題名:むかしの天竺、いまインド

重遠の入り口に戻る

日付:1999/4/5


勤めている会社が創立50周年を迎えました。そのお祝いとして従業員全員に、JTBの旅行券5万円分が配られたのです。

最初は、以前から計画していたインドネシアへの旅を考えたのでしたが、旅程にジャワの最高峰スメル山を入れようとすると、JTBでは無理だと諦めざるをえませんでした。

そこで何時の日にか一度は行きたいと思っていた、そして個人旅行では何かと手強いと思われるインドへ行くことにしたのです。

さて、インドへゆくパック・ツアーを探しましたが、サリーを着てみるだとか、象に乗るだとか、なんとかマッサージを経験するだとかいう、単なる遊びのツアーには興味が湧きませんでした。そこで、まずは日本からの同行者を観察するだけでも面白かろうと思われる、仏教遺跡探訪ツアーというのに申し込みました。

ところが、このツアーは9名以上集まらないと成立しないのです。それで、しばらく様子を見ていましたが、旅行券の通用期限の3月末までには、とても集まりそうにないことが分かってきました。

そこで、ともかくインドで、なんとか勉強らしいツアーはないかと探して、2名から出発保証の、今回行った仏教美術探訪の旅に行き着いたのでした。

 

?霜降れり大東京の公園に

 

●トラブルの予感

旅の手続きを始めてみて、まずインドという国に好意を持てませんでした。ビザが要るというのです。それも、勤め先の会社が何をしている会社かなど、事細かな質問項目があり、とてもウエルカム・ムードなど感じられるものではありませんでした。

また、ビザ取得の費用を聞かされて、びっくりしました。とんでもなく高かったのです。もっともこれは、インド政府の責任ではなく、日本の旅行社の手数料が法外に高かったからではありましたが。

 

まずは、インドについての旅行案内書を買って読んでみました。

最初は、いわゆる先進国以外の国について、共通的に述べられている注意項目が並んでように感ぜられました。

ところが、いよいよ出発の日が近づき、荷造りを始める段になって真剣に読み出すと、厭になるようなことがいっぱい書かれていました。

日本からの飛行機は、インドには夜遅く着くことが多いのです。

空港でタクシーに乗って、法外な料金をとられたうえ、高いホテルと、高いツアーを半ば脅迫的に押しつけられたとの報告があります。

帰りの飛行機のリコンファームを旅行エージェントで頼んだら、どこかへ電話をかけて「残念ですが、その席はキャンセルされてます。87ドルくれれば代わりの席をとってあげます」という詐欺に遭った話もあります。

宿の人に、自分の兄弟の店だから特別安く買えるからなど言って連れ込まれ、これも脅迫されて高いものを買わされるなどは、どこの国にでもよくありそうな話です。

地元の人と知り合いになり、それとなく保険に入っていることを確かめられた後、相手に食事を奢られるたびに下痢になり、親切に医者に連れて行かれ、高額の治療を受けたというように、まるで和歌山の毒カレー保険詐欺事件のようなのも書いてあります。

 

また、たとえ銀行の窓口であっても、両替をするときは、レシートに書かれた金額に不足がないかどうか1枚1枚数えなさい。たとえあなたの後ろに何十人行列していようともです。数え始めると、やおら100ルピー札を1枚追加されることなどよくある、ともあります。

そのほか、置き引き、かっぱらいなど恐ろしいことが、ズラズラと書いてあるのです。

 

このように、こんな目に遭わされたという読者からの寄稿が、本のあちこちに囲み記事として乗っています。

ですから、600ページもある本の、今回の訪問と関係ない土地のページまで、いちいちめくってみなくてはなりません。インドに出発するまでに、トラブル例を読み終われるだろうかと、焦ってしまいました。

今回のツアーには、夜行列車など鉄道の移動が入っているのです。

そこで、なにはともあれ、必要なものはカギだと結論したのです。

前から、外国旅行の時には、万全のカギ防御態勢をとっていることを自慢している家内に、ありったけのカギを提供して貰いました。

 

それでも、まだ心配でした。荷物をベッドにくくりつけておく、ワイヤ・ロックも要ります。

また、やたらロックをかけると、キーが見つからなくて開けられず、盗られはしないものの、本当に必要なときに中身を使えもしないで、日本まで持って帰らなくてはならない場合も、また心配になってきました。

ともあれ、海外旅行グッズのお店に行き、ワイヤ・ロックと、キーの要らない数字合わせのロックとをいくつか買い込みました。

こうしていざ最終的に荷造りを始めると、カギを掛けられるポケットの数よりもカギの数のほうが多くなってしまって、カギを入れたポケットにカギをかける羽目になったのでした。

 

最近、インドに関する本を読んでいましたら、18世紀にインドの支配を始めたヨーロッパ人たちが、本国に、インド人たちは野蛮人で、ずるいと盛んに言い立てたようです。

今の時代と違って、そんな風評だけが唯一の情報源だったのですから、インド人は、はしっこい、ずるいと国際的に思い込まれてしまったのかも知れません。

 

国際詐欺コンテストなどやってみれば、ほかに優勝する国があるかもしれないじゃないですか。でもインドの上位入賞は固いだろうと、このコンテスト最下位確実民族の私は愚考するのですが。

 

現地ガイド付きのれっきとしたツアーでしたから、私自身はほとんど不愉快な目には会いませんでした。

でも、本当にインドへ行った証拠に、ひとつだけヨーロッパ人の顰みに倣いましょうか。

ホテルへ帰り、フロントでキーを下さいと言いました。「キーは戻ってない、お前が部屋に置いたまま出たのかも知れないし、まず自分のポケットを探して見ろ」と、にべもなく言われてしまいました。

ところがこの時は普段と違って、私には、キーをはっきり返した記憶があったのです。それは午後2時半、もっとも客の出入りが少ない時間で、フロントの従業員は男女ひとりずつしかいませんでした。

