題名:中部電力 中国謡跡探訪団

重遠の入り口に戻る

日付:1998/2/5


スケジュール

一九九七/九/一四〜一九

九/一四 名古屋━上海━西安 全日空ホテル泊

九/一五 兵馬俑━始皇帝陵━華清池━興慶宮跡━西の城門 全日空ホテル泊

九/一六 阿房宮跡━柳貴妃墓━茂陵━感陽宮跡 全日空ホテル泊

九/一七 西安━北京━八達嶺・萬里の長城━定陵━天安門広場 国際飯店泊

九/一八 故宮━空港━上海━ガーデンブリッジ━外灘 銀河賓館泊

九/一九 上海━名古屋

 

メンバー

 加藤、大西、幅,阿部、福田、原、水谷、番、内田、大島、奥田、大坪

 

概要に代えて(雑誌 観世への投稿)

 

              中国の古都西安の謡跡探訪

                                   大坪重遠

 九月中旬、中部電力謡曲部の現役およびOB12名からなるグループの一員として、6日間の行程で中国西安市近傍の謡跡を訪ねた。

 中国の謡跡についての、先輩諸賢の資料を参考にさせていただいて作った、我々の手作りの旅であった。

 まず皮切りは、有名な兵馬俑を見た帰り道に、楊貴妃と玄宗皇帝とが愛の日々を送った温泉別荘地、華清池に立ち寄った。池の中の亭に通ずるる石橋の上で「楊貴妃」の一節を吟じた。

 平日の昼前であったが、我々が謡い終わると、大勢の地元観光客の中から拍手が起こり団員一同を喜ばせた。

 次に、西安市に帰り、市内の興慶宮を訪ねた。ここもまた先の2人が暮らした宮殿の跡である。50歳代後半の玄宗皇帝が、34才も年下の楊貴妃にかけた想いの激しさは、1200年を経た今も語り継がれ、今後も人間の歴史から消える日はないであろう。

 ここには日本からの観光客用であろうが、かの李白が阿部仲麿呂の死を悼んだ漢詩を刻んだ碑がある。かっての宮殿の跡の「池の汀」で、「鶴亀」全曲を謡った。

 先程まで、しつこく付き纏ってきた物売りたちが、これはちょっと違った人種だと思ったのか、退散したのは有難かった。

 阿房宮では「天鼓」の一節を謡った。地元のガイドがこの辺り全部が阿房宮跡だと言うので、つとある墳丘の上で謡った。西安市の南西わずかのところで、ただ一面のとうもろこしの畑であった。

 咸陽宮も場所がはっきりしなかった。昼飯にビールを飲み、車中でうとうと居眠っていたところ、いきなりガイドに起こされ「このあたり一面が咸陽宮だ」と宣言された。ここもまた、ただ海のようにとうもろこし畑が広がっている。あまりに心もとなく、地元の人に聞きまくり、車で相当の距離を行きつ戻りつして、やっと咸陽博物館に行き着いた。この間ガイドたちは、一向に地図を見なかった。地形が地図で表され、それに従って目的の場所に行くという概念がないように見受けられた。

 博物館の前の畑で、「咸陽宮」全曲を謡った。

 謡い終わって、先程から道端に腰を下ろして聞いていた農夫に「ニーハオ」と声を掛けたが,ぽかんと口を開け、驚きの表情を隠そうともしなかった。なにせ大変な田舎で、日本人など見たことがないのであろう。おまけに、それがなにやら大声を出していたのてある。

 楊貴妃の墓では、ほとんど訪問者がいないのをこれ幸いと、心静かに「楊貴妃」の後半をじっくりと謡った。

 墓は西安市から西へ約50キロ、大平原の中に、ようやく丘陵が現れる辺りにある。古くは、お墓の土を顔に塗ると美しくなると言い伝えられ、採る人が絶えなかったという。いまは煉瓦とコンクリートで固められている。また、大きな大理石の楊貴妃像が立っていた。

 阿房宮、咸陽宮のほか陵墓などの「都の周り一万八千三百余里、内裏ハ地より三里高く」式(原文のまま)の記述が、現状とどのように結びつくのか、将来、考古学的な調査が進んで、段々明らかになって来よう。

 

中国で考えたことども

 

