題名:秋田駒ヶ岳、和賀岳、乳頭山

(2003/10/17-21)

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日付:2004/3/13


旅の始めは、名古屋発21時30分の夜行バス青葉号です。

仙台に翌朝7時に着きます。

夜中ずっと、ヘッドホーンで音楽を聴いていました。 まず、歌劇椿姫の中の「ああ、そは彼の人か」の歌声に惹きつけられました。有り難いことに、この夜行バスの番組には、ベートーベンのスプリング・ソナ タ、リゴレットなど知っている音楽が多かったのです。

今夜は眠らないで聴いていようと思ったほどでしたが、結構、よく眠られました。

仙台駅の中の食堂で朝飯を食べ、あと新幹線で盛岡にゆきました。

ここでレンタカーを借りました。今回はYさんがプレミオという車種を選んだようです。馬力が大きく、4輪駆動なのです。


●乳頭山

乳頭温泉郷の黒湯駐車場に車を入れました。紅葉のシーズンですから、大混雑です。12時30分スタート、まずちょっと坂を下り、あと沢について登って行 きます。谷のところどころ、地肌が焼け、湯気が上がっています。地熱地帯なのです。

ときどき時雨の雲が襲ってきました。 ごそごそ登っていると、下ってくる人から「今から登られるんですか?」とか、「雨は大丈夫でしょうか」と聞かれました。

時計を見ると、まだ13時でした。

私は自分のことを、年寄りで、体力のない登山者だと思っています。現実に、連れのふたりは、もう、どんどん先に行っているのです。

でも、雨なら雨具があるし、暗くなる前に帰り着けるはずだし、たとえ遅くなってもライトがあるし、と、全然不安は感じませんでした。

14時30分、頂上に着いたとき天候は最悪でした。ガスで何も見えず、冷たい風が強く、その風には雨粒が混じっていました。 車に戻ったのは、16時でした。


今夜の泊まり、田沢湖ユース・ホステルには、去年も泊めてもらいました。

昨年、仲良しになったゴールデン・レトリバーの犬に挨拶しましたが、2回目だからといって、特別に歓待してくれる様子はありませんでした。

翌日は、天気があまり芳しくないので、登山は止めて、平地の見学日にしました。


●秋田大学

2日目は8時に出発、最初に秋田大学の鑛業博物館にゆきました。

私が受験勉強をしていた頃、物理や化学の入試例題集に秋田鑛専で出題された問題が頻繁に引用されていました。いかにも、専門学校という感じの、具体性の 強い問題だったように思います。それはもう、55年も昔のことになりました。今でもなにか、この学校は特別に懐かしいのです。

昭和初期までは地域の特徴を生かし、特化した専門学校があったのです。 養蚕・絹糸の本場、上田には蚕糸専門学校があって、後年、信州大学につながりました。また、薬売りで高名な越中富山には、薬学専門学校がありました。

秋田県では、小坂、花岡、尾去沢などの鉱山や、大変貴重な油田が操業していました。それで秋田鑛山専門学校が設けられ、これは後年、秋田大学につながっ ています。

第二次世界大戦で、我が国は石油資源をスマトラのパレンバンなど東南アジアから、自国の技術で手に入れなくてはならない事態に直面しました。

それで、秋田鑛山専門学校の石油科は、大増強されたのでした。

往路の車中で、万事に博識なMさんから、パレンバンの油田を無傷で手に入れる作戦や落下傘部隊の活躍の様子などを聞かせてもらいました。

ともかく、現在でも秋田大学の鑛業博物館の内容は、もの凄く充実したものです。

今まで来なかったのが悔やまれました。そして、折角訪ねた今回も、十分な時間がとれないのが残念でした。

私の孫に、昆虫や鉱石を好きなのが、ひとりいます。その子のために、ここの博物館の売店で、私としては大奮発して、原石に入ったままの粟粒ほどの大きさ のダイアモンドを見本用に買ってやりました。

