日付:1998/2/5
キリマンジァロに登った。さすがに世界各国からクライマー達が集まって来ている。ここアフリカの山のなかで共通の通貨はドルがであり,英語が共通語になっている。自分達のグループの中ではドイツ語やスペイン語で喋っていた人たちも,他のグループにはそしらぬ顔でハロー,グッドモーニングとやっている。
現地人のポーターたちだけが,日本人と見ると「コニチハ,サヨナラ,ガンバレ」と声をかけてくる。中には「ジャパニーズ,お金上手」など言う調子のいい奴もいた。
登頂の日の午前1時,標高4700メートルのキボハットの小屋を出発した。幸い無風で気温もさほど低くない。一行17人が一列になって,チーフガイドのゆっくりしたリードにしたがって歩を進めた。まばゆいばかりに星が輝く,頭上の空に突っ込んで行くような夜間登山だった。
キリマンジァロ山は,200年前にも活動が見られたほど新しい山なので,その地質は富士山とよく似ている。つまり大部分が粗い火山噴出性の砂から成り,頂上付近だけが溶岩となっている。したがって道の様子も,富士山と同じ様な粗い火山灰の積もった斜面のジグザクの道なのてある。しかしその時は,真っ暗闇の中をヘッドランプの光りを頼りに登ったので,そのことがよく判らなかった。
砂ざくの登りでは,急な所に差し掛かると折角登っても足がずるずると滑って下がるので,ついついペースが早くなってしまう。そして,5000メートルを越す高度では,そんな時確実に息がはずんでしまう。急な登りの3つ目に,とうとう私は列について行かれなくなってしまった。列の外に出て一行を遣り過ごしていると,リーダーから「Mさんが後から来るから,お茶でも一口飲んで,一緒にゆっくり登って来てください」と言われてしまった。
正直に言うとその時私は,ゆっくりしたペースに落としさえすれば,特別に苦労しなくても登り切れると思っていたので,リーダーのこの言葉を,やや不本意に聞いたのであった。
ところで,あとから来るMさんは睡魔に襲われているようだった。「ここで10分ほど寝ていっちゃいけないでしょうか」などという。「寝ちゃ駄目ですよ」「もうじき日が登るから頑張りましょう」など力付けて,その頃は私のほうが彼を労って登っている感じであった。
そのうちに私がおかしくなってきた。一歩登る度にハァハァと息をしないと動けなくなってきたのである。これはまったく意外なことであった。腹式呼吸で空気を思い切り吸い込むと,ちゃんと肺の隅まで空気が入ってゆく感じはあるのだが,どうしても血液の中の酸素濃度が上がってくる感じがしない。まるでチェインの外れた自転車をこいでいるような,頼り無さなのであった。日本の山だったらこんな状態になれば,再来を期してギブアップしていたかもしれない。しかし,頭は「いまはアフリカへ来ているんだぞ。諦めるには未だ早い」と告げ続けていた。こうして私は生まれて始めての無理をしながら登り続けた。
こんな二人だったが,それでも休まずに一歩一歩ジクジクと登っていった。そのうち頂上近くなったころには,ゆっくりならばどうにか連続して足を出せるまでに回復したのであった。
やがて火口壁に登り付き,クレーターの中に一面に積もった雪と,ブルーアイスからなる段々畑のような東氷河を見た瞬間は感激だった。そしてあとは程なくギルマンズポイント(5682メートル)の頂上を踏み,タンザニア人のガイドと固い握手を交わすことができた。頂上ではウフルピークへ行く人と,ここまでで引き返す人との仕分けに入った。残念ながら,その時の私は心身ともに弱っていて,とてもこれ以上突っ張れる状態ではなかった。
こうして,あと1時間半の頑張りを放棄したことで,二度と来られるとは思えないアフリカ大陸の最高地点,ウフルピークに登るチャンスを逸したのは,返すがえすも残念な事であった。私の完全な失敗であった。