広さ、大きさ

 名古屋から上海までは僅か2時間の飛行だが、上海から西安までも2時間かかる。鉄道だと24時間かかるという。同じく西安と北京のあいだと、北京、上海のあいだも2時間弱である。

 彼の地では、9月中旬にはどんよりした日が多いという。そのため遠くまで見渡せなかったこともあるのだろうが、なにせ一面の平らな地面に、果てしもなくトウモロコシ畑が続いているという印象が深かった。

 私にとっては15才の夏が終戦だった。小学生の頃、中国での戦争を題材にした「麦と兵隊」という本が有名で、その本の中に軍人だった私の祖父の名が、ちらっと出ていた。また「徐州、徐州と人馬は進む・・」と言う軍歌は、いまでもカラオケで歌えるぐらい節を覚えている。つまり、私はいわゆる戦中派なのである。

 今回、飛行機と自動車に頼って旅行しながら、この広大な国を、昔戦争のとき足で歩いたら、どんなに大変だっただろうかという思いが、常につきまとっていた。また、戦時には3度の食事にしても、日本から持って来る訳にもゆかず、また表面はどんなに取り繕っても、本質的には正常な取引でお金を払って買うことも不可能だったに違いない。

 異国の茫々たるとうもろこし畑の中を、目的地を目指して進むのは、大洋を航海するのに似ている。天気が続けば、もうもうたる砂塵、雨が降れば田んぼのようなぬかるみになる道を、自分の足だけを頼って行進する日々はどんなに苦しかっただろうか。

 ましてや、敗れたあとの追われる身には、さらに辛いことだっただろう。中国残留孤児たちの親たちが苛まれたこの世の地獄は、戦争を知らない時代の人たちには、しょせん分かることではないだろう。

 この大国での地図システムは、どうなっているのかと思った。

 日本では、全国が20万分の1、5万分の1、2,5万分の1の縮尺の地図によってカバーされている。

 広い中国でも、同じシステムを適用するのだろうか。なにせ面積が日本の約25倍もある。

 しかしこの規模の違いは、実行する気にさえなれば、出来ないことではない。

 だが、もうひとつ基本的な心配がある。それは作った地図が、低縮尺の場合、どれもこれもほとんど同じになって、つまり等高線がなく、ただ畑のマークばかりで、まるで海の地図みたいになりはしないかということである。そうなると、いかに事実を正確に表現しているものではあっても、利用価値はまず考えられず、売れないのではなかろうか。

 中国の総人口の約12億人はもとより、北京市の人口が1100万人、上海市が1300万人、天津市が900万人など数字上の巨大さは先刻承知していた。

 しかし、実際に訪れ、走って、見て、大都市の広がりと、その中の住宅街の煉瓦の壁、入口、うごめく人々を見ると、これは大変なことだという実感が湧いてきた。

 地球上に人が生きている状態の、量と密度の一方の極値という感じがする。中国のそれから、希薄なほうに向かって、日本があり、アメリカがあり、カナダの北部がある、私はこの秋、それらの地域を全部駆け抜けたので、余計にその点を強く感じている。

 中国1国の人口は、ヨーロッパ全体より多い。この大勢の人たちが一つの国として行動していることが、私には改めて不思議に思われるのであった。

 宇宙人から見れば、人間とはなんと不可解なものであるかと見えよう。

 中国の12億人を代表している江さんと、カンボジアの約600万人の代表のシアヌークさんとでは、仕事は全く別物に違いない。

 もちろん、規模に応じた組織があり部下がありではあるが、12億の人口というのは只事ではないはずである。国として纏まるのは、生半可なことではあるまい。

 例えば西安市の300万人(ガイドはたしか500万と言ったが)、陝西省の3400万人を、外国ほど遠い所にいる北京政府が、どうやってうまくコントロールできるものなのだろうか。

 ともあれ、秦の始皇帝以来、2千年以上も、広く、大きく、北と南で言葉も通じない中国が、ひとつの国として有り続けているのは、ひとつの奇跡とさえ思われる。

 もっとも、私が子供の頃は、支那の人口は4億と教えられた。それが多くなっただけだという見方も成立しょうが。

 昔からそうだということには、それなりの蓋然性があり、平素はさして気にならないが、旅して実感すると、新鮮な感じ、つまりまことに不思議な気がしてくるのである。

・見渡す高梁畑貴妃眠る

 

