題名:平らなタイラ・オーストラリア

(2000/2/29〜3/14)

重遠の入り口に戻る

日付:2000/5/21


?豪州弁

 

もう、帰国も近ずいたある日、ユースホステルの受付の人に、私はこんなように頼んでいました。

シンス マイ イングリッシュ イズ ベリイ プーア 、ウイル ユウ カインドリイ メイク ア ブッキング フォア ミイ 、アバウト ザ  エアポート シャトルバス オン ツマロウ ヌーン。

決して、えらそうに言う気持ちはありませんが、正直の話、こんな様に丁寧に頼む人が、英語がプアだとは思えないでしょう。

でも、あの分かりにくいオーストラリア英語に散々悩まされて、すっかり弱気になっていた私としては、電話でやりとりするのが、億劫で仕方なかったのでした。

 

オーストラリアの英語が、ステーション(駅)をスタイション、サンディ(日曜)をサンダイと発音するように、かなりきつい訛があることは前々から知っていました。

そして、今度始めてその国を訪れて「お前はツーダイ(2日)泊まりたいのか」「いや、スリーダイ(3日)泊まりたい」というようなやりとりには、すぐに馴れまた。

でも、こういう発音が、オーカイ(オーケイ)、マイク(メイク)というように」ポンポン続くと、頭の中でいちいち翻訳していたのでは、全体の言葉の流れについてゆけずに、ボク ワカラナイと言った状態になってしまうのでした。

 

メルボルンの南西にある、十二使徒という名の、奇岩が林立した海岸を訪ねたときのことです。

朝の7時半ごろでした。

ここの遊歩道に大変賑やかな一角がありました。

最初は、なにか若い人の団体が近くでキャンプをしていて、その人たちが朝飯でも食べながら騒いでいるのかと思いました。

そのそばを通りかかると、小父さんが私になにか食べてゆけというのです。お代は志でいいんだよ、というようなことを言っています。

地元のボランティアのおばさんたちが、ハンバーガーやコーヒーのサービスをしているのでした。

観光客のひとりが、今日は自分の誕生日だと言ったのでしょう。ハッピバースダイ ツウ ユウと合唱が始まりました。

この頃から、私はオーストラリアの人たちが、日本人と喋りたがっているようだなと感じ始めたのです。

あの小父さんが家へ帰って「今日、日本の爺さんと喋った。そしたらノインティ・アイトと言っても通じないんだなあ。なんかナインティ・エイト(98)と言ってたみたいだったよ」と話すのでしょうか。

ともかく、このとき以来、つとめて彼らに話しかけることにしたのでした。

 

エアーズ・ロックに行ったときです。

観光バスの運転手が、ロックに登る人は、会社が用意した水筒を持ってゆけというのです。

登山家を自認し、荷物を必要最小限に押さえているつもりの私は、自分は水は持っているので水筒を持つ必要はないのだと言いました。

でも、彼はどうしても持って行けというのです。

「なんで、水筒を持ってゆかなくてはならないのか」そう聞き返しました。

「ワン イズ フォア サイフティ」これは熱射病防止対策でしょう。「アンド セカンド、 フォア アイデンティフィカイション」、アイデンティフィケイション(確認)というのは、この会社のツアーのメンバーであることを確認するのか、あるいは全員が戻ったことを確認するのかなのでしょう。

でも彼の返事を聞いていて、そうかい、サイフティ、アイデンティフィカイションかいと、私の頬は思わずゆるんでしまったのでした。そして気分良く、水筒を受け取ったことは言うまでもありません。方言には、こんな親近感を感じさせる功徳もあるものなのです。

 

観光ツアーでは、バスの運転手さんが運転しながら、マイクで土地の案内をします。

彼らはかなり共通的に、尻上がりの調子で喋っているように思いました。

ウイー アー ゴーイング ツウ シドニー の最後のニーを上げるのです。

日本でも、そんなように語尾を上げて話す若い人たちがいます。ちゃんとした放送局のアナウンサーまで、そんな人と話していると、つい、釣り込まれたりします。

年輩の人には、そんな日本語に、耳障りだと眉をひそめる向きもあります。

でも、尻上がり言葉が、日本だけじゃなくて、世界中の若い人の間で流行しているのだと考えると、流行というものはもともと個性の放棄ですから、それなりに楽しいではないでしょうか。

 

外国人が日本の観光バスに乗っていて、ガイドさんの言葉を聞いて、これがまともな日本語だと思って取り入れたら、随分おかしなことになるでしょう。

私も、オーストラリアのガイド運転手の英語を真似する気は全くありませんでしたから、ただ聞き流していました。

 

ついでながら、シドニーの観光バスで流されていた名所案内のテープの英語や、ラジオのアナウンサーの言葉は、まあまあ、なんとか分かりました。

そういえば、日本のラジオの対談でも、アナウンサーの言葉はよく分かるのに、その相手の普通の人の言葉が聞き取れないことはよくあります。プロというものは、やっぱり大したものです。

 

一番ショックだったのは、街で道を尋ねたときに、私の英語があまり通じないことでした。

 

大部昔のことですが、オーストラリアの大学の先生を、会社の施設にご案内したことがありました。

その時には、そんなに言葉で苦労した記憶がないのです。

このところ、私の耳や頭の老化が進んでいるのは間違いありません。

その証拠に、日本語でも、マクドナルドの店などで若い女の子に、決まり文句を早口で言われると、聞き取れないことは、よく経験するのです。

ついでながら、オーストラリアでもマクドナルドに入りました。そして、もうここでは、なにを言っているのか全然聞き取れませんでした。

思うのですが、昔、ご案内したオーストラリアの先生は、自分の豪州弁英語が世界の英語の中で、どんなポジションにあるのかを知っておられたのでしょう。

そしてご当地の普通の人々は、自分たちが喋っているのが、唯一の英語だと思い込んでいるのでしょう。

 

もっとも、あるバスガイドのおばさんは、私が英語に弱いからと白状すると「お前のほうが、私よりもちゃんとした英語を喋る」と言いました。

また、観光刑務所で案内が終わったときに、ガイドしてくれたおばさんに「私は英語が不得意なので,貴女が折角説明してくれたのに、よく分からなくてご免なさい」と言うと、彼女は「私の英語がひどいものだから。本当に済みませんでした」、そんなように本心から言ってくれました。両方で同じことを考えていたのですね。

言葉が不自由なために、かえって心が通うこともあるものなのです。

 

なんと言っても、私には日本人の英語が一番よく分かるのです。

イギリスには行ったことがありませんが、行ってみればイギリス弁の英語だって、私にはあまり分からないのかもしれません。

日本での英語の会話は、半世紀前、米軍の占領時代に、ギブ・ミー・チョコレートやオー・ミステイクから始まったアメリカ弁英語が主流だと言えるのではないでしょうか。

このことは言葉だけのことに止まらず、日本人にとっては、アメリカ人はこんなことを考えているという、常識ができています。また、アメリカ人にとっても、日本人はこんなことを言いそうだというベースができているのだと思います。

世界に沢山の国がある中で、アメリカは韓国、中国などとともに日本との結びつが、とくに密接な国だと言えるでしょう。

インターネット社会のリーダーであるアメリカとのリンクが太いことは、結果として、日本のために幸運だったと言えるのではないでしょうか。

 

・南極に続く春潮岩を打つ

 

?オーストラリア

国の面積は日本の22倍もあります。

一番赤道に近いところは南緯10度ぐらいですから、北半球で考えるとフィリピンの中程に当たります。これは熱帯と言っていいでしょう。

一番南は南緯45度ぐらいですから、北海道の宗谷岬に当たります。そこでは、私が訪れた夏の終わりの朝に、もう肌寒く感じたのでした。

東西の距離は、さらにその3割り増しぐらいもあるのですから、どんなに大きな大陸か分かっていただけると思います。

 

人口はわずか1800万人ですから、日本ぐらいの広さの土地に、広島市に住んでいるぐらいの人が散らばっている計算になります。

一番高い山は、コジウスコ山です。標高はたったの2,228mです。大陸の平均の標高は330m、本当に平ぺったい大陸であります。

先年訪ねたモンゴルの大平原には、まだまだ風化の途上で、隆起した土地の芯を成す岩が、露出しているところが見受けられました。でも、今回旅したオーストラリアでは風化はもっと進んでしまっていて、総てが真っ平らになってしまっていました。

長い年月の風化とともに、この大陸、とくに西部は地殻変動がなくて、古生代以は、山も谷も造られないことも、土地が平らな理由のひとつであります。

私が見た範囲では、地層は常に水平に近いものばかりでした。

 

オーストラリアへの往復には、パース市からの帰国便の都合で、シンガポール航空を使いました。この会社は、新しくて性能の良い飛行機を使うという評判をとっています。

名古屋からシンガポールまでは、最新鋭のボーイング777,そこからシドニーまではボーイング747−400でした。

どちらも、エコノミークラスでも、一人一人の席に液晶画面がついている機体でた。

 

シドニーで入国しました。ここでレンタカーを借り、首府キャンベラを見学、その南にある最高峰コジウスコ山に登りました。

そのあと大陸最南端のザ・ブロムとメルボルン市を経由して、グレート・オーション・ロードにある十二使徒という海中の奇岩を見物し、メルボルン市で車を返しました。

あとは飛行機で移動しました。

まず、タスマニアのホバートに入り、ポート・アーサー監獄を見ました。

そのあと、エアーズ・ロック・リゾートに入り、ここからオルガ山群をトレックし、またエアーズ・ロックにも登頂しました。

また、キングズ・キャニオンにもゆきました。

次いで、西海岸のパース市に飛び、ここではフリー・マントル市見物、ウエーブ・ロック、ピナクルを訪ね、最後はパースから出国し、シンガポール経由で名古屋へ帰りました。

2週間のひとり旅でした。

 

