題名:ア ラ ウ ン ド 雲 の 平

(62,9,12〜15)

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日付:1998/2/5


 昭和62年九月中旬,南方洋上には13,14,15号と三つの台風が並んでいた。そしてそれらが送ってくる湿った風が,日本中に雨を降らせていた。「どれか一つぐらいは来るに違いない」と誰もが言っていた。こんな状況の中で,山へ行こうか行くまいかと,しばらく判断に苦しんだ。

 そうこうするうちに一番西にいた14号が中国大陸に動き始めた。そして,いっとき雨の気配が薄くなってきた。こうなれば次の13号が,また後の雨の供給源になって向かって来る前の一日か二日は,なんとか天気は持つのではないかと私は判断した。そしてその天気のよい日が,今回の山行の一番行程のきつい日に当たって呉れればいいがなと言うのが,偽らぬ気持ちであった。

 同じ日に別の山へ入ることにしている,うちの会社の別のパーテイに様子を聞いて見ると,やっぱり決行すると言っている。それも参考にして,私達も,ともかくも行動を起こすこととした。

 タクシーが登山口,折立へ近づくと,運転手は「今までは極楽だったけれども,いよいよ地獄が始まるね」と言う。その言葉のとおり,いきなり急な登りが始まった。久し振りの山なので,ついついペースが早くなり息が弾む。しかし三角点を越すと道はゆるい大らかな登りに変わる。ガスが濃くなったり薄れたりする中をじくじくと登っていった。

 歩き始めが14時,小屋まで5時間の登りとして19時着,九月中旬の雨もよいの日とあっては,もう暗くなってくるかもしれないとは覚悟していた。

 脂身という相当のウエイトを背負っている私は,登りのスピードが遅いことには定評がある。しかし,その私がゆっくりゆっくり登ったのにどうしたことか,四時間で太郎小屋に着いてしまった。懐中電灯の御世話にならずにすんだのも有難いことだが,それよりなによりも,マイペースでゆっくり歩いてもコースタイムを切って行けるんだという自信が無上の収穫であった。結局の所,この自信に支えられて今回の長い山旅を達成できたのだと思う。

 九月十三日,六時,小屋の前で写真を撮り合う。曇ってはいるが,結構遠くの山まで見える。やがて,ゆっくりしたペースで太郎山へ登ってゆく。西の方,白山の方角に薄黒い色の足を持った雲が見えている。その足の名を雨脚と言う。その雲は北でも無く南でもなく,まさにわれわれを目指してやって来るのである。全員雨がくるなと思いながらも,言ってみても他人を不安にさせるだけで仕方のないことだからと,ただ黙って歩いてゆく。とうとう来た,「当たって来たね」とひとりが言う。やがてついに我慢できない降りとなり,雨支度を強いられる。

口切れば雨降り来ると秋の山

  黒部五郎岳の肩に荷物を置き,頂上には空身で往復する。肩で昼食。あと巨大なカールの中を小屋まで辿る。上から見た時はほんの一寸の歩きと思ったこの道が意外に長い。しかも結構な傾斜である。カールの底に降り立つと美しいせせらぎに出会う。ここでまた現世の天国に会えたなと,一緒に来なかった,そして連れて来たかった人逹のことを思う。 

・圈谷の底にリンドウ瞬けり

  歩き始めてからもう八時間になる。しかし,われわれは三俣小屋への巻き道など見向きもせずに,ひたすら三俣蓮華岳の頂上を目指す。これは決して我々に体力の余裕があるためではない,ただ熟年のパーテイであるだけに貪欲なのである。一旦逃したら,ふたたびのチャンスが容易に現れるとは思えないのだから。

 天も憐れみ賜うたのか,頂上に立った時は素晴らしい天気に恵まれた。穂高が槍が,そして明かるく強い西日に硫黄尾根が赤々と映えている。

 ・秋の日にあますことなき槍が岳

  御承知のとおり三俣の小屋はあまり立派ではない。そして,満員の二階に適当に割り込めなどと言われる。そこのところを,わがパーテイの名渉外係がうまく小屋の親父を説き伏せて,いい場所を確保してくれた。さっそく宴会を開く。

