日付:2001/10/28
3年前、1998年に「会社を辞めること」と題して、当時の心の動きを綴ったことがありました。
だから、なんで再度「会社を辞める」が出てくるのだということになります。
実のところ、常勤の仕事は、確かに前の会社でもって終わったのですが、それとは無関係な、ある会社の非常勤監査役の職は残っていたのです。
4年前に「会社を辞めること」を記したときには、非常勤監査役としての仕事は、それまでやってきた仕事と較べれば、すっかり異質なものだと認識していたといえるかと思います。
おかしなもので、非常勤監査役の仕事しかなくなると、それが大変な仕事のように思われてきたのです。
実はこの心理的状況は、仕事だけに起こることではありません。
フルタイムで働いていたときには、土曜日、日曜日の休みは自分の時間でした。ほかの家事はほったらかして、平気で山登りに出掛けていました。
ところが、非常勤になって、出社する日が少なくなると、休日の時間が自分のものでなくなってしまったのです。
母親を短歌の会の会場まで車に乗せて行くとか、家内を謡の練習舞台まで送るとかいう、いわば退職前には、ほんの些細なことと思っていたことが、大事な仕事としてウエイトを上げてきたのでした。
具体的には、そんなような、昔は些細なことだと思っていた仕事でも、その日には「ちょっと山へ行って来る」と、言い出し難くなったのです。
「山なんか、ほかの日に行けばいいじゃないの」などとは、だれも口に出して言うわけではありません。でも、自分自身の心の中に、そんな声がするように思えてくるのです。
そんな制約に、天気の条件までを入れると、山へ行く日数は以前より少なくなったぐらいなのです。
もちろん、今まで常勤を勤めていては出来なかった種類の登山として、思い切って海外へ長期間出かけると決めれば、些細な仕事は問題なく切り捨てられるのですが。
たとえ非常勤であっても、商法上、監査役の仕事は重い責任を伴います。
現実の役目は、取締役とは違って業務を執行する責任こそありませんが、役員のひとりとして会社に有用な情報の収集や、世間とのコンタクトには、今までの経験の蓄積を有効に使って行く工夫が欠かせません。その能力は個人によって大変な幅があるのです。
人生の盛りを過ぎると、新しく知人、友人が得られる機会は急減します。その上、今までコネクションがあり役立った周りの人たちの社会的ポテンシャルも、段々に下がってゆく運命から逃れることはできません。
そんな中にいて、従前通りの報酬を受け取っていることには、なんともいえない心苦しさがあったのでした。
もしも報酬の金額が、商法上の最低限の仕事に対応するものだとしたら、ある時期には、会社に対して報酬以上の貢献をしていたことになるのかもしれません。
しかし、基本的に能力が下がってゆくのに、地位に止まるのは苦痛であり、その解決策としては止めさせて貰うしかないと思うようになってきていたのでした。それはまさに、老いそのものの本性なのでありましょう。
目も悪くなりますし、耳も遠くなります。相手が私に、聞き取って貰い、頭に入れて欲しいと思っていることが、ちゃんと入らないとすればそれは仕事の障害というものであります。
その恐れに対して、いいかしらいいかしらと何時も思っているのは苦痛であります。
いま、退職して、そんな老いに伴う負い目から逃れられたので、真実、気が楽になりました。
それにつけても、小心者の私にとって、退職の時期が多少遅きに過ぎたと言ってよろしいかと思われるのです。
それにしても、職場では、本当に良くしてもらったと思っています。
役員のゴルフ大会はおろか、会社全体の運動会にまで参加させていただきました。
社用の出張で、こんな少額の旅費などと思っていても、ちゃんと精算し支給してくれました。
要するに、細かく気を遣ってもらって下さったことが、とても嬉しかったのです。
私の先輩の監査役さんたちが、立派に仕事をなさってくださったからなのかもしれません。
私の側の気持ちも、執行部門にいた時代とは変わっていたこともあります。
仕事をしなくてはいけないと思っていた頃には、ずいぶん、部下に対して、ない物ねだりをしていました。
部下として、体が丈夫で、性格がよくて、頭が切れ、経験豊かな、つまり完璧な人が欲しかったのです。
もちろん、実際の世間には、いろんな性格、色んな取り柄を持った人がいることはよく承知していました。私がほかの人に較べて、部下に無理を要求したとは思っていません。でも、いくら態度に出さなくても、心の中で、もっと、もっと能力を出せと願い続けていたことは、告白せざるを得ません。
71才という年令と経験、非常勤監査役という職務、そして現実に接していた人たちの資質、そんな諸々の条件から、今度退いた職の場合、周囲の人たちに対してまったく不満がなく、むしろ感謝することのほうが多かったのでした。
環境自体が良かったのと、私自身の要求がハンブルだったといえるのでしょう。
退任を決める株主総会が終わって、会社を離れるときがまた素敵でした。
まず、役員一同の昼食の場に加えてもらいました。
そのあと事務手続きがありました。
私はもう、少しでも現役の人を煩わすまいと思っていましたから、すぐに帰り支度をしました。
事務所から退出しようとすると,ちょっと待って下さいと言われました。
私のほかに、お一人、今回、退職される方も呼んでこられたのです。
そして、フロア全体にいた沢山の人たちが集まって、二人に花束を贈って下さったのです。
そのもうお1人の方は、会社生え抜きの方で、社長、会長を歴任し、相談役をしておられたのです。
そんな方と、ご一緒にして、盛大に送っていただくのは光栄でした。
うぬぼれだとは思いますが、そんな大切な人と、私みたいに非常勤監査役を6年勤めただけの男を、ただ、場所と時間の関係で、一緒くたに処理したとは私には思えませんでした。
社屋を離れるときに沢山の方からお見送りを受けたことに、心から感謝し、感激しました。
前回「会社を辞めること」を書き綴っていたときには、集団、組織での終末というものは悲しいものだ、と思いこんでいました。
テレビで、野生動物の群のなかで、老齢になり力の落ちた個体のたどる様子が、たびたび放映されています。所詮、末路というものは、そんな悲しいことになるものであると、もっともらしい理論付けまでして、必然であるかのように思いこんでいました。
そんな私が、こんなに心理的に恵まれた状態で、会社生活にピリオドが打てるとは思ってもいませんでした。
それは、お察しのように、私の側の心の問題が大きな要素だと思います。
老子には「足ることを知るものは富む」とあります。また「心の貧しき者は幸いなり。その人は天国を見ん」と聖書にあります。
人生の終端で、うまく軟着陸できる環境を与えられたことは、まことに幸せでありました。
終わり良ければすべて良しといいます。
私は疑いもなく幸せ者であります。