外国に侵略されることがなかったので、収集品が全部残っているのだそうであります。

何年か前、北京の紫禁城を訪れたときには、その巨大さや豪華さから、この城を建設するために費やされた財力、労力の大きさが思いやられました。そして、その時代に生きた民衆たちの負担の過酷さにたいする同情に駆られたのでした。ひいては権力誇示の愚かさ、空しさへと連想が飛んだのでした。
ところが、こんどトプカプ宮殿では、巨大さよりは、宝石や貴金属類の美しさ、値段の高さが思いやられたのです。
そしてそれは、トルコの王様が望んだというよりも、むしろトルコの王様の心証を良くして利益につなげようとする、国の内外からの献上品が多かったのではないかと勝手に想像してしまいました。
「いやー、私のところには器用な職人がいましてな。こんなものを作ったんですわ。ひとつ使ってみていただけませんか」。そんなことを言いながら差し出したのかも知れません。
こんな様に考えるのは、私の考え方が変わったのかも知れません。
人間、自分の考え方が形成されるのは、15才ぐらいまでといわれます。
私がその年頃だったのは、支那事変から大東亜戦争にかけて、戦争が激しくなる時期でありました。
その頃の日本は、いまのイラクのように経済封鎖を受けていました。また、戦争資材の生産が優先され、日常の家庭生活に使う品物は、昨日よりも今日と、日毎に手に入らなくなって行く時代でした。
「贅沢は敵だ」というスローガンのとおり、できるだけ少ない身の回り品で生活する
のが美徳とされていました。こうして、強制された簡素な生活が、60年経った今も身に染み込んでいます。
そのあと40才頃から登山を第一の趣味にしています。山に登るのには、荷物を軽くするのが、自分本人のためであります。そんな山の暮らしをしているうちに、なんとなしに、少ないもので生活できるようになってしまいました。こんどのトルコ11日の旅でも、服は着のみ着のままの1着、毎晩洗濯し、翌朝までに乾かして過ごしていたのです。
まあそんなことは自慢じゃありませんし、どうでもよいことなのですが、心情的には、東芝の会長をやられた土光さんのように、裾の擦り切れたズボンをはいて、目刺しをおかずにするスタイルを尊敬してしまうのです。

そうそう、自己嫌悪の話でした。
ここイスタンブールのトプカプ宮殿では、代々のオスマン・トルコの王様たちが、広壮な宮殿を建て、広い地域に権力を振るい、貢ぎ物を持ってくる人たちの中から優秀な手下を撰び、安定した社会を作ったことが、結局、沢山の人の幸せになったのではないかと考えたからです。
昔、日本でも、諸国にチョボチョボの武士の頭が割拠し、戦を繰り返していた戦国時
代よりも、壮大な江戸城を築き、華麗な東照宮を建立し、民心を集め、権力を集中させた徳川幕府体制のほうが、庶民は幸福だったといえるでしょう。
人殺しの手段が発達してしまった現在、アメリカの飛び抜けた軍事力による1国支配の体制となっているために、実際問題として、地球上の紛争による死者の数は、最低レベルに押さえられているといってよいでしょう。
してみれば、こけおどしの城を建てたり、威張ったりするのを憎む貧乏性の自分は、やっぱり人の上に立てる人間ではないのだな、というのが第一の自己嫌悪であります。