・灼熱の地に行く先の無き川よ

 

?シドニーとパースの市内観光

入国直後、シドニーのユースホステルへ着いたのは、まだ午前10時前でした。受け付けてはくれましたが、12時までに部屋を用意しておくから、それから来いということでした。

シドニーには、観光客用にエキスプローラというバスがあります。ちょうど手頃な時間潰しになりそうだったので、それに乗ることにしました。

このバスは市内の名所を、ぐるぐる回っているのです。2000円ほどの料金で、1日の間に、何回でも乗り降りできるのです。

約20分間隔で運行されていますから、好きなところで降りては見物し、また次の所へ行けばよいのです。

当然のように、私はまず、ぐるっと全体を一回りしました。

シドニー市は全市が公園のような美しい街です。

あちこちの崖で固い砂岩が顔を出しています。そして、その上を薄く土壌が覆っているのです。4〜1億年前にあったゴンドワナ大陸の時代から、安定しているこの大陸は、平らな岩の表面が風化して、そのまま土壌になっているのでしょう。日本のように断層や褶曲で凹凸の地形ができて、窪んだ所に土壌が流れ込み、厚く堆積するという感じがないのです。オーストラリア大陸では、この後も、あちこちでこれと同じ印象を受けました。

このしっかりした地盤の上に、近代的な高層ビルが聳えているのです。

バスの中で、東洋人のご夫婦が「グッド・モーニング」と声を掛けてくれました。最初は、日本人だと思っていました。でも、本当は韓国のご夫婦でした。私よりも10才年下でしたが、やはり定年退職して、観光に来ていらっしゃるのでした。

 

最後に訪れた西オーストラリアのパース市には、Central Area Transit 略してCAT(キャット)というバスが走っていました。横腹に大きく赤猫の絵が書かれたバスと、青猫のと2系統あります。

赤のほうは東西線で、名古屋で言えば中村公園と池下の間を若宮大通りと桜通りで回り、青のほうは南北に、黒川と熱田を伏見通りと空港線で回るような感じです。

もちろん、人の出入りの多い所や、観光スポットを選んでは、回って行きます。原則として7分間隔で運転され、無料なのです。

乗り降りの楽な低床車体で、電気モーターとのハイブリッドバスが採用されていました。運転手さんの席は、空気バネを使っているようでした。

こんな思い切ったことも、やれば出来るのです。そして、その土地では当たり前のことになっているのです。こういう現場を自分の目で見られるのが、海外旅行の一つの功徳だと思いました。(最近、金沢市でもほぼ同様のバスが出来たことを知りまた。

もっとも、こちらは有料のようですが)。

私は当然のこととして、これを観光バスとして使わせて貰いました。

隣の席に買い物袋を下げた東洋人がいました。私は彼女を買い物帰りの中国人と踏みました。彼女が、なかなか降りて行かないので、方向の決まった循環バスは、近いところでも逆方向だとほぼ一回りしなくてはならないから、時間は掛かってしまうななど思っていました。

ところが、バスの路線図と街とを首っ引きで見ている私に「貴方もですか」と、彼女が話しかけてきたのです。見ると彼女もバス路線図を持っているのです。私のは英語版でしたが、彼女は日本語版のを持っていました。

お互い「便利ですね」と、意気投合しました。私が赤猫バスに続いて青猫にも乗ると言うと「ご一緒したいのですが、もう時間ですから明日にします」と、降りてゆかれました。私よりはちょっと若いぐらいの方でした。

彼女は、外国だということなど全く気にしておられない、頼もしい方でした。

 

・秋の日の残輝見守る旅愁かな

 

?ボイン

小心な私は、借りる前日にレンタカーの事務所を確認にゆきました。

翌朝は、9時から営業だというのです。日本でしたら8時というのが相場ですから、つい「えっ、9時」と言ってしまいました。

「正確じゃなくてもいいんだ。大体で」と相手はのんびりと言うのです。

翌朝、9時までの暇つぶしに、公園のベンチで、オフィスに出勤する人たちを眺めていました。

男も女も若いのも老人も、みんなさっさっと歩いています。

何年か前にアフリカのケニアに行ったとき、土地の人たちにとっては、歩くことが移動に手段であることを感じたことがありました。

さあ、これから隣の村まで歩いて行くぞ、という感じなのです。

ところが今の日本では、そういう感じは、失われていると思えるのです。

歩くのは、ショッピングのため、そんな感じなのです。70才の私にも、若者たちが、なんでこんなにのろのろしてるのかと思えて仕方ありません。

 

女性のボインが大変目に付きました。

冬の厚着の名古屋から、夏衣のシドニーに行ったこともありましょう。

もともとこんなことは、あまり理屈で考えることではないでしょう。

でも、見事なボインを沢山見せて貰っているうちに、次のような考えが浮かんできました。

当地の社会ではどうも、ボインが立派で、しかも立派なことを誇示することを重要なことだと評価しているように思われるのです。

太めの人はボインが豊かに、そして痩せた人はペチャパイであることは宿命的でしょう。

日本の若い女の子たちは、痩せることを最優先にし、オーストラリアではボインを最優先にしているのかも知れません、少なくとも、そう見えたのです。

 

その後ある観光地で、よその日本語観光ツアーのガイドをしていた現地日本女性に「セクハラだとか、失礼に思われたら、お許し下さい・・・」と前置きして、図々しくもオーストラリア女性のボインについての上記私見について意見を求めました。

「ボインに関心が強いのは、なんと言ってもアメリカ人じゃないのでしょうか。こちらでも豊胸手術をしたという話を聞いたことはありますが」と、彼女は無料で返答をくれました。

 

ともかくも、ポパイの恋人オリーブ・オイルみたいなペチャパイが、タイプでない私は、旅行中しばらく、結構幸せな日々を送ることが出来ました。

所詮、男には痩せよりもボインが好みなのです。日本では見合い結婚で若い男の好みが入り難かったために、長年の間に日本女性は痩せペチャの体型遺伝子になってしまったのでしょう。

今後、恋愛結婚が何代か続くと段々にボイン形遺伝子に組み替えられてくるのではないかと愚考するのです。本当に、愚考ですねえ。

でも、こういうことは直ぐに馴れてしまうもので、帰る頃には何だかもう当たり前のような感じで、最初の頃の感激はすっかり薄れてしまっていました。

 

カンガルーが、あの頑丈な後ろ足で跳んで走るのを、オーストラリアの人は、ぴょんぴょん跳ぶとは言わないで、ボインボイン跳ぶと言うのだそうです。ついでに、日本の女の子は、ナイン、ナインと跳ぶのだそうです。 

・公園のベンチに汗を収めけり

 

?レンタカー

レンタカー会社の窓口では、車のキーと駐車場の切符を渡されました。

そして、ちょっと離れたビルの地下駐車場の、指定の場所に置いてある車に乗って行けと言われました。これなら場所も人手も省けます。

最初は、昨日、目星をつけて置いたオペラハウスとベイブリッジが目渡せる所へ行きました。

駐車券の自動販売機へ硬貨を入れようとすると、硬貨の入れ口に木片が押し込んであって、お金が入れられませんでした。

朝の9時から観光しているのは、日本人ばかりでした。

 

行く前に大陸全体の地図を見ていて受けた感じでは、シドニー港は東を向いているように思っていました。でも、実は東海岸から大きな入り江があって、シドニー港は北を向いているのでした。

キャンベラ市へ行くにはジョージ・ストリートという目抜き通りを南に向かえば、自然にハイウエイに入ると教えられました。そして途中から、通りの名前がブロードウエイに変わるとも聞かされていました。しかし、その表示が見えないのです。間違った道に入り込んだ訳ではありませんでしたが、結局、ブロードウエイという表示は最後まで一度も見ませんでした。これが始まりで、自分が走っているところが分からないのに心労させられました。

重要な交差点には大きな表示が出ていて、真っ直ぐ行くとどこ、左はどこということは書かれているのですが、いま何号線を走っているかの表示が貧弱、乃至は欠如しているように思われました。

これは、意外に不安なものです。

例えば、国道1号線を走って東京に行こうとしているときに、1号線という表示がなくて、交差点に左は豊田、右は半田、真っ直ぐは知立と書かれた看板が立っていたとしたら、ローカルな地名に馴染みのない外国人はなんと思うでしょうか。

 

a日本のように都市高速道路から、長距離高速道路につながっていると思っていましたら、オーストラリアには都市高速がないようなのです。

遠い都市に行くのにも、ともかく最初は、やたら信号の多い国道を走るのです。

シドニーから1時間走って、やっと40キロ離れたリバプールという街に着きまあいaた。

このときは、最短でも約900キロも離れたメルボルン市へは、たどり着くのがやっとのことで、途中で、最高峰のコジウスコ山に登ろうなんて、とんでもない無謀な計画だったかしらと悲観的になってしまいました。

