題名: イギリス・アイルランド
その2
(2005/7/2〜7/21)

重遠の 入り口に戻る

日付:2005/8/24


・ウエールズからアイルランドへ
やっと、このシリーズの「その2」ができました。引きつづいてお読みいただけるでしょうか。

その1」では、ロンドン到着から、スコットランドのベン・ネビス登山、ネッシーのネス湖、マクベスのコーダー城、南下してイングランドにはいり、ハドリアヌスの城壁までの旅と、それらについての枝葉の話でした。

今度の「その2」では、イングランド中部のマンチェスターから西に向かい、ウエールズに入りスノードン山登山、そして、フェリーボートでアイルランド共和国の首都ダブリンまでゆくことになります。

あいかわらず、脱線のし放題です。
考古学が出てきます。でも、私のことですから年代などの細かい話ではなくて、おおまかな感想です。
日本ではまじめな新聞がよく読まれ、案外、頻繁に考古学のトピックスが紙上にに取り上げられています。まあ、見てみてください。

文明の伝播という問題についても、感ずるところがありました。
やや、くどいのかもしれませんが、それにも触れてみました。
4分の3世紀も、この世で息をしていると、人間というものを客観的に見るようになった気がします。

今回は、思い切って、わたしの旅行パターンも暴露してしまいました。
良く言えば簡素な、悪くいえば貧乏ったらしい、ユースホステルを主体に据えた旅行なのです。少数派ですが、ときどき同類にも出くわします。
まあ、顔をしかめて、ご覧下さい。

・鍵かけずオートロックの真似をする 下野凡人

・スノードン山
今度の旅で、イギリスの最高峰ベン・ネビスのほかに、もうひとつ山に登りました。その山はウエールズの最高峰、スノードン山(1085m)です。

スノードン山の登山口までは、鉄道とバスでゆくつもりでした。
前日の夜、一郎君がインターネットでスケジュールを調べてくれました。
そして翌朝、ウイルムズロウという駅まで車で送ってくれたのです。予定の20分前からホームで待っていました。ところが時間になっても列車はこないのです。
駅には時刻表が張ってあり、それによれば、わりと頻繁に列車があるように見えるのですが、次らしい列車もちっともこないのです。そのうちに棒の先に煎餅み たいな丸い板がついた(どこの駅でも見ましたから、タブレットなのでしょうか)のを持った駅員さんがきました。バンガーに行きたいのだが、というと「クロ イで乗り換えろ」といったように聞こえたのです。
先日、スコットランドをレンタカーで走っていたときに、たしかCroyという町の標識を見たことが、潜在的に頭にこびりついていたのです。
ともかく、つぎにきた列車に乗り、Croyという駅にいつ着くのかと目を凝らしていました。ところが、乗ったのは長距離列車で、ほとんどの駅を通過するの です。Shrewbruyという駅に止まったとき、どうもおかしいと思い、下車して窓口で聞いてみました。2時間30分待てば、ちょっと戻る感じでバン ガー行きがくるというのです。あとで考えるとクロイとはCrewという駅のことだったのです。
こんなように、コンピューターから与えられたベストの指示だけで動いていると、ひとつ外れると周辺の情報が分からないので、応用が利かないことになるのです。
こんな話は面白くないでしょうから端折りますが、ともかく仕方ないことが続発して、登山列車の駅に着いたのは最終便の16時発が出る15分前でした。暗算 してみると、帰りの最終便として予定していたバンガー発の列車に乗れるかどうか不安でした。それで、諦めて帰ってしまったのです。

次の日は土曜日でした。一郎君は車を運転して、もう一度スノードン山に挑戦させてくれるというのです。ご厚意に甘えました。
一郎君はわたしの妹の子供、つまり甥っ子です。生まれたときから同じ名古屋に住み、同じ大学、電気の後輩なのです。
昨年から、あるメーカーのマンチェスター事務所の所長をしています。そのことが、わたしが今回、海外旅行の行き先としてイギリスを選んだ理由でもあります。
一郎君は自分のマンションに2泊させてくれ、またドライブ中にもいろいろと話を聞かせてくれました。
いま振り返っても、こんなにぴったり噛み合った会話をしたのは、ずいぶん久し振りだったなと感ずることがありました。目にみえない電気というものを相手にしている、共通の思考体系があるからなのでしょう。

たとえば、こんなことがありました。
広場の柱に、ペチュニアの花を盛ったバスケットが釣り下げてありました。
早朝、人出が始まる前におじさんたちが3人、水をやりにきました。一番年上のおじさんがホースの端をつまみ水の上がる高さを加減し、バスケットを狙って水をやっていました。あとのふたりは、ホースを移動させたり、踏んでいたずらしたりしています。
「ホースの先にパイプをつければ、正確に100パーセント注水できるのに。ひとりですむ仕事に3人もかかって」と一郎君が言いました。じつは同じときに、わたしもおなじことを考えていたのでした。

一郎君に教えてもらったことを、思い出せる順に書き連ねてみます。

住んでいる場所によっていろいろの英語がある。マンチェスターの郊外では、言葉を聞いただけで10マイルの精度で、そのひとが住んでいる場所を言い当てることができるといわれるほどである。
また、そのローカルな話し方を、いつまでも変えようとしない。
その結果、聞き手にとっては、分かりやすい英語と、分かりにくい英語があることになる。
アメリカ英語のように、大きく口を開けて発音しないのでとまどった。
カナダ人が、イギリスの会議では70パーセントしか聞き取れぬと言ったのを聞いて、自分だけではないと気が楽になった。

