題名:イギリス、アイルランドその1
(2005/7/2〜7/21)

重遠の 入り口に戻る

日付:2005/8/24


●イギリス、アイルランド、北アイルランド

表題には、まだ迷っているのです。
イギリスは確かに國ではあるのですが、そのなかの旧國たちの意識が、いまだにとても強くって、ツッコミが飛んでくるかと心配なのです。
イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドそしてアイルランド共和国と全部あげておけば、苦情はでないと思います。

北アイルランドはイギリス領、アイルランドは共和制で独立国、いずれもヨーロッパ共同体に加盟しています。通貨はアイルランドではユーロなのに、イギリスと北アイルランドではユーロでなくポンドを使っています。
郵便ポストが、イギリスでは昔の日本とおなじ赤い円筒形、アイルランドでは姿はおなじですが全身緑に塗られていて,コンフリクト(不一致、抗争)を象徴しています。

今回は20日間の旅でしたから、整理に時間がかかっています。
また一編が、あまり長くなっては、読んでくださる方にも大変でしょう。
そんなことで、できた分から、お届けすることにしました。

大まかには日程の順に並べましたが、関連したものをテーマごとにまとめたところもあります。その点、不揃いですが、ご容赦下さい。
また、ページ末尾に行程と地図を付けました。開いて参考になさってください。

昨年、九州旅行のとき、第一生命が募集した平成サラリーマン川柳(講談社文庫)から句を借用し散りばめたのが好評でした。
今回は、二匹目のドジョウを狙いましたが、はたして、うまくゆきますでしょうか。

・それ聞いた去年も聞いたまた聞いた もののけ悲鳴

●格安航空券

また今回も、ひとり旅です。航空料金をケチってホンコン経由にしました。ホンコンまで約4時間、そこからロンドンまで約11時間の飛行です。
毎回申し上げ、くどくなりますが、日本よりも、あんな南西にあるホンコンからロンドンへ飛ぶ最短経路は、モスクワの北を通ってゆくのです。平らな地図からは、とてもそうは感じられませんが。

イギリス行きの航空券を栄町の旅行社に買いにいったときに、エジンバラやベルファストへの国内便がサービスになりませんかと尋ねました。旅行社では親切に連絡便を探してくれたのですが、それは無料サービスではありません。
そんなことならば折角のひとり旅ですから、格安航空券ってどんなものか経験してみようと思ったのです。旅行社では格安航空券を扱っておらず、直接インターネットで購入しました。
なんとなくeasyJetという航空会社のホームページから入ってゆきました。
easyJetはつづりを間違えているのでなくて、本当に J だけが大文字なのでした。
ロンドン、エジンバラ間は直線距離500km強です。これは、ほぼ名古屋、仙台間と同じです。料金は発着する飛行場、曜日、時間によって全然違います。た とえば平日の夕方ならば2600円だったものが、土曜日の夕方になると24000円にもなります。もちろんシーズンによっても大きく変わります。
ひまな人は、料金をインターネットで調べているだけでも、けっこう面白く過ごせるのではないでしょうか。

ロンドンにはヒースロー空港のほか、ガトウィク、スタンステッド、ルトンと全部で4つの空港があります。ともかくわたしは、時間的に適当なのを選びました。
エジンバラへ行く便は、ヒースロー空港からバスで1時間15分というスタンステッド空港発の便を使いました。航空料金は4400円ばかりでした。
ついでながら後日使ったベルファストからロンドンへの便は、ガトウィック空港着でしたから、ルトン空港だけご挨拶を欠いたことになります。

出発の日が近づくにしたがって、乗り継ぎが間に合うかどうか不安になってきました。過去に、入国審査で延々と待たされたことなどが、頭に浮かんできたので す。それで、普段からお粗末な荷物をさらにカットして、全部機内に持ち込むことにし、空港のターンテーブルで荷物を受け取る時間を節約しました。
たとえば実質的な登山はたった一日なのですが、全行程を登山靴で通すなどしたのです。

ロンドン・ヒースロー空港へは予定より早く到着し、長い長い地下道を歩き、バスセンターに着いたのは、まだ朝の5時半でした。売店は開き始めていました。 バスも動き始めていました。エジンバラへ出発する飛行機便はチェックイン締め切り8時20分です。3時間もあります、楽勝と思ったのです。
「何番乗り場でしょうか」と聞き始めるあたりから、外国へ来ていることを思い知らされました。
かれらは、基本的には自分の責任範囲以外のことは言わないということだと思います。売店では6時にバスの事務所が開くからそこで聞け、ということですし、 運転手仲間だから知っているかと思って聞いてみると、あのへんから出る白いバスだというような漠然とした返事しか返ってこないのです。