男はお客と話していました。女は電話をしていました。私がキーを持って立っていると、女性従業員が手でそこへ置けOKとサインしたので置いて出たのでした。

頭へ来たので、その旨言い立てましたが、相手は、当時勤務していた女性従業員に問い合わせるでもなく、まったく相手になってくれないのです。

キーを紛失すると、それが悪意の人の手に渡る可能性があるため、錠全体を取り替える必要があり、結構な出費になるはずです。

間にガイドが入ったので、私は不愉快な思いをしただけですみましたが、その件に関するお金が、何かの保険から出ていることも想像されます。また、お金だけ受け取って、錠前は取り替えずに置くことだって想像できないことはありません。

断固として責任を押しつけてくる態度が不愉快だったので、実名を上げますがアグラ市のトライデント・ホテルでのことでした。

そう言えば例の本の囲み記事に、リクシャーという名のミニタクシーの数十円の料金のことでも、やっぱり頭に来て「乗る前に値段を決めたら紙に書かせて、できればサインを取っておくこと」というがありました。でも、一流ホテルのフロントでキーを返すときに、レシートをとらなければいけない国というのも聞いたことはありませんね。

 

夜行列車の寝台のフレームには、なるほど荷物をくくりつけるために、ワイヤを輪にしたものがついていました。

また、駅のホームの移動キオスクに、3種類のチェーン・ロックを、沢山ぶら下げて売っているのを見付けました。ロック中毒患者と化していた私は、当然のように本場物も手に入れました。一番高価なので、90円ばかりでした。

日本に帰ってから、100円ショップというのを覗いていましたら、やはり100円でチェーン・ロックがありました。でも、もうこの時は、さすがに食傷気味で買うのを見送りました。

 

春暑し木陰に集う尾長猿

 

●インド

インドの人口は約9億3千万人、21世紀には中国を抜いて、世界一になるだろうと言われています。

面積は日本の約9倍です。

一人当たりのGDPは、日本の約100分の1です。もっとも、ガイドは9億のうち1億人は金持ちだから、車は1億台は売れるよと言いました。大きい国だということです。

インドは南の暑い国だと思われていますが、緯度でいうと南九州からフィリピンの南部ぐらいに渡る大陸ですから、南と北とでは気温は大分違います。

こんど訪ねた中西部地域では、あっちこっちの人通りで、ごろごろ寝ている人をよく見かけました。何と言っても人間が暮らしやすい土地には違いありません。

中国とどちらが貧しいだろかという話になったことがありました。インドのほうが悲壮感はないというのが、おおかたの共通した印象でした。

背の高い人低い人、太った人痩せた人いろいろいます。

最初に乗った飛行機のスチュワーデスさんは、顔の彫りの深い色白の美人だったものですから、インド人って黒くないと思ってしまいました。でも正確には、皮膚の色は個人個人でいろいろです。

旅も半ばになった頃、日本人観光客の一団と行き会ったとき、女の人たちがみんな白く眩しく見えましたから、やっぱりインド人は黒いのでしょう。

うるさく寄ってくる観光地の物売りたちは特別なインド人です。そして田舎の茶店でお茶など飲んでいると、普通のインド人がおずおずと寄ってきます。「お前らは日本人か」「どこへ行くのか」程度の会話ですが、先方は巻き舌のすこぶる分かり難いインド英語、こちらは日本英語、なんとか通ずると本当に嬉しそうにしてくれます。

町の中を牛が歩いているという話は聞いていました。たしかに、ちゃんと所有の決まった飼い牛や、いい加減な野良牛がウロウロしています。その他に犬や豚、山羊、羊、鶏、アヒル、それに猪までが町中で餌をあさっているのには驚きました。

猪は富士の裾野のような寒い森に住んでいて、人間とは敵同士なのだと思っていました。ところがインドの猪は、ごく当然のような顔をして、町の中でドブなどつついているのです。日本の猪とは違って、毛の生えた豚なのかも知れません。同じ発想をすれば、人間も毛のない猿というわけです。ともかく、車で旅行していると、道路際には毛無猿も含めて、いろいろの動物が一緒くたになって共生しているのが見られます。

自然愛好者なら随喜の涙を流すような楽土なのだと思いました。

 

ムンバイ(旧名ボンベイ)の洗濯場を、橋の欄干から見下ろしていました。洗い場は百を越える1メートル四方ほどの洗い桶を、コンクリートで作ってあります。昔、よそで見たものと比べると、随分しっかりしたものになっていました。

プロの洗濯屋の男たちは、衣類に石鹸をつけ、コンクリートの台にどんと叩きつけては、汚れをとっていました。

ふと、腿のあたりに何か触っているのに気がつきました。見ると、小さな男の子が突ついているのです。

この子には、見覚えがあったのです。さっき、車を出たときに、わっと押し掛けた物乞いたちのひとりなのです。一目見ただけで病気と分かる母親に寄り添っていた子供

のようでした。それにしても、なんという優しい突つきかたでしょう。なにせ相手に不愉快に思われず、それでいて気がついてもらはなくてはならないのですから。可哀相に思って小金をやったりすると、我もわれもと押し掛けて来て、収拾のつかない大変なことになるから、目も合わせず口もきかず、空気のように接するようにと注意されているのです。

もしも、相手が一人だけだったら、多少のお金を差し上げ、美味しいものでも食べて、お母さんをお医者に連れて行きなさいと言いたいところです。なにせ孫のような、かよわい男の子が、一生懸命見上げているのですから。

 

また博物館を出ると、5歳前後の兄妹が待ち受けていました。兄が首を振ると、帽子につけた鈴が鳴るのです。妹は、後ろ向きに、でんぐり返りを繰り返えしました。見て、見て、そしてお金頂戴、そう言っているのに違いありません。

実際に見たわけではありませんが、昔、鞍馬天狗の映画に出ていたと聞く、越後獅子の子供が、こんなふうだったのかしらと思いました。

 

