題名:アテルイの涙

(東北の山と遺跡 2002/10/29〜11/2)

重遠の入り口に戻る

日付:2000/8/15


いつものように、名鉄バスセンター発21時30分、仙台着7時30分の夜行バス「青葉号」に乗り込みました。
仙台駅で朝飯をすませ、新幹線で盛岡に入り、レンタカーの車上の人となりました。
今回、登る予定をしていたピークは、秋田駒ヶ岳、和賀岳、乳頭山、姫神山、五葉山でした。いずれも、日本300名山に撰ばれている山々です。

今年の夏は、暑い夏でした。ところが、出発の4〜5日前から、秋を通り越して、一足飛びに冬の気候になっていたのでした。
計画した山のうち大きな山では、積雪のため登山口まで車で入ることができませんでした。でも、折角の機会ですから、代わりにいろいろ見て回りました。

そんなわけで今回は、登山、文学、歴史と3分野に分けて書いてみます。

登山  姫神山、五葉山
文学  石川啄木記念館、石坂洋次郎記念館
歴史  秋田県埋蔵資料センター、払田柵、金沢城、横手城、小町塚、
    胆沢城、志波城

?姫神山そして五葉山
・姫神山
盛岡市から一路、国道4号線を北上し、玉山村で東へ外れ、姫神山登山口まで1時間少々のドライブでした。登山口には、水量豊富な湧き水があります。
よく踏まれた広い登山道をジクジクと登ってゆきました。
父の故郷は盛岡です。盛岡市から北西に岩手山(2041m)が大きく見えます。この山は右側が火山に特有な円錐形の斜面になっています。左側は、鬼ヶ城などの岩頭が続いています。この様子を「南部の片富士」と呼びます。
市の北方、少し東寄りに、優美な円錐形の山が見えます。姫神山(1124m)です。
従兄弟たちは、姫神山は登山扱いしていませんでした。「時期になるとスズラン採りの列車が出るよ」など言って、ハイキング扱いにされていました。

10年ほど前、日本100名山のひとつとして、岩手山には登りました。
そして、今日、とうとう姫神山に登る日がきているのです。

5合目で尾根に取り付きます。ここからは雪道になりました。
ドーンと雷の音がしました。はじめは冬季雷がきたかと思い、暗い気持ちになったのでした。
この日は曇りで、西に位置する岩手山は裾野だけ見せていました。予報によれば、もう寒冷前線は太平洋に抜けた時間でした。
冬季雷は寒冷前線の前面に発生し、移動速度が速く、一発雷で終わることが多いのを知っていました。
ところがドーンという音は、何回も聞こえるのです。そこにいたって、それが、岩手山山麓にある陸上自衛隊の大砲の試射だろうと思われ、気分が明るくなったのでした。
やがて、上から長靴をはいたおじさんが下ってきました。しばらく話しましたが、おじさんは、もう、百回以上もこの山に登っていると言っていました。
そのうち、若い青年がひとり、ぐいぐい追い抜いてゆきました。
あと、われわれの下山中に、女性の二人組とすれ違いました。この日、この山の登山者は、それだけでした。

頂上手前、約200m辺りで林を抜け、大きな岩が累々と重なった登りになりました。
姫神山は遠くから見ていると、なだらかな円錐形の山容ですから、私には、この時ぶつかった山頂の様子は意外に思われました。雪がなければ、なんといったことはないのでしょうが、雪がかぶっていたので、かなりの難行苦行を強いられました。
さいわい、雪に足跡が付いているので、迷うことはありませんが、ぴょんと飛ぶと、雪がついていて滑りやすいのです。用心して、岩の間に足を降ろすと、雪の下どれぐらいに岩の面があるのか、予想がつきません。思いがけなく、ずぼっと落ち込んだりします。
岩を掴んでずり上がります。こうして軍手が濡れてしまい、痛いほど冷たいと思っているうちに、指の感覚がなくなってしまいました。
何年か前、正月に上高地から蝶が岳に登ったとき以来のことです。
ストックを右手、左手と持ち替えては、空いている方の手を脇の下に入れて暖めていました。
寒い頂上でした。まるで領収書でも受け取るかのように、そそくさと写真を撮りすぐ下山してしまいました。