何日かあとのダブリンでのことですが、こんなケースがありました。
観光バスの案内書には、9時20分に○○ホテルから出発、と書いてありました。有名な大ホテルですから、玄関はいくつもあります。
どこで待っていればいいかと、聞き回ったときのことです。実際、前の日の市内観光バスは、あるビルのメインストリート側ではなくて、脇道側が発着場だったのです。
何人か聞くうちに、ホテルへ行って聞きなさいといわれました。それもそうだと思って、フロントへいって聞いてみました。
「たしかにこのパンフレットにはそう書いてある。しかしそれはバス会社が勝手にそう書いただけで、当ホテルの関知したことではない」、そういわれたときに はあまりに理路整然としていますから、ごもっともとごもっともと、ついニコニコして引き下がってしまいました。日本のホテルだったら、いつもあのへんから 出ているようですよ、ぐらいのことは言ってくれるのでしょうが。

ともかく6時になると、ヒースロー空港のバス事務所の扉がカチッと音がしました。「お待たせしました」と開けるでもなく、その時間になればお客がノブを回せば入れるということです。
わたしは行列の2番目でした。行く先を告げると「バスは7時15分発だが、それでもいいか?」というのです。所要時間1時間15分を足すと、ゲートの閉鎖 時間を10分過ぎてしまいます。ほかに手段はないかと聞いても、ないとしか答えは返ってきません。腹を決めて、ともかくバス乗車券を買いました。こんな調 子で、バスの切符一枚を売るにも何分もかけて仕事をしているのですから、ここに限らず長蛇の列は普通です。
バス料金は約5000円でした。いってみれば名古屋の新国際空港セントレアから5000円払ってバスで小牧空港までゆき、そこから仙台まで4400円で飛ぶという構図です。
案の定、スタンステッド空港に着いて、チェックインの場所を示す掲示板を見つけたときは、まだ、取扱中になっていましたが、窓口へ着くまでにタイムアウトになってしまいました。

仕方がありませんから2時間遅れの便を買いました。4800円ばかりでした。窓口の女性はいったん奥に入り、上役と相談したみたいで、乗機順位をAにして くれました。おかげで一番先に機内に入り、下界が見やすい席に座ることができました。格安航空会社の心遣い、有り難かったですね。

スタンステッド空港は、鉄道も入っている立派な空港です。広いフロアには大勢の人が溢れていました。2時間待っているあいだ、東洋系の顔はひとりも見ませ んでした。ここまで述べてきたように、話の種を拾うために航空券をパーにしてしまうような物好きが少なくて、ヒースロー空港で乗り継ぐ正常な人がほとんど だということです。

こうして、旅の最初からあまり順調とはいえないのですが、曲がりなりにでも何とかなってゆくものです。むしろ日本にいて、事前にいろいろ取り越し苦労しているよりも、現実に手を打っている方が気は楽でした。
旅慣れているというよりは、山屋として、目の前の事態に適応してゆくことを習慣としているせいだろうと思います。山での厳しい自然のなかに投げ出されれると、自分のエネルギーしか使えない人間なんて、まったく無力なものだと思い知らされるのです。
生きてさえいれば何とかなるさ、というところまで落ちてものごとを考えれば、どんなことが起こっても、頭は正常に動いてくれます。残念ながら正常でも、わたしの頭ではたかが知れているのが、なんとも情けないのですが。

さて飛び立つと、眼下に広がるブリテン島は、緑豊かな一面の平野でした。
ロンドンの月別平均気温の最高は7月の16.5度と、名古屋の8月の27.1度よりはるかに涼しいのです。そのかわり冬は寒いでしょうと聞かれますが、最 低気温は1月で3.8度、名古屋の3.7度とほぼ同じ、年間降水量も752mmと信州並みで、その降り方は名古屋にくらべ、年間を通じて、はるかに均等な のです。
世界の中でも、非常に恵まれた土地といえます。
農場や牧場の仕切が、今の日本のように直線的、規矩的でなくて、ぐにゃぐにゃと曲がっていて、昔の日本の農村風景を思い出させてくれました。
農家はポツンポツンと一軒家が多く、集落を作る傾向が日本より弱いように見受けられました。
そういえば、昔の日本を思わせるものに、アイルランドや北アイルランドでの喫煙風景があります。大人なら煙草を吸うのは当たり前さという表情と、ポイと捨てて、靴でキュッキュッと踏み消す様子は、懐かしくさえありました。おもえば、日本も変わったものです。