マリー・テレサの事業から連想されるように、インドには助けを必要とする人が一杯いるのは事実でしょう。汚い所で非衛生的な生活をしている人が沢山いることは、ただ車で通り過ぎるだけでも、否応なしに目に飛び込んできてしまいます。

どうしたら良いのかを考え、妥当な手を打って行くのは、一義的にはインドの人たちの責任です。

社会制度や教育など、その国固有の問題があるはずです。しかし、なんといっても最後は「そうは言っても、金の欲しさよ」は付いて廻るはずです。ここで責任があるインドの人たちというのは、まずはインド政府だと言ってよいでしょう。そのほかにも段々と、赤十字、ユニセフ、各種NGOが続き、そして一時の感情だけしか及ぼせない観光客の喜捨は最後の最後でしょう。

 

昨秋送られてきたスーダン難民救助時のユニセフ資料によりますと、ほんの僅かなお金で、餓死から人の命が救えるとありました。

いっぽう先進国での高度医療には、聞くところによると、大変なお金が要るそうです。先進国における一人の高度医療の費用で、千人以上の難民の生命が救える計算になります。

人の命の値段は、こんなに違うのが現実なのです。

 

昨年「プライベート・ライアン」というアメリカ映画が上映されました。第二次世界大戦の末期、ノルマンディー上陸作戦に、3人のアメリカ人兄弟が参加していました。戦死の通知をタイプしている女性が、そのうちの2人が戦死したことを上司に報告します。

陸軍長官は、家族の心中を思いやって、すでに空挺隊の一員として敵地に降下している最後の一人を、前線から安全な後方へ移動させる命令を出します。

その救出のためにアメリカ軍兵士8名が、ドイツ軍の陣営を突破し、命令が出ていることを伝えに行きます。一人の命のために、何人もの家族のある兵士たちが、命を捨てさせられるのです。人の命の軽重を考えさせる映画でした。

ダイオキシンも環境ホルモンも、たしかに問題でしょう。

しかし、「影響が疑われる」などとは違うレベルで、この瞬間も地球上で、ほんの少しの金で救うことができる命が失われているのです。

地球上の山河草木を統べる神様は、人間たちがやっている現実を、どのようにご覧になっておられることでしょうか。

 

?春寒し吾に物乞ふ児の瞳

 

●宗教

日本人にとって仏教伝来に対する認識は、遠い天竺、今のインドで、お釈迦様が苦しい修行の末、菩提樹の木の下で悟りをお開きになり、その教えが三蔵法師によって中国に伝えられ、さらに欽明天皇の御代に日本にもたらされたというところでしょう。

今のインドでは、仏教徒の数はたったの0、7パーセントに過ぎません。キリスト教は2,4パーセント、そのほか拝火教、ジャイナ教、スイク教などがあり、多いのはイスラム教の11パーセント、そしてヒンズー教が83パーセントとなっています。

私自身は仏教徒ですが、長年、職場の安全祈願では、もっぱら神道の神社に参拝していました。またアメリカでも日本でも、キリスト教の教会に行き、お説教を聴いたことがあります。そのほか半ば観光のようにして、天理教の大本山に入らせていただいたこともあります。

宗教ほど、個人によって評価が極端に分かれるものはあるまいと思います。だから、本来、触れないのが賢明と言うべきでしょう。

でも、色々な国を旅すると、どうしても立派な宗教的建造物に案内されます。そしてそれなりに、考えさせられることが出てきてしまいます。

できるだけ、事実だけを書いて見るつもりですから、悪く受け取らないで頂きたいと思います。

 

国際的、広域的な宗教は、イスラム教、キリスト教、仏教で、その他の宗教は民族的、ローカルな宗教と聞いています。

 

一神教か多神教かといえば、イスラム教、キリスト教が一神教、ヒンズー教、神道は多神教といえるのでしょう。仏教はどうなのでしょうか。お釈迦様が亡くなられてから数百年の間は、一神教だったようです。でも今は、阿弥陀様、大日如来様、いろいろの観音様など、いろいろいらっしゃいます。

偶像崇拝の視点からすれば、イスラムでは峻拒、キリスト教では拝むなと教えられていますが、十字架、キリスト像、マリア像は拝まれていると見る人があるかもしれません。

仏教では始めはお墓を象徴するドームを拝んでいましたが、途中から仏像を拝むようになりました。神道では昔は山や、大木をご神体として拝んだと聞きます。

ヒンズー教では大変現世的なお姿をされた、創造を司るブラフマ様、保全のヴィシュヌ様、破壊のシバ様とそれぞれの神様がおられ、また、その奥さんや子供さんもいて賑やかです。それはそれ全体が宇宙を表わすのだそうです。

開祖という切り口からみれば、釈迦、キリスト、モハメッドと開祖がいらっしゃる宗教と、ヒンズー、神道のようにいらっしゃらない宗教とがあるようです。

ヒンズーでは、特定の教典もなく、教団として組織化もされていないのだそうです。そんな、ヒンズー教徒が地球の人口の10パーセントを越える7億人以上もいるのです。

 

こんなに書いていて、頭がごちゃごちゃしてきました。

ちょっと、別の見方をしてみます。

 

98年にメキシコに行ったとき、16世紀、メキシコ・シティーに入ったカソリックの一派が、土着の信仰の女神様とマリア様とは同一体であると説いて融合を計り、それがうまくいったという話を意外に感じました。

それまで私は、仏教徒としての日本人はおおらかで、一軒の家の中に神棚と仏壇をおいているぐらいなのに、キリスト教では島原の乱に見られるように、十字架の絵を踏むぐらいなら殺されたほうがましとするほど不寛容だと思っていたのでした。

今度訪ねたインドでも、同じような話を聞いたのです。

16世紀、ムガル帝国として統一を成し遂げたアクバル大帝は、柔軟な人で、第一王妃はヒンズー教徒、第二はキリスト教徒、第三はイスラム教徒とし民の融和を計ったと言います。