・五葉山
2日目は、大船渡市の北にある五葉山(1341m)に登りにゆきました。
今回の旅では、宿は3泊とも田沢湖湖畔にとっていました。全部の山を睨んだときには適当な位置だったのです。でも、五葉山は、北上山地の南端にあるため、4時間弱のドライブが必要でした。
登山口、赤坂峠には地元のデイサービスのマイクロ・バスが止まり、ご老人たちがユックリと乗り降りしておられました。平日でしたから、若い人たちはいません。もしも若者がいたら、私のことを「ご老人がユックリ・・」と、書きもしたことでしょう。デイサービスのご一行は、この標高700mの峠から、海を眺めに来られた様子でした。
標高1300mを越すこの山は、太平洋岸から僅か12kmほどの距離にあるのです。
登山路は広く緩く、東海自然歩道でも歩いているような、心安らかな気分で歩けます。
なんといっても、シャクナゲの木が目立ちます。時期が初冬ですから、花はありません。葉の裏に、短毛が目立ちませんから、多分、花が白いハクサンシャクナゲ系のシャクナゲだろうと思います。
すっかり葉を落とした、シラカバやミズナラの純林の中の明るい道が素敵でした。
山頂は、準平原というのでしょうか、平らで広く、高い木もなく、まさに360度遠くまで見通せました。北方には、真っ白な早池峰山、やや遠くに岩手山がボーッと眺められました。
もう、二度と来ることはありませんから、海側の崖まで行ってみました。少し下がると、風が弱いせいでしょうか、ツゲの純林、コメツガの純林があり、そこを抜けると奇岩累々としたコブがありました。
南には、出入りの激しい海岸線が望まれます。大船渡の街も見えていました。
抜けるような青空、果ては霞に溶け込んでいる太平洋、白く大きい山々、足下には輝く雪、こんな日に恵まれると、今年の秋は、このひと日だけで、もう大満足という気分になってしまうのです。

・しゃくなげの葉を巻き早も冬に入る

?啄木そして洋次郎
・石川啄木
姫神山から下山してきた玉山村は、旧・渋民村であります。
歌人石川啄木が生まれ育った地です。啄木記念館があります。
やはりこうして実地にきて、時間を割いてじっくり見ると、いままで忙しげに斜めに見てきていたのと違って、改めて感ずることが多いのです。
啄木は、わずか26年の人生を、あっちこっちで問題を起こし、大勢の文壇有名人たちに接し、多くのファンに愛される短歌を残し、アットいう間に駆け抜けて行ってしまったのです。
私たちが入館したとき、ほかにはお客は女性一人でした。彼女は、啄木に心酔していて、記念館の案内人さんに解説を求め、そのひとつひとつに感動の言葉を漏らしていました。
こんな、見学者でしたら、案内する方も大いに、やり甲斐があるというものでしょう。
私だって、少なくともここで展示を見ている間は、大いに尊敬の念を持って見て歩いていました。
でも、私なんどは、啄木は行く先々で問題を起こし、他人に寄りかかり、周りの人たちとっては、さぞお世話が大変な存在だっただろうと思っていました。
そのうえ、「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」という歌を見ては、日本海を東海と言い換えるようにと主張するお隣の国を詠んだ「東海の小島にされる日本国」という川柳を思い浮かべたり、我ながら素直でない男だなあと思ったことでした。

記念館の隣に、啄木が代用教員をしていた村立渋民尋常小学校と、下宿していた家とがが移設してあります。どちらも、太く厚い材木をふんだんに使った建物です。民家では、同じ屋根の下に、馬も人間と同居するようになっていました。
学校も住居も、暗くて、寒々として、その頃の日本人の寿命が短かったのが肯けるような建物です。今の日本人が、こういう所で一年ほど生活体験をすれば、エアコンが欲しい、アルミサッシの綺麗な部屋にしたい、というような生活レベル向上心が頭を持ち上げるに違いないと思いました。それらの欲求は、総て自然環境の破壊拡大に依って叶えられるものなのですが。
近くに啄木公園があります。
「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」
その公園からは岩手山が大きく見え、足下には北上川がゆったりと弧を描いていました。

・石坂洋次郎
真ん中の日には、秋田県南部を走り回りました。
横手市で、石坂洋次郎記念館を訪ねました。
雨のウイィークデイ、お客は私たちだけでした。
石坂洋次郎は横手市の中学校で、教師をしていました。作家になってからも、教師時代のことを、よく題材にしています。
洋次郎は青森県弘前市の生まれです。同じ弘前の生まれで年格好も同じ私の伯父は、洋次郎は友人だと言っていました。
私も夜の巷のカラオケでは、「青い山脈」など歌わせてもらったりしています。こうして、まったく石坂先生と縁がないわけではなかったのです。それなのに実は、彼の作品は今まで読んだことがありませんでした。
記念館で略歴を読み、資料を見て回り、ビデオを見せてもらい、さて帰ろうとすると、「最初のヒット作“麦死なず”当記念館だけの限定販売」という張り紙が目に入りました。
これをご縁に、洋次郎先生の小説も読んでみるかなと、ふっと財布に手が行ったのです。
文庫本ですから、高価でないのに安心して手を出したと邪推されるでしょうか。もちろん、そうじゃありません。軽くて小さくて、旅先で求めても荷物にならないからです。
そういうわけで、彼の小説を生まれて始めて読んでみました。
全体に、なかなか面白く読ませてくれたと思います。そしてなにより、戦前のある時代、共産主義にカブレ、共産党活動に参加した妻や、それをめぐる若い男たちを、始めは理想として暖かく、後には現実に触れ冷たく見ている記録を、今の時代と思い合わせて、読んで良かったと思いました。
共産主義社会は、20世紀末、情報公開と言論の自由との中で、日に当たった雪だるまのように、消えてしまいました。約100年の命だったといえましょう。
21世紀の現在、人々をカブレさせる共産主義のような対象は、もうなくなってしまったのでしょうか。それともカブレるような若者がいなくなってしまったのでしょうか。あなたは、どう、お考えですか。
その主義なり思想なりの寿命が100年あるとすれば、人の一生のうちには結末まで見ることができないかもしれません。しかし、仮面を剥がし、クールな目で見ることは、面白いことでもあり、また、その問題点を世の中に問いかけるのは、それをできる人の義務のようにも思うのです。