そうこうするうちに、だんだん車が少なくなってゆき、ついに高速道路規格の道を走るようになりました。

考えてみると、高速規格の道も随分走りましたが、一度も料金を徴収されたことはありませんでした。

日本のように、有料道路では早く走れるが、無料道路では低速しか駄目というルールではないようなのです。なにせ、みんな無料なのですから、一本の道路がいろいろ変わるのでしょう。

 

ひとり旅ですから、一番小さい車を借りました。

マツダのメトロという車が当たりました。

オーストラリアはイギリスと同じ左側通行なので、右ハンドル車です。

オートマチックではなくて、手でギアを切り替えるマニュアル車でした。

43年前、アメリカで乗っていたのもマニュアル車でした。

スピードや坂の様子を見ながら、エンジンのトルク特性を頭に浮かべ、考えながらギヤを選ぶのは面白いものです。

今度乗った車は、昔のものと較べると、排気量が小さいエンジンなのに、低速でのトルクが結構強くて、思いのままの運転ができました。

こんなにしてマニュアル車を運転できるのは、いま世の中の素人のうちに何人いるだろうかと、ちょっと自慢したいような気分になってしまいました。

モーターボートよりヨットが面白い、バカチョンカメラよりスケッチのほうが面白いのと同じだといえば言い過ぎでしょうが。

 

ある本には、オーストラリア人は、でこぼこの道路を無茶苦茶飛ばすと書いてありました。

私の印象は全く違います。

日本では、制限60キロのところを75キロで走っている人が殆どです。

オーストラリアでは、100キロ制限のところを95キロで走っている人が多いと思いました。

「追い越し時以外は左車線を走ること」と、しつこく表示が出てますし、また、それを気持ちが悪くなるほど確実に守っています。一台追い越して左車線に戻った途端に次の車を追い越すために、また追い越し車線に移ったりします。

村落に入って制限速度表示が下がると、すっと速度を落とします。

信号も黄色や赤では、一生懸命止まろうとします。

日本では、常時、警官が見張っていて、交通切符を切りまくっていなければ、絶対にこんなにはならないでしょう。

アングロサクソンの、秩序と規律の伝統がしっかり伝わっているのだと思いました。

 

ついでまでに、今まで訪ねたところで、一番無茶苦茶だったのはメキシコ・シティーでした。赤信号でも左右を確認して進みますし、一方通行だって向こうから来なければ入ってゆきました。民主主義ではなくて自主主義というのでしょう。

日本では、昔、進駐軍が持ち込んだキープ・レフトのルールは、死んでしまいまた。

インドでは道が狭く、道端には人間、牛、猪、鶏など溢れていますから、原則はキープ・センターです。

 

というわけではありますが、車が恐ろしいぐらいに規則を守っているそのオーストラリアで、シドニーの歩行者が信号を無視する様子も、また物凄いものでありました。

車にぶつからないと自分で判断すると、ルールを無視するのがルールになっていると言って良いでしょう。

逆に、オーストラリア人にとっては、日本人歩行者が、深夜、車が通っていない交差点で、歩行者用信号が赤だと止まっているのが不思議に思われるのだそうです。

 

最近、日本で、朝5時台に海岸寄りの産業道路を走りました。その時に、日本でも数年前と較べて、赤信号突破では相当メキシコ的になったと思いました。警察官を増員して、ちゃんと罰金を取れば、財政赤字が解消できるのではないか、と思ったほどでした。

人間、そして世の中は変わってゆきます。

人間を見ていると、本当に飽きることはありません。

 

車を借りて2日経ちました。「カンガルー・バンパーなんて、本場のオーストラリアでも本当に必要なのかね」、帰国後、そうな風に聞かれやしないかと考え始めた頃のことです。

それまでの旅を思い出してみると、跳ね飛ばされたカンガルーが溝に落ちているのを見たことがありました。このほか、もう1回それらしい死体を見たことがありました。

らしいと逃げたので、多少言い訳を言っておきたくなります。

今度走った殆どの道路は、制限速度100キロでした。

車というものは、50キロで走っていても、止まるのが億劫ですし、目に入る情報はあっという間に過ぎ去ってしまいます。さらに100キロで走っていると、外界からの情報の取り込みは大変に慌ただしく、疎かになり勝ちなのです。また、それに反応するのも面倒で、つい走り続けたくなるものなのです。

 

ある街を出ると、これから40キロの間、カンガルーに注意しろと書かれた看板がありました。

それを過ぎたと思うと、またすぐ続いて「これから30キロの間、カンガルーに注意」と看板があったのです。

2車線の道を、大きなトレーラーのうしろを、50mほど離れて走っていました。

前を行くトレーラーが通過したあと、車線の真ん中に大きな犬のような死体が転がっているのが見えました。トレーラーは跨いでいったようです。

私も、つい日本の猫や犬の時のように跨いで通りました。

ところが、足の下の床に当たったようで、ドーンと音がしました。

バックミラーで見ると、ごろごろ転がり手足が動いているみたいでした。カンガルーだったようです。

私に続いていた車も、同じように跨ぎ損なったようでした。

そうして後続車は、あんな車に従いていると、ろくなことはないとでもいうように、スピードを緩めて離れてゆきました。

私も今後、もしも死体が転がっていれば、急ブレーキを掛けて避けることにしようと決心しましたが、2度とそんな目には会いませんでした。

 

小鳥も結構危ないのです。小鳥の大敵は、鷲、鷹の類なのでしょう。そのために、小鳥たちは大空高く飛び上がって逃げるのではなくて、地面すれすれ、つまり車に当たりそうな高さで横に逃げるのでした。

 

・春愁や共にあるべき友は亡く

 

?戦争記念館

キャンベラでは、戦争記念館を見て回りました。

オーストラリアが関わった、すべての戦争が展示してあります。

なんと言っても、オーストラリアは勝った方の国です。気持ちが良いのでしょうか、沢山の観客が詰めかけていました。

この若い国の戦争らしい戦争の始めは、第一次大戦で、英国の要請を受けて参戦した、トルコへの上陸作戦でした。海岸に釘付けになり、大苦戦をしたのでした。

当時この国の人口は500万人でしたが、その国から33万人が出征し、6万人が戦死したのですから、これは大事件であります。

穴の開いた鉄兜や、つぶれた水筒などは、いつ見ても胸が潰れるような思いがするものです。

日本との戦争にも、かなりのスペースが割いてあります。

シドニー港に入り込み攻撃した特殊潜行艇が展示してあります。

目隠しされたオーストラリア兵の後ろで、刀を振り上げている日本兵の写真があって、どきっとさせられます。

どうも日本以外の国との戦争と較べて、捕虜になった時の空腹や栄養失調が残虐行為として意識されてように感じられました。

あばら骨が浮き出している捕虜の写真がありました。それを見ていながら、丁度その頃撮った私の裸の写真を思い出していました。14才でした。パンツに後ろと前があるのを知らなかったので、後ろを前にして穿いています。そして、目ばかりぎょろぎょろして、捕虜ほどではありませんが、肋が浮き出ているのです。

日本人は、腹が減っても頑張る国民なのかもしれません。そんな国の捕虜になった人こそ、いい迷惑です。

勝った側の、勇ましい軍服姿の将軍の写真は沢山ありました。部下がいて、命令に従ってくれてこそ、将軍は存在するのです。

負けた側の将軍を沢山知っている私には、その勇姿がなんとも、はかないものに見えて仕方ありませんでした。

ウィークデイでしたから、観客は当然、過半数が老人でした。また、説明しているボランティアさんも、老人ばかりでした。

見せる方も見る方も、実際に戦争を知っている人は、間もなく、いなくなるのでしょう。

こんなにも長く、大きな戦争がないのは、誠に有り難いことであります。

第二次世界大戦の末期に、原子爆弾やミサイルが出現しました。

そうして、今度、もしも大戦争が起こったら、人類が破滅しかねないという認識が、一般的になりました。

また、2つの軍事大国の時代を経て、ただアメリカだけの1極の時代を迎えています。

そんな事情が、大戦の抑止力になっていることは間違いないところです。

 

ここの記念館の展示方法が上手だったためなのでしょう。見終わって私は「日本は本当に下手なことをやったものだ。でも、最初の勝ち戦の時に止めておけば良かったのか、形勢が逆転したときに有利な条件で争いを収めれば良かったのか、せめて、全く絶望的になったとき1日も早く無条件降伏していれば」などと、いろいろのケースを詰めて考えてみました。

そして、結局、戦争というものを始めてはいけないのだと、心から戦争を憎む気持ちになっていました。

子供を、兄弟を、恋人を戦地に送らなければならない家族の嘆きが、どこの国でも、どんな時代でも、理屈を越えて、戦争を呪う気持ちに通ずるのだと思います。

 

パース市のキングズ公園を訪ねたときのことです。あちこちの木に金属製の札が取り付けてありました。

木の種類の名前でも表示してあるのかしらと近づいて読んで見ますと、こんな風に書かれていました。

「リー・ウオーカーを称える。1917年5月28日作戦中に戦死。21才」。

それから83年、今は亭々たる大木になっています。

この木を植えた人は、どんなに悲しかったことでしょう。

家族の悲しみと、戦争反対の気持ちは、常に噛み締めていなくてはなりません。

 

戦争に負けた日本では、戦争を始めた軍国主義が悪かったの一言で、万事、過去の済んでしまったこととして終わらせてしまっています。それではなりません。

広島の原爆記念館は、原子爆弾の被害の悲惨さ、日本帝国主義の罪悪、大量殺戮兵器を開発・使用したことへの非難に終始している感があります。

現在、広島の原爆と同じ規模の死者を出した東京大空襲の記念館を作る話があると聞きます。そしてその記念館の、展示の考え方や方法について、意見が分かれているとの新聞報道がありました。

