題名:山旅、人生行路

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日付:1998/2/5


 山へ登る道では,どの登山者も元気に満ち溢れている。透明な空気がおいしい。高度を上げるにつれて段々と視界が開け,新しい展望が目を楽しませてくれる。そして行き着いた頂上では,まさに万歳を叫びたくなる心地である。

 山の下り道では,快い疲れが体を包んでいる。そして,行く先には安息の港である家庭が待っている。やがて麓の里道を辿る頃ともなれば,数日間,苦労を共にした山の友との別れの,甘い淋しさが胸を締めつける。

 山の旅のうち,下山路では他人からの励ましは要らない。登る時にこそは,「頑張れ,もう直きだ」と励ましてやらないと,当面する苦労に辛抱できずに途中から下ってしまう人はいる。

 しかしどんな苦労でも、それが下山路での出来事ならば,放っておいても人は必ず降りてくるものなのだ。もっとも極く稀には降りてこないこともあるが,それは山の中で死んでしまったときに限られる。

 せんじ詰めれば,山の旅では,人間は登った山からは,殆どの場合下る運命にある。

  人生の登り道には,体の成長があり知能の向上がある。結婚の喜びがある。次第次第に経験豊かとなり,地位が上がり,給料がふえる。

 人生の下り道では,まず体の衰えが目立ち,やがては脳の老化が情け容赦もなく迫ってくる。そしていずれは社会に貢献する側から,死ぬまで生きているための、お情けの社会的保護を受ける立場へと変わっていく。ここ人生の旅でも,一旦生まれた人間は全く例外なしに必ず死ぬ運命にある。

 奥の細道の冒頭に,芭蕉はこう書いている。「月日は百代の過客にして,行き交う人は・・・」。確かに,山の旅と人生の旅とで,似ている点も多い。しかし,決定的に違うのは,山の旅では,同じ所を通り,同じ景色を見るといった,繰り返しが可能であるが,人生の旅では,時間の流れには繰り返しがあり得ない点であろう。

 山旅では,また次の週,次の月と旅が繰り返される。そして,人は老い山登りを断念するまでは,登っては下ることを繰り返す。だが人生は,再び繰り返されることはない。

 山ではたとい同じ道を戻らなくても,いつかは,以前に一旦見た景色を再び見ることが多い。だが人生では下り道に入っても,昔見たのと同じ景色を再び見ることはない。子供たちは大きくなり,やがて巣立ってゆく。妻も昔の友も老い,若い日は二度と帰ってこない。

 人生行路は山旅とは違って,そこで経験するひとつ一つの瞬間はひとたび過ぎ去ればもう二度と戻ることのない旅なのだ。

 だが,いたずらに嘆くことはするまい。人生行路ではいつまでもいつまでも,新しい景色が次から次へと現れてくる。たとえ前と同じ事象を見ていても,経験が積み重なるに従って,今までとは違った色合いで,その景色はよりはっきりと,より興味深く味わうことが出来るのだから。

 人生行路では,死ぬ瞬間まで,本人の心の持ち方次第で,頂上を目指す色々なアタックルートにトライすることも可能なのだ。そして,その歩いていく路上のあちらこちらで,自分も楽しみ,周りの人をも楽しませることが出来るのだから。

 

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