いよいよイスタンブールのアタチュルク空港から帰路につく日のことです。
残ったトルコ・リラを孫へお土産を買ってやるのに使い切り、不足分はカードで支払いました。
お笑いになって下さい。
26ドルの値札のものを、20ドルに値切りました。
これは今度ここまでの9日の旅で、ご一緒した皆様が、あちこちの観光地で買い物なさる様子を見ていてこそ、やっとできた、私にとっては大事業だったのです。
値切られた売店の小父さんが、悲しそうな表情をしました。
とたんに、私はなにか可哀想になってしまったのです。
6ドル余分に手に入れば、彼の子供に何か買ってやれたのに、そんなことを考えてしまったのです。
値切るのは常識ですし、しかるべき利益は見込んであって、悲しそうな表情の裏で、本当はニッコリしていたのかもしれません。
でも、私はなんだか悪くなって「サンキュー。グッド ラック」と言って、彼と握手してしまったのでした。まあ、これからこの店で沢山売れて、外の人からも儲けてくれと願ったつもりなのです。
生きるか死ぬかと苦闘を続けている日本の企業の中で、こんなことでは、わたしはとても資材の購入部門など勤まらないなと、これが第二の自己嫌悪でありました。

ある海外遠征登山隊の隊長さんが、帰国後語られた述懐です。
その隊では、構成メンバーが、全員個性豊かな自己主張の強い人ばかりだったそうです。「この隊では、隊員は私ひとり、私以外の全員が隊長だった」とのことであります。さぞかし、まとめるのに苦労されたことでしょう。
このように王様ばっかりでは社会は成り立ちません。いろんな人がそれぞれの個性を生かし、貢献し、分け前にあずかれば良いではありませんか。
「あの人はあれでも、まあ、社会の一隅を照らしてたワ」、そう言って下さる方があれば、私は最高に嬉しいのです。

●ひとり旅
トルコ周遊11日が、このレポートではご覧のとおり、トルコの第七日で終わりました。それは往復の日数が入っていないからです。
私は、そういうことは平気ですが、気になる方のため、トルコ滞在の前後に少々付け足しましょう。

前第一日 名古屋〜シンガポール〜ドバイ〜イスタンブール
     所要時間 27時間 (途中の空港待ち時間込み、機中泊)

後第一日 イスタンブール〜ドバイ〜シンガポール
     所要時間 10時間40分 昼過ぎ発、早朝着 (機中泊)
後第二日 シンガポール 観光 早朝から深夜まで
     訪問先 蘭園、サルタンモスク、チャンギ監獄
後第三日 シンガポール〜名古屋 深夜発、早朝着
     所要時間 4時間50分(機中泊)
やっと11日になりました。計算が合ってよかった!

さて、過去に私の紀行文を読んで下さっている方なら、ここまでで終わるとすれば、なにか忘れてやしないかとおっしゃるでしょう。
そうです、「ひとり旅」です。
お察しのとおり、パック・ツアーに組み込まれている自由時間は、旅行社が用意してくれたオプショナル・ツアーを全部断って、ひとりで歩き回ったのです。

・イスタンブールの4時間。
ホテルのコンシェルジェに、市バスを使って、ブルー・モスクへは、どう行ったらよいのかを聞きました。
ここでまず、ブルー・モスクという呼び方は外人観光客専用で、地元では通用せず、スルタン・アフメット(王様の聖堂)と言わなければいけないことを知りました。

話は少々脱線します。
イスラムのモスクには、お祈りを始めましょうと高いところから呼びかけるために、高い、先端が尖った塔が立っています。ミナレットと呼びます。
このイスタンブールにある王様の聖堂、スルタン・アフメットだけは、ミナレットが6本も立っています。
まれに4本の豪華なモスクもあります。一番多いのは2本のようです。1本もありますが、これは資金が集まったらもう1本追加しようという事情のようです。
3本というのは、ないそうです。
ところで、トルコの大型送電線の導体が、殆どといってよいほど3導体であるのにはびっくりしました。
日本では27万ボルトが2導体、50万ボルトでは4導体、特別に大容量の場合に6導体が使われています。
私が勤めていた会社では、いろいろ検討して、ある場合には3導体が有利であるという結果を得て、へそ曲がりと思われながら3導体を採用したのです。
その頃は、トルコでこんなに広く使われているとは、知りませんでした。

