ハバロフスク・ウラジオストック

(2011/07/11〜14)

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4日間の短い旅でした。成田からハバロフスクへ飛び、鉄道でウラジオストックに戻り、そこからまた成田に飛行機で帰ったのです。そんなところに、一 体何を見に行ったのかと聞かれます。たしかにナイアガラだのモンサンミッシェルなどと違って、有名観光地ではありません。

どちらの都市も人口は60万人弱、静岡市ほどのサイズで、とくに眺めて綺麗だとか、素晴らしいというところがあるわけではありません。

強いていえば、興味の対象はハバロフスク市、シベリア鉄道、ウラジオストック市の3点というところでしょうか。

ハバロフスクは東経135度(明石市の真北)、北緯48度(サハリンの中央部の西方)、またウラジオストックは東経131度(下関市の真北)、北緯 43度(札幌市の西方)に位置しています。

もともと私は、まだ行ったことがない場所ならどこへでも行ってみたいたちなのです。そのうえシベリア沿海州は、2000万年前ごろ日本海が開き始め るまで、日本列島がくっついていた場所なのです。ということで一度は見ておきたい場所ではありました。

それから、若いころやっていた多少スリルのある旅、たとえば空港へ行くバスはここで待っていれば大丈夫だろうか、本当に時間どおりに来るかしら、そ んな刺激のある旅に、心の中ではいつまでたっても飢えているのです。しかし個人旅行では、予想外の事態に対応できる自信はなくなっています。そんなところ に、同じようなスタイルの旅をしているSさんが一緒にゆきませんかと誘ってくれたのです。Sさんは昔同じ職場で働いていた同僚で、私よりもかなり若く外国 語に堪能なのです。

そんなような事情で行った旅なので、訪ねた場所を列挙するのではなく、帰国した今、どんなことを感じているかを主体にして書いてみようと思います。


ウラジオストック駅

プラットフォームの東端に、ロシアの國章である双頭の鷲を戴いた石の塔があります。その中ほどに「9288」という文字が書かれています。シベリア 鉄道の、モスクワからここウラジオストックまでの距離なのです。

ガイドさんがこう説明しました。「モスクワから7日間列車に揺られてここに着きます。地の果てまできたかと心細さに包まれた旅人が、駅を出るとモス クワ駅と同じ駅舎が見えます。それを見て、ああ、ここもロシアなのだと心が安らぐのです。規模は小さいけれども形を似せて造ってあるのです」。

待合室の天井の北側にはウラジオストックの街が描かれています。そして南側には例の赤の広場などモスクワの景色が描かれています。

もともとウラジオストックという名前は、ヴラジとボストークとの合成語です。1961年、人類最初の宇宙飛行に成功したロシアのガガーリンが乗った ボストーク号を覚えていらっしゃるでしょうか。ボストークは「東方」を意味します。そしてヴラジは「領有する、支配する」という意味です。北の大国、ロシ アの思いが伝わってくるではありませんか。


・梅雨霧に右腕を挙げレーニン像




同じホームに動輪が4個ある大きな蒸気機関車が展示してあります。ロシア人が仕様を決め、アメリカが作ってくれたとの説明でした。この機関車を陽気 な中国人の団体が取り囲み、よじ登ったりして記念撮影に余念ありません。ここでは中国人は団体であればビザが要らないのだそうです。(もちろん日本人はビ ザが必要です)

ウラジオストックには、タバコの匂い、中国人、ビューポイントという構図が溢れていました。また「日本人なんにも買わない。中国人なんでも買う」と も噂されているそうです。時代が動いたのですね。

プラットフォームから高架橋を歩いて渡ると、船着き場です。島根県境港へ通うフェリーが横付けされていました。

ウラジオストックは軍港都市です。金角湾、ダーダネルズ海峡があります。そう聞くと、トルコのイスタンブールが頭に浮かんできます。ロシアの黒海か らの出口を制する都市、イスタンブールをイメージしたに違いありません。


シベリア鉄道

シベリア鉄道に乗ったといっても、モスクワ-ウラジオストック間全長9288kmの10分の1にも足らない、ハバロフスクーウラジオストック間の たった760kmに乗車しただけです。夕方の21時に出て翌朝8時に着きました。上下2段、1部屋4人、新しい車両なのでトイレは垂れ流し式ではなくて停 車中でも使えます。


