アメリカ国立公園視察ツアー
「やま学研」は日本山岳会・山の自然学研究会の略称です。
今回の一行は女性5名、男性7名でした。
訪問先
国立公園は
イエローストン国立公園
グランドティートン国立公園
グランドキャニオン国立公園
このほかの対象
アンテロープキャニオン
モニュメントバレー
ホースシューベンド
通りすがりに
ラスベガス
さて、私が最初にアメリカ合衆国を訪れたのは、1956年の秋、26歳の時のこと、始めての海外経験でした。
往路はプロペラ機、途中、ウェーク島とホノルルで給油し、やっとサンフランシスコに着きました。帰路はサンフランシスコから横浜まで貨客船に乗り、太平洋を横断しました。現在のように空の大量輸送が始まる前、飛行機の運賃はすごく高かったのです。そして貨物優先で寄港地や日時が決められる貨物船に、ついでに乗客を少人数乗船させる貨客船は運賃が安かったのです。戦争に負け、都市を焼き払われた日本は貧しく、外国でお金を使える枠は厳しく抑えられていました。
在米中、行動をともにした U 氏は、今や幽明境を異にしています。
そんな事情から、アメリカにゆくと、ついついセンチメンタルになってしまうのです。
今回は写真を主体にし、それに説明文をつけるスタイルで書いてみました。
ただ、相変わらずだらだらと書く癖が随所に出ていて、申し訳なく思います。
イエローストン国立公園の地熱活動で最も有名なのは、オールドフェイスフルと呼ばれる、ほぼ一定の時間間隔で熱水を吹き上げる間欠泉でしょう。ともかく世界の間欠泉の3分の2はこの公園にあるといわれます。そのほかにも、澄んだ熱水を湛えたカラフルな温泉、この写真のような噴丘、そしてぶくぶくと泡を吹いている泥温泉があちこちにあるのです。
なにせ公園の 地下5kmほどのところまでマグマが上がってきているといわれています。そのマグマ溜まりの広さは、この国立公園の面積と同程度とのことです。
さらにここでは、過去に210万年前、130万年前、64万年前と大噴火があり、いわば前科3犯なのです。それらは有史以来地球上で起こった噴火の何千倍という規模で、人類の存亡にかかわるとされ、スーパーボルケーノの尊称を奉られています。
もしも周期的なものでしたら、そろそろ来てもおかしくないと言えましょう。でも、世界注視の的なのですから、多数の観測点が置かれ、大勢の学者が興味を持って研究しています。今回訪ねてみて、その様子がよく分かりました。ほんの少しでも怪しい兆候があれば、メディアが放っておくわけはありません。考えようによっては噴火は3回で終わり、このままマグマは冷えて花崗岩に変わってゆくかもしれないのです。ともかく、当分は無事でしょう。
大噴火が起こり、大気中に拡散した火山灰が太陽から注ぐエネルギーを遮り、地球の温度が10年間にわたって10度℃ほど低下したら、どんなことが起こるのでしょうか。現生人類の誕生は約20万年前です。われわれ人類が、始めて遭遇する過酷な環境に晒されると、どんなようになるのでしょう。わずかに絶滅を免れた個体が、遺伝子の変化で新しい別種の人類として生まれ変わるのかもしれません。 私としては、その経過を見届けられるよう長生きしたいのです。でも、まあ無理な望みでしょうね。
国立公園ですから、野生動物はしっかり保護されています。そしてその生態を観察することも、観光客の興味のひとつにされています。写真のバイソンのほかコヨーテ、エルク、カナダガンなど多くの動物に会うことができました。動物たちは、とくに人間を気にしているようではありません。
しかし正直に言って、動物の数はとても少ないと思いました。アフリカのケニアあたりのサファリですと、もう数え切れないほどのヌーと呼ばれる牛やシマウマが群れているのですが、イエローストンではまったく異なります。やはり寒冷な土地は生物を養う力が弱いのだと思います。
昔、この地方のインディアンたちも、寒い冬には暖かい地方へ移動したものだそうです。
人間が自然のままの生活環境で暮らしていた一世紀ほど以前には、日本でいえば瀬戸内海沿岸、世界で見ればインド、インドネシアなど温度の高い場所の土地が、単位面積あたり沢山の住民の命をサポートしていたのです。
人類としても、20万年前に誕生して以来、1万6千年ほど前に氷河期が終わり、温暖期に入ってから急激に人口増加パターンに入ったのだと言われます。
イエローストンの9月の雪の中で、寒さは多くの生物にとって敵ではないのかしら、そんなことを考えてしまいました。
イエローストン国立公園内の山火事の跡です。山火事の跡は至るところにあります。ドライブ中「ここは1988年に焼けたところです」など、次々にガイドされます。
焼けて剥き出しになった地面には、日光を好む松の幼木が一斉に芽を吹きます。3日間観光しているうちに、その幼木の高さから、ここの山火事は何年ぐらい前のことだったのか、説明を聞かなくても想像できるようになりました。