日本人やアメリカ人は、かなりビジネスライクであるが、イギリス人は、よくいえば人間関係を大事にする。長々と時候の挨拶などされて本題に入らず、イライラさせられることがある。

新しいものに対して抵抗感が強い。一郎君がハイブリッド車のプリウスに乗り換えたが、イギリス人は、いままでのベンツのほうがよかったのに、と思っているようだ。
こちらの道路は直線が少なく曲がりくねっているので、カーナビの有益性は日本より高い。それなのに、なかなか取り入れようとしない。

ロンドンでは市内の渋滞を緩和させるため、乗り入れ税を徴収する。その方法が変わっている。乗り入れたかどうかの判断は、ナンバープレートの映像を取り込 み、コンピューターで文字認識させておこなっている。税金の納入は乗り入れ日の22時までに振り込めばよい。この振り込みは、コンビニなどで簡単にでき る。今回のテロ事件でも分かったように、街頭での映像データ収集能力は想像以上の規模であるらしい。

7,5トン以上の大型車には、時速56マイル以上はスピードが出ないように機構的にスピードリミッターがつけられている。日本でも大型車の職業運転手は一般にお行儀がよいが、イギリスの高速道では大型車は最外側車線をキープし、乗用車に追い越させている。

いままで自分たちがやってきた方法がベストである、との思いこみが強すぎる。そのために改善し、進歩することにブレーキがかかってしまう。
たとえば自動車産業は、過去の立派なブランドを持ちながら国際競争に敗れ、実質的にイギリスでは壊滅してしまった。

なんといっても車社会である。昨日、おじさんが7時間かかったスランスベリの登山鉄道駅まで、車でなら2時間で着ける。

覚えているのは、そんなところです。

それらが、イギリス人について、多少、批判的に聞こえたのではないかと申し訳なく感じています。そこでその裏返しに、生粋の日本人であるわたしが、ここで日本人の悪口も言っておいて、チャラにしてもらいたいのです。

日本人は、逆に、いままで自分たちがやってきた方法がよくない、と思い過ぎではないでしょうか。
昨今では、あのサプリメント、このサプリメントと右往左往し、永久に若く、永遠に元気でと、改善に改善を重ねています。そのため、新しいお店ができると、たいていは薬屋さんといった様子です。
わたしは、次のような健康法が金科玉条だった時代を覚えているのです。
・激しい運動をするときに水を飲むと余計に疲れる。
・日光浴をしないとビタミンDが不足し、クル病になる。
・紅茶キノコは健康のもと。
ほとんどのサプリメントも、何時の日か、昔の金科玉条とおなじ運命を迎えるのではないでしょうか。
過去の経験からは、なにも学ばないで、新しいことに飛びつくのが日本人なのです。

・引き出しの奥で泣いてるたまごっち かかあ天下

過去をすっかり忘れられるということが、新しいものに取り組むのに必要なのでしょうか。
環境ホルモンが人類を滅ぼすかのように騒がれたのも、そんな古いことではありません。いくつかのゴミ処理場では、悪者にされた人もあったはずです。
それが、事態はほとんど変わっていないのに、いまでは環境ホルモンという言葉を口にする人さえありません。
あの頃は、貝の《生殖器》に奇形が見つかったという取り上げ方が、話題づくりとして成功したのでしょうか。

・環境ホルモンどんな味だと聞くおやじ 小天

過去の経験も充分尊重し、そのうえで新しいことに果敢に取り組むことが望ましいのはいうまでもありません。
ほら、孔子さまも「温故知新」とおっしゃっているではありませんか。
もっとも、それは人間にとって不可能なことなので、いつまでも不朽の金言として存在できているのですが。

さて、登山列車はアプト式、普通のレールのほかにギザギザのレールがあり、これに車軸についた歯車を引っかけて山の斜面を強引に登ってゆくのです。観光用 ですから、ディーゼル機関車のほか、モウモウと煙を吐く蒸気機関車もいます。こんな鉄道が、110年も前に開通したのです。
「そんなに昔から登山列車があったなんて、イギリスは凄い」とわたしがいいました。すかさず「凄かった」と一郎君が言い直しました。


アプト式鉄道のレール


山頂駅まで列車で登りが1時間、頂上へは徒歩5分、下り1時間の登山でした。
ふたつめの山登りの話は、これでおしまいです。

この日はアイルランドのダブリンまでゆくのです。一郎君がウエールズの西北端のホーリーヘッドの波止場まで車で送ってくれる計画です。
念願の山へも登ったし、あとは楽勝と思ったのです。

