題名:中電百山6山

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日付:1998/2/5

餓鬼岳

大台が原

霞沢岳

野伏岳

白砂山

農鳥岳


餓鬼岳

 山登り,山男,山小屋の大将などの言葉には,都会に代表される文明社会の対極としての響きがある。

 登山の黎明期に上高地に常さんという山小屋の大将がいたという。ある時,登山がお好きだった秩父宮の案内を頼まれた。ところが常さん,秩父宮妃殿下に「おかみさん」と呼びかけたので,県の役人が腰を抜かしたそうである。さっそく妃殿下と呼ぶようにきつく言ったが,常さん,一回きり妃殿下と言って舌を噛みそうになり,あとは「おかみさん」で通したとのこと。面倒臭いことをするぐらいなら,案内などお断りしたいという野人であったらしい。恐らく生まれてこのかた,おべんちゃらしか聞いたことのない宮様には珍しい体験であったであろう。その後,秩父宮は常さんを可愛がられ,何度も案内を頼まれたと伝えられる。この言い伝えなど,非日常的なものへの常人の興味を表している典型的な例といえよう。

 この餓鬼岳にも,ある時代,大変に因業なおやじがいたそうである。自分は小屋に登って世話をするでもないのに,登山口に陣取って,通りかかる登山者から宿泊料を徴収していたのだという。

 私が登った昭和57年当時は,実によく気を使う御主人だった。そのことは,もう登りの道を辿っているうちによくわかった。沢筋の石にペンキで丹念に矢印がつけられ,踏むステップも親切にセットされていた。

 登る朝は前夜来の雨が未だ残っていた。さほど有名な山でもないので,途中,まったく人の顔を見ることはなかった。

 貧弱なお花畑と称するところで昼食をとり,ひと登りするともう小屋だった。小屋の周りをウロウロしていると,台所の窓から「いらっしゃい」とかん高い女の声が降ってきた。今日は主人は里へ下り,中年の女性がひとりで預かっているのだという。

 とりあえず,頂上を踏んでおこうと,荷物を置き小屋を出た。しかし今夜,ほかにお客がなかったらと,正直のところ気が重かった。

 頂上は,まるでミルクの中にでも立っているように,明るく白いガスが強い西風に激しく流れていた。そのうちに時々自分の頭がガスの上に出るようになった。大陸から到着したばかりの澄み切った空気の層の上に太陽が輝いていた。

 幸いにも,夕方,もうひとり若い男性が入ってきた。その夜は,Iさん,Nさん,Oさんと名前で呼び合い,山の怪談など聞かせてもらった。稜線の岩の上に直接に床板を据えた山小屋だった。いろりの岩は,山に根の生えた自然のままの岩であった。

 その頃,すでに穂高では,スパゲティをナイフ,フォークで食べさせている時代だった。そして昨今は,ことさらに古さを売り物にする山小屋さえ出現している。

 あの餓鬼の小屋が,いまも昔のままだったら,生きているうちに,いまひとたび訪ねたいと思う。

 

 ・雲海の上にシベリヤからの風


大台が原

 本心を言えば,この山は日本百名山の百番目として残して来ていた山なのである。

 百頂達成を祝ってくれる,名古屋の友人達が参加しやすいと思ったからである。しかし,その前に中電百山の百番目となる運命が来てしまった。これもひとつの縁であろう。

 私はすでに中電を退職し,第二の職場に勤める身となっていた。たまたま予定していた週末は日曜日なのに,中電からお客様が仕事で来られるこことなり,記念すべき百頂目は土曜日の日帰りとなった。そのうえ,ほんの短時間の登頂の歩みのために,往復12時間も電車とバスに揺られるという,なんとも奇妙な山行となった。

 山頂近くの大駐車場から,およそ登山らしからぬ服装の人達と、ぞろぞろと道標にしたがって歩いて行った。発情期で黒っぼい体色になった鹿が道端に立っていた。彼らは,たいそう人に慣れた様子で,カメラをかまえてチーズと言えば歯をむきだすのではないかと思うほどであった。