1988年の山火事は、とくに大きかったようです。イエローストン国立公園の面積は日本の四国の半分ほどなのですが、なんとその36%の面積が焼けたのだそうです。
この辺りのロッキー山脈の樹木の90%は松です。最初はドッジボール・パインと聞こえましたが、実はロッジ・ポール・パイン、小屋の柱にする松と呼ばれる樹種だそうです。日光を必要とするので正常な林の成長では低いものは次第に淘汰され、残ったものも下枝は枯れ落ち樹冠をどんどん伸ばします。寿命は150〜200年とされます。
本来ならば松の大木の林は、地面に日が当たらず、松の幼木は生存できません。そして暗い森でも発芽・成長できるツガ、モミなどが成長し極相林を形成するのです。
率直な印象として、極相林は目にしなかったと思います。すべてが山火事の後の成長段階の林相に見えました。ここには、天寿を全うするロッジ・ポール・パインはないんじゃないでしょうか。山火事の原因は、基本的には落雷、そして乾燥した環境とのことでした。 そして自然に任せる主旨からして、自然消火にまかされるのです。
そのせいだと思われますが、宿舎、ビジターセンターなど延焼防止措置の取られる場所の近傍だけ、多少樹相が変わっているように見えました。
教会の尖塔の先端に十字架がないのは、モルモン教の特徴です。モルモン教の本部がユタ州ソルトレイクシティにあり、アメリカでもこの地方にはモルモン教の信者が多いのです。モルモン教はキリスト教系の新宗教で、1830年に誕生しました。私は詳しくは知りませんが、収入の10%を教会に献金するなど信者の行動の規制が強いと感じています。 伝統的なカソリックやプロテスタントの人からは、良くは言われていないようです。
1945年、日本は太平洋戦争に敗れ、名古屋にも大勢の占領軍が入ってきました。その中には事務職員として女性もいました。敬虔な人は布教をも兼ねてYWCAで英語教室の教師を務めていました。そのひとり、A嬢はソルトレイクシティの出身で、米国に来たら是非寄るように言ってくれていました。1年間の留学を終えた1958年、その願いがかなって私は同僚と共にこの街を訪ねました。たまたま彼女はおらず、妹さんが対応してくれました。ある夜、3人でステーキで有名なレストランを訪れました。メニューを見て、その値段に腰を抜かし、3人ともステーキじゃなくてスプリング・チキンを食べたことを思い出します。なにせその頃は、日本も私たちも貧乏だったのですから。
そうそう、モルモン教といえば、一夫多妻制が話題にされます。勿論、現在はアメリカ合衆国はこんな制度を認めておらず、モルモン教だって1890年から禁止しています。しかし興味本位でよく取り上げられるのです。
名古屋といえば『エビフリャー』を食べ、朝飯は喫茶店のモーニングセットですますという俗説があります。そんな家庭ばかりじゃないのはあたりまえで、真顔で聞かれて対応に窮することがあるようなものでしょう。
グランド・ティートン博物館でインディアン衣装を展示していた場所の標識です。
狭いところでしたから、つい体を引いて遠目で眺めたくなるような場所でした。
英語、中国語、フランス語、ドイツ語、日本語、スペイン語でしょうか。
イエローストンの「龍の喉」という噴気孔のところです。
2行目の最後と3行目の頭で、「は」の字が行き別れになってしまっています。
アリゾナ州ホースシュー・ベンドで見た標識です。
日本語では意味不明瞭と言わざるを得ないのじゃないでしょうか。
上のドイツ語なら「崖の上に立たないで」と分かりますが。
下には中国語と韓国語をいれてみました。彼らも、自分の国ならこうは書かないと言うかもしれません。
自動翻訳システムの面白いところを楽しんでいただけたでしょうか。
この写真は、グランドキャニオンの東にある、アンテロープキャニオンという洞窟です。ここもコロラド高原の中です。ナバホ人の現地ガイドが案内している間に、アメリカ人のガイドは「あとで本当のことを教えるからな」と申しました。見学後「風が削ったんじゃない。水なんだ」と言いペットボトルの水を砂の上に垂らし、砂を振りかけました。濡れた砂の団子が出来ました。「五百万年前、こうして出来た地面を水が削ったんだ」。
帰ってからネットで見ると、地質の専門家の記事で、一億八千万年前のジュラ紀に砂漠で砂が積み重なり固化した風成の砂岩であることが分かりました。普段、水はありませんから、ここまで削るのに、数え切れない数の鉄砲水が襲ったに違いありません。
この現象を考える場合、走って感じたコロラド高原は、その広さと平らさから、畳の上に1センチほど砂を敷き詰めた様子を想像させます。そこに猪口一杯程にもならない鉄砲水を掛けたとて、こんな地形になるものでしょうか。 年間降雨量はラスベガス100mm,グランドキャニオンでは僅か40mmといいます(日本の平均1700mm)。