 

今でも世界のあちこちで、国民の人気を得るために、他国・他民族に超強硬な態度をとる指導者が見受けられます。そして、それをその国のマスコミは煽り、国民が燃え上がる構図は、昔と変わっているようには見受けられません。

ぜひ、人間の愚かさと戦争の悲惨さとを、勝者、敗者の両側から事実に基づいて淡々と綴って、展示を見終わったときに、心から戦争を憎む気持ちになるような戦争記念館を作って欲しいと願わずにはいられません。

 

・議事堂はただ秋の日に白々と

 

?コジウジスコ山

この大陸の最高峰コジウスコ山の標高は2,228mです。

この山に登ることを主目的にしてオーストラリアを訪ねたという人の話は、聞いたことがありません。

でも過去に、アフリカのキリマンジェロ、ヨーロッパのモンブランと登ったことのある私としては、オーストラリアに行くなら、ついでにこの山にも登っておきたいと思うのは当然でありましょう。

ちなみに、このあとに控える最高峰シリーズは、アジア大陸のエベレスト(8,848m)、北アメリカ大陸のマッキンリー(6,194m)、南アメリカ大陸のアコンカグア(6,959m)、南極大陸のビンソンマシフ(5,140m)と、全く手に負えない面々ばかりです。

何事にも大したことのなかった私は、山男としてもこの程度でしかなかったのかと思わずにはおられません。

コジウスコの後は、名古屋市の最高丘、瑞穂区の最高岡などを、征服して終わるのでしょうか。

 

先日、私などとは較べものにならないバリバリの登山家が、コジウスコ山に登っているのをテレビが映していました。

それは雪のある時期でしたが、山頂に立った彼は「すぐそこに、スキーをしている人たちがいるんですよ」と照れながら言っていました。

ガイドブックのスキー場の地図には、この山が乗っていました。

また、この山について、世界中の山の地図の収集家であるKさんに教えを請いました。

Kさんは、スキー場のガイドの地図を送って下さっただけではなく、推定の登高所要時間まで計算して下さいました。それらのことから、大まかに、なんとかなるだろう

という予想はつきました。でも、情報はそこまででした。

 

シドニーのユースホステルで、同じ部屋の若い子が登山靴を持っていました。

「お前も山登り屋か」と尋ねました。岩登りはやらないけど、と彼は答えました。

そしてコジウスコは、小さな山だ、と一寸恥ずかしそうに言うのです。

いまの時期でもゴンドラは運転されてるかね、と一番の関心事を尋ねましたが彼は知りませんでした。下から歩くと、リフトの終点まで2時間、そこから山頂まで2時間と教えてくれました。

 

シドニーの観光案内所に行って、タスマニア島のポート・アーサーの観光ツアーの予約をしました。これは、夜遅く着いて、翌朝のツアーに参加したかったからです。

ついでに、コジウスコ山のリフトのことを尋ねました。「夏でも山に登る人はいるようです。運転してるはずですよ」と係りの女性が教えてくれました。

これだけ情報が集まれば、あとは登るだけです。すっかり気が楽になってしまいました。

 

オーストラリアの東南部、シドニーとメルボルンの間に、スノーウイー・マウンテンという山地があります。

昔、メルボルンでオリンピックが開催されました。その冬季大会が行われたのが、このスノーウイー・マウンテン山地にあるスレドボ村だったのです。

北半球の真夏に、ここではスキーが出来るのですから、その意味で知る人ぞ知るスキー場なのです。

 

なにせ夏の終わりの山です。おまけにウイークデイなのです。駐車場もリフトもがらがらでした。

途中まで、私と同年輩のご夫婦と、相前後しながら登りました。

ひとつの団体を除けば、この山の滞在期間中に、10人の登山者しか会いませんでした。東洋人は、後にも先にも、わたし1人でした。

そのひとつの団体というのは、スレドボ村の専門の指導員が、地質、動物、植物など解説しながら登らせてくれるツアーの人たちだったのです。これは、10時出発で、ゆっくり時間を掛け、1日がかりの行事のようであります。スレドボに連泊する人のためのレジャーという感じでありました。

 

山の様子は、昔の霧ヶ峰を歩いているような気分でした。車山に相当するように優しく、大陸最高峰のコジウスコが鎮座していました。

 

山頂近くまで、舗装してない車道が登っていますが、これは自然感を保つためか、常時、閉鎖にしてある様子です。

登山路はしっかり造ってあります。

始めのうちは、都会の洒落た遊歩道のようなブロックを組み合わせた道でした。

 

その後の登山路の殆どは、鉄の格子で造ってありました。

日本の道路で、マンホールの覆いなどに使われている、鉄の格子です。

幅は、1m強で、やはり鉄の柱と枠で、地面から4〜50cm浮かして固定されています。

鉄は亜鉛メッキではなくて、あらかじめ固い錆を付けてあるようです。

非常に、落ち着いた色合いで、保守にも手がかからないことになっているようでした。

尾瀬の木道よりはるかに目立ちません。

なによりも、格子ですから、光や水が自然のまま通ってゆくのです。格子の間から,紫のキキョウもどきの花が首を出しているのが印象的でした。

ずかずかと、花野に立ち入っているような気分になります。

 

山頂近くの道は、プラスティックでできた亀の甲のような枠に、荒砂を詰めてできていました。水はけが良くて、砂が移動しないのでしょう。

 

シドニーの公園で、芝生に立ち入らないで下さいという看板がないのを、なんとも不思議に感じました。

ベンチに座って、人の動きを見ていますと、人たちは歩きやすい所を歩いています。

芝生へ入ると靴も汚れるし、歩き易くだってないのです。

この、コジウスコ山の道は完全に歩き易くして、自然に登山者をそちらに誘導しているのでした。

 

もっとも、鉄格子の道を1カ所、修繕していました。鉄の道ですから、溶接機などの重量品を作業車で簡単に運んでいました。

修繕の理由は、そこの格子がひどく錆びているためのようでした。

鉄の素材が不良だったのか、それとも沢の水質に問題があったのかしれませんが、何事にもパーフェクトということは、ないようです。

 

山頂は輝くような天気で、東から強い風が吹いていました。そして360度の展望が得られました。でも、知っている山はひとつもありません。今までに、写真でお目にかかった山もありません。

オーストラリアの最高峰に立っていて、ひとりも知人がいないパーティにいるような気分でした。

 

・登山路に入れば桔梗の揺れて居し

 

?南半球

ほかのところでも触れましたが、縮尺の大きい地図から、シドニーの港は東を向いているという先入観を持っていました。しかし、実は北を向いているのです。

このこともあって、レンタカーを借りてキャンベラに向かうときに、なにか方向感覚がしっくり来ませんでした。

ちょっと考えた末「南に向かって、陽に遠ざかる」と、頭に叩き込みました。しばらくは、これで解決が付きました。

 

大陸の最高峰コジウスコ山の頂上でのことです。磁石で真北を確かめました。日本ならば、いつも真南を確かめるのですが。

午前11時でした。太陽が真北よりも右手にありました。

えっ、なんで!私はそう思いました。

日本の山では、正午に太陽が真南にあります。そして、太陽は午前は左手に、午後は右手にあります。太陽の位置は1時間で約15度動きます。それを何となく確かめて納得する習慣が、身に付いているのです。

午前11時に太陽が右手にある理由を、最初は時差の問題だと思いました。

人為的に夏時間を採用すれば、太陽が真南より15度左にある状態、つまり11時を12時と呼ぶことになっているわけです。

それが沖縄のように、標準時間の基準点になっている明石よりも西にある場所では、ずれは15度よりも大きくなるのです。

でも、よく考えると、コジウスコの場合は間違いでした。太陽へ向って立ったとき、太陽は右手から昇り、正午に真北になり、その後左手の方向に回って沈んで行くのでした。それが南半球というものなのでした。

これが最後の間違いで、太陽と時間の関係は、2週間もいると自然に身に付いてきました。

 

インドネシアのバリ島の住民の中には、常に東西南北を意識している文化があるのだそうです。

そんなところでは、ピアノの先生が、もうひとつ右のキーと言わずに、もうひとつ東のキーというのだそうです。

どうも、私にも、その嫌いがあるようです。

 

幸運にも、晴れた夜に、南十字星をしっかり覚えました。

これから南半球を訪ねたとき、この星座を見誤ることはないでしょう。また、楽しみがふえました。

全天に一等星は21個あります。そのうち天空の南半球には、一等星は5個しかありません。

オリオンなど北天の星も、地球の南半球から見えるのですが、やはり南天のほうが星座は淋しい感じがあります。

その中で、南十字星は、銀河の一番輝いている部分に、ケンタウルス座と合わせて一等星が4個固まって光を放っているので、見応えがあります。

 

・銀漢の一際濃きに十字星

 

?ラジオ

レンタカーを借りた途端から、豪州弁英語に馴れようと思って、車のラジオをずっと聞いていました。

ところが、どこがどうなったのか分かりませんが、キャンベラの局に固定されたまま、選局ができなくなってしまいました。

遠ざかるに従って、音が小さくなり、途切れ途切れになりついには聞き取れなくなってしまいました。

それでも、スイッチを入れ放しにしていました。

結構,効用があるのです。

天と地との間にあるもろもろの電波のうち、キャンベラ局と同じ周波数成分が、いろんな音を聞かせてくれるのでした。それは、ひとり旅、ロングドライブで、格好の居眠り防止作用を演じてくれたのでした。