ところがどっこい、ヒースロー空港のときと一緒で、どうも、楽勝と思うとあとがいけないようです。
もうじき高速道路にはいるというところで、渋滞が始まりました。ジリジリとは進むのですが、それはよその道に逃げる車の分だけ進んでいるようです。
一郎君の判断は的確でした。わたしたちも脇道に逃げて、高速道の上を橋で越すとき下を見ると、高速道には車がびっしり詰まって、止まっていました。
さて、その頼りにした逃げ道でも、とうとう渋滞に捕まりました。
すかさず、一郎君は鉄道のバンガー駅に走り込みました。
わたしがホームに駆け込んで、テレビ画面を見ると、ホーリーヘッド行きの列車が数分後にあり、on time つまり定刻運転と出ていたのです。駐車しようとしている一郎君に手を振り、「すぐのがあるよ。どうも有り難う」と叫び、階段を駆け上がり向かい側のプラッ トホームへ・・・下りようと思ったのです。
ところが下から老駅員が登ってきて、列車はこないというのです。なぜだと尋ねても、相手もわからないようでした。どれだけ遅れるのかと聞くと、まだチェス ター駅を出ていないから、少なくとも1時間はこない、というだけなのです。ほかのお客さんたちも、どうしようもないので、そのままいます。
向かい側のホームにいた若いカップルの男のほうは、上着を脱いで日光浴を始めました。

・出世道いつの間にやら工事中 ハンニャ

ここウエールズ地方はローカルな誇りを持っていて、看板の上段はウエールズ語、下段に英語が書いてあります。古い言葉、たとえば End は Diweddで相関がわかりませんが、新しい言葉 Taxis はTacsi で似ています。そんな写真を撮りながら時間をつぶすしかありませんでした。
結局、列車は1時間30分遅れ、14時16分にきました。アナウンスは、どうせほとんど聞き取れないのですが、ジャンクションという単語が耳に引っかかりましたから、分岐の故障だったのかもしれません。
ホーリーヘッドまでは順調にいっても29分かかりますから、到着予定は14時45分になってしまいます。時刻表では、そこからのフェリーボートの乗船は14時20分、出航は14時50分となっていました。とても間に合いそうにありません。


ウエールズ語
英語


先日、早朝のエジンバラ駅では、床にゴロ寝している旅行者たちを見ました。でも、わたしはあの人たちのように、若くはありません。
だから、ホーリーヘッドのどこかで宿に泊まろうと思いました。でも、いまは、ちょうど海水浴シーズンです。空いてるかしらなどと、過去に宿にあぶれたことを思い出しては、不安を募らせていました。

・こわいのはじしんかみなりおやじがり きよ子

・フェリーボート
列車のダイアが乱れてしまったので、アイルランドへ渡るフェリーボートにはもう間に合わないと、いったんは観念したのでした。
ところが、列車が港の終着駅に近づくと、車掌が回ってきて、降りたらまっすぐ前のほうへゆけと大きな声でいいました。みんな荷物を持って、出口へ急ぐ様子です。
この列車に途中で乗ったのは、わたしひとりでした。みんなはロンドンだとか遠くから乗ってきているはずで、列車が遅れ始めるときからのやりとりがあったのでしょう。
フェリーボートが待っていてくれるんだと、そのとき直感しました。
港で切符を買ったのはわたしひとりで、みんなは通し切符を持っているようでした。でも、リュックひとつのわたしは、みなさんが大きな荷物を預けている間にゆうゆうと、クレジットカードで乗船券を買いました。

こうして英国本土からアイルランド共和国の首都ダブリンまで、フェリーボートで渡ったのです。
最初、計画したときはリバプールから乗船するつもりでした。
リバプール市内で、午前中にビートルズゆかりの名所でも見物し、午後の船便を使おうと目論んでいたのです。
野暮なジジイが、なんでビートルズだ、などおっしゃらないでください。かって小樽では、ちゃんと石原裕次郎記念館を訪問しているのですよ。

船便を一郎君が調べてくれたら、今は殆どの人が飛行機を利用するので、船会社は青息吐息で、トマスクックの時刻表通りじゃないというのです。
でもわたしはどうしても船にこだわって、インターネットで調べたあげく、ホーリーヘッドという岬の先端まで鉄道でゆき、そこからフェリーボートに乗ることにしたのでした。
沖縄航路のフェリーにくらべると桁違いに大きいのです。なにせエレベーターが11階までありましたから。たぶん、1萬トンを超すのではないでしょうか。
おまけにアイリッシュ海の波は静かで、少しも揺れませんでした。
日本だったら、早速、船員をつかまえて、やれ排水量は何トンか、エンジンの馬力はと、うるさいおじいさんなのですが、さすがにここでは、なにも聞きませんでした。
大体が、ホテルかキャバレーかといった感じで、ホスト、ホステスばかりで船員さんは見あたらなかったのです。

・海外に着いたとたんに無口な奴  ボード

客室のフロアには、応接セット、レストラン、両替店、免税店などがあるホテルのレセプションフロアーのような階もありました。また、薄暗くして、リクライニングの長いシートが並んだ、お休みフロアーもありました。

船旅を一番楽しんでいるのは、なんといっても子供たちのようでした。
広いのですから駆け回っても叱られません。ソフトクリームやジュースを買ってもらっていました。トランプに興じたりして、まったく天国です。
みんな楽しい思い出を、いっぱい作っている様子に見えました。

船内の免税店も押すな押すなの大盛況で、両手に品物を持った人たちが長い列を作り、ダブリンに入港してもまだレジは大忙しでした。

ときは折しも夏、ヘソ出しルックの美しい女性たちが往き来します。そういえば豪華客船には、プロムナードデッキというものがありますものね。
美女たちは、あきらかに目的地にゆくためでなく、必要以上に行ったり来たりして、ファッションショーをしているのだと分かりました。