そう言えば、インドのあちこちで、ヒンズー、イスラム、仏教を表わす建築様式を意識的に並べたお城やお寺があったような気がします。この三つは、数多い宗教の中でも、インドでは特別に相性がいいのでしょうか。

 

ヒンズー教では、仏様は、保全の神ヴィシュヌ様が9番目に変身したときのお姿だとして、仏教まで取り込んでいます。「すべての川が大洋に注ぐように、すべての宗教の目指すところはひとつだ」とする教義なのだそうです。

日本でも明治になるまで、日本の神様たちは、仏様が日本においでになってお働きになるときのお姿だと説いた、天地垂迹の説があったと言います。

また、話がぐちゃぐちゃしてきました。

 

インドとパキスタンが核実験で競い合っています。両国は犬猿の仲です。被爆国日本としては、なんとしても核兵器廃絶を叫ぶ義務があります。

第二次世界大戦後、インドがイギリスから独立するとき、風光明媚なカシミール地方の帰属の問題がありました。そこの住民の大部分はイスラム教徒だったのに、藩主はヒンズー教徒でした。それで、ヒンズー教主体のインドへ帰属を決めたのです。

ところが、住民が反乱を起こしました。これにつけ込んで、イスラムが主体のパキスタンが軍隊を派遣しました。それが第一次インド・パキスタン戦争です。第二次を経て、第三次印・パ戦争により、東のイスラムグループがバングラディシュとして独立したのが1971年のことです。

イギリスが長年、インド人たちの独立への意志統一の芽を摘む手段として、ヒンズーとイスラムの対立を煽っていたというのは定説になっています。

 

生まれた家柄で、生業が決まると言われるインドのカースト制度は、ヒンズー教と深く結びついているのだそうです。

それで、この制度のもとで圧迫されている下層の人々が、神の下での平等を説くイスラムなど他の宗教に、集団で改宗したこともあったそうです。

 

日本でも、比叡山の山頂の延暦寺と、麓の園城寺との、同じ仏教のお坊さま同士の長年にわたる争いは有名であります。

宗教は、それにどんな人がどのように関わったのか、ということが問題であるような気がしてきてしまいます。

 

またまた、頭が混乱してきました。なにか自分の無学をさらけ出しているような、恥ずかしい気持ちがしてきているのです。

信者の方がお読みになると、ずいぶん不敬だったり、間違ったことを書いていると感じられるかも知れません。平にお許し願いたいと思います。

 

?大陸に大き朧のありにけり

 

●肥沃の地

インドは、日本の9倍の国土で、9億3千万人の人間を養っているのですから、肥沃な土地と言ってよいでしょう。

モンゴルが4,2倍の土地で、230万人しか養えないのと比べると分かります。

日本はインドと似たような率ですが、日本では国土に頼るだけではなく、技術の付加価値を輸出して、食料、エネルギーなどを輸入し、今の生活レベルを保っているのです。

今回旅行し目にしたのは、インド全体から見ればほんの一部分で、おおまかに言えばインドの北西部、デカン高原の北の端と、ガンジス川の上流地域と言ったらよいでしょうか。

どちらの地域も、荒れ地もあるにはありましたが、まずは行くところ、行くところ、あらゆる作物の畠が続いていました。

 

さすがに、デカン高原は平らでした。所々浸食を受けていますが、見渡す限り地層が水平で、テーブル状の山の姿を見せていました。岩盤の上の土壌はそう深いわけではありません。また、潅漑用ダムにしても、どこにどう造ったらよいのか、あまりに平らな土地なので、私たちの常識では考えが及びません。降水量まかせなのでしょうか。

 

ガンジス川上流地域とは、アグラ市とニュー・デリー市のことです。全長2500キロもあるガンジス川の、河口から2000キロ近く遡ったあたりです。ここは東西2400キロ、南北240キロのヒンドスタン平野で、こんなに河口から遡っても、標高は海抜150メートル程度しかありません。日本の川の上流と似た地形になるのは、もっとはるかな最上流部だけなのでありましょう。

実際に見た川はヤムナー河というガンジス川の支流です。有名な白大理石で造られたお后様のお墓、タージ・マハールのあたりは、渇水期の木曽川の犬山付近のような感じでした。

「アグラ付近は水が悪いから、私たちでも飲まない。みなさんも絶対飲まないように」

とガイドが言いました。

ホテルでシャワーを浴びて、お湯がちょっと口にはいると、塩っぱく感じられました。石鹸はちゃんと溶けて泡が出るので、洗うのに支障はないのですが、その後いくら流してもなにかぬるぬるが取れないのです。静岡の寸又温泉の美肌の湯と似ています。

例の癖でガイドへの質問です。「アグラの水は昔から悪かったのか」「イエス」「アグラの水道は川の水か、地下水か」「地下水である」「地下水では大きな都市の水道は賄えないはずである。人口はどれだけか」「旧市内で5万である」(松本市では人口10万を越えても地下水で水道を賄っていた)「ニュー・デリーではどうか」「インドでは水道はすべて個々の家が地下水に頼っている。何となれば川は、雨が降らないと水が流れなくなってしまうからである」。

つい最近、やや古いエコロジーの映画がテレビで放映されていました。

インド編では、1950年代に緑の革命という名で、収量の多い小麦の新種が推奨され、一時はインドの人々を飢えから救ったように見えました。しかし、そのために、かけがえのない地球が、ひどく傷つけられてしまったというストーリーで描かれていました。この手の作品は、物事の暗い面だけを、さも自分だけが気が付いたとでもいうように取り上げ、それでは全体として、一体どうしたらよいかは、他人まかせにしていることが普通です。

この映画でも、地盤が沈下して池になってしまったところで、農民に「私たちは、昔のようにここで農業をしたいのです」という非難で結んでいました。かっての農地が池になってしまっていることについて、二つのことに気が付きました。