さて、バスの切符は75円ほどでした。売店のおじさんは、4Tというバスに乗れというのです。
バス停に行って待っていると、ちょうど午後2時過ぎで、女子中学生たちが一杯いました。
私を見て、とても興味がある様子なのです。そんなとき、私はいつも、外国では、サービスのつもりで話しかけるのです。みんな家に帰って、今日、日本人と話をしたよ、なんて報告するだろうと想像するからです。私は本来無口ですから、日本では、そんなことはまずできないのですが。
「僕の家族は・・・」というようなことを言っていればいいのです。そしてスルタン・アフメットにゆくバスに乗せてくれと、彼女らに頼んだのです。中身はともかく、だいぶお喋りはできました。
ところが4Tというバスはちっとも来ないのです。後で分かったのですが、それは今池から中村公園にゆくような路線で、栄のようなバスセンターで乗り替えるのならば頻繁にあるのですが、直通は30分に一本ぐらいしかないのでした。待ちくたびれて、4Tに乗るんだよと言って、彼女らも先に乗っていってしまいました。
ひとりバス停で、帰りのこともあるので、バスの路線を示す番号をメモしました。
なんと 20台が22,26,27など計6本、30台1本、40台、50台、60台、70台各2本もあるのです。日本に帰ってから旅行案内を見ると、バスの系統は複雑で、地元の人でも分からなくて、よく運転手に尋ねていると書かれていました。

そんなにして、退社時でごった返す街を歩き、有名なガラタ橋も歩いて渡りました。
こんな人口650万人の大都市の真ん中で、夕方5時、たくさんの人たちがガラタ橋から釣り糸を垂れていました。そして、私がビデオを構えると、手を振ってくれました。
さて、帰りのバスの切符を買おうとしてウロウロしていると、ちょっとした紳士がついてこいと言いました。バス停の乗り口に椅子を置いて新聞を売ってるおじさんが、切符も売ってるのです。前回は硬貨のお釣りがきましたが、今度は硬貨がありません
でした。どっちが安かったのか知りませんが、いずれにしても安いものです。
たった4時間の社会探訪でしたが、あちこちでトルコの人たちは、とても親切にしてくれました。
これに乗るとよいと言って、一番便利なエレベーターまで、わざわざついてきて教えてくれた人もいました。
50年の昔、アメリカで親切にされたようなムードでした。
この国にも、さすが、かっての一等国だった大らかさが残っているのでしょうか、トルコを好きになりました。

・シンガポールでの7時間。(14時から21時まで)
ひとり歩きは、できるだけ公共交通機関を使う主義なのですが、「この道を行って、三つ目の信号で右へ曲がると地下鉄の駅があるから」と教えてくれればよいのに、ここシンガポールでは親切心からでしょうが、やたらタクシーに乗れといわれたのには、閉口しました。
まずチャンギのチャペル・ミュージアムにゆきました。第二次世界大戦でシンガポー
ルを占領した日本軍は、敵の捕虜たちをここの監獄に収容しました。捕虜たちは自力で粗末な教会を建て、礼拝を続けたのです。
タイとビルマを結ぶ鉄道の建設にかり出されたのは、ここの捕虜たちでした。管理する日本人も食べ物に不足していたのですから、捕虜たちがどんなひどい状態だったかは想像できます。
ここは今、被害者の立場から日本軍を語る博物館になっています。餓死寸前のあばら骨が浮き出した英軍捕虜だとか、日本軍による銃殺の写真だとかが展示されています。
「起こった事実は忘れない!」と、大きく書かれていました。
誰だって、「自分」の家族がこんな目にあったら、こんなように悲しみ、また怒りもするでしょう。そして、その「自分」というのは、この博物館ではイギリス人であり、中国人であります。日本軍に対する怒りと憎しみの凝縮した博物館であることは承知して訪ねたのです。