・私でも宇宙に行けば無重力 佐羅利満

お陰様で、眼福にあずかる男たちも多いわけです。

そういうわけで、世の中の評判とは異なり、フェリーボートの恩恵に浴する人もけっこういるわけで、フェリー航路が絶滅するとは思えませんでした。

・ヘソ出しルック女と男世を支え よみ人不知

・意地悪

後日、アイルランドの首都ダブリンの観光バスに乗ったときのことです。
オコンネル通りという片側2車線の目抜き通りで、何台かのバスが止まって客扱いをしていました。
わたしたちのバスでは乗客が乗りおわり発車しました。前に止まっているバスを追い越そうとして、走行車線に出てハンドルを切り戻しました。ところが、ほんのちょっとのことで前のバスに横腹が触りそうなのです。
前のバスが50cm前に出るか、10cm左に寄ってくれれば出られそうです。運転手はホーンを2度小さく鳴らしました。でも、前のバスは微動だにしないのです。こちらの運転手は、肩をすくめてサイドブレーキを引きました。
まあ、4〜5分のことでしたが、なにせ交通量の多い道だったので、車の長い列ができました。

イギリスから、フェリーボートでダブリン港に着いたときのことです。
船を降り、簡単な入国手続きをすませ、バスに乗ろうとすると、運転手は紙幣ではダメ、硬貨にしてこいというのです。
小銭にこわそうとしました。まず船会社の窓口で断られました。
次に、なんとなく制服らしきものを着た若い黒人がとおりかかったので、どこでこわせるか尋ねてみました。売店でやってくれるよと親切に教えてくれました。
行ってみると売店にはシャッターが下りていました。
その後もあっちこっちでタライ回しされた末、ビルの上の食堂にいったらどうかと教えられ、サンドイッチを買って、やっと小銭をこさえました。
さっきケンモホロロだったバスの運ちゃんは、1.5ユーロをとって「これだ、よく覚えておけ」と説教めかしく示してくれました。
ここで、ポンド圏からユーロ圏に入るのですから、ユーロ紙幣しか持っていない人は多いはずです。本来、バス会社が切符発売機を置いておくべきでしょう。
大きなリュックを背負い、息せき切って4階まで上がり下がりするのは、この老人にはこたえました。

ベルファスト空港からロンドンへ向かう朝のことです。
航空会社のチェックイン窓口の若い女の子が、ビザを見せろというのです。
もともと短い滞在の場合はビザなんか不要です。そして国内の移動ですからパスポートコントロールは航空会社のすることではないはずです。
その旨言い返すと、しばらくパスポートをめくっていて、ここにこんなことが書いてあるから聞いてみたのだといいました。
今まで見たこともなかったのですが、日本のパスポートの2ページめには「このパスポートはどこの国でも、地域でも有効である、unless otherwise endoused 」という決まり文句が始めから印刷されているのです。endousedなんてなんのことだか知りませんから、帰国してから辞書で引いてみました。犯罪歴の 裏書きのようなことらしいのです。
そして彼女は、なにやらべちゃくちゃしゃべって「分かったか」と、分かるまいというような口調でいうのです。
実際のところ、今回の旅では相手のしゃべっていることが聞き取れることはまれでした。
もう一回話してくれというと、同じ言葉を同じスピードで繰り返すのです。もっとも音量だけは多少上がっていたでしょうが。
相変わらず全然分かりませんから、別の言葉でいってくれないかと頼みました。こんどは相手がちょっと退いた感じでした。そして今度は、スクリーンという単 語が聞きとれましたから、荷物のX線検査があってとか言っているようなのです。「ほかの空港となにか変わったことがあるのか」と言い返してみました。ま、 ともかく最後は指さすほうへいって、なんのことなく通過しましたが。
今まで、空港のパスポートコントロールで、書類の不備を舌先三寸で通ろうと他人に散々迷惑をかけている人たちを、苦々しく思っていました。
でもそのなかには、わたしのような可哀想なおじいさんもいたのかもしれないと、考え直したことでした。

現在、北アイルランドやアイルランド共和国には、中国人が進出しています。そしてこの地域では、かれらは周りから一段と低く見なされているような雰囲気を感じました。
この地域では、長年の歴史のなかで、カソリック教徒がプロテスタント教徒より低く位置づけされ、選挙権を与えられない時代さえあったのでした。
いじめられっ子は自分より弱いものを探し、いじめっ子になりたがるものかもしれません。

ちょっとネガティブに書き過ぎました。
これは親切な話です。
ベルファストの街を歩いているときのことです。魅力的な中年の女性が話しかけてきました。「アー ユー ア チャイニーズ ?」。
たしかにこのあたりでは東洋人と見れば中国系人なのですから。とりあえず、日本人であると答えておきました。
先方からわたしの行き先を尋ね「博物館へ行くのなら、きれいな花が咲いているからこちらの道がいいよ」と教えてくれました。


