題名:脂がのることについて

五郎の入り口に戻る

日付:2001/8/18


「脂がのった」という表現がある。男として、選手として、政治家として、その前につく言葉は様々であるが基本的にこれは良い言葉なのだと思う。しかしいつも腹周りの脂肪の状況とか血液中の中性脂肪の量を示す値を気にしている身としては、この言葉に無反応ではいられない。聞いたとき頭にまずぽっと浮かぶのはぶよぶよとした自分の体型なのだが。

さて、この「脂がのった」年代というのは人によっても物事によっても様々である。野球選手ならたとえば20代の後半、体力はそう衰えておらず、経験が積み重なったころであろうか。女子の体操などはオリンピックを観ている限り10代が脂がのった年齢のようである。彼女たちに物理的に脂がのる頃にはもう引退の声を聞くようだ。

他の分野はどうだろう。プロフェッショナルのレスリングというのは今や大変広い概念を指す言葉であるから注意して使う必要があるのだろうが、たとえば米国のプロレスであれば、彼らには肉体的な強固さに加え多くの資質が必要とされる。 試合の前にはマイクをもって相手を上手にののしらなければならないのだ。私と弟はアメリカに居るとき、この「ののしり」を大変愛していたものである。たとえば日本人と称するペアはこうマイクの前で叫ぶ。

「俺達は真面目に働いているんだ!」

「Sony,Toyota, Honda!」

「お前らフォードのポンコツだ!」

1990年頃。日本がバブルの絶頂期でアメリカが不況下にあった頃の話である。

かくのごとき職業であるから精神的な面で経験を積む必要があり脂がのる年齢はもう少し上のようだ。日本の某団体においては還暦を迎えたレスラーもリングに上がっていたがプロフェッショナルという名前がつく以上商売である。客を呼べるのがその能力の証ということであるならば彼は死ぬ間際まで脂がのった状態であったのだろう。

では知力を競う分野ではどうだろうか。物理学者とかいう職業の「脂の乗り切った年代」はかなり若い時の場合もあるようである。アインシュタインは26才のときに特殊相対性理論を発表した。一般相対性理論を発表したのは37才の時。なんと今の私よりも若いではないか。

普通アインシュタインというと白髪が混じった独特の髪型、口ひげをたくわえたちょっと独特の写真が頭に浮かぶのは私だけではないと思う。どうみてもあの写真は37よりも年をとっていそうだが、と思い調べてみるとノーベル賞を受賞したのは43歳の時であった。日本で2000年にノーベル賞を受賞した科学者もすでに

「名誉教授」

となっている方であり受賞対象となったのは若い頃の研究成果であった。

 

このようなことをつらつら考えていると一つの事が頭に浮かぶ。すなわち「脂がのっている時期と有名になる時期の差異」である。

スポーツなどは或程度それらが接近している例かもしれない。しかしそれでもいくばくかのずれは存在している。オリンピックにおいてメダルを取る人がいる。それまでおそらくその分野では有名人であったのだろうが、メダルを取った瞬間、私のようにその競技に何の興味もない人間であってもその名を知るようになる。しかしその同じ名前を次のオリンピックで聞くことはそう多くないし、表彰台の上で見る機会はさらにまれだ。

あるいは逆に名声が先に確立することもある。たとえば柔道の田村が一番大きな声援をうけたのは3度目に金メダルに挑戦したシドニーオリンピックであっただろう。しかし山下の言葉を借りれば、前の二つのオリンピックから比べるの彼女の力は確実に衰えていた。すなわち脂はすでにして薄くなり始めていたのだ。などとつらつら考えていると他の分野でも幾人かの名前が思い浮かぶ。岩崎キョウコとかいう女性はオリンピックで金メダルをとったのは良いが、引退した今も未だにそのネタばかり振られていると聞く。映画監督の黒澤も、白黒の頃が一番おもしろく、「世界のクロサワ」になってからの映画は正直いって今ひとつなのではなかろうか。

しかしながらこの「ずれ」を事実と認めた時、はなはだやっかいと考えられる人間の性質に思い当たる。それが生存する上でどのようなメリットがあるのか今ひとつ解らないのだが、人間の遺伝子の奥底深くには「名声を求める」という願望が書き込まれているようなのだ。 マルクス・アウレリウスはこう書いた。

「また生きている人間にとっても、賞賛とは何であろう。せいぜいなにかの便宜になるくらいが関の山だ。ともかく君は現在自然の賜物をないがしろにして時期を逸し、将来他人がいうであることに執着しているのだ。」 

この哲人皇帝が何故この言葉を残したかということを考えれば、彼自身賞賛、名声を得ようという自分自身の願望と戦っていたことに思い当たるのだ。 

私に脂がのることは(物理的ではなく)たぶんないと思う。名声を得ることが無いことはまず間違いなかろう。だから此処で書いていることは関係ないことなのだが、私は生まれついての心配性である。溝に落ちないように道の端から5mのところを歩きながらも頭の上に中華料理が落ちてくるのを心配するような男だ。そして考えるのだ。待ち望んでいた名声が得られ、同時に自分の脂が落ちてしまったことを悟るときその人間はどのような心持ちになるのか、と。頭に中華料理が命中したときの痛みを私が想像できないがごとく、その心持ちも私の想像力の外にあるようだ。しかしこの世に存在している今ひとつ存在価値の解らない肩書き

「相談役」

「顧問」

「大御所」

「ご意見番」

「黄門」

等はそうした人たちのためにあるのかなあ、などとぼんやり考えたりする。名声はあるが脂が落ちた人たちをうやうやしく祭っておくために。

私が最初に勤めた会社はそうした「相談役」だの「顧問」だのを沢山抱え込むので有名なところで、彼ら向けの「事業所説明会」なるものまで毎年催されていた。会社を実質的に引退し、すでにして脂が落ちた(と会社の方は思っている)方々だからかなりの高齢である。このおじいちゃんも課長や部長の頃は脂ぎった顔で部下をどなったりしていたのだろうになあ。杖をつき、周りの助けをかりて椅子に座る「相談役」をみて私はそう思う。彼は私が担当していた展示の説明を聞いた後質問を発した。それに対し説明員であるところの私の先輩がすらすらと答える。するとその「ご隠居」は先輩に

「ちゃんとそう書いとけ」

といいはなった。私の先輩はそう言われて心の底から

「かしこまりました」

というような人ではない。一応「承知しました」とか言った物の後で聞けば

「うるせえ」

と言ってやろうかと思ったとのこと。対するにあの相談役も先輩に言われっぱなしで終わるとは到底思えない。

「なにを!」

と言って杖を持って先輩に殴りかかったに違いない。そこから展開されたであろう二人の取っ組み合いはどのように苛烈な物となったであろうか。考えるにこういう人たちというのは、周りがどう考えようと一生脂が落ちない人たちなのかもしれない。そして彼らの心情を思いやる暇などがあれば自分の頭上への中華料理の落下について憂えたほうがまだ意味があるのかもしれない。

 

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注釈

中華料理が落ちてくる:この表現は私のオリジナルではない。「それだけは聞かんとってくれ」の駄目投稿「2001/2/19なぞえもんさん」へのKeith 中村氏のコメントの盗作である。本文に戻る

 

マルクス・アウレリウス:(参考文献)The first principal, is simplicity. 本文に戻る