 

ひとつは地盤沈下によるものです。

それは明らかに、集落と関係がありそうでした。車で走っているとき、交通量が増えクラクションが鳴り始めると、池が現れ、水牛がのそっと姿を見せるのでした。

水は人間にとって必需品です。八ヶ岳南麓の縄文遺跡では、井戸尻遺跡など、住居跡は水の得られるところ毎にあると言っても良い状態で分布しています。また、北海道白老の観光地になっているアイヌ部落、ポロトコタンは、アイヌ語で、ポロ=大きな・ト=湖・コタン=村だそうです。

インドのこの辺りは、まず水があったので集落ができ、その後手押しの井戸が導入され地下水を汲み上げたので地盤沈下が激しく、池が不必要に広がったと想像されます。

もともとこの辺りは、上流からの土砂が積もって出来た沖積平野ですから、次第に土が締まってゆき、洪水で土砂が供給されなければ、自然に沈下していく土地柄ではあります。人の営みが、沈下に拍車をかけていると言ったらよいでしょう。

 

もうひとつ気がついたのは、道路の両側に池が、むしろクリークがと言うべきでしょうが、どこまでも続いていることです。それは道路を高く積み上げるために、周りの土を掘り取って使ったからです。

沖積層ですから、道路を積み上げなければ舗装して車が通れば、たちまち沈下してしまうのでしょう。

日本でしたら、どこかそんなに遠くないところに丘や山があって、そこから土を持ってくることでしょう。そうすると土を取ったところは、平らな価値の高い用地に変身するのです。

かっての豊葦原瑞穂の国日本は、自らも山が多くて平野が少ないことを嘆き、中国人からは「耕して山頂に至る、もってその貧を知るべし」と哀れまれたのですが、楽観的に見たほうがいいですね。

 

地下水を無計画に使っていては、いつかは壁に突き当たらざるを得ません。インドにとって水は基本的な問題であるはずです。

 

大陸の水問題を考えさせられました。そもそも、天から大地に降ってきた雨水が行き着く終点は、空中へ蒸発するか、海へ流れ去るかのどちらかでしょう。

例え人間が使っても、それだけでは、水は決して無くなりはしません。水力発電に使われた水は、ほんの短い時間でまったく変わらない品質で川へ戻ります。畠に撒いた水も、飲んだ水も、洗濯に使った水も品質こそ変わりますが、あくまで水として国土の中のどこかに排出されます。

 

去年、沖縄本島へ行ったとき、1983年に大きなダムが出来たのを境にして、水不足がほぼ解消されたことを知りました。

それまで、折角降っても、無駄に海へ逃げていた水をダムに貯めておいて、雨が長期間降らないときにも使えるようにしたからです。

小さな島だと直ぐ分かるこの理屈が、大陸ではどうなっているのか気になります。

延長約2500キロメートルもあるガンジス川の河口で、海に入って行く水は、それまでに通り過ぎた色々の土地で、どんなに沢山の人と、どんな関わりを持って流れてきたのでしょうか。

雨となって降った水は、島国と比べ、大陸では蒸発する分が多くて、海へ捨てられる率は、もともと少ないことが想像されます。ある本に、降った雨が川へ入る率は、日本では80パーセント、世界の大きな川では平均30パーセント、パリを流れるセーヌ川では17パーセントだとありました。

さらに、人口が多い地域だと、潅漑や洗濯など人間に使われ、ただ川を流れているよりも空気に曝される機会が多くなり、したがって蒸発する率が高いに違いありません。

それが一体、何パーセントになるのでしょうか。

この国は、気温が高く、平らな土地が多く、日照に恵まれた肥沃な土地です。

しかし、ダムを造り貯水する方法では水資源を増やせそうにないので、降る雨の量が国力を制限する重い枠になってしまうのではないかと思われるのですがどうでしょう。

 

?ボンベイに売らる大根の白きかな

 

●遺跡と忘却

そうそう、仏教美術探訪の旅と言いながら、今までその点になにも触れていませんでした。

 個々の観光地についてガイドブックから書き写しても仕方ありませんから、どこを訪ねたかだけを、ざっと並べてみることにしましょう。

さすがにJTBのアレンジです。本当に色々のところを効率的に見せてくれています。

まず成田からエア・インディア航空でムンバイ(旧ボンベイ)へ。あとエレファンタ島石窟寺院、拝火教の沈黙の塔(遠望)、ダウラターバード、エローラ石窟寺院、アジャンタ石窟寺院、カジュラホ寺院群、オーチャ城、ファテプー・シクリ、タージ・マハール、アグラ城、マトゥーラ博物館、クトゥブ・ミナール、国立博物館、フマユーン廟、インド門。そして最後はニュー・デリー空港から成田に帰ったのでした。9日間の旅行でした。

日本の仏教寺院が木の芸術品だとすると、インドのものは岩の芸術品です。

インド大陸には日本にはない上質の岩があるのです。

あちこちで使われている赤い砂岩は、きめが細かく、均質で、粘り強いのです。まるで、日本で檜を彫ったように、岩に細かい模様を今もくっきりと残しています。

タージ・マハルに使われている白大理石も、ちょっとお目にかかれないほど美しい大理石なのです。とくに石棺の周りに使われているものの肌は、まるで中国の景徳鎮で作られた上質の磁器の肌を思い起こさせるような、しっとりした感じでした。

エローラ、アジャンタは、あちこちの岩山の中に大きな伽藍があるのです。ガイドは「天井から掘り下げたのです」と物々しくも厳かに説明し、観客は「へへー」と感心するのです。

エローラの第16窟では、伽藍を削り出すのに100年以上の年月をかけ、約20万トンの岩が排出されたと見積もられています。

私としては奥矢作や、奥美濃の地下発電所を掘っているのとまったく同じ、理屈にあった方法だなあと、2000年以上前に掘られたインドの地下空洞を感心して見ていました。

水力発電所建設の土木屋さんなら、さらに感慨深いものがあることでしょう。

 

