題名:朝日・飯豊の旅

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日付:1998/2/5


 92年のお盆の休みに, 朝日・飯豊と登ってきた。この二つは日本百名山の中でも, ただのピークハントだけで済ますのには引っ掛かるものがあって,何時の日にかゆっくり縦走したいと思っていた連峰であった。

 しかしもはや今は,自分の山の活動の残りのことを考える時期となった。縦走する場合の体力やパートナーのことを考えると, すでに縦走のチャンスは無くなっているとしか思えない。

 たまたま現在, 第二の勤めが工場勤務で, お盆に長期休暇がある。これを使って懸案の二つの大きな連峰の代表峰だけを盗み取ってきたという感じだ。少々後ろめたいものがある。しかし,時間は決して待ってはくれない。許してほしいと思う。

 車で廻って来た。この山の公共の交通機関はもちろん不便,例えば朝日鉱泉までのバスはシーズンでも一日2本とか。陸奥に遠征し山の数を稼ぐにはマイカーしかない。

 高速料金だけで2万4千円,走行距離1800キロメートルと,経費に占める率は旅費が殆どであるから,一人では高くつく。同じ体力,同じ休暇時期の友が得られるうちにトライするのが賢明である。

 

今日若者少女に山の名を教ふ

 

・宿の予約

 私の山旅の計画は,いつも確実性がない。なにか会社で事件が起これば,立ち所に実行は取消である。そして,事件はいつも起こりそうに思えるのである。そんなことで,いつも本気にならないままに時が来てしまい,実際には止めるようなことが起こらないままに,なんとなく行くことになってしまうのである。

 どんな旅でも行こうと思った時の手順としては,まず予約する,予定が狂ったら取り消すというのが世の常道である。宿のほうだってそのつもりで予約を余分に受付け,二重予約になったら旅館同士で融通するのだとも聞く。ところがどうも,私にはその常識がすっきりそうとは割り切れない。なにか一度申し込んでおいて断るのが気の毒に思える。そして,そのほかにも一人で泊めてほしいと申し込んだ時,あんまり歓迎されないし,その理由も満更分からない訳でもないので,余計に予約するのが億劫なのである。

 夕方,村に着く。民宿が何軒もあるとする。どこに声を掛けて宿泊を交渉しても良かろうとは思うが,それよりは山屋たちが車中で仮寝しているところへ行って,仲間に入れてもらうほうが気が楽なのである。

 今度の東北山行も,準備不足のエイヤッであった。行きは千葉の娘の所に寄ったせいもあって高速道路山形道の最後のパーキングに着いたのが23 時,そこで仮泊した。寝る時は横にワンボックスが一台いるだけだったが,朝には数台に増えていた。トイレもあるし,自動販売機もあるし,とくに悪人に出会わなければ快適な泊地である。

 飯豊の時は身から出た錆の情報不足だった。全く地図だけを頼りに入っていった。JRの山都の駅の前の看板で入り口の見当をつけて夜の道を山へ入っていった。最後の部落の道の広いところで仮泊を考えた。車を止めてみると,丁度お盆のこと,川の向かいのお宮から太鼓の音がどんどんと聞こえてきた。まだまだ世間の人の寝る時間ではない,村の若者に一杯気分でイチャモンでもつけられたら敵わない。ここでの仮泊は諦めた。

 最後の人家は川入,民宿が数軒ある。泊りを頼むには遅すぎる。家々の間の道は狭くとても車は置けない。そこから先の道は,何か心細げに見える。こんな有名な山の登り口に駐車場がないとはと不審には思うが仕方ない。引き返し道の広いところに一旦車を止めた。そこは墓地の入り口である。丁度今夜は 8月15日,父親と息子が送り火だか迎え火だかを焚いている。なんか女の人の魂がいるようで気が進まない。結局,500 mほど下流で仮泊することとした。要するに人間恋しさはあるものの,悪人恐さもあるのである。

 虫の多いところだった。窓を全部閉めて寝たので始めは暑かった。会社の会議で愚痴をこぼしている夢など見ていた。

 眠りが浅くなったとき,水筒がひとりでごとんと倒れた。すっと寒いものが体を走った。全身の毛が逆立った。いよいよ出た,というわけではない。もう夜は白らみ始めていた。4時半だ。寝過ぎたのだった。