到着したエジンバラは北緯56度、夏とはいいながら、空港の通路の風よけを有り難いと思いました。
ここはスコットランドの首都です。スコットランドは長い年月、イングランドとは勝ったり負けたりの関係にありました。
最終的にイングランドがスコットランドを統合し、グレート・ブリテンを称したのは、1707年、わずか300年前のことです。
市内へ入りバスを降りると、観光客相手に、スカートをはいたおじさんがバグ・パイプを演奏していました。

後日、ベルファスト8時50分発ロンドン行きの便も格安のeasyJetを使いました。
このときは、1時間20分前には空港に着いていました。チェックインをすませてから朝飯でも食べようと思っていましたが、なにせ凄い行列で1時間近くかかり、ギリギリで間に合う始末でした。
使用機種は、前の旅がボーイング737,あとがエアバス319でした。どちらも搭乗ゲートと搭乗機のあいだはバスを使い、飛行機の牽引車は不要、自力で発着できる機種を使っていました。

●ベン・ネビス
エジンバラでレンタカーを借りました。
フォードのゼテックというコンパクトカーが当たりました。3日間で約800km走っています。途中、山登りが1日ありますから、1日約400km走ったこ とになります。ガソリン価格はリッターあたり170円ぐらいで高いのです。燃料消費率は16.5km/リットルとかなり良好です。もちろんマニュアル車で す。
これも、温暖化防止上、不便だが燃料消費率の良いマニュアル車に誘導するために、ガソリンの税金を高くしているという、エコ派を喜ばせるような話ではなくて、万事、自分たちが、今までやってきたことがベストだとする、保守的風土のせいだろうと思います。

・地球より俺にやさしくして欲しい 愛飢男

レンタカー屋の前で、シャーロックホームズの銅像が考え込んでいました。
作家のコナンドイルは、明治になる直前、エジンバラ市の、この近くで生まれたのだそうです。


エジンバラからグラスゴーを経て北へ向かい、まずロッホ・ローモンドにつきました。
ロッホ Loch はスコットランド語で Lake 、つまり湖のことです。
どの資料を見ても、イギリス最大の淡水湖とされています。わたしは琵琶湖と比べて、どうこうと言いたいのですが、長さ約40kmとは記載されていますが、面積を記述したのには出くわしませんでした。
感じからいえば、琵琶湖の半分以下じゃないでしょうか。琵琶湖だって世界では問題にならない下位ランクなのですから、ユーラシア大陸の西と東の島国で「小男は総身が智慧でも、しれたもの」という嘆きを共有しましょうか。

スコットランド民謡、ロッホ・ローモンドは、メロディーを聞けばだれでも懐かしく思い出すことでしょう。「君と過ごした、懐かしい日々・・・」などいう殺し文句がでてきます。
「琵琶湖周遊の歌」に惹かれて、琵琶湖を見に来る外人があるものだろうか?と、この変なおじいさんは思いを巡らすのです。

道中、混み合っているシーフード食堂に入り、燻製の鱈というのを注文しました。大きな鱈の半身の燻製と、馬鈴薯のチップが山ほど出てきました。
美味しいのですが食べても食べても減りません。なくなったときは正直ほっとしました。

ベン・ネビスの登山基地、フォート・ウイリアムでは B&B に泊まりました。ベッドと朝飯つきという、まあ民宿ですね。その宿のおじさんは「ベン・ネビス登山は標準9時間としたもんだ。日の入りは午後9時だから朝9時に出るのが普通だ」といいました。
わたしは、特別に足が遅いんだから7時には出たいといいました。おばさんは、それじゃ、朝飯として弁当を持たせるといってくれました。
そんないきさつでもらった弁当は、わたしにとっては、朝、昼と2食分になったのです。

ベン・ネビス、ベンはスコットランド語で山のことです。
1344m、イギリスの最高峰です。
富士山同様、各地から年間10万人もの人が登りにきます。そして、年に20〜30件遭難事故があり、2〜3人が命を落としているようでした。
正規のルートは東海自然歩道クラスですから、病気以外は遭難のしようがないようにみえます。ところが、なにせ天気がよくない山なのです。足元も見えないような濃い霧の中で、先行パーティから「おーい」など声をかけられて、崖に吸い込まれたりするそうです。