アジャンタの仏教石窟群は、最初BC1世紀に5つほど石窟が掘られ、いったん放棄された後、AD5世紀にまた造られ始めたとのことです。しかしまた7世紀頃に放棄され、その後1000年あまり、人々に忘れ去られていたのです。そして、1819年、虎狩りに来たイギリス士官に密林の中から偶然発見されたのです。

7世紀といえば、天智、天武といった頃で、そんなに昔ではありません。ましてやインドでは、お釈迦様が悟りを開かれ、そのお言葉がお経になったのはBC5世紀のことなのです。7世紀には、もう高度の文化があったはずです。

それなのに、遺跡が世間から忘れられていたのは、なんとも不思議に思われます。日本でも、当然、記録があってよいと思われる、藤ノ木古墳、キトラ古墳などが、やっと最近日の目を見たのです。

石窟寺院放棄の原因は、多分、スポンサーの事情だったのでしょうけれども、世間から忘れられた原因には共通のものがあるのでしょうか。

ともあれ広いインドのことです。AD2000年の今も、どこかにとんでもない遺跡が、忘却のジャングルの中に眠っているのかもしれません。

何かしら、古代ロマンに胸躍る気がするではありませんか。

 

?如月の目裏にサリー翻る

 

●インドの料理そして交通

一流のホテルばかりに泊まり、かつ、ほとんどバイキングでしたから、本当のインド料理を食べたかどうかには自信がありません。

旅行案内には、チャパティ、ナン、プーリーなどがインドの主食として書いてあります。でも日本で、ご飯やパン、トースト、サンドイッチ、うどん、ホットケーキなどを、とくに違和感なく食べている人にとっては、どれもこれも特別なものではないはずです。むしろ、日本蕎麦のほうが、癖があると言えましょう。味は、みんな美味しいのですが,だからと言って、これじゃなくてはいけないと言うわけでもなく、つまり、まあまあと言うべきなのでしょう。

でも日本にもある、リンゴ、スイカ、ぶどう、パパイア、バナナなどを比べると、どうしても日本のほうに軍配が上がると思います。つまり、日本人ほど、手のかかった美味しいものを食べている国民はない、ということなのではないでしょうか。

 

一つ事件が起こりました。我々一行の中で唯一若いkさんに、その不幸は襲いかかったのです。

インドのホテルのバイキングでは、たいてい野菜が少なくて、ベークド・トマトなどが野菜づらをしています。たまたま、緑が目にも鮮やかなサヤインゲンがありました。私も皿に取りましたし、kさんも取りました。

食事が6合目あたりに差し掛かったときです。kさんが「あっ」と言って口を押さえました。すかさず、ガイドが「呑んじゃいなさい」と言いました。

あのサヤインゲンと見えたのは、実は辛い辛い唐辛子だったのです。

kさんは、冷たいものを飲んだり、口の中の火を消すのに一生懸命でした。でも、唐辛子の辛さはとてもしつこいのです。涙は出るし、息もできないほど苦しそうでした。

よそのテーブルから西洋人が飛んできて、砂糖を舐めれば楽になるなど言ってくれました。彼は、いつもひとりで、とても物静かにしている人だったのですが。

私など年をとって、あらゆる神経が馬鹿になっているのですが、kさんは若くて、とてもデリケートなのです。刺激の強いものものは厭だと言って、ソーダ飲料とかカレーを使った料理は、前々から避けておられました。選りも選ってその人がそんな目に会ってしまわれたのです。

 

若い頃、会議の資料を作りました。会議が途中まで来たとき、重役が資料をやたらめくるのです。なんと資料が1ページ抜けていたのです。私は、もう、真っ青になりました。

すると、私の上司が「失礼しました。えてして、一番偉い人のところへ間違った資料が行くようでして」と取り繕って下さり、みんなに笑って済ませて頂いたことを思い出しました。

 

インドでは、車はイギリスや日本と同じ左側通行です。

車の運転について、最初の訪問地ムンバイ(旧名ボンベイ)では、今までに訪れた外国に比べて、そんなに違和感は感じませんでした。人は溢れ、車はそれをかき分けかき分け走っているのです。程度の差はあれ、グローバル・スタンダードの延長で考えられる範囲と感じていたと言えるでしょう。インド流の運転マナーを意識し始めたのは、地方の都市に入ってからです。

現象的に見れば、その一番の特長は、道路のセンター・ライン(センター・ラインが引かれていない場合は仮想のセンター・ライン)を自分の車のセンターに合わせて走ることであります。

道の両側には、どう動くか予期できない、歩行者、自転車、馬車、牛、イノシシ、犬などが歩いている環境ですから、これが最も事故の少ない運転マナーということになりましょう。

テニスのシングルスの試合で、相手がどこに打ち込んできても対応しやすいようにと、常にベースラインのセンター近くにポジションしているプレイヤーと同じ振る舞いであります。

同じやり方は、片側2車線の立派な道路を運転する場合にだって守られているのです。

つまり、車線分離標示の線を、自分の車の中心にして走るのです。そういう車を追い越そうとすると、当然、警笛を鳴らして道を譲って貰わなくてはなりません。

そういうわけで、インドで車に乗れば、日本だったら一生かかっても聞けないほどのクラクションを、1週間のあいだに聞くことができるのです。インド向けの車のクラクションは、連続使用しても故障しないように作られているに違いありません。

鳴らされたほうの車は、わりに気易く譲ってくれます。ただし、追い越し車線をすっかり明け渡してくれるわけではなく、こちらの車幅プラス15センチほどを譲ってくれるのです。なにせ彼にしても、道路の端には、気分の読めない悪魔たちが常に存在するのですから、一刻も早く安全なセンター・ポジションに戻りたいのです。