キャンベラから800キロほど離れたメルボルンの近くで、辛うじて放送が聞こえたことがありました。

昼間なのに、音楽のうち、ドラムのビートが聞こえたのです。眠気も覚めて、聞き耳を立ててしまうではありませんか。

雑音を出している送電線もありましたし、出していない送電線もあることが分かりました。

送電線にラジオ電波が乗って、聞こえやすくなっているように思えたこともありました。

街の中の、何だか分からないところで、大きな雑音が聞こえることもありました。昔はビニール接着の機械が雑音を出すと言われていましたが、今はどんな機械が雑音電波を出しているのでしょうか。

夕方になると、明らかに雷や稲妻の放電が出している電波も入ってきました。

 

こんなラジオの使い方をしてみて、天と地との間には、常時、電波が一杯飛び交っていることを改めて認識させられました。

ラジオやテレビ、それにケイタイだって、電波が飛んでいるからこそ機能するのです。

電磁波の害が、いろいろと取り沙汰されています。

飛行機の出発前の安全注意で、シートベルトを締め、救命胴衣の説明が終わったあとに、電波を出すワープロ、パソコン、ゲーム機などの使用をお控え下さいと、必ず付け加えられるようになりました。

天地の間に無限に近く満ち溢れている電波のうち、特定のものだけ名指ししている感があるのではないでしょうか。

 

・大陸の夏極まりて雲立つや

 

?宿探し

入国してから4日目の午後、メルボルン市を東から西へ横切り、はるか西方にある十二使徒という観光地を目指し、レンタカーを転がしていました。

登山用には、細かい地図を持っていました。でもこの頃は、もうシドニーやキャンベラのあるニュー・サウス・ウエールズ州を外れていましたから、オーストラリアの全体図を頼りにして運転していたのです。

この地図は、東京と名古屋の距離が八センチ程度しかない,粗っぽいものです。

セルフ・サービスのガソリンスタンドでは、キャンディーやアイスクリームは売っていましたが、地図はありませんでした。そして、そんなに沢山,市や町があるわけでもありませんから、粗い地図でもなんとかなるのでした。

 

日程、行程の余裕の取り方は、入国するまで皆目見当がつきませんでした。

でも、ドライブ3日目ぐらいになれば、自ずから感じが分かってきます。

翌日の夕方にメルボルンで車を返すためには、メルボルンから約300キロ西にある、ポート・キャンベルまで、その日の中に入っておきたいと思っていました。

いろいろの観光地を経由して、ポート・キャンベルの方へ通ずるグレート・オーション・ロードへは、順調に入ることができました。

思惑違いは、このあたりから始まったのです。

今まで走ってきた平坦で真っ直ぐなオーストラリアの道路と違って、曲がりくねった海岸道路に変わりました。言ってみれば、能登半島の西海岸を走っている感じなのです。ちゃんとしたヘヤピン・カーブだってあるのです。

午後7時30分になった頃、ローンという町に入りました。

今日の運転も、もう760キロ、カーブも多いし、ここらが切り上げどころだと思いました。

こんなふうに、状況判断で行程を調整できるのが、行き当たりばったりのドライブ旅行の妙味さ、と自賛しながら、ユース・ホステルの事務所に向かいました。

ドアに「本日、空き部屋なし」とあります。

念のために、おばさんに「空いていないんですね」と声をかけました。

「今日はグループが入ってるもんで」「それなら、この向こうのポート・キャンベルのユースはどうでしょうね」「なにも情報はないけど、2時間半の運転よ」彼女はそう言うのです。

 

なにもユースじゃなくたっていいと思っていますから、モーテルを探しながら走ってゆきました。

2カ所、満室の表示が出ていました。それで、やや本気に、ことの重大性を感じ始めたのです。そう言えば、今日は土曜日なのです。週末の江ノ島なのかも知れないと思いました。

ちょっと大きなリゾートに入りました。ここで決めなくてはと思いました。

立派なモーテルに車を入れ、事務所に行ってみると全く人影がなくて、今日の受付は終了と書いてありました。口をきくこともできません。

ここの坂を上ったところに、大勢の人がビールを飲んでいる店がありました。そして、その店の上階がホテルになっているようでした。

口をきいてくれる人がいるだけでも有り難いと思って、そこのお兄さんに泊めてくれるかと聞きました。「満室」とのことです。

どこか、泊めてくれるところを知らないかと頼みました。

彼は親切に、心当たりに電話してくれました。でも、どこも出ないのです。

管理人さんたちは、満室でご機嫌になり、ビールで乾杯ということなのでしょうか。

 

その後は、かなり真剣に空き室を探しながら走りました。

ところが、本当に見事に詰まっているのでした。

「NO VACANCY」の看板が、バカに立派に見えます。モーテルを建てたときに、一緒に「空室なし」の看板を作りつけたかと思えるほどでした。それでわざわざ近くへ行って見ました。NOのところに、溝が付いていて、いつもは白い板を挟んで、NOを隠すように出来ていました。

また、ネオンで表示しているものは、何時も点灯しているVACANCYの所がくすんで暗くなっていて、NO のところだけ明るく輝いていました。

 

季節は夏の終わりです。私は山登りの装備を持っています。車の中での仮眠になってもまあいいやと、腹を括りました。

日本では長引く不況で、熱海では40軒もホテルを閉めたと聞きます。

ここは満室、そう毎日のことではあるまいが、結構なことだと祝福しました。余裕、余裕です。

 

 

午後8時半になりました。アポロ・ベイ という町に入りました。海岸際に車がずらっと駐車し、人々がざわざわと群れています。

もう、泊まることよりも、宿探しの方が面白くなった私の目に、空き室ありの文字が飛び込んできたのです。

レストランなのです。どんなところに泊めるのかしら、そんな興味もありました。

入って交渉しました。最高に分かりにくい言葉でした。内容は、宿はここではなくて、30分ほど先にある。最後の空き室だから、料金は110ドル、金はここで払ってもらいたいのだが、それでも良いかということのようでした。

Ok を言い、地図を書いてもらいました。

おばさんがメモ用紙に書いてくれました。

今、私たちがいるアポロ・ベイの部分だけは、海岸に沿って道を曲げて書きました。

ところがそれから先は、5センチほど真っ直ぐに線を書いて、T字路になり、その右の角が目的のモーテルだというのです。立派なレストランがあって、うまい料理が食べられるよ、どうもそんなことを言っているようでした。

 

この店の人は、男も女もとても分かりにくい言葉でした。

レシートも、おばあさまが間違って打ち込んでしまい、もう1回不足分を追加し、2枚にして切ってくれました。馴れていないのです。

ピザなど売っている店でしたから、イタリアからの新移民でないかと思いました。

 

さて、車で30分というのは約40キロです。40キロといえば知多半島の長さぐらいです。実際に走ってみれば、暗闇のなかの英語の表示なので何だか読めませんが,ときどき看板が立っていて、脇道だってあるのです。もちろん、道は真っ直ぐであるわけはありません。

書いてくれた地図の、真っ直ぐな線と、T字路だけを頼りに走っている、この時が今度の旅で一番の不安だったように思います。

ともかくも、道なりに走って、ちょうど30分、T字路へ出てモーテルに滑り込みました。嘘ではなく、本当に最後の1室に入りました。

レストランのラスト・オーダーぎりぎりの9時でした。エミュー・ビターという名のビールが腹に沁みました。

ここはれっきとしたゴールデン・チェーンに属するモーテルです。料金表が置いてありましたから、見てみました。

平日58ドル、週末68ドルとあります。でも、ちゃんと繁忙期には割増料金をいただきますと印刷されていました。割高ではありましたが、それでも110ドルは、日本円では7700円です。

移民、健気、支援というのが、私の思考体系です。

あのピザ・レストランの、言葉もよく話せない、ひたむきに生きてゆこうとしている人たちの助けになれば幸いなことです。

 

日頃、金の使い方の下手なことを気に病んでいる私としては、大変良い気分にさせてもらったのでした。

 

・夕暮れのプールの女は若からず

 

?監獄

メルボルンから飛行機でタスマニアに飛びました。

ここまで来ると,緯度は宗谷岬ぐらいで、大部、南極に近くなります。

夏の終わりの時期でしたが、朝夕は寒い思いをしました。

ここの第一の観光名所は刑務所でした。

入場券を貰うと、一人一人トランプのカードを引きます。私にはスペードの9が当たりました。

展示室に入る前にボックスがあって、自分のカードと同じ印のボックスの蓋を開けるのです。するとそのカードに対応した囚人の名前、罪状、服役状況などが書いてあります。

スペードの9はクラークという名の29才の兵士でした。罪状は上官侮辱、服役態度が良かったので、1年以内に出牢し町で働いた、と書いてありました。

こんなようにして親近感を持たせ、あとの例えば労働の展示ところでも、その囚人はどんな仕事をしたなど、カードで分かるようにしているのが面白いと思いました。

 