ベルファスト植物園の温室


そして彼女は「英語は読めるか?」といって、パンフレットを渡しました。例の「ものみの塔」の英語版でした。
実は日頃から、家内に、こう言って冷やかされているのです。「あんた、よっぽど’物見の人’に見込みがいいみたいじゃない。インターフォンに出たら、旦那さんにといってたわ。あたしはポストに入れといてと、追っ払ってやった」。
でも、なんでベルファストにきてまで、捕まらなくてはならないんでしょうか。きっと、なにごとについても、他人の意を迎えずにはいられない気弱な性格が、顔に表れているのでしょう。

どこの社会にでも、急ぐからちょっと早くやってくれと頼まれると、わざとゆっくりするようなへそ曲がりはいるものです。そんなへそ曲がりが普通なら1000人に2人ぐらいの率なのに、今回は3人も会ったような気がするといっているだけのことなのです。

・ユースホステルの旅

若い人のなかには、デラックスな車をローンで購入し、月々かなりな金額を返済にあてている人もいます。でも、それは贅沢ではなくて、その人にとっては必要経費なのだと聞きます。
たしかに、価値観は人によって違います。
わたしの海外旅行も、まさにそうなのです。
わたしにとって、旅行案内書のショッピング、レストラン、シアター、星印のついたホテルなどのページは、まったく縁がありません。
ただ、あっちこっち見て回りたいだけなのです。
そんな人並み以下の旅行の実情を、ここでバラすことにします。

飛行機は安いキャセイ航空にしました。まさか、ロンドンまで歩け、泳げという人はないでしょう。ひょっとするとその方が高くつくかもしれません。
レンタカーでしか行けないところにはレンタカーも使いました。
タクシーはただ一度だけ、夜遅い時間に駅から一郎君の家まで乗りましたが、その料金は1000円以下でした。

宿は、フォート・ウイリアムでの2泊(朝食つき6000円)を除いて、全部ユースホステルを使いました。ユースホステルだと、物価高のイギリスでも、泊ま りだけで2000〜4000円ほどですみます。町中にあるのを選びましたから、ほとんどターミナルから徒歩の範囲でした。
個室だったのは一カ所だけ、あとは4〜6人の2段ベッドの部屋でした。

たいていのユースホステルには、キッチンがあって使うことができます。
わたしの母は、長年、友の会の会員で、栄養のバランスにはうるさいのです。
その影響から、わたしの食事もこんな献立になります。
朝の食事は、パンまたはクラッカー、チーズ、オレンジ、ミルク、ヨーグルトが普通です。夕食は、スープ、ピザ、パスタ、トマトや人参など野菜、果物(バナナ、りんご、アプリコットなど)と、これは自分の嗜好というよりも買うお店の品揃えによって多彩になります。
これらの仕入れは、スーパーがあれば一番便利なのですが、街角の小さな店で買うのもそれなりに面白いものです。そういう地域には、そんなお店を使って暮らしている人も、結構いるのですから。

・気分良く100円ショップでムダ遣い 好景気

大都市では、スリに気をつけなさいと、口うるさくいわれます。
でも、スリも仕事でやっているのです。スーパーのレジ袋をぶらさげて、人を突きのけて歩いているようなジジイに関わったら、時間の無駄なことぐらいは先刻ご承知に違いありません。

一日の行動を終えてユースホステルに入るまえに、目をつけておいたパブに寄ります。
ビール1パイント(中ジョッキよりやや小)が約400円ほどです。
雰囲気は、お店によってそれぞれです。ベルファストで入った店は、家族連れで痛飲していました。わたしと同年配と見たオヤジに、何才だと聞くと60だ、こ れはオレの子供だと、5〜6才の女の子ふたりを抱きしめるのです。かれのこの話はいまでも疑っています。奥さんはジョッキを前に置いてはいましたが、こち らはしっかりしていました。



えっ! 60才 ???


折角の機会ですから、パブでは毎回違った銘柄を注文してみました。
普通のビールや茶色や褐色のもの、そしてエールもギネスもどれもこれも美味しかったのです。
そう、わたしの舌は、心を込めてつくった料理も、いい加減につくった料理も、どっちも美味しく感じるという、料理人泣かせの舌なのです。

・飲む話介護年金定年後 兎走鳥飛

ユースホステルでシャワーを浴びてさっぱりし、ゾーリをペタペタさせてキッチンにゆき、椅子の上にあぐらをかいて食べていると、これぞクツロギなりという感じになるのです。
料理といってもチンするだけのことですし、食べ終わった食器は大きなポリ容器にポイすれば終わりです。
「このレンジはどうやって使うの?」「オレもさっき使ってみたばっかりだが」など、実用的な話から会話が始まります。
それにしても、こんどの旅の始めに、イギリス最高峰のベン・ネビスに登っておいたのは、会話のネタとして大変役に立ちました。

あれもチンこれもチンして豪華イブ どっしり母さん

有名なフィッシュ・アンド・チップスには、街なかでトライしました。ホワイティとかいう魚でしたが、これもまた大変に美味しかったのです。
わたくしとしては、このへんまでが限度で、ちゃんとした服装をして格式高い有名レストランへゆき、かしこまって食べるのはご免蒙りたいのです。
米俵の2俵も担げそうな屈強な若者が、金ボタンの制服などを着せられて給仕しているのを見るのが、とくに気に入らないのです。
つまり、わたしは時代遅れの人間なのです。それも生半可な時代遅れではなくて、考古学的な時代遅れ男なのです。