この辺りの様子を見ていると、行政としては、自分らにはここまでしかできないから、あとはお前らで適当にやれと言っているようにも見え、また住人たちは結構うまくやっているという感じです。

また、道のあちこちに、私設らしいゲートがあり、通りかかる車からお金を取ります。ガイドの説明では、橋などの大規模公共施設の工事があると、工事費の地元負担分をこういう形で徴収しているのだと言っていましたが。

どうやら、インドでの交通事情の根底には、道とは人間を含む動物の移動のためのもので、法律を守ったり、違反者を罰したりするためのものではないという哲学が厳然と居座っているようなのです。

日本の私の友達が先日スピード違反で捕まりました。多分、態度が悪かったのでしょう、警官が「あんた、悪いことをしたと思わないか」と詰問したそうです。彼は「道は真っ直だし、前には何もいない。まったく危険はなかったので悪いなんど、思いもよらぬこと。大体、こういう場所で、のろのろ走る奴がいるもんで渋滞が起こるんだ」とうそぶいたそうです。こういうシーンは、インドには存在し得ないと思います。

村と村とをつなぐローカルな道路は、そんなに広くはないのですから、向こうから来る車は当然正面衝突体勢で向かってきます。そこが、腕の冴えで、あわやという一瞬、左右に分かれるのです。運転手は、相手と道路際の魑魅魍魎との両睨みをしているわけで、武蔵と小次郎、かくもありしかと偲ばれるのであります。

そういうわけで、ついつい、インドの交通法規はどうなっているのか、自動車学校ではどんなように教えているのか、試験はどうするのかなど、こみ上げてくる疑問をガイドにぶっつけました。「それは日本に帰ってからインド大使館で調べることですな」

と、同行の日本人に言われてしまいました。ともかく、日本のルールでインドを走っても、またインドのルールで日本を走っても、必ず重大な事故を起こすことでしょう。

インドの場合、視力と反射神経に重点を置いた運転免許合否選別が絶対必要です。そして反応の鈍くなった年寄りの運転は、もう犯罪と言ってよいでしょう。

 

思い返してみると、インド国内で使った公共交通機関は列車2回、飛行機2回でした。

不思議なことに、4回とも出発が約2時間ずつ遅れました。

ガイドが世話してくれるパック・ツアーで、珍しい土地に来ているのですから、遅れることは全然気になりません。むしろ、話の種を拾ったような気がしています。

寝台車は、そもそも乗り込むところからして2時間も遅れていました。翌朝起きると、ガイドの報告では、車掌が「出るのは2時間遅れた、着くのは何時間遅れるか分からない」と言ってるとのことでした。でもこれは、日本人を異国情緒でもてなすためのお芝居だったかもしれません。

ニュー・デリーから成田へのエア・インディア便は、21時30分発のスケジュールでした。ところが、何時まで経ってもアナウンスなどはなく、定刻を1時間過ぎた22時30分になっても、相変わらずON SCHEDULE 出発21時30分というCRTが点滅を繰り返していました。これも話の種という、インド土産を用意して頂いたことになるのでしょう。

インド人のガイドさんは、お坊さんになる勉強のため、日本に来たことがあると言っていました。そして、日本の時刻表には13時47分着などと印刷してある、その47分と細かいのに驚いたと言っていました。

私は、決められた時間に出て、決められたスピードで走ったら、計算どうりの時間についてしまうじゃないのと言ったのですが、そこがカルチャーの相違なのでしょう。

 

?ボンベイの2月の街の昼寝かな

 

●うたかたの逢瀬

最初の訪問地ムンバイ(旧名ボンベイ)までは、独りで行きました。私の荷物は、中ぐらいの大きさのリュック一つに纏めてありますから、いつも手荷物として持って歩いています。だからムンバイ空港では、ほかの人たちより30分は早く外へ出ました。

インド人のガイドが出迎えていました。

ここで始めて今回のツアーのメンバーを知ったのでした。

ガイドに見せて貰った名簿には、カタカナで男二人、女二人の名前がありました。

「4人、ばらばらですか」と私が言うと「二人はペアです」との返事が返ってきました。

私は人を見るのが得意でありませんので、このペアのお二人について、どういう関係なのか、本当は皆目分からないのです。

それでも、一生懸命、推測してみましょう。

お二人とも、たまにはシニアグラスを使われましたから、そんなにお若いわけではありません。

姓は違うのですが、別姓の夫婦ではないようです。もう若くない男性が女性に対して、ちゃん付けで呼んでみたりしているのです。それで何となしにそんな気がしたのです。

また、いわゆる不倫でもないようでした。女性は娘の延長のようなところがあり、結婚経験がないように見えました。

 

小説風に邪推すれば、男性は奥さんを亡くされ、前からのガールフレンドに奥さんになって貰って、身の回りの世話をしてもらいたいのですが、娘が反対するので、いわゆる正式な結婚はできないでいる、そんな関係だったら肯けそうな様子でした。

ともあれ、お二人は、四六時中、一緒にいられるのがとても楽しそうでした。

女性は、ホテルのバイキング料理で「貴男は、これお好きでしょう」、そんなことを言って皿に取って持ってきました。

ヘビースモーカーの男性の喫煙ををたしなめるのも、楽しみのひとつのようでした。

旅があと2日で終わるという頃から、お互いに、二人一緒にいることができる、あと僅かな時間を大事にし、愛おしんでおられる様子がひしひしと伝わってくるのでした。

 