?秋田県の遺跡巡り
今回は払田柵(ほったのさく)と、金沢城を訪ねました。
秋田県埋蔵資料センターの向かい側に、一部復元されている払田柵は、最初801年に造成されました。その年代は、ここで使われた材木の年輪のパターンから判明したものであります。その後この城柵は、150年ほどの間に、4回立て直されて使用されたもののようです。
東西1380m、南北780mほどの楕円形の範囲を、木の柵で巡らした、行政、軍事の中心になった城柵であります。
柵に使われていたのは、鉄道の枕木より大きなサイズで、太さ30cmX25cm、高さ3,6m、杉の角材で、それを密着させ立てたもので、板塀のように見えたと考える人もいます。
小高い丘の上に建てられた大きな建物の柱の跡や、幅12mもあるメインストリートが発掘によって確かめられました。
このような点で、多賀城などと同じ、この時代に置かれた城柵であることは、確実であります。
それなのに、この城柵は続日本紀に記載されていないのです。
 発見されたのは昭和5年、地元の人が水田に木の杭が連続しているのに気づき、発掘に入ったのです。
城柵の実体があったのは間違いありません。すると続日本紀がおかしいのでしょうか。私には、そんなことは考えられません。
一方、続日本紀に記載されていながら、遺跡が見つかっていない城柵が、幾つかあります。してみれば、それらのうちのどれかが、払田柵にあったっていると解釈するのが、常識的、素人的であります。
いろいろの点から、払田柵は続日本紀に出ている小勝(おかち)城に当たるという説が有力であるとのことであります。
でも、現在の雄勝(おがち)町とは、約40kmも離れています。
学者の方たちは、ものごとをきっちりお考えになるので、イマイチ断言できないのでしょう。
ところで、今から100年ほど前には、名古屋の田代村は、現在、地下鉄の覚王山、本山、東山公園と駅が三つもある広い地域だったのです。隣接する西隣が千種村、北が城山村、東が高社村、南に広路村があったといえば、想像がつきましょう。
ましてや1200年も昔は、秋田の小勝地方だって今よりうんと広く、いまの横手市も大曲市も、その中だったかもしれません。なにせ、当時は日本中に、今の愛知県の人口ぐらいしか人が住んでいなかったのですから。こういうアバウトな思考体系を素人考えというものでしょうけれども。
ともかく、この払田柵が造営されたより2〜300年前の古墳時代には、日本には文字に書かれた歴史がありませんでした。したがって、論議はさらにアバウトならざるを得ません。こんなことを思いながら、また改めて、私の持論の、文字、記録の重要さを思うのです。

横手市の金沢城を訪ねました。
ここは、先の払田柵より300年ほど時代が下った平安時代末期、戦いの場になりました。この頃には、もう源氏が登場してきます。
東北地方の東側は安倍氏、西側は清原氏が支配していました。
1051年、多賀国府にいた源頼義、義家親子は、清原氏の力を借りて安倍氏を滅亡させます。これが前9年の役です。しかし20年後、清原氏の一族内に内紛が起こり政情が安定しませんでした。
源義家は清原清衡を助けて、清原家衡を撃ちました。この戦が後3年の役であります。こうして東北には安定政権が樹立され、いまも中尊寺金色堂に見られる奥州藤原氏による黄金文化の華が開いたのでした。
さて、われわれが訪ねた金沢城は、横手市の東北に位置しています。
敗れた清原家衡が最後に拠った、険阻な山城であります。
ここで納豆の発祥の地という石碑を見ました。
「後3年の戦で、義家は地元民に豆を煮て俵に詰め、兵糧として供出させた。数日後、豆は糸を引きだした。試しに食べてみたところ、意外に美味しかった。これから、地元民たちも、自分たちで作り始めた。これが納豆の始まりである」という主旨であります。
納豆は今でこそ、ほぼ全国区の食べ物になりましたが、最近まで名古屋の人は食べませんでした。長野県にスキーにゆくと、食べない仲間たちの分も、私の胃袋に入ったものでした。
他愛もないオハナシですが、始めて聞いた話ですから、ご紹介した次第です。
源義家が進軍しているとき、頭上に飛んできた雁の列が乱れたのを見て、敵の伏兵が隠れているのを予知したと伝えられているのも、この地でのできごとだそうであります。