登山口では、元気な老夫妻と同時にスタートしました。最初は羊の牧場の中を抜けるので、柵のところが階段で高くなっています。そしてそこで、この山の登山路に、ただ一カ所だけある道標に出会いました。
むかし、御在所岳の登山路で、道標のすぐ横でルートを聞かれてびっくりしたことを思い出しました。この國では、自己責任の気風が強いのです。それだけに、こんな山でも、道標がない反面、パンフレットには、じつに詳細にルートが説明されています。
ともかく、そんな写真を撮っているうちに、老夫妻ははるか彼方に行ってしまいました。
この山だけは、よほどの暴風雨でもない限り、どうしても登るつもりでした。
2度とくることはありませんから、鍛錬とか偵察の要素はゼロなのです。
だから何時間でも歩けるような、ゆっくりしたペースで登っていきました。
やがて、兵隊さんや、学生さんたちがグイグイ追い抜いてゆきます。
まず、前山の横腹を斜めに登り700mあたりで平らな湿原を通過します。その後、本峰を大きな4つのジグザグで登ることになります。
先年、アメリカのホイットニー山に登ったときも感じたのですが、ここでもまったく均一な斜度で道がつけられていました。
ジグザグといいましたが、なにせ大きくて、ひとつのジグが30分、次のザグが30分というところもありました。
山の上はほぼ平坦なので、最高点までにはかなり歩かなくてはなりません。そこで、スタート地点で一緒だった老夫婦が下りてきました。ご婦人のほうが「案外早かったわね」というように笑顔を投げてくれました。
頂上直前に雨がばらばら当たってきて、若い人たちが、どどっと下りてきました。

大きな丸い石積がある頂上へは、12時10分に到着しました。4時間40分かかったのです。ガイドブックなどには4時間と書かれていますが、わたしは充分満足でした。
山全体は、白っぽい花崗岩と、やや赤っぽい花崗岩で、できています。
ただ、頂上付近にだけ、真っ黒な玄武岩が乗っていました。日本にはない、大変古い火山地域なのです。
山屋というものは、登頂した時、心の中は嬉しくても、それを押さえて、なんだもう頂上に着いてしまったかというような顔を作っているものです。
でも、このイギリスの最高峰は素人が多いのですから「コングラチュレーション!」と声をかけると、顔をくちゃくちゃにして喜んでくれます。おかげで、随分とコングラチュレーションの安売りをしました。

こんな山でも、老体にとって800グラムもあるビデオカメラは負担になります。それで、80グラムしかない使い捨てカメラを持ってゆきました。
それをリュックから出していると、おじさんが「撮ってやろうか」と話しかけてきました。そして、お前はヤーパンからきたのかというのです。話の途中で、わ たしが ゼア グート というと、おまえドイツ語が話せるのかということになり、なにかチャンポンに話をしながら、つかず離れず下りました。
このおじさんは、水を詰めたペットボトルを、レジ袋に入れてぶらさげていました。こんなように、思いつきで登る人も結構いるようです。

この日は8時間の山行でした。久し振りに、終始、余裕を意識しながらマイペースで登りました。でも、登りには、15分間に105mの標高差を稼ぐ、わたしとしては速いラップも出ましたし、ともかく大満足でした。
登山口まで下り車に乗ろうとしていると、若い男が「いい登山だったな。おれでも感激なんだから。あんたは大感激だろうな」というようなことをいいました。 どうも山頂で、おめでとうを言ってやった人のようでした。先方はたいそう親しそうに話すのですが、こちらは覚えていませんでした。
この日も東洋人には、ひとりも会いませんでした。変な老外人は目立つのです。

●ネッシー君
イギリスの最高峰であるベン・ネビスに登った次の朝、フォート・ウイリアムからインバネス市に向かって車を走らせていました。
ブリテン島を日本の本州にたとえれば、ここは秋田、盛岡にあたる最北の地方であります。
何回か橋を渡るうちに、どの橋も跳ね上げ橋であることが分かりました。
そうです、ここはカレドニア運河なのです。
ブリテン島の地図を開いてみると、北部では山脈や谷が、北東ー南西方向に直線状に並んでいるのが読み取れます。エジンバラからグラスゴーも、インバネスからフォート・ウイリアムもこの線になります。
長い地球の歴史の中で、この地方は地殻変動や海面の上下のほか、厚い氷河の重さで沈んでいたり、それが融けて膨れあがったりして、いまの地形になっている のです。ほんのちょっと海水面が上がれば、カレドニア運河の通っている谷を通じて北海と大西洋はつながり、北の陸地は離れた島になるはずです。
こんな谷の東北の端であるインバネス市の近くに、ロッホ・ネスがあります。
ロッホはスコットランド語でレイク、湖なのです。ネス湖は、例のネッシー君で有名です。長さ約40km、名古屋から四日市以上もあります。幅は2〜300mですから、まるで川のように見えます。深さは約300mと非常に深いところが神秘的です。