 百番目の頂上で,20年来,一緒に山へ行ってくれているYさんが,心尽くしの赤ワインを供してくれた。同行の皆さんは,これから厳しい大杉谷に入り,一泊して帰る山旅が待ち受けているのであるから控え目であった。それに引き替え,ここからひとりで引き返すだけの私は,ついつい誘惑に溺れ,葡萄の薫りの液体の杯を干し続けた。

 その時ふと,南の眼下遠く,入り組んだ湾に桟橋が伸びているのに気がついた。尾鷲の東邦石油ではないか。

 アルコールで淘然とした私の胸に,不意に強い感情が突き抜けた。尾鷲火力の立地活動は,私の若き日の大きなターゲットであった。

 家族から離れ,不自由な共同生活を送っていた立地のグループ,飲めなかった酒を飲むようになったS先輩,替え歌で宴会の座持ちが出来るようになったO先輩など,懐かしい人達の顔が次から次へと浮かんできた。一時は情熱を会社に捧げたその人達も,今はひとりとして会社には残っていないのだ。

 思えば,山のお陰で,今の私には楽しい思い出が一杯ある。たとえ,いますぐ山を止めたとしても,残る人生を山の思い出だけで充分楽しむことができるのは疑いない。

 過去というものは今からでは作ることはできない。人は一生の中に,その時々に過去を作っているのだ。その時は,後日,それがどんなに楽しいもの,あるいは苦しい重荷になるかに気付かないままに。はからずも私が運良く,山の楽しい過去を,溢れるほど持っていることを感謝せずにはいられない。

 今回,中電百名山の企画で,山の写真を探すためにアルバムを引っ繰り返していて驚いた。ある山の友達は,私の生涯のアルバムの1/4に登場していたのである。

 私の一生を楽しいものにしてくれた数多くの山の友達には,いくら感謝しても感謝し切れるものでないと,痛感している今日である。

 

 ・振り向かず消えゆく山の別れかな


霞沢岳

なにせ1980年頃には,霞沢岳は登った人はおろか,名前を知っている人も稀で,登山ルートについての情報が集まらなかった。暫く霞沢をつめ,適当なところから尾根に取りつくと,どうにか踏跡があるとのことであった。それは,右の尾根であったり,左の尾根であったりした。そしてどちらが良いとも言えないという。おまけに,雨が降れば道は変わっているかもしれないと,なんとも頼りない話であった。

 上高地の帝国ホテルの前に立つと,なるほど細い道があるにはあった。しかも何本もあって,どれを選ぶかに逡巡の時間を費やした。結果はどれをとっても同じことで,笹原に踏み込む何本もの怪しげな小道は,この山域で遭難死した人達のお墓に通ずる道だったのである。そこを通って結局は沢へ出るのであるから,霞沢岳を目指すならば,むしろいきなりちょっと下流の沢を入ったほうが単純なことがわかった。いずれにせよ,悪場連続の人跡稀な山への出発点としては,まことに心が暗くなるような取り付きであった。

 いきなり始めから滝にぶつかった。Sさんは右岸に取り付く。へつりながら「ここは人が入ってませんぜ。石が浮いてるよ」と言う。私は左岸の多少藪っぽい方を攀じ登る。こんなことを繰り返してごりごりと高度を稼いでいった。

 何時果るとも知れぬ,極めて急峻な尾根の,あるかなきかの踏跡をこじて登っていった。やがて,とある開けた場所で昼飯とした。向かいの尾根を眺めると酷い岩壁である。向こうからこちらを見たら,さぞかし同じ状況だろうと自分達の今の立場を思ってみる。足下は這松ではあるが,滑落し始めたら,這松の上をポンポン弾みながら落ちてゆくだろうと想像されるほど急な傾斜である。パンが素直に喉を通らぬのも当然であった。

 すぐ下に帝国ホテルの赤い屋根が見えている。老若男女がごった返す,あの上高地のすぐ近くに,こんな静寂な世界があることが,いまさらの様に不思議に感ぜられるのであった。

 帰路の尾根の急降下に音をあげて,Sさんは沢を下ることを主張した。尾根から沢に下ることは容易だ。そして巨岩の詰まった沢をしばらくは降って行った。そのうちに散乱する岩が小さくなり,沢の幅が広くなってきた。「滝だ。引き返そう」という私に,Sさんは下りられると言い張った。しかし近くまで行って覗いた彼は,無言のまま引き返してきた。今度は,沢から尾根へと,細いルンゼを登ること自体が,またひとつの冒険であった。