横手城では菊花展が開かれていました。
・天守より見下ろす大輪菊花展
・雨託(かこ)つ声ばかりなる菊花展
ちなみに、両句とも、先日の句会では一点も入りませんでした。ツムジの曲がった駄句の標本なのです。
まあ、旅先なのでやむを得ず、菊香るならぬ、冷たい冬の雨の中、菊花展に行ったというハンディはありますが、この駄句、せめて他山の石にして下さい。

すでに夕闇迫る頃、秋田県の最南端、雄勝町まで走り、小野小町ゆかりの小町塚を訪ねました。
丹塗りの柱に白壁の、雅な建物がありました。
近寄って見れば、窓にはガラス板がはまり、ドアにはアルミのノブがついていました。
ある百科事典には、小野小町の「誕生地と墓は全国にある」と、まことにそっけないのですが、謡曲卒塔婆小町には「これは出羽の郡司。小野の良実(よしざね)が娘。小野小町がなれる果てにてさむろうなり」とあります。
してみればここは、数ある小町生誕地の中でも、一頭地を抜いているといえましょう。



?岩手県の遺跡巡り
11月2日、旅の最後の日です。海抜175mの田沢湖でも雪がちらついていました。冷や冷やしながら慎重に走り盛岡まで出ました。あと、一気に南下し、まず岩手県水沢市で、胆沢(いざわ)城址を訪ねました。

ここでは、胆沢城造営と、アテルイ没後1200年を記念するイベントが今年5月から10月まで、盛り沢山に展開され、われわれはその直後に訪れたのでした。センターで勉強したあと、すぐ北に広がる城跡へいってみました。
胆沢城は、一辺675mもある、広大な城でした。
城といっても、柵城と書かれることもあるぐらいで、広い平らな土地に柵を巡らした砦でした。
周りの畑には、枝々に林檎が赤く色づいていました。

・枝毎にりんごたわわや後三年


さて、アテルイという人は、1200年ほど昔、この地を舞台に、大和政権の軍隊をさんざんに悩ませた、地元勢の首領、英雄であります。
胆沢城造営とアテルイ没後とを並べて、それらの1200年記念としたところに、この東北の地に、アテルイの存在を、いかに強調したがっている人がいるかが、読みとれます。

ここ水沢市の文化財センターでもらった、ある資料には、こんなように書かれています。
「この地域は土地が肥え、狩猟、漁労の対象が無尽蔵であった。田畑の開墾が進み生産力が飛躍的に発達した。馬の飼育も盛んで、馬との交換で必要な衣服や器具を得、独自の文化を形成し、住民は平和で豊かな生活を営んでいた。
大和政権は蝦夷経略に意欲を燃やし、要所に柵を構築し、虎視眈々としていた。」

延暦8年(789年)大和政権は、5万余の大軍を動員しました。しかし、アテルイたちが展開するゲリラ戦に手を焼き、まったく釘付けの状態で、いたずらに時間だけが経ってゆきました。
都からは矢の催促があり、征夷大将軍キノコサミは、とうとう6000名を3軍に分け、北上川を渡りアテルイ軍に挑みました。
アテルイ軍は、一方では政府軍同士の集合を妨げ、他方では逃げる振りをして誘い込み、巣伏という地点で急に大軍を投入し、さらには退路を断ったので、政府軍は大混乱におちいり、戦死25,矢による負傷245,溺死1036,生還1257という惨敗を喫したのでした。
やけに細かい数字ですが、この辺りの被害状況は、こんな細かい数字まで、政府軍の指揮官たちの降格などの処罰などと並んで、続日本紀に明記されています。官製の史書とはいいながら、大したものだと思わずにはいられません。
この敗戦で政府軍は戦意をまったく喪失し、この度の戦いは終わったのでした。

その後も、794年、再度進攻しましたが、決定的な勝利が得られないままに終わり、第3ラウンドへ持ち越されたのです。
797年に行われた3回目の戦の様子はよく分かりませんが、蝦夷側はすでに相当力を失っていただろうというのが諸家の説であります。
桓武天皇の延暦21年(802年)には、胆沢城が造営されるに至り、とうとうアテルイも500名の同朋を連れて、征夷大将軍坂上田村麻呂の軍門に降りました。
田村麻呂は、敵ながらあっぱれな武勇と器量を惜しみ、アテルイと副将のモレを連れ、京都に帰還し、天皇に助命を要請しました。
それまでも大和政権は、地元の優秀な有力者を味方につけ、経営を行ってきていたのです。両者の関係は、当事者の性格を始め、種々の条件によって「且守且農」の時もあり、また「且戦且焼」の時期もあったのでした。
ところが、このたびのアテルイの助命については、天皇を取り巻く公卿たちが、蝦夷は信用できないと猛反対しました。こうして、アテルイとモレとは河内の国杜(くにもり)山で斬首されてしまいます。

アテルイは、平和な生活を脅かす外敵に痛撃を加えましたが、やがては投降し、当事者同士の間では自治の夢が芽生た状況にあったのでしょう。
それなのに、都で雲上人として安全地帯に住み、実状に疎い公卿たちの讒言により殺されたのですから、その死には何人も涙を絞らずにはいられません。