湖畔にあるロッホ・ネス2000という建物に着いたのは、午前10時でした。何台か大型バスが駐車していて、ご老人の大集団が入り口に固まっていました。
外国で老人会の団体旅行に会ったのは、これが始めてです。
建物は8つほどの部屋に分かれ、それぞれの部屋で過去に写されたネッシーの写真や、いろんな推論、現代科学による探索などが映像とともに解説されます。ひ とこま5分ぐらいに揃えてありますから、お客さんが順番に移動してゆき、最後はネッシー・グッズのならんだお土産屋を経て解放されるようにつくってありま す。


6世紀、キリスト教布教のお坊様が、湖に住み村人を苦しめていた怪物を退治したという伝説がありました。
でも、ネッシーを目撃したという噂が出たのは、わたしが生まれた1930年代からのことなのです。

下記に、この館を出たときのわたしの感想を述べてみます。あなたは、どう判断なさるでしょうか。

メディアをとおしてではなく、現実にここの土地を知っているほとんどの人は、ずっと前からネッシーなどいないと思っていたらしいのです。
ただ、面白いテーマですから、存在しないことを前提にして、いろいろの手段で、いないことを証明しようとしていたかのように見えます。
噂は木の棒ではないか、水鳥ではないかといった簡単な推理もあります。
潜水艇で探してもみました。
トリック写真でオチョクって、ムードを盛り上げる人もでてきました。
最終幕はネッシーの巨体を養うためには膨大な食料が要る、それがあるかどうかという筋書きで幕を引いたようです。
魚群探知機を使ったのは当然として、そのエコーを詳細に解析し、魚の腹の中にある浮き袋の前後の反射波を分離し、その大きさから魚種まで特定したという芸の細かさです。
そんなにして、ネッシーが生きていられる訳がないことを証明しているのです。
こんな経緯からみると、かれらは「三角形の頂角の和は180度であることを証明せよ」というテーマに取り組んでいるように、頭の体操を楽しんでいるのです。
刑事コロンボというテレビ番組があります。番組の最初に犯行現場を映し犯人を見せたうえで、その後、犯人をどう追いつめるかを楽しませているのと同様の趣向です。

一時期、日本人は発明は不得意で、先進国でなされた研究、発明を応用、改善するのが得意なのだという説が流行しました。
実用から距離があって、知識欲だけが推進力となる研究や天文学、考古学などに力を入れることは、その日暮らしで、余裕のない生活をしていてできることではなく、余裕が必要です。
いまや日本も余裕ができたと思います。ツチノコ探しをランクアップして、神秘的な田沢湖の水面に、ヤマタノオロチが出現した写真でも発表してみませんか。

●マクベス
インバネスから小一時間、東へドライブするとコーダー城に着きます。
門をくぐって巨木に迎えられました。

コーダー城はシェークスピアの4大悲劇のひとつとして、ハムレット、リア王、オセロとならんで有名な、「マクベス」の舞台になった城であります。

むかし、白黒映画の頃、オーソン・ウエルズのマクベスを見たことを覚えています。
ノルウェイでの戦いに勝利し、友人バンクォーと連れだって帰還する途中で3人の魔女を見てしまいます。魔女たちはヒキガエルやヤモリを煮込んで怪しげなスープを作りながら予言をします。
「万歳、マクベスは王になる!」「万歳、バンクォー! お前の子孫は王となる」。

どちらかというと善人のマクベスも、名誉欲の強い妻にそそのかされ、心を許して就寝中のダンカン王を殺害し、スコットランド王になります。さらに子孫が王になると予言された、友人のバンクォーまで殺してしまいます。
こうして不安に苛まれるマクベスは、魔女を訪ねてゆきます。
3人の魔女は「バーナムの森がダンシネィンに動いてゆくまでマクベスは滅びない」と予言してくれます。「太陽が西から昇るまで」のような,あり得ないことのように聞こえますね。
しかしバンクォーの子供たちの軍勢が、木の枝を体につけ、カモフラージュしてに攻めてきたとき、バーナムの森が動いてきたように見えました。
それで「魔女に騙された」と、身の終わりがきたと観念してしまったのでした。