発車してすぐにSさんと食堂車に陣取りました。メニューはロシア語に英語も書き添えてあります。スープとイカの料理を注文しました。料理にはイカの ほかに、同じようなサイズに細切りにした黒い毛がもぞもぞ生えたものも一緒に煮込んであります。Sさんが、「それキノコですか」と聞きます。「うん、そう らしいね」といってしばらく食べてから、キノコにしては歯ごたえがあるなと申しました。「ちょっと下さい」とSさん。どうもホルモン焼きにでてくる牛か豚 の内臓じゃないかということで合意しました。こんなつまらないことを書いているのも、行き当たりばったりの、なんでも見てやろうの旅の雰囲気をご紹介した いからなのです。

今回の旅行は天気には恵まれませんでした。最初の日ハバロフスク空港へのアプローチでは、搭乗機A320は主翼の上のスポイラーを立て急に高度を下 げ、揺れの原因になりそうな雲の層を短い時間で通過しました。窓からピカッと雷の光りが差し込み、滑走路は濡れていました。帰国の日、空港へ向かう車のワ イパーは忙しく動いていました。4日とも、曇り、小雨、大雨の繰り返しでした。つまり視程が短く、地形観察は思うようには叶いませんでした。


ハバロフスク市はアムール川(黒竜江)とウスリー川の合流点にあります。アムール川は世界8位、4350kmの長さがあります。西から流れてきたア ムール川はここから東北に方向を転じ、樺太の北端あたりでオホーツク海に出ます。河川水は海水より凍りやすいので、この川の水が流氷になり網走に押し寄せ るのです。海まで直線距離で約750km、それなのにハバロフスク市の気象台の標高はたったの72m、川の水面は海抜3〜40mと思われます。750km といえば名古屋から青森ほどの距離です。まったく想像できない落差の少ない河なのです。悪天候のためクルーズ船は運行しませんでした。しかし丘の上から眺 めた様子では、中国へ材木を運ぶ大きな平たい船が河を遡っていましたが、流れに抗しているという様子には見えませんでした。2005年、上流の中国の化学 工場で事故があり、そこからの汚染物質のために水泳はしないのだと、あまり非難ぽくない説明をしていました。

ハバロフスクではこの川に橋がかかっています。下段がシベリア鉄道、上段が車の道路になっていて橋の長さは2600mです。河幅の広さも想像できる でしょう。アムール・ウスリーの両河に囲まれた大ウスリー島は、中・ロ両国の紛争の種でした。河の中の島といっても、300平方キロメートル、五島列島の 福江島ほどの大きさです。1969年に勃発した中・ロ軍事衝突後ロシアが実効支配していましたが、最近、折半することで解決を見ました。現今の中国の国力 上昇には恐ろしいものがあります。


この季節この地域では22時までは明るいのです。前出の通りハバロフスクは明石市と同じ東経135度ですから、日本時間の正午に太陽が真南にありま す。ところが時差が+2時間なので、ハバロフスクでは14時にやっと太陽が真南にくるのです。北の国では基本的に日照を大事に考えているからだと思いま す。食堂車の窓から見える限りの土地は、緑一色でした。無数の川や沼があり、広大な草原と低木の林の、水浸しになった低湿地がどこまでも続いています。森 の主体は針葉樹ではなくて、白樺など混ざる広葉樹林でした。人間の匂いなどまるでありません。放牧しているのだろうかと話し合いましたが、最後まで牛や羊 は見かけませんでした。多分、遊休地なのでしょう。どうして使えない土地なのか、私なりにいろいろのデータから調べてみました。緯度は48度とそんなに北 ではないのですが、1月の月平均気温が氷点下21度と、冬に非常に寒い条件が土地利用のネックになっているのではないかと想像されます。でも、西隣の満州 の地はトウモロコシ畑というイメージがあります。新しい土地を見るたびに、どうしてこんな地形になっているのかしら、どうしてこんな気候・植生になってい るのかなど考えていると、もっと北ではどうだろう、西に行けばどう変わるだろうかと、果てしなく興味が湧き、行ってみたくなってくるのです。

低湿地としての佇まいは、私の経験からはメコンデルタ、紅河デルタを連想させられました。それらは米の大生産地です。もしも温暖化が進行すればこの ハバロフスクあたりが人類の食糧基地になるのかなと想像したりもします。

地図で見るとロシアは大きな国です。でも、地図では北の土地は実際よりも広く示されているのだと教えられました。たしかに点に過ぎない北極点が地図 では図の左端から右端までの線として描かれています。そのことを踏まえてこの機会に、地球儀でロシアを眺め回しました。でも、やっぱり大きな国なのでし た。面積は日本の45倍もあります、中国だって25倍ですから。もっとも、人口は中国の13億人に対して、たったの1億四千万人です。