もともと、弱ければそれだけで同情を感ずる【判官贔屓】の国民性があることです。
「千年を越える長い月日のあいだ、中央政府に虐げ続けられた、われら東北人」という意識が、英雄アテルイを声高にいう底流にあるのだと感ぜられました。
宮沢賢治の奇矯ともいえる振る舞いまでも、抑圧された縄文人、東北人の血筋を引いた、自己尊厳の主張であるとまで言い立て、政府との対立を煽る人もいます。

私たちは水沢市にある跡呂井(アトロイ)という名の町も訪ねました。その一帯は、一段高い河岸段丘の上に位置していました。ここの跡呂井神社というひっそりした小社に、「古代東北の英雄アテルイ王 千二〇〇年記念」と刻まれた新しい立派な石碑が建っていました。
水沢市で高野長英宅、日高神社、熊野神社、正法寺、武家屋敷など訪ねたあと、ふたたび盛岡にとって返し、雫石川の南岸にある志波(しわ)城址を訪ねました。

ここ志波城も先程述べた胆沢城と同じ、蝦夷地への進出を役目とする城でした。
一年遅れの803年に造営されたので、来年、1200年記念行事が行われることになっています。
ここでは城の復元が進んでいて、見る目には面白いのです。城の囲いは土を着き固めた土塀です。ところどころ望楼があったりして、アメリカ西部劇のナンとか砦を思い出させられました。
一部の建物の復元工事が進行中です。遺跡の裏手に大きなテントがあり、その中で組み立てている様子でした。クレーンでぶら下げて運ぶのだと想像します。
遺跡の復元は、あちこちでお目にかかりますが、千年以上も前の形の建物を、最新のプレハブ技術などで造っているのを見ると、なにか唇の端がゆるむような気分にさせられます。

ところでこの志波城には、下記のような解説の看板が立っていました。
「志波城は戦うためだけに造られた城ではありません。城内には多い時は4千人以上の兵士がいましたが、本当の目的は古代日本国家が全国に律令制度を普及させるためでした。ですから志波城を舞台にした戦は一度もありませんでした。志波城の役人の大切な仕事は、当時蝦夷と呼ばれていた人々に位や禄物を授けることでした。以前から住んでいた人々も志波城の人々の努力によって次第に律令制度に従って生活するようになり、南門を通って多くの人が志波城を訪れました。大宮中学校36期生徒会」

中央政府と現地住民との関係を説明する趣旨として、胆沢城アテルイの場合と大変な違いであります。
胆沢城での思想は、豊で平和な暮らしをしていた人たちを、大和政権が踏みにじったと捉えています。
志波城では、大和政権が、法律により社会の物事の交通整理をし、税を集め、国防、公共事業など、より大きな見地から進め、いうなれば国家の一部にしようとしたと取れる説明です。明治政府が県庁をおいたのと、似たようなムードとも考えられます。

世の中には、いろいろの考えを持った人がいるのが現実であり、どちらが正しくてどちらが間違っているとか、おかしな意見を口にしてはいけないという気はありません。
ただ、私の意見をいえば、「住民は豊で平和に暮らしていた」とか、「自然一杯の健康的な生活をしていた」とか、そういったフレーズがあり、それに続いて何かを攻撃するようなストーリイになるときは、眉に唾をつけることにしているのです。

私の父は盛岡の出身、盛岡中学の卒業生です。伯父は、盛岡市の西にある滝沢村で林檎園を営んでいました。私も戦後まだ十代の頃、伯父の林檎園を何回も訪ねました。
伯父は、自分の家に来るには、盛岡駅を下りたら、真っ直ぐ岩手山を目指して歩いてこいと言っておりました。
そのとおり、草原の中の道を歩いていったこともありました。今では想像もつかない、人跡稀な草原でした。蛇足ながら、当時はそんな草原の道では、女性でも立ち小便をしていたものです。
そんな草原の中の道のほとりに、ケカチ塚というものが立っていました。
ケカチというのは飢饉のことであります。飢饉で飢え死にした人たちを葬った塚なのでありました。
地球の温暖化を大騒ぎしている昨今ですが、天変地変による寒冷化で起こった天明の大飢饉(今から約200年前)では、餓死病死者は数十万人と言われ、とくに気候寒冷な東北地方では酸鼻をきわめたのでした。
「みちのく」を一方的に「地上の楽園」と賛美することは、情緒の立場からならば極端まで表現できるでしょうが、それは事実の正確な記述とは言えません。
イデオロギーがかった人は、現実を無視して、ものを言う傾向があります。もっとも、それだからこそ、イデオロギーがかったと言われるのですが。
そういう人たちが、かって金日成首領率いる北朝鮮を「地上の楽園」などと褒めそやし、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国に際して、背中を押して送り出したのでした。