 歩き始めると車が上がって来た。その人は地図を見ていて,昨夜私が怪しげと見た道にどんどん入って行く。さてはと引き返し車を進めると,相当奥まで車が入り,そこには予想の通り,約百台とも思われる山屋たちの車が夜を過ごし,彼らの大多数は既に山に入っているのであった。

 事前に役場に電話一本入れて尋ねていればどうと言うことはない話である。情報の不足である。しかし,そのために人生に余分のスリルが生まれたりする。

 人間は長い間,生霊や死霊を恐れてきた。いま高度情報化社会となって,子供たちは昔ほど,お化けを信じなくなってきたのではないか。だが人間の本質は変わらない。鉄道が引かれ駅が出来ると,町が淋れると嫌われたこともあった。今でも恐るべきものを恐れず,恐れなくてもよいことを恐れる過ちを,人間たちは犯しているのかもしれない。

 

花火する親子に道を尋ねけり

 

・お盆の頃の山の暑さ

 上高地,中房など日本アルプスの登山口は,標高が1500mぐらいのところが多い。朝日も飯豊も登山口の標高は約500mである。したがってお盆の休みを利用しての登山では,暑さを覚悟しなければならない。

 暑いと汗が出る。汗は蒸発してこそ,その気化熱で体温を下げる効果がある。ところが往々にして,風がないとか湿度が高いなどの理由で汗が蒸発せず,体は体温を下げよう下げようとして,きりなく汗を分泌し続ける。いわゆる玉の汗が流れるのである。このような時は,その状態は自分よりも他人を見ているとよく分かる。

 このような状態で発熱を続けると,そう滅多なことがある訳ではないが,体温が異常に上昇する可能性はある,つまり熱射病である。私はそれを考えるので,体温を下げることを意識して時々休んでいる。

 汗が流下する状態では,はっきりと水分補給の必要性がわかる。しかし,蒸発がうまく働いている状態でも,ちゃんと汗は出ているのである。湿度の低い場合は,呼吸により体の外に出てゆく水分も多くなる。当然登山中はいつでも水分の補給が必要である。

 体の水分要求度は,喉の渇きをセンサーとしている。しかしこれは不思議なセンサーである。たとえば水を飲まず体の中の水分量が変わらなくても,周囲の気温が下がれば喉の渇きの感じは確実に低下してしまう。

 山に登っていて,極端に喉の乾いた時に飲む水の美味さは, 言葉ではとても言い尽くせない。たんなる水の味が, どんな美酒よりも優れていることは,山屋でなくては知らないだろう。

 最近,この年になって始めて水の美味い飲み方を体系的に考えてみたので紹介して見よう。

 空腹は最高のコックという直訳の諺を中学で習った。同様にまず体を渇きの状態におくことが水を美味く飲むための大前提である。そしてその条件を完璧に作り出すのが山登りなのである。ゴルフとビールの関係にそれを説く人は多いが,程度は全然違う。谷深ければ山高しである。

 水の美味さは,味そのものにもあるが,山の泉の場合は,その神髄は冷たさにあるるのだと思う。いかに喉に冷たさを伝えるかがポイントである。

 それには喉を通過する水のスピードを上げることと,継続時間を長くすることで達成される。そして,基本的にいつまでも脱水症状をキープするため,水を少量しか体に入れないことだ。それでは具体的にどうすればいいのか。

 少なくとも一分は息を止めて飲めるよう,まず息を整える。次に舌と上顎の間の通路を舌で絞り,60CCを一分で飲むぐらいのペースとする。喉はごくんごくんといわせ,一番快く感ずる所に水を通す。ごくんの回数が増えれば,それだけ美味しく感ずる。そして息の続く限り細く長く速く水を流し続ける。唇を絞って水に浸し,空気を吸い込まないようにするのも大切だ。空気を吸い込むと途端に喉の温度が上がってしまう。また,目をつぶって,谷の最上流の透き通ったせせらぎを思い浮かべるのも有効な手段だ。

 昔,ローマ人は,美食のため,一旦食べたものを吐き出して空腹状態を作ったというがそれは不健全だ。我々はオーソドックスに歩いて,汗を出し,渇きをこらえよう。

 