ユースホステルで同室したのは、ほとんど若い男の子たちでした。
だいたい朝6時過ぎにわたしが部屋を出る頃、かれらは例外なくまだ裸ん坊で寝ていました。そして22時頃わたしが寝るときには、かれらのベッドは空でした。
かれらからみれば、わたしが異常に、早寝早起きな老人に見えたことでしょう。まさに、これが相対性理論なのです。

そうそう、エジンバラのユースホステルでのことです。お向かいのパブで夜っぴて大騒ぎしていました。トイレに立ったついでに窓の外を見ると、ちょうど宴が 果てたようで、デブのおばさん二人がフラフラ歩いてゆきました。驚いたのは、3時半なのにもう薄明るいのです。サマータイムですから、日本流にいえば2時 半なのです。
日が登るとともに働き、日が沈むとともに帰宅するというのは、赤道のほうに住んでいる人の話なんですね。極に近いところは、夏はとんでもなく長い一日で、冬はその反対になるのですから。

ユースホステルの御利益のひとつに、世界中の若者と友達になれるということがあります。
わたしも若いころは、先輩として相手にチャンスを与えるような気分で、よく話しかけたものでした。でも今は、さすがに年をとりました。話をするのが面倒になったのです。
ベルファストでは、夕方にも部屋にいる珍しい若者と同室になりました。
そうなると話をしないのが不自然です。
かれはスイス人で、北アイルランドのカソリックとプロテスタントの問題を調べにきたといっていました。
毎年、この時期に、ここベルファストでパレードがあり、紛争が起こるようです。昨年のは大きく報道されました。今年の紛争はローカルに放映されただけで、わたしは去年の紛争の再放送かと、気にしなかったほどです。
それでも、かれの話によると、制止にあたって怪我をした警官が80人も、現在、病院に入っているそうです。



ベルファストの小公園


「スイスだって両方いるじゃないか。おまえはどちらだ?」と尋ねると「オレはカソリックだが、スイスじゃカソリックもプロテスタントもおなじ学校に行く。ここでは学校も、住んでる場所も違うんだ」と答えるなど、かなりのインテリなんです。
そんなかれが、わたしがなんどもジャパニーズだといっているのに、ついチャイニーズと言ってしまうのです。
後刻、ロビーにテレビを見に行ったときも、友人に紹介するのに、わたしのことをチャイニーズといってしまい、イクスキューズミーと謝っていました。
スイスから見ていると、中国と日本となぜ別の国になっているのか分からない、おなじ言葉を話しているのではないか、そんな認識なのかと、わたしとしては興味深く受け取りました。

・肩書きがとれて肩凝りしなくなり 竜落子

・アマチュア考古学

旅のなかごろ、アイルランドのダブリンから、世界遺産に指定されているニューグレンジという巨大古墳を見に行きました。
ダブリンから北西約60kmのところにあります。
5500年ほど前に作られました。現在はほぼ完全な円形で、直径は80mとも100mともいわれます。使われた石は20万トン、墓室やそこへの通路は日本の横穴式古墳と似ています。
ゆるくうねった見渡すかぎりの大平原、その中でも多少は高そうな場所に作られています。古墳自体は、いま日本でもあちこちで作られている古墳公園などのようにきれいに整備され、短い草に覆われ、木など一本もなく築造当時とおぼしき形に整形されています。
日本では天皇陵の古墳が原生林に覆われ、一見、小山のような、自然の姿で保存されているのとは大違いです。
ここ、ニューグレンジでは、こんなに手を加えたものでも世界遺産になるものかと、まじめに考えてしまいました。


ニューグレンジ古墳 BC3500年



旅の終わりの頃、ロンドンから、有名な巨石文化、ストーンヘンジを見に行きました。
ロンドンから西へ約100kmのところにあります。
4800年ほど前から築造が始まりました。最初は木造でつくられ、あとになってからは石で、しかも時代が下るに連れて大規模になりました。最大の石は、1個50トンもあるのだそうです。
ここでもニューグレンジと同様、ゆるくうねった見渡す限りの大平原、その中でも多少は高そうな場所に作られています。
数十年前には、石組みに近寄ることができたのだそうですが、いまでは柵の外の通路をガイドフォンを聞きながら、ゾロゾロと歩くことになります。


ストーンヘンジ


入場者はストーンヘンジのほうが、10倍以上多いでしょう。
ニューグレンジのときは、大きな観光バスにお客はたったの6人でした。
その中のあるご夫婦から「お前は、日本から、なにに惹かれてここへきたのであるか?」と聞かれました。そんなことがご縁で昼飯をご一緒しました。
アメリカのボストンから来られ、旦那さんは学校関係、奥様は、わたしが日本の短い詩というと、すかさず「ハイク」というほどのインテリでした。

これらの遺跡に関するホームページを読むと、「分かっているのは、石の古さがBC3000年であることと、謎は永遠に解けないこととである」とか、「謎を解こうとする数多くの観光客が詰めかけている」などと好意的に書かれています。
両遺跡とも、前述のようなインテリの見学者は極めて稀でしょう。
たしかに観光客たちは、遺跡は宇宙人がつくったのかもしれないという説も、ほかの学術的な諸説と同列に扱って、一日の行楽を楽しんでは帰ってゆくのでした。
もともとこういった遺跡は、現地にきて見ても、それ以上のことがわかるものではありません。面白いのは、その裏にあるソフトウエアなのですから。
でも、そうはいうものの、一度は現地を見ておきたいのです。
強いて理屈をつければ、周囲の地形風土は自分の目で見ないとピンときません。また、いったん訪ねたことのあるところは、将来、そのテーマに触れた映像や文章に出会うと、目がパッチリ開き、耳がピンと立つのです。