・城望む地方大学天高し


●秋田城

秋田城というのは8世紀のもので、石垣や天守閣を持ったいわゆる中世の城より、ずっと古いものです。

最初は733年、日本書紀に出羽柵の名で出ています。その後760年には秋田城と呼ばれていたことが分かっています。

奈良、平安時代には、ここが、この地方の、政治、軍事、文化の中心地だったのです。 東北地方日本海側の城や柵が、太平洋側のそれより、約100年も前に造られ、しっかり機能していたのはなぜなのかと、疑問が湧いてきました。

大和政権への同化がスムーズに進んだためなのか、それとも大陸との交易上、日本海側の方がメインルートであったため力を入れたのか、など考えました。な にせ恵まれた土地柄なのですから、人口が希薄で、朝廷軍が無人の野を北上したとは思えません。

収蔵館には、まじないに使う木製の人型や、木簡が展示されていました。

また、築地塀や門、そして池などが復元されていました。

ここのトイレ跡を発掘したところ、当時大陸では常食されていた豚に寄生する寄生虫の卵が見つかりました。このことから、ここに外国人が滞在した、例えば 迎賓館があったと推測されるのだそうです。

ここに迎賓館を置いた目的は、都へはワンクッションおいて、外人の身元や、受け入れの可否などよく確認してから送りつけたのではないかとのことでした。

これらの研究成果を、私と同年輩で温厚そうなボランティアさんが、親切に説明して下さったのです。その方の秋田弁が、私には、なんとも嬉しかったのです。

・冬隣秋田訛のボランチア (ボランツアのほうが正しかったかも)

先日の句会で私の句を採って下さった方が、〈ボランティア〉だったら採らなかったよ、と言われました。

政庁跡の発掘現場へも行ってみました。なにせ、剥がされた砂の量が膨大で、建物跡は覗き込めませんでした。それにしても、鳥取砂丘ほどではないのでしょ うが、日本海海岸地区の、砂の吹上というものは、大変なものだと実感させられました。


●秋田油田

かっては有名だった、秋田油田を探して歩きました。

私の母は弘前の出身なので、私が子供の頃、奥羽本線で旅したことがありました。薄明るくなった夜行列車の窓から、これが秋田油田だと、水田の中に採油の やぐらが林立しているのを、物珍しく眺めた記憶があります。

今回は塀で囲まれた帝国石油の大きな事業場は見ました。また、油田と書かれたバス停も見ました。もっとも、これは「あぶらでん」と発音するのだそうです。

ともかく、残念ながら採油している場所には行き着けませんでした。

道路が狭いうえに車が多くて、後続の車にずるずる押し出されるような感じでした。そして民家が建て込んでいたので、油田など、もう昔の話になってしまっ たのだろうと、諦めてしまったのです。

日本書紀に、天智天皇の668年7月、越国から燃える土、燃える水が献上されたと記載されています。ここに出てくる越国は、秋田市黒川だということで す。油層が浅く、自噴していたのです。自然に流れ出た原油で川が黒かったから、この地名がついたといわれています。

新潟地方の油田が枯渇しかかったと懸念されていた1914年、ここ秋田の黒川で大量の噴油があり、俄に色めきたったようです。

ともかく、資源の乏しい日本としては、虎の子の油田でした。戦時中、米軍も目をつけて爆撃したぐらいです。

昭和30年代までは、企業ベースとして採油が行われていたのです。

いまでも数箇所、油を汲み上げる装置、リグが動いているのだそうです。

ごちゃごちゃと、人家で埋め尽くされた市街地を目にして、当たり前といえば当たり前ですが、油田とは、地面の下と地表面とを相互干渉なしに有効に使える ものだと面白く思いました。