ここの監獄は1830年に使用開始されました。

アメリカが18世紀後半に独立してしまったので、その代わりとして、オーストラリアが流刑地にされたのだと書いた本を見ましたが、本当でしょうか。

いろいろの見方があるでしょうが、オーストラリア大陸は船の便では、ヨーロッパからは遠い遠い国でした。大陸そのものが、壁のない刑務所だと言われたこともありました。

監督する者と監督される者の、極めて落差の大きい二つの人間集団が住み着いたのです。

 

昔は、島流しという刑罰がありました。

「死一等を免じ、遠島を申しつける」というように、死刑の一歩手前の重い罪だったのです。

平家物語に記され、謡曲にも作られている俊寛は、政府転覆を謀った罪で、九州の先、鬼界が島に流されました。3人同時に流されましたが、そのうちの2人は皇太子誕生の大赦の際に都に帰ることが出来ました。ただ俊寛1人だけは島に残される、その別れの愁嘆場が曲の山場を盛り上げます。

俊寛は、1人淋しく孤島で果てたとされます。

 

 

この刑も西郷隆盛が奄美大島に流された頃になると、政治活動の場からは隔離されますが、生活としてはさほど命を脅かされる感じはありません。

島で長者の娘さんと結婚し、そこで生まれた子供たちは後年、京都市長になたり、大山元帥の子供さんに嫁いだりしています。

 

現在では、文明の進歩が、島流しの刑を無意味にしてしまいました。むしろ、国外逃避、国際警察による捕捉という方向に進んでいます。

 

さて、この監獄が1877年に閉鎖された後、建物がホテルに転用されたりして、消滅しそうだったようです。ところが、ここを題材にした小説と映画がヒットしました。

そしてその影響の大きさに、観光地としての価値に目覚めた感じでありました。

このポート・アーサー監獄は、処罰、矯正、そして労働力の確保を目的にしていました。

日本も昔は、外国人に接する機会が大変少なかったのです。そのため、西欧礼賛のコンプレックスの裏返しで、外国人を毛唐と呼び、またロシア人を「ロ助」など呼んだ

ものです。オーストラリア人も「豪助」と呼ばれ、囚人たちの子孫であるから、乱暴で荒っぽいというような印象を付与されていました。

でも、ポート・アーサーには、政治犯も送られてきていたのでした。

言ってみれば、某大統領などに当たる政治犯も囚人の生活を強いられたのです。

 

囚人の集団の子孫は、囚人の要素を特別に色濃く持った集団になるかどうかは、面白いテーマのように思われます。

私は、そうはならないだろうと思っています。

 

オーストラリアでは、最初の頃は男の数が女よりもはるかに多かったはずです。しかし、遺伝子に入っているルールに従って、男女の人口差は、急速に人類の平均値になってしまったに違いありません。

これはちょっと、はぐらかした理論であります。

 

親と子供は、よく似ています。それでも違いはあります。父と母から遺伝子を受けているのですから当然のことです。

しかし、同じ親から生まれた兄弟でも、性質はかなり違います。

私の家でも、お酒の強いのと弱いのとがいます。

私の兄弟にも、極端な旅行好きと、極端な旅行嫌いがあります。

このあたりは、遺伝子に原因があって、性格として発現しているとしか考えられません。

 

さて、囚人と、非囚人とで、遺伝子的にどれぐらい違うでしょうか。

大政治家と、大実業家と、大教祖とは、積極性、カリスマ性などで、よく似た要素が多い点には、広く賛同が得られると思います。そしてこれらの要素は、生まれつき、つまり遺伝子が発現しているのであろうと思われます。

極悪非道の罪人は確かにいますし、その人をどう扱わなければいけないかは、大きなテーマです。しかし、罪人に対応する遺伝子というものが、とくにあるように思われません。兄弟の間でも違っているような小さな遺伝子の性質が、2つ3つ、偶然、好ましくないように重なったとか、その時代にマッチしなかったりということで、罪人になったり、ならなかったりすると思うのです。

つまり、遺伝子的には、偶然、罪人が現れるのだと、私は考えるのです。

 

監獄行きの観光バスには、イングランド人3人、アイルランド国ダブリン市からきた小父さんと同国チペラーリー市の若い女性1人、そして私が乗っていました。

ダブリンの小父さんは、始めは年齢の近い私に話しかけていましたが、女性が同じ国から来たと聞くと「えっ、本当?」など言って、あとはもっぱら2人で喋っていました。

チペラーリーと聞くと、私にも古い思い出があるのです。第一次世界大戦で欧州大陸に送られたアイルランドの兵隊たちが「イッツ ア ロング ウエイ トウ チペラーリー ・・・」と望郷の念を込めた歌を歌ったと、92才になる母から聞いたことがあったのです。そのことをチペラリーから来た若い彼女に言うと、ちゃんと知っていました。

 

ツアーの朝、全員揃ったとき、運転手が観光の内容を確認しました。若いアイリッシュの女性は5ドルのバーベキュー昼飯を要らないと言うのです。「なんで?一緒に食べればいいのに」と言われていました。彼女は昼食の時間になると、どこかへスット消えて行きました。

バーベキューは、肉もソーセージも野菜もみんな5人前ありました。

ダブリンの小父さんは、俺には野菜だけくれと言いました。それで、あとの4人には野菜は当たらず、その分肉が沢山来ました。

ダブリンの小父さんに、あとで「お前は菜食主義者なのか」と尋ねてみました。

「そうじゃない。チキンなら食べる。牛肉は汚染の問題があるからから食べないのだ。」彼はそう言いました。

牛がヨロヨロするおどろおどろしい様子が、テレビ映像で報道されたことがありました。あれは、なんとかヤコブ病という病気でした。

また、どこかの国で家畜の飼料に、抗生物質が大量に投入されていたとかいう報道もありました。どちらも、なにか畜産業者の国益がらみのような印象がありました。

 

私は、小父さんに理由を尋ねましたから事情が分かりましたが、ほかの人たちは、なんのことやらと全然頭に浮かばないようでした。

牛肉の国オーストラリアの実状と国民の常識とから見れば、アイルランドの人たちが、全然かけ離れた判断を、頑なに持ち込んでいると思うに違いないと思いました。

そして、フランスに日本の反原発主義者が飛び込んだら、同じ立場になるだろうとも思いました。

 

イングランド人たちは、監獄の見学はすぐに切り上げて、運転手を口説いてどこかの観光に行ってしまったようでした。

ダブリンの小父さんと私はポカンとして、バスが戻ってくるのを待っていました。

私はおごられ上手なのです。

つまり気が利かなくて、2時間でも3時間でも、気にしないでボーッと立っていたりするのです。ここでもアイルランドの小父さんに、スナックでお茶をおごられてしまいました。

もし、彼がスコットランド人だったら、私は世界一のケチン坊になってしまうところでした。

 

大陸の南西部にあるフリーマントル市の観光名所も、また、監獄跡でした。

人間はこのような通常でない生活に、興味を持つものなのでしょうか。

北海道の網走にも、観光地としての監獄があります。そう言えば、明治村にも監獄があります。

昔は「ここは網走、番外地」と聞けば、娑婆と全く切り離された、流れ者の自己憐憫の響きがありました。

しかし今は、飛行機で一時間ほどで着いてしまいます。私は網走を2度訪ねていますが、監獄にはそんなに興味を感じないので、足を運ぶまでにはなっていません。

フリーマントルでは、一番の観光の目玉になっていますから、見物にゆきました。監獄は、少なくとも、オーストラリア観光らしくはあります。

 

先ほどの、ポート・アーサー監獄が、英本国が囚人の処罰、矯正を目的として開設した監獄らしい監獄だとすると、遅れて出来たこのフリーマントルの監獄は、地域開発にとって涎が出るほど欲しい労働力確保のため、という色彩が濃いのです。

ポート・アーサー監獄を横目で見て、こちらにも囚人を廻して欲しいとイギリス本国に請願し、それが聞き届けられて出来たのだそうです。

この地方の鉄道も、通信線も、道路もみんなここの囚人たちが造ってくれたものだと言っていました。

このフリーマントルの市だって、一番最初にあったのは、この監獄なんだからと説明しています。小高い丘にあり、市の水源のある、優れた立地条件の場所なのです。

ここの監獄は観光に熱心で、日本語のテープレコーダーを貸してくれました。説明の場所で、案内板の番号を押すと、日本語の説明が流れてきます。

 

ここの監獄は9年前まで、実際に使われていましたから、なにかと生々しいのです。

監獄での、規則正しい生活について説明がありました。

小さな庭があって、囚人は運動の機会を与えられるのですが、日曜であろうが、雨が降って凍えるような日であろうが、その決められた時間には独房から庭に追い出されたのだそうです。

監獄とか、昔の軍隊とか、人権などない人生もあったものだと、忘れていたものを思い出す思いがありました。

 

英国本国では1838年に人民憲章が制定され、人権尊重の空気が高まってきました。

そして、島流し、流刑は1840年に廃止されました。

ところが、辺境のオーストラリアでは、流刑はタスマニアでは1853年、パースでは実に1868年まで存続したのです。いかに、労働力確保としての性格が強かったかが分かります。

それまでは、囚人といっても、ハンケチを盗んだら7年の流刑というように、ひどく厳しかったのだそうです。

それもやはりこの頃から罰が軽くなり、そのために囚人の質が落ちるようになったといわれています。

結局、オーストラリアには、トータルして16〜17万人の囚人が連れてこられたのだそうです。

 

 