翌朝は7時から、寝台車の通路に立って窓から外を眺めていました。やはり緑一色の天地が続いています。高みといってもせいぜい丘の程度、植生はやは り広葉樹ですが、ハバロフスク地方よりも樹高が高く変わっています。なんとなくスイス、オーストリアあたりの雰囲気で、ヨーロッパ人としてのロシア人に とって、極東へ進出したころ、ここで気持ちが安らいだろうと感じました。

通勤時間になってきました。ローカルの駅の雰囲気は日本と変わるところはありません。そしてウラジオストックに近づくにつれて、道路に車が溢れてい ます。泥々の脇道から割り込んでくる車の列も渋滞で結構長くなっています。この渋滞振りは、まがうことなく、日本で見かける渋滞以上でありました。


・ひた走るシベリア鉄道明け易し


車事情

ということで、車の印象に入ります。

今度訪ねた地域では、車の99%は日本車だと説明されました。思わず「それじゃ、日本より率が高いじゃないの」と言ってしまいました。昨今は塗装が 良くなったものですから、まったく中古というイメージはありません。日本の居酒屋チェーンで使っていたトラックを、その絵や字のまま走らせているのも見か けましたし、たぶん中古だと思いますがレクサスだって颯爽と走っているのです。

小さいことから並べてみましょう。

市内では、歩行者が道路を渡ろうとして立っていると、車は意外なほどよく停止して渡らせてくれます。また、幹線から脇道へ左折しようとして(ロシア は右側通行ですから日本でいえば右折)ウインカーを出していると、結構、対向車が止まって曲がらせてくれます。ほとんど駐車場というものがなくて、車は道 路端に斜め駐車しています。ホテルでも鉄道駅でも玄関から数十メートル離れた道路上に駐車し、荷物を持って歩きました。



大きな問題は、ラッシュ時の大渋滞です。とくにウラジオストックは起伏が多く、建物が密集しているので大変です。ウラジオストックでホテルに帰った のは18時ごろでした。あとホテルまで200mというあたりで、大渋滞はまったく動かなくなってしまいました。しばらくの間は、今日訪ねた場所を思い返し てメモなどしていました。でも、ぜんぜん動きません。運転手さんは「よかったら、降りて歩きますか、そのほうが早いかも知れません」というのです。呑気な ふたりは「こういうときは降りて歩きだすと、必ず動くもんなんだよね」と座っていました。

ついにしびれを切らしホテルまで歩きましたが、ロシアでは前記の法則は通ぜず、やっぱり車はいつまでも停まったままでした。

こんな物凄い渋滞を見たのは、思い出すと数年前のモスクワでのことでした。モスクワでは広い道路に4列にも5列にもなってひしめき、そこへ側道から 流れ込んでくるという状態で、まったく物凄い渋滞だったのです。

今度訪ねた両都市ですぐに気がついたのは、ロシアには駐車場のために土地を使うとか、交通信号が役に立つという概念がないのではないかという点でし た。第一点は土地に住む人の考え方です。第二点は、今となっては、どんな信号システムを導入しても目立って良くはならず、結局住民から苦情が殺到するだろ うと想像されました。

驚いたのは、道路上に駐車する行為は違反なのだと聞かされたことです。「取り締まるには、ロシアの警官たちのハートは優し過ぎます」とガイドさんは 説明しました。ロシアでの路上駐車の現実を見れば、違反していない人などいないと思えます。

北方4島についても、日本人の「べき論」など、ロシア人にとっては屁でもないのだろうと思えてきました。


Sさんは都市の交通システムについて一家言をお持ちです。

「金があったら、地下鉄を一本通せばかなりよくなる」「起伏が多いといってもサンフランシスコやリスボンを見習って、路面電車を作ればいいのに」と おっしゃいます。でも、旅人の私としては、ラッシュ時こそ到着時刻の予測ができないけれども、結局何時かは動くのだし、そんな状態でも、ともかくも生活し ているのだから、それもいいじゃないかとも思っているのです。


・荒梅雨やマンホール噴く坂の街、

博物館

博物館は沢山見ました。ハバロフスクでは国立極東博物館と赤軍博物館、ウラジオストックではC-56潜水艦博物館、郷土史博物館と要塞博物館でし た。

一般的な展示については、それなりに興味深いものもありました。でもなんといってもこの程度の規模の地域ですから、どちらかといえば教育を目的とし たものが多く、実際、小学生が先生に引率されて見学していました。