この日はこのあと、秋田市内の久保田城と角館町の武家屋敷を見て帰りました。いずれも、今は観光地であります。

・紅葉せる並木の奧の天守閣

・桐一葉中級武士の屋敷跡


●和賀岳

3日目の朝は、寝坊してしまいました。

起きたのが6時、大慌てで食べて出たのが、6時50分でした。

真木渓谷に入る道がなかなか分からなくて、とうとうカーナビのお世話になりました。こうしてカーナビも、私たちグループの中でだんだん認知されてきたよ うに感じました。

8時10分、登山口である甘露水地点に車を置きました。ここの標高は375m、取っ付きは植林ですが、間もなく自然林に入ります。

ブナ台と名付けられたあたりには、とくに立派なブナが揃っていました。

10時36分薬師岳、(1270m)に着きました。ここまでが樹林の中の急登で、これから先は広々とした見晴らしの良い稜線歩きになるのです。私は鈍足 ですから、前の二人がここのお堂あたりで、何か食べたりしながら待っていてくれるかと思いました。

人影はありません。見はるかすと、大部、先を登っているのが見えました。

朝早く菓子パン1個を食べてから4時間半、もう、お腹が空いてきました。

帰りの車のところで、先行者を待たせることになるのですが、ご免蒙ってここで腰を下ろし、ゆっくり、ツナマヨネーズのお握りをいただきました。もう、完 全に単独行気分です。 11時57分、小鷲倉(1365m)というピークに着きました。一人の男性が降りてきました。私たちが駐車したときに、車が1台止まっていましたから、 先行者がいることは予想していました。

この日、和賀岳に登ったのは、この人と私たち3人、合計4人だけだったのです。

和賀岳は日本300名山のひとつです。良い山で、人が少なくて、まさに理想の山でありました。 その男性が「名古屋の大坪さんですね。お仲間の二人が先に行ってると伝えてくれとのことでした」と、声を掛けてくれました。

こんな当たり前のことを言われたのは、山で始めてでしたから、とても変な気持ちがしました。

山頂を済ませた2人とすれ違い、12時30分、一人だけの和賀岳山頂でした。東北地方のこのクラスの山では、稜線や山頂に高い木はありません。すっかり 展望を楽しませてもらいました。

ここでも、ゆっくり、こんどは梅干しのお握りを楽しみました。

下りは、そんなに苦しくないので、最初は、ほぼ3人固まって降っていました。

私は、自分が登ってきた山を見返るのが好きです。薬師岳の頭で、写真を撮ったり、諸ピークにお別れをいったり、ゆっくりしました。

2時間ほど降って、ブナ台に入りました。登り道で目をつけて置いた、ブナの巨木が群がっているところです。ブナの木の灰白色の滑らかな幹が、雪の重みで 曲げられカーブを画いています。それが斜面に並び、つい、人魚の群れを連想してしまいました。

私はもう夢中で、バチバチ写真を撮りながら、ゆっくり降ってゆきました。

すると、なんと、だいぶ先に降りていった男性が、まだウロウロしているのです。 「素晴らしいブナですね。こんな素晴らしいところは滅多にありませんよね」と、私が申しました。

その男性は「あんまり見事なので、降りられなくなっちゃったんです。この山は2度目なんですが、昔もこの道だったんでしょうか」といわれました。

彼はこの日、目の前に見ている天国に、過去に記憶がないほどの興奮を引き起こされたのでしょう。

この男性も、もうすっかり、ここ和賀岳のブナ林の黄葉に酔っておられました。

・天国は黄色なるべしぶなもみじ

車に着くと15時30分でした。登山口の甘露水という名の清水で、喉を潤しました。

甘露、甘露、山行から引退する日が、もう近いのを感じました。


●秋田駒ヶ岳

4日目は、まず秋田駒ヶ岳(1637m)に登りました。

8合目、標高約1300mまで舗装された道路が上がっていて、大きな駐車場があります。

昨日の和賀岳と比べると、同じ日本300名山のひとつですが、まったく対照的といってよいような観光地的な山です。

私たちは朝早かったので、まだ、ほかに人はきておらず、辛うじて救われた思いでした。 この山は、狭い範囲に噴火口が沢山ある複雑な地形の山で、最近では1970年にも360萬トンの溶岩を流し出した火山です。