マクベス用に運命のレールが敷かれていて、魔女はそれを知っていた、そしてマクベスはただそのレールの上を走っただけなのかもしれません。
最近の遺伝子、DNA研究の進歩で、個人の体質や寿命の決定に敷かれているレールが、かなりの程度読み解かれるようになったといいます。
万物の霊長などホザいても、実は個人の細胞の中に住みついている遺伝子の命ずるがままに、成長し、配偶者を選び、DNAを次代に伝える存在にしか過ぎない、いってみれば、人は遺伝子の奴隷なのだと極言する学者もいます。
1000年の時を経た、運命論の一致といっては大げさかもしれませんが。

暗い暗い悲惨な劇です。舞台役者たちはマクベスという言葉は縁起が悪いとして「あのスコットランドの芝居」と呼び代えていたとも聞きます。

さて、シェークスピアは、ここでも数々の名文句を残しています。

夫人が神経症で亡くなったと聞いたときの、マクベスの独白です。

明日が来たり、明日が去り、また来たり、また去って、「時」は忍び足に、小刻みに、記録に残る最後の一分まで経過してしまう。総て昨日という日は、阿呆共が死んで土になり行く道を照らしたのだ。
消えろ消えろ、束の間の燈火!
人生は歩いてゐる影たるに過ぎん、只一時、舞台の上で、ぎっくりばったりやって、やがて最早噂もされなくなる惨めな俳優だ、白痴が話す話だ、騒ぎも意気込みも甚(いた)いが、たわいもないものだ。(坪内逍遙訳)

Tomorrow , and tomorrow , and tomorrow , creep in this petty pace from day and day , to the last syllable of the recorded time ; and all our yesterday have lighted fools the way to dusty death .
Out , out the brief candle !
Life's but a walking shadow , a poor player , that struts and frets his hour upon the stage , and then is heard no more .
It is a tale told by an idiot , full of sounds and furry signifying nothing .

44年のサラリーマン生活を終わるとき、わたしはそんな心境に襲われていました。
日頃は、スピーチは短い方がよいと公言しているわたしですが、最後の送別会では「みなさんも、いずれはこういう日をお迎えになると思います。そのときの参 考になるかと思うので、すこしお時間を下さい」と前置きし、このマクベスの台詞を引用させてもらったのでした。いま思えば、まったく、はた迷惑の標本でし た。

・臨界が近い上司は遠ざける バケツリレー

お城は想像していたよりも,こぢんまりしていました。
観光客は多くありませんでした。
コーダー城にたどり着くまでの道で、スコットランドの小説に、たびたび出てくるヒースと呼ばれる荒れ野や、牧場のなかをドライブしてきた目には、コーダー城をバックにした緑濃いバーナムの森が、なおも昔を語っているようで、大いに心を満たしてくれたのでした。
そんなところへ行ってなんになるんだと、ひとは言うかもしれません。
でも、その地に立てたことだけでも、わたしは生きていたことに感謝したいのです。

・一日で引き継ぎ終わった我が人生 ハンニャ

●ロンドン・テロ
7月7日、この日は、エジンバラからカーライルまで鉄道で行き、そこからバスでハドリアヌスの城壁を往復し、あとマンチェスターに行く行程です。
まず、朝6時にエジンバラ・ウェイブリー駅に行きました。
コンコースには、若き男女が20人ほど、寝袋で寝ていました。日本でも同様に、札幌の駅では若い人たちが青春を謳歌していますね。
大いに感激してビデオを回しました。あとでそのビデオを見てみると、「どうです。死屍累々です」と例のわたしの冗談っぽい声が入っていました。この3時間後、ロンドンでテロの爆発が起こるのです。

約1時間半の乗車で7時54分カーライルに到着しました。ハドリアヌスの城壁の中心であるハウス・ステッドにゆくバスは、前のが7時40分に出てしまって、次は9時25分までないのです。
ローカルバスの時間まで事前に調べるのは、わたしの手にはおえません。そして行ってみれば、〈ああ無情な〉ことが多いという感じです。
ついでに愚痴を申せば、ここカーライルからマンチェスターへ行く列車の発車時刻が16時12分なのに、バスの到着時間は16時10分と書いてあります。長 年、おカタイ会社に勤めていたわたしとしては、1本前の14時着のバスで帰ってこないわけにはいけないじゃないですか。ついでながらこのバス路線には、 AD122という、変わった名前がつけられていました。