なにせ無限の時間を持った囚人たちですから、手の凝ったものを残しています。

部屋の木の壁を彫り込んで,鋲の頭のように、無数のボツボツを作ったのもあります。

彫りとる方が大変な面積なのですから、途方もない労力と根気です。暇つぶしの要素がなくては、やれる仕事ではありません。こんなものは、娑婆で見られるとは思われませんでした。

 

ある囚人は、壁に数々の絵を残しています。

これも、なおざりに書いたものではありません。なかなかの物です。

ちなみに、彼がこの監獄に入れられた罪状は、文書偽造だったのだそうです。

 

ある部屋にいた囚人は、現在もよその刑務所で服役中なのだそうです。

オートバイ事故で、片足がないので「義足」とあだ名されていました。

監獄内の鉄工所で働いている間に、監視の目を盗んで合い鍵を作り、義足の中に隠していました。

チャンスを見て、その合い鍵で脱獄しました。しかし再逮捕されました。

彼がどれだけ合い鍵を造ったかが、どうしても分からなかったので、大変なお金をかけて、監獄の鍵を全部交換しなければなりませんでした。

そしてまた、彼の義足も隙間のない木製の物に交換したのだそうです。

 

こんな常人ではない、奇人たちの奇行を聞くのが、監獄ツアーの興味なのでしょうか。

ともかく、オーストラリア弁が聞き取れないので、残念でした。

 

・バックパッカーの1人や吾は冴え返り

 

?移民

この大陸に、最初、人類が渡ってきたのは、4〜5万年前だといわれます。その頃は海面が今よりも200mも低く、ジャワの方から来たとされています。

14世紀には、この大陸の存在はヨーロッパ人に知られていました。しかし、なにせ大変に遠くて、その割りに魅力的な産物もないとして、さほどの関心を引きませんでした。

そして1788年にいたり、英国にから本格的な植民が始まりました。

その頃、この植民地は、当然、英国にとって利益があげることが目的でありました。

支配者はその目的のために、安い労働力としての移民を入れたのです。

どういう人を、何人入れるかは、その国の決めることです。

最初は、英国からの囚人でした。

次の選択は、低賃金で済むヨーロッパ人、具体的にはイタリア、ギリシャの人たちでした。

イギリスを倣ってつくられた制度に溶け込みやすいからという理由から、実質的に、白人しか受け入れない白豪主義をとっていました。

また、王制と相容れない共産主義国は、建国以来一貫して人気がありませんでした。

移民受け入れの条件として、ヨーロッパ系の言語の学習能力を要求し、試験官が恣意的に中国人にブルガリア語の問題を出すなどして、有色人種の締め出しをしていたといわれます。

ヒットラーの行った人種差別は、世界中の悪評を買いました。あらゆる国から、移民を受け入れなければ、国際的に評価されない世の中になってきました。

また、共産主義を嫌ったばかりに、オーストラリアはベトナム戦争で南の側に、かなり肩入れしたのだそうです。その結果、ベトナムからのボート・ピープルを受け入れざるを得なくなったとも言います。

いずれにしても、現在では多民族,多文化国家といわれる社会を形作るにいたっています。

こんな事情ですから、オーストラリア人は全部移民ではないか、という議論はあります。

しかし、第2次世界大戦後の移民を新移民と呼べば、国の人口1800万人のうち、新移民が400万人もいるのだといいます。

新移民は、このメルボルンの近くに、とくに多いのだそうです。

 

最初の住人アボリジニの次に、進んだ文明を引っ提げてやってきたイギリス人の重さには、特別なものがあります。また、彼らの体質になっている階級社会感覚は、現実には厳しいものでしょう。政治、経済の基幹は、依然として英国系の人たちが握っていると言われます。

 

シドニーでブラブラ歩いていると、古色蒼然たる建物があり、ニュー・サウス・ウエールズの議会と書いてありました。

あまりも古そうに見えたので、私は、てっきり昔の議事堂で、今は博物館にでもなっているのだろうと思って入ってみました。

中は、随分綺麗で、現在も使われていることが分かりました。

壁に、エリザベス女王の若くて美しい、大きな絵が掛けられていました。しばらく歩くと、ビクトリア女王のもありました。銀行からの寄贈であることを示すプレートがついていました。

オーストラリアでは、今でも6つの州に6人の首相がいて、それぞれ直接英国女王につながっているのです。そして、国の運営の効率化の観点から外交、通貨、関税、通信などに限って連邦政府に任せているのだそうです。

話は脱線しますが、キングとクイーンを較べると、どこの国でもクイーンの方が民衆に人気を得ていることが多いような気がします。

男というものは本来女性に好意的ですし、好意を抱く対象が女王ならば、妻たちも焼き餅を焼かないからなのではないでしょうか。

どの街も、キング・ストリートよりもクイーン・ストリートのほうが、賑わっているように見受けられるのです。

生殺与奪の権威を持っているジョージ・ストリートにもそれなりの敬意は払いますが、自分の財布の紐を緩めるのならエリザベス・ストリートということなのかもしれません。

 

オーストラリア社会では、要所を英国系の人が押さえているようです。しかし、現に沢山の民族が入り込み、それぞれの文化を発散させながら生活しているのも、また事実であります。

中国、インドネシア、ベトナム、ユーゴスラビア、ギリシャ、そんないろいろの料理店が並んでいます。

 

メルボルンのギリシャ人街は、本国のアテネに次いで、世界で2番目にギリシャ人の人口が多い街になっているのだそうです。

また彼らのうちには、弁護士をうまく使って、早くオーストラリアの年金を受ける資格を得て自国に帰り、優雅な生活を送っている人がいるのだそうです。その数は10万人にものぼるということも聞きました。

 

なにせ、全体に若い国で、総てが、まだ流動的のように思われます。

オーストラリアの人たちの日本熱は高いのだそうです。でも、日本からの移民は非常に少ないのです。

日本で失業していた方がマシだと思うようになったら、移民は成立しません。アメリカもそのようです。豊かな国になってしまったのです。

 

・芝の露移民の墓は果てなしや

 

?日本人観光客

エアーズ・ロックの朝のことです。

まだ真っ暗な5時に、もう観光客たちがホテルのロビー辺りに三々五々集まっています。

オーストラリア人のツアー・リーダーが、日本語で「佐藤さん、お二人」というように点呼をとっています。そして日本人だけのバスで出発して行きます。こんなようなのは、ほかの国のお客にはありません。

有名観光地では、日本人観光客の人数が、ほかの国の観光客と較べて、圧倒的に多いのです。

別の見方をすると、日本語ツアーのあるところに、日本人が押し掛けるということかも知れません。

 

エアーズ・ロックの日の出ツアーへ行った時のことです。バスは日の出よりも大部早く現地に着きました。

団体客相手に、コーヒー無料サービスのスタンドが開かれます。

空は、雲に覆われているのですが、日の昇るところだけ、ちょっと雲が切れていて、その辺りの雲が輝いてとても綺麗です。

こんなにして日の出を待つのは、久しぶりのことでした。

若い頃は、山へ登っては、貴重なもののようにして、ご来光を迎えたものでした。でも、年を取ってからはすっかり感激は消滅しています。

そんなことで、前回、日の出を待っていたのは、2年前メキシコのオリサバ山の中腹でのことでした。なんだか外国でばかり、ご来光に巡り合わせるなと思いました。

エアーズ・ロックが日の出を受けて朱に染まるのを待っている間、日本の若者たちは、地べたに座り込んで、ジベタリアンしてました。

また、賢い日本のおばさんが5〜6人、旅行用の椅子に座っていました。

こんなにしているのは日本人だけでしたから、善し悪しはともかく、やはり畳に座る習慣が、座りたいという文化を作っているのかしらと思いました。

 

それにしても、どこへ行っても、日本人も個人旅行が多くなりました。

それも、夫婦でというのが殆どで、日本人も西欧スタイルになってきたものだと、つくずく思ったことでした。

 

パースからピナクルを観光に行くとき、同じバスに私と同年輩の品の良い夫婦連れの日本人が何組か乗っておられました。

先方からお声を掛けていただき、一日楽しくご一緒させていただきました。

信州のさる名門高校のクラス・メートの方々が来ておられるのでした。

お話を伺っていると、皆さん各分野で名をあげられ、今は、やっと時間の余裕ができた方たちでした。

そして、春浅いこの時期、信州ではできないゴルフを、ご夫婦ともども、外国でのんびり楽しむのを、そのグループで毎年恒例行事にしておられるのだそうです。

トータルの人生に対する前向きの考え方や、それを現実のものにする実行力を備えていらっしゃる方々だと感心しました。

人も羨むというのは、このことだろうと思いました。

 

虚子に「これからは恋や事業や水温む」という句があります。

卒業を控えたこの時期、若い日本人男女が、オーストラリアの各地を沢山歩いていました。あちこちで「君も大学生?」「僕、○○大学」という調子で、意気投合していました。

私がその年頃だった頃は、海外旅行などできるとは夢にも思いませんでした。なにせ、一人あたりのGNPが、アメリカの百分の一だったのですから。

今の人のように、若い頃から外国を知り、外国に友達を持つことは、素晴らしいことだと思います。

ある朝、ユース・ホステルで、若い女性が机の向かい側に座りました。日本語で話し合っているので、私から「どちらから来られましたか」など、差し障りのない話を始めました。話題に乏しい私は「オーストラリアで一番高い山を知ってますか」と聞きました。彼女らは、もちろん知りませんでした、私だって1年前は知らなかったのですから。