今回も数多くの古代遺跡を訪ねました。どうしてそれらの中から、ニューグレンジとストーンヘンジのふたつだけ取り出したかというと、それが有史以前、つまり文字のない時代のものだからであります。
イギリスとアイルランドを一緒くたに論ずることはできません。また、両方ともそれぞれ広い土地なので一概には言えませんが、オレ流に大胆に総括してみれば、民族的事件は下記のようになります。
「BC200年、ケルト人が大陸からやってきた。それより前に先住民族がいたが、彼等のことはまったく知られていない」。
それ以後は、1〜2世紀にローマ帝国が侵攻、8世紀末のバイキングの略奪、12世紀にノルマン人が侵入し同化したことを経て、いまの人たちにつながっているといえましょう。

こんなストーリーを聞かされて、わたしはふたつのことを考えました。
まず一点は、先住民族のことを「まったく知られていない」と切り捨てている点です。ニューグレンジの5500年前というのは、日本では縄文前期、青森県に ある有名な三内丸山遺跡の最盛期であります。三内丸山では縄文人たちがどんなものを食べていたのか、たとえば栗は栽培していたようだ、とかの研究がありま す。そのほか、意外に広かったと推測される交易関係から、集落の人口など、生活環境について、かなり検討が進んでいます。
ところがその頃のイギリスに関しては「ヨーロッパ大陸に同じような巨石文化が見られる」という文言は見つけましたが、それ以上、どれほど深く立ち入って検討されているのかわかりません。
ヨーロッパ全体で、ケルト人以前をビーカー・ピープル、つまり理科の実験で使うビーカーのような土器しか持たなかった人々と呼んでいるようですが、土器を使い始める前にも人類は住んでいたと思うのです。
あの頭の体操が大好きなイギリス人たちが、「先住民族」という、こんな面白いテーマを放っておくことはあるまいと思うのですが、ホームページを見る限り、三内丸山遺跡とはまったく別のムードしか伝わってこないのです。

興味の第2点は、民族移動時に、先住民族を駆逐したのか、それとも先住民族と同化したのかという点です。
よそからきた民族が戦に勝って支配したときに、先住民族を殺戮・追放して駆逐したのか、税を取り使役して同化したのかという点です。実際には、100パー セントの駆逐というケースは極めて稀なはずで、どの程度駆逐したのか、あるいは駆逐したと感じているかという問題だとは思いますが。

ツアーガイドと話しているうちに、かれがこう聞きました「縄文人は日本人なのか?」。
わたしたちは、縄文人も弥生人も日本人だと感じていると思います。
それは、日本が孤立した島国だからというわけではありません。
お隣の中国について考えてみましょう。モンゴル人が支配した元も、満州族が支配した清も、支配層が変わっただけで、生活を支える働く人たちを有効に利用するのは当たり前のことで、住民は依然として中国人なのだと、わたしたち日本人は自然に感じているのです。
われわれは非常に「同化」を優勢に感ずるような、実態と感情の歴史を持っています。
ところが、かの地の人々は、駆逐をより優先させ、具体的には自分たちの先祖は、前ケルト人ではなくてケルト人だと思っているように感じました。
実際に、ヨーロッパで繰り返された民族の興亡の際には、駆逐の要素が、より強かったのためなのでしょうか。
観光バスのツアーリーダーをイギリス人代表に見立てるのも、明らかにおかしいのですが、いろんな解説書で、先住民族のことはわからないと冷たく切り捨てているところからそんな気がしてしまったのです。

ある遺跡を発掘し、古い木の柱の根ッコを掘り当てたとします。その木片の炭素同位元素の割合を測定すると、その木が切られた年代がわかります。それが3000年と出れば、3000年前にここで人が生活していたことが分かります。
その掘り出した位置の、さらに30cm下に1万年前の人が建てた家の土台が埋まっていたとします。ところが、たまたま10cm掘ってみただけで発掘を打ち切ってしまえば、遺物は人の目には触れません。
このように、遺物が発見されないことは、人が住んでいなかったことの証明にはならないのです。

このイギリスという島国では、遺跡の発掘が難しいという問題があるのかもしれません。
洞窟があったり、舌状地があると、そこが遺跡ではないかと見当をつけやすいのです。でも、イギリスみたいにノッペラボウだと「ここ掘れワンワン」と見当をつけるのは難しいはずです。
また、平らな地形なので、農耕地や牧場に転換され、自然破壊がもう古い昔に終わってしまっていて、いまさら手のつけようがないのかもしれません。

話は脇道にそれますが、こんど旅行していて、この場所は人が手をつける前にはどんなだったろうかと、いつも思いました。
写真術が発明された頃、どれほど森が残っていたものか、ぜひ、その頃の風景写真を見たいと思います。
その前の時代についても、スケッチでも探して本来の植生の状態がどんな様子だったのか遡って知ることはできないものかとも思いました。
植民地獲得のための行為が国際犯罪とされる前に、獲得を済ませていたように、自然破壊が糾弾される前に、自然破壊(人間のための利用)を終わっていたのかもしれませんもの。