復習

 旅行中ずっと、我々の一行について案内してくれたガイド氏は、大学を卒業し、教師をしていたのだが、給与に不満があってガイドになったと言っていた。

 最初に案内してくれたのは、地下宮殿兵馬俑であった。秦の始皇帝がそれを建設したのは、日本では縄文から弥生に移り変わる時代である。勉強家の彼の将来の足しになればと、その時代の日本の文化について、いくばくかの知識を話してあげた。

 また、北京の紫禁城を訪れたときも、彼が説明してくれる当時の中国の宮廷のしきたりに関連して、その真似したに違いない日本のしきたりを比較しながら話してやった。

 そういったように、今回の中国史跡の見学旅行は、私にとっては日本の歴史の復習でもあった。

 西安市も北京市も上海市も、今回の訪問を終えたあとは、私の脳の中の保管場所が、訪問前とは別の棚に移っているのを感ずる。今までだったら、すっと素通りしてしまっていた情報が、訪れた土地との関連があればこそ、今では脳のセンサーに確実に捕らえられるようになって来ている。

 これは、いわば復習だからそうなっているのである。なにせ実際に見たものへの追加の情報であるため、なるほど、なるほどと頷くことが多く、実に楽しい勉強になる。

 振り返って思えば、私の脳細胞の遺伝子は今流行の問題先取り型ではないらしく、昔から復習の方が好きだったように思う。

 幼稚園や小学校の勉強では、これから出会う事どもについての予習の要素が大きいのが道理である。役には立つだろうが、私は自発的に興味をそそられることは、あまりなかったように思う。

 それと対照的に、馬齢を重ねた今は、大抵のことが復習めいている。したがって、年を取るに従って、調べものが面白くて仕方なくなってきている。それは勉強と義務的に呼ぶのさえ、正確さを欠いていると思うほどである。

 今回の中国旅行の直後にアメリカとカナダを旅したが、その際「秦の始皇帝陵の謎」と題する文庫本を持って行った。そして空港で待ち時間に読んでいた。復習である。

 この本の中から、兵馬俑について面白く感じた話題を、二つほど紹介しておこう。

 ひとつはレーガン大統領が見学した時のパフォーマンスである。

 馬好きの大統領は、古代陶器の馬の前に立ち「この馬に触ってもいいかね」と尋ねた。案内人は外国の偉い様からこのような質問をされたのは初めてだったので、やや返事が遅れたが、どうぞと言われ背中に手を置いた。段々と後ろの方へ動かして、尻に触ったとき突然手を放し、もっともらしく「蹴られることはないかね」と説明者に聞いて見せた。

 また見学を終わって出口に差しかかったとき、はたと兵馬俑を振り向き「DISMISS( 解散) 」と大声で号令をかけてみせた。

 これらのパフォーマンスが、随行している各国の記者たちからの大歓声を誘ったのは、言うまでもない。

 さすがは、俳優の出身だけのことはある。大向を唸らせる術を知悉している。

 また、銅馬車が発見されたときは、噂に尾鰭がつき「本物の馬車と生きた馬が発掘された」との話に化け、好奇心に満ちた見物客が押し掛けた。

 政府の発掘隊は貴重な文物を護衛するため、現場に仮の小屋を建て寝泊まりしていたが、土地の農民たちは自分たちで縄張りして、発掘隊も立ち入れなくしてしまった。そして段ボールをきざんだ入場券を勝手に作って売りまくった。緊急に一小隊の軍隊が派遣されたが、これとも衝突し、怪我人を出しながらも縄張りを守り抜いた。

 資料搬出のトラックが到着したときも、高額の補償を要求され、一回入るたびに農民ひとりの年間収入を支払うという条件を呑まされたとのことである。

・ざくろ売る地下粛々と兵馬俑

 

おみやげ

 海外へは何回も行ったが、完全な観光パック旅行は、香港に行ったときだけである。

 仕事の場合は、当然自分ペースの旅であるし、海外登山のパックツアーでも、さほどお土産の店が苦になった記憶はない。

 まったくお土産を買わなかったのは、ネパールと中国である。もっとも、絵葉書ぐらいじゃ土産の中に入らないとなると、私の場合、もっといろいろな国の名前を上げなければならないことになる。