次いで「ヨーロッパで一番高い山は?」「エベレストですか?」「モンブランですよ。

それじゃ、アフリカで一番高い山は?」「それこそエベレストでしょ」。

 

・曙や日の矢広がる大平野

 

?アボリジニ

西岸の都市パースから200キロほど内陸に入ったあたりは、広大な牧草地が続いています。

オーストラリアの牧場はとても広くて、飼育されている動物は、まばらにしか見当たりません。

考えてみれば、日本の牧畜では、飼われている場所こそ日本ですが、飼料は輸入されたものです。運動する場所も、必要最小限の作られた運動場です。

日本のサラリーマンも、狭いところに住み、輸入された食物で命をつなぎ、休日には高度に人工的な公園というエセ自然環境の中で安らぎ、あるいは家族と一緒に高密度な観光地でお金を払って遊ばせて貰っています。

なんか悲しいアナロジーを感じました。

運転手さんの説明では、このあたりの牧場は、第一次世界大戦の後に、帰還兵に州政府が分け与えたものだとのことです。

戦の恩賞に土地を与えるのは、人類共通の習性です。

日本では、戦国時代の末期に、与える土地に事欠くようになったという説があります。

この説の当否は怪しいのですが、それ以来、土地の代わりに、茶の湯の茶碗に恐ろしいばかりの勿体を付けて、分け与えるようになったというのです。

 

オーストラリアには、もともと自分の所有であった土地を、イギリス人が力で奪ったのだと主張している人たちがいます。

この大陸に、最初の人類は、ジャワ方面から渡ってきたといわれます。

その人たちには、それ以来、1606年、ヨーロッパ人がこの大陸を発見したときまでの4〜5万年の間、それなりの歴史があり、200の言語を持つ、30万人、600の部族になっていました。一つの言語を話す集団は平均1500人、一つの部族は500人ということになります。

それが、日本の22倍もある広大な土地に、バラバラと散らばっていたのです。

彼らは、甘ったれた文化人たちが空想する理想の生活をしていました。つまり、自分が必要とする最小限のものしか、自然から奪うことはしませんでした。自然との完全な共生の生活をしていました。

逆に言えば、彼らの能力で自然から引き出し得る恵みの限度以上の人は、死ぬよりほかに仕方なかったのです。

地球の温暖化だけがかまびすしいこの2000年の早春、モンゴルでは特別の寒気に襲われ、羊が数百万頭死ぬという騒ぎで、旭鷲山が救済募金のために飛び回っていることをご存じでしょうか。

オーストラリアでも自然環境が自然に変わるのにリンクして、人口は増えたり減ったりしていたのでした。

それが、その頃は30万人ということだったのです。

そんな彼らを一括して、原住民、アボロジニ(最初からのと言う意味)とまとめてしまっています。

 

ところで、土地の領有権とは、いったい何なのでしょうか。

アダムとイブが、全地球は自分の所有で、北京のほうのピテカントロープスに土地の補償費を請求しようという気持ちを起こしたとは思われません。

オーストラリアに英国人が入植して来た頃の事情は、どうだったのでしょうか。

事実上無人だった地域について、アボロジニが領有権を主張するのには、無理があるように思います。

しかし、英国人が住みよい場所は、アボロジニにとっても住み良い場所だったはずです。

自分の家、自分の狩り場,そういったものには所有権の観念はあったに相違ありません。

そういう場所については、軋轢が起こりました。つまり英国人にはアボロジニは邪魔だったのです。

英国人にも、アボロジニを人間として扱い、彼らと共存しようとする人と、害獣として扱おうという人がいたのだそうです。

1606年発見当時30万人といわれたアボロジニの人口が、1901年には、6万人まで減少していたといいますから、大勢としてどんなようなことが行われていたか、想像がつきます。

現在は混血を含めて、アボロジニは18万人といわれています。私は殆ど会うことはありませんでした。話をしたことは一度もありませんでした。

 

パースの公園を、通りかかったときのことでした。

午後4時頃のことでした。色の黒い男女が10人ほど車座になって騒いでいました。

お酒を飲んでいるようでした。公園内では、お酒を飲んではいけないと立て札が立っていました。

 

車の運転手の分かり難いオーストラリア弁ですから、間違っているかも知れませんが、お客さんの質問に答えて、こんなことを言っているように聞こえました。

彼らは州政府に土地を返せと要求します。

そして、与えられた保証金は、お酒を飲むのに使ってしまって、ちっとも仕事はしません。

教育だって、機会は十分に与えられています。

ほかの国から来た人たちを見て下さい。中国人でも、ベトナム人でも、この国の公式言語は英語ですから、英語を勉強します。5〜6年経ってご覧なさい。彼らは立派なオーストラリア人です。

でも、アボリジニには、もう200年もそれをやっています。でも、英語を覚えようともしないのです。私たちとして、そんな彼らに、一体何ができるでしょう。

 

他日、在住日本人の通訳さんに、私から質問を投げかけました。

以下は、その答えです。

 

私たちがその事に触れると、日本のアイヌの問題はどうなのだといわれます。

アボリジニたちがちゃんとした職に就こうとしても、難しいのも事実です。仲間たちで集まって、お酒を飲んで夜遅くまで騒いだりすることは多いのです。そんなときに周囲から、うるさい,町の品位が落ちる、出ていってくれと声が上がります。

その事情は、白人がしても同様に出て行けと言われるのですが、アボリジニの場合には人種差別だと大声で叫ぶのです。

鶏と卵の関係で、どちらが先とは言えませんが、世間に背を向けていることと、差別されている現実は、困った問題であるには違いありません。

 

前から住んでいたことを理由にして保証金を獲得し、そのお金をうまく生かせないことはよくあることで、よそでも聞くことがあります。

差別に関わる問題も、あちこちに共通のことでありましょう。

アメリカ合衆国では、黒人問題が多くの人たちの良識と努力で、職業軍人、野球、バスケットボール、ゴルフなどの分野でスターを生み、良い方向に進んでいます。オーストラリアでも、そんなようになってくれればよいと思うのです。

 

それにしても、アボリジニの人たちのことが、もっと良く知られることが大事なのではないでしょうか。

厳しい自然環境の中で生き延びてきたのですから、彼らは肉体的にも精神的にも特別に強く、しかも運の良い人たちであるのには違いありません。

 

なにせ、外の大陸とは隔絶されていた土地です。植物相も動物相も特異です。

あるガイドが、タスマニアン・デビルという野性の犬のような動物が、この大陸で、ただ一種類の肉食動物だと説明しました。私は片目をつぶって「アンド マン」とジョークのつもりで言いました。

逆説的な意味で申すのですが、こんな特別な大陸ですから、特別な人類がいるかもしれないのです。

人類は皆同じなどいう紋切り型の先入観を捨てて、アボロジニを客観的・徹底的に評価してはいかがでしょうか。現にフットボールの強力選手がいるとのことでした。

 

・ヒョウロリと囀りのある熱帯夜

 

?旅の終わりに

今度の旅の最後のフライトは、シンガポールを真夜中の1時20分に出ました。

英語のアナウンスのあとに日本語のアナウンスがあります。やっと懐かし日本が近づいてきたのです。

翌朝、機内ビデオでNHKのニュースが流されました。

なんと、そのニュースの中では、警察の、そして防衛庁の不祥事がトップと2番目でした。

それを聞いているうちに、2週間、外国で聾桟敷にいて、いま日本という犯罪国に帰るような気分になってしまいました。

 

ニュースというものは、特殊なことに意味があるのです。

でも、世の中の大部分は、ニュースに取り上げられない普通のことで成り立っています。先進国で1日1000円で暮らそうが、途上国で1日50円で暮らそうが、地球上の殆どの人は、それなりに目出度くもあり目出度くもなしで、普通に暮らしている

と思うのです。

伝えられるニュースばかりで判断していると、アメリカでは、銃の乱射で市民がバタバタ死んでいると思うことになってしまいます。同じ流儀で外国人は、日本では国家の機関、権威が汚職にまみれ、信用できない国であると思ってしまうでしょう。

私は、可能な限り、何事も、自分の目で見て判断したいと思っています。

人の噂も四十五日とやらのような浮世話をしながら、得意げに右往左往するような人生を送りたくないと思います。

子供の頃は、大東亜共栄圏、鬼畜米英、撃ちてし止まん、など聞かされました。

最近では学校のいじめだとか、臓器移植だとか、遺伝子組み替え・クローンだとか、警察の不祥事だとか、自分だけが正義の味方になっているような、浮き世の話題が賑やかであります。

しかし、それらのことは、あのようなはしゃぎ方をするべき問題なのかしらと思わずにはいられないのです。

もっと、クールに、物事の総ての要素を、あくまで人間のひとりとして、見てゆきたいと思うのです。

 

できるだけその土地の人と同じ方法で、苦労しながら旅をすること、それが外国を、あるがままの姿で見る方法のひとつだと思っています。

そうするとき、自分の国の姿が、世界の国の中のひとつとして、今までよりも、はっきり見えてきます。

また、多種多様の異なった制度や習慣の中に、人間として共通な、基本的なものが浮かび上がってきます。

それは、物理学の中の重力のような存在であります。

 

人間は、良いものでもあり、悪いものでもあります。

そして、良くあるべきものであります。

残された私の細々した余生を、ひとりでも、半分でも、他人に喜んで貰えるように使えたら良いと願うのです。

 

・紅梅を愛でコーヒーを賞づる朝 

 

 

  

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