チャペル・ミュージアムへは、地下鉄の駅から歩いていったのです。観光用にタダでもらった地図を頼りに歩きました。その地図では、空港の近くの緑地の中にあることになっていました。周囲がそんなところなら、監獄だった大きな建物は、見渡せば分かるだろうと軽く考えました。
ところが実際に行ってみると、高速道路で大回りしなくてはならなかったり、監獄の近くは高層アパートが林立し、まるで見通しが利かなかったのでした。シンガポールは2年経つとすっかり変わってる、2年過ぎたら、再度、観光にお出で、といわれるのを実感しました。
シンガポールの人たちは、さぞや日本を憎んでいて、近くに住んでいる人なら誰でも、この博物館を知っているに違いないと思っていました。
ところが、実際には、聞いても誰も知らないのです。ただ、タクシーに乗れと言ってくれるだけなのでした。
最後は、とうとうタクシーのご厄介になりました。
反日を煽っている國があることを思うと、有り難いことに、ここシンガポールでは戦争の忌まわしい記憶は風化しているようでした。万事、前向きに考えてくれる人たちなのでしょう。
日本がシンガポールはじめ、あちこちで残虐なことをしたとか、アメリカが東京や広島で何万人という一般市民を殺したとか、という個々のレベルでなく、人間というものを見据え、2度と戦争を起こさないように、過去より少しでも賢くならなくてはいけないと、改めて思ったことでした。

シンガポールは淡路島ほどの大きさです。MRTという地下鉄が走り、東西線と南北線があります。市の中心地は地下を、そして郊外へ出ると地上を走るのです。両線とも端から端まで約1時間です。観光ではなく、シンガポール全体を眺めたおきたいと思い、MRTに乗りました。
一日券、10ドル、750円ぐらいですから、便利なものです。
都心と、一、二の場所を除けば、全島、大団地だという印象でした。住民の75パーセントが中国系とのことで、チャイニーズ・ガーデンという駅もあり、そこは湖水の周りに中国風の塔が添えられ、まるで中国に行ったような雰囲気でした。車内で地図を見ていると「いま、ここだよ」と、隣の席の人が教えてくれて、それがきっかけで話をしたり、結構、思い出が残りました。

都心の地下駅では、ホームはガラスで部屋構造になっています。電車が入ると電車のドアと同時にホームのガラスのドアも開きます。
こんな仕掛けは、最近では日本でもチョクチョク見掛けるようですが、ここシンガポールでは、その理由が冷房に要するエネルギーを押さえるためとのことです。
ここへくる前の約10日を過ごしたトルコは、緯度は日本の東北地方ほどでしたから、赤道直下の島、シンガポールの暑さはこたえました。ですから、その理由にもっともだと、頷いたのでした。

地下鉄といえば、最初に乗り込んだ瞬間、どうしてみんなこんなにお行儀良く座っているのかと、ギヨッとしたのです。名古屋の地下鉄のように、「この座席は7人掛けです」と書いてあるところに、5人でゆったり座っていることなどまったくいないのです。
そのわけは、座席がプラスチックのボックスシートになっていて、そんなには目立ちませんが、変な場所に座るとお尻に違和感を感ずるようになっているのでした。
名古屋でこんなことをしたら、「固いシートで・・」と、苦情の投書が山のように殺到することでしょう。中身の見えるゴミ袋を採用したときも、始めはプライバシーうんぬんとマスコミが反対論ばかりを取りあげ、行政は大変だったのでしたから。
シンガポールのように前向きで活気のある国には、やはりそれだけのことがあるようです。

あとで、ツアーの人たちと合流しましたら「ひとりで地下鉄なんか乗って。よく、恐くありませんね」といわれました。私は「だって、ここの普通の人たちは、みんなひとりで乗っていますよ」と答えたのです。
値打ちな持ち物はパスポートだけという、貧乏人の強さはありますが、「スリもひったくりも、観光地でこそ商売になるものですよ。普通の人と同じことをしていれば、普通ですみますよ」というのが私の理論ですが。
この理論、トラブルに巻き込まれるまで、通用させるつもりなのです。

 

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