 翌日は,今回の山旅のメインイベントである読売新道経由の水晶,赤牛から黒部までの十一時間を超す道のりが控えている。今日までの二日間の旅で,ほぼ自信はあるものの,やはり私の心は落ち着かなかった。

 われわれの体力や天候の条件により,もしも計画の変更を強いられるのならば,水晶岳がその意志決定をなすべき地点であろうと考えた。九時に水晶岳,と私は踏んだ。もし,それよりもひどく遅れるようであれば,裏銀座を野口五郎へとろう。そんなことを考えながら夢路を辿った。

 ・山小屋に明日の難行おもいいる

  朝飯も食べずに明るくなるとすぐに小屋を出た。鷲羽岳の急な登りにかかる。天気は相変わらず素晴らしい。

 ・目覚めにはこよなき色よ岩桔梗

  水晶からは踏み跡がすっかり薄くなった。こんにちの北アルプスでありながら,このあと八時間の間に擦れ違ったのは,途中の温泉小屋からあがってきた,たったの二パーテイのみと言う静かな山旅であった。

 昨日遠くから見ていた時には,ほんのちょい登りだろうと見当をつけていた赤牛の前のピークには意外にしょっぱい目にあわされた。でも,その道の辺の巨石に,なんと「がんばれ巨人」と大書してあるのに,さすが読売新道だけのことはあるわいと気持ちをほぐされる思いを得た。。

 このあと赤っぽい風化した花岡岩の砂から成る牛の背に似た稜線の道を辿ると,赤牛の頂上に着く,ときに十二時五十分。

 ・熱砂踏み秋の日を背に赤牛岳

  そろそろ持参の飲み水が心細くなってきた。乾ききった喉には,どんな食べ物も受け付けられ難くなってくる。それにしてもなんと長い下り道であることよ。ただひたすらに下る。左下に黒部の谷があるのは分かっているのだが,いつまでもクロスしないで平行に続く。その上,いい加減下った所からぼつぼつと悪場が出現してくる。約十メートルもある一枚岩に木の根が絡んだ所のヘツリや,しょっちゅう崩れて状態が変わっていると思われる,風化の進んだナイフエッジなどがそれである。

 同行の足に故障があるらしい一人には酷いとは思ったけれども,最後のワンピッチは採るべき休みもとらずに先を急いだ。もしも暗くなったら,電池を点けてもとっても歩ける道ではないからである。テンダーハートの私もたまには鬼になるのだ。そして本当の話,いったん休むと次の歩き出しの辛さは大変なものであることも合わせて考えていた。暗くなる少し前,やっと奥黒部ヒュッテに飛び込んだ。風呂があった。感激だった。

 ・暮れ染めて最後の歩み山小屋へ

  平の渡まで五十二階段があると言う。五十二段ではない。短いのもあるが,随分長いのも混ぜて木製の梯子の登り下りがいやというほどある。このあたりの状況は,道と言うものに対する,この辺りを生活の場としている人々の常識のせいではないかしらという気がしてくる。つまり,黒部の人達は,こういう苦しかったり危なかったりするのを,道だと思っているのに違いなかろうと言いたいのである。

 とは言うものの,今日はもう歩いていさえすれば里へ出られる気楽さがある。ただ美しい黒部の流れの移り変わりを,ひたすら楽しもう。緑色に透き通った水と,この明るく白い岩の組み合わせの織りなす目の前の絶景を,はたして何に例えたものだろうか。

 ・青く澱み白く岩噛む秋の水

 

 辿り着いた黒部ダムは,この年の異常渇水で,観光船の運行が中止になる程水位が下がっていた。我々は観光は程々にして,予定より一本前の便を捕まえようと息せききって地下駅に急いだ。ひんやりとした岩肌の冷気がほてった体に快かった。

 一気にトンネルを駆け抜けた扇沢のトロリーバスの駅は,相変わらず観光客の人の波であった。

 その市井の人達の人波の中で,私たちの長かった山旅もついに終わったのだという感慨にひたっていた。いつもの山旅の終わりのように,一種の優越感と汗の臭気との中で。

                                    おわり

 

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