ハドリアヌスの城壁は、AD122年から126年にかけて、ローマ帝国、ハドリアヌス帝によって造られました。当時、ここがローマ帝国の北の限界で、これ よりも北には、反抗的なスコットランド人たちが住んでいました。その侵入を防ぐために、ブリテン島を東西に仕切る、117kmにおよぶ石の壁を築いたので した。日本では弥生時代にあたります。
蝦夷(エゾ)の侵入をふせぐために、仙台の多賀城を設けたのは724年のことで、かなり後のことになります。
その後、城壁はローマ帝国の衰退により放棄され、あとは城壁の石を住民たちが牧場の仕切にしたり家の材料として、リ・ユースしたのです。いちばん原形を残している場所に博物館があり、観光地になっているのです。
バスは城壁に沿って走ります。あちこちの停留所でハイキング姿の人が乗り降りしていました。何日もかけて、城壁の端から端まで歩いているようでした。
なだらかな丘の連続ですから、自然愛好家にとって素晴らしいレジャーだと思いました。

11時頃、バス停からお土産店をぬけて見渡すと、はるか彼方、いったん下ってまた登り返したところに城壁と兵士の宿舎跡が見えました。
この日はエジンバラからマンチェスターへの移動日ですから、全財産をリュックに詰めて背負っているのです。
こりゃ、たまらんと思いました。どうせ、またここへ帰ってくるのですから、山だったら荷物を登山道から離れた岩陰などにデポ(仮置き)するのが常識です。
ところがここは、まるで木などないノッペラボウの草原です。どこに置けばよいか、大いに迷いました。
たまたま道端にプレハブの小屋があって、パンフレットなどおいてありました。誰かの所有物に見せかけるのが一番無難だろうと思って、その小屋の横に置いて遺跡の見学にゆきました。

博物館に入ると、ここに駐留していたのは、ローマ帝国の兵士だとはいいながら、実態はオランダ兵やスペイン兵たちが強制的に連れてこられたのだと書かれていました。
元寇のとき日本に侵攻してきたのも、元の軍勢とはいいながら、実態は朝鮮や南宋の人たちが多かったのと同じだな、など思いながら戻る道すがら、リュックがどうなっているかと、大いに気がかりでした。
案の定、リュックは見あたりません。たまたまこの時は、50mほど離れたところにレンジャーらしきおじさんがいました。そこで、オラのリュックを知らないかと聞いて見ました。
「あれはお前のか」と、柵にかけてあったリュックを渡してくれ、こっちのほうがバス停に近いからと、親切にゲートを開けてくれました。そして、これからはあそこにある緑色の箱に入れればいいんだよ、と教えてくれました。大きな、鉄で作った頑丈な箱がありました。

この件は、このように常識的な管理人さんのお陰で無事に終わりました。
ときに時刻は12時でした。
そしてその3時間前にはロンドンでテロによる爆発があり、大勢の犠牲者が出ていたのです。
この日、午後に到着した鉄道の駅カーライルには「ロンドンで連続して事件が発生した。ロンドン市内への旅行は控えるように」というポスターが張り出されていました。駅のブラウン管にも、同様のアナウンスが発着情報と交互に映し出されていました。

事件の詳細な内容は、その日の夕方、マンチェスターの一郎君の家に行ってから教えてもらいました。一郎君はわたしの妹の息子、つまり甥っ子、いまは某社のマンチェスター事務所長なのです。

一郎君へのわたしの最初の質問は、イギリスの人たちの反応は、テロリストが悪いとするのか、それとも社会が悪いと逃げるのか、そのどちらなのかということでした。

テロに対する国民の反応の一例は、報道に現れたスペインだと思います。マドリード列車同時爆破テロを起こされたことが原因となって、首相が替わりました。
これはスペイン国民が、今の社会、つまり、いまのリーダーが悪いからだと判断したといえましょう。
その点、イギリスは「自分の意見を通すために暴力に訴えるテロリストは悪である」と、民主主義のもとに、世界で最も明快に主張する国のようでありました。

さて、テロ発生後、時間を追うごとに「自分の荷物から離れるな」というルールは、異常とも言えるほど厳しくなりました。そのために、大きな荷物を持って旅行している女性が、トイレまでその荷物を持ってゆけといわれて、大変困ったという話を聞きました。
わたしのリュックのデポ事件も、もう少し後だったら面倒なことになったにちがいありません。