出発前に,全国でここ一箇所しかないと言われる,名古屋にある減圧室に行った。その部屋の中で,6000�の高さに相当する薄い空気の中で自転車を漕ぐ経験をした。そしてそこでの体験から,体にマイペースでロードをかけているのならば,長時間連続して運動していられる自信があった。また数日前に,高度順化を兼ねて登ったケニア山レナナピーク(4985�)では,私の場合,運よく高度障害は全く気がつかない程度であった。そんなことから,ウフルピークへも登れる確率は高いと予想していた。それが,こんな状態になってしまうとは,まったく思いもよらないところであった。
後になって考えて見れば,たったひとつのミスさえしなければ,私はウフルへ行けたと思うのである。
つまり,あの急な砂の登り坂で,ちょっと速度を緩めマイペースで行きさえすればよかったのである。
下山後しばらくの期間,咳に悩まされたことからして,肺の気管支が軽い凍傷のような状態になってしまい,そのために肺の酸素吸収能力が低下したのであろうと推測される。そしてその原因は,急坂突破の際の過呼吸のために,空気が温められることなく肺に入ったせいであろうと思われる。
私の呼吸方法が悪かったと言う人がいるかもしれない。しかし,私の経験から言えば,運動と呼吸の関係は途中に血液というクッションを挟んでいるだけで,運動が要求する酸素は必ず呼吸によって取り入れられなければならない,つまりゆっくり呼吸しようと思うならば,運動量を下げることが絶対に必要なのである。
マイペースを守ることの重要性は常識で,私とても重々知っていることであった。だが,真っ暗闇の中を1列で登る条件では,やはり隊列を乱すことに遠慮があった。多少無理をしても後でなんとか取り戻せると,日本の山なみに考えたのが失敗の主原因だったのである。
もしもマイぺースで行動していたならば,全計画を予定どうり消化して,しかも時間だって最終的にはそう余分にかかるわけでもなかったとことと思う。
ところで,誰が現地人に教えたかしらないが,「がんばれ」という言葉は,われわれ戦中派にとっては嫌な響きを持った言葉だ。大方,戦争を知らない大学の山岳部の若い人達でも,この言葉を教えたのであろう。
さて,年をとっても元気な人はいる。しかし,いくら元気だといっても,年令とともに体力は確実に低下していく。視力を例にとれば「あと何枚フイルムが残っているか見てくれない」と若い人にカメラのインジケーターを見てもらうことになる。このように体のどこに限らず老化は避けられない。
若い頃の山登りは,いわば1億円の財産を持ち,余裕を持って商売をするようなものである。目先の1千万や2千万の損害はどうということはない。それに引き換え,熟年の山行では1千万円の財産で遣り繰りして商売しているようなものである。2千万の損でも破産につながる。
若者は経験が少ないから,折角の力が宝の持ち腐れになることがあるし,逆にほんのちょっとした躓きで失意のどん底に落ち込んだりする。しかし熟年者は,諸事,因果関係に明るく,また自分の能力の限界を知っている。だから持っている能力を無駄なくフルに使うことが上手である。
若者はまだ自分の力をよく知らないから,教えられ励まされることにより,思わぬ力を発揮することがある。こういう場合には,「頑張る」ことの効果が出てくるのである。
それに引き替え,熟年者には頑張って頑張れる余地はもはや少なくなってしまっている。
したがって熟年者は,前以って躓きの石を取去ったり避けたりして,正念場で頑張らなくてはならないような事態に身を追い込まないようにするのが,山を楽しむキーポイントになる。つまり大事なのはソフトウエア,なかんずく物事の判断だということになる。
そして,自分の状態は他人には絶対に分からないものであることを,肝に命じておかなければならない。
私のキリマンジァロでの失敗のように,自分自身でさえ見損なうことがあるのだと,あえて恥を申し上げる次第である。