類聚国史によれば、延暦11年(792)正月11日、志波村の蝦夷、イサワノキミ・アヌシコというものが使いをよこして、「われわれは王化に帰したいと思っており、それを忘れたことはない。しかし伊治村の連中が遮るので、自ら国府にやってくることができない。どうか彼らを制して、通行できる道を永く開いてほしい」と言ってきました。このときは朝廷の恩を示すため、国府のものが、使者に物を与えて返しました。しかし都の朝廷のほうからは、蝦夷たちの性質は嘘をつき不実であり、常に帰服と称して、ただ利を求めているだけなのだから、今後は物を与えないようにと、指示が出されています。

こんな記録を読んでいると、1200年も昔の話とは思えなくなってきます。たとえば、いま現在、アフガニスタン、東チモール始め、世界各地で苦労しながら進められている国造りの様子が、思い合わせられるのです。
8世紀の日本は、法律、税制度などを、当時、先進国であった中国に学び、それなりに国造りを目指していたと考えてよいでしょう。
その過程で、中央政府は、地方の各部族のトップを抱き込み、しかるべき役職と報酬を与えて協力を得、自分たちの一翼を担ってもらおうと考えるのは当然のことです。
そんな動きの中で、新旧の間が平穏に進んだ時期も、また反目、流血の事件に発展したこともあったに違いありません。
お互いの集団の90%が共通の利益のために協力して進もうと思っているのに、その意志とは別に、たとえば沖縄駐留米軍の中の、思慮に欠けた一兵士の暴行事件などで、不毛の軋轢を生じたりします。
中央から派遣された役人の傲慢な振る舞いは、この目的には最悪の材料になったことでありましょう。
そのようなことを考えていますと、坂上田村麻呂と心を通じ合ったアテルイが中央政府側について、その立場で地方の人々をまとめてゆけば、中央政府は心強い味方を得ることになったことでしょう。
そんな心情になっていたアテルイを、あくまで殺すことを主張した天皇側近の公卿たち、権力者への怨念が、1200年後のアテルイ顕彰になっているのです。

ところで、私は以下の何行かを使って、アテルイを殺した、その頃の公卿たちの弁護をしようとしているのです。
公卿たちは、力は持っていましたが、蝦夷のことを特別によく知っていたわけではありません。
おのづから、聞いた話、読んだ話から得た情報が、彼らの知識のベースになります。どんなような情報を得ていたかの例として、ここで、蝦夷について述べた日本書紀の一部を引用してみます。

景行天皇40年紀
村には長がおらず、邑には首がいない。それぞれ境界を侵して、おたがいに奪いあっている。また山には悪い神がおり、野には姦しい鬼がおって、道を遮り、塞いで、多くの人を苦しめている。
その東夷のなかで、蝦夷がもっとも強力である。男女が雑居し、父子の別がない。冬は穴に宿り、夏は木の上に家を構えて住んでいる。毛皮を着て、血を飲み、兄弟が互いに疑いあい、山に登るときは、飛んでいる鳥のようであり、草を走るときは、逃げる獣のようである。
恩を受けても忘れ、仇を見れば、必ず復讐する。しかも矢を束ねた髪の中に隠し、刀を衣の中に帯び、あるいは輩を集めて、辺界を犯し、あるいは農桑の時をねらって人民を略奪している。攻撃をしかければ草に隠れ、追って行けば山に入ってしまう。それゆえ、往古より以来、まだ王化に従っていない。

これは、比較的まとまって記述された部分なので、引用文として撰んだのですが、政府軍の戦の報告には、このようなことが繰り返し繰り返し述べられています。
これらはなにせ、戦闘の報告なのですから、相手の悪い点を強調するのは当然のことであります。

また、公卿の中には、親兄弟を蝦夷との戦いで殺されたり、敗戦の責任をとらされた人がいたかもしれません。
そのような条件の中で、このような先入観、ないしは、世間の常識が形成されていた時代の公卿たちが、アテルイ死刑を主張したのは、むしろ当然と言えましょう。
私はそんな先入観を抱くようにした行為が、アテルイ断罪の罪を負うべきだと主張したいのです。

つい半世紀前、第二次世界大戦中、日本の印刷物には「鬼畜米英(アメリカ、イギリス)」という文字が躍っていました。
また、この瞬間でも、アジアの幾つかの国では、わが国について、不本意な書き方をし、憎しみを煽っています。
アテルイには申し訳ないことをし、東北経営にブレーキをかけた責任は、当時力を持っていた公卿たちに、偏った認識を与えていた人たちに責任がある、私は、そう言って公卿たちを弁護しているのです。

今日、日本の主権者は国民です。選挙権によってどんなことでも可能です。
ともかく選挙権によって、政治のトップ、総理大臣でも替えられます。議会を動かし、法律も変更できます。最高裁判所の人事にも関与できます。
その国民の常識がどのように作られているかが、最終的に主権者の判断を決めるのですから、重大な問題であります。