 霞沢岳こそ,私の記憶に,忘れ難いいくつもの点景を残した山である。

 しかし後年,徳本峠から登った同じ山は,ごく普通の山の顔をして迎えてくれた。

 しょせん,山と人間との関係は,そういうものであろう。

 

 ・谷埋む巨石を秋の日が照らす


野伏岳

 加賀の白山の南向きの谷にあたる石徹白盆地は,郡上藩に属したり,越前の所属になったりした歴史をもっている。このことは,白山信仰の盛況とともに参拝客の基地として栄えたこの土地と集落は,どちらからも交通不便で,かつ必死になって所領したいという意欲を呼ばなかったなことを物語っているのであろう。

 白山の銚子ケ峯から南東に丸山,芦倉山,天狗山,大日岳と続き,同じく銚子ケ峯から南西に願教寺山,よも太郎,薙刀山,野伏岳と1700�級の山が連なって,石徹白の部落を囲んでいる。

 1991年の春,一泊二日,野伏岳と毘沙門岳とをかけて残雪期に登りに行った。国道156線から石徹白に入る檜峠で全員合流した時はかなりの雨であった。ラジオの天気予報はさらに悪化の兆しがあるという。意見の分かれるところであったが,時間のかかる野伏岳を先に片付けることに決まった。

 石徹白の白山中居神社に車をおき,林道歩きののち,牧場らしい広い平らなところから野伏岳に取りついた。雪に覆われた池のへりをトラバースし,通称ダイレクト尾根を登って行った。ガスで全く視野はなかった。

 丁度半分登ったあたりで,上からスキーの二人が下りてきた。その二人目の御仁は,私も頼りにしているボーゲンを繰り返していた。

 急登の後,やがて平らになり,ここが頂上だということになった。やけにぼくぼくと粘りっこい雪であった。そして相変わらず殆ど視野はないままである。何の愛想もないので,すぐに山を降り,その夜は白山中居神社にテントを張って泊まった。

 それから2カ月後,会社を退任することになった私は,長野に出張したついでに,清水さんと昼飯を御一緒していただいた。清水さんは「信州百名山」の著者であり,私が長野支店に勤務していたころ,毎月一回,山に同行をお願いしていた方である。

 その清水さんに「5月に野伏岳に登ってね」と言われて驚いた。あの青年と見たボーゲンの御仁は,73才の清水さんだったのである。あの時,登りのスピードの遅い私は,やたらに早いトップに迷惑かけまいとボーゲン青年に口を利くことなく見逃してしまったのであった。現在,既に75才と63才の両青年が,再び野伏岳で偶然相ま見えることは未来永劫にありえない。

 まさに一期一会である。いま目の前にあることとの出会いを大事にしたい。

 

 ・雪山を終えて安堵の水芭蕉


白砂山

 昭和62年7月,私の信州百名山の完登の時が迫っていた。やさしげな尾根のプロムナードの向こうに,可愛い小さなピークがもう見えてきていた。数分後,長野支店,本店の山岳部の皆さんが,頂上寸前で登頂の最後の一歩を私のために譲ってくれていた。

 白砂山は信州百名山のなかでは,アプローチの難しい山だった。この長野,新潟,群馬の三県境に位置する頂きは,長野からは一旦群馬県に入り,向こう側から登り返す形となるからである。

 私の信州百名山の99番目は光岳で,既に二年半前に登っていた。百頂を目前にして,宮仕えの悲しさ,急に拘束性の強い仕事についた。一年,8760時間,どの時間にも,会社から呼び出しが掛かるかもしれない。そしてその時に本人が不在だったら,それがゴルフに行っていたのならば,まだ許される。しかし,山に行っていたとしたら,なぜそんなところに行っていたかと非難されることになるだろう,と私は思っていた。みんなで渡れば怖くないの法則下でのゴルフと山の違いである。それで仕方なしに月に一回,日帰りの山行に行くだけで我慢の2年が過ぎた。