その後、ウエールズ、アイルランド、北アイルランドと観光し、ロンドンに入ったのは8日後でした。
外国旅行中は、どうしても新聞やテレビとは縁遠くなり勝ちです。わずかにアイルランドのダブリン市で、机に置かれた新聞を眺めていて、「当市のイスラム教 徒からテロリストに資金が供給されている」という記事が目についたぐらいです。イギリスではどの町へいっても、スカーフをかぶったイスラム教徒が大勢いま した。あの人たちは、さぞかし嫌な気持ちを味あわされているだろうと、気の毒に思いました。
テロ発生から約1週間後にロンドンに入った頃は、パトカーや救急車が、景気づけではないかと思うほどやかましくサイレンを鳴らして走りまわっている以外、テロの影響は見られませんでした。
わたしも地下鉄に乗りまくっていました。

帰国する日、ヒースロー空港に行こうと思い、ピカデリー駅でピカデリー線に乗り換えようとしました。すると乗り換え通路が、テープで通せんぼになっていま した。そこには、案内専門のおばさん職員が立っていて、閉鎖など知らないで次々と押しかけては質問を浴びせる乗客に、代替えの経路について事務的に説明し ていました。
わたしも、予定していたよりも、ふたつ余分に乗り換えて、ヒースロー空港に到着しました。

7月20日の夕方、ロンドンから香港に向けて飛び立ち、21日の夜、名鉄金山駅から乗ったタクシーの中で、2度目のテロの発生を聞きました。
わたしにとってのロンドン・テロ事件はそれだけのことでした。

旅する観光客が、大きな荷物を適当に置いておきたいのは当然です。
イスラム教徒だって、ほとんどは善良で平和的な人たちです。
それなのに、一部の自己中心的なテロリストのとばっちりを受けて、沢山の人が不便を強いられるのはまことに残念なことです。
地球上に貧困が存在する限り、力でテロをなくすことはできないなどと、賢しらげにいう人はいます。でもそんな人たちは、どうすれば貧困感とテロをなくすことができるのか、責任を持って提案できるのでしょうか。
浜の真砂とテロとはなくせないでしょうが、かといって、イギリス当局と国民の理詰め強硬な対処方法が間違っているとは、とても言えないでしょう。

イギリス・アイルランド行程表
(2005/7/02〜21) 

 


月日 


行 程


宿 泊


備 考

 

7/02 土

名古屋17:15〜22:00香港23:55〜 機中泊 キャセイ航空
  7/03 日 〜05:45ロンドン〜エジンバラ エジンバラ観光 エジンバラYH  
  7/04 月 ロッホ・ローモンド フォート・ウイリアム  フォート・ウイリアム
B&B
レンタカー
  7/05 火 ベン・ネビス登山 フォート・ウイリアム
B&B
レンタカー
  7/06 水 ネス湖 クオート城 エジンバラ エジンバラYH レンタカー
  7/07 木 エジンバラ〜カーライル〜ハドリアヌス
〜マンチェスター
マンチェスター
一郎宅
鉄道 バス
  7/08 金 スノードン登山(トライ・アンド・断念)
マンチェスター
一郎宅
鉄道 バス  
  7/09 土 スノードン登山・再挑戦〜ダブリン ダブリンYH 一郎車 鉄道 船
  7/10 日 ダブリン観光  ダブリンYH  
  7/11 月 ニュー・グレンジ モナスターボイス ダブリンYH バスツアー
  7/12 火 グレンダー・ロッホ ダブリンYH バスツアー
  7/13 水 ダブリン〜ベルファスト ベルファスト観光 ベルファストYH バス
  7/14 木 ジャイアンツ・コーズウエイ ベルファストYH バスツアー
  7/15 金 ベルファスト〜ロンドン ロンドン観光 ロンドン
オックスフォードYH
easyJet
  7/16 土 カンタベリー、ドーバー、セブンシスターズ    ヘイスチング、ポーツマス ロンドン
オックスフォードYH
鉄道 バス
  7/17 日 コッツウォルズ ストラフォード ロンドン
オックスフォードYH
バスツアー
  7/18 月 ストーン・ヘンジ バース ロンドン
オックスフォードYH
バスツアー
  7/19 火 ロンドン ウエストミンスター寺院 大英博物館 ロンドン
オックスフォードYH
 
  7/20 水 
7/21 木
ロンドン塔 
ロンドン18:25〜13:20香港16:10〜21:05名古屋
機中泊 キャセイ航空



イギリス・アイルランドその2へ