ここは、サッと回って、次は岩手山の裾野に広がる「焼走り」へと向かいました。


●焼走り

焼走り(やけはしり)とは、1719年、いまから280年ほど前に、岩手山(2038m)の中腹、標高約1000mの地点から流れ出した溶岩流です。

巾約1kmの溶岩流が、長さ3kmほどにわたって押し出しています。

数ある日本の溶岩流の中で、ここだけが特別天然記念物の指定を受けています。

浅間山でも、220年ほど前の1783年、大噴火があり、火砕流や鬼押し出し溶岩流で、1000人以上死者が出ています。ここの焼走りも浅間の鬼押し出 しも真っ黒な安山岩で、コークスの様に多孔質でガサガサした岩です。岩手山の焼走りは浅間山の鬼押し出しとくらべると、上面がわりに平らで、こちらの溶 岩のほうが流動性が高かったのだと思われます。

よその溶岩と比べて、焼走り溶岩流の最大の特徴は、280年経った今でも木や草といった植生が入り込んでいないことだそうであります。遊歩道を歩いて溶 岩流に立入ってみると、確かに植生がほとんど目に付きませんでした。

ここにもボランティアの解説者がいました。そして、植生が進入しない理由は、保水力とか、酸性、アルカリ性とかの問題ではなくて、学者先生たちがいくら 調べても、いまだに理由が分かっていないと説明していました。


●徳丹城

旅の最後は、盛岡市から10kmほど南にある、矢巾町の徳丹城でした。

この城が造られた9世紀初頭は、城といっても戦闘用だけではなく、主目的はこの地方の住民や土地を、国家制度に取り入れるための行政施設でした。

たとえば、税の取り立てのため、戸籍その他事務執行にあたっていました。

徳丹城で、私がとくに面白いと感ずるのは、この城の盛衰です。

昨年訪ねた盛岡市内の志波城は、803年、坂上田村麻呂によって造られました。

数年後、志波城は廃され、その役目は約10km南の徳丹城に移されたのでした。

このときまでの200年ほど、大和政権の膨張政策が続いていました。

それが、この時期になって、中央政府内部で、国家が疲弊した原因は、領土を拡張するための休みない軍事活動と、大規模な首都建設工事にあるという議論が 俎上に上がっていたようなのです。

志波城の敷地が、雫石川の洪水で削られたこともあって、811年、志波城の柱などを移設し、当時の城としては並はずれて小さな徳丹城を建てたのでした。

国全体として、この時期に、辺境の地を教条的に国家に組み入れるのではなくて、地方の自治を大幅に認め、ゆるい結合にするよう政策変更したのでした。 そんな運命に遭った徳丹城も、3〜40年後には閉鎖されました。徳丹城が処理していた業務は、もっと南方の水沢にあった胆沢城に吸収されたようでありま す。

今を去る1200年前の、構造改革、公共投資の削減、不採算出張所の閉鎖といったところでしょうか。

ここは、昭和44年、国の史跡として指定されました。それから土地の買い上げによる公有化が進められています。約30年経った今、指定面積16萬平方 メートルの40%弱が公有地になっています。

現在はまだ、遺跡の柱の跡に短い杭を立てただけで、普通の人の関心を引くことが出来ない状態です。

段々には、志波城のように建物や塀などが復元され、多くの人の興味を惹きつけることになるのでしょう。 史跡は、ただの見せ物としてではなくて、それが語りかける歴史から、過去に人間がどんなことをしてきたかを学び、それを将来に活かすようになれば、人類 は進歩するのだといえましょう。

17時過ぎに盛岡を発ち、その日のうちに名古屋の自宅に帰り着きました。 まことに、新幹線って有り難いものです。

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