アメリカの地形形成は、その土地と経過時間のスケールの大きさから、私には到底、想像もつきかねるのです。ただ、この世ならぬ光景に見惚れるだけのことにしましょう。
10月1日の朝、グランドキャニオンの日の出を見にゆきました。日の出の時刻は6時25分、ここの緯度は36度、福井市ぐらいです。ただ標高が約2000m、雲がなく放射冷却が効いているうえに風があり、大変な寒さでした。あちこちの崖の出っ張りに見学客が屯します。日本人ほど名所の日の出を見たがる国民はいないと聞きますが、外人だって全くいないわけではありません。もっとも全体の人数そのものが、昼間と比べれば問題にならないほど少ないのです。
日の出を見届けてバスに戻ると「国家予算不成立のため国立公園は閉鎖する。4時間以内に退去せよ」という事態でした。ああもこうもなく、ここでの学習は打ち切り、予定外のスポットを見物しながらラスベガスに戻ることになりました。
米国政府機関の一部閉鎖については、その後、日本でも盛んに報道されています。その画面に、駄々をこねていると目されるベイナー氏に「誰がお前を選出してやったのか考えてみろ」と描いたプラカードを持った女性が映りました。
改めて考えてみると、日本では政界の指導者に対して、自分たちが選んだという意識が薄いというか、まるでないという気がします。封建時代を経験した歴史のある国と、ばらばらの立場の人たちが何とかまとまって創った新しい国との違いを感じさせられます。 民主主義にもいろいろあるものです。
前述のようにグランドキャニオンでのハイキングがおじゃんになり、ラスベガスまでバスで帰る途中に立ち寄った旧国道66号線の道端の風景です。新しく高速道路が整備され、古い道はすっかり見捨てられました。ところがルート66は、ただの国道じゃありません。歌、文学、テレビドラマなどに取り上げられ、特別扱いされている道路のようです。フランク永井の「第二国道」みたいなものなんでしょうかね。地元の頑張り屋さんたちが、往年の名車を集め観光客を引きつけています。中央はT型フォード、約100年前大衆車として製造され、モータリゼーションの先駆けとなった車です。
1956年、26歳だった私は、10年落ちのプリムスの中古車を100ドルで買いました。1年間乗り回した後、帰国の際、アメリカ大陸横断にトライしました。ニューヨークからフロリダまで南下し、ニューオリンズを経て西に向かいました。テキサス州ダラスにたどり着いたとき、とうとうエンジンがへたり降参しました。町はずれのジャンクヤードに行き、買ってくれと頼みました。相手は「お前の車で価値があるのは、タンクの中のガソリンだけだ」と言います。「ラジオはちゃんとしてるし、タイアだって新品同様だ」と売り込みました。「まあ、10ドルだな」と先方が折れました。「それで我慢するけど、街まで送ってくれ」と話はまとまったのでした。ここで古い車を前にしながら、そんな昔を思い出していました。
当時、日本からは外貨の持ち出しが制限されていました。1週間63ドルで一年間生活していたのです。貧乏だった日本の貧乏な留学生だったのです。
グランドキャニオンへの道すがら、ラスベガスで宿泊しました。
今も街中いたるところでスクラップ・アンド・ビルドの建設工事中、この街は来るたびに大変容を遂げています。
私が昔訪れたラスベガスは、小さな街でした。そこは今ではラスベガスのダウンタウンと呼ばれています。そこから数キロメートル離れたストリップ地区に巨大ホテル群が建設され、その繁栄をすっかり奪ってしまいました。この60年でラスベガスの規模は100倍以上になっているのじゃないでしょうか。今回、私たちが泊まったのもストリップ地区にあるバリーズ・ラスベガス・ホテル&カジノでした。
1958年、最初に訪れた頃を思い出していました。U氏と、ともかく話に聞いていたギャンブル街を歩いてみました。有名なゴールデン・ヌージェットという店の前に立って、カタカタと音のするコダックの8ミリ映写機を回しました。店の看板として、親指を立てたカウボーイのネオンが、ユックリ揺れていました。今なら「かに道楽」の動く看板程度のもので、とくに珍しがられもしないほどの代物でしたが、当時としては目を驚かされのです。また、世間では通用していない1ドル銀貨が、この街ではギャンブル用に使われていたので、賭けるのではなくてお土産用にいくらか交換したのでした。翌朝、バスに乗ろうとしてセンターにゆくと、汚い男に「一文無しになっちゃった。故郷に帰るバス代を恵んでくれ」と言われました。こちらも相当ずれていて「これで家に電話して金を送ってもらえ」と10セント恵んで突っぱねたのでした。