山小屋に来て仲の良き夫婦あり

 

・ここはアルプスではない。

 情報が少ないというコンプレックスを抱えながら,ガスの中を大朝日へと登って行く。先程からずっと一人の山である。ふっと霧の中から右下方にテントがちらっと見える。五万の地図では小屋はピークの北,テントの見えたこの位置である。雪渓のすぐ近くで,水が豊富で小屋の場所として最適な場所に見える。そして,なにか整地した跡が見える。そしてビニールのシートをかけたものが積んである。

 不安のままに,なにかの記事で小屋が工事中で泊まれずに苦労したという話を読んだことが思い出された。正直のところかなりハットした。もう日暮れまで1時間半,下の鳥原小屋まではもう引き返せない。ビバークかと観念した。

 手段としては, ひとつはテント場まで行って,だれかにテントに入れて貰うよう頼むか,入れて貰えないまでも,近くでビバークして緊急時の助力を期待するか,それとも下がれるところまで下がって木の下で夜を過ごすかと考えた。

 真夏の1600m,着替えのほかにヤッケもゴアもあるし,生命の心配はまったくなかったが,暗くなってから朝に動けるまで退屈だろうなというのが心配であった。

 ともかくテント場に賭けて霧の中をトラバースして行くと,もう一段高いところかあり霧の中から不意に小屋が現れた。心からほっとした。位置は確かにピークの北だが,水場からは随分離れた高いところに小屋は建っていたのである。

 小屋の管理人は,外へ出る前に自分の寝るところを確保しておけという。私がリュックを置くと,様子を見ていた彼は寝袋を持って来なかったのかと咎めた。「寝袋ぐらい持って歩け。ここはアルプスじゃないんだからな」とけんつくを食わせてきた。こういう人は根は親切で,ちゃんと毛布を貸してくれた。食事は勿論なし。管理費1000円で一夜を過ごさせてもらえた。

 ついでに言えば,次の飯豊の切合小屋の夜には毛布のことには触れずに,着のみ着のままで眠った。多少寒かったが気になる程ではなかった。

 この小屋では,一泊二食の料金が米を持って来ない人は1000円アップの6000円ということであった。「米持参」とは,まさにここはアルプスじゃないなと感じ入った。いやそれどころか,今の日本みたいじゃない。山に入っている人も少ない。植林も目に入らない。いまや稀少価値のある山群だとつくづく嬉しく思った。

 

なにゆえに松虫草の色の濃さ

 

・虻のこと

 通称虻のうち,黄色で細長いのと,蠅を大きくしたようなのとの二種類に山で出会う。 黄色のは物凄いスピードで人の回りを飛び廻る。めったに人には食いつかないと思う。今回も一回だけ,右の肩が痛いと思って叩くと彼氏がばたんと地に落ちた。なにか縄張りでもあるのか,一匹が人を脅し廻っても,こちらが歩いているうちにどこかへ行ってしまい,次のが引き継ぐように思われる。

 後者の蠅の大きいようなのが,嫌われ者の虻であろうと思う。

 前の世界大戦のとき,日本の爆撃機にアメリカの戦闘機が虻のように真っ黒に群れてたかってくると報道されたものだ。山でこの虻にたかられていると,全く前述の記事の通りで,昔は虻にたかられる経験が国民にぴんと来ていたんだなと思われる。

 連中は川筋に住んでいる。山から下りてきて,水の匂いがすると,とたんに手になにかが当たった感じがする。それが攻撃の前触れである。

 その時には,もう何匹かが体のどこかにしがみ付いている。彼らは人にしがみ付いて血を吸う以外のことは何も考えない。相手が叩くとか,叩かれると痛いとか死ぬとか,そういうことは一切考えない。虻と合い打ちする気になれば,何百匹でも容易に殺せる。絶対に逃げないので,一打ち3匹ぐらいは何時でも殺せる。そして何匹殺しても次から次へと無限に出てくる。       理性ある人間は,こういう単細胞で無限な相手に対応するのに馴れていないとつくづく思う。

 今度のような大規模な攻撃を受けたのは,私にとって二度目の経験であった。昔,姫川筋の風吹岳から下りて来た時に付纏われたことがあった。橋の上の風の強い所だけが,休息の場所で,あとは手振り足振りで防戦しながら下山し,しかもその後の数日間をかゆさに悩まされたのであった。