人が人を好きになり、相手のことに気を配り、大事にし合っているのを見るのを、私は好きです。

諸行無常、何事も、何時までもは続かないことに気がつくと、それまで何とも思わなかったことにも、それが、現在あることの幸せがとても貴重なものに思われて来るものです。

私を守ってくれた父は10年ほど前に、亡くなりました。そして91才の母とは、あと何年一緒にいられることでしょうか。

一緒に学校に通い、旅行したり、喧嘩をしたりした兄弟たちとも、今では逢う機会は、めっきり少なくなってしまいました。

あんなに年中、足もとにまとわりついていた子供達も、みんな離れて行ってしまいました。

今は、お互いを空気のような存在として暮らしている夫婦でも、あと限られた日数だけの逢瀬だと感じたら、その残された時間を、どんなにか大切に思うことでしょうか。いくら留めておきたい時間でも、必ず流れ、過ぎ去って行きます。

まさに「月日は百代の過客」なのです。

今までに袖触れ合った人たちを思い出すと、ほとんどの場合懐かしく、出会ったことに感謝したい気持ちになれるのは、なんという幸せなことでしょうか。

 

今回のツアーは仏教美術探訪の旅でした。たしかに仏教美術を通して、お釈迦様の事跡を想わすよすがが沢山ありました。でも、諸行無常、色即是空というような、お経の中に説かれている仏様の御教えは、むしろ、この同行者のカップルから教えられたような気がしているのです。

もっとも、この凡夫の私めは、出家、修行、得悟、成仏どころではなく、煩悩が深まっただけのことではありますが。

 

?インドより帰る日本の冴え返り

 

●そして

例の通り、当分の間あちこちで、インドへ行って来たよと言いふらしていました。

そんな話の間に、昔同じ職場にいたYさんが、知り合いのインド人と夕飯でも食べながら話してみませんかと言ってくれました。

もう、紀行文がほぼ完成していた時だったので,その内容を話して、意見とか批判とか聞かせてもらえれば有り難いと思ってアレンジをお願いしました。

しゃぶしゃぶを囲んで、それが実現しただけでなく、勘定まで持っていただき恐縮してしまいました。

 

インドからレーザー技術の研究に来ているカチューリアさんの言うには、親の代までは、ヒンズー教の厳しいベジタリアン(菜食主義者)だったのだそうです。しかし彼の兄弟たちになると、いろいろのものを食べるようになりました。その中でも、彼は

一番何でも食べる方だと言っていました。しかし結局、ビールや牛肉しゃぶしゃぶには手を出さず、コカコーラを飲みながらサラダをつついていました。

思えば、私が育った時代は食料不足で、サツマイモの蔓や蚕の蛹まで食べることが奨励されていました。なんでも食べられるのが美徳とされていたのです。今だって、好き嫌いがないのは良いとされているのじゃないでしょうか。

特定のものしか食べないことが美徳とされる社会があることには、つくずくカルチャーの違いを感じます。

 

彼が一番、賛意を表してくれたのは、インドの殆どの人が,日本に比べ、たとえ所得が少なく、生活レベルが低く見えても、それなりに楽しく幸せに暮らしているという点でした。

それは、私がどの国を訪ねても感ずることでありますし、逆に言えば所得が増えても、それだけでは幸せにはなれないということでもあります。

 

悪いインド人がいるという点については、そういう手合いは外人観光客の周りにまとわりつくプロフェッショナルだと言いました。それには、私も全く同感です。

もしも人と人との間にまったく信頼関係がないとしたら、社会はとんでもなく非効率になってしまい、人類がこんなにものさばることにはならなかったはずで、殆どの人はまっとうな性格で悪者は少ないのだという、私の日頃の理論にマッチします。

 

街の中に猪がいた件については、まず猪を英語で何と言ったらよいのか迷いました。とりあえず、ワイルド・ピッグで話を進めていましたが、帰って辞書を引いたら、ワイルド・ボアと出ていました。ともかく彼にとっては、日本では豚も馬も牛も鶏も道路にはいないという印象が優先して、とくに猪がいても驚くこととまでは思えないようでした。

 

人命の重さが、金額に換算すると国によって大変に差がある点は、誰しも理屈では頷くのです。

でも、金額に換算することがいけないのか、あるいは自分というかけがえのない原点を離れて、あたかも公平さが尺度ででもあるかのように論ずるのが間違っているのか、ともかくこの問題は現状のままに認めるより仕方がないものなのでしょう。

 

宗教についてのコメントも、とくにはありませんでした。

もっとも、18世紀中葉のイギリスに対する独立運動のときに、ヒンズー教徒とイスラム教徒とが一体となって戦ったことは彼もよく知っており、宗教が悪用される危険性については頷いていましたが。

 

インド人である彼は、世界遺産にも指定されているほど有名な、エローラ、アジャンタの両遺跡を、まだ訪ねたことがないと言っていました。そう言えば日本人である私も,50才過ぎまで日光に行ったことがなかったのでした。

 

車のドライブ・テクニックについて、私はこんな言い方をしました。「ドライブ・ルールについての複雑なソフトウエアが、インド人たちのあいだでは共通的に認知されているように思われるのですが」。彼は「現実には、車の運転での事故はごく少ないです」と答えました。

私は現役時代、職場の安全を仕事の一つにしていました。その経験からすれば、人間には自衛本能があるので、たとえ安全ルールなど厳しく言わなくても、災害が際限なく増える訳ではありません。でも、その逆に、最後の1件まで予防しようと思うと、大変な努力が必要とされるものです。

 

ニュー・デリーの水道は、ガイドが教えてくれた地下水の汲み上げではなく、川の水を使っているのだと訂正してくれました。

日本に来た外人が、どこかの市で同じ質問をしたら、どんな答えが返ってくることでしょうか。このことは、だれも非難するべきことではなく、このような旅行ではこういうこともあるという、限界を示しているように思います。

この雑文も、そんなような目で見ていただければ有り難いと願っています。

 

いつものことですが、インド訪問を経験した今は、テレビにインドという言葉が流れると、つい見入ってしまいます。また、お陰様でインド人とインドについて論ずることもできました。

飛び回ることが好きな性格に生まれついたことを、今更ながら感謝することしきりなのです。

 

?灯の海と見下ろす都会春高楼

重遠の入り口に戻る