 また別に,この頃,気に懸かることがあって,それが片着くまでは,百山完登は見送ると宣言していたこともあった。

 こうする間にも時移り,やがて時間の束縛も人並みになり,また例の懸案も自然に解消し,ついに百番目のピークに立つことが出来たのであった。

 名古屋から一緒に行ってくれた岳友たち,長いドライブに車を提供してくれた長野の岳友たちには感謝の外はない。また東京からのTさんMさんは,自分たちに急用が出来て登頂はできなかったのに,わざわざ登山口の野反湖まで励ましに来て下さった。登頂を果たした夜のパーティには,行きつけのスナックのママから,シャンペンの差し入れまで託されていたとの披露があり恐縮した。それら多くの人達のご好意は,当時でも充分理解していたつもりであった。しかし,さらに馬齢を重ね,当時の自分を客観的に見ることができるようになった今,あの白砂山で皆様から頂いたご好意が,どんなに貴重なものであったのかを,改めて噛み締めているのである。

 まさに「山ありて,楽しきかな人生」である。

 

 ・野仏やここより夏野の道分かる


農鳥岳

 農鳥岳は,南アルプスの主縦走路からは少し離れた趣があり,この一峰を欲張ると,行程が一日余分に必要となる。このため前回の縦走では,北岳から間の岳,塩見岳と,この山には寄らずに,一路南に行ってしまった。また,この山頂を単独で狙えば,この一峰のためにどうしても3日を要する。

 そんなことで,なんとなく行き難い山であって,日本の3000メートル峰の中,私の最後の未登峰として長年,気に懸かっていた。

 また,かの電力界の鬼といわれた松永翁が,昭和の始めに,この山に登っておられる。翁は夜叉神峠から鳳凰三山を経由し,北沢峠で雨に降り込められる。人夫を里に下ろし,予定変更の電報を会社に打たせたり,米を担ぎ上げさせたりされた。この旅の終わりを奈良田温泉で締め括られた記録を読み,ぜひ一度は訪ねたいとの気持ちを持っていた。

 1992年9月,中電百名山の99番目,ブービーとして,ついに登る日がきた。

 サポートしてくれたのはN君,K君,M君。始めの予定を,私の仕事の都合で,途中から一日遅らせてもらったのが,結果的に最悪の天候となってしまった。

 広河内に車を置いて山にかかった。間もなく雨が当たり始めた。雨は断続的で,時々は山を見ることができたが,これがこの3日間の山旅で見た最後の山の景色であった。

 雨は夜に入って本降りとなった。翌朝,出発は5時30分,風さえ強く吹きつけている。3000メートルの稜線歩きは,本来なら避けるべき状態であった。

 もしも,サポートに3君が私のための来てくれていなかったなら,私は次のチャンスを狙うことにしただろうし,彼らも私の99番峰でなかったら延期したであろうと思う。

 終日,冷たい南西の強い風雨が吹き募る中,約8時間にわたる難行苦行であった。

 しかし,この悪コンディションの中で,われわれのほかにも数パーティが行動していた。日本帝国の特攻精神いまだ途絶えずというべきか。

 雨で視界のないままに,間の岳に登り,大下りの末に農鳥小屋を経て,西農鳥から横なぐりの雨風のなかを農鳥に登った。頂上では足元の岩のほかには,何も見えなかった。

 同行のNさんが,風の陰に入って周りが静かになるたびに「明るくなってきましたね。天気が良くなるみたいですね」とコメントしてくれた。その物事を常に楽観的にみる生き方は貴重であると感心した。

 今は昔,茶道部の交歓会で軽井沢に行った時,私はテニスと山の道具も持って行った。茶会の翌日は雨だった。そこで,かねて用意の鼻曲山に登ったのであった。

 今度の農鳥岳も,その若かった頃の登り方の延長線上にある。客観的に見れば,そんな山行には,そろそろ嫌気がさしてもいい年頃になっている筈なのでであるが。

 深田久弥さんの「百の頂きに百の憩いあり」という名言に,わが山行の阿漕ぎさを反省することしきりである。そんな自嘲を噛み締めながら,老サラリーマンは昨今も週末の雨の山道を黙々と辿るのである。

 

 ・霧流れ岩頭に人現るる

 

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