 考えてみると私は日本でも、お土産には苦労している。

 一番簡単なのは、職場へのお土産だ。土地の名物の菓子を、数が全員に渡るように考えれば済む。

 子供が小さいうちは楽だった。食べるものなら、なんでも買って帰れば喜ばれた。

 また、両親がまだ元気な中は、つゆ付きの生蕎麦を買えばよかった。

 それが、家内と二人だけになってからは、大変難しくなった。

 基本的に、家の中に捨てたいものはあっても、欲しいものは殆どないという貧乏性な性格の二人である。いずれは消え失せる食い物でさえ、不味くては無論いけないし、うまければ美味いで「こんなものを食べさせて太らせる気ね」と叱られる。実際、うまい漬物で白い御飯を食べたら最高なのである。でも結局、若い時は思う存分食べられて良かったねと、ないものねだりの種を蒔くだけのことである。

 あれやこれやで、結局いまのところは、無人スタンドや農協で野菜をお土産にするのを常としている。

 最初にパック旅行で香港に行った時、大きなお土産店に連れてゆかれ、日本語の上手な女店員にマンツーマンで攻められ、早々にバスに引き上げた。すると、すでに数名の旅慣れた男性たちが帰って来ていて「前に買って帰ったら、女房にこんなものにお金を使って、と叱られてまった。手にも取らせんがや、好みがあるでよう」など話していた。同感だった。

 いまではその時々の気分で、無難なカレンダーやハンカチや、その土地のインスタントラーメンなどを買っている。

 もっとも、孫たちへの分はいつも買うように心掛けている。彼らは、本心から喜ぶし、それに長いあいだ覚えていてくれる。

 孫への過去の土産には、ケニヤの河馬の置物、中国の人形などもあるが、いま振り返ると、ボールペンなど、実用的な文房具が多いようだ。

 今度の中国旅行は、我々自身で訪問先を決めた手造りのものであったが、それでも案内されたお土産店は膨大な数にのぼる。

 中国のお土産店の店員の買わせる意欲は、猛烈という言葉を具象化したらこうなるだろうという風であった。

 西安市で歴史博物館に案内された。一般の中国人とは別の駐車場、入口から入った。入場料も外人用の特別料金と聞く。そして、その出入り口からは、延々とお土産の売店の立ち並ぶ通路を通って展示棟へ行くように設計されていた。

 また北京で、なんとかいう美術館へ連れて行かれた。その美術館たるや、美術品本体の展示は日本で言えば区役所の市民芸術展示ギャラリー程度しかなく、結局、先方の思惑どおり上階のお土産売りの売店に上げられ、約1時間ほど止め置かれたのであった。

 土産店では、私はもっぱら焼物を鑑賞していた。案内された範囲では、ほとんど碌なものはなかった。たまたま気に入った品にも出会ったが、短時間でポイと買うような物ではなかった。

 大体どこでも掛軸、筆、絨毯、玉などばかりで、孫に買って帰るようなものは一向に見当たらなかった。

 さて、最高の舞台は、演ずる人の芸ばかりではなく、観客が乗ってきてこそ盛り上がるのだと言われる。

 猛烈に売りたい観光地の商人たちと、買える機会を逃したくない観光客の、双方の意欲がうまくマッチし、それが高まり、収斂し、行き着いたのが、当今の日本式パック観光ツアーのスタイルなのであろう。

 世の中には、買い物専門のツアーまであることを承知で言うのだが、私にはお土産店で過ごさせられる時間がもったいなかった。

 少数派のために、お土産店抜きツアーが企画されないものだろうか。どっちみち空港などでお土産にはお目にかかるのである、捨てたアイデアでもないと思うが。

・日暮まで諦め居しに名月得

・長安の月良し謡の友ありて

 

戦争と平和

 前にも述べたように、第二次世界大戦が終わったのが私の15才の夏であった。

 したがって私は,戦中派の一人である。今では戦争を体験した人は、本当に数少なくなってしまった。

 今回の旅の最後の訪問地である上海市に、空港から高速道路で向かうと、道路表示板に呉松(ウースン)という文字が目に飛び込んできた。日支事変の始めの頃、呉松敵前上陸という新聞記事で、お目にかかった地名である。

