題名:春日井市商工会議所・日韓親善協会訪韓団報告

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日付:1998/2/5


1993年10月6〜9日,韓国,釜山,慶州,太田,京城を訪問した。

 所見を以下に記載する。

 慶州の古墳群(4〜6世紀)は,以前は住民の家屋と混在していた。近年,家屋を移転し,古墳公園として整備した。

 比高約20m程度の円墳が7基ある。

一基だけ皇南大塚と呼ばれる双円墳があり,王と王妃を葬ったと推定されている。

 すべて,芝のような短い草で覆われ,人工的な色が濃い。日本の古墳が自然の植生に覆われているのと大いに異なる。

 天馬塚は中へ入られるようになっている。学生の見学で大賑わいであった。

 天馬塚は積石塚である。玄室の周りを,10〜20センチの大きな礫で厚さ1メートル程度覆ってある。その外を土で覆う。美濃賀茂の古墳と作り方は全く同じ。

 金の冠などの副葬品は,飛鳥のものよりも慶州の方がやや立派だが,ほぼ同じである。あとで国立博物館でも副葬品を見たが,お互いの差は百済,新羅,高句麗などの違いの中に収まるように思われる。

 これらの遺物はあまりにも似ていて,作り方が伝わったというより,被葬者を含め百済で古墳を造った人達が日本に移り住んだと考えたほうが自然に思われる。

 

 パク大統領の故郷であり,同氏の肝入りで,綺麗に整備されている。

 この寺は加藤清正が燃やしたのだと説明があった。清正は行きは単に通過したのだが,帰りに燃やした。寺には弾薬が隠してあったと言う。多分,負けて逃げて帰る時だったのだろう。

 石造りの橋,塔などが珍しい。日光の東照宮のような,色彩豊かな,ちまちましたあまり大きくないお寺である。

 

 甕棺は九州などの弥生のものと全く同じに見える。

 仏像として鉄仏が珍しい。韓国は湿度が低いせいで錆果てずに残っているのか。

 新羅など初期の仏像は,飛鳥寺の仏像とよく似ている。

 ある時代から,韓国的に頬が高く,平ぺったい顔の仏様となっている。

 

 古墳時代のある時期までは,今の韓国の土地に住んでいた人達は、日本人の先祖の一部であり,かつ教師であったと思われる。

 しかし古墳時代中期に造られた仁徳天皇崚などの河内の壮大な古墳群は,韓国にあるのだろうか。東大寺のような平城宮の巨大な寺院が韓国にあるのだろうか。

 どうもこの頃のある時期に,日本人の目が韓国から,より規模が壮大なもののある中国に移ったのではないかと想像される。

 

 島伝いに来た南方系のほか,アジア本土からの直接,或いは朝鮮半島経由,樺太経由などであろう。

 日本という国がまだ出来ず,ヤマタイコク,ナコク,ツマコクそのほかの小さな国々があった頃は,中国は東漢,六朝,南北朝,そして韓国は新羅,新羅,高句麗の時代だったという。小さな国がそれぞれ独立国となっていた。

 昔のことを今の国境線の枠で議論するのは,正しくないのではないかと思う。

 今の日本でも,伊勢神宮と出雲大社では,作り方は全くと言って良いほど違う。昔の日本の中にも,同一に論ずることの適当でないグループがあったのだと思う。

 2000年ほど前の地球の上では,あちこちの小さな国々が,今の領土の枠とは関係なしに,あるときは味方,あるときは敵となって,自己主張のアクションを展開していたのであろう。

 日本のお寺も,例えば東大寺でも,2回も戦火や雷で焼けている。このほかにも,今から見れば貴重な文化財になるべき建築物が戦火で焼かれた例は枚挙に暇ない。名古屋城は1945年アメリカに焼かれた。

 日本以外の国でも,今の国境線で論ずれば,自国の中の争いで焼けた文化財はなかったのだろうか。

 7世紀に天智天皇は,現韓国域内の一部勢力からの要請により,仁川あたりまで出兵し,敗北し,九州への侵攻を予期し,太宰府の北に水城を築いたと記されている。

 はたして,言葉の通じない国が共同して戦うことができたのだろうか。

 ラジオ,テレビの出現以前には,日本の中でも,言葉は必ずしもスムースには通じなかったのではないか。山陰の人が,東北の人と話すのと,韓国の人と話すのとどちらが容易だったのたろうか。今の日本人ほど一つの言語に固執する人達は,世界ではむしろ例外ではなかろうか。例えばフィリピンのホステスは,大抵,英語とタガログ語とを抵抗なしに話している。

 空を飛べないことは勿論,海を渡るのも困難であった時代には,韓国は大陸と日本という島を繋ぐ恰好の通路であった。長い歴史のなかで,色々の人達が南へ北へとその通路を使った。

 日本が朝鮮を併合したのは,ロシヤがそれを南進の通路に使いそうだという恐怖に襲われていたからとも言われる。

 最も近い事件は,朝鮮動乱であろう。将来の安定と平和とを祈らずにはいられない。

 

 150万坪の広大な敷地に,乗用車,トラック,特殊車を集中生産している。年間生産台数約100万台という。

 後発のメリットを活かしており,巨大な自動機械が配置され,部品の配送も整然と流れていた。

 会社の案内として,若い女性がただ一人現れ,映画に,また説明にと,てきぱきとこなし,自分の国と会社とに胸を張っている様子が見受けられた。

 女性への仕事の提供の点で,非常に進んでいると感じた。これは氷山の一角で,会社全体の仕事の進め方にも,学ぶべき点が多々あるのであろうと推測される。

 

ハングリー精神,進歩への熱意

 ソウル市内の大通りの横断歩道は,すべて地下道となっている。このことが交通渋滞を大いに緩和している。日本だったら,すぐに弱者切り捨て,車社会の横暴などを叫ぶ反対者が出て来て,実現不可能であろう。

 高速道路の整備も,日本との比較では進んでいると見受けられた。これも,国を豊かにするという錦の御旗の前に反対運動が少ないせいであろう。

 太田で万博が行われていた。各種の学生が動員されていた。つまらないパビリオンを見るために,熱い最中に延々と並んで待っていた。そのことを新聞がどう報道しているかは知らないが,もしも日本でこんな様子だったら,事務局はどんなにひどく罵倒されるかと思い半ばに過ぎるものがあった。1970年の大阪万博の頃の日本には,まだこんな国民のバイタリティがあったと思う。

 万博のコンパニォンは,みな美貌のうえ容姿端麗であった。今の日本ではとても,こんな選択は出来ないと見受けた。

 

・道で「えんこ」している車が,結構見受けられた。品質の最後のところに,いま一歩のものがあるのであろうか。

 韓国は胸を張るのが一寸早すぎたという声があることを,後日知った。なににつけても「自慢は進歩の終点」である。

・ホテルで見ていると,ボーイがコーヒーを注ぎに来る回数が,西洋人と比べ,日本人には3倍ほど間遠であると見た。日本人の多いホテルでも,客の便利のためにあったらよいと思っても,なぜか故意に日本語を避けている感があった。その一面,金を払わせるところには,必ず日本語が見られた。

・景福宮の中に建てた旧総督府。建物は立派で,韓国の第一回議会が開かれたほどのものだが,熱田神宮の参道の真ん中に県庁を建てた様なものである。明治の日本人の田舎根性が悔やまれる。

・日韓双方に言い分はあろうが,いずれにせよ,すぐ隣にある国である現実を直視し,将来の両国の友好と平和を目指すより仕方がないと思う。

                                   以上

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