アテルイから、延々と議論してきましたが、行き着くところは、例の私の持論、民主主義社会における、主権者国民の責任論であります。
現実にその責任は、国民が判断する際に使うデータベース形成に、圧倒的な影響力を持っているマスコミに負うところが大きいのです。しかし、マスコミにどうさせるかも、本来は主権者たる国民の責任であります。
正確なデータを与えられなかったと他人を非難することは、まるで、家を建てる人が自分を咎めないで、森林伐採者だけを自然破壊の責任者として非難しているのと同じような、後ろめたさを感ずるべきでしょう。
ともかく、蝦夷の性格については、景行天皇40年紀などの記述で思い切り悪く書かれ、それが都人の常識にまでなっていたのでした。

誤った世論が形成される危険は、どんな時代にでも、また、どこの地域にでも起こり得ます。世論が暴走した例として、魔女裁判がありました。いまから思うと、人権無視の極致のような魔女裁判が行われたのは、ヨーロッパ、北アメリカでありました。
ですから、こういうことは、人類に共通した性質としか言いようがありません。
目下のところ、そのような扱いを受けている最たるものは、「遺伝子操作」と「原子力発電」のように思われます。

有性生殖生物の子供が、両親に似ていて、それでいて親と一緒でないのは、細胞の中で遺伝子操作が行われているからです。人間だって、その例に漏れません。
美味しいお米のコシヒカリでも、日持ちがよい林檎のフジでも、日本の代表的なサクラ、ソメイヨシノでも、みんな遺伝子操作の成果であります。
問題は、出来た品種が良いか悪かで、それに至る手段としての遺伝子操作が、悪いと言い張るのは筋違いであります。
スーパーの棚に並ぶ豆腐の原料の大豆が、遺伝子操作によって造り出された品種でない旨を、大衆に媚びて書かなくてはならないというのは、理屈の上では異常なことといわねばなりません。

原子力の平和利用、そのひとつである原子力発電は、1950年頃まで、資源に乏しい日本にとって、エネルギー源のホープとされていました。
それを恐ろしい原子爆弾とリンクさせ、いわゆる市民団体による反原発運動が盛んになったのは、冷戦の開始と時を同じくしているように思います。
原水協、原水禁という名の、はた目には似たような二つの反原子力団体がありました。そのそれぞれに、東側の立場をとっていた、二つの政党がついていました。反原発が世界中の人たちの心情にマッチしたことは、間違いありませんが、不純な面もあったというべきでしょう。

さて、2002年は、原子力発電所のトラブル隠しが大きな話題になった年でありました。
テレビの画面には、政府の調査員が発電所に立ち入り、厳しい言葉で調査の主旨を述べる場面が放映されました。

ある新聞記事に、政府の調査員が「こんなことをしていたら、原子力発電所は全部止めなくてはならないのではないか」と、うんざりした顔で語ったと報じました。
この記事を書いた記者は大真面目で、危険なトラブルがどこの発電所にでも発生していながら、それらが隠されているので、もしも調査の結果がどんどん明るみに出れば、どこの発電所も運転できなくなると、信じ込んでいるようでした。
でも私は「危険ではない傷まで悪者呼ばわりして停止に追い込めば、全部止まってしまう」、調査員がうんざりしているのは、そのことだと解釈したのです。

なぜ、遺伝子操作や原子力発電が、理屈とは別に、こんなに嫌われるかという理由は、大衆の感性と相性が悪いとしか言いようがありません。
遺伝子現象も、原子理論も、肉眼には見えず、普通の人には、本当の意味で理解できていないことが、大きな理由でありましょう。
もしも、放射線が雨や雪のように目に見えるものでしたら、大都市の人と変わらない放射線しか受けていない人を、原子力発電所の近くに住んでいるからという理由で、白血病とを結びつけても、人々の納得は得られないはずです。
日本だけで年間1万人近くを殺している自動車は、大変危険なものなのですが、大衆が見たり触ったりしてよく分かっているので、必要以上に怖がられることはないのです。
お化けというものは、はっきり見えない、夜にだけ出るものなのです。