 また、上海のすぐ西にある南昌も、聞いたことのある地名であった。

 私の父はスポーツが得意で、かつ新しいもの好きであった。幼稚園児だった私を、当時まだ珍しかったスキーに、越後の赤倉まで連れて行ってくれた。私は中央線の汽車の中で、石炭の煙で鼻の穴を真っ黒にしながら、少年雑誌に読みふけっていた。

 機体に弾を受け飛行不能になった南郷少佐が、友軍機に手を振って別れを告げ、敵陣に突っ込んでいったのが南昌上空と書かれていたと記憶する。

 一行12人のうち、中国での戦を、リアルタイムで知っているのは、私ひとりだけしかいなかった。

 したがって、生き残りの骨董的人間の私は、その地に旅し込み上げてくる感慨を、ひとり黙って反芻していた。

 いまこうして座っていて,ワープロで「そかい」と打っても疎開が出てくるばかりで、租界という字は出てこない。租界とは、中国の中に、外国が自国民の居住地として、中国の法律や権限が及ばない区域を設定した場所である。今から半世紀ちょっと前の頃の上海で、ヨーロッパ勢、アメリカなどの租界が犇めく中に、遅れて日本が入っていこうというのであった。当然、肩に力は入るは、背伸びをするはで、先輩諸国には憎まれ、中国人からも、欧米より一段と低く見られていたのだと思う。

 そんな時代の中で、子供だった私は、新聞とラジオだけの情報で生きていたのだから、戦争の不当性など思うこともなかった。

 今回、こうして実際に中国を旅をして、半世紀以上前に鉄砲を持って周りから嫌われながら来た日本人に較べ、いまこうして財布に金を詰め込んで歓迎されながら来ている我々の幸せを改めて思ったのであった。

 かって、マウント・ケニアでマウマウ族と暮らした時も、プノンペンを訪ねた時も,どうしてこの国の人たちが、あんなに恐ろしいことしたのかと思った。

 人間は政治、政策的な立場から、あるいは相手を陥れるため、またあるいは自分を正義の味方に見せるため、単純に他人を悪人呼ばわりし非難する。また、本来、人の心に平安を与えるべき宗教人でさえ、相入れない相手を、まるで地獄からの使者ののように扱うところがままある。

 今この瞬間にも、地球上に幾つもの紛争があり、当事者たちは、それぞれ自分たちだけが当然なすべきことをしていると信じているか、少なくともそう言い張っている。

 遺伝子で決まった習性に支配されるよりほかにない,そんな人間が作っているこの社会で、平和を望むのならば、まず人間とはどんな存在であるかを、正確に認識するのが基本である。

 具体的に言えば、特定の時期の、特定の事だけで判断するのではなく、人間が長い過去にどんなことをしてきたか、そしていま地球上のあちこちでどんなことをしているかを、正確に深く知らなければならない。自分が常に百%正しいという考えを捨てて、だれにも良い面と悪い面がある事実を認め、その上で折り合っていくしかないであろう。

・名月や若き男女がついと立つ

 

巨大遺跡

 最初に訪れた兵馬俑では、その壮大なスケールに驚きながらも、ガイドに「どうして兵士たちはみな東を向いているのですか」など質問もし「始皇帝の敵は東から攻めてくると想定されていたからです」と教えられ、それなりに造営した意図を理解したような気分になっていた。

 万里の長城では、その造営と保守の大変な根気に驚異を感じた。しかし、かねてからこれが実際の役には立たなかったことを知っていたから、兵馬俑で見た追従笑いを浮かべた高官の像からの連想で「さすがは陛下、素晴らしいお考えです」と言上し、秦王朝の滅亡の原因に加担し、出世した人もあっただろうなど、多少屈折したことを思っていた。

 もっとも、万里の長城は、長い時代、多くの帝王が関わりを持ったとのことで「自分は賛成ではないが、今までやってきたのだから」など、しぶしぶ同意した、気弱な帝王もあったのかしらなど勝手な想像をしていた。

 私は帰国直後に、謡曲「砧」の発表会をひかえ、曲の暗記をしていた。砧では、長い独り居の妻が、七夕の織姫が年に一度は思う人に会えることを羨み、夫を怨み、ついに衰え、命終わる筋である。