 山から下りてきて,川でシャツを洗い,体をふいて,濡れたままのシャツを着て乾かしながら歩くのが私の山納めの儀式である。それを皆が見て,濡れても寒くないオーロンのシャツが山岳部で流行したぐらいなのである。ああそれなのに,今回の山旅の終わりが, この虻たちのせいで,息せき切って泥靴のまま車に飛び込み窓を全部開けてつっ走ることしか対抗策がなかったのである。

 こうして里へ出ると,川で子供たちが水浴びをしていた。早速そこへ加わり洗濯を始めた。すると腹にちくりと来た。数はうんと少ないが虻達はちゃんとここにもいるのである。叩けばすぐに死んで流れて行く。何も考えないのだから,無表情のままで。

 田舎の人たちが,虻と共生していることを,都会の自然主義者たちは知っているのだろうか。知ったらなんと言うのだろうか。そうして本人たちはどう対応するのだろうか。自然が一杯で素敵ですねと虻に自分の血液を提供することはあるまい。むしろ眉を吊り上げて,虻の絶滅に力を貸すと思う。

 シェークスピァはハムレットに「天と地の間にはお前の知識以上のものがある」と言わせている。

 

外に知ることなきごとく虻襲う

 

・ひとり旅

 朝日岳の下山には御影森山ルートをとった。この日,このルートをとったのは多分私一人だっただろうと思う。そんな山域なのである。泥に残った足跡はあるので,一日1〜2パーテイが入る程度と思われる。

 大朝日山頂はガス,こういう日に未知の,人のあまり使わないルートに入るのは何となく気が重いものである。最初のポイントの平岩山へコースタイムは30分とあるが,私は1時間近くかかってしまった。まず不安になる。

 そのうちに霧が晴れ,大朝日が羽を広げた鷲のような英姿を見せる。ルートは矮性のブナのトンネルの下の涼しい天国のような小道となる。コースタイムは全く信用できないが,御陰で体調はよい。刈り払いの小父さんたちに「早いね」と声を掛けられすっかり,気を良くしてしまう。自分の気持ちの変化の他愛なさを面白く観察する。

 昨日,遠くから見ているときに一番気に掛かっていた御影森山の前のキレットの深さが,思いもかけず浅かったので助かった。ここの頂上もいま一つの天国だった。手帳に句を書きこむ私の手に,恐れることを知らぬアキアカネが止まった。昨日苦闘した鳥原,小朝日,大朝日,そして明日登る飯豊の山容を飽くことなく眺め続けた。

 私の平生を知る人は不審に思うかもしれないが,一人の時,私は意外に小食である。菓子パン2口を水筒の水で流し込み歩き出すといったようにして,一日にパン3個で済ませたりする。

 こうして,あとは水だけの補給で一日歩いていると,夕方には血液はかなり薄くなっているのだと思う。それを夜の間に体のストックを動員して,朝までに正常値に修復させるのだ。日頃は,お前のせいで醜いのだと全身から冷たい目で見られている腹の回りの脂肪も,この時だけは頼りにされる。たまには脂肪にだっていい目に遇わせてやらなくては気の毒というものだ。当然,その持ち主の御主人だって「よくも赤提灯に通って飲み食いして下さった」と感謝されている気分になれる。

 下山して車で飯豊の麓まで移動した。途中荒砥という小さな町の強く冷房の効いたスーパーに入り,胡瓜など買いながら,ほてった体を冷やした。米沢では上杉謙信以来の殿様の御廟所へ立寄った。本通りから一本奥に入ると,まだ藁屋が残っていて昔を濃く残した一角だった。

 喜多方市に入ると,やたらとラーメン屋の看板が目に入った。ところがいざ入ろうとすると,お盆のせいで休みばかりであった。たまたま開いていた店で食べて出ると,観光客のお姉様から「この店,おいしい?」と声を掛けられた。「僕,なにを食べても美味しいから」と逃げたが,後でそのやりとりを娘に話すと「それが一番知りたいことだもんね。私もオバタリアンになったらそうしよう」と言っていた。

 なにもかにも,ひとり旅の気楽さであった。

 

山頂は蠅の羽音のあるばかり

 

                                 おわり

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