帰国した今、思い返して最も印象が深かったのは、なんといっても、こんにちのロシア、シベリアをあらしめた功績者たちへの賛美の態度であります。中 国との領土境界を取り決めた時代の立役者や、国境戦争の勇ましい様子を描いた絵画、そしてミグ17戦闘機、T-34戦車を始め膨大な兵器が陳列されていま した。


C-56潜水艦博物館

ロシアの極東への進出は1600年代の中頃から始まりました。世界の大航海時代の幕開けからはかなり遅い時期で、日本では江戸、元禄時代にさしかか るころです。ロシア人たちは北極海からレナ川を遡って侵入したようです。シベリアには、もう数万年も前の先土器時代から人類は住みついていました。ただ、 人口密度は極端に低く交通も不便で、国家観念は希薄だったでしょう。どこの国の土地ということもなく、正に住んでいる人たちの土地だったのです。周りの情 勢から住民たちの連帯が求められる時代になったころ、住人たちは満州族になりました。ロシアの手が伸びる前に、もうコサックが暴れ回り、重税を取り立てて いたようです。あまたの紛争の歴史の末、現状はロシア領になっています。

それは、必ずしも非難すべきことではありません。20世紀の半ばまでは、そうするのが人類共通のルールだったといえましょう。

興味深いことは、展示されているのが外国人を打ち破るロシア軍、あるいは白系ロシア軍を殲滅する赤軍、つまり勝者である現ロシア政権の視点からの記 録展示に終始していることです。自分たちが負けた日露戦争についてのブースは一カ所も見かけませんでした。確かに誰でも負けることは不愉快なことですか ら、素直というか人が良いというか、ともかく人間というものの本性丸出しなのでした。

ロンドンにある大英博物館では、過去にアフリカで奴隷貿易を行ったことに対する謝罪を扱った展示を見たことがあります。それと較べると今度の旅で は、極東ロシアの住民は、ロシアが領土を増やすことことは常に良いことだし、今後もロシアは勝ち続けなければならないと、その行為にいささかの疑念も持っ ていない様に感じられた点が気になっています。そんな住民の歓心を得るためには、ロシア政府だって他国に寸土も譲ることは困難なはずです。

既に述べた都市の車の大渋滞の様子とも思い合わせると、われわれが抱く西欧諸国とはひと味違う、ロシア人の図太さ、他人は他人俺は俺、といった国民 性には、日本人として心しておくべきように思われるのです。

そうそう、もうひとつ1945年8月、日本軍を打ち負かしている戦闘を描いた大きな画もありました。戦車を擁し必死に抵抗する日本軍を、ソ連軍が空 陸から叩きのめしている図でした。現実にはそのとき、日本は戦力を消耗し尽くし、相互不可侵条約を結び味方だと信じていたソ連に停戦の仲介を依頼したので した。それが、想定外のソ連の条約破棄と宣戦布告、1週間の敗走、全面降伏、武装解除、ソ連抑留とつながってゆく出来事でした。

いつの日か、国後島を題材に、同じような画を描かれることがあってはなるまいと思うのです。

力をもって領土を拡大する方針の国に対抗するためには、それと対抗できる力を持ち、かつ、力で領土拡張をしてはならぬと公言する国を味方につけるよ りほかに手段はありません。日本は選挙で政府を選ぶ民主主義国家です。金をばらまきながら財政再建をするとか、普天間基地を海外移転させるなどと気違いじ みたことをいう男を総理にし、味方にするべき国にそっぽを向かせた日本国民は、いまとなっては、なにか次の転機が訪れるまで千島は諦めるより仕方ないで しょう。

私はロシア人が怪しからんとか、日本人が愚かだとかいっているのではありません。歴史が教えるところでは、もともとホモサピエンスは、そういう生き 物なのです。もしも先の大戦で日本が勝っていたら、勇ましい戦闘の画を飾っていたことでしょう。また今現在も、マスコミに煽られた大衆に迎合し、思いつき を連発するポピュリストに率いられ、あまり考えもせず国の衰退化に突っ走ったりするものなのです。


ロシアに入った直後、ハバロフスク空港から街へ向かう途中に、とくに頼んで日本人抑留者の墓地に寄ってもらいました。敗戦の挙げ句、一方的に戦争犯 罪人と見なされ、厳冬のシベリアで強制労働に追い立てられ亡くなった兵士たちのお墓です。

7月は最高の季節です。緑滴る森陰の墓地で、手を合わせました。

とくに知った人があるわけではありません。でも、日本人がこの地に来ながら素通りしたのでは、ここに眠っている人たちに申し訳ない、私はそう思った のでした。


・抑留者墓地七月の森陰に


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