さて、このイギリス地方に、いつ頃人が住みついたかについての私の意見です。
現生人ホモサピエンスは、約20万年前、東アフリカで誕生しました。そして、現在より数万年前にはベーリング海峡からアメリカ大陸に渡り、南米の先端にま で到達していたのです。そのことから想像すると、ヨーロッパ大陸の西の端っこの島に着いたのは、俗説の8000年前よりも、はるかに早い時代だったと推測 されます。

そう思っていた矢先、旅行の最後に大英博物館を訪ねたとき、度肝を抜かれました。
石器が5個、展示してありました。そのうちの4個はイギリスでの出土品で、20万年前、40万年前、50万年前と書かれていたのです。この島国に最初に進出した人類はピテカントロープスまで遡るのでしょうか。

たぶんイギリスでも、考古学者は、この土地に住み始めた人類について、深く研究しているに違いないでしょう。
イギリスは日本にくらべて、教育、職業、そのほかいろいろの面で、階級社会だと評されることがあります。
読む新聞や、使う言葉でさえ、所属する階層によって違うとも聞きます。
エリートと大衆のあいだにある溝の深さが、考古学についての常識にも表れているのかもしれません。

・人間にとって読み書きとは
文字の大切さを始めて感じたのは、7年前メキシコに行ったときのことでした。帰ってきてから紀行文を書いていて、なにかはっきりしない、まるで夢を思い出しているような気分だったのです。
それでその原因を考えてみたところ、メキシコには、16世紀スペイン人たちが侵入するまで文字がなかったためとわかりました。文字のなかったマヤ族の歴史を伝えようとすると、磨りガラスを通して見ているような気分になってしまうのです。

モンゴルを訪ねたあとに、いろいろ本を読んでいて、あの強大な戦闘力を駆使し、ヨーロッパ大陸まで攻め入ったチンギス・ハーンの時代に、かれらが文字を持っていなかったことを知りました。13世紀のことです。
中国人がチンギス・ハーンの側近となり、モンゴルの話し言葉の音に、漢字をあてて、最初の文字による記録をつくったのでした。

こんど訪れたアイルランドに文字がもたらされたのは、キリスト教の布教のためセント・パトリックがきたときで、5世紀だったということのようでありました。この事情は、6世紀に仏教とともに文字が日本に伝えられたのと似ていると思いました。

ところで、ローマ帝国がブリテン島の中央まで版図を広げ、ハドリアヌスが城壁を築いたのは2世紀初頭です。もちろん、ローマ人たちは、もう長年、文字を使いこなしていました。
そこからたった300kmほどしか離れてないアイルランドが、どうして文字という便利なものを300年も取り入れなかったのだろうと、不審に思ったのです。

しかし、考えてみると日本にも、おなじような事情があったのです。
日本のことは魏志倭人伝に書かれているのですから、日本人も文字には何らかの接点で、たとえ朝鮮を経由したとしても、古くから触れていたのではないかと思うのです。
最新の稲作技術をもった弥生文化が入ってきたのは、紀元前2世紀頃です。
どうして、われわれの先祖たちは、仏教渡来のときまで何百年も、文字を取り入れ、その恩恵に浴することができなかったのでしょうか。

その頃は、交通手段が発達していなかったという事情はよく理解できます。
でも、そのほか基本的に、人類にとって文字を使う、つまり読み書きするということは、意外に難しいことなのかもしれないと、お思いになりませんか。
わたしたちは義務教育のお陰で、読み書きすることは当たり前だと思い過ぎているのではないでしょうか。

われわれホモサピエンスは、約20万年前、東アフリカで誕生し、それから19万年経ってやっと読み書きを始めたのです。
もしも、ほんの少し能力が不足し、読み書きと無縁のままだったら、ネアンデルタール始め6属18種におよぶ、ほかの人類と同様に、地球の自然環境にさしたる影響を与えることなく、無事に絶滅していったことでしょう。

わたしが生まれた頃には、日本にだって識字率という言葉があったのです。
読み書きができない人のことを、文盲とか目に一丁字なし、などと表現したものです。
いまでも、落語の世界では、字の読めぬ与太郎や八ッつぁんたちが活躍して、笑わせてくれるではありませんか
識字率100パーセントは、現在の日本の豊かさを生んだ基盤のひとつであります。
昨今、若い人たちの文字離れが進んでいると嘆かれていますが、これは未来の地球環境保全にとっては、慶賀すべきことなのかもしれません。


・顔黒の娘のノートは真っ白け 夢仙人


今度はどれにしようかな


また考えてみれば、お隣の大国、中国から文字を学び、共有していることは、非常に大きいメリットといってよろしいでしょう。
実際、文字だけではなく、世界中のほかの国々とくらべて、社会観、人生観、さらにミクロには2本の箸を使う生活習慣までも、かなりの程度、共有しているといえましょう。
アメリカとイギリスとが、文字、言語を共有しているメリットを考えても見てください。
漢字使用国もメリットを生かして、人類社会をよくするために貢献したいものです。

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