 この万里の長城でも、かっての雪の降る日、この煉瓦造りの暗く冷たい部屋の中で、単身赴任の夜を過ごした男の心が思いやられたのであった。

 旅も終わりに近づき、こんな思いがいつしか蓄積され、そして紫禁城を訪れる日が巡って来た。

 陽気なだけが取り柄のようなガイド嬢に、日本の人はみなここで写真を撮りますと督促され朱色の厚い壁の前に並びながら、こんな巨大な宮殿を造った人は、いったい何を考えていたのかしらと思った。

 これに較べれば、ほんの小指の爪の先ほどにしか当たらない東京都庁の、新宿への移転新築についてさへ、かなりの批判があったのである。

 中国の巨大遺跡、つまり当時の大規模施設の建設が、大衆にとって大きな負担であり、怨みの声があったのは間違いはなかろう。それをどんな男が、いったいなにを考えて強行したのだろうか。感嘆するというより、むしろ非難する気持ちで考え込んだ。

 それは政府の権力を誇示し、命令の実行を確実にするのが、ひとつの目的であったのでもあろう。

 組織においては、その頂点を神格化し高めるのはひとつの統制の手段である。

 私も半世紀前には、帝国陸軍の伍長ぐらいの人に「畏こくも神国日本の上御一人には云々」の枕言葉で始まり、内容的には天皇とは関係のないお説教をされたものである。その枕詞で彼の権威が上がったように、本人も周囲も感じたのであった。

 ひとり一票の平等の権利で、社会のルールを決めようとするデモクラシーなどは、つい最近のことなのである。

 権力による統治のためには、中国の史書に記述のある「都の周り一万八千三百余里、内裏は地より三里高く」式の権威づけが必要だったのだろう。

 また、功績に報いるのに、貴人の着衣、骨董、勲章などを与えるなどと同様に、紫禁城のような大きな宮殿を造り、どの位の者は、どこまで立ち入ることができるといった方式の特権授与も、人類共通の手段で、このような目的にも使われたに違いない。

 たしかにこれは、領土を与えるとか、給料を支給するとかよりも、安く上がる方法に違いない。

 また、こんな考えはどうだろうか。中国を旅していて、昼間からぶらぶらしている人の多いのに気がついた。そういう私だって、そのひとりなのだが、もう一寸若い層のことを言っているのである。

 ひょっとすると、昔の中国でも税金を全国から集め、失業者らに巨大施設建設の仕事を与えることにより、金は社会に還元させながら、雇用の造成、ひいては社会の安定化を目指していたと考えては余りに現代的だろうか。

 しかし極めつきの推進の原動力は、何がなんでも巨大施設建設を進めないと、わが身が危ないと考えたためだったろうと考える。

 皇帝は政権を獲得する過程で、対抗する相手を叩くために、あらゆる手段をとったに違いない。だから政権を取った後も、継続して自分の体制を守るためには、どんな酷いことでもする奴だと国中に思わせておかねばならなかったのであろう。これは本人ばかりでなく、側近にとっても同じことである。従って、巨大施設は国民の合意で建設が決まったのではなく、国民から怨嗟の声が上がる中で、むしろそれを押し殺すことを目的に強行されたのではなかろうか。

 そういう、通常のメリット、デメリット比較を超えて強行するバイタリティは、初代の人に相応しく、2、3代目では時間とともに衰えていく。

 秦の始皇帝の最後は凄まじい。示威の巡行の途中、50才で病死した。取り巻きは皇帝の死を秘して贋の命令書を発行し、有力な後継者を殺し、その後始めて死を発表した。遺体が異臭を発するのを隠すため、多量のアワビを買い込む工作をしたと伝えられる。6人の皇子と10人の皇女は、直後に処刑された。殺戮は殺戮を呼び、皇帝の死後僅か3年で、秦はあっけなく滅亡してしまう。

 今日、我々が巨大遺跡を見るのは確かに興味深い。しかし、それがなくては人類が困ると言うものではなかろう。

 人間の営みが、年を経た後でどう評価されるのか、それなら今、われわれはどうするべきなのかを考える、ひとつのよすがが巨大遺跡にあるように思う。

・秋天下長城闊歩陽気な娘

 

重遠の入り口に戻る