夏目漱石の小説「坊ちゃん」がホトトギス誌に発表されたのは、明治39年、約95年前のことです。
小説の主人公である坊ちゃんは、四国のある中学校の先生をしています。
坊ちゃんは、夜の祝賀会で剣舞を見物していました。
たまたま、中学校と師範学校の生徒たちが喧嘩を始めます。坊ちゃんと、もう一人の教師とは、喧嘩を止めに入りますが、多勢に無勢、巻き込まれ怪我だらけになってしまいます。
翌朝の新聞に次のように書かれました。
「中学の堀田某と近頃東京から赴任した生意気なる某とが、順良なる生徒をそそのかせてこの騒動を起こしたのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したるうえ、みだりに師範生に向かって暴行をほしいままにした。
本県の中学は昔時より善良温順の気風を持って全国の羨望するところなるが、軽薄なる若者のためわが校の特権を毀損せられて、この不面目を全市に受けたる以上は、吾人は憤然として起ってその責任を問わざるを得ず。吾人は信ず、吾人が手を下す以前に、当事者は相当の処分をこの無頼漢の上に加えて、彼らをして再び教育界に足を入れる余地なからしむ事を」
もちろん、このように書かれて、坊ちゃんは頭に血が上りましたが、学校側が新聞社に訂正を申し込んだというので、談判にゆくのを待まちました。
次の日の紙面には、それに触れた部分は、全然ありませんでした。
校長に文句をいうと、「明日ぐらい出るでしょう」といなしたのです。
「明日になって、六号活字で小さく取り消しが出た。しかし新聞屋の方で正誤は無論しておらない。また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだという答えだ。あんまり腹がたったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判するといったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋に書かれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうすることも出来ないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭を加えた。」(一部略、一部現代語に改め)
もとよりこれは、昔の四国の田舎を舞台にした小説の中のお話です。
私の身内にも、また友人にも、マスコミ関係者がいます。彼らに憎まれたくはありません。だから、漱石は、きっと根も葉もない作り話を書いたのだろうと、申し上げておきます。
なにせ、漱石は、猫に小説を書かせたりしたぐらいの人です。ちなみに、後年、かれは朝日新聞社に入社することになるのです。

今年の某原子力発電所のケースでは、マスコミの取り上げ方は「ここでもまた、トラブル隠し!」でありました。
調査結果の公式な見解は、トラブルは危険なものではなく、報告の義務はなかった。ただ、技術上の知見を蓄積するため、報告しておくのが好ましかった、ということであります。
例えてみれば、未舗装の道路を走っているときに、石が撥ねて、外板にあたり、ゴチンと音がしたようなものだということです。
こんなとき、警察に事故を起こしたと報告する人はないでしょう。時期を見て修理すればよいのです。そして、舗装道路を走った方が良いよと忠告するのは、親切な行為ということであります。
発電所で働いている人たちは、自分たちの機械の状態を一番良く知っています。一体全体、いまの世の中に、無知は別として、自分の生命の危険を承知の上で働く、奴隷のような日本人がいると考えられるのでしょうか。
会社側の談話は、「今から考えれば、報告しておけば良かった」という点にアクセントをおいて報道されました。事故隠しがあったかのような取りあげ方をした手前、このような格好で収めるのは、常套手段であります。
その結果、世間には「また、隠してたのか。どこでもやっているんだな」という印象だけが残ったことでしょう。
原子力発電に関しては、もう何十年も、こんなような報道パターンが繰り返されてきたのです。
こうして、装置が新品同様でなければ、すなわち危険であると見る、日本特有の原子力文化が出来上がってしまっているのです。
このような風土、文化の中では、発電行為に危険がないことを理解している人でも、主権者である住民の不安感を思い、運転再開を口にできるわけはありません。
現に、沢山の原子力発電設備が運転できなくなっています。

このために、今年の日本における炭酸ガスの排出量は、大幅に増加しているはずです。
いま、この瞬間も、原子力発電でしたら炭酸ガスの排出量がほぼゼロなのに、火力発電所で燃料油を燃やして発電し、炭酸ガスを放出し、地球温暖化を招いているのです。

原子力発電所を運転できずに、電力会社の支出が増加し、収支が悪化していることが、いい気味だといわんばかりに伝えられている反面、炭酸ガスの増加については、一言も触れられていません。
世界には、400基を越える原子力発電設備が運転されています。
その中で、日本の設備だけが特別に悪い状態であるはずがないではありませんか。
そして、いま日本で停止させているような理由で、停止させている発電機は外国ではありません。
そんな、すぐ分かることが、どうして取りあげられないのでしょうか。

日本は世界中で唯一の原子爆弾被爆国として、原子力について特別な国民感情があるからというのは、ひとつの理由ではありましょう。
でも、温暖化防止、世界環境会議、アメリカの京都議定書批准拒否への非難など、地球規模で問題視されている炭酸ガス放出に、知らない顔をして通っていてよいものでしょうか。
あるいは、日本国民が、広島、長崎で、半世紀前に大量殺人の目に会わされたことを、いまだに恨んで、いま世界中の人たちが協力して取り組んでいる温暖化抑制に背を向けていると受け取られては、自分勝手な人間集団だと軽蔑されるばかりだと言わざるをえません。

現在、日本の主権者、君主は国民、大衆です。
良い君主というものは、良い情報だけでなく、悪い情報も、聞く耳を持っていなければなりません。
主権者に情報を提供する者も、主権者におもねることなく、良い情報も悪い情報も耳に入れなくてはなりません。
蝦夷でも遺伝子でも原子力でも、良い点は良いと、そしてまた悪い点は悪いと、主権者に認識してもらわねばなりません。

あれやこれや申し述べましたが、1200年を距てた今、地方自治参画を目指しながら泉州杜山の露と消えた非運のアテルイと、現在のことどもとを思い合わせることが、生きた歴史の勉強というものでありましょう。

・赤